著者 |
記述概要
<掲載書・誌> |
温品道義 |
陸軍兵器補給廠警防手。明治橋西詰路上(水主町)で被爆 |
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「原爆に生きて」(原爆被害者の手記編纂委員会、三一書房、53062501) |
大畠文衛 |
霞町兵器廠で被爆 |
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「原爆十年」(広島県社会保険診療報酬支払基金、55083301) |
福井静子 |
霞町兵器廠で被爆。挺身隊 |
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「あの日あの時」(兵庫県原爆被害者の会、62052701) |
温品道義 |
前出 |
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「原爆許すまじ」(広島県被爆者の手記編集委員会編、新日本出版社、65070501) |
中尾己次 |
勤務先の兵器廠で被爆 |
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「原爆広島消防史」(広島市消防局原爆広島消防史編集委員会編、広島市消防協力会、75070101) |
田室藤登 |
兵器廠敷地内で被爆。女学生。動員学徒 |
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「悪魔の銀のサイコロ」(国際平和教育研究会(広島大学教育学部付属小学校内)編、教育出版センター、75080607) |
増田照代 |
比治山町民家の兵器廠女子挺身隊として勤務 |
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「木の葉のように焼かれて第11集」(木の葉のように焼かれて編集委員会、新日本婦人の会広島県本部、77080101) |
景岡正幸 |
兵器廠内で被爆。「兵器廠は比治山の影になり大勢の怪我人は出たけれど死亡者は一人もなかった」 |
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「暗い青春」(廿日市中学校平和教育推進委員会、78023301) |
朝枝憲雄 |
広島兵器廠学徒寮舎監助手。市内で被爆。「廠内では死亡者を重油で焼いてお骨にしているとの情報が入った」 |
山本貫一 |
勤務先の兵器補給廠で被爆。夜間校4年。「負傷者は兵隊さんや我々工員の手で7号館に収容されることになった」「8月9日、呉海軍病院から調査のためえらいさんが見えられた。爆弾の影響調査のため5名の工員が選出され私もその一員となった」「10日以降は構内の死体を集め、構外の疎開跡地で火葬にふした」「それ[8月15日]から4,5日後、私達工員は全員職を解かれた」 |
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「原子雲の下に生きつづけて第6集」(全電通被爆者連絡協議会、78080501) |
森永晃二郎 |
陸軍兵器廠勤務中隊に在籍。可部線布の弾薬の衛兵。8日交替し同日入市。「本廠は爆心地からわずか比治山の蔭になるため煉瓦造の二階建兵舎は棟が折れたように残っていたが危険で使用はできず我々は天幕で就寝するようになった。また、電気水道は全然駄目となり飲料水は廠内の防火用水が唯一のものとなり、」 |
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「原爆被爆体験記」(芝山宏編、京都府原爆被災者の会、79113301) |
沖正夫 |
市立工業学校1年。動員先の兵器廠で被爆。火傷。 |
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「人類の明日のために-広島原爆記録集」(天理教広島教務支庁編、天理教道友社、80070101) |
八百村イシ子 |
勤務先の兵器補給廠で被爆。 |
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「渇き第2号-被爆体験文集」(徳山被爆者の会、80073303) |
平山郁夫 |
修道中学3年。兵器補給廠に学徒動員。 |
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「悠久の流れの中に」(平山郁夫、佼成、80091502) |
和田タカ |
勤務先の兵器廠炊事場で被爆。「翌日から、勤務先の兵器廠で被災者への炊き出しをいたしました。・・・・約1週間、夜は比治山下の防空壕へ帰って眠りました。」「私の勤務先の兵器廠倉庫4棟は臨時病院となって、被災者がぞくぞく運び込まれてきました」「兵器廠の裏庭のあちこちに兵隊さんが大きい穴を掘って、遺体を何人も重ねては油をかけて火葬されていました」「兵器廠は解散になり、9月20日付で退職しました」 |
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「紙碑」(広島原爆被爆者援護事業団編、81072002) |
空博行 |
前出 |
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「広島壊滅のとき」(広島原爆被災撮影者の会編、81080101) |
深田敏夫 |
前出 |
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「広島壊滅のとき」広島原爆被災撮影者の会編81080101 |
川本充 |
兵器廠包ケ浦工場の動員学徒。入市。自宅は市内。 |
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「広島市医師会だより8月号」81081503 |
池崎五十登 |
日通の材木係長。兵器補給廠日通派出所で被爆。 |
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「ピカに灼かれて-被爆体験記第5集」(広島医療生活協同組合原爆被害者の会など、81083301) |
森本昌利 |
技術少尉。兵器補給廠で被爆。数百人を治療。 |
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「生と死-ヒロシマ・ナガサキから」(徳島県原爆被害者の会、82080101) |
岡野健 |
修道中学3年。動員先の兵器補給廠正面玄関右50米位の所で被爆。火傷。 |
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「原子雲」(大阪府原爆被害者団体協議会、82113301) |
遠藤金義 |
広島兵器補給庫第一勤務中隊所属。東雲町・広島兵器補給庫で被爆。 |
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「原爆と地獄-被爆体験文集」(鳥取県原爆被害者協議会、83020101) |
三井宗光 |
陸軍兵器廠運転手。廠内で被爆。 |
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「はらおぐさ-原小草開園10周年記念特集」(特別養護老人ホーム清鈴園編、 西中国キリスト教社会事業団、83070101) |
大永頼男 |
陸軍兵器補給廠隊長室前に整列している時、被爆。「間もなく隊長命令で、担架を持ち、比治山の横穴に逃げ込まれた人々を、兵器廠の庭に収容し、昼になったのでムスビと漬物を、くばって歩いて回った」 |
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「原爆」(府中市原爆被害者の会、84063001) |
河野千寿 |
兵器廠医務科の事務見習い。比治山の洞窟内医務科で被爆。「翌日になると、怪我人の数はさらにふえた。兵器廠の中にあるたくさんの倉庫の中はもちろんの事、屋根のある所にはこれ以上人の入る余地はなくなってしまった。」「この兵器廠の庭すみには、むしろを被せた死体が日一日と増え、肉親の安否を気づかう人達が、一枚一枚むしろをめくって歩いている。」「人間の姿とも思えない怪我人に配って歩くと、まるで餓鬼のように奪いあう」 |
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「子供たちに残す戦争体験」(新潮45+編集部編、新潮社、84071502) |
後藤初人 |
兵器補給廠所属軍人。廠内の食堂で朝食をすませ、自動車部品倉庫に行く途中被爆。 |
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「炎の墓標」(三和町被爆者友の会、84080603) |
日出山能市 |
陸軍兵器廠海田分所の工員。分所で100人位は収容・救護。6日入市。 |
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「被爆体験記3」(船越原爆被害者の会.広島市船越公民館共編、84100101) |
戸津川雅人 |
兵器廠自動車輸送部勤務。動員学徒3名をトラックに乗せて出廠し、稲荷橋付近で被爆。 |
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「紙碑 被爆老人のあかし 第2集」(広島原爆被爆者援護事業団[編]、85052501) |
川畑ユキヨ |
勤務先の兵器廠の炊事場で被爆。 |
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「紙碑 被爆老人のあかし 第2集」(広島原爆被爆者援護事業団[編]、85060901 ) |
田口正秋 |
兵器補給廠食堂で朝食中被爆。「補給廠の医務課長は肺結核で入院中であり課の責任は代理の私にあった」。23才の救護班長。「兵器庫2棟を直ちに患者収容に準備する」。10数名の救護班員で1300名を扱う。「3日間の仮収容中に死亡した人が今私の手元にある当時の手帳に64名を数える」 |
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「被爆体験記」(福岡市原爆被害者の会(編)、85052501) |
井藤清晴 |
兵器補給廠で被爆 |
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「被爆体験記」(福岡市原爆被害者の会(編)、85060901) |
沖本謙次郎 |
兵器廠事務所軒下で被爆。兵器廠の木造建物(長さ100メートル位)が倒壊。 |
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「子孫におくる劫火の跡」(甲田町被爆者の会、85070101) |
井上俊郎 |
陸軍兵器補給廠自動車隊の軍属。6日は発熱のため休暇をとっていた。7日入市。 |
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「子孫におくる劫火の跡」(甲田町被爆者の会、85070101) |
平田重一 |
兵器補給廠徴用工員。陸軍共済病院に入院中被爆。 |
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「核兵器全面禁止をめざして」(原水爆禁止香川県協議会、85072004) |
宮原正司 |
勤務先の陸軍兵器廠で被爆。 |
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「きのこ雲 第3集-山梨県被爆者の体験文集」(山梨県原水爆被害者の会(甲友会)(編)、85072101) |
原田積 |
兵器補給廠中部139部隊から兵器補給廠へ配属。集会所2階で朝食中被爆。床の一部が吹き飛び、4メートル下のコンクリート上に落下。「兵器廠構内に避難された数百人の罹災社の大半は、火傷を受け重傷者が多く、毎日数人ずつの死者が出ており、全くこの世の地獄そのものでした。」 |
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「平和」(摂津市市長公室企画課、85080105) |
平田喜八郎 |
霞・兵器補給廠勤務。 動員学徒東南門近くの倉庫入口で被爆 |
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「原爆」(千代田町原爆被害者の会、85080602) |
亀本勇 |
兵器補給廠で歯科軍医待遇。包ケ浦分廠に派遣。「包ケ浦分廠には当時五百人余りの工員と一個分隊の兵士がおり、」「軍医とともにモーターボートで広島に急ぎ直行」。「最初は兵士達に患者の住所氏名を聞かせ、尋ねて来る親、兄弟、知人の判り易いように紙に書き、掲示板に貼っていた。私も百人近くの住所氏名を書きとめたが、今は記憶にない。死体はトラックで大河の方面で火葬にしたとの事だ。6日間治療にあたったが、・・・」「3日目頃で薬も底をついた。大混乱の中でも、兵士を先に治療して、地方人はあとまわしにするよう上司より司令が来たが、・・・」 |
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「閃光の証言」(広島県歯科医師会、85120101) |
原田みどり |
兵器補給廠付の陸軍看護婦。 |
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「あのとき閃光を見た 広島の空に」(広島市教育委員会、86033304) |
沖田春好 |
陸軍兵器補給廠勤務中隊八田隊所属。朝食中被爆。「補給廠には兵器倉庫が10兵庫あったので、地方の人を収容することができた。ほとんど倉庫一ぱい収容して援護に当たる」「夜は電気がこないのでローソク一本で不寝番に立つ」。 |
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「原爆の追憶」(広島県芸北町原爆被爆者の会編、86080608) |
吉川広二 |
霞町・兵器廠「爆風により大きな窓硝子は全部吹き飛び、二間幅の大戸の鉄の扉も吹き飛んで、将校さんがその下敷きになりうめき声をあげていられるので、大急ぎで一五人くらいの人で扉を持ち上げ、」「突然の混乱状態で廠内の作業もできなくなり、元気な者は建物の中に仮病室を作る作業になり、また自由に廠内の中に出入りできる指令が出されました。」「一時間あまりの間に何千人かと思う人が避難して来て、建物の中は足の入れ場のない状態となりました。 |
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「原爆の追憶」(広島県芸北町原爆被爆者の会編、86080608) |
尾形隆憲 |
補給廠建物内で被爆。 |
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「被爆体験手記集」(松戸市原爆被爆者の会編、86091501) |
今永有美 |
2才の母は兵器補給廠に勤める祖母とともに被爆.祖母の話 |
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「赤いトマトの思い出」(三和中学校、広島市立三和中学校平和教育部会、87030101) |
古谷光則 |
「8時からの朝礼と廠長の訓示が終り、事務室に帰り窓際の机に着いた途端に」被爆。「幸い物資のたくさんあった部隊なので、素早くサラシ布を2,3巻腰に巻いてあげ、肩にもタオルのように掛けてあげ、あとは山と積んだ食用油入りの1斗缶を切って、焼けただれた身体に流すように塗ってあげる程度のこと」 |
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「被爆体験記-炎の叫び」(世羅西町原爆被害者協議会、87060101) |
宇根利枝 |
陸軍兵器廠兵器廠の保母,預かっていた30人の乳幼児を必死で捜す。 |
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「ヒロシマ・ナガサキの群像」(広島・長崎の証言の会、汐文社(発売)、87072001) |
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(匿名)女子挺身隊で兵器補給廠勤務。 |
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「はまゆう第2集-結成15周年記念」(横浜市被爆者の会(浜友会)、87080101) |
浜田のぶ |
女学校卒業後挺身隊員として広島兵器廠輸送課勤務。8時からの朝礼後、被爆。 |
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「はまゆう第2集-結成15周年記念」(横浜市被爆者の会(浜友会)、87080101) |
空博行 |
前出 |
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「原爆を撮った男たち」(「反核・写真運動」編、草の根出版会、87080603 |
深田敏夫 |
前出 |
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「原爆を撮った男たち」(「反核・写真運動」編、草の根出版会、87080603 |
境寿一 |
比治山広島兵器廠本部付。比治山に大規模の地下防空壕構築中。「運輸廠、被服廠、兵器廠と隣接して、大奥は互いに連結され、大会議室も出来ておりトラックも出入り出来るよう、壕の構築には昼夜交替の突貫工事中でした。 |
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「広島・長崎原爆被爆体験記」(長門・大津原爆被爆者友の会編、長門時事新聞社、87080611 |
奥西妙子 |
勤務先の兵器補給廠で被爆 |
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「原爆被爆者の叫び」(久井原爆被害者の会、88010101) |
田丸昭三 |
勤務先の兵器補給廠で被爆 |
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「原爆被爆者の叫び」(久井原爆被害者の会、88010101) |
浅井一美 |
陸軍兵器廠勤務。ホーム(宇品線の引っ込み線)で掃除をしているとき被爆。 |
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「21世紀への伝言-ヒロシマ・ナガサキからの証言」(宇部市・小野田市原爆被爆者協議会、88070301) |
下瀬睦夫 |
陸軍兵器補給廠で被爆。 S62.1.27、死亡。 |
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「21世紀への伝言-ヒロシマ・ナガサキからの証言」(宇部市・小野田市原爆被爆者協議会、88070301) |
山本貫一 |
前出 |
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「原子雲の下に生きつづけてLiving Under the Atomic Cloud」(渡辺礼一、全電通原爆被爆者協議会、89070104) |
小林清二郎 |
広島陸軍兵器補給廠岡山分廠の救援隊。5-60名とともに8日入市。 |
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「原爆へ平和の鐘を(第二巻)-奈良県原爆被害者の手記」(奈良県原爆被害者の会(わかくさの会)、90011001) |
守屋勇 |
広島陸軍兵器廠配属。 |
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「福山市原爆死没者慰霊碑建立記念誌・原爆被爆体験記」(福山市原爆死没者慰霊碑建立委員会・福山市原爆被害者の会、90040101 |
和田タカ |
前出 |
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「句集被爆馬」(和田タカ、90042501) |
下江カツ子 |
兵器支廠軍属として勤務。仕事前の掃除中被爆。「1号館から12号館まで、赤レンガで造られた倉庫は平気で建っていた」「8号館が救護所になっていた」 |
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「木の葉のように焼かれて第24集」(新日本婦人の会広島県本部、90072001) |
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(聞書1)兵器廠営庭で被爆 |
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「閃光は消えず-被爆者聞き書き」(松岡克昌編、勁草出版センタ-、90072004) |
内藤博己 |
広島陸軍兵器補給廠所属の兵士。2階が兵舎で下が倉庫。2階で朝食準備中被爆。「前の倉庫の屋根のスレート瓦が吹き飛び、窓ガラスや整頓棚の帽子軍服履物等が二階の兵舎から屋外に吹き飛んだ。」「怪我人を兵舎の下の倉庫に収容する。その数約百人。3日後にはほとんど死亡した」) |
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「ピカドン第2集-終りなき闘い・被爆45周年記念誌」(神石郡原爆被害者協議会、90080601 |
木村紀彦 |
広島陸軍兵器補給廠技術将校。7日入市。ホノルル市在住。 |
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「平和への願いをこめて-原爆ドームに寄せられた手紙」(広島平和文化センタ-、90100101) |
岡野健 |
修道中学3年生。動員先の兵器補給廠で被爆。 |
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「被爆の証言-広島・長崎」(大阪府原爆被害者団体協議会編、91030101) |
縫部貞彦 |
修道中学4年生。動員先兵器補給廠内で被爆。 |
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「被爆者の声」(坂町教育委員会、91080601) |
相原員恵 |
兵器補給廠の軍属。当日は公休日。 |
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「原爆-体験記録第3集」(府中市原爆被害者の会、91080603) |
TA |
兵器補給廠への志願兵。海田市の支廠配属 |
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「原爆-体験記録第3集」(府中市原爆被害者の会、91080603) |
平山郁夫 |
「兵器廠での私立修道中学3年生の仕事は、弾薬箱用の材木を整理し、搬入することだった。午前8時に点呼を受け、本廠から少し離れた材木置き場に駆け足で移動した。そこに着いたのが8時12,3分だったろう。5、6人いた同級生たちは小屋に入って、着替えや準備を始めた。」 |
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「道遥か-自伝画文集」(日本経済新聞社、91112501) |