「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」建立についてのおねがい
“太き骨は先生ならむ そのそばに
小さきあたまの骨 あつまれり”
“目玉飛びでて盲となりし学童は
かさなり死にぬ 橋のたもとに”
(正田篠枝「耳鳴り」「百日紅」より)
“ひろしま”に原爆が投下されて二十五年の歳月が流れました。ただ一発で中国地方第一の都市広島が火の海となり、一瞬にして二十万余の人たちが亡くなりました。その中に幼い子どもたちと、指導し引率していた教師がいるのです。
一九四五年八月六日午前八時十五分でした。終戦に近いこの日、アメリカははっきりした目的をもって世紀の非人道兵器、原子爆弾を、密集した住宅街の頭上に投下したのです。当時、広島市の国民学校初等科は、四年生以上が田舎に強制疎開され、三年生以下は、まだ小さいことから親の元に残され毎日登校していました。また、高等科の一・二年生は連日市内の建物疎開作業に動員され、奉仕の労働をしていたわけです。こうして原爆は子どもたちを無残な戦争犠牲者にまきこんだのです。
その人数は、いまだ正確にされていませんが約二千名といわれています。そのうち大半が高令な女教師でありました。
二十五年たった今日、広島市の平和公園をはじめ市内の各地に多くの慰霊碑がたてられています。ところが、どうしたことかこの国民学校の教師と子どもの碑は、いまだに建立されていないのです。その上に、生き残った被爆教師も年月とともに次第に教職を去り、また黙したまま世を去り、その人数は少なくなってきています。こうした中で、誰がいうともなく深い意義をみつめて碑の建立をしなければいけないという声が各地に生まれてきました。
ここにわたしたち発起団体は、互いに連絡しあい協議を重ねた結果「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の建立運動をおこすことを申し合わせたのです。
広島県民及び教師のみなさん、この碑はもちろん教師と子どもの慰霊碑であります。そのことともに、三たび許してはならぬという原爆教育と、みんなが力をあわせて人類最高の倫理といわれる平和の教育を“ひろしま”の教育として、現在及び未来に押しすすめる決意の碑にしていきたいと願っているのです。
みなさん、あのあつい炎の中で、互いに抱きあい助けあい呼びあい、そして、、力つきて共に集まり燃えきっていった師弟たち、その白骨の中に限りない生命の声を今にして聞きとり、これを互いに継承しなければならないと考えます。
この碑の建立の趣意を十分御理解くださり、募金に協力していただきますようお願い申しあげます。
発起団体名
広島県小学校長会
広島県中学校長会
広島市小学校長会
広島市中学校長会
広島県PTA連合会
広島市PTA連合会
広島県退職校長会
広島県退職婦人教師の会
広島県原爆被爆教師の会
広島県教職員組合
広島県教組広島地区支部
事務局
730 広島市国泰寺町二丁目一-一九
教育会館内
TEL 43-一四六一
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会
委員長 惣野真澄
事務局長 石田明