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広島市戦災復興事業誌(目次)

戦災復興事業誌(広島市都市整備局都市整備部区画整理課、19950104)目次

章節項 事項 備考
口絵
あいさつ(平岡敬広島市長)
あいさつ(藤田雄山広島県知事)
発刊に当たって(広島市都市整備局長)
1 戦前の都市づくり
1-1 城下町時代の都市づくり
1-4 被爆そして復興
2-2 応急対策
2-2-1 原爆死没者の改葬事業
2-2-4 危険建造物処理事業-除却の対象となっていた原爆ドーム
2-2-7 広島平和記念都市建設法の制定
2-2-8 広島平和記念都市建設計画
2-2-9 広島平和記念都市建設法の効果
5 戦災復興土地区画整理事業の実施状況
5-3 建物移転
5-3-1 不法建築物による事業の遅延
5-4 街路事業
5-4-3 百メートル道路(平和大通り)
5-10 平和記念施設
5-10-1 平和記念資料館(陳列館)
5-10-2 平和記念館(本館)
5-10-3 広島市公会堂
5-10-4 原爆死没者慰霊碑
5-10-5 原爆ドーム

燃料会館(平和記念公園レストハウス)

燃料会館(平和記念公園レストハウス)

燃料会館(現在*平和記念公園レストハウス)  竣工時:大正屋呉服店
*出典『ヒロシマの被爆建造物は語る』発行当時(1996年3月31日)
爆心地からの距離 0.17キロメートル
所在地(旧町名) 中区中島町1-1(中島本町)
竣工時期  192903
構造/階数 鉄筋コンクリート造/3階建・地下1階
設計者/施工者 増田清/清水組

略年表

年月日 事項 備考
19920619 市長にレストハウスの保存要請
19920916? 旧燃料会館(レストハウス )の保存を考える「語り部の会」(代表世話人:栗栖洋)「趣意書」発送・賛同協力依頼。
19921206 「旧燃料会館」の保存を考える集い
19930630 「旧燃料会館の保存を考える」集い
19930715 「元大正屋呉服店を保存する会準備会」、市長室次長に申し入れ。
19930924 「元大正屋呉服店を保存する会」発足(代表3名)
19931127 第3回「旧燃料会館の保存を考える」集い、署名開始。
出典:『原爆遺跡保存運動懇談会10年の歩み(1990~2000)』(原爆遺跡保存運動懇談会)
<以下未入力>
19980517 地下室調査(原爆遺跡保存運動懇談会フィールドワーク)

 

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地下室調査(原爆遺跡保存運動懇談会フィールドワーク、1998年5月17日)

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資料

資料名 備考

 

 

広島平和記念都市建設法と平和への歩み(宇吹)

特集 広島平和記念都市建設法制定60周年(『平和文化』No_172、201006)

宇吹暁「広島平和記念都市建設法と平和への歩み」

平和都市法
広島平和記念都市建設法(以下、平和都市法と略称)は、その目的を、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設すること」(第1条)としている。
法制定に尽力した広島市出身の寺光忠参議院議事部長によれば、その趣旨は、次のとおりである(寺光忠『ヒロシマ平和都市法』、中国新聞社刊、1949年)。
日本は、新憲法において、あきらかに、戦争の放棄を宣言している。この恒久平和の人間理想を象徴し、同時にまた、わが戦争の放棄をも象徴するものとして、1つの都市を、この地上につくりあげるということは、日本の歴史においてはもとよりのこと、世界史的にみても大きな意義をもつものであろう。
平和都市法は、その後、国庫補助率の引き上げや国有財産の譲与などの形で、広島市の復興に大きく寄与した。また同時に、広島市の都市建設に、政府が今日に至るまで関心を寄せ続ける契機となった。1952年・53年に当時の内閣総理大臣であった吉田茂の広島市平和式典に寄せた式辞が残っているが、いずれにおいても、「世界の平和を目指して、民主々義に基く、文化国家を建設することは、わが国憲法の理想とするところであり」、「新しい広島市の建設」は、「平和的文化的なる日本国家の成長を表徴するもの」と平和都市建設の国家的意義を明らかにしている。その後も、総理大臣の挨拶のほとんどで、広島市の「平和都市」(1979年からは国際平和文化都市)建設への努力に敬意が表明されている。
戦災復興としての政府の事業は、1960年代後半に一応の収束を見る。しかし、この法律の精神は生き続けており、2000(平成12)年5月にも、この法律を適用することにより、爆心地近くの貴重な被爆建物である旧日本銀行広島支店が、国の重要文化財に指定されることを条件に、広島市へ無償譲与されることが決定された。
「被爆国」という言葉が、国内で広く使用されるようになるのは、1954年3月のビキニ水爆被災事件以降のことであるが、平和都市法の成立と展開の背景には、議会や政府の「被爆国」としての自覚を確認することができる。また、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法と略称。1957年4月施行)や閣僚・総理大臣の平和式典への参列(1960年代半ば以降)、広島・長崎両市への国立原爆死没者追悼平和祈念館開設(2002年、03年)など、政府による原爆被害への新たな関与を通して、「被爆国」という認識の内実が形成されていると考えることができよう。
平和都市法が公布・施行(1949年8月6日)された当日に広島市長が読み上げた平和宣言には、次の文言がうたわれていた。
この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。
永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう。
これと同じ文言は、1947(昭和22)年の第1回平和祭(広島市平和記念式典の始まり)での平和宣言および翌年の宣言にも確認することができる。このことを考えれば、平和都市法は、広島市の意思が「法律の形式においてあらわされた、国民の意思の表明」(寺光前掲書)に高めたものといえよう。
寺光の構想がそのまま法律になったわけではない。彼は、法律名にある「広島」、「記念」、「建設」について、それぞれ、「一地域を限る特別法という感じを与える」、「原子爆弾を追想させたり又は戦災復興を連想させたりするだけ」、「物的な建設事業だけを目的としているかのよう」と違和感を述べ、ただの「平和都市法」が良いとしている。
広島の復興と原爆遺跡
戦前の広島市には、「大本営跡、旧御便殿、広島行在所跡、第7回帝国議会仮議場跡、頼山陽旧居、国宝広島城、縮景園、広島護国神社、饒津神社、国泰寺等由緒深ひ史蹟等」があり、全国から観光客を引き付けていた。しかし、これらは「昭和20年8月6日の戦災により潰滅」した(『広島市勢要覧 1947年版』)。そのかわりに「新しい観光資源」と考えられたのが、「爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンク」といった「原爆記念保存物」である(『同要覧 48年版』)。
広島市の企図は当たり、「日本に来遊する国際観光客の殆んどが広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールに組入れ」たため、「外客専用の観光ホテルの設置が強く要望」された(『同要覧 49年版』)。
このような『市勢要覧』の記述は、広島市の都市復興の過程で、原爆遺跡が観光資源という大きな役割を担っていたことを示している。ところが、広島市の原爆遺跡に対する関心は、平和都市法の施行後、次第に薄れて行く。その代わり、新たな観光資源として「広島平和記念都市そのもの」や「原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して、8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室」(1955年に広島平和記念資料館として開館。通称「原爆資料館」)などが登場する(『同要覧 49年版』)。その後の『市勢要覧』を見ると、「平和記念館」・「原爆資料館」・「平和大橋」「慰霊碑」など、平和都市法に基づいて建設された施設が新たに加わってゆく。1950年の市勢要覧の表紙は、原爆投下の目標となった相生橋と思われる橋の向こうに近代的なビルが並ぶ図柄であり、本来存在するはずの「旧産業奨励館」(原爆ドーム)の姿はない。

50年度版には原爆ドームが消えている!!!

1948年版
48
1949年版
49
1950年版
50

広島市が原爆ドームの保存に乗り出すのは、1966年のことである。それまで保存に消極的だった浜井信三市長が保存募金活動では先頭に立った。しかし、浜井の場合、原爆ドームを「唯一」の「原爆の跡」と考えており(浜井の原爆ドームの保存に向けた「訴え」)、他の遺跡に目が向くことはなかった。
被爆資料は、一般に、「原爆の痕跡をもつ資料」と考えられてきた。ところが、1979年には、必ずしも被爆の痕跡を残していない「被爆樹木」が、さらに1985年には解体された広島市庁舎の礎石である「被爆石」も被爆資料と考えられるようになった。これは、被爆資料の基準が、「被爆の痕跡」から「被爆当時に存在していたもの」に変化したことを示している。

平和都市の現状と役割
平和都市広島の政府とのつながりは、復興のための都市計画でいえば建設省(現在の国土交通省)から始まり、1970年代後半からの国際的な反核運動の高まりの中で、外務省と密接な関係を持つようになる。被爆40周年に当たる1985年に、広島市は長崎市とともに、初の「世界平和連帯都市市長会議」を開催し、政府レベルとは別に、都市同士の連帯による平和構築の努力を積み重ねている。さらに近年では、文化庁(文部科学省)との関わりを深めている。平和都市施設の中核をなす原爆ドーム・広島平和記念資料館・広島平和記念公園は、同省によりそれぞれ史跡(1995年6月)、重要文化財(2006年7月)、名勝(07年2月)に指定された。このうち、原爆ドームの史跡指定は、世界遺産リストへの登録へ向け、それまでの史跡の基準を変更しての指定であり、残る2件の指定も、戦後の建築物として、また、戦後建設された公園として初の指定であった。
文化財としての評価は、とりもなおさず平和都市が歴史的な扱いを受けていることである。歴史化する平和都市には、新たな歩みが求められるであろう。原爆遺跡は原爆ドームだけでない。旧日銀広島支店やアンデルセン、レストハウスなど広島の遺跡にとどまらず長崎の遺跡をも巻き込む世界遺産の拡大登録が考えられないだろうか。広島の景観は、城下町の軍事都市化、原爆と復興により大きな変貌をとげ、さらには現在の都市再開発で新たな変化の波に直面している。平和都市の景観はどうあるべきか、近代のみならず近世の文化を貫いて見直す視点の出現も期待される。

広島平和記念資料館平和データベースの中の「原爆ドーム」

広島平和記念資料館平和データベースの中の「原爆ドーム」  検索年月日:2020年1月7日http://www.pcf.city.hiroshima.jp/database

分類 件数
被爆資料 403件
写真 60件
原爆の絵 86件
美術品 17件
本【単行本】 551件
本【雑誌】 125件
音楽・音声 1件
動画 17件
被爆者証言ビデオ 4件

記された「兵器補給廠と原爆被災」

記された「兵器補給廠と原爆被災」

『広島原爆戦災誌』の記述

第1巻

記述
45 広島陸軍兵器補給廠(長)田上吉治大佐
65 「8月10日、広島兵器補給廠において陸海軍が研究会を開催」
208 兵器補給廠において4,000人分・・・・ の炊出しを実施
211 昭和21年9月には、似ノ島の元陸軍兵器補給廠似島倉庫および旧陸軍運輸部似島倉庫を改築して、「広島県戦災児教育所似島学園」が開設され・・・・
237 8月9日・・・・電話工事の為9米電柱約300本を兵器補給廠より補給を受けた。
295 (陸軍軍需輸送)統制部の機構は、庶務班(班長・小林吾一大尉)・暗号班(班長・長谷川通雄見習士官)・統制班(班長・田村治郎大尉)からなり、広島市内では、兵器補給廠・糧秣支廠・被服支廠をはじめ、この三廠の出先機関(倉庫)である安芸郡海田市町の、兵器・被服・糧秣・需品・衛生材料・航空(燃料)・獣医材料各廠を管轄下において活動していた。
298 被服廠も兵器廠も、流れこんだ避難者をかかえこんだまま、門をとざして、周囲の状況を見守っている所へ、田村大尉が到着した。田村大尉は、ただちに門をあけさせ、大本営命令として、被害状況を報告させると共に、救援態勢に入るよう告げた。このとき、午前9時ごろであった。
535 (53か所の仮救護所に被服廠はあるが、兵器廠はなし)

 

第2巻

記述
403 路傍でたくさんの人々が倒れたので、(比治山東裏一帯の)町内の者は協力し、負傷者もろとも霞町の兵器支廠(臨時救護所)にどんどん運んだ。
458 出汐町の被服支廠と霞町の兵器支廠には、1階2階ともに負傷者がいっぱいに収容せられ、つぎつぎと死亡したが、氏名の判明したのは荷札をつけておいて、付近の広場で火葬した。
486 軍の被服支廠・兵器支廠も自由に、その門扉を開放し、続々と増加する負傷者の収容と治療に応急処置を構じた。
487 溝口悦子「兵器支廠にて」(県立第一高女3年生、学徒動員で兵器廠事務室にて作業中被爆)「患者の大部分が女学校の1,2年生で・・・」、「その晩は「全作業員は廠内に詰めきり勤務を命ず」という命令が出て、待避壕の上で一夜を明かしました」
495 昭和21年6月22日、陸軍兵器支廠に広島県庁が移って来た。

 

第4巻

記述
口絵 深田敏夫撮影原子雲4葉(兵器補給廠の2号館2階西側の窓から撮影)
216 (比治山国民学校)北校舎の階下7教室は、兵器支廠の兵器貯蔵庫として使用していた。
437 (修道中学校)兵器補給廠に教員5人、3年生実務科生306人動員。(弾薬製造・兵器整備)
1.弾薬製造部は、佐伯郡宮島町包ケ浦にあり、教諭2人と生徒30人がこの地に配属1.弾薬製造部は、佐伯郡宮島町包ケ浦にあり、教諭2人と生徒30人がこの地に配属された。
2.被爆による死亡生徒3人。
3.教諭1人は中国5県報国隊長特別軍事講習のため10日まで安芸郡船越国民学校に出張中。
456 (崇徳中学校)兵器支廠に教員1人、生徒60人動員。

 

第5巻

記述
608 1.兵器補給廠(経済保安課)・・・・霞町  ガソリン、油、軍刀、双眼鏡(通信機械)

「昭和20.8.22午前10時 日本製鋼所広島製作所における軍需物資転用に関する打合会記録」の一部

825 8月6日広島空襲ニ対スル研究会議事概要
1.日時・場所 8月10日 於広島陸軍補給廠
992 深田 敏夫=崇徳中学在学中学徒動員令で陸軍兵器廠に出動。繰り上げ卒業後もそのまま、同廠で勤労。兵器廠2号館西口で被爆。兵器庫2階の北側の窓からきのこ雲を撮影。「午前10時ごろであったか、動員学徒に対して、家に帰れる者は帰れとの指示が出た」
997 空 博行=兵器廠3号兵器庫2階で朝食中被爆。「兵器廠では、車両庫3棟を開放して、これらの人々を収容した。廠内には小さな診療所があったが、軍医も看護婦もおらず、衛生曹長が所長格で、作業員の小さな傷や風邪の手当をほどこすのが精いっぱいという貧弱な施設であった。そこで、兵器廠の無傷の作業員が総動員で救護にあたった。タネ油は兵器の手入れに使用していたので多量にあり、火傷の手当に使った。」

 

『広島県史原爆資料編』の記述

記述
106 広島県「戦災記録」(8月8日総軍連絡会議における補給廠代表の発言)
(4.小運送)油ガ無ケレバ補給廠ニテ出ス
補給廠ハ6日4,000食、7日4,000食、8日2,000食同廠付近ニテ配給
251 修道学園「原爆被災記録参考書類」(8月8日の項)
兵器補給廠ハナルベク13日ニトノ希望アリタルヲ以テ13日午前8時集合但シ罹災負傷ノタメ止ムヲ得ヌ者ハ15日ニ集ルトイフコトニシ、罹災生徒ハ勿論家族モ収容シ一時作業ヲ手伝フ形ニシテ見テヤストノ廠長ノ意志ヲ伝ヘラレタリ。詳細ニツイテハ打合セノ予定ナリ(以上景山報告)
526 「清水栄日記」(8月10日の項)
会議終了後、補給廠よりトラックにて船舶司令部の少佐が案内役にて市内を巡察したり。・・・・その日、補給廠で一泊する予定なりしも・・・・(8月13日の項)その夜、補給廠で夕食、・・・・
598 「篠原健一メモ」(8月10日の項)
補給廠(中央等ヨリノ調査団ニ会フ中ニ仁科博士、荒勝教授アリ、阪大浅田教授ニモ会フ)晩補給所ニ泊ル

 

原爆手記の記述

著者 記述概要

<掲載書・誌>

温品道義 陸軍兵器補給廠警防手。明治橋西詰路上(水主町)で被爆
「原爆に生きて」(原爆被害者の手記編纂委員会、三一書房、53062501)
大畠文衛 霞町兵器廠で被爆
「原爆十年」(広島県社会保険診療報酬支払基金、55083301)
福井静子 霞町兵器廠で被爆。挺身隊
「あの日あの時」(兵庫県原爆被害者の会、62052701)
温品道義 前出
「原爆許すまじ」(広島県被爆者の手記編集委員会編、新日本出版社、65070501)
中尾己次 勤務先の兵器廠で被爆
「原爆広島消防史」(広島市消防局原爆広島消防史編集委員会編、広島市消防協力会、75070101)
田室藤登 兵器廠敷地内で被爆。女学生。動員学徒
「悪魔の銀のサイコロ」(国際平和教育研究会(広島大学教育学部付属小学校内)編、教育出版センター、75080607)
増田照代 比治山町民家の兵器廠女子挺身隊として勤務
「木の葉のように焼かれて第11集」(木の葉のように焼かれて編集委員会、新日本婦人の会広島県本部、77080101)
景岡正幸 兵器廠内で被爆。「兵器廠は比治山の影になり大勢の怪我人は出たけれど死亡者は一人もなかった」
「暗い青春」(廿日市中学校平和教育推進委員会、78023301)
朝枝憲雄 広島兵器廠学徒寮舎監助手。市内で被爆。「廠内では死亡者を重油で焼いてお骨にしているとの情報が入った」
山本貫一 勤務先の兵器補給廠で被爆。夜間校4年。「負傷者は兵隊さんや我々工員の手で7号館に収容されることになった」「8月9日、呉海軍病院から調査のためえらいさんが見えられた。爆弾の影響調査のため5名の工員が選出され私もその一員となった」「10日以降は構内の死体を集め、構外の疎開跡地で火葬にふした」「それ[8月15日]から4,5日後、私達工員は全員職を解かれた」
「原子雲の下に生きつづけて第6集」(全電通被爆者連絡協議会、78080501)
森永晃二郎 陸軍兵器廠勤務中隊に在籍。可部線布の弾薬の衛兵。8日交替し同日入市。「本廠は爆心地からわずか比治山の蔭になるため煉瓦造の二階建兵舎は棟が折れたように残っていたが危険で使用はできず我々は天幕で就寝するようになった。また、電気水道は全然駄目となり飲料水は廠内の防火用水が唯一のものとなり、」
「原爆被爆体験記」(芝山宏編、京都府原爆被災者の会、79113301)
沖正夫 市立工業学校1年。動員先の兵器廠で被爆。火傷。
「人類の明日のために-広島原爆記録集」(天理教広島教務支庁編、天理教道友社、80070101)
八百村イシ子 勤務先の兵器補給廠で被爆。
「渇き第2号-被爆体験文集」(徳山被爆者の会、80073303)
平山郁夫 修道中学3年。兵器補給廠に学徒動員。
「悠久の流れの中に」(平山郁夫、佼成、80091502)
和田タカ 勤務先の兵器廠炊事場で被爆。「翌日から、勤務先の兵器廠で被災者への炊き出しをいたしました。・・・・約1週間、夜は比治山下の防空壕へ帰って眠りました。」「私の勤務先の兵器廠倉庫4棟は臨時病院となって、被災者がぞくぞく運び込まれてきました」「兵器廠の裏庭のあちこちに兵隊さんが大きい穴を掘って、遺体を何人も重ねては油をかけて火葬されていました」「兵器廠は解散になり、9月20日付で退職しました」
「紙碑」(広島原爆被爆者援護事業団編、81072002)
空博行 前出
「広島壊滅のとき」(広島原爆被災撮影者の会編、81080101)
深田敏夫 前出
「広島壊滅のとき」広島原爆被災撮影者の会編81080101
川本充 兵器廠包ケ浦工場の動員学徒。入市。自宅は市内。
「広島市医師会だより8月号」81081503
池崎五十登 日通の材木係長。兵器補給廠日通派出所で被爆。
「ピカに灼かれて-被爆体験記第5集」(広島医療生活協同組合原爆被害者の会など、81083301)
森本昌利 技術少尉。兵器補給廠で被爆。数百人を治療。
「生と死-ヒロシマ・ナガサキから」(徳島県原爆被害者の会、82080101)
岡野健 修道中学3年。動員先の兵器補給廠正面玄関右50米位の所で被爆。火傷。
「原子雲」(大阪府原爆被害者団体協議会、82113301)
遠藤金義 広島兵器補給庫第一勤務中隊所属。東雲町・広島兵器補給庫で被爆。
「原爆と地獄-被爆体験文集」(鳥取県原爆被害者協議会、83020101)
三井宗光 陸軍兵器廠運転手。廠内で被爆。
「はらおぐさ-原小草開園10周年記念特集」(特別養護老人ホーム清鈴園編、 西中国キリスト教社会事業団、83070101)
大永頼男 陸軍兵器補給廠隊長室前に整列している時、被爆。「間もなく隊長命令で、担架を持ち、比治山の横穴に逃げ込まれた人々を、兵器廠の庭に収容し、昼になったのでムスビと漬物を、くばって歩いて回った」
「原爆」(府中市原爆被害者の会、84063001)
河野千寿 兵器廠医務科の事務見習い。比治山の洞窟内医務科で被爆。「翌日になると、怪我人の数はさらにふえた。兵器廠の中にあるたくさんの倉庫の中はもちろんの事、屋根のある所にはこれ以上人の入る余地はなくなってしまった。」「この兵器廠の庭すみには、むしろを被せた死体が日一日と増え、肉親の安否を気づかう人達が、一枚一枚むしろをめくって歩いている。」「人間の姿とも思えない怪我人に配って歩くと、まるで餓鬼のように奪いあう」
「子供たちに残す戦争体験」(新潮45+編集部編、新潮社、84071502)
後藤初人 兵器補給廠所属軍人。廠内の食堂で朝食をすませ、自動車部品倉庫に行く途中被爆。
「炎の墓標」(三和町被爆者友の会、84080603)
日出山能市 陸軍兵器廠海田分所の工員。分所で100人位は収容・救護。6日入市。
「被爆体験記3」(船越原爆被害者の会.広島市船越公民館共編、84100101)
戸津川雅人 兵器廠自動車輸送部勤務。動員学徒3名をトラックに乗せて出廠し、稲荷橋付近で被爆。
「紙碑 被爆老人のあかし 第2集」(広島原爆被爆者援護事業団[編]、85052501)
川畑ユキヨ 勤務先の兵器廠の炊事場で被爆。
「紙碑 被爆老人のあかし 第2集」(広島原爆被爆者援護事業団[編]、85060901 )
田口正秋 兵器補給廠食堂で朝食中被爆。「補給廠の医務課長は肺結核で入院中であり課の責任は代理の私にあった」。23才の救護班長。「兵器庫2棟を直ちに患者収容に準備する」。10数名の救護班員で1300名を扱う。「3日間の仮収容中に死亡した人が今私の手元にある当時の手帳に64名を数える」
「被爆体験記」(福岡市原爆被害者の会(編)、85052501)
井藤清晴 兵器補給廠で被爆
「被爆体験記」(福岡市原爆被害者の会(編)、85060901)
沖本謙次郎 兵器廠事務所軒下で被爆。兵器廠の木造建物(長さ100メートル位)が倒壊。
「子孫におくる劫火の跡」(甲田町被爆者の会、85070101)
井上俊郎 陸軍兵器補給廠自動車隊の軍属。6日は発熱のため休暇をとっていた。7日入市。
「子孫におくる劫火の跡」(甲田町被爆者の会、85070101)
平田重一 兵器補給廠徴用工員。陸軍共済病院に入院中被爆。
「核兵器全面禁止をめざして」(原水爆禁止香川県協議会、85072004)
宮原正司 勤務先の陸軍兵器廠で被爆。
「きのこ雲 第3集-山梨県被爆者の体験文集」(山梨県原水爆被害者の会(甲友会)(編)、85072101)
原田積 兵器補給廠中部139部隊から兵器補給廠へ配属。集会所2階で朝食中被爆。床の一部が吹き飛び、4メートル下のコンクリート上に落下。「兵器廠構内に避難された数百人の罹災社の大半は、火傷を受け重傷者が多く、毎日数人ずつの死者が出ており、全くこの世の地獄そのものでした。」
「平和」(摂津市市長公室企画課、85080105)
平田喜八郎 霞・兵器補給廠勤務。 動員学徒東南門近くの倉庫入口で被爆
「原爆」(千代田町原爆被害者の会、85080602)
亀本勇 兵器補給廠で歯科軍医待遇。包ケ浦分廠に派遣。「包ケ浦分廠には当時五百人余りの工員と一個分隊の兵士がおり、」「軍医とともにモーターボートで広島に急ぎ直行」。「最初は兵士達に患者の住所氏名を聞かせ、尋ねて来る親、兄弟、知人の判り易いように紙に書き、掲示板に貼っていた。私も百人近くの住所氏名を書きとめたが、今は記憶にない。死体はトラックで大河の方面で火葬にしたとの事だ。6日間治療にあたったが、・・・」「3日目頃で薬も底をついた。大混乱の中でも、兵士を先に治療して、地方人はあとまわしにするよう上司より司令が来たが、・・・」
「閃光の証言」(広島県歯科医師会、85120101)
原田みどり 兵器補給廠付の陸軍看護婦。
「あのとき閃光を見た 広島の空に」(広島市教育委員会、86033304)
沖田春好 陸軍兵器補給廠勤務中隊八田隊所属。朝食中被爆。「補給廠には兵器倉庫が10兵庫あったので、地方の人を収容することができた。ほとんど倉庫一ぱい収容して援護に当たる」「夜は電気がこないのでローソク一本で不寝番に立つ」。
「原爆の追憶」(広島県芸北町原爆被爆者の会編、86080608)
吉川広二 霞町・兵器廠「爆風により大きな窓硝子は全部吹き飛び、二間幅の大戸の鉄の扉も吹き飛んで、将校さんがその下敷きになりうめき声をあげていられるので、大急ぎで一五人くらいの人で扉を持ち上げ、」「突然の混乱状態で廠内の作業もできなくなり、元気な者は建物の中に仮病室を作る作業になり、また自由に廠内の中に出入りできる指令が出されました。」「一時間あまりの間に何千人かと思う人が避難して来て、建物の中は足の入れ場のない状態となりました。
「原爆の追憶」(広島県芸北町原爆被爆者の会編、86080608)
尾形隆憲 補給廠建物内で被爆。
「被爆体験手記集」(松戸市原爆被爆者の会編、86091501)
今永有美 2才の母は兵器補給廠に勤める祖母とともに被爆.祖母の話
「赤いトマトの思い出」(三和中学校、広島市立三和中学校平和教育部会、87030101)
古谷光則 「8時からの朝礼と廠長の訓示が終り、事務室に帰り窓際の机に着いた途端に」被爆。「幸い物資のたくさんあった部隊なので、素早くサラシ布を2,3巻腰に巻いてあげ、肩にもタオルのように掛けてあげ、あとは山と積んだ食用油入りの1斗缶を切って、焼けただれた身体に流すように塗ってあげる程度のこと」
「被爆体験記-炎の叫び」(世羅西町原爆被害者協議会、87060101)
宇根利枝 陸軍兵器廠兵器廠の保母,預かっていた30人の乳幼児を必死で捜す。
「ヒロシマ・ナガサキの群像」(広島・長崎の証言の会、汐文社(発売)、87072001)
(匿名)女子挺身隊で兵器補給廠勤務。
「はまゆう第2集-結成15周年記念」(横浜市被爆者の会(浜友会)、87080101)
浜田のぶ 女学校卒業後挺身隊員として広島兵器廠輸送課勤務。8時からの朝礼後、被爆。
「はまゆう第2集-結成15周年記念」(横浜市被爆者の会(浜友会)、87080101)
空博行 前出
「原爆を撮った男たち」(「反核・写真運動」編、草の根出版会、87080603
深田敏夫 前出
「原爆を撮った男たち」(「反核・写真運動」編、草の根出版会、87080603
境寿一 比治山広島兵器廠本部付。比治山に大規模の地下防空壕構築中。「運輸廠、被服廠、兵器廠と隣接して、大奥は互いに連結され、大会議室も出来ておりトラックも出入り出来るよう、壕の構築には昼夜交替の突貫工事中でした。
「広島・長崎原爆被爆体験記」(長門・大津原爆被爆者友の会編、長門時事新聞社、87080611
奥西妙子 勤務先の兵器補給廠で被爆
「原爆被爆者の叫び」(久井原爆被害者の会、88010101)
田丸昭三 勤務先の兵器補給廠で被爆
「原爆被爆者の叫び」(久井原爆被害者の会、88010101)
浅井一美 陸軍兵器廠勤務。ホーム(宇品線の引っ込み線)で掃除をしているとき被爆。
「21世紀への伝言-ヒロシマ・ナガサキからの証言」(宇部市・小野田市原爆被爆者協議会、88070301)
下瀬睦夫 陸軍兵器補給廠で被爆。 S62.1.27、死亡。
「21世紀への伝言-ヒロシマ・ナガサキからの証言」(宇部市・小野田市原爆被爆者協議会、88070301)
山本貫一 前出
「原子雲の下に生きつづけてLiving Under the Atomic Cloud」(渡辺礼一、全電通原爆被爆者協議会、89070104)
小林清二郎 広島陸軍兵器補給廠岡山分廠の救援隊。5-60名とともに8日入市。
「原爆へ平和の鐘を(第二巻)-奈良県原爆被害者の手記」(奈良県原爆被害者の会(わかくさの会)、90011001)
守屋勇 広島陸軍兵器廠配属。
「福山市原爆死没者慰霊碑建立記念誌・原爆被爆体験記」(福山市原爆死没者慰霊碑建立委員会・福山市原爆被害者の会、90040101
和田タカ 前出
「句集被爆馬」(和田タカ、90042501)
下江カツ子 兵器支廠軍属として勤務。仕事前の掃除中被爆。「1号館から12号館まで、赤レンガで造られた倉庫は平気で建っていた」「8号館が救護所になっていた」
「木の葉のように焼かれて第24集」(新日本婦人の会広島県本部、90072001)
(聞書1)兵器廠営庭で被爆
「閃光は消えず-被爆者聞き書き」(松岡克昌編、勁草出版センタ-、90072004)
内藤博己 広島陸軍兵器補給廠所属の兵士。2階が兵舎で下が倉庫。2階で朝食準備中被爆。「前の倉庫の屋根のスレート瓦が吹き飛び、窓ガラスや整頓棚の帽子軍服履物等が二階の兵舎から屋外に吹き飛んだ。」「怪我人を兵舎の下の倉庫に収容する。その数約百人。3日後にはほとんど死亡した」)
「ピカドン第2集-終りなき闘い・被爆45周年記念誌」(神石郡原爆被害者協議会、90080601
木村紀彦 広島陸軍兵器補給廠技術将校。7日入市。ホノルル市在住。
「平和への願いをこめて-原爆ドームに寄せられた手紙」(広島平和文化センタ-、90100101)
岡野健 修道中学3年生。動員先の兵器補給廠で被爆。
「被爆の証言-広島・長崎」(大阪府原爆被害者団体協議会編、91030101)
縫部貞彦 修道中学4年生。動員先兵器補給廠内で被爆。
「被爆者の声」(坂町教育委員会、91080601)
相原員恵 兵器補給廠の軍属。当日は公休日。
「原爆-体験記録第3集」(府中市原爆被害者の会、91080603)
TA 兵器補給廠への志願兵。海田市の支廠配属
「原爆-体験記録第3集」(府中市原爆被害者の会、91080603)
平山郁夫 「兵器廠での私立修道中学3年生の仕事は、弾薬箱用の材木を整理し、搬入することだった。午前8時に点呼を受け、本廠から少し離れた材木置き場に駆け足で移動した。そこに着いたのが8時12,3分だったろう。5、6人いた同級生たちは小屋に入って、着替えや準備を始めた。」
「道遥か-自伝画文集」(日本経済新聞社、91112501)

 

 

 

フォト・ドキュメント:被爆遺跡医学部11号館の消滅

フォト・ドキュメント:被爆遺跡医学部11号館の消滅

1999年3月
10日 樹木が取り払われた南側
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10日 鉄骨が組み立てられた北側
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16日 覆いが施された西側
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23日 甍が取り払われた東側
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27日11:30 消えた屋根の中央部(北側より撮影)
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27日11:30 消えた屋根の中央部(南側より撮影)
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27日11:30 南側より撮影
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27日11:30 原医研南側の広場
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27日11:30 原医研南側の広場
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27日16:30 消える屋根の東側(北側より撮影)
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27日16:30 消えた屋根の東側(南側より撮影)
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27日16:30 消えた屋根の東側(南側より撮影)
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29日13:00 消えた屋根の東側(北側より撮影)
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29日13:00 東側(南側より撮影)
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30日08:30 消えた屋根の東側(北側より撮影)
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30日08:30 消えた屋根の東側(北側より撮影)

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1999年4月
01日08:30 消えた屋根の西側(北側より撮影)
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01日08:30 西側(南側より撮影)
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01日08:30 西側(南側より撮影)
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01日08:30 原医研南側の広場
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02日13:00 わずかに残る東壁面の下部(南側より撮影)
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02日13:00 わずかに残る東壁面の下部
(北側より撮影)
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02日13:00 ガレキの山と化した11号館(南側より撮影)
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広島県産業奨励館(原爆ドーム)

広島県産業奨励館(原爆ドーム)

現在*  原爆ドーム
竣工時 広島県物産陳列館
*出典『ヒロシマの被爆建造物は語る』
爆心地からの距離 0.16キロメートル
所在地 中区大手町11丁目10(猿楽町)
竣工時期 1915(大正4)年4月
構造/階数  レンガ造/3階建
設計者/施工者 ヤン・レツル/椋田組

 

 

広島大学霞キャンパス開発史

広島大学霞キャンパス開発
(=広島陸軍兵器補給廠の建造物消滅)の歴史

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1940年頃

原爆による建物被害(出典:経済安定本部の1948年1月調査資料)

区分 被害程度 棟数 床面積
(坪)
平均取得年次
木造 60 6,551 昭和14年
木造 92 12,720 昭和13年
耐火構造 26 10,242 明治42年

 

1957年頃(広島大学医学部・同付属病院の移転当時

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レンガ造りの建物は残り、補修工事を施した上で使用された。

1960年新病棟完成

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出典:『広島大学25年史・部局史』。

資料:新病棟建設の経緯

 ABCCは、数年間にわたり、広島および長崎の学術指導者として協力して、広島・長崎両大学に原爆被爆者に対する診療施設を設置するために米国より助成金を求める計画に努力した。この計画の達成は、予想以上に手間どり多くの困難があったが、1960年1月米国大使と日本国外務大臣との間で、各大学に300,000ドル(108,000,000円)を寄付することを確認する覚書が交換された。
『原爆傷害調査委員会年報60-61』より
昭和35年[1960年]度政府予算案に本学付属病院の増築計画が組み入れられた。この計画予算は、1億1000万円で米国政府から贈与される予定の「余剰農産物売上げ積立金」を財源にしたものである。昭和35年9月に始められた新病棟建設工事は翌36年6月に完成した。本学初めての鉄筋5階建て新病棟(約3300平方メートル)の落成式は、同年10月19日に駐日アメリカ大使ライシャワー氏夫妻の出席を得て、盛大に行われた。
『広島大学医学部30年史』より

新しい建物が望まれた

原爆放射能医学研究所が入った3号館(1963年3月)
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広島大学原爆放射能医学研究所玄関(1962年3月)『広島大学原爆放射能医学研究所年報第3号』より。

霞キャンパスの諸施設の改修・建設経緯

着工-完工 施設名 旧兵器補給廠の建物
1960.9-61.6 病棟(5階、現西病棟)の新築 16号館取り壊し?
1961.10-62.4 3号館、10号館の改修
1962?-63 11号館の改修
1963-65.3 付属病院中央診療棟(3階)の新築
-67.12 医学部解剖実習室の新築
-68.2 医学部付属病院病棟(8階)の新築
1969.11-70.6 実験室、講義室の新築 4号館の全部、1・2号館の一部が取り壊し
-71.3 医学部基礎研究棟(9階)の新築
1971.12-73.2 臨床研究棟、臨床講義棟の改築 7号館の全部、5号館の一部が取り壊し
1973-76? 外来棟、中央診療棟の改築 10号館の全部と8号館の一部が取り壊し
1974.3-74.3 薬学科校舎の新築
『広島大学医学部30年史』より。

 

1975年?
(まだ、1・3・5・6・8・10・11号館が残っていた。)

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『広島大学医学部30年史』より

1998年5月
(現在、唯一残っている11号館東側)

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広島陸軍兵器補給廠第11兵器庫

広島陸軍兵器補給廠第11兵器庫

現在* 広島大学医学部医学資料館・緑風会食堂
*出典『ヒロシマの被爆建造物は語る』発行当時(1996年3月31日)
爆心地からの距離 2.75キロメートル
所在地 南区霞1丁目2-3(霞町)
竣工時期 1920(大正9)年頃
構造/階数 レンガ造/2階建
設計者/施工者 不詳/大岩組ほか

医学資料館・食堂として残された11号館の東半分

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建物全体を西北側より見る。西側正面は医学資料館入口。2階に展示室がある。

 

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昔の様子を伝える東側壁面 南側壁面

 

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食堂として使用されている東側

 

 

 

被爆建物等の保存・継承方法についての報告書(目次)

被爆建物等の保存・継承方法についての報告書(被爆建物等継承方策検討委員会、平成4年[1992年]8月)目次

平成4年8月20日 委員長 庄野直美 ➡ 広島市長 平岡敬
まえがき
本委員会の審議経過と意見
参考 被爆建物等継承方策検討委員会
1 被爆建物等継承方策検討委員会開催状況
2 被爆建物等継承方策検討委員会設置要綱
3 被爆建物等継承方策検討委員会委員名簿