反核運動1992

反核運動1992


1992年は,冷戦終結にともない,ウクライナ,ベラルーシからの戦術核解体・撤去作業の開始(1月),米ロ首脳会談での戦略核兵器の大幅削減の合意(6月)など,核をめぐる新たな動きが現れた.またアメリカでは,6月に下院,8月に上院が核実験停止法案を可決,10月にはブッシュ大統領が署名した.

こうした核軍縮の急展開にともない,核兵器の拡散,旧ソ連の核管理,原発管理などをめぐる問題が新たにクローズアップされた.

【原水爆禁止世界大会】

広島・長崎の原爆記念日を中心に,さまざまな団体による恒例の行事が行われた.原水爆禁止日本協議会(原水協,共産党系)は,92年8月2-9日,広島・長崎を舞台に原水爆禁止1992年世界大会を開催した.24ヵ国,7国際・地域組織からの50人の国際・海外代表を含め,廷ベ1万2000人(広島8500人,長崎3800人)が参加した.長崎の大会では,く核兵器廃絶-「広島・長崎,核実験地周辺の被害と後遺についての国際シンポジウム>が開かれ,アメリカ,旧ソ連,マーシャル諸島の核実験被爆者などが参加した.

原水爆禁止国民会議(原水禁,社会党系)の被爆47周年原水爆禁止世界大会も,8月4~9日広島・長崎で,それぞれ6500人,3500人規模で開催された.海外からは,11ヵ国から22人が参加した.

このほかに,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議,民社党系)が,8月1日に広島市で核兵器禁止全国集会(500人参加)を開き,連合が両被爆地で独自に開催した2回目の平和集会には,合わせて2000人が参加した.

【国内の動き】

国内の非核宣言自治体の総数は,92年3月に1684となり全自治体の過半数に達した.6月15~18日には,〈大量破壊兵器の不拡散〉をテーマにした国連軍縮広島会議が開催された(19ヵ国から56人が出席).11月4~7日,第6回国際非核自治体会議が,く核兵器の廃絶と恒久平和の実現をめざして>をテーマに横浜市で開催された.アジアで初めて開催されたこの会議には,19ヵ国130自治体(海外の自治体は22)の首長や議員など約800人が参加した.

4月15日,川崎市が,核兵器廃絶平和都市宣言(1982年6月8日)に基づく事業の一環として,26億円を投じて平和館を開設した.91年9月には,大阪府と大阪市が共同で〈ピースおおさか(大阪国際平和センタ)〉を開設しており,92年1月17日には鈴木東京都知事が〈平和記念館〉(仮称)の建設方針を正式に表明している.82年に〈非核〉をテーマとして出発した日本の自治体の平和行政は着実に定着し,終戦50周年を前に,<国際><平和>などのテーマを加え,新たな展開を始めている.

広島・長崎では,被爆建造物の保存と海外のヒパクシャとの交流の動きが活発となった.広島では,8月に市の被爆建造物等継承方策検討委員会が29の被爆建造物の保存・継承方法について報告書をまとめた.また,同市議会は9月29日,原爆ドームを世界遺産条約に基づく(文化遺産)として追加推薦を国に求める意見書を採択した.長崎でも平和公園内の旧浦上刑務支所の保存を求める運動が展開されている.

反原発では,10月4~5日,日本の原子力資料情報室とアメリカの核管理研究所が,都内で〈アジア・太平洋プルトニウム輸送フォーラム〉を開催した.この会議では,15ヵ国・地域からの参加者が,日本のプルトニウム輸送を厳しく批判した.また10月18日には,原水禁国民会議などが,敦賀市で〈止めようもんじゅ全国集会〉を開催(4000人が参加)している.

【海外の動き】

大量動員の動きはみられなかったが,いくつかの国際会議が開かれている.核戦争防止国際医師会議は,第3回アジア太平洋地域会議を92年7月22~23日に韓国のソウルで開催した.また,世界ウラン公聴会(9月13~19日,オーストリア,ザルツブルク,52ヵ国・地域から600人が参加)と第2回核被害者世界大会(9月20-25日,ドイツ,ベルリン,約60ヵ国から500人が参加)の二つの被爆者中心の国際会議も開催されている.このほか,フランスのシェルプール港から日本へのプルトニウム輸送への抗議の声が,輸送ルート周辺各国で起こり,グリーン・ピースなどが,輸送船くあかつき丸>の入港(11月7日)に対して激しい抗議行動を展開した.93年1月5日,〈あかつき丸〉は茨城県の東海港に入港し,同日に約6割のプルトニウムが3km離れた動力炉・核燃料開発事業団の燃料工場に運び込まれた.今回のプルトニウム輸送について,動燃の石渡鷹雄理事長は,〈理解を求める努力に欠け,各国に不必要な心配をかけたことは反省すべきだ〉と述べた.

反核運動1991

反核運動1991


核をめぐる国際情勢は,この1年激しく揺れ動いた.湾岸戦争では,米軍によりイラクの原子炉が空爆され,イラク軍による化学兵器や米軍による核兵器の使用が懸念された.ソ連邦解体の動きは,連邦所有の核管理体制に不安定な状態をもたらした.しかし,その一方で戦略兵器削減交渉(START)条約調印(7月31日)など核軍縮への動きに拍車をかける結果となった.

国内では,各種の反核団体が,湾岸戦争,自衛隊掃海艇のペルシア湾派遣,国連平和維持活動協力法案(PKO法案)などへの取り組みをおこなった.しかし,これらの課題への態度は団体ごとに異なり,大規模な統一行動は生まれなかった.

1991年は,「満州事変」60周年・パールハーバー50周年にあたり,日本の加害責任を明らかにする動きが活発となった.広島・長崎は,それらとの関連で改めてクローズアップされた.

[原水爆禁止世界大会]

広島・長崎の原爆記念日を中心に,さまざまな団体による恒例の行事がおこなわれた.原水爆禁止日本協議会(原水協,共産党系)は,8月2日~9日,広島・長崎を舞台に原水爆禁止1991年世界大会を開催した.25か国(29各国組織、10国際・地域組織)からの60人の国際・海外代表を含め、延べ1万2,000人(広島4,500人、長崎7,500人)が参加した。原水爆禁止国民会議(原水禁,社会党系)の被爆46周年原水爆禁止世界大会も,8月4日~9日,広島・長崎で,それぞれ8,000人・4,500人規模で開催された.海外からは,13か国から28人が参加した.このほかに,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議,民社党系)が,8月3日に長崎市で核兵器禁止全国集会(500人参加)を開き,公明党も6月から8月にかけ第11回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を沖縄・広島・長崎で開催した.また,連合が初めて両被爆地で独自に開催した平和集会には、併せて3,500人が参加した。

[国内の動き]

被爆者団体・原水協・原水禁は,湾岸戦争やパールハーバー50周年に関連してなされたアメリカ政府高官の原爆投下正当化発言に対して,抗議の意志表明をおこなった.10月24日-27日,原水協を中心に核兵器廃絶をめざす第5の「平和の波」行動がもたれ,国内での行動は6,000を数えた.また,7月末現在で,国内の非核宣言自治体は1,612自治体(全体の49%)となった.

被爆地では,原爆被害に新たな意義づけをおこなう動きが見られた.4月,広島で放射線被曝者医療国際協力推進協議会(広島県・市や市内の被爆者医療・研究機関で構成)が発足し,広島の被爆者医療の経験が,チェルノブイリ原発事故の被災者など海外のヒバクシャ医療に役立てられることになった.また,広島・長崎両市長は,8月の原爆記念日に読み上げた平和宣言に,揃ってアジア・太平洋地域へ与えた被害についての謝罪の気持ちを盛り込んだ(広島の宣言では初).

[海外の動き]

1月4日-5日、米国ネバダ州ラスベガスで核実験禁止国際集会が開催された.平和・環境保護団体のグリーンピースや米国内の反核団体などが呼びかけたもので,20か国から1,500人が参加した.5日のデモには3,000人が参加、柵を越えて核実験場内に侵入した450人が逮捕された。この集会は,7日からニューヨークの国連本部で開催される部分的核実験禁止条約(PTBT)改定会議(-18日)での包括的核実験禁止条約(CTBT)実現への機運を盛り上げるため開催されたが,中東での戦争を反映し,主催者の予想を越える盛り上がりを示した.さらに,12日,グリーンピース、アメリカ平和実験、核戦争防止国際医師会議などの反核団体が,ニューヨークで「地球的反核連合」を発足させ,ネバダ(米)・セミパラチンスク・ノバヤゼムリャ(ソ連)・ムルロア(仏)・ロプノル(中国)の5つの核実験場閉鎖のために協力することを宣言した。一方,10月17日-18日には,ネバタ・セミパラチンスク運動が,ソ連カザフ共和国のセミパラチンスク核実験場で,「地球的軍縮のための国際会議」を開催した.共和国大統領令(8月29日)により同実験場が閉鎖されたこと を記念するこの集会には,約1,000人が参加した.二つの集会には,日本から原水禁の代表が参加した.

反核運動1990

反核運動1990


広島・長崎の原爆被爆45周年という区切りの年,ヒバクシャ問題をめぐり,国内外で新たな動きが見られた.国内では,「ふたたび被爆者をつくらない」保障として被爆者援護法制定を求める声が高まり,米ソでも,原発事故や核開発による被曝者の救援をめぐる動きが活発となった.

[ヒバクシャ問題]

1989年12月15日,参議院で原爆被爆者援護法案が可決,90年5月15日には,厚生省が,85年度に実施した原爆死没者調査の結果を5年ぶりに発表した.また,地方議会の援護法制定を求める促進決議・意見書の採択が,昨年から今年にかけ千を越え,全体で1,500議会(全地方議会の45%)となった.在外被爆者援護については,海部首相が来日した盧泰愚大統領に在韓被爆者への40億円の基金提供を約束(5月24日)という具体的な進展が見られた.

アメリカでは,6月,エネルギー省が,「マンハッタン・プロジェクト」以来アメリカの核兵器製造に携わった約20万人分の健康被害調査データの公表を開始した.また,10月15日には,ブッシュ米大統領が「核被害者補償法案」に署名し,ネバダ核実験やウラン採掘による核被害者に最高5-10万ドルが支払われることになった. ソ連のチェルノブイリ原発事故による被曝者をめぐってもさまざまな動きが見られた.9月6日,日ソ両外相が「チェルノブイリ原発事故の結果生じた事態を克服するための日ソ協力に関する覚書」に署名,23日には,ソ連とIAEA(国際原子力機関)が,「チェルノブイリ原発事故研究センター」設立協定に調印した.また,10月26日には,広島市で開催された世界保健機構(WHO)科学諮問委員会が,被曝住民20万人の疫学調査など研究プログラムに関する6項目の勧告をまとめている.

[原水爆禁止世界大会]

広島・長崎の原爆記念日を中心に,さまざまな団体による恒例の行事がおこなわれた.原水爆禁止日本協議会(原水協,共産党系)は,8月1日~9日,広島・長崎を舞台に原水爆禁止1990年世界大会を開催した.この大会には,13の国際・地域組織と26か国の34組織から69人の海外・国際代表と1万5000人(両地の参加者合計)が参加した.大会期間中に実施した第4の「平和の波」行動は,世界64か国と国内2000か所でも取り組まれた.

原水爆禁止国民会議(原水禁,社会党系)の被爆45周年原水爆禁止世界大会も,8月3日~9日,広島・長崎で,それぞれ7000人・3000人規模で開催された.海外からは,初参加のネバダ・パラチンスク運動の代表(オルザス・スメイロフ議長など11人)と朝鮮民主主義人民共和国の被爆者(広島被爆)をはじめとする12か国・1地域組織の43人が参加した.

このほかに,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議,民社党系)が,7月31日に広島市で核兵器禁止全国集会(600人参加)を開き,公明党も6月から8月にかけ第10回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を沖縄・広島・佐世保で開催した.また,8月6日には,連合・原水禁・核禁会議三者が共催で原爆被爆者援護法の制定を求めるヒロシマ集会を開催している.

[国内の動き]

8月15日現在で,国内の非核宣言自治体は1491自治体(全体の45%)となった.非核三原則をめぐる動きとしては,核軍縮を求める22人委員会(座長:宇都宮徳馬)が,6月初め非核三原則法制化のための要綱を作成し,非核法についての理解を広めるため7月20日と11月27日に東京都内と広島市内でシンポジウムを開催した.また,8月の原爆記念日に広島・長崎両市長が読み上げた平和宣言に,揃って非核三原則の法制化が盛り込まれた(広島の宣言では初).3月26日には,東京都中野区議会が,法的拘束を平和行政に求めたものとしては国内初の「平和行政の基本に関する条例」を可決した.

[海外の動き]

5月24日-26日,核実験禁止国際市民会議が,ソ連カザフ共和国の首都アルマアタ市で開催された.同共和国のセミパラチンスクとアメリカ・ネバダ両核実験場の風下住民や広島の被爆者など,20か国から核被害者や反核活動家1,000人が参加し,核実験禁止の連帯を誓った.ソ連のカザフ共和国では,このほかに10月1日,セミパラチンスク州ソビエト総会が,セミパラチンスク核実験場での地下核実験を即時中止するよう求める決議を採択,25日には共和国最高会議が採択した国家主権宣言の中で核実験全面禁止を規定するなど核実験禁止を求める動きがこれまでになく広まった.

11月8日~11日には、イギリスのグラスゴーで第5回非核自治体国際会議が開催された。23か国から約400人が参加し、反核の課題とともに、イラクのクエート侵攻非難とアメリカの軍事力行使にたいする警告を盛り込んだ決議を採択した。

反核運動1989

反核運動1989


INF条約締結後の緊張緩和ムードの中で、以前のような西欧の反核運動の熱気は見られなくなったが、原子力開発にともなって生じたさまざまな核被害にたいする関心は、世界各地に着実に広がっている。国内では、広島・長崎の被爆地を中心に、市民レベルでの原爆遺跡保存運動や、行政レベルでの「黒い雨」被害の見直し作業など、原爆被害への新たな動きが起こった。

原水爆禁止国民会議(原水禁、社会党・総評系)などがこれまで推進してきた「反原発」運動は、労働界再編の動きの中で新たな対応を迫られた。原水禁は、前年からスローガンを「反原発」から一定期間の原発の操業を容認する「脱原発」に変えている。1月22日には、脱原発法の制定を求める1千万人署名運動がスタートした。

[原水爆禁止世界大会]

8月を中心に、反核団体による恒例の行事がおこなわれた。原水禁の被爆44周年原水爆禁止世界大会は、7月31日~8月9日、東京・広島・長崎で開催され、16か国・地域の40人の海外代表を含め、のべ2万人が参加した。長崎の閉会総会では、被爆者援護法・非核法・脱原発法などの制定を求める大会宣言を採択した。

一方、原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党・統一労組懇系)の原水爆禁止1989年世界大会は、8月3日~9日、広島・長崎で、13国際・地域組織、27か国35組織から63人の海外代表と日本各地の代表1万1000人(長崎閉会時)の参加のもとに開催された。大会と並行して展開された第3の「平和の波」行動は、69か国にひろがり、国内では3000か所以上で取り組まれた。

このほかに、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議=民社党・同盟系)が、7月29日に長崎市で核兵器禁止全国集会(700人参加)を開き、公明党も8月2日~20日に第9回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を広島・長崎・京都・東京・沖縄で開催した。また、8月31日には、「連合」が、東京で「平和・軍縮・核兵器廃絶」をスローガンに、「国際平和シンポジウム」を開催している。

[国内の動き]

5月上旬、1965年に水爆を積載したアメリカ海軍機が沖縄沖に沈んだまま放置されていることが判明し、これを契機に改めてわが国の国是とされる非核三原則が問い直された。5月14日、核兵器廃絶運動連帯が東京で「西太平洋における核軍縮と日本の責任」をテーマに、また、6月1日には核軍縮を求める22人委員会と非核都市宣言自治体連絡協議会が、横浜市で「今、海の非核化を考える」をテーマにシンポジウムを開催し、非核三原則の法制化を訴えた。8月の原水禁・原水協の世界大会でも、非核三原則の法制化を求める宣言・アピールが採択されている。

広島市の呼びかけによる被爆のシンボル「原爆ドーム」の保存工事費用の募金が、5月1日にスタートした。この募金は、目標額の1億円をわずか3か月で達成、11月20日現在で3億円を超えた。この募金には、各反核団体が協力するとともに、団体には組織されない多くの国民の参加がみられた。募金総額の3分の1は個人によるものである。こうした原爆被害にたいする国民的関心のもりあがりは、原爆被爆者援護に関してもみられた。援護法制定促進決議・意見書は、10月20日現在で、367議会にのぼり、11月14日には、社会・公明・共産・連合参議院・民社・参院クラブの参院6会派が被爆者援護法案を共同で提出している。

[国際平和会議]

広島・長崎の両被爆地を舞台に、二つの大きな国際平和会議が開催された。その一つは、第2回世界平和連帯都市市長会議で、8月5日~9日に開催された。4年ぶりのこの会議には、海外26か国81都市、国内38自治体、計27か国119都市の市長らが出席し、「核兵器廃絶をめざして-核時代における都市の役割」を基調テーマに討議をおこなった。もう一つは、第9回核戦争防止反核国際医師会議(IPPNW)で、10月7日~12日に「ノーモア・ヒロシマ この決意永遠に」をテーマとして開催された。最終登録者数は、海外75か国、1220人、国内1880人、計3100人という国内最大級の国際会議であった。10日発表の「広島・長崎アピール」では、核実験の即時停止や軍事支出の50%削減などを訴えた。このほかに、国連軍縮京都会議(4月19日~22日)・パグウォッシュ東京シンポジウム(9月16日~19日)も開催され、今年は、例年になく国際会議の集中した年となった。

[海外での反核の動き]

2月8日~11日、アメリカのオレゴン州ユージン市で第4回非核自治体国際会議が開催された。21か国から約150の自治体や団体が参加し、海洋核と原子力平和利用を中心に討議をおこなった。また、9月22日から3日間、オランダのハーグに24か国から約150人が参加して、国際反核法律家協会第1回世界大会を開催し、核兵器廃絶を緊急任務とする宣言を採択した。このほか、核実験や原発による放射能被害の解明を求める住民運動が世界各地で展開された。中でも注目されるのはソ連国内での反核運動である。8月6日、セミパラチンスクで1万人規模の核実験抗議行動がおこなわれ、10月21日にも、6万人のデモが展開されている。

反核運動1988

反核運動1988


1988年5月31日~6月26日、第3回国連軍縮特別総会(SSDⅢ)が開催された。INF全廃条約締結後に開催されたこの総会にむけての国際的な盛り上がりは、6年前のSSDⅡほどにはみられなかった。しかし、日本においては、SSDⅠ・Ⅱのような諸団体の統一的な取り組みはなされなかったものの、それぞれの団体がSSDⅢにむけて多様な運動を展開し、約18団体が総勢1200人をニューヨークに送った。総会は、最終文書が採択されないという不調な結果に終ったが、8月前後には、恒例の原水爆禁止世界大会をはじめ、非核自治体や青年など反核運動の新しい担い手による取り組みが広島・長崎を中心に繰り広げられた。

[第3回国連軍縮特別総会]

日本で大量の代表を派遣したのは、日本原水爆被害者団体協議会や日本青年団協議会など市民10団体の「SSDⅢの成功に向けての市民準備会」、原水爆禁止日本協議会(原水協=共産党・統一労組懇系)などの「SSDⅢに核兵器のすみやかな廃絶を要請する日本連絡会」、原水爆禁止国民会議(原水禁=社会党・総評系)の「SSDⅢに向けて行動する会」で、それぞれ250~340人からなる代表団を送った。

総会に設定されたNGOデーである6月8日~9日には、9人の日本代表が発言した。第1日目の発言者は、伊藤サカエ(原水禁)・伊東壮(被団協)・二階堂進(軍縮議連)・中林貞男(市民準備会)・庭野日敬(立正佼成会)の5人で、このうち、伊東は「被爆実態を世界に普及するための各国政府による被爆者招請」を、また中林は「核軍縮に関する国連の情報・研究センターの広島設置」を提言した。第2日目には、荒木武広島市長と本島等長崎市長(世界平和連帯都市市長会議)および広根徳太郎(原水協)・山崎尚見(創価学会インタナショナル)が発言した。

10日には、国連本部で署名提出式が500人の参加のもとに開催された。約3900万の署名の目録が、総会議長へ手渡された。このうち3000万の署名は、日本連絡会の「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名である。翌11日には10万人の参加者によりハマーショルド広場での平和集会とセントラルパークまでのデモ行進がおこなわれた。世界的に反核運動の大衆動員が低迷する中で、原水協は、SSDⅢの開催中の6月9日に、前年の10月に続く第2の「平和の波」行動を実施した。この行動では、世界51か国、日本国内では約1000の市町村で反核の署名活動や集会などがおこなわれた。

[原水爆禁止世界大会]

原水禁による被爆43周年原水爆禁止世界大会は、8月1日の東京の国際会議を皮切りに広島と長崎で総会を開催した。国際会議には25か国・地域、2国際組織の60人の海外代表が参加した。一方、原水協を中心とした原水爆禁止1988年世界大会は、国際会議を2日から4日まで広島で、海外代表26か国14国際組織の代表と日本代表のあわせて290人のもとに開催し、広島と長崎で総会をおこなった。いずれの世界大会の総会も、広島では8000~1万人規模、長崎では5000人規模のものであった。また、原水協の大会は、核固執勢力との闘いを訴えた宣言を採択し、原水禁の大会は、「いまこそ、生活の場から反核を!日本こそ、非核・軍縮を!」との大会宣言を決議した。

このほかに、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議=民社党・同盟系)が、7月29日に長崎で核禁会議九州ブロック集会(800人参加)を、8月1日には広島で核禁会議全国集会(600人参加)を開き、公明党も7月31日と8月5日に第8回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を長崎と広島で開催している。

いわゆる市民団体の行事や集会も広島・長崎を舞台に繰り広げられた。日本生活協同組合連合会は、8月5日に広島で「文化の夕べ」を、9日には長崎で750人を集めて「虹のひろば」を開催した。一方、被団協は、広島・長崎で、それぞれの原爆記念日に「被爆者・遺族と国民のつどい」を開催し、原爆被爆者援護法の制定を訴えた。また、日本青年団協議会も、6日に広島で平和集会を開催している。なお、長崎では、県被災協・生協連など市民5団体主催の「市民平和集会」がもたれ、400人の参加が見られた。

[非核自治体運動]

1988年にも60以上の自治体が非核宣言をおこない、宣言自治体総数は約1300となった。非核宣言自治体の宣言後の行動として、東京の町田市・葛飾区、新潟の長岡市、大阪の大東市、福岡の八女市、山口市などが2月から9月にかけて平和都市宣言碑を建立した。大阪の枚方市は、初の試みとして7月25日から3泊4日の広島・長崎ツアー「平和の船」を航行させた。一般公募者1700人から選ばれた市民600人は、船上での記念講演やコンサート、人形劇・平和学校などの催しに参加するとともに、被爆地で原爆被害の実相を学んでいる。このほか、4月に日野市が1億円の平和基金条例を公布した。

非核自治体に関連した動きとしては、非核の政府を求める会(86年に近藤幸正・関屋綾子・宮本顕治などの呼びかけで結成)が、6月21日に東京で第3回総会を開催した。同会は、結成後地方の会づくりに力をそそいできたが、総会までに38都道府県で会の結成をおこなった。

[国内の動き]

日本の反核運動は、これまで8月を中心に繰り広げられてきたが、1988年は、SSDⅢの関係で、5月から6月にかけていくらかの集会がもたれた。5月13日には、原水協などが東京の日比谷の野外音楽堂で「広島・長崎の火5・13集会」を開催した。これは、3月26日に広島・長崎をそれぞれ出発し、全国6コースでリレーされてきた国連に届けるための「火」の終結集会で、2800人が参加した。一方、社会党・総評を中心とするSSDⅢにむけて行動する会は、開会中のSSDⅢに呼応して、6月13日に東京・代々木公園で「平和のひろば」を開いた。約80の団体が出店やパフォーマンスを展開したこの集会には2万3000人が参加した。このほか、宇都宮徳馬を座長とする核軍縮を求める22人委員会が、5月14日に「SSDⅢに向けて、なにができるか」をテーマに、「長崎平和シンポジウム」を開催し、核実験の禁止、非核3原則の堅持、海洋核の軍縮などを求めたアピールを採択した。このほかに、日教組婦人部などが、5月17日から22日にかけて、広島と東京において、「反核・軍縮、地球をまもる女たちの集会」を、12か国からの海外代表をまじえて開催するなど 、多彩な行事が展開されている。

原爆記念日前後には、原水協・原水禁あるいは生協といった大規模な組織による集会とは別に、コンサートなど若者を巻き込んだ行事や職能別の反核団体によるさまざまな行事が、継続的にもたれるようになっている。申楽乃座は、6日に大阪で、4回目の「反核・平和のための能と狂言の夕べ」を上演した。被爆地でも、5日に山本コータローらが広島で、また、6日にはさだまさしが長崎で、それぞれ「ヒロシマ88平和コンサート」とコンサート「長崎から・1988・夏・さだまさし」を開催した。いずれも昨年から始まったものであるが、広島では5000人、長崎では2万人の入場者があった。

[海外での反核の動き]

3月11日から10日間、アメリカの平和団体「ネバダ平和実験」(APT)が中心となってネバダ核実験抗議行動が展開された。12日には、5000人が集会を開き、実験場内に突入して1200人の逮捕者を出している。5月には、ギリシアの「平和の10日間行動」で8万人が行進をおこなった。また、6月25日、地中海の島国マルタ共和国では、3万人が決起し、港を船で封鎖、イギリス核艦船の寄港を阻止した。

こうした大衆動員の行動以外に、SSDⅢに合わせて、パグウォッシュ会議と核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が、それぞれニューヨークとモントリオール(カナダ)で開催された。

1952年式典(平和式典の原型)

1952年式典(平和式典の原型)

1951年(昭和26年)9月9日、サンフランシスコで対日講和条約が調印され、翌52年4月28日発効した。これにより、占領下においてタブーとなっていたさまざまな動きが一気に噴き出すこととなった。51年10月19日、戦後初の広島県戦没者合同慰霊祭が広島県遺族厚生連盟により行われ、翌52年5月2日には、広島県主催の戦没者追悼式が開催された。東京の出版社は、51年10月『原爆の子-広島の少年少女のうったえ』(長田新編、岩波書店)、52年4月『原爆の図』(丸木位里・赤松俊子、青木文庫)、6月『原爆詩集』(峠三吉、青木文庫)、8月『原爆第一号 ヒロシマの写真記録』(海野彪、田島賢裕、朝日出版社)、『広島-戦争と都市』(岩波写真文庫)、9月『詩集原子雲の下より』(峠三吉編、青木文庫)など、原爆被害の実態を取り上げた書物をつぎつぎに出版した。また『アサヒグラフ』(52年8月6日号、「原爆被害の初公開」)、『改造』(52年11月増刊号、「この原爆禍」)といった雑誌が、原爆特集を行なった。
独立後初の平和式典は、平和記念公園内に新設された原爆死没者慰霊碑前広場で午前8時から1時間、つぎの式次で開催された。
開式の辞 (坂田助役)
慰霊碑除幕(戦災孤児5名)
広島市原爆死没者過去帳奉納(浜井市長)
焼香   (戦災孤児2名)
式辞 (永田市会議長)
平和の鐘、黙とう(午前8時15分)
平和宣言 (浜井市長)
放鳩
メッセージ朗読 吉田首相(代読:河野副知事)、岩本衆院副議長(代読:佐竹代議士)、三木参院副議長、英連邦軍呉基地司令官パットン代将、大原広島県知事(代読:河野副知事)、山中県会副議長
平和の歌合唱 (NHK広島放送局合唱団)
閉式の辞
式典には、前年同様、空からの参加が見られた。岩国基地駐留英連邦軍機が、山口県岩国渉外局長、毎日新聞記者ら6名を同乗させて式場上空を旋回し、三色の花輪をパラシュートに付けて投下、朝日新聞本社機「さちかぜ」も花束と同社村山会長のメッセージを投下した。また、NHKは、飛行機と地上を結ぶ二元放送による式典の実況放送を行ない、その途中で花束を投下した。

慰霊式(1951年)

慰霊式・平和記念式典(1951年)

1951年(昭和26年)5月10日、第1回と第2回平和祭の式典会場となった平和広場の平和塔の除去作業が始まった。直接の理由は、「都市美観上と同地が記念公園となるため」(「中国新聞」1951年5月12日)であったが、平和祭の終幕を象徴するできごとであった。
1951年7月25日、浜井広島市長は、各国主要都市200、国内各市300へメッセージを送付し、そこで原爆6周年の平和式典を開催することを明らかにしている。しかし、この年の平和祭の準備は、スムーズには進んでいなかった。平和祭分担金45万円の追加予算案が可決したのは8月4日の定例広島市会においてであった。
8月3日、広島市警と同公安委員会は、平和祭典委員会、平和擁護委員会などが許可申請を出していた市民広場と荒神小学校での平和大会を禁止するとともに、市民に向けてつぎのような声明を発表した。
平和祭は認めるが、これは同日を市民の厳粛な祈りとする建前であって、平和運動の美名にかくれて反占領軍的あるいは反日本的行動は断じて許されぬ。市民はこのことを十分了解されて、不用意にこの種集会などに参加して政令第325号違反あるいは公安条例など違反に問われることのないよう注意していただきたい。(「中国新聞」1951年8月4日)
この年の式典は、8月6日7時30分から10時まで戦災供養塔前広場で開催された。その式次第はつぎのようなものであり、平和祭というより広島平和協会主催の慰霊祭と言ってもよいようなものであった。
開会の辞  (吉田平和協会事務局長)
慰霊祭   修祓(教派神道)、献花祈祷(キリスト教)、□[判読不能]辞(神社庁)、敬白文奏上、読経回向(仏教)、玉串奉献(教派神道)、賛美歌
献花(浜井平和協会会長)、焼香(藤田供養会長)、玉串拝礼(森保、長岡遺族代表)
黙とう(サイレン)
記念式典
あいさつ  浜井市長
メッセージ 吉田首相、林衆議院議長、佐藤参議院議長、大原広島県知事
平和の歌
閉会の辞
中国新聞社と広島県・市は、アメリカ空軍岩国基地の要請により、朝鮮戦争に50回以上出撃したパイロット20数名を式典に招待していた。また、岩国基地所属の飛行機から花輪が投下され、霊前に供えられた。
この年は、原爆死没者の7回忌に当り、さまざまな団体によって8月6日に向けて多くの慰霊祭が開催された。

幻の平和祭(第4回、1950年)

幻の平和祭(第4回、1950年)

1949年(昭和24年)、原爆をめぐる国際情勢は大きく変化した。4月、トルーマン大統領は、ワシントンで開かれた民主党全国委員会主催の会合で、「世界の福祉と民主主義諸国民の福祉が危険にひんする場合には、私は再び原子兵器の使用を決定することをためらわないであろう」と言明した。社会主義の陣営では、9月にソ連が原爆保有を発表して欧米諸国に大きな衝撃を与えた。
こうした中で、広島への関心が、さまざまな形で現れるようになった。世界平和デー運動(=ノーモア・ヒロシマズ運動)のほかにも、世界連邦運動、ユネスコ運動、MRA(道徳復興)運動など国際的に展開されていた平和運動も、広島との交流を求めてきた。広島市長にトルーマン大統領あての平和請願署名運動を勧めたカズンズやハーシーは、世界連邦主義者同盟の有力メンバーであった。49年9月、スイスのコー市で開催されたMRA世界大会では、浜井広島市長、仁都栗市議会議長、楠瀬広島県知事のメッセージ(山田節男参議院議員が持参)に応えて、大会開催中の9月13日に「ヒロシマ・デー」が設定された。49年11月18日に広島ユネスコ協力会が発足し、50年8月6日に第5回ユネスコ全国大会を広島で開催することとなった(「中国新聞」1950年3月9日)。
1949年4月、パリとプラハで平和擁護世界大会(第1回)が開催された。これを契機に世界的に展開されるようになった平和擁護運動の中でも、広島への関心が高まった。原子兵器禁止を呼びかけたストックホルム・アピール(50年3月19日に平和擁護世界大会常任委員会第3回総会が採択)支持署名運動は、被爆体験を全面に掲げて展開された。4月下旬、東京で開催された青年祖国戦線結成大会に参加した広島・長崎の代表は、世界民青連に対し連名で、「原爆の廃墟の中から全世界の青年諸君に訴たう」と題する呼びかけを送付した。これは、世界民青連からの「原爆最初の犠牲者である広島の青年諸君から全世界の平和愛好者に原爆・水爆中止のための署名運動をよびかけるよう努力していただきたい」との要請に応えたものであった。広島・長崎の青年の呼びかけは、5月12日と13日の両日、モスクワ放送で放送された。5月中ごろに広島市内中心部に設けられた署名場には、「原爆の日の惨状」を写した数枚の写真が展示された。さらに、6月9日には、共産党中国地方委員会が、その機関紙『平和戦線』に広島の被爆直後の写真6葉を掲載し、ストックホルム・アピールへの支持を訴えている。また、丸木位里と赤松俊子の「原爆の図」展が、この署名運動と結合して全国各地で開催された。
広島市は、1950年6月初め、第4回平和祭の計画案を作成した。前年、自らの平和への意欲を広島平和記念都市建設法という国民的意志に結実させた広島市にとって、6月25日の朝鮮戦争の勃発による国際情勢の暗転は、平和運動の重要性をますます強く確信させるものであった。浜井広島市長は、6月13日、スイスのコー市で開催されるMRA世界大会出席と欧米視察を目的とする2か月余の外遊のため楠瀬広島県知事らと羽田を出発したが、市長不在中平和祭準備を指揮していた奥田助役は、「全世界の平和愛好者と手を取り合って、平和祭を守ることは、これ迄に達成された諸種の平和運動に更に拍車をかけ、ひいては目下世界各所で脅威を承けつつある平和を護持し、強化するに貢献するもの」と述べ、「この好機」にメッセージをよせることを連合軍総司令官と英連邦軍司令官に要請した(奥田達郎「平和式典にメッセージ懇請について」1950年7月17日)。また、7月下旬には、国内の各界約1,300か所と海外179都市長あてにポスター(原画:小磯良平)、パンフレット、メッセージなどを発送した(奥田達郎 「第五回平和祭式典発送伺」1950年7月25日)。また、「NO MORE HIROSHIMAS」を題字に掲げた8月1日付の「市政広報」創刊号に、つぎのような記事を掲載し、市民に平和祭への参加を呼びかけた。
近づく平和祭 行事決る 9時15分 祈りに
めぐり来る5度目の8月6日の平和祭を間近にひかへて広島平和協会では、この日を敬虔な反省と祈りの一日にしようと、華美に流れることをさけ極めて質素に執り行ふこととし、次の通り行事を決定、準備を進めている。なお、9時15分[夏時間で実際は、8時15分]を期し、一斉にサイレンを吹  鳴、祈りを捧げるよう呼びかけている。
△6日午前8時15分市民広場で平和式典を挙行、その内容は平和宣言に引きつづき放鳩、長崎市長からの広島の日に寄せる言葉、進駐軍のメッセージなどがあり、平和記念として楠を植える。
△当日の午後5時からと翌日の午後1時と午後5時から広島児童文化会館で平和記念音楽会(日本シンホネットオーケストラ)を開催
△8日午前10時および午後1時から児童文化会館で広島児童劇団の出演による平和子供会を催す。
△これらの行事のほか6日を中心として記念スタンプの発行や平和祭記録映画の作成及び
△長崎市との交歓会を開催する
しかし、8月2日午後4時から開かれた広島平和協会常任委員会は、突然4日後に迫っていた平和祭の中止を決定した。これは、「[中国地方]民事部ならびに国警本部県管区本部長、市警本部長との交渉」(同委員会の記録)の結果なされた決定であった。広島市民には、同日、平和祭中止を知らせるととともに、6日を「反省と祈りの日」として過ごすよう求めた奥田平和協会長代理の談話が発表された。また、前日の5日早朝には、広島市警察本部が、広島市平和擁護委員会や広島青年祖国戦線準備会が開催を予定していた平和集会を「反占領軍的」、「反日本的」集会と断じ、市民が参加することの無いよう求めたビラを市内に配布した。8月6日の行事は、市民広場で開催予定の平和式典のみならずその協賛行事も中止となった。ただ、午前8時15分には、平和塔の鐘が鳴らされ、それを合図に市内にサイレンが響き、市民が一斉に黙とうを行なった。また、慈仙寺鼻広場の供養塔前では、広島戦災死没者供養会主催の慰霊祭が例年のごとく執行された。

平和祭(第3回、1949年)

平和祭(第3回、1949年)

1949年(昭和24年)5月10日と11日、広島平和記念都市建設法案が第5回国会の衆参両院でそれぞれ満場一致で可決された。この法案は、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的」(第1条)としたものである。この法案は、7月7日実施された住民の賛否投票の結果、7万1,852票(有権者総数の59.2%、有効投票数の91.9%)という圧倒的多数の賛成を得て成立し、8月6日に公布されることになった。
広島平和協会は、6月8日に開催した第1回役員会で第3回平和祭の行事を決定するとともに、協会の会則を変更し、第1条に「恒久平和の念願と人類文化の向上」という目的を明示することとした。広島市は、平和式典を前に、「恒久平和」(原文:Peace Forever)をモチーフとしたポスターを作成し、式典への招待状とともに全国の都道府県知事、268都市長および県内全市町村に郵送した。また、海外の161都市には、浜井市長のサイン入りのポスターを送っている。
この年の平和式典の会場は、前年とは異なり市民広場の児童文化会館前広場となった。そこには、4日、30尺(約9メートル)の鉄筋の鐘楼が完工し、5日には広島銅金鋳造会が新造した「平和の鐘」が備えつけられた。8月6日の式典は、組立式の会場で、8時15分から約1時間、つぎのような式次第で開催された。
平和の鐘
開会の辞  (伊藤平和協会副会長)
平和の歌合唱(広島放送合唱団 伴奏:広島吹奏楽団)
平和宣言  浜井会長
放鳩    (ミスヒロシマ)
進駐軍メッセージ 英連邦軍司令官ロバートソン中将(代読:ギャレット代将)、マッカーサー元帥、ウォーカー中将(代読:仁井出渉外課長)
メッセージ 幣原衆議院議長(代読:山本代議士)、松平参議院議長(代読:浅岡参議院議員)、吉田内閣総理大臣(代読:森戸代議士)
平和記念植樹(楠瀬知事、石島副会長)
平和記念樹苗伝達(仁都栗副会長)
平和記念公園・記念館設計当選者発表(仁都栗副会長)
ヒロシマ平和都市の歌合唱(広島放送合唱団女子部)
閉会の辞  (森沢常任理事代表)
(「中国新聞」1949年8月7日)
広島平和記念都市建設法公布の記念行事として開催された式典には、米英人80人、県選出国会議員ら来賓100余人、市民約3,000人が参列した。浜井市長は、平和宣言の中で同法の公布に言及するとともに、仁都栗市会議長と連名でトルーマン大統領あてに、「平和都市建設法を通じてなさんとする聖業の上に多大の関心を寄せられ、偉大なる人間愛の大使命達成の上に光栄ある御賛助を賜わらんことを懇願」するメッセージを送った(「中国新聞」1949年8月7日)。また、恒久平和の象徴として建設する平和記念公園の設計図は、145点の応募の中から、丹下健三ら4人の共同作品が当選と決定し、式典の中で公表された。このほかに、8月6日には、広島平和記念都市建設法公布記念切手が発売されている。
海外でも、この日を期して第2回世界平和デーの行事が催された。アメリカ・オークランド市のアルフレッド・パーカー(世界平和日運動の提唱者)の連絡によれば、カリフォルニア州で渡米中の谷本清の主宰で記念式典が開催され、ニュージャージー、ニューヨーク両州、サンフランシスコ市の各教会が原爆投下時刻に平和を祈る鐘を鳴らしている(「中国新聞」1949年8月27日)。また、アメリカ以外でもつぎのような動きが見られた。
フィリピン政府は、この価値ある目的に全面的に賛同すると表明し、デリーでは18ケ国大使からメッセージを受取り、ブタペスト、ハンブルグ、ミューニッヒ、バンガロール、ロンドンは大集会を催し、ベルリンは公園  で永遠の平和の火を点じ、ブルッセルでは「戦争停止」の独得の平和運動  を起こし、オーストラリア、ノールウェー、ウルグワイなどは全国的に放  送し、(中略)オーストラリアでは多くの集会や行事をしてこの日を祝賀した。
(「中国新聞」1950年4月11日)
1949年の4月初め、渡米中の谷本清は、ノーマン・カズンズとジョン・ハーシーの示唆により、広島市に対し、トルーマン大統領あての平和請願署名運動を実施するよう勧めた。谷本らは、7月中ごろまでに10万人以上の署名を入手し、8月6日に大統領に手渡す計画であった。しかし、広島市は、広島平和記念都市建設法案の住民投票との重なりを考慮し、平和祭を期して署名運動を開始することとした。「世界最初の原子爆弾戦争を体験した我等広島市民は、アメリカ大統領に対し国際連合を強化し、今後の戦争を防止し得るような強力な世界組織を作らんことを請願す」とある請願書の署名運動は、8月13日から開始された。この署名は、8月下旬までに10万7,854人分が集まり、5冊に綴ってカズンズあてに送られた(谷本清『ヒロシマの十字架を抱いて』)。

平和祭(第2回、1948年)

平和祭(第2回、1948年)

谷本清(広島キリスト教会連盟委員長)は、1947年(昭和42年)10月、岡山市で開催された宗教連盟中国地区大会で、広島被爆の日である8月6日に世界平和を祈る運動を提唱した。彼のこの呼びかけは、翌48年3月、UP特派員ルサフォード・ポーツ記者により「ノーモア・ヒロシマズ」のアピールとして報道された。アメリカ北部バプテスト連盟の人々は、ジョン・ハーシーの広島ルポ(1946年5月従軍記者として広島入りし、原爆が人間に及ぼした影響について6人の体験者の証言を中心にまとめあげたルポ。全誌面を提供した8月31日付『ニューヨーカー』は、発売当日に30万部を売りつくし、以後100種以上の新聞に連載、ラジオドラマとして電波に乗せられ、10数か国語に翻訳されたといわれる)とジャパン・タイムズに掲載された第1回広島平和祭の記事に刺激されていたが、谷本のニュースを受け取ると、8月6日を世界平和デーにしようと呼びかけた (谷本清「寄稿・広島で世界宗教平和会議を」、この寄稿は、48年6月18日付 「読売新聞」(西部版)に掲載予定であったが、検閲により保留後ボツとなった)。その理由は、広島が「原子時代の戦争が意味するもののシンボル」であり、8月6日以外に「全世界を通じ平和の思想と感情に、より以上の共鳴を呼び起こす日」はないから、というものであった。48年4月18日、世界26か国の発起人により世界平和デー委員会が組織された。「ノーモア・ヒロシマズ」が、この運動のスローガンであった。
広島市は、1948年6月上旬、前年の平和祭に対する意見、批判やその後の国際的反響を踏まえ、文化的色彩を強くし世界平和運動のメッカたらしめることを主眼とした平和祭の新構想を発表した。浜井市長は、この構想の意図を、「平和祭行事は従来の放任的なものから今年は企画を統一したい」、「犠牲になった広島の平和運動が物乞根性と誤解されてはならない、あくまで平和運動のメッカとして世界人類の頭から広島をわすれさせないようにするのが念願である」と説明している(「中国新聞」48年6月9日、10日)。6月14日に開催された広島平和祭協会の48年度初の総会では、協会名を広島平和協会と改称したが、その意図は、世界平和運動に主力を注ぐことにあった。具体的には、平和宣言を恒久的なものにするため森戸辰男文部大臣に依頼して中央の権威者に再検討を仰ぐ、世界の都市に平和祭の意義を述べ世界平和運動への協力を求めるメッセージを送る、画壇大家の作品を網羅した平和美術展覧会を開催する、日本交響楽団を式典に招くといった新企画が考えられた。また、平和祭当日には供養と平和の象徴として市民が造花を胸に付けることが検討された。
このうち、平和宣言の起草は天野貞祐に依頼し、浜井広島市長は、世界の160都市の市長にメッセージを送ることとなった。また、平和協会は、美術展のための第1回協議会を6月24日に開催し、南薫造と小林和作の二人を顧問に委嘱し、準備を進めた。8月4日から袋町小学校を会場として開幕した展覧会は、県内のみならず国立東京博物館、大原美術館の名画400余点が展示され、広島としては未曽有の盛観を示した。日本交響楽団の招待は実現しなかったが、JOFKの尽力でNHK世界の音楽の来演が決まった。世界の音楽管弦楽団と合唱団は、平和式典で伴奏と合唱を行なうとともに、当日の夜と7日に児童文化会館で開催された音楽会に出演した。平和と供養の造花は、産業美術家協会に試作が依頼され、7月5日、市内の学校の教師にその作製方法の講習会が実施された。市民は、平和式典にこの造花を付けて参列し、約1,000人が、式典終了後これを胸に、「ノー・モア・ヒロシマズ」、「十万の御霊に誓う 世界平和は青年で」、「世界平和は広島から」などのプラカードを掲げ、平和広場から市役所前に向けて行進した(花行進)。
8月6日の平和式典は、前年と同じく、平和広場の平和塔前で、午前8時から1時間、つぎの式次第で開催された。
開会の辞  (寺田平和協会副会長)
大木惇夫作 詩「ヒロシマを思いて」朗読
平和の鐘  浜井会長
平和宣言  浜井会長
放鳩    (ミスヒロシマ)
進駐軍メッセージ 英連邦軍司令官ロバートソン中将
メッセージ 芦田内閣総理大臣(代読:松本滝蔵)、松岡衆議院議長(代読:高津正道)、松平参議院議長(代読:岩本月洲)、森戸文部大臣、楠瀬広島県知事
平和記念植樹(伊藤副会長)
平和記念樹苗伝達(石島副会長)
平和の歌合唱(伴奏:世界の音楽管弦楽団)
閉会の辞  (寺田副会長)
(『昭和23年度広島平和協会事業報告』、「中国新聞」1948年8月7日)
第2回平和式典の基調は、ノーモア・ヒロシマズであった。平和塔の側には、「NO MORE HIROSHIMAS」の看板が建てられ、平和宣言は、「再び第2の広島が地上に現出しないよう誠心こめて祈念するものである」と、ノーモア・ヒロシマズを訴えた。また、海外では、この式典に呼応して少なくとも26か国で第1回世界平和デーの諸行事が開催された。
ロバートソン中将のメッセージは、平和宣言以上の長さであり、「渉外局」の平和式典に関する発表は、これを「記念講演」と表現し(「中国新聞」1948年8月6日)、AP電は「式典のクライマックス」(原文はhigh point)と伝えた(The New York Times 1948.8.6)。ロバートソンは、その中で「広島市が受けた懲罰は戦争遂行の途上受くべき日本全体への報復の一部と見なさねばなりません。今後諸君が平和政策を忠実に守るとすれば、世界全部がこのような悲惨事の起こるのを未然に防止できることと思います」と述べた。また、この式典には、オーストラリア国会議員団一行8人が、「オーストラリア国民の代表として民主的な国民になるだろう日本国民にどの程度の真実があるか、自分の目でみて判断したいと望んで」参列していた(ロバートソンの「メッセージ」の表現)。これらは、平和祭を見る世界の目が、原爆犠牲にもとづく広島の訴えへの同情のみでは無いことを示している。

平和祭(第1回、1947年)

平和祭(第1回、1947年)

1947年(昭和22年)4月、戦後初めての衆議院議員選挙や初の地方選挙が実施され、5月3日には、日本国憲法が施行された。こうした戦後の改革は、国民の平和への関心を高めた。広島では、被爆2周年目の8月6日に、前年の「統制的・追憶的」な行事ではなく「平和の息吹で原子砂漠をおおう」行事を開催しようとの声が起こった(「中国新聞」1947年6月21日)。石島治志NHK広島放送局長は、被爆市民の平和への意志を全世界に公表するために平和祭を開催することを構想し、4月17日公選初の市長に就任した浜井信三に助言するとともに、広島観光協会でも提唱した。また、広島商工会議所内でも平和祭開催の機運が高まっていた。中村藤太郎同会頭は、6月初め、浜井市長にその旨を申し入れ、市長とともに呉市にあった米軍軍政部に赴き、平和祭についての打診を行なった。これに対し、軍政部の司令官は、「膝を乗り出して賛成した」と伝えられている(浜井信三『原爆市長』)。
占領軍の後援が明らかになると、平和祭に向けて準備が進められた。6月20日には、広島市役所、広島商工会議所、広島観光協会(1951年に、広島市観光協会に発展的改組)の三者が発起人となって広島平和祭協会を設立し、会長には浜井広島市長が、また副会長には中村広島商工会議所会頭と寺田豊広島市議会議長が就任した。新設された平和祭協会は、7月3日から7日にかけて、宗教、茶道、音楽、興業、展覧会、展示会、スポーツ、報道、文化、商店といった各関係方面ごとに参集を求めて打ち合せを行ない、平和祭の諸行事を決定した。また、同協会は、平和祭で合唱される平和の歌および慈仙寺鼻広場と元護国神社前広場の名称の募集も行なっている。両者の入選作の発表は、22日におこなわれた。「平和の歌」(現在の名称:「ひろしま平和の歌」)には、豊田郡の中学校教師重園贇雄の作品が、応募作品151点の中から選ばれた。一方、広場の名称は、慈仙寺鼻広場が「平和広場」、元護国神社前広場が「市民広場」に決定した。このうち、平和祭の会場予定地である「平和広場」には、7月上旬から平和塔(高さ10メートル)と野外音楽堂の建設(木造約28坪、工費15万円)が進められた。
寺田豊市会議長(広島平和祭協会協会副会長)は、7月18日上京、GHQを訪問して、平和祭へのメッセージを要請していた。これに対し、GHQは、7月末、マッカーサー自身のメッセージが寄せられると公表した。マッカーサーが、日本の地方行事にメッセージを寄せることは、極めて異例のことであり、彼自身がこの式典に強い関心を寄せていることを伺わせるものであった。
また、広島市は、1947年7月31日、「毎年8月6日は、本市の平和記念日として市役所事務を休停する。」との条例(「広島市役所事務休停日条例」)を制定し、市役所あげて8月6日を迎えることとした。
平和祭式典は、8月6日午前8時から9時までの1時間、つぎのような式次で開催された。
開会挨拶 (野田平和祭協会事務局長)
平和塔除幕(木原前広島市長令嬢)
平和の歌演奏・合唱(広島放送管弦楽団)
平和宣言 浜井市長
平和の鐘 浜井市長
(花火・サイレン・平和への祈り)
メッセージ発表
ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官(代読訳文:山口秘書)、英連邦軍総司令官(代読:ライアン少佐)、米軍政部長(代読:クロワード中佐)、片山内閣総理大臣(代読:山田参       議院議員)、松岡衆議院議長(代読:藤田代議士)、松平参議       院議長(代読:山下参議院議員)、森戸文部大臣、楠瀬広島県       知事
祝電披露 全国各市長、米国ボストン市長、モントゴメリー(元広島復興顧問)
放鳩(10羽)(中村商工会議所会頭)
平和記念樹植樹(寺田市会議長)
全国199戦災都市へ送る平和記念樹苗の伝達
(石島広島放送局長から末永呉市長へ)
平和の歌合唱(市内男女中等学校生徒100余名)
閉会の辞 (野口事務局長)
(「夕刊ひろしま」1947年8月6日、「中国新聞」8月7日)
マッカーサーは、メッセージの中で、広島の教訓を、「自然の力を利用した戦争による破壊力の進展はその停止するところなく遂には人類を絶滅し、現世界の物的構成を一挙にして壊滅に帰せしむる手段となるであろうということを全人類に警告する助け」となったことに求めた(「朝日新聞」1947年8月7日)。この人類絶滅観は、浜井市長の読み上げた平和宣言の中でも言及された。
NHK広島中央放送局(JOFK)は、午前8時から30分間、式典の模様を実況放送した。それは、そのままJOAK(東京)を通じて米国に中継されたが、この放送は、日本の戦後初の国際放送であった。また、INS、CBSといった米国の放送会社やユナイト、日映、時事などのニュース映画会社も、式典の模様を取材した。
8月1日からすでに盛り沢山な行事が始まっていた。平和記念日を中心とする3日間の広島には、市民のほか、近郊からも多くの人々が押し寄せ、大変な賑わいを示した。この3日間の広島、横川、己斐の各駅の利用者の数は、平日より2万人以上増加したと報じられている(「中国新聞」1947年8月8日)。
第1回平和祭の開催は、海外で大きな反響を呼んだ。アメリカの臨時世界人民会議(Emergency World Peoples Congress)は、8月6日にアラモゴードでヒロシマ2周年の集会を開催した。この集会の中で、マッカーサーが広島に寄せたメッセージが読み上げられた(The New York Times 1947.8.7)。また、ニューヨークタイムズは、この日の社説で、「原子爆弾がなければ殺戮はもっと大きかったであろうし、この点で原子爆弾の使用は正当化される」としながらも、つぎのように述べた。
広島と長崎で行われた涙をそそる記念行事は到るところの人情ある人々の心を動かさずにはいないが、我々はこの両都市が各種記念行事を執り行う唯一の場所として永久に留まることを希望し祈らなければならない。
(「中国新聞」1947年8月9日)
ニューヨークの「世界同胞運動協会」は、つぎのような感想を述べた「広島市民への公開状」と題する書簡を広島にもたらした。
われわれは広島市民諸君が8月6日、平和祭を行われたことを聞き、ただ頭を下げるばかりである。すなわちこの日広島市民諸君が争いの観念をすて、平和を念願努力されていることをきき、われわれは罪の観念を   深め、民族としての反省を続けている。(「中国新聞」1947年9月21日)
こうした国内外の反響の中には、批判的なものもあった。アメリカの雑誌ライフは、平和祭の模様を「アメリカ南部の未開地におけるカーニバル」と表現した。また、平和祭協会には、「あのようなお祭り騒ぎをするのはもってのほかだ」、「厳粛な祭典は一つも見られなかった」といった投書が市民から寄せられた。このように、市民の間には、8月6日を「厳粛な黙祷の日にすべきだ」との主張がある一方で、「若しただ1回の平和祭に100万円の費用をかけるとしたら、その100万円を花火線香に終らせず、世界に向って何かを残し与えるような施策が必要」(長田新の論説、「中国新聞」1947年9月8日)といった意見や、「平和祭を復興に直結させたものにすべきだ」という現実論(浜井信三の話、「中国新聞」1948年6月9日)も存在した。

広島平和記念資料館総合図録 ヒロシマをつなぐ

『広島平和記念資料館総合図録 ヒロシマをつなぐ』(広島平和記念資料館編、広島平和文化センター刊、20201221 )

内容

見出し 備考
はじめに
展示室案内
1 08 被爆前の広島
10 軍都、学都としての広島
12 にぎわう広島の街
13 コラム「平和記念公園に眠る街」(藤村順平)
14 日中戦争から太平洋戦争へ
16 戦時下の街と暮らし
図版1-24(広島護国神社で撮影された三菱重工業朝鮮人徴用工の集合写真)
17 コラム「戦時下の服装」
2 原子爆弾投下への道
原子力の発見と原子爆弾の開発 20
コラム「ドイツと日本の原爆研究」 23
原爆投下の決定 24
コラム「原爆の模擬爆弾の投下」 27
原子爆弾 28
熱線 29
爆風 31
放射線 33
コラム「急性障害と後障害」 36
コラム「調査団の活動」 37
コラム「原爆被災記録映画の撮影」 37
3 被爆の実相
1945年8月6日午前8時15分 40
破壊された街 42
傷つく人々 46
亡くなった生徒たち 48
コラム「建物疎開作業」 49
黒い雨 50
高熱火災 53
救護所の惨状 55
混乱の中の救援・救護活動 58
魂の叫び 61
コラム「絵筆に込めて―『市民が描いた原爆の絵』」 70
コラム「故郷を離れた地で―外国人被爆者」 72
生きる 73
父母を亡くした子どもたち 74
独りとなって―原爆孤老― 75
体と心に刻まれた傷 76
原爆小頭症―親子の歩み― 78
N家の崩壊 80
一人の被爆少女の死から 82
消えぬ想い 84
4 広島の復興、さまざまな支援
都市機能の復旧 88
再生と支援 90
コラム「シュモーハウス フロイド・シュモーと『広島の家』計画」 92
広島平和記念都市建設法と復興事業の進展 94
コラム「広島平和記念資料館初代館長 長岡省吾」 96
コラム「カープ球団 誕生秘話」 97
被爆者援護施策の成立と拡充 98
5 核時代
兵器の開発と拡散 102
核兵器廃絶へ向けて 106
核実験の禁止 106
核兵器の不拡散 107
非核兵器地帯の創設と核兵器禁止条約 108
コラム「核実験への抗議」
6 平和への歩み
平和への祈りと誓い 112
原水爆禁止と被爆者援護を求めて 114
記録と保存と継承と 116
コラム「ヒロ子さんの日記と原爆ドーム」 118
コラム「被爆体験を語り、受け継ぐ」
年表
平和記念公園の慰霊碑・記念碑
被爆建物・被爆樹木
図版一覧
参考文献
英語版:『Hiroshima peace memorial museum collection catalogue : carrying the legacy of Hiroshima』

 

 

 

広島の碑をめぐる闘いの記録

『廣島の碑をめぐる闘いの記録』(藤井一郎編、瀬戸内報道社海内興論、19710927)

内容

見出し
林房雄氏の論文とその反響
(1)何を訴えようとする碑か 1

(2)林氏の寄稿を第一波として 2

(3)その反撃は万波となって 4

(4)高田範幸氏は岸田博士の一文を 5

(5)武藤貞一氏の悲憤の文字 6

(6)元中国新聞論説委員小林健三氏の所論 6

(7)中村武彦氏の二十年前の炎の文字 6

(8)平泉澄博士の「広島」 8

(9)葦津珍彦氏の鉄腸の訴え 9

市民世論の盛り上がりを背景に
(1)「原爆慰霊碑を正す会」発足 10

(2)一万八千人の署名請願書と提出 12

(3)「請願」に市側の誠意見られず 13

(4)山田市長の独断専行 14

(5)山田市長の不実の答弁 14

両陛下御巡幸にあたり
(1)偽りの碑へのお立寄り拝辞を求めて 16

(2)要請・要望を繰返したが 17

資料=民族派要請文
(1)日本青年旭心団要請文 21

(2)原爆慰霊碑碑文改正推進青年学生協議会の「要請」文 23

(3)全九州民族運動協議会の訴え 24

(4)川田貞一氏の訴え 25

(5)中央における「道の友」の闘い 28

(6)未だ一生氏の訴え 32

両陛下ご来広までのまとめ
(1)運動主導者としての懺悔 36

(2)若者をミスリードするマスコミ 37

(3)文化人意識過剰の座談会記事 40

(4)新左翼を育てる素地 42

(5)遂に現れた 天皇糾弾 43

「天皇糾弾集会」をめぐる闘い
(1)三月の彼我の動き 45

(2)坂田教授との面談四時間 47

(3)広大全共斗の策動 48

陛下ご来広中のデモに対する闘い
(1)新左翼を狂奔させる背景 49

(2)「天皇糾弾」デモ五件に対し我らもデモを申請 51

(3)「天皇は国民統合の象徴である」こと 53

(4)県警本部に対策について質す 54

(5)歴史は夜つくられる 55

(6)総理の 強権発動 は当然の措置 55

(7)破砕できなかった二つのデモ 57

資料= 合法闘争 記録
A  平和記念館使用問題
(1)「使用取消処分」取消の訴状 59

(2)行政処分執行停止申立書 61

(3)広島市長の「意見」 72

(4)付1 広島平和記念館使用条例 74

付2 広島市職務権限規定 75

付3 記念館使用許可書 77

付4 記念館使用許可書取消通知書 78

(5)付1.2 永野知事の「通達」 78

付3 永野知事の「謹話」 79

付4 奉迎送計画書 80

(6)「申立」を支持する地裁決定 81

(7)広島市長の「抗告状」 86

(8)即時抗告理由追加申立書 89

(9)「即時抗告」を支持する高裁決定 90

(10)集団示威運動許可申請書 93

(11)広島県公安委員会指令第五七号 94

B  糾弾デモに対抗する粉砕デモ問題
(1)集団行動許可申請書(四通)95

(2)広島県公安委員会指令第五八号~六一号 97

(3)代理人(弁護士)委任状 99

(4)行政処分取消請求訴状 100

(5)行政処分執行停止申立書 100

(6)裁判請求陳情書 101

(7)広島県公安委員会の「意見書」 102

(8)1付・デモ集会に関する「条例施行規則」 103

C  天皇来広糾弾デモ問題
(1)新左翼の集団更新許可申請書 111

1 天皇来広糾弾連絡協議会(二通)111

2 広島大学全学共闘会議(三通)112

3 三段体連絡会議(一通)115

(2)不許可理由 115

(3)申立人の暴力的傾向 116

(4)全共闘申立を支持する地裁決定 116

(5)即時抗告棄却の高裁決定 118

(6)全共闘の申立を支持する地裁決定 119

(7)即時抗告原決定変更支持の高裁決定 120

(8)三団体の申立を支持する地裁決定 122

(9)佐藤総理の「異議の理由」 125

(10)地裁決定を取消す 126

デモ一覧表
 デモ周辺図
資料=新左翼による「天皇糾弾」の主張
原爆慰霊碑を正す運動年表

 

 

 

平和学連携講座「ヒロシマ」200508

平和学連携講座「ヒロシマ」20050805~09

事項(敬称略)
05 10:00 集中ヒロシマ受講生(関西学院大学):21人。(広島女学院):日文3年2人、4年1人、英文3年13人、4年1人、人社2年6人、生活2年4人。計27人。総計48人。
05 10:30 関西学院大学学生、宿舎(広島工業大学セミナーハウス)より到着。歴史資料館前。堀川・宇吹で出迎え。
05 10:31 ソフィア101で関西学院大学学生へのガイダンス。今田学長が女学院と関西学院大学の関係について簡単に説明。
05 10:50 大学内見学:歴史資料館=岩内解説、図書館フリースペース「広島女学院における平和教育のあゆみ」展、図書館内=土屋解説。~12:00。
05 12:00 集中ヒロシマ受講生:昼食。ヒノハラホール。~12:40。
05 13:00 集中ヒロシマ(第1日)①今田寛女学院大学学長歓迎の言葉。平松一夫関西学院大学学長挨拶。*本(女学院学生代表)挨拶。ソフィア202。
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05 13:01 集中ヒロシマの取材:久米井(NHK神戸)、佐竹(日経新聞大阪本社社会部)、稲田(読売新聞大阪本社福山支局三原通信部)、取材。NHK神戸は、の広島県出身の*本(関西学院大学生)を追跡取材。
05 13:10 講義「平和式典と平和公園の歴史」(宇吹暁)。ソフィア202。~14:30。
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05 14:40 集中ヒロシマ(第1日)②発表「私のヒロシマ」。自己紹介(関西学院大学の学生)=自らのこれまでのヒロシマとの関わり、今回の講義への参加動機、期待など)。女学院学生は簡単な自己紹介。班分けでの打合せ。
05 14:42 集中ヒロシマ(第1日)直野章子の本を紹介。
05 16:20 集中ヒロシマ(第1日)③講義「ヒロシマの心」(赤木直美:広島女学院高等女学校1948年卒、広島女学院高等学校1949年卒、広島女学院大学英文科1953年卒、現在:学校法人赤木学園・井口台シオン幼稚園理事長)。~15:20。
05 16:21 赤木の話=1930年生まれ。1941年在米3年の父が最後の帰国船で帰国。1943年広島女学院入学。200人の定員に260人が応募。200人中20人の死亡と65人の生存を確認。1943年~45年の女学院の資料は、歴史資料館を調べたが皆無に近い状態。
05 16:22 赤木の話=1945年2年生のとき、身体が弱いので財務局に動員。7月30日トラックで山形郡のかすかな知人宅をたよりに疎開。屯所に住む。8月6日引越しの手伝いで山県にいる。数日後、母が父を探しに入市。1週間近く音沙汰なし。父は足を骨折して二中から廿日市の病院に移動して入院中。その後、父は岐阜に移住。
05 16:23 赤木の話=1946年2月、女学校が牛田山で開校。現在の牛田山荘で生活。現在、原爆体験記朗読会に所属。1年下の小田なおこの手記を朗読。父は牧師で、女学院では聖書と事務を手伝っていた。
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05 17:20 赤木と生活科学部長室で話す。西垣院長、桐木も同席。17:40、赤木を見送る。
05 18:00 集中ヒロシマ(第1日)懇親会(夕食)。西垣院長、歓迎の挨拶。途中で私から桐木・丸田・堀川を紹介。村田関西学院大学教務部長から、中迫周一教務部次長、片岸教務課員、吉津広報室員の紹介。終了後、堀川から同行していた*教務課主任が体調不良のため帰宅したとの情報。ヒノハラ。~19:30。
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05 19:00 関西学院大学から、女学院の学生一人一人に同大学グッズ(ストラップとボールペン)のプレゼント。残6組を私が預かる。
05 19:30 懇親会(夕食)終了。テーブルを元通りに直し、関西学院大学の学生を20:00ごろ見送る。
06 06:30 広島駅の駐車場に車を置き、駅の売店で新聞を購入。日経が昨日の模様を大きく掲載。電車で市民球場南側へ。07:15関西学院大学のバス到着。まとまった班から平和公園へ。宇吹ゼミの*木・*間も来る。デジタルビデオカメラでの撮影を依頼していた。
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06 07:30 集中ヒロシマ(第2日)④⑤現地実習(広島市平和式典参加)。会場内に空席が無く、式典会場の西側へ。翌朝の報道では5万5000人が参列。学生とはぐれ、式典の最中に出口付近に移動して待ったが会えず。最後までいたとのことで、ほとんどが女学院慰霊祭に遅刻。
06 10:00 集中ヒロシマ(第2日)⑤現地実習(広島女学院原爆死没者追悼式典参加)。西垣が約20分の式辞。参列者に同窓会から梅坪の和菓子3個入りが配られる。大学教員では谷沢・篠原・石井・岡井・下岡・佐藤の顔が見える。
06 10:01 西垣の式辞=戦略爆撃、碑文論争などさまざまな論点を克明にレポート。
06 11:10 集中ヒロシマ(第2日)昼食。同窓会の手記集が配布されていた。
06 11:11 集中ヒロシマ(第2日)集合時間を20:30に変更したことを伝える。班別行動をこの日に相応しいものにするよう注意するつもりだったが止める。関西学院大学の職員から、5時半以降は班行動をしないような女学院学生の雰囲気について心配があったので、私から注意。
06 12:00 集中ヒロシマ(第2日)⑥⑦⑧現地実習。昼食後、学生は、タクシーを呼んで移動。(平和公園碑めぐり、原爆資料館、原爆死没者追悼平和祈念館、袋町小学校平和資料館、広島市立中央図書館など、班ごとに行動・見学)。
06 20:30 集中ヒロシマ(第2日)広島女学院中高校前集合。バスで宿舎へ帰るのを見送る。
08 09:00 集中ヒロシマ(第3日)⑨講義「オキナワとヒロシマ」(桐木建始・沖縄県人会=中村盛博・柴田ゆき子)。ヒノハラ5Fアセンブリーホール。踊り4人。これらの人たちに薄謝で申し訳ない思い。
08 10:40 集中ヒロシマ(第3日)⑩講義「アウシュヴィッツとヒロシマ」(原谷勉)。ヒノハラ5Fアセンブリーホール。ビデオを使用。「ハロルド・アグニューとヒバクシャとの広島での対話」(筑紫哲也の特別番組の一部)。翌日の討論では、衝撃を与えていた。
08 13:00 集中ヒロシマ(第3日)⑪講義「アジアの中のヒロシマ」(丸田孝志)。ソフィア202。内容は韓国人原爆犠牲者慰霊碑について。丸田は講義の最後に簡単なレポートを提出させる。丸田へのレポートの感想で多かったもの:韓国人原爆犠牲者慰霊碑の存在を知らなかった。ドイツと日本の戦後責任への対応の違い=市民権を持った国民と市民権を持たない国民の違い。
08 14:40 集中ヒロシマ(第3日)⑫講義「原爆の絵」(直野章子:九州大学大学院助教授)。ソフィア202。前半、原爆投下問題について。主題:パワーポイントで原爆の絵を示しながら、聞き取りの結果を紹介。本人が涙ぐむ場面もあった。翌日の討論では男子学生が高く評価。
09 09:00 集中ヒロシマ(第4日)⑬グループ討論。ソフィア202(もともとヒノハラの予定であったが変更)。
09 10:30 私が持参した被爆建物のレンガの解説「放射線が含まれているかも知れない」を*徳が批判。
09 10:40 集中ヒロシマ(第4日)⑭グループ代表によるまとめ発表。ソフィア202。
09 11:02 *(関西学院大学の学生)の呼びかけで、長崎の時間に合わせ30分間の黙祷。
09 12:00 集中ヒロシマ(第4日)⑭宇吹の講評=被爆二世への影響をどう考えるか。昨年と比較し加害の問題に焦点、被爆50周年と比較するとイベント化が今年の特徴。本講座の講師は、私の依頼に真摯に対応してくれた。自分の問題として「ヒロシマ」の向き合ってくれた。
09 12:01 集中ヒロシマ(第4日)⑭村田関西学院大学教務部長の講評=靖国の問題が論議を加害の問題に集めた。昨年よりレベルの高い議論ができた。
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平和学連携講座ヒロシマ20040805-08

平和学連携講座「ヒロシマ」

スケジュール(2004.8.5)

授業科目名 ヒロシマ
使用言語 日本語
開設時期・単位 集中(8月5日~8日)・2単位
担当者 宇吹 暁 (UBUKI, Satoru)

Ⅰ.授業の目標
ヒロシマの追悼行事への参加、ヒロシマをめぐる様々な視点を提示する講義およびグループ討論により、ヒロシマの歴史・現状を多面的に理解するとともに、平和について考え、発表する能力を養う。

.授業の内容・計画

月日   講義内容 担当者 教室・場所
0805 13:00~14:30 ①西垣院長・女学院学生代表挨拶

講義「平和式典と平和公園の歴史」

桐木建始・宇吹暁 人文302
14:40~16:10 ②発表と討論「私のヒロシマ」 女学院学生代表

関学学生代表

人文302
16:20~17:50

 

③講義「ヒロシマの心」 野村久子(広島女学院同窓会) 人文302
18:00~19:30 交流会(夕食)   ヒノハラホール
0806 07:30~11:00 ④⑤現地実習(広島市平和式典、広島女学院原爆死没者追悼式典参加) 西垣院長

女学院学生代表

平和公園

女学院中学高校

11:10~12:00 昼食(昼食後、平和公園まで徒歩移動)   女学院中学高校
13:00~17:50 ⑥⑦⑧現地実習(平和公園碑めぐり、原爆資料館見学など) 宇吹 暁

女学院学生代表

平和公園
0807 09:00~10:30 ⑨講義「オキナワとヒロシマ」 沖縄県人会

中村盛博・柴田ゆき子

ヒノハラホール5F

アセンブリーホール

10:40~12:10 ⑩講義「アウシュヴィッツとヒロシマ」 大塚 信ホロコースト記念館 館長 ヒノハラホール5F

アセンブリーホール

12:10~13:00 昼食   ヒノハラホール
13:00~14:30 ⑪講義「アジアの中のヒロシマ」 宇吹 暁

 

人文302
14:40~16:10 ⑫講義「エノラゲイとヒロシマ」 直野章子

 

人文302
0808 09:00~10:30 ⑬グループ討論 女学院学生代表

関学学生代表

ヒノハラホール5F

アセンブリーホール

10:40~12:10 ⑭グループ代表によるまとめ発表

講評

 

西垣院長・桐木・宇吹

 

ヒノハラホール5F

アセンブリーホール


III.テキスト・参考書

女学院学生の準備する冊子

広島平和記念資料館編・刊『図録 広島平和記念資料館――ヒロシマを世界に』(1,000円(税込))

IV.履修上の注意 Course Prerequisites

成績評価は、出席(参加)状況とレポート(8月末までに提出)による。

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韓国・淑明女子大学での交流とソウル市内研修

韓国・淑明女子大学での交流とソウル市内研修

2004年3月25日(木)~28日(日)

D T J
25 広島からソウルへ
15:35 広島空港発JAL965便。丸田、*、*、*原、**田、*田、***原、*本、宇吹。
16:58 仁川空港着。曹が出迎え。5万円を両替:52万7500ウォン。リムジンバス。2便が満員で乗車出来ず。18:35―シャトルバス(各駅停車料金:7000W)-ソウル駅-20:00淑明女子大学校国際会館Ⅰ
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21:00 国際会館近くの韓国料理店で夕食―10:10会館。宇吹:514号室泊。
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26 10:00 淑明女子大学キャンパスツアー(案内:安・曹):韓国料理研究所-フランス料理を教える教室-図書館-11:30学内のレストランで昼食(淑明女子大学の招待)。
ツアー(1)ツアー(2)ツアー(3)、ツアー(4)
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13:00 ソウル市内:ロッテ免税店16800W―書店kyobobook:9冊100200W+韓国の世界遺産DVD2万8000円(カード)-20:00大学付近の食堂で夕食(プルコギ)22:00-*原と国際会館付近のスーパーで買物(海苔・駄菓子など)16520W+7210W-11:00国際会館泊。
27 10:00 淑明女子大学前で*田と待ち合わせ-地下鉄-ソウル駅10:30-市内観光バス:ソウルシティーツアーバス10000W-
11:00 戦争記念館:入館料=2000W。
12:30 ソウル(南山)タワー(昼食)。時間が無く、入館せず。
14:30 昌慶宮:入館料=1000W
14:50 宗廟(世界遺産)
16:20 昌徳宮(世界遺産)入館料=2300W。~17:50。
18:00 地下鉄で淑明女子大学前へ。淑明女子大学校近くの食堂で夕食(鶏肉料理)。国際会館Ⅰ泊。
28 09:00 淑明女子大学校国際会館Ⅰ発。1泊35000W×3=105000W。大学付近に*田・曹が出迎え。タクシー3台に分乗してソウル駅へ。ソウル(仁川)空港行きのシャトルバスの乗り場が直行便(12000W)と各駅停車では異なっており、一時はぐれる。ソウル(仁川)空港で*田、曹と別れる。
28 11:00 ソウル(仁川)空港:搭乗手続き後、昼食(ビビンバ)。各自最後の買物。宇吹の買物:書籍=25000W。タバコ・土産=2860円+875円+1050円+3285円
28 13:10 ソウル(仁川)発JALアシアナ航空966便-14:40広島空港着。5時過ぎ帰宅。