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宇吹所蔵資料概要(広島大学原医研関係)

宇吹所蔵資料概要(広島大学原医研関係)

【2箱】年報他
広島大学原爆放射能医学研究所年報
1976年、第18号(1977年)~41号(2000年)。
広大原医研要覧別刷・年報別刷(ファイル1冊)
疫学・社会医学研究部門研究概況(1973年)
所長:「原爆爆心地被爆生存者」ならびに「被爆関係ふたご」に関する調査研究プロジェクトの概況(1974年)
疫学・社会医学研究部門 生物統計学研究部門 研究概況(1974年)
疫学・社会医学研究部門 生物統計学研究部門 研究概況(1975年~89年)
疫学・社会医学研究部門研究概況(1990年)
広大原医研年報別刷(ファイル1冊)
原爆医学標本センター概況(1968年~71年)
広島大学原爆放射能医学研究所データバンク(標本センター)概況(1974年)
原爆被災学術資料センター概況(1975年~91年)
広大原医研要覧別刷(1975年)(ファイル1冊)
志水清教授退官記念業績目録(1970年9月15日)
栗原教授退官記念 広島大学原爆放射能医学研究所
疫学・社会医学研究部門研究業績目録 1961年~1989年 (1989年3月)
資料センター庶務一件(ファイル5冊)1994年、96年、97年、98~99年、2000年。

【1箱】
原医研将来検討委員会<ファイル6冊、資料1冊、ノート1冊>
第1回(1984年7月11日)~第52回(最終回)(1992年6月10日)
資料<1990年12月8日>:「チェルノブイリ事故からの被曝」(原子放射線の影響に関する国連科学委員会から総会への1988年報告書)、
「第2回環境シンポジウム資料集 いのちと科学技術―チェルノブイリが問いかけること―」(1991年5月11日 於:上智大学 主催:「チェルノブイリ被害調査・救援」女性ネットワーク/上智大学社会正義研究所 [資料集編集:「女性ネットワーク」綿貫礼子、二神淑子、吉田由布子])
[広島大学]将来構想検討委員会経過報告 Ⅰ(1987年10月)~Ⅴ(1988年11月)
<原医研委員・鎌田七男>
将来構想検討委員会中間答申(1988年12月)
21世紀に向けての広島大学のあり方(将来構想検討委員会答申)(1989年4月)
『資料調査通信』関係ファイル<ファイル7冊>

【1箱】
部門会議(ファイル2冊)
Ⅰ[1976年12月15日~1979年3月30日]
部門会議Ⅱ[1979年4月11日~1981年3月25日]
手帳・レセプト整理関係資料(ファイル1冊)[1976年~]
資料センター庶務一件(ファイル11冊)
1976年~77年、1978年~79年、1980年~85年、89年、90年、91年。
修学旅行(ファイル1冊)1981年~
センター運営委員会(ファイル1冊)1981年6月26日~88年7月7日
センター図書選定委員会(ファイル1冊)1982年6月28日~83年9月13日
AFIP返還資料目録(追加)(ファイル1冊)[内田恵美子手書き資料のコピー]
1984年7月2日~31日(照合)、1984年8月8日(報告)
資料センター資料利用規程作成 (ファイル1冊)1991年~
資料センター人事 (ファイル1冊)1992年
資料センター会議録 (ファイル1冊)1992年
資料センター関係書類 (ファイル3冊)1992年
資料センター会議録 (ファイル1冊)1993年
資料センター (ファイル1冊)1993年

【1箱】
広島大学原爆死没者慰霊行事委員会関係資料(ファイル6冊)
広島大学原爆被災誌(学術編)霞地区編集委事務局関係書類(ファイル1冊)1986年
原爆関係論文(医学部)(ファイル2冊)広島大学原爆被災誌学術編編集委1986年
[広島大学原爆被災誌編集事務関係書類](3袋)
広島大学文書保存委員会専門委員会(ファイル3冊)1986年
大学博物館関係(ファイル3冊)
塩見班 1991年
研究教育総合資料館 1994年
広島大学博物館 2000年
医学資料館(ファイル1冊)1998年
広島大学史ホームページ打ち出し(ファイル1冊)
スライド(1フォルダー)

【1箱】
アルバム(1冊)
写真ネガ・焼付(1袋)
志水清資料(冊子)目録(ファイル1冊)
湯崎稔教授(広大総合科学部)保管原爆関係資料一覧(1冊) 1983年4月8日調
広島市街関係地図の目録 追録用 1983年3月12日
復元委員会より引継いだ資料について(ファイル1冊) 1983年7月14日
原爆死没者関連資料目録(ファイル1冊)
被爆者運動関係資料目録(1綴)
被爆者運動関係資料目録(ファイル1冊)
原水禁運動関係資料目録(ファイル1冊)
吉川清関係(ファイル1冊)
被爆者問題資料DOC(ファイル1冊)
ZASALL(ファイル1冊)
米国返還写真資料目録(ファイル1冊) 中国新聞社『ヒロシマ』より
原爆ドーム(ファイル1冊) 新聞記事1966年8月2日~
Ⅱ82文書・写真 新聞記事(ファイル1冊) 1968年7月27日~
被爆者問題 昭和40厚生省調査関係(ファイル1冊) 1965年

【1箱】
原医研設立関係 資料(ファイル1冊)
資料 広大原医研20年の歩み(ファイル2冊)
新聞報道 原医研の歩み(ファイル1冊)1993年
標本センター・資料センター 概算要求(ファイル1冊)1966年
被爆者問題資料(ファイル4冊)1967年
被爆者問題資料、特別措置法へ(資料)、昭40実態調査への批判、資料
原爆映画・復元・返還資料・資料センター(新聞・志水資料)雑誌論文(ファイル3冊)1966年、67年、70年
資料センター 資料(ファイル8冊)1967年~74年
原爆資料(新聞)(ファイル1冊)1968年
資料センター・平和科研etc. (ファイル1冊)1972年~75年
資料センター(新聞)(ファイル1冊)1973年
被爆者援護 資料 記事目録 (ファイル1冊)
95NHK 日記(ファイル1冊)
NEW YORK TIMES INDEX(ファイル2冊)
朝日新聞記事見出しDB(ファイル1冊)原爆展・スミソニアン・被爆者援護法
広島大学図書館OPAC[原爆]打ち出し(ファイル1冊)

出典:「原爆被災資料の収集・整理・保存~広島大学勤務期~」
(『広島における原爆・核・被ばく関連の史・資料の集積と研究の現況』 小池聖一編、広島大学文書館、2014/02/28)所収

献花(8月)

献花(8月)

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きょうちくとう(夾竹桃)   撮影場所:実家、撮影日 8月5日
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きく(菊)   撮影場所:広島市平和公園、撮影日 8月6日
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ゆり(百合)   撮影場所:実家、撮影日 8月13日
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あさがお(朝顔)   撮影場所:自宅、撮影日 8月14日
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ゼラニウム   撮影場所:自宅、撮影日 8月14日
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さるすべり(百日紅)   撮影場所:自宅、撮影日 8月18日
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   撮影場所:自宅、撮影日 8月18日
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   撮影場所:自宅、撮影日 8月18日
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ほうづき   撮影場所:倉庫、撮影日 8月18日
 撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

 

原爆症の調査・研究・治療の再開

原爆症の調査・研究・治療の再開 -原爆医療法前史への覚書-

目次
はじめに
占領下の原爆被害者調査
文部省研究班の発足
文部省研究班の活動
組織的原爆症治療の再開
陳情・募金活動の展開
おわりに

はじめに
原爆被害者対策の歩みについては,すでに『広島原爆医療史』・『被爆者とともに-続原爆医療史』といった業績がある.これらは,広島市原爆障害者治療対策協議会(略称:原対協,のち広島原爆障害対策協議会に改組)の動きを広島市当局および市医師会の動向を交えながら克明に叙述したものである.また,『原爆被爆者対策の歩み-関係者による座談会』は,広島市と市議会の政府・国会にたいする陳情活動を関係者の貴重な証言によって明らかにしている.しかし,これらの業績では,多くの場合前述の動きの紹介にとどまり,こうした動きの相互関連,あるいは医療法制定以後の対策を規定する要因としてのそれぞれの位置づけについて明らかになっていない.
政府により原爆被害者対策が本格的に展開されるようになったのは,被爆から12年後の原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(以下,医療法と略称)施行(1957年4月1日)以後のことである.しかし,それ以前にもABCCの開設・戦傷病者戦没者遺族等援護法の制定・原爆症の調査研究の再開・原対協の設立・原水爆禁止運動の中で展開された原爆被害者救援運動など原爆被害者対策に関連した動きが存在した.こうした動きは,医療法制定の原動力として,大きな役割を演じるとともに,法制定以後の政府の原爆被爆者対策に大きな影響を及ぼした.
小論の目的は,医療法施行以前の動向の中から,原爆症の調査・研究・治療の再開状況について取り上げ,その意義を明らかにすることにある.なお,筆者は,自らのテーマの一つである原爆被害者対策史について,対策の実行者の動向のみの整理では,その片面が明らかにされただけで十分とはいえないと考え,その対象者の動向についても関心を払ってきた.具体的な作業としては,これまで日本原水爆被害者団体協議会初代事務局長藤居平一氏の聞き取り作業および同協議会の資料(広島平和会館資料)の整理をおこなった.その成果の一部は,『資料調査通信』(当資料センタ-資料調査室発行)所収の「まどうてくれ」・「原爆被爆者対策史」などの形で,あるいは『広島新史歴史編』の中で公表してきた.しかし,本格的な整理はまだ十分でなく,小論でもこの点に触れ得なかった.

占領下の原爆被害者調査
1945(昭和20)年9月19日,GHQ(連合軍最高司令部)は「新聞準則」(プレス・コード)を指令した.この指令は,日本におけるアメリカ政府の原爆情報秘匿政策遂行に大きな役割を演じ,日本における原爆症調査・研究・治療の進展ひいては原爆被害実態の普及に大きな制約をもたらした.このことは,これまで様々な形で明らかにされている.
しかし,占領下でも,原爆被害への社会的関心が皆無となったわけではない.たとえば,原爆体験者による詳細な記録が,1948年以降,『絶後の記録』・『長崎の鐘』などの形で公表されている.また,原爆被害者に焦点づけた調査も実施された.1948年6月,諌早市社会課は,「具体的に救済方法を講じるため」「長崎の原子爆弾による被害者の中で,全快はしているが不具者となり,就業も結婚も出来ぬ諌早市在住者の調査」を実施した.また,労働婦人少年局の広島と長崎の出張所も,1948年7月に,原爆による「傷害の程度が特に人目につくものおよび外傷はなくとも内部機能に傷害ある婦女子」の調査を実施した.広島側の結果は不明であるが,長崎側の結果は,つぎのように公表されている.
労働省婦人少年局長崎職員室では去る七月初旬から原爆による婦人傷害者の現状を調査中であったが,このほど調査を完了,次のように発表した.すなわち原爆婦人傷害者百七十八名を対象に調査を進めた結果いまだに全治せず不自由な生活を続ける婦人がこのうち六十八パーセントを占め,これら未治療者達は辛うじて生活を維持出来る程度で,治療費を出して病院通いの出来る患者はほとんど見受けられない実情にあり,「一日も早く無料診療所を作って下さい」とは病床にふす彼女達の切実な願いである.
また一応治ったと紙をつけられた婦人達も労働に堪えられる身体を持っている者は少く,特に顔面その他に火傷を受けた人の中には就職も結婚も断念しているような不幸な婦人も混っており彼女達を救えとの声も高い.
占領下の行政施策の中では,原爆被害は一般的な福祉対策として扱われていた.そうした対策の基礎資料を得るために実施された調査の広島・長崎分の結果も,原爆被害者の占領下における実態を間接的に現している.1948年2月1日には,児童福祉法施行に向け全国一斉孤児調査がおこなわれ,3,725名の孤児が広島県内で確認された.うち,3,269名は未収容の浮浪児であり,地域別では,広島市776名,安佐郡586名,呉市419名,福山地区377名であった.また,長崎県内の結果は,孤児総数2,313名,うち戦災孤児の数は長崎市211名,西彼岐郡76名,大村市72名,佐世保市43名となっている.
1951年以降,広島市は原爆被害者の独自の調査に乗り出した.同年5月には,8月に完成する平和記念公園内の原爆慰霊碑に「七回忌を期して全死没者氏名の名簿を作成し,これを合祀することを目的」とした死没者調査を実施した.これは,県内はもちろん,各都道府県にも協力を呼びかけた全国規模の調査であった.調査の対象者には,原爆により直接死亡した者のみでなく,「その後原爆の影響で死没した」者をも含まれている.また,広島市は,翌1952年1月20日から2月5日にかけて,民間調査員693名(国勢調査員など)を動員した個々面接調査によって,市内の原爆障害者を調査した.この調査により,外科的障害者3,736人,内科的障害者152人,眼科的障害(失明又は視力障害)者132人,耳鼻科的障害(聴力障害)者18人,計4,038人の原爆障害者の存在が明らかになった.
プレスコードによって生じたいわゆる「原爆タブー」が,第一義的には,GHQによる原爆検閲の問題であることには異論はない.しかし,前述のような原爆被害実態調査の存在は,「原爆タブー」が,日本側の原爆実態解明の意志の有無の問題としても明らかにされる必要性を示している.

文部省研究班の発足
広島・長崎両市に投下された原子爆弾によって発生した被害については,1945(昭和20)年9月に組織された文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会が,日本の学会の総力を挙げた調査・研究を実施した.しかし,この体制は,約3年間で終息し,以後日本の科学者による組織的研究は途絶えていた. 一方,アメリカは,医学的立場から長期にわたる調査研究を計画し,1946年11月26日のトルーマン大統領指令にもとづいてABCC(Atomic Bomb Casuality Commission)を組織した.日本におけるABCCの本格的調査活動は,1948年2月の遺伝学的調査から着手され,広島・長崎両市の全妊産婦の登録が試みられた.当時,妊婦には政府による食糧の特別配給が認められていたので,その増配申請がおこなわれる機会に,職員による面接調査を実施し,1953年12月までに77,000名(全妊婦の93%)の登録を完了している.また,1949-50年には,48年の広島市米穀配給台帳に被爆者として記入されている全員の家庭訪問を実施し,181,000名の被爆歴を入手した.さらに,1950年10月1日に実施された国勢調査に際し,ABCCは,その付帯調査として,被爆者の所在調査を全国的規模でおこない,284,000名の被爆者を把握した.
一方,日本側でも,1951年暮頃から,病理学会・血液学会・放射線医学会などでは,各々の立場から放射線傷害対策委員会を設けて総合研究に着手する動きがあり.「有志の間で,この際再び原子爆弾災害調査研究の統合機関を設けてはとの話合が進められていた」.こうした動きに呼応して1952年4月19日,日本学術会議は,原爆被害調査の再開を決定し,研究班の結成を企画した.この企画の内容を,当時の新聞は,「原爆障害と取組む日本医学 ナゾの解明,引受けた 米医学団からバトン渡る」との見出しで,つぎのように報じている.
この研究は約十五万と推定される原爆傷害者をはじめその配偶者および子を対象として行い,特に原爆の父・母から生れた子供の体質を綿密に調査,禍根の根絶を期する.このため全国の調査網は京大・九大・長崎・広島・鹿児島・熊本の各医大によって張られ,発足と同時に原爆患者の無料診察を開始,また病死者の解剖を要請,二十八年一ぱいまでに第一次調査を完了,この資料から”原爆体験者は早死にし易い”といわれる原爆病の究明に乗出す.
(中略)
一方原爆傷害者は表面は健康体に見えても発作的に疲労状態に陥って執務不能になるもの,睡魔に襲われるものなど異常症状から脱し切れず,原爆のしぶとさは七年後の今日も衰えず日本医学が解決せねばならぬ課題となった.
この記事は,講和条約発効(1952年4月28日)を目前に控えた日本の学会に存在した原爆被害に対する強い関心を生き生きと伝えている.また,この記事は,「この研究は世界人類のため役立つものであり,またアメリカがこれまで尽力した研究を引継ぐわけなので当然助成されると思う」との中西文部省研究助成課長の談話を掲載しており,研究班の設置が,ABCCの研究に替わるものとして企画されていたことを示している.
しかし,日本側の研究再開の契機には,こうした日本側の事情とともにABCCの働きかけもあった.この企画の中心にあった都築正男は,草稿「科学研究費交付金総合研究計画調書丙(昭27)」の中で,その事情を,つぎのように述べている.
最近広島ABCC Tailer所長より学術会議亀山会長宛に本研究への協力申入れもあり,日本側としても中絶していた原子爆弾災害調査研究に関する総合研究再開の必要性が痛感されている.
ABCCは,1951年から講和条約発効後の研究継続のためのさまざまな方策を講じていた.2月にABCCの所長(Field Director)を武官(Lt.col.Darl F.Tessmer)から文官(Dr.Graut Taylor)に変更したのは,その手始めといえるものであろう.同年末には,GHQ外交局を通じ,条約発効後のABCCの日本における地位について外務省との折衝を開始,同時に日本人医師・研究者との接触にも乗り出した.12月9日,広島医師会館でABCCの原爆影響研究発表会(主催は広島医学会)を開催,引続き1952年1月26日には,東京大学医学部でABCC調査事業報告会(主催は日本学術会議)をおこなっている.前掲都築の「調書」にある学術会議への研究協力の申し入れは,この前後になされたものである.
日本学術会議は,「原子爆弾災害調査研究」という課題名で文部省に対し科学研究費の申請をおこなった.都築正男の手書きの計画草稿によれば,この研究班は,塩田広重(代表者,日本医科大学学長)のほか中泉正徳(東京大学医学部放射線科)など19名の班員で構成されていた.しかし,実際にはつぎの28名の班員で発足した.
(東京大学医学部)中泉正徳・三宅仁・羽田野茂・中尾久・   筧弘毅・[都築正男]
(京都大学医学部)菊池武彦・天野重安
(九州大学医学部)操坦道・小野與作・入江英雄
(広島医科大学)渡辺漸・[河石九二夫・浦城二郎]
(広島官公立病院)[蜂谷道彦(広島逓信病院)・黒川巌 (広島県立病院)・重藤文夫(日赤広島支部病院)]
(長崎大学医学部)和泉成之・調来助・広瀬金之助・林一郎
(熊本大学医学部)河北靖夫・亀田魁輔
(鹿児島大学医学部)桝屋富一
(名大医学部)日比野進
(厚生省)[小谷新太郎(厚生省公衆衛生局)・槙弘・永井勇(予防衛生研究所)]
このうち,[]内は,計画草稿には見られなかった班員である.発足にあたり,広島と厚生省の関係者が補強されたことを示している.これは,都築によれば,ABCCの研究の世話係をしている予防衛生研究所および「従来からの関係で引続いて研究している」「赤十字社広島支部病院,広島県立病院,広島逓信病院」に対する「特別の考慮」の結果であった.
また,都築は,文部省研究班の運営について,つぎのような方針を明らかにしている.ここには,1947年7月,GHQの指令により原爆症研究の中断を余儀なくされた都築の研究再開に当たっての心意気・矜持を読み取ることができる.
1)本研究班は今後我邦学会独自の立場で運営せられるべきこと.
2)本研究班は今後我邦に於ける原子爆弾災害調査研究の権威ある機関として存在し,既存研究団体間の統合連絡機関として活動するように運営せらるべきこと.
3)本研究班は予防衛生研究所を通じ,アメリカABCC研究所とは常に密接な連絡をとり,相互に協力し得るように運営せらるべきこと.

文部省研究班の活動
広島医科大学では,この研究班への参加が,原爆症研究出発の呼び水になった.1952(昭和27)年8月から大竹市に居住する被爆者の健康診断を実施するとともに,同年9月には,つぎのような同大学の研究構想を作成した.
1)(大谷・小沼・田中教授)被爆者に於ける原爆被爆就学児童の肉体的並びに精神的発育異常に関する研究
2)(柳原・田淵・玉川・渡辺・田中教授)被爆者に於ける生殖能力に関する調査並びに研究
3)(田淵・大谷・玉川・渡辺教授)被爆者を父母として生まれたる新生児及び流産児に関する研究
4)(塚本・百々教授)被爆者に於ける感覚器の病変の研究
5)(小沼・鈴木・玉川教授)被爆者に於ける中枢神経の障碍に関する研究
6)(玉川・河石・上村・柳原教授)被爆者に於けるケロイドに就ての研究
7)(浦城・和田・大谷・渡辺教授)被爆者に於ける白血病に関する研究
8)(河石・上村・玉川・渡辺教授)被爆者に於ける腫瘍に就いての研究
9)(河石・上村・浦城・和田・大谷・玉川・渡辺教授)被爆者に於ける恒久的病変に関する研究
10)(西丸教授)原爆被爆による白血球数の動揺に 関する研究
「従来の関係から引続いて研究をしている」長崎大学医学部でも,「昭和28年8月より長崎ABCCと協同して爆心地から2粁以内で被爆者8,000名を対象として血液像の検査を開始」し,54年には7,200名の検査を完了した(影浦尚視の1953・54年度報告).
広島・長崎両大学以外では,1953年に,京都・名古屋・鹿児島の各大学が,被爆者の調査・研究を開始し,つぎのような活動をおこなった.
京都大学「広島ABCC保管の被爆者名簿から,京都および大阪府,三重,奈良,岐阜,福井,島  根,香川,高知,愛知県に居住する被爆者約12,000名の氏名と現住所を調べ,その中,健康相談を希望するもの約1,800名を対象として,教室ならびに地方の関係大学および病院と協力して臨床的検査を実施し」,1954年までに577名の検査を完了(菊地武彦の1953・54年度報告)
名古屋大学「広島ABCCの被爆者名簿により,知り得た東海5県(愛知,岐阜,三重,静岡,長野)の被爆者2,352名中健康診断希望者451名あり,その中210名に就いて調査」(日比野進の1954年度報告)
鹿児島大学「ラジオ,新聞により鹿,宮両県民に訴え両県下3,028名の被爆者に受診を要望したが28年度は57名を検査」,「29年度は戸別訪問的調査を計画したが果たさず,自発的受診のみで僅かに9名」(桝屋富一の1954年度報告)
このように,研究班の発足は,特定の地域での悉皆的な調査の契機になった.その際,ABCCの資料が利用されていることも注目される.しかし,その財政的裏付けは,ABCCのそれに比較して微々たるものであった.交付金は,初年度の1952年が140万円,53年が216万円,54年が144万円で,3カ年分を合計しても500万円に過ぎなかった.「金額として500万円(1人当り25000-3000円)が外科方面の治療にはかかる」との班員の発言(1953年6月に長崎大学で開催された班会議での同大調来助の発言)に対する都築正男の回答は「予算が少なすぎる.同情を除いて本当に必要なだけ充分」と答えざるを得ない有様であった(都築メモによる).大学によっては研究活動が,研究班の枠を超えて,独自に展開されたものと推測される.
研究班は,自らの成果を,初年度において,血液疾患(特に白血病)および熱傷・外傷後遺症(ケロイド)に関し大凡の知見を得,2年度には,調査を軌道に乗せ,全体の2カ年半の期間に,「原子爆弾被爆者後遺症の様相はほぼ明らかにすることが出来,その成績はそれぞれ,治療指針におりこんで,傷害者の治療対策実施に貢献している」と総括している.
この研究班の活動は,当初,4カ年の期間で計画されていた(前出の都築「計画草稿」).しかし,3カ年で一応終了し,1955年度からは,広島の官公立病院関係者と厚生省関係者を除き,大学関係者のみで継続されることになった.

組織的原爆症治療の再開
1951(昭和26)年12月9日,広島医学会は,広島医師会館でABCCの原爆影響発表会を開催した.国内初のABCCの業績発表会は,広島医学会が,前年の50年10月以降,準備を整えたといわれる.1947年以後の組織的原爆症研究の空白の中で,手探りの治療・研究を続けていた医師・医学者にとっては,待望の会であったことであろう.この会合には,全国から来広した諸学者を交え広島医師会館の講堂の空席なきまでの参加者があった.この会の開催で学界における「原爆タブー」を打ち破った広島医学会は,翌1952年2月の第4回総会を,日本人による原爆研究発表会の第1回たらしめようと企画し,国内へ広く招待状を発送した.原子爆弾に関する会員の研究発表会は,総会第2日目の2月17日におこなわれた.ここでは,被爆直後の調査結果の5年ぶりの報告,当時の被爆者に多発していた白血病の症例紹介など15人の発表がなされた.こうした広島の動きは,文部省研究班の発足に先行するものであった.
1952年には,広島市当局が,原爆障害者に被爆直後から接し続けていた広島の医師たちの協力を得て,組織的な対応を開始した.その直接の契機となったのは,「原爆乙女」の上京治療であった.同年6月10日,9名の「原爆乙女」のケロイドの診断が東京大学附属病院小石川分院で実施されるや,「在京有識者の間に異常な衝動と同情をまき起こした」.さらに,12月9日には,13人の「原爆乙女」が上阪,大阪大学と大阪市立大学の附属病院で受診した.こうした広島での動きは,翌年には長崎に飛火し,1月20日,長崎の「原爆乙女」3名が上京した.
広島市当局や市内の医師たちのこうした動向への対応は,すばやいものであった.広島市社会課が,2週間後に,同年1月の原爆障害者調査で把握した障害者約4,000名の治療費の全国募金運動を発表,また,7月1日から15日にかけ,市内45カ所の外科医院と診療所において,約4,000名を対象とした無料診療を実施した.この調査により,1,405名の治療による回復の可否状況と必要な治療費が明らかになった.それによれば,治療による完全回復可能な者214名,ある程度まで回復可能な者467人で,その治療に要する費用は304,100円であった.
文部省の研究班に参加していた長崎大学と広島医大でも,無料診療を開始した.長崎大学の調来助は,同研究班の活動として,8月20日から800名の被爆者に対する障害調査を開始,9月18日には,長崎市長および市議会議長と被爆者の援助体制について協議した.広島医大も,同年12月27日に,「治療だけならわざわざ大阪や東京などに沢山の費用をかけてゆかなくても大阪東京でできることはもちろん広島でもできる」(附属病院長柳原英談)と広島市に原爆症患者の無料治療を申し入れている.
以上のような動向を背景として,広島市は,医師会・市議会などとの連絡協議の結果,1953年1月13日,広島市原爆障害者治療対策協議会(略称:原対協)を発足させた.原対協は,18日,初の具体的事業として,市民病院で診察をおこなった.診察には,前年末無料診察を申し入れた広島医大の15名を中心に市民病院の医師6名が従事した.対象者は,前年7月に広島市が医師会の協力のもとに実施した一斉診察のカルテの中から選定した139名であったが,このうち75名が受診した.広島医大は,8月10-12日にも,文部省の研究班の活動の一環として前年同様,大竹市において240名(前年は278名)の全科検診を実施した.なお,長崎では,5月14日に原対協が発足した.
厚生省は,予防衛生研究所(略称:予研)を通じて,1947年6月以降,ABCCの研究に協力していたが,独自の取り組み調査はおこなっていなかった.しかし,1952年に入ると,被爆者に関心を示し始めた.文部省研究班の第1回会合(1952年9月29日)において,予研の永井勇は,1950年の国勢調査に付帯して実施されたABCC調査の結果に触れ,「この資料を如何に整理して健康管理を実施すべきか,近く実施案作製の予定である」と述べている.この動きは,厚生省による1953年度予算への原爆調査研究費100万円の計上に結実した.さらに,厚生省は,10月には,原爆症調査研究協議会(略称:原調協)を設置することと身体障害者福祉法を改正して,傷痍軍人・軍属に適用されている厚生医療保護の対象に原爆傷害者を加える方針を明らかにした.後者のその後は不明であるが,前者は,11月17日に実現した.同日に予研で開催された第1回協議会では,治療基準の作成を目標として,とりあえず治療指針を起草することなどが決定された.第2回会合は,1954年2月17-18日の両日,広島医師会館で「原爆症の治療に関するシンポジウム」とともに開催された.
1953年は,広島・長崎両市においては,原対協という原爆症の治療組織が,また,厚生省では,原調協という治療方法研究組織が生まれた画期的な年であった.前年に組織された文部省研究班とあわせて,三つの原爆症の調査・研究・治療体制が出現したわけである.
ところで,これら3者の主な構成陣容と目的は,文部省研究班が,学術会議による原爆の影響調査,原対協が,広島長崎両市と医師会による原爆障害の研究治療対策の推進,原調協が,厚生省による原爆後遺症の治療方法の究明となっている.また,当初の構想における対象者の設定もそれぞれ異なるものであった.文部省研究班の場合,発足前の構想では,前述のように約15万の原爆傷害者とその配偶者・子供までも調査の対象とする大規模なものであり,原対協は,治療の必要な原爆障害者を,広島市関係6,000名,長崎市関係2,900名と推定,厚生省の場合,広島・長崎両県237,810人の被爆生存者のうち3,000人以内を調査対象としている.
しかし,各構成陣容は,交互に重なっており,実施に当たっては,相互の協力関係が配慮された.1953年12月14日付の予研の「昭和28年度原爆症治療方法に関する研究実施要領」では,「国立予防研究所広島,長崎両支所を中核として,広島,長崎所在の医療機関の協力を得て」おこなうことが,実施方法に明記されている.また,予研の永井勇は,文部省研究班の第2回会議で,「国としては原爆患者のみを特別に治療すること」はできないとの理由から原爆調査研究費の治療費としての使用を否定していたが,1953年度予算100万円の24万円余が広島市原対協に割り当てられた.

陳情・募金活動の展開
広島・長崎両市当局および議会関係者の間で,原爆被害者に対する関心が高まってくるのは,1951(昭和26)年末以降のことである.両市の関係者は,1949年の広島平和記念都市建設法・長崎国際文化都市建設法の両法制定以後,都市建設促進を目的として交流を重ねていた.そうした会合の一つである1951年11月9日の広島長崎両原爆都市協議会(広島市で両市議会関係者が会合)では,「戦没者家族援護費国庫補償に関連しとくに原爆両都市戦災者の援護強化促進」などが審議されている.この会合で設置が決定された広島長崎特別都市建設期成委員会は,第5回会合(1952年7月2日-3日,広島で開催)で,つぎのような特別都市建設促進案をまとめた.
[両市建設事業促進の財政措置](略)
[建設事業促進のための政府の措置](略)
[原爆犠牲者に対する援護救済]
▽原爆遺家族援護の対象範囲の拡大および援護措置の強化
▽犠牲者の救済施設(孤児,老幼,未亡人らを収容救護するための諸養護厚生施設)設立の ため国の内外にたいする共同募金の様式による募金事業の実現
▽原爆による預貯金,公債などの焼失者にたいする国庫ならびに銀行などの債務の弁済
▽外国資金による被爆者の治療機関の設立(ケロイド患者の治療,ABCCとの併置)
また,1952年8月4日に,長崎で開催された同委員会では,任都栗委員長(広島市議会議員)が,「アメリカはケロイド症状に悩む原子病患者をネズミかモルモットぐらいにしか考えていない,単なる研究資料として取扱っているが治療機関を設置すべきでアメリカはその責任がある」と発言,中村長崎特別委員長も会議後の談話でつぎのように述べた.
惨殺行為が国際法で禁止されていたにかかわらず,アメリカは一しゅんにして幾万の非戦闘員の生命を奪ったのだから,このつぐないは当然負うべきである,われわれはこのむねの申入れを広島とともに講和締結前,米極東軍司令部の民事部たいし行ったが,講和前であり公にされなかった,原爆による損害の請求をアメリカのよろんに訴えるのはわれわれの権利である
これらの発言の中には,ABCCの調査のやり方への批判とともに,アメリカの原爆投下は国際法違反との立場からアメリカによる原爆障害者の治療責任を問うという,二つの要素が見られる.いづれも占領下では表面化しなかった点である.このうち後者は,治療の必要性の主張に新たな根拠を提供するものであった.この点は,1953年には,原爆損害賠償請求訴訟の動きとして,広島・長崎両市議会関係者とは別に独自の展開を始めた.一方,前者は,1955年に「原爆乙女」の渡米治療という意外な展開を遂げる.
この外,1953年7月には,広島・長崎両市長および議長が連署で,「原子爆弾による障害者に対する治療援助に関する請願」を国会におこない,衆議院では8月3日,参議院では8月6日に採択された.これは,原爆障害者についての被爆地からの初めての請願であった.また,同年8月には,中央共同募金会が,広島・長崎両市の原対協会長(各市長)の申請に応え,8月1日から10日間,「原爆障害者NHKたすけあい旬間」を実施した.それまでにも,「原爆孤児」・「原爆乙女」という特定の原爆被害者に対する募金は,国内外を対象に呼びかけられてはいるが,原爆障害者を対象としたものは,これが初めてあった.全国から5,088,000円の募金が寄せられた.

おわりに
以上見たように,講和条約が締結された1951(昭和26)年9月からビキニ水爆被災事件が発生した54年3月までの期間に,その後の原爆被害者対策に大きな役割を果たすさまざまな団体・組織あるいは運動・活動が生まれた.たとえば,文部省の研究班は,1958年からは「原水爆被害に関する総括的研究」班として60年まで継続し,その総括として「現在の組織を何等かの形で残存させ,ますます相互の連絡を密にして日本独自の調査研究を進める必要性がある」と述べた.広島大学原爆放射能医学研究所(1961年4月)・長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設(62年4月)は,この必要性に応える機関として発足したものである.また,厚生省の原調協は,原爆医療法の制定にともない,原爆医療審議会に形を代え,その役割を継続している.この期間に見られる広島・長崎両市と議会関係者の陳情活動は,組織的に直接の継続性はないものの,1967年11月に設置された広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(通称:八者協)の源流ということができよう.また,1953年8月の「原爆障害者NHKたすけあい旬間」は,60年代後半から活性化する原爆報道の先駆と位置づけることができる.
一方,ビキニ水爆被災事件以後原爆医療法の成立に大きな役割を果たした団体・組織で,この時期にまだその姿を明瞭に現していないものも,いくらか存在する.原爆被害者対策の受け手である被害者団体は,その一例である.この時期までに,広島市連合未亡人会(1949年9月20日)・原爆乙女の会(51年8月27日)・原爆の子友の会(52年1月17日)・原爆被害者の会(52年8月10日)・広島子供を守る会(53年2月22日)などの団体が誕生しているが,いづれも大きな広がりを得ることができなかった.原爆被害者団体が,大規模に組織され,単に対策の受け手としての存在としてではなく,自立した独自の存在として社会的な影響力を持つようになるのは,ビキニ被災事件以後のことである.
この期間の一般社会の原爆被害者への共鳴状況も,ビキニ以後とは大きく異なっている.たとえば,1956年の原爆の子の像建設募金では,「原爆障害者NHKたすけあい旬間」の募金額(509万円)を越える額(607万円)が,全国的なマスメディアによってではなく,広島の子どもたちの手で集められている.この募金の目的は,原爆症によって死亡した級友の死を慰めようということにあったが,両者の募金額の差は,目的の違いというよりも,社会の原爆被害者に対する共鳴の成熟度の違いとして理解すべきものと思われる.
政府が,原爆被爆者対策を自らの責任として開始するまでには,ビキニ水爆被災事件以後の原水爆禁止運動を中心とする新たな展開が必要であった.

典拠・参考文献
1)財団法人広島原爆障害対策協議会編・刊『広島原爆医療史』(1961年8月)
2)財団法人広島原爆障害対策協議会編・刊『被爆者とともに-続広島原爆医療史』(1969年8月)
3)広島市衛生局原爆被害対策部調査課『原爆被爆者対策の歩み-関係者による座談会』(1988年8月)
4)広島大学原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センタ-資料調査室『資料調査通信』第5号(1981年12月)~第29号(84年1月)に10回にわたり紹介した.
5)『資料調査通信』第55号(1986年7月)~第78号(89年4月)に11回にわたり紹介した.
6)広島市編・刊『広島新史 歴史編』(1984年11月)
7)最近の業績としては,モニカ・ブラウ『検閲1945-1949 禁じられた原爆報道』(時事通信社,198  8年2月),『ヒロシマの「史点」-占領下の原爆文献考』(「中国新聞」1986年6月30日~8月12日  30回連載)があるが,なお,解明の必要な分野である.
8)『資料調査通信』第82号(1989年9・10月号)所収の「原爆手記掲載書・誌目録」
9)「長崎民友」1948年6月24日
10)「中国新聞」1948年7月24日
11)「長崎民友」1948年9月23日
12)「中国新聞」1948年2月28日
13)「長崎日日新聞」1948年3月3日
14)広島市役所「広島市原爆による死没者調査についての趣意書」
15)「中国新聞」1952年1月19日.なお,この記事によれば,この調査は,戦傷病者戦没者遺族等援護法(1952年4月30日公布)の対象者に軍命令により出動した動員学徒・徴用工員・女子挺身隊員・国民義勇隊員などを加える運動の基礎資料を得るための調査に,補足的に実施されたものであった.
16)広島市原爆障害者治療対策協議会「原爆障害者治療対策の概要」
17)広島市編・刊『広島新史資料編Ⅰ都築資料』(1981年3月)
18)『ABCC年報1961年7月1日-1962年6月30日』
19)ABCC業績報告集1-60『原子爆弾被爆生存者に見られる放射線照射の遅発的影響』
20)ABCC業績報告集12-68『ABCCの主要調査標本』
21)都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」
22)「毎日新聞」1952年4月20日
23)当時は県立で呉市に所在した.1953年8月国立移管され,57年9月広島市の現在地に移転を完了した.
24)広島大学原爆死歿者慰霊行事委員会『原爆と広島大学-「生死の火」学術篇』(1957年9月)
25)「広島医科大学の原爆調査研究課題 昭和27.9.29受」(都築資料)
26)「原子爆弾災害調査」(『昭和27年度文部省総合研究報告集(医学薬学編)』所収).以下この項は,これと『昭和28年度』・『昭和29年度』・『昭和30年度』の各版による.
27)「広島医学」第5巻第5・6号
28)1952年4月にも日本血液学会総会で「放射線並に原爆障碍に関するシンポジウム」が開催されている.
29)「中国新聞」1952年6月26日
30)「中国新聞」・「長崎日日新聞」など各紙の報道 による.
31)「中国新聞」1952年6月26日
32)「中国新聞(夕刊)」1952年7月21日
33)「長崎日日新聞」1952年8月27日
34)「長崎民友」1952年9月19日
35)「中国新聞」1952年12月28日
36)「原子爆弾災害調査」(『昭和28年度文部省総合研究報告集(医学薬学編)』所収)
37)「原子爆弾災害調査」(『昭和27年度文部省総合研究報告集(医学薬学編)』所収)
38)「東京新聞」1953年1月22日
39)「中国新聞」1953年10月14日,11月7日
40)『予防衛生研究所年報』1953年度版
41)広島長崎両市原対協会長が中央共同募金会会長に提出した申請書(1953年6月2日)による.
42)「原子爆弾災害調査研究班第2回会議記事」(都築資料)
43)「中国新聞」1951年11月10日
44)「長崎日日新聞」1952年7月8日
45)「長崎日日新聞」1952年8月6日
46)松井康浩『原爆裁判』(新日本出版社,1986年8月)
47)中条一雄『原爆乙女』(朝日新聞社,1984年3月)
48)「原水爆被害に関する総括的研究」(『昭和35年度文部省総合研究報告集)』所収)

歴史資料管理委員会(放影研)

歴史資料管理委員会(放射線影響研究所)(歴史懇話会を含む)

開催年月日 備考
1 20110704
2 20111219
3 20130418
歴史懇話会(第1回) 講師:岡本義夫元長崎研究所事務部長https://www.rerf.or.jp/uploads/2017/09/historyforum01j.pdf
4
5
6
7
8
9
10 20170713
歴史懇話会(第8回) 話し手:土手盛人元疫学部次長
11 20171227

 

放射線影響研究所年報に見る放影研の「国際化」

財団法人放射線影響研究所年報に見る放影研の「国際化」

号(年度) 内容
75-78 山下久雄理事長「緒言」「研究所の名称で、放射線影響学会及び日本学術会議よりクレームが出されていました」

「吸血鬼とか、禿鷹のような異名まで付けられ、比治山で睥睨[へいげい=周囲をにらみすえて威勢を示すこと]しているのはけしからん、早く山より下りて、もっと被爆者の福祉につながる仕事をしろというような声が高くて、それを打ち消すのにもかなりの期間と隠忍自重と努力とを要しました。」

85-86 第13回放影研専門評議員会議事録(昭和61年3月18日-20日)非公開会議

「その第1は、調査対象となり得る被爆者の数が徐々に減少しているという自明の事実であった。この事実により、放影研の将来を検討しなければならない問題が生じてくる。放影研は、その使命が次第に終結に近づくにつれて、厚生省が支援する他の団体に吸収合併されれば理想的である。言及されたように、加齢研究所が設立されれば、放影研はそこに同質の棲家を見いだすかもしれない。日米双方の専門評議員がこの問題の対策をたてられるように真剣に取り組む必要があるという点で意見が一致した。」

86-87 重松逸造理事長「緒言」「昭和61年度における重要ニュースの一つは、4月に突如起こったソ連Chernobyl原子力発電所の爆発事故である。これに関連して、昭和62年1月11日から21日まで5名のソ連視察団が日本に派遣され、その一行は1月13日と14日の両日放影研の調査研究を見聞するために来訪した。広島・長崎の長年にわたる協力によって得られた当所の経験とデータは、原発事故被害者の保健福祉に役立つものと確信しているが、これはまた被爆者各位の御意向に沿うものと考えている。」
87-88 重松逸造理事長「緒言」「現在、放影研で進行中の研究課題は67件あり、そのうち29件(43%)が実験研究である。20年前に実験室研究が占める割合は10%に過ぎなかった。」
88-89 J.W.Thissen副理事長「緒言」
「本年報で報告の対象となっている昨年度は、放影研の学術活動が極めて盛んに行われた記念すべき年であった。[中略] 世界の舞台において増大しつつある放影研の役割の一つに「国際化」がある。外国からの来訪者が増加しているばかりでなく、放影研の科学者に対し、世界保健機関、国際放射線防護委員会(ICRP)、欧州共同体委員会などの国際的機関が主催する活動への参加依頼が増加している。この原因の一端は、1986年のソ連Chernobylの原子炉事故と、ソ連における医学的追跡調査研究計画を作成するにあたり放影研をモデルにしていることにあるが、より大きな原因は、ICRPや国連科学委員会(UNSCEAR)等の機関の報告書や勧告に繰り込まれている人体に対する放射線リスクの測定に関する当研究所の所見の重要性が認められていることではなかろうか。」
90-91 重松逸造理事長「緒言」「最近では、当研究所で調査・研究してまいりました後影響の問題が重要視され、WHO(世界保健機関)、IAEA(国際原子力機関)などの国際機関のほか、日ソ政府間協力事業を通して協力が要請されております。」

「国際協力」の項「放影研は、1979年に世界保健機関(WHO)の「放射線の人体影響に関する研究協力センター」に指定されている・・・」

「ソ連政府は、Chernobyl事故の健康影響についての科学的調査を国際原子力機関(IAEA)に依頼し、これを受けてIAEAは各国の専門家で構成された諮問委員会を組織し、重松逸造理事長がその委員長に任ぜられた。」
「日ソ両政府の間で1990年9月にChernobyl原発事故被害対策で協力することに合意し、それに基づく日ソ専門家会議が1990年12月に東京で、続いて1991年3月4-5日の両日、Moscowで開催された。重松逸造理事長は日本政府派遣専門家(9人)の団長としてこの会議に出席し、長期的な健康被害疫学調査に関する日本政府の協力内容の細部についてソ連専門家と協議した。」
「広島県が中心となって、人類初の原爆被爆地の使命として、世界各地の放射線被爆者の医療援助に資するため、県、市、医療・研究機関が参加して「放射線被曝者医療に関する国際協力検討委員会」を設立することになり、重松逸造理事長がその会長に選任された。原爆後40数年の経験について世界各国から情報提供、助言、医療面での援助などの要請が数多く寄せられており、関係各機関や行政が連係をとりながら、窓口を統一してより効率的に対応するための協力体制を検討することが目的であり、放影研も大きな役割を果たすことが期待されている。」

1991年4月、被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)発足。

書誌2009

書誌2009

本・パンフレット

書名 著者 発行所 発行年月日
ヒロシマ 消えた鳥屋町  寺西 正子  溪水社  20090211
瓦礫の果てに紅い花 ヒロシマに美術館をプレゼントした男の物語 長谷川智恵子 WAVE出版 20090224
なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか Chim↑Pom・阿部謙一:編 河出書房新社 20090325
戦争と家族 広島原爆被害研究 新田 光子 昭和堂 20090330
この世界の片隅に(下) こうの史代 双葉社 20090428
日本被団協史 ふたたび被爆者をつくるな 本巻 日本原水爆被害者団体協議会編 あけび書房 20090501
日本被団協史 ふたたび被爆者をつくるな 別卷 日本原水爆被害者団体協議会編 あけび書房 20090501
ヒロシマのいのちの水 指田 和 文 野村 たかあき 絵 文研出版 20090530
沖縄戦 強制された「集団自決」 林博史 吉川弘文館 20090620
康子十九歳 戦渦の日記 門田 隆将 文藝春秋 20090710
ヒロシマを生き抜く 上 ロバート・J.リフトン 著 桝井 迪夫 他訳 湯浅 信之 他訳 岩波書店 20090716
ヒロシマを生き抜く 下 ロバート・J.リフトン 著 桝井 迪夫 他訳 湯浅 信之 他訳 岩波書店 20090716
「空白の十年」被爆者の苦闘 広島県原爆被害者団体協議会 20090801
10代がつくる平和新聞 ひろしま国 中国新聞社編 明石書店 20090806
オバマ大統領がヒロシマに献花する日 相互献花外交が歴史和解の道をひらく 松尾文夫 小学館 20090808
百二十八枚の広島 昭和二十年代->三十年代 明田弘司 南々社 20090808
アジアのアーカイブズと日本 記録を守り記憶を伝える 安藤正人 岩田書院 200910
広島県の歴史 岸田裕之編 山川出版社 20091115
戦後日本の平和教育の社会学的研究 村上登司文 学術出版会 20091130
核は廃絶できるか-核拡散10年の動向と論調 水本和実 法律文化社 20091205
ノーベル平和賞の虚構 浜田和幸 宝島社 20091223

雑誌論文

著者 タイトル 雑誌名(発行者) 発行年月日

 

書誌2008

書誌2008

本・パンフレット

書名 著者 発行所 発行年月日
 この世界の片隅に(上)  こうの史代  双葉社 200 80212
赦し 長崎市長本島等伝 横田信行 長崎文献社 20080220
シンポジウム 今日の「核抑止」と日本の進路 2007.12.8報告集 非核の政府を求める会 20080220
グランド・ゼロから 災害都市再創造のケーススタディ ジョアン・オクマン編 鹿島出版会 20080225
草創期の広島ユネスコ運動 短命に終わった運動の足跡をたどる 宇野豪 20080325
戦争と民衆-戦争体験を問い直す 三谷孝編 旬報社 20080410
ウラン兵器なき世界をめざして ICBUWの挑戦 NO DU ヒロシマ・プロジェクト/ICBUW(編) 合同出版 20080415
夕凪の街 桜の国(文庫) こうの史代 双葉社 20080420
韓国原爆被害者苦痛の歴史 広島・長崎の記憶と証言 鄭根埴編 明石書店 20080520
原子爆弾とキリスト教 広島・長崎は「しょうがない」か? 栗林輝夫 日本基督教団出版局 20080525
被爆博覧会 田端展 文芸社 20080715
ぼくの家はここにあった 爆心地~ヒロシマの記録~ 田辺雅章 朝日新聞出版 20080730
断て!暴力 検証 長崎市長射殺事件 長崎新聞社報道部 長崎新聞社 20080801
原爆で死んだ米兵秘史 森 重昭 光文社 20080811
この世界の片隅に(中) こうの史代 双葉社 20080811

雑誌論文

著者 タイトル 雑誌名(発行者) 発行年月日

 

書誌2007

書誌2007

本・パンフレット

書名 著者 発行所 発行年月日
 動員学徒「慟哭の証言」  広島県動員学徒等犠牲者の会  20070131
図録 原爆の絵 ヒロシマを伝える 広島平和記念資料館編 岩波書店 20070327
つながってひろがって 被爆者のおもいを受けつぐ学生たち 仏教大学社会福祉学科黒岩アフターゼミ/ クリエイツかもがわ 20070331
広島大学五十年史 通史編 広島大学50年史編集委員会・広島大学文書館編 広島大学 20070331
被爆動員学徒の生きた時代 広島の被爆者運動 小畑弘道 たけしま出版 20070420
夏のことば ヒロシマ・ナガサキ・れくいえむ 伊藤明彦 文芸春秋企画出版部 20070430
シンポジウム 核兵器廃絶の展望を探る 非核の政府を求める会 200704
ミサコの被爆ピアノ 松谷みよ子(文)木内達朗(絵) 講談社 20070702
東アジアの終戦記念日 敗北と勝利のあいだ 佐藤卓巳・孫安石編 筑摩書房 20070710
小説 夕凪の街 桜の国 国井 桂 双葉社 20070720
ヒバクシャの心の傷を追って 中沢正夫 岩波書店 20070727
「仲みどり」をさがす旅 青木笙子 河出書房新社 20070730
「ヒロシマ以後」の広島に生まれて 平井和子 ひろしま女性学研究所 20070806
ヒロシマ・ナガサキ 岩波DVDブック Peace Archives 安斎育郎編、宇吹暁など執筆 岩波書店 20070807
国際シンポジウム「逆風の中、再び核軍縮を進めよう-中央アジアの経験を東アジアへ」 報告書 広島市立大学広島平和研究所 200709
没後33年記念事業 時代を先取りした作家 梶山季之をいま見直す 梶山季之記念事業実行委員会 中国新聞社 20071110
敗戦の記憶 身体・文化・物語 1945-1970 五十嵐恵邦 中央公論新社 20071220

雑誌論文

著者 タイトル 雑誌名(発行者) 発行年月日

 

書誌2006

書誌2006

本・パンフレット

書名 著者 発行所 発行年月日
 戦後社会運動史論-1950年代を中心に-  広川禎秀・山田敬男編  大月書店  20060120
“戦争と科学”の諸相-原爆と科学者をめぐる2つのシンポジウムの記録 広島大学総合科学部/編 市川浩/責任編集 山崎正勝/責任編集 丸善
長崎医科大学と原爆-被爆60周年記念誌- 長崎大学医歯学総合研究科付属原爆後障害医療研究施設・長崎医学同窓会 20060315
基幹共同研究「戦争体験の記録と語りに関する資料論的研究」 平成18年度第2回研究会 報告・討論要旨集 国立歴史民俗博物館 20060401
近きに在りて 第49号 横山英先生追悼特集 広島中国近代史研究会(汲古書院) 20060530
ヒロシマと音楽 「ヒロシマと音楽」委員会編 汐文社 20060710
広島から世界の平和について考える 広島大学文書館/編 原爆放射線医科学研究所附属国際放射線情報センター/[編] 平和科学研究センター/[編] 現代史料出版 20060725
編集・発行者: 小栗康治(広郷土史研究会員)<昭和図書館蔵>  200607
劫火の記憶-福山市原爆被害者の会50年の歩み 福山市原爆被害者の会 20060801
広島 爆心地中島 原爆遺跡保存運動懇談会編 新日本出版社 20060806
戦争の記憶と和解 池尾靖志/編著 五十嵐美穂子/[ほか著] 晃洋書房 20060815
呉海軍病院史 呉海軍病院史編集委員会 20061001
いまに問うヒバクシャと戦後補償 グローバルヒバクシャ研究会/編 高橋博子/責任編集 竹峰誠一郎/責任編集 凱風社 20061020
時代を生きて 文集・鎌田定夫 「時代を生きて」刊行会 20061125
 戦後日本と戦争死者慰霊 シズメとフルイのダイナミズム  西村明  有志舎  20061225

雑誌論文

著者 タイトル 雑誌名(発行者) 発行年月日

書誌2005

書誌2005

本・パンフレット

書名 著者 発行所 発行年月日
 広島市実施計画 2004-2007 広島市企画調整局 広島市  200502
戦艦大和が沈んだ日 運命の4月7日 元戦艦大和乗組員・八杉康夫聞き書き 中川秀彦 牧歌舎 20050228
「NPT体制の再検討-広島・長崎からの提言」「東アジアの核軍縮の展望」 広島市立大学広島平和研究所 200503
福岡空襲死者の祭り-集う、悼む、伝える- 西村明編、九州大学文学部人間化学科比較宗教学研究室 20050301
ピース!PEACE! NAGASAKIから世界へ飛び出す若者たち 高校生1万人署名活動実行委員会・長崎新聞社報道部 長崎新聞社 20050317
 新藤兼人・原爆を撮る 新藤兼人  新日本出版社 20050325
ハト派の伝言 宮沢喜一元首相が語る 宮沢喜一 中国新聞社 20050328
丹下健三 時代を映した”多面体の巨人” 日経アーキテクチュア編 日経BP社 20050516
広島被爆体験集 60年目に語る被爆市民の心 「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会 長周新聞社 20050525
僕のヒロシマノート 木原省治 七つ森書館 20050601
木原フミ子「私の被爆体験」pp14-17
原爆体験-6744人・死と生の証言 浜谷正晴 岩波書店 20050607
八月のいのり-あの日のヒロシマから60年 平口洋(監修)・野村隆信(編集)・池田一成(制作) 平口洋事務所 20050615
広島のおばあちゃん 過去・現在・未来 -中・高校生、社会人向け- 鎌田七男 20050620
原爆=写真論 「網膜の戦争」をめぐって 鈴城雅文 窓社 20050620
BC級戦犯裁判 林博史 岩波書店 20050621
ヒロシマ、60年の記憶 近藤紘子 リヨン社 20050624
呉戦災 あれから60年 呉戦災を記録する会 20050701
BRUTUS Casa イサム・ノグチ伝説 マガジンハウス 20050710
八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 佐藤卓己 筑摩書房 20050710
原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ 広島市・長崎市原爆災害編集委員会(編) 岩波書店 20050715
原爆と写真 徳山喜雄 御茶の水書房 20050715
チンチン電車と女学生-1945年8月6日・ヒロシマ- 堀川恵子・小笠原信之 日本評論社 20050715
2005年NPT再検討会議をどうみるか-被爆60年、いま核兵器廃絶へ 非核の政府を求める会 20050716
広島 記憶のポリティクス 米山リサ 岩波書店 20050726
広島大学原爆放射線医科学研究所所蔵 平岡敬関係文書目録(韓国人・朝鮮人被爆者問題関係史料) 広島大学文書館編 広島大学平和科学研究センター 200507
爆心地中島-あの日、あのとき- 元大正屋呉服店を保存する会・原爆遺跡保存運動懇談会 200507
原子爆弾は語り続ける ヒロシマ六〇年 織井青吾 社会評論社 20050730
ピーステップ いまからはじめる平和の第一歩 創価学会女性平和文化会議 第三文明社 20050801
平和を祈る人たちへ-広島女学院同窓会被爆60周年証言集 被爆60周年証言集編集委員会 広島女学院同窓会 20050806
新装版 戦後民主主義-戦後日本・占領と戦後改革第4巻 中村政則・天川晃・尹健次・五十嵐武士編 岩波書店 20050811
秋の蝶を生きる-山代巴 平和への模索 佐々木暁美 山代巴研究室 20051031

雑誌論文

著者 タイトル 雑誌名(発行者) 発行年月日