山田浩『半生雑記帳(続 )―旧制広高・広大・ヒロシマ』(溪水社、19880310 )
目次
| 部章 |
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| 第1部 |
還暦を迎えて |
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| 第2部 |
大学教師の周辺 |
| 1 |
私とクラシック音楽-文化的なものへの(あこがれ) |
| 2 |
広大改革とは何だったのか-あるロマンチストの回想 |
| 3 |
広島大学平和科学研究センターと社会科学研究科の発足 |
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1 平和科研センターのこれまでの経緯と今後の課題-平和研究の制度化推進のために |
|
2 これからの平和研究-広大平和科研シンポから |
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3 新発足の社会科学研究科-新しいコスモロジーの工房 |
| 4 |
随筆3編 |
| 5 |
書評2編 |
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1 戦争と人間と怨念と-『シベリア抑留』を読んで |
| 6 |
御逝去を悼む |
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1 海 一寸に青みたり-羽白幸雄先生の死去を悼む |
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2 弔辞 |
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3羽白先生と犬たちのこと 児玉昭人 |
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4 湯崎さんの死 |
| 第3部 |
核問題とヒロシマ |
|
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| 第4部 |
平和教育 |
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著者の略歴と業績 |
山田浩『半生雑記帳』(溪水社、19850215)
目次
| 部章 |
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| 第1部 |
旧制広島高等学校時代のこと |
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| 第2部 |
軍隊生活と研究室時代 |
| 1 |
私の戦争体験あれこれ |
| 2 |
戦後の今中先生のこと |
| 第3部 |
大学教師の周辺 |
| 1 |
畏友石井金一郎氏の死 |
|
1.“ヒロキン・グリル”閉店の記 |
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2.実態に根ざす理論を |
| 2 |
ソビエト紀行・通訳のことなど |
| 3 |
折りにふれての感想 |
| 第4部 |
核問題とヒロシマ |
| 1 |
選挙ルポ2題 |
| 2 |
書評2編 |
|
1.御田重寳『人間の記録-ノモンハン戦』を読んで |
| 3 |
III核軍拡競争と核軍縮の歴史について |
| 4 |
討論集会における2つの報告 |
| 5 |
時論7編 |
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著者の略歴と業績 |
『原水爆被害白書-かくされた真実』 原水爆禁止日本協議会専門委員会(編)、日本評論新社、19610731
目次
| 章 |
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序< 湯川秀樹> |
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序<安井郁> |
| Ⅰ |
1945年8月6日< 石井金一郎、田沼肇> |
| Ⅱ |
原水爆被害の実態 その1<佐久間澄、庄野直美、杉原芳夫> |
| 1 |
原爆投下の瞬間 |
| 2 |
原爆による死亡者と傷害者 |
|
(1)広島原爆でどれだけの人が死んだか |
|
(2)長崎原爆でどれだけの人が死んだか |
|
(3)原爆による傷害者 |
| 3 |
恐るべき放射線障害 |
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(1)放射能とはなにか |
|
(2)瞬間放射線による被害 |
|
(3)残留放射線による被害 |
|
(4)被爆放射線量についての総括 |
| Ⅲ |
原水爆被害の実態 その2<佐久間澄、庄野直美、杉原芳夫> |
| 1 |
いつまでつづく放射能害 |
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(1)急性期症状-急性原爆症 |
|
(2)慢性原爆症-原爆症とはなにか |
|
(3)原爆症問題の変遷と原爆症の拡大 |
|
(4)慢性原爆症の現況 |
|
(5)被爆者の体内に残されている変化 |
| 2 |
放射線と遺伝 |
| 3 |
もし原子戦争がおこったら |
|
(1)アメリカ議会公聴会の記録 |
|
(2)すでに人類は原水爆の被害者になっている |
| Ⅳ |
被爆者の意識<山手茂> |
| 1 |
被爆者問題をどうとらえるか |
| 2 |
被爆者の社会意識 |
|
(1)被爆者の生活意識 |
|
(2)原水爆禁止の意識と行動 |
|
(3)被爆者の政治意識 |
| Ⅴ |
被爆者の生活<山手茂> |
| 1 |
被爆者の家庭生活 |
|
(1)破壊された被爆者の家庭 |
|
(2)原爆孤児 |
|
(3)被爆母子家庭 |
|
(4)原爆孤老 |
|
(5)被爆した主婦 |
|
(6)結婚問題 |
| 2 |
被爆者の職業生活 |
|
(1)職業生活の悪条件 |
|
(2)被爆者の就職問題 |
|
(3)被爆被保護世帯 |
|
(4)失業対策事業に働らく被爆者 |
|
(5)被爆労働者 |
|
(6)被爆零細自営業者 |
|
(7)被爆農民 |
|
(8)未解放部落の被爆者 |
|
写真ページ |
|
写真/東松照明 |
|
レイアウト/杉浦康平 |
| Ⅵ |
被爆者と社会保障< 伊東壮、大江志乃夫> |
| 1 |
政府の援護対策 |
|
(1)被爆者はなにを望んでいるか |
|
(2)政府の援護対策とその特徴 |
| 2 |
被爆者医療法の成立 |
|
(1)被爆者医療法案の国会提出 |
|
(2)被爆者医療法案の国会審議 |
|
(3)被爆者医療法の欠陥 |
| 3 |
新被爆者医療法とその問題点 |
|
(1)被爆者医療法の「改正」 |
|
(2)新被爆者医療法の内容 |
|
(3)新被爆者医療法の問題点 |
|
(4)「被爆者援護法」の要求と社会保障 |
| Ⅶ |
原水爆禁止と被爆者救援運動< 石井金一郎、吉田嘉清> |
| 1 |
被爆者の要求と原水爆禁止 |
| 2 |
被爆者と日本の社会 |
| 3 |
原水爆禁止と被爆者救援運動 |
| 附録< 杉原芳夫、佐久間澄> |
|
原爆被爆者の放射線照射による遅発性影響についてABCCに反論し,あわせて原爆症対策の科学的基礎を考察する |
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1/被爆線量について |
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2/調査標本について |
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3/遺伝について |
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4/白内障について |
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5/白血病について |
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6/ガンについて |
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7/児童の成長と発育について |
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8/胎内被爆児童における小頭症について |
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9/加齢の促進について |
|
10/成人における一般医学的見地からみた影響について |
|
11/その他の影響について、 |
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むすび |
| 資料 原水爆禁止世界大会の宣言・決議・勧告 |
| あとがき<要旨> |
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*出発点となったのは,第4回原水爆禁止世界大会―1958年―で被爆者救援問題をとりあげた分科会の満場一致の決議 |
|
*決議にもとづき原水爆禁止日本協議会は,原水爆被害者調査をおこなうことを決定。 |
|
*調査委員会のもとに調査団をつくり,物理的・医学的被害の調査,被爆者の意識調査,被爆者組織の調査の3分野にわたり実施。 |
|
調査概要
*調査票による調査
***広島・長崎両県下で,爆心からの距離別と地域区分別に,市内は町単位,町村では町村単位に典型地域を抽出し,約500例を被爆者健康手帳交付台帳から無差別抽出して,被爆放射線量と意識の調査を実施
*被爆者の生活史の個別調査
*被爆者組識の調査 |
|
*調査の中間報告
* 原水爆禁止日本協議会“Atomic Bomb Damage in Hiroshima and Nagasaki” 1958年8月,
*日本原水爆被害者団体協議会『原爆被害の実相と被害者の苦しみ』1958年8月,
*石井金一郎「厂生きていてよかった」か』『中央公論』1958年8月号 |
|
調査委員長 森滝市郎(日本原水協代表委員)
調査団長 石井金一郎(日本原水協専門委員)
調査団員
広島の研究者グループ:佐久間澄・杉原芳夫・庄野直美・北西允・大江志乃夫・山手茂,
長崎の研究者グループ:中西市郎.川崎文治・茂木六郎・林重太・前田豊昭・天野卓郎
第1稿の執筆者名
第1章 石井金一郎,田沼 肇
第2章・第3章 佐久間澄,庄野直美,杉原芳夫
第4章・第5章 山手茂
第6章 伊東壮,大江志乃夫
第7章 石井金一郎,吉田嘉清
附録論文 杉原芳夫,佐久間澄 |
|
謝辞(個人)黒田秀俊,藤居平一,小佐々八郎,伊藤満,草野信男,石井森太郎,山村茂雄,市村志郎,板倉静夫,竹内武志,日本評論新社:林勝郎,飯岡邦輔 |
|
謝辞(団体)日本原水協,日本被団協。「最後に,中国人民保衛世界平和委員会など中華人民共和国7団体による被爆者救援の国際的なあたたかい援助が,この事業を成功させるために,大きな力添えになったことを報告し,中国人民の厚い友情に改めて謝意を表します」 |
|
編集責任者:石井金一郎(日本原水協専門委員),吉田嘉清(日本原水協事務局次長),田沼肇(日本原水協専門委員会幹事) |
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| 事項索引 |
| 図表索引 |
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小山弘健『日本社会運動史研究史論 その文献と研究の現状』(新泉社、19760316) 同前『続日本社会運動史研究史論 その文献と研究の現状』(新泉社、19790501)
小山弘健=小山弘健 – Wikipedia
『続 日本社会運動史研究史論』目次
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| 1 |
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| 2 |
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| 8 |
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| 9 |
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| 10 |
平和・反戦反軍、安保、反基地反空港、沖縄の各運動史の研究とその文献 |
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平和・反戦反軍の運動史の文献 |
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「戦後における世界平和運動の原点となったヒロシマについては、・・・『炎の日から二〇年』・・・『どきゅめんと・ヒロシマ二四年』・・・のほか、さまざまな証言・記録・現地報告が類が公にされているが、無視されがちな被爆者の問題とその運動にかんしては、・・・深川宗俊『被爆二世』・・・伊東壮『被爆の思想と行動』・・・広島県編『原爆三〇年』・・・森滝市郎『反核三〇年』・・・」 |
|
| 17 |
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大塚茂樹著『まどうてくれー藤居平一・被爆者と生きる』(旬報社、20110708)
目次
| 章 |
見出し |
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|
はじめに |
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| 1 |
本川で鍛えた快速スイマー |
|
| 2 |
日本の勝利を固く信じて |
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| 3 |
原爆で死んだ父と妹 |
|
| 4 |
鈴木店三代目の社長として |
|
| 5 |
原爆被害者を救おうという声を受け継ぐ |
|
| 6 |
原爆被害者たちの先頭に立って |
|
| 7 |
国会請願行動、そして日本被団協の結成へ |
|
| 8 |
「まどうてくれ」という叫びとともに |
|
| 9 |
実業へ復帰しても志は変わらず |
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| 10 |
反原爆の思いを貫き通して |
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| 11 |
人間の絆を愛し続ける |
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|
おわりに |
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『人間銘木-藤居平一追想集』(「藤居平一追想集」編集委員会、藤居美枝子刊、19970417)
目次
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表題 三田嘉一 筆
口絵 略歴 |
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三田嘉一 |
悲願成就は近からむ |
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写真でたどる足跡 |
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| 弔辞 |
廣安晴通
奥島孝康
田中聰司 |
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| 同窓・碧空会 |
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| 同窓・アカシア会 |
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|
戸井正典 |
生活を哲学化 |
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「被爆者援護の在り方を検討していた七人委員会の座長茅さんと、三十分の約束で藤居の希望により長倉司郎」・広藤道男・早大総長秘書に私の四人が同席して茅事務所でお会いしたことがあった」 |
|
井内慶次郎 |
女子大の設立に尽くす |
|
「平成七年秋、・・・最後の別れとなった。その時、藤居さんは原爆問題にいかに取り組んできたかを熱っぽく説かれた。平岡広島市長が熱望する平和研究の拠点を広島市立大学に、どのような構想で設置するか、関係者間で検討されているが、その設置準備委員会の末席を汚している。藤居さんの供養のためにも、国際的で学術的にも高い水準の研究所が実現できればと念願する。」 |
|
|
|
| 同窓・稲門(中島正信先生を偲ぶ会) |
|
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|
|
田中耕作 |
恩師への厚い報恩 |
|
|
|
| (稲門・校友会) |
|
|
|
|
田中由多加 |
被爆者援護にささげて |
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|
| 家業・地域 |
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|
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|
野本英明 |
人間銘木を集めた人 |
|
「第九回の全国銘木展示会が広島県銘木事業協同組合の実行で四十年十一月四~八日、開かれた。被爆二十周年で春日大社宮司の「木魂祭」があり、大会代表の慰霊碑参拝、原爆病院への見舞いなどが行なわれ、・・・」 |
|
|
|
| 原水禁・被爆者運動 |
|
伊藤サカエ |
被爆者集合を号令 |
|
阿部静子 |
火の玉の救世主 |
|
池田精子 |
娘のように励まされて |
|
高野(旧姓村戸)由子 |
先生からもらった勇躍 |
|
竹内武 |
生きていてよかった |
|
松井美智子 |
喰ってかかって泣かせた私 |
|
松江澄 |
一概な愛情にひかれて |
|
山口仙二 |
誤って奥様の寝床に |
|
森田実 |
送られた資料の山 |
|
吉田嘉清 |
しびれた運動センス |
|
伊東壯 |
「原点」に学ぶ |
|
|
|
| 研究・報道 |
|
庄野直美 |
泊まり込みで激論 |
|
広藤道男 |
被爆線量と向き合う |
|
舟橋喜恵 |
悲願は世界被団協の結成! |
|
宇吹暁 |
原爆被害問題研究の恩師 |
|
江種則貴 |
スケールも声も、大きな人 |
|
狩野誠一 |
ヒロシマの先輩 |
|
河野一郎 |
世話役 |
|
西本雅実 |
伝説の居士 |
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水原肇 |
藤居さんと今堀さん |
| 家族・親族 |
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|
| 報道記事 |
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|
|
| あとがき |
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1912生19910719没 |
享年78 |
広島女学院大学名誉教授。広島滞在中、折鶴の会・ワールド・フレンドシップ・センター などの平和運動に参画。1980年には広島市の特別名誉市民に選ばれる。 |
『ヒロシマのこだまに メアリ・マクミランと広島』(藤原茂編、溪水社 [渓水社]19800525)
| 部 |
|
|
|
荒木武(広島市長) |
いつまでもお元気で |
|
原田東岷 |
また会いましょうメアリさん |
| 1 |
アメリカから広島へ |
|
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1. 幼いころ 2.学生時代 3.日本へ |
| 2 |
なつかしいヒロシマの人々 |
|
女学院の人たち |
松本卓夫先生 元吉潔先生 原田寿先生 熊田ムメ先生 河本一郎君 岩崎大介さん 多田公夫さん |
|
被爆者の人たち |
宋年順さん かみさこおばさん 池田ハツヨさん ふじやまのおばあちゃん |
|
仲間たち |
松原静江さん 松原静一さん 室積康也さん 藤本みどりさん |
|
お世話になった人たち |
日吉未亡人 今石あきさん 原田東岷さん 銀行家の小田氏 |
|
教え子たち |
今田あやめさん 今田さん 芝間タヅさん 石国ふみこさん 中本博子さん 秦知子さんのことなど |
|
宣教師仲間 |
ウィリー・富樫さん グレース・ウィルソン 宗像基牧師 |
| 3 |
資料編 |
1947年~ 1980年 |
|
年譜 |
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あとがき |
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|
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目次
『ヒロシマ研究公開セミナー資料集 1968年3月8日~10日 』
(ヒロシマ研究の会 広島YMCA会員事業部)
収録資料
| №. |
タイトルなど |
形態 |
| 1 |
「原爆被爆者援護の問題点―「ヒロシマ研究の会」討議資料」 |
冊子 |
|
目次=1.戦時の人権と平時の人権の落差が今日まで影響していること、2.原爆被爆者の援護は老人福祉対策の改善の突破口である、3.無差別攻撃と差別待遇、4.第三国人の被爆、5.結び(援護と調査)、あとがき |
|
|
裏表紙=この小冊子は、金井利博氏が本会でていきされた意見を討議資料としてまとめなおしたものです。(ヒロシマYMCA内ヒロシマ研究の会、1967年12月10日) |
|
| 2 |
ヒロシマ研究セミナー資料Ⅰの1 |
B4-4枚 |
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「ヒロシマ研究」公開セミナーの意図するもの―ヒロシマ研究の会の紹介をかねながら |
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| 3 |
ヒロシマ研究セミナー資料Ⅰの2 |
B4-1枚 |
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プログラム |
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討議資料 |
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ヒロシマ研究の会1年の歩み(年表・改変・抄)
| 年 |
月日 |
事項<注:この欄への月日のあるものは「ヒロシマ研究の会」以外の関連事項> |
| 1967 |
0615 |
ヒロ研第1回例会 |
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0707 |
ヒロ研第2回例会 |
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金井利博「原爆と補償」=原爆投下は、非戦闘員まで死滅させた無差別爆撃であったという特殊性をもつ国は戦争責任をとるべきであり、被爆者が補償を要求するのは当然の権利である。 |
|
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朴寿南「朝鮮人被爆者の実態と問題」=労働者確保の為、広島に強制的に連れてこられた朝鮮人は原爆をうけたことを一アクシデントとしてしか感じない程しいたげられていた。日本人は、被害者であると同時に戦争の加害者だったのだ。 |
|
0720 |
ヒロ研第3回 |
|
|
橋本栄一「被爆者救援活動の問題」=活動は継続してこそ意味がある。上から見る形、つまり慈善的な取り組み方ではなく、自己の問題として深めよう。 |
|
0726 |
|
|
0803 |
ヒロシマ世界を結ぶ集い |
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0811 |
ヒロ研第4回 |
|
|
庄野「原水爆をめぐる世界史」=被爆者の問題は核につながる今日の問題である。又、既成団体に依存しない市民団体の運動としての平和運動が必要。 |
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0901 |
ヒロ研第5回 |
|
|
栗原貞子 |
|
0908 |
ヒロ研第回 |
|
|
早川美子 |
|
|
*花美鈴 |
|
0921 |
ヒロ研第7回:南の |
|
1006 |
ヒロ研第回 |
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1020 |
ヒロ研第9回 |
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|
1027=第1回対話の会。 |
|
|
1101=厚生省「原子爆弾被害者実態調査 健康調査及び生活調査の概要」発表。 |
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|
1102=広島市長、市独自で全数調査をする旨言明。 |
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1109 |
ヒロ研第10回:厚生省調査結果に対する討論。この時完全な実態調査を市に要求するための署名運動をすることを決定。 |
|
|
1124=YMCA会員の沖縄報告会。 |
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1125 |
署名運動開始。 |
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1130 |
ヒロ研第11回:署名運動の経過報告と方針。この時1130名の署名が集まっていた。 |
|
1208 |
ヒロ研第12回:市長への要望書の内容検討。 |
|
1219 |
ヒロ研第13回:署名運動の方針、公開セミナーの構想 |
|
|
1220=対話の会 |
|
1221 |
市長との会見:おざなりの返事しか貰えなかった。地道にやっていくことが必要である。 |
|
|
1223=白書の会「実態調査促進運動に全面協力」。原爆小頭症の認定児は全て医療保護されることを決定。 |
|
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1226=平和の会「被爆者招待クリスマス」 |
| 1968 |
|
0108=フェニックス号北ベトナム公開記録公開。 |
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0111 |
ヒロ研第14回:新年における会員夫々の抱負を話し合い新年の展望を概要的にまとめる。 |
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0114 |
第1回対話のつどい開催準備。 |
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0115=第1回対話のつどい―青年とヒロシマ―。会員山本暁子発題。 |
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0125 |
ヒロ研第15回 |
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田原伯(原爆資料収集家)=ヒロシマの問題を一生の仕事として取り組んでいられる田原さんの話を通してもっともっと真剣にならねばならぬとおもった。 |
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0127=白書の会。女学院高校生徒が募金を朝鮮の人達に渡した。 |
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0208 |
ヒロ研第16回 |
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大牟田稔(中国新聞)「全国に散在するヒロシマをめぐるグループの動向」=ヒロシマをもっと知って欲しいという態度ではなく全国に散在するヒロシマに関心を抱いている人々との提携という態度が大切。 |
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0210=広島べ平連の第1回デモ。 |
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0215=原爆被災資料広島研究会結成。大本営建設の問題化。 |
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0222 |
ヒロ研第17回:セミナーの開催準備。 |
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0301=原水協・原水禁、ビキニデー全国集会(於静岡・焼津)。 |
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0301=市長を囲む市民対話の会。 |
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0302 |
ヒロ研第18回:セミナーの開催準備。 |
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0307=「青年の船」セイロンで青年対象のアンケート「日本でれんそうすることは」「ヒロシマ」が17%で1位。 |
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0308 |
ヒロ研第1回セミナー実施。 |
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0309 |
ヒロ研第1回セミナー |
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0310 |
ヒロ研第1回セミナー |
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0330=特別措置法が閣議決定国会提出。 |
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0311 |
厚生省の認定、被爆者追跡調査に数人の会員が参加。 |
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0312=原水協・原水禁「第五福竜丸、保存国民運動」計画にのり出す。 |
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0314 |
ヒロ研第19回:田原さんの提唱により、毎月6日に6時から八丁堀で「ピカより〇○日」のチラシ配りをすることを決定。「ピカより〇○日」の運動は少しでも市民に核戦争の恐ろしさを知って貰うと同時に広島の一市民として共に23年という年月の重みをかみしめようという趣旨から。 |
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福竜丸の保存の件について、ヒロシマ研究の会としては、はっきりした考えをだすことはできなかった。 |
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0316 |
第1回「ピカ〇○日」実施。爆心地調査に数人の会員が参加。 |
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0403=原爆被災資料広島研究会第2回会合「専門部会を設置」 |
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0323=白書の会。 |
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0404 |
ヒロ研第20回:実態調査・資料、外国人被爆者問題、平和運動。の3グループに分れてもっと問題を深めていくことに決定。 |
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0410=朝鮮人被爆者を囲む会、出席者が一人もなく問題の複雑さがわかった。 |
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0418 |
ヒロ研第21回 |
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平岡敬「広島の問題を深める」方向から助言。 |
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会員が春休みにアルバイトとしてやった実態調査の感想報告 |
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0418、0419=映画、記録なき青春。 |
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0420=原爆映画、幻のフィルム―初公開。 |
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0423=対話の会、広島ベ平連との提携、協力体制。 |
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0425 |
ヒロ研第22回 |
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森滝市郎「被爆者団体の動向と援護法」=今日の現存する被爆者は、広島・長崎あわせて30万人。原爆そのものもひどかったが、その後の2~3年の貧乏の方が辛かった。その間は、夫々自分自身の身のふり方を考えるのが精一杯で意識的に被爆者が、まとまるのは困難だった。被団協などのグループが生まれたのは訳10年を経過してからであった。昭和29年のビキニのとき「広島の百万名署名」と名の残っている様、市民の意識が高まった。被爆者問題と原水禁運動が2本の基本底流をなすものであり、被爆者の声には常に重きをおかれるべきものである。 |
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0426=厚生省、広島県、市、長崎県、市、が実態調査の実施について審議会。 |
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0430=海田町原爆被害者の会240名の体験談を収録した被爆者懇談集録」を発刊。 |
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0431=基町、5度目の大火。 |
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0505=折り鶴の子の像、除幕10周年記念式典。 |
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0506 |
第2回ピカ○○運動実施。 |
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0511 |
ヒロ研会員合宿=各自夫々被爆者訪問を通して精神的継承というか、祖父、祖母の話を孫の様な気持ちできき継承していこうということに決定。 |
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0512 |
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0511=山口県、原爆被爆者福祉会館「ゆだ苑」完工。 |
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0512=広島県スラム対策に調査費1千万円を計上。 |
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0514=プルトニウム国産化成功。平和利用国で4番目。 |
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0515 |
ヒロ研第23回:実態調査の促進運動について、ヒロシマ研究の会なりに目安をたてた。 |
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0517=学術会議、「原爆被災資料広島懇談会」を開催(於広大原医研)。「原爆被災資料センター」けんせつについての意見をきく。 |
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0520=映画「広島の証人」上映協力委員会発会式。 |
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0521=被爆者バッジができる。 |
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0523 |
広島女子大において原爆映画を考える写真展を開催。~25日。 |
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0525=佐世保の放射能汚染問題で米原子力委員会の調査団は、「ソードフィッシュは、佐世保帰港期間中、放射性物質は1滴も放出していない」と言い残して帰国。 |
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0530 |
ヒロ研第24回例会 |
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森下弘「教科書の中の原爆問題」=学徒動員により生徒学生もいっせいにかり出された。こうした事実があるにも拘らず現在の高校教育において何ら教えられていない。ただ一部の教師の自主性に頼っている状態だ。又原爆映画の視聴率から見て高校生の間に意識が必ずしも低いとはいえない。しかしヒロシマが自分の問題となりえないところに問題がある。もっと何らかの形で日常的にとり入れられる様にすることが必要ではないか。 |
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0605=映画「ヒロシマ 1966年」 |
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0606 |
ヒロ研第25回例会。第3回ピカの運動実施。 |
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この一年についての率直な反省がなされ今後の方針について話し合いが行われた。会員募集の機会を何度も作ったにも拘らず、尚かつ会員が増えない。ヒロシマの問題が、オキナワ、ベトナムに比べて現代の若者にとって魅力あるものになりにくいということを示すものではないだろうか。私達はいつでも誰でも自由に出入りできる開放的な若さあふれるヒロ研にしてゆくことによって新しい感覚のヒロシマを私達青年の手で創って行かねばならないと思う。 |
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0606=園田厚生大臣:被爆者の全数調査を国勢調査に付帯して実施することは至難だが、市町村が独自で調査できる様補助費を出すと発表。 |
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0608=対話の会。第2回市民対話の会の準備。 |
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0613 |
ヒロ研第26回例会:2年目の展望をたてる。 |
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0613=社会党、共産党との統一協議断わる。 |
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0615=第2回市民対話の会。岡村昭彦、本多勝一 |
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0616=ヒロ研1周年記念会。 |
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