海外からの参列者(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

(5) 海外からの参列者

1955年(昭和30年)の原水爆禁止世界大会(第1回)には、14か国52人の海外代表が参加した。この中のインドから参加した夫妻が、平和式典において「花輪奉呈」を行なった。この後、広島市が再び世界大会の会場となった59年(第5回)および61年から63年(第7-9回)にかけても、「花輪奉呈」という形で、世界大会参加の海外代表が式典に公式に参列していた。しかし、広島市は、63年の世界大会の混乱を契機に、世界大会外国代表の「花輪奉呈」を廃止した。
1967年4月に広島市長となった山田節男は、同年6月2日に開かれた平和式典実施要項を検討する市の幹部会議で、世界の著名人を式典に招く構想を明らかにした。しかし、在任中に、この構想が具体化することはなかった。ところが、この構想は、つぎの荒木市長により、国連関係者の参列という形で実現された。70年代中ごろから、非同盟諸国や国際的な平和団体は、核軍縮への関心を高め、そのイニシアティブを国連に求めるようになっていた。広島・長崎両市長も、76年12月1日、国連本部を訪問し、ワルトハイム事務総長とH.S.アメラシンゲ国連総会議長に核兵器廃絶への措置を要請した。さらに、両市長は、翌77年5月15日、式典への招請状を発送した。こうした両市の働きかけに応え、77年の式典には、アメラシンゲ総会議長と国連事務総長代理(マイケル・クラーク国連広報センタ-所長)が両市の式典に参列した。その後も、85年にはヤン・モーテンソン国連事務次長が、また86年と89年には明石康国連事務次長が、それぞれ国連事務総長代理として出席している。
広島市は、1984年から名誉市民および特別名誉市民を招へいするようになった。84年には、フロイド・シュモーとメアリー・マクミラン、85年にノーマン・カズンズとバーバラ・レイノルズと、復興期の広島に救済の手をさしのべたアメリカ人が、特別名誉市民として招へいされている。また、85年以降、広島市は、国際会議(シンポジウム)を毎年開催するようになったが、会議(シンポジウム)参加者は、来賓として式典に参列した。
外国人の参列は、式典の中で目だち、マスコミはこれを大きく取り上げた。1969年の式典には、約30人の広島在住の韓国婦人が民族衣装で参列した。同年3月14日にソウルの韓国原爆被害者援護協会と広島折鶴の会が姉妹団体となったことが、この参列の契機となった。その後も、日米学生会議の90人(75年)、婦人国際平和自由連盟一行60人(77年)などの海外からの参列者が見られた。84年には、580人という多数の外国人が参列した。原水爆禁止1984年世界大会参加の90人、7月下旬東京で開催された国際自由宗教者世界大会で来日中の宗教者265人などであった(「朝日新聞」1984年7月28日)。外国人の参列者は、この後も例年300人を超えている。広島市に配席の希望があったものだけでも、85年252人、86年521人、87年354人、88年299人、89年388人、90年312人となっている。広島市は、91年の式典において、こうした外国人参列者のためにレシーバーを貸し出し、英語の同時通訳を流すという試みを初めて採用した。なお、91年の外国人の参列状況は、表8のとおりであった。