遺族、被爆者、市民、平和団体代表(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

 

(6) 遺族、被爆者、市民、平和団体代表
当初の式典は、占領軍関係者、政府代表を中心とした官製色の強いものであった。しかし、遺族代表の花輪奉呈(1954年)、「原爆乙女」の平和の鐘点打(57年)、被爆者代表の献花(61年)など、市民的色彩を強める工夫が徐々になされた。
1970年(昭和45年)の式典で採用された「流れ献花」は、市民的色彩の強化という点では、画期的な試みであった。この年、市長、総理大臣代理などの献花に引き続いて、10才から75才までの市民代表男女各25人計50人が、白と黄の菊を各3輪計6輪ずつ原爆死没者慰霊碑に献花した。50人の大半は、市内の各地区社会福祉協議会などから推薦された日本人であったが、在日本大韓民国居留民団広島地方本部と在日本朝鮮人総連合広島県本部から推薦された韓国人・朝鮮人代表の姿もあった。この式次は、被爆25周年という節目の年にあたり広島市が採用したものであった。しかし、その後も続けられ現在に至っている。参加する市民の数は、70年に倍増された。91年には市内の地区社会福祉協議会(67人)、広島市原爆被爆者協議会(6人)、広島被爆者団体連絡会議(6人)、日本原水爆被害者団体協議会(1人)、在日本大韓民国居留民団広島地方本部(1人)、広島県朝鮮人被爆者協議会(1人)、日本労働組合総連合会広島県連合会(2人)から推薦された84人が、流れ献花を行なった。
このほか、1981年からは全国の各都道府県から毎年1人ずつ原爆犠牲者の遺族代表が招へいされるようになった。厚生省は、80年12月の原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に沿う犠牲者に対する特別な弔意として、81年度予算に式典参列に対する補助金394万円(うち広島分169万円)を計上したが、この招へいは、これに伴う措置であった。広島市は、厚生省の予算に市費57万円を上積みして実施した。81年には、47都道府県から参列した遺族のうち、北海道と沖縄から参列した遺族2人が、全国の遺族代表として「献花」を行なった。なお、遺族代表の枠は、被爆40周年の85年のみ1県1人から3人に増やされている。これは、被曝40周年記念事業として「原爆被爆者援護事業功労者厚生大臣表彰」が広島市で行なわれたためである。
原水禁運動関係者の公式の参列は、1964年以降途絶えていたが、68年から再び見られるようになった。同年6月24日、山田広島市長は、原水禁運動を進めている3団体(原水協、原水禁、核禁会議)の代表を3団体の統一を願って特別来賓として招待すると発表した。また、世界連邦主義者である山田市長は、この年から、原水禁団体の代表とともに世界連邦諸団体(世界平和アピール7人委員会、世界連邦建設同盟、世界連邦宣言自治体全国協議会)の代表も招待している。91年の式典には、原水禁3団体、世界連邦諸団体(世界平和アピール7人委員会、世界連邦日本国会委員会、世界連邦建設同盟)のほかに核戦争防止国際医師会議日本支部、原水爆被害者団体協議会の代表が、「平和団体関係者」として招待された。このほかに、最近では、広島平和文化センタ-、核軍縮を求める22人委員会、平和問題調査会の関係者やメンバーも、招へいされている。