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NEW YORK TIMESに見る日本の原爆報道(1945年)

[メモ]”THE NEW YORK TIMES INDEX” で検索した記事の見出しと、記事の要約を記した。

月日 頁-段 記事概要
08.07 1-7 UP WASHINGTON, Aug. 6 TRAINS CANCELED IN STRICKEN AREA  Traffic Around Hiroshima Is Disruped Japanese Still Sift Havoc by Split Atoms [大阪ラジオ、広島地域で列車が不通になったことを報じる。同盟がトルーマン ・アトリーの発表を報じる。OWI(戦時情報局)、トルーマン声明を日本に向け放送]
08.07 1-7 UP LONDON, Aug. 6 [同盟、被害は調査中と述べる]
08.08 1-5 Japan Keeps People in Dark on Nature of New Scourge [日本、爆弾の性質を国民に知らせず。同盟および日本の他のラジオ、新聞のコ メント]
08.08 7-2 Tokyo Reports a Prince Killed by Atomic Bomb [同盟、李殿下が死亡したことを伝える]
08.09 1-3 Hiroshima a ‘City of Death’ [東京ラジオ、海外向け放送で広島の破滅を報道]
08.10 2-6 Prince Killed by Bomb is Praised [東京ラジオ、李殿下死去に対する阿南陸相の遺憾の意を報道]
08.10 5-3 Foe Threatens Retaliation Tokyo Cities Poison Gass [シンガポールの日本放送、報復を示唆。東京ラジオ、毒ガスと比較]
08.11 1-6 Japan Protest to U.S. on Missile [同盟、日本政府が、原爆投下についてスイス政府を通じてアメリカ合衆国に抗議を行ったと報道]
08.11 5-6 Japanese Depicts Horror [東京の放送、日本人兵士の広島目撃談を報道]
08.13 1-7 Tokyo Newspapers Again Urge Unity [東京の新聞、ラジオの論調、日本人スポークスマン、防御可能と語る]
08.14 3-4 Japan Belittles Effect Of Our Atomic Bomb [シンガポールの日本放送、広島の被害を過少評価。同盟、市長と二人の官吏が死亡したことを報道]
08.15 3-2 Emperor Informs People of Defeat Hirohito Read Edict on Radio-Advices Japanese to Act Prudently in Coming Days [ヒロヒト、原爆による国の破滅回避が降伏の理由であると述べる]
08.15 3-3 Text of Hirohito’s Radio Rescript [ヒロヒトのラジオ放送テキスト]
08.17 6-4 Japanese Change Tune On Atomic-Bomb Morality [日本の原爆論調、非難から賞賛に変わる]
08.20 22-1 UP WASHINGTON, Aug. 19 Hiroshima in Ashes, Tokyo Says [東京ラジオ、広島が灰塵に帰したと報道]
08.22 4-7 NAGASAKI REPORTED IN RUINS Tokyo Says Atomic Bomb Tore Buildings 10 Miles From City [東京ラジオ、長崎が灰塵に帰したと報道]
08.23 1-6 UP SAN FRANCISCO, AUG. 22 Tokyo Puts Tolls of Atomic Bombs At 190,000 Killed and Wounded [東京ラジオおよび同盟の原爆被害についての報道。鳥居技師の調査報告。原爆の人体にもたらした計り知れない影響]
08.25 3-1 UP SAN FRANCISCO, Aug. 24 JAPANESE STRESS HIROSHIMA ‘HORROR’ Atomic-Bomb ‘Radioactivity’ Killed 30,000, Says Tokyo – Sympathy Effort Seen SUCH EFFECT DENIED HERE Enemy Radio Talks of Toll Still Mounting From ‘Burns’ Caused by ‘Rays’ in Area [日本の放送、爆発後2週間の間に3万人の被災者が放射能のために死亡したと報道。オッペンハイマー博士のコメント]
08.27 3-5 Tokyo’s Figures on Air Casualties [日本タイムズ、広島・長崎の原爆犠牲者数を報道]
08.28 3-8 ATOM BOMB DID IT, ENEMY PRINCE SAYS Premier Adds That Emperor’s ‘Love of the People’ Also Prompted Surrender [東久迩宮、衆議院で原爆と天皇の国民への愛が聖断をもたらしたと述べる]
09.01 4-5 UP SAN FRANCISCO, Aug. 31 YONAI DENIES WAR GUILT Japanese Navy Chief Says He Would Have Opposed Attack [米内光政、原爆が日本の降伏をもたらしたと述べる]
09.04 7-1 AP TOKYO Sept. 1 (Delayed) Japan Still Censors Bomb News [日本の新聞、記者の現地報告を掲載(広島)]
09.04 7-2 UP SAN FRANCISCO Sept. 3 Nagasaki Plant Life Revives [東京のラジオ、長崎の被害を報道]
09.05 1-7 TOKYO, Sept. 4 by ROBERT TRUMBULL [高橋代議士、原爆が急激な降伏の原因であると述べる]
09.06 1-6 TOKYO Sept. 5 by FRANK L. KLUCKHOHN JAPAN’S PREMIER EXPLAINS DEFEAT Tells Diet Nation Was Losing Fast Before Atom Bomb and Soviet Entry Sealed Fate [東久迩宮、日本敗戦について議会に報告]
09.06 3-2 Japanese Premier’s Talk to Diet on Reasons for Defeat [東久迩宮報告テキスト]
09.07 3-2 5 MILLION CASUALTIES LISTED BY JAPANESE [広島県と長崎県、死傷者を発表]
09.07 3-5 He Hopes to Cure Victims [東京のラジオ、都築正男の障害区分を報道]
09.09 34-2 UP SAN FRANCISCO, Sept. 8 SICKNESS AFTER VISIT TO HIROSHIMA DENIED [東京のラジオ、東京帝大栗本博士の広島調査結果を報道。入市者への影響を否定]
09.09 35-7 AP TOKYO, Sept. 8 HIROSHIMA TOLL 126,000 Domei Reports Figures Given by Prefectural Government [同盟、広島において12万6000人が死亡したと報道]
09.13 4-6 TOKYO, Sept. 12 by W. H. LAWRENCE NO RADIOACTIVITY IN HIROSHIMA RUIN Army Investigators Also Report Absence of Ground Fusing – 68,000 Buildings Damaged [ファーレル代将、広島の調査結果について発表。広島に放射能が残留しているという説を否定]
09.15 4-1 AP TOKYO, Sept. 14 HIGASHI-KUNI BIDS U.S. FORGET DEC.7 Premier Says Japan Then Will Forget Atom Bomb and Start Anew as Peacefull Nation [東久迩宮との会見。東久迩宮、米がパールハーバーを忘れれば日本は原爆を忘れると発言]
09.15 4-2 United States Reaction Is Cool [米国は東久迩宮の発言に冷ややかな反応]
09.16 27-2 TOKYO ‘RECONSIDERS’ ATOMIC BOMB EFFECT [同盟、原爆放射能の影響は1週から10日後には無くなったとの二人の日本人科学者の発言を報道]
09.19 5-1 M’ARTHUR CLOSES ASAHI, TOKYO PAPER Orders 48-Hour Suspension for Mocking Comment on Our Atrocity Reports SHARED GUILT-CHARGED Foe’s Editional Says Atom Bomb’s Use Is Inhumane – Other Journals Coopetate [マッカーサー、朝日新聞に発行停止を命令]

 

「原爆と平和」展(主催:広島平和協会)

時:1950年2月11日~3月12日

場所:広島市中央公民館

dc500211

「原爆と平和」展内容案内

第1部 原子力

世界平和は広島から(電動装置)
原子力の象徴
元素発見の科学者
原子と湯川博士
元素表
原子図解
原子の生産
三大国と原子力
世界のウラニューム鉱山
アメリカ原子力工場の分布
原子エネルギー製産地
原子の威カースツテイン博士
原子爆弾の威力
原子の発熱量(ウラニューム)

第2部 原爆と広島

被爆直後の広島(モデオラマ)
被爆前の広島
被爆後の広島大観
被爆状況の詳細
長崎と原爆

第3部 戦争の回顧

真珠湾攻撃
原子爆弾と竹槍(東京空襲)
日本海軍の終焉

終戦の大詔
ミズリー艦上の降伏調印式
日本新憲法
戦費と人的損害
戦争と結果
日本の生きる道

第4部 原子力と平和

原子力と工業
原子力と交通
原子力の応用
原子力と医学
放射線と保護
原子ニュース(特設自動回転)

第5部 平和と産業

世界現勢要図
世界貿易産業図解
日本産業貿易大観

第6部 世界平和と広島

広島平和宣言
広島ピースセンターの構想
招来の大広島(パノラマ)
世界国家への構想
文化国家日本の将来
広島平和協会

広島青年文化連盟

広島青年文化連盟 1946年2月24日発会式

参考資料

今堀誠二『原水爆時代-現代史の証言(下)』( 三一書房  19590721)
山代巴『原爆に生きて』(径書房  1991072503)
渡辺力人・田川時彦・増岡敏和編『占領下の広島-反核・被爆者運動草創期ものがたり』(日曜舎 1995070103)

 

出典:「原水爆時代-現代史の証言(下)」

青年運動と青年教師

大会に結集された原爆反対運動の底流をさぐってみると、広島青年文化連盟の動きを見のがすことはできない。1944年の春、広島の高等学校(旧制)や高等師範をおえて、東大・九大・広島文理大などに進学していた学生-須浦寛・大西享邦氏など20余名が、敗戦直後の広島で冬休みを迎えた時、青年運動を起そうという相談をはじめた。一般青年や広島女専の生徒がこれに加わってきた。翌年2月の発会式には、山代巴氏をむかえて講演会を開き、その後はもっぱら尾道図書館長中井正一氏の指導をうけた。中井氏は、日本敗戦の原因をわれわれ自身のあきらめ根性・みてくれ根性・ねけがけ根性に求め、こうした封建制を無くなすことが文化運動の基本であると論じて、この青年運動に方向づけを与えた。

初代の委員長は大村英幸氏であったが、半年後には峠三吉氏がこれにかわり、その後長く連盟を支えた。事業としては、レコードコンサートから中学生の受験講座まであって、雑然たるものであったが、のちに社会科学研究部が作られると、会活動の中心はこれに移った。社研といっても、サルトルの話をきいたり映画の合評会をやったりという調子で、社会勉強の会であったが、中本剛教諭を中心とする原爆の子の作文教育運動がはじめられていた点は重要である。49年の平和擁護大会には、連盟として主催団体に加わり、峠・大村・中本氏らをはじめ、多くの人が積極的に動いて、大会を成功させる原動力となった。

原爆が投下された時、中本氏は広島市荒神国民学校の訓導であったが、学童疎開で安佐郡久地村に赴いていたため、難を免れた。8月8日に児童の家族の被害を調べるため、広島市に向った。原子砂漠の入口の横川橋畔では、黒焦げになった兵隊の死体が、定位置につっ立ったままで橋を守っているのに、まず驚かされた。荒神学校は全滅で人影がなく、死の静寂が不気味に支配していた。防空ごうのドアをあけると、児童の死体が目にはいった。頭を真二つに割られている。受持学級の子どもで、疎開をいやがり、広島に残ったため、難にあったわけである。中本氏は新婚間もない妻の安否が気になってたまらなくなった。女性の負傷者や死体に行きあうと、妻ではないかと目を見張った。彼女の勤務先の青崎国民学校にたどりついた。校庭には被爆者の死体を焼く煙がたちのぼり、そのそばに魂を失ったような人が一人、茫然と立ちつくしていた。それが妻であった。お互いに生ぎていることが信じられないほどであった。

原爆の体験は中本氏の世界観を変えた。青年文化連盟や組合活動に、進んで加わった。中井正一氏がインテリのみてくれ根性を批判し、それが最高までいったとき、自己矛盾の結果として街頭に飛び出していくと説いた時、中本氏は街頭に出る決意を固めた。47年に段原小学校に転任したが、その前後を通じて、国語教育を研究テーマにしていたので、子ども達に「生活つづり方」を書かせた。被爆の体験や、原爆症の苦しみを書く子が出できた。やがて同僚の協力を得て、純真な子ども達に原爆体験記を書かせる仕事を始めた。子どもの作文も逐次成長し、佳作の五○余編は大村氏や峠氏の手で、いろいろな機会に発表された。長田新編『原爆の子』が生れるまでには、こうした先駆的な努力があったわけである。

中本氏の受持学級では、子どもがみな現実を正しく観察し、ありのままを理解する力を、身につけるようになった。平和擁護大会で山根君の語った体膜談が、聴衆に深い感銘を与えたことは、彼の教育活動の成果を示すことになったが、彼自身は49年11月に、右の大会に出席したことも一つの理由となって、教職から追放された。平和擁護は権力者にとって許すべからざる犯罪行為だったのである。

中井氏は国会図書館ができるとその副館長となって広島を去り、社研は私が顧問格をひきうけて、55年頃まで資本論などの研究会をつづけた。朝鮮戦争のさなかに、このグループの若い人々は、研究会の会場にも困りながら、勉強と社会的活動を勇敢にやりぬいた。嵐にもめげず、小さい保塁の中で友情をあたためあいながら、毎週研究会をひらき、平和のためのたたかいに、積極的に参加している姿は、貴いものに思えた。峠氏の死後も、青年連盟の殿軍の名をはずかしめなかったが、私の消極的な指導のために、孤立主義に陥って大衆からはなれ、平和大会の決議を運動に発展させることはできなかった。
歴史の重み

平和擁護大会は、松川事件のフレーム・アップが頂点に達した前後に開かれている。青年婦人層を中心とする市民の自覚を背景として、原爆禁止ののろしをあげながら、ヒューマニズムにのっとった、平和への道を要求したわけである。第三次大戦がさけられないようにみえた時、破局のまえに、大手をひろげて立ちはだかった形であったが、大会を支えた力の中には、国民運動を展開するだけの積みあげがなく、討議の結果、そういった運動方針をうち出すこともしなかったので、時局の重大性と対決することはできなかった。これにはいろいろな原因があるが、大会が世界労連の企画であったにもかかわらず、日本の労働者が、平和問題に対して、充分な認識をもっていなかった点を指摘しなければならない。共産党に例をとると、同党が大会につくした功績は大きい。党の県委員会機聞紙『ひろしま民報』の編集長大村英幸氏は記者とカメラマンを総動員して大会記事の取材にあたり、10月10日号をその特集号にあてた。一面トップの大見出しは「原子兵器の禁止-広島市民から全世界に打電」となっており、二面のトップも「平和へ胸うつ願い-せつせつ広島大会の感動」と題して、それぞれ詳し い記事をのせている。原爆禁止に視点をすえた、思い切った編集ぶりであったが、この号は、労働者からはまったくうけなかった。当時の共産党広島県委員長は大村氏に対して、「こんな面白くない編集ではダメだ」と文句をつけた。党員の中には松江・峠・大村氏など、大会の推進に当った人が多く、アカの集会といわれた程、彼らの努力は大きかった。配炭公団細胞では最初から、原爆反対の声を大会に持ちこもうと決定していた。ただこの人達はいずれも共産党内のインテリ派であって、党内のプロレタリア派は大会に対して熱意をもたなかった。日本の労働著が、松川事件でわが家に火がついているにもかかわらず、消防隊に相当する国民運動を、「原爆死か平和か」の形で展開できないとすれば、歴史の重みをになうことは不可能な相談であった。

出典:「原爆に生きて」

占領下における反原爆の歩み

一九四六年二月のある日、これからの生活の相談で栗柄の母の家へ帰った。そのあとを追うように広島文理科大学の大村英幸という学生が、栗柄の家の私を訪ねて来た。どうして巴がここにいるのがわかったのかと、母は不思議そうに聞いた。彼は私が治安維持法の犠牲者であることや、今は三原の農業会の二階にある農民連盟の事務所にいることを、広島の『アカハタ』読者から聞いて三原の農業会を訪ねたが、今日は栗柄へ帰ったと聞き、府中の『アカハタ』取りつぎの河村書店を訪ねて行けばわかるだろうと、彼は糸崎から汽車で府中へ来て、河村書店で栗柄の家の位置を知り、自転車を借りて、高い坂の上まで訪ねて来たのである。私はその行動力に驚いた。

彼はすでにささやかながら「広島青年文化連盟」という葉まりをつくっており、この二月の最後の日曜日の午後、荒神小学校の教室を借りて、「広島青年文化連盟」のはじめての講演会を開くことにしているから、話しに来てくれと言った。

私は、GHQの二世の将校から、原爆について批判めいたことを言うと、沖縄送りにすると言われていることを話した。彼は「原爆の悲惨は、広島に住んでいる青年の方がよく知っているから、それについてGHQを刺激するようなことは話してもらわんでもいい。僕らは何かせずにいられないから集まるんです。プレスコード(占領軍による言論統制)で発表を禁じられていても、体験したことを書き残すこともできる。こわれた瓦のかけらでも、ぐにやぐにやに溶けてかたまったガラスの瓶でも、取ってかくしておくことはできる。誰にでもできるそういうことから始めようとしているんです・・・」

彼はごく平易にそういうことを話すのだが、高等師範学校時代に、トルストイの『戦争と平和』、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』なども読み、日本文学にしても、森鴎外の『伊澤蘭軒』のようなむずかしいものを愛読していて、空襲で焼かれるのが惜しくて、へーゲルの原書など大事な本を、山陽線松永駅から近い柳津の生家へ持ち帰ったのが、八月五日夜。翌日の朝の一番で広島へ帰る汽車が、大阪空襲でおくれたため、ピカドンは西条駅で迎えたという偶然から、命拾いをしていた。多くは口にしなくても、軍国主義でおしつぶされそうな大学にいながら、ひそかにヒューマニズムを培った思慮の深さは、瞳や態度からにじみ出ていた。

私はこの青年の行動力と思慮深い態度にひかれて、二月終わりの日曜の午後、広島の荒神小学校の教室を訪ねた。迎えに出たのは、痩せてはいるが骨組のがっしりした青年、この学校の教師中本剛先生だった。ここは爆心地から二百五六十メートル北にあるので、校舎はすべてペシャンと倒れても火事にならなかったから、教師たちは倒された講堂を起こし、木を組みたて、トンカチ、トンカチ、槌や鋸を動かして、四つの教室をつくっていた。私らはその一つに集まったのだが、窓ガラスは破れたまま。窓枠の向こうに見えるのは焼野原。押し上げ窓の小屋は幾つか見えたが、人の住む町とは思えなかった。

集まったのは二十人足らず。私はギリシャ神話の、希望だけが残されたパンドウラの話と、豪胆な抵抗を貫いたプロメテウスの話をした。話のあと痩せて青白い顔の、華奢な体に借り物のような大きな黒いマントを着た、おっさんふうの人が近づいて握手の手を差しのべた。これがのちの『原爆詩集』の作者、峠三吉だった。

座談のとき私は、十一月終わりの駅前広場で焚火をかこみ、タ間暮れの瓦礫の焼野のはるか彼方で、槍倒しの楠とかいう大樹の芯が燃えている煙が、まっ直ぐに空高く昇っているのを見たときの、言いようもない淋しさを話し、今日はあの楠のそばへ行ってみたいと話した。私の話を聞いていた放浪者ふうの青年が、「そんなら案内してあげます。あのそばに親戚の者がおりますから」と言って、会が終わると私を連れて、楠のそばの親戚へ案内した。はからずも彼が連れて行った家の叔父さんは、長い間、この片隅で、差別に反対の抵抗心を燃やし続けた人だった。私が因われの五年を過ごしたことも、肉親のことのように聞いてくれ、「今夜はここに泊まりなさい」と言い、暗くなると小屋の外の、ドラム缶の露天風呂へ入れてくれた。

近くの屠牛場で働いているとかで、夕飯には牛のこま切れのすき焼きを食べさせ、「人間がピカドンのように恐ろしいものをなくするためには、同じ人間を四つだの、非人だのとさげすんで、人のいやがる仕事をさせて来た、差別との闘いと同じように、長い闘いがいると思いますのう」と、私のこれから先の闘いに希望を持たせ、勇気を与えた。
私が彼[峠]とはじめて会った一九四六(昭和二十一)年二月のころの彼は、荒神小学校の前の小屋で貸し本屋をしていたのである。あのとき荒神小学校の教師だった中本剛によれば、校舎を起こして教室をつくり、やっと授業が始まったころ、学校の前の土塀の道に食べ物を売る小屋や衣料を売る小屋が次々と建った。その中に「貸し本」の看板をかけた小屋ができた。「おい親父、わしの読むような本はないか」と店へ入ると、「あなたは何をする人ですか」と、痩せた青白い男が出て来た。「わしはこの前の小学校の教師じLじゃ」。男は頭の横を指でとんとんと叩いて、「教師はここが百年おくれています」と言った。面白い男だなと思った。それが峠三吉だった。この出会いから、被爆の惨禍を見るまで軍国主義のこりこりだった中本剛は、峠の助言で急速にヒューマニストになったと言っている。

二月の荒神小学校での集会のあと、広島青年文化連盟の中心メンバーは、三吉の住む翠町の家の二階を会場にして読書会をひんぱんに開き、社会科学、宗教、哲学、文芸などの研究や講演会、夏期講習会、レコードコンサート、音楽会、美術展など多彩な活動をひろげ、機関誌『探求』を発行した。そこには峠の詩も載り、「新時代への苦悩」と題するエッセイも載り、広島文理科大学や広島女子専門学校の進歩的学生を中心に、一般社会人の間にもひろがり、二・一ゼネストの前の吉田内閣打倒国民大会や翌年のメーデーには、峠三吉草案のメッセージを送った。
大村英幸が、広島青年文化連盟をつくるに至った事情は、八月から十二月まで大学は開校しないし、友達四、五人つきあってはいるが何をしていいかわからない。学校で残っているのは宇品に近い広島女子専門学校だけ。須浦という学生がそこにあった電蓄を一日かけてなおした。小田や大西が家にあったレコードを持って来てかけてみたら音が出る。それがささやかなレコードコンサートになった。原爆について言ったら沖縄送りになることを知っているから、原爆の遺跡を残そう、焼け瓦の一部でも残しておこう、体験を書き残しておこう、そういう組織をつくろうとその年の十二月に発足したのが、「広島青年文化連盟」だった。私が行った一九四六(昭和二十一)年二月の荒神小学校での集まりのときは、須浦や小田は東京の学校へ帰っており、大村が委員長になり、社会人の峠らも加えて歩みだした。私のあとすぐに呼んだのは中井正一先生。焼けて宇品へ移っていた国鉄の管理部で、中井先生は私の故郷で話されたと同じ趣旨の、あきらめ、みてくれ、抜けがけの三つの根性の話をされた。それは共鳴者を得て、大村は毎月のように中井先生を案内して、あちこちの職場を訪問した。

国鉄管理部の総務部長や日通の支店長などは、大正デモクラシーから昭和のはじめにかけてのデモクラシーの中でマルクスの本も読んでおり、絶望的な気持で軍国主義へ走らされた経験から、自分の下の若い者が労働組合をつくる動きを応援していた。そういうところへ学生服を着て、共産党の機関紙『アカハタ』を持って行く大村は、待ち望まれる星だったのだ。日本共産党に入り、党の組織づくりに忙しくなった大村は、青年文化連盟の委員長は峠に譲り、大村は副委員長になって青年文化連盟の機関誌『探求』の発行や編集の責任者になり、いろんな文化活動をすすめた。

その夏は、東京の大学から小田と須浦が帰って来て、塾を開いて稼いだ金を青年文化連盟に寄付してくれ、大村や峠の活動を助けた。八月六日になると花電車が走り、家ごとに蒲鉾がくばられた。それは被爆者へのご機嫌とりであることは見えすいている。公に口にできないその怒りは、労働組合の結成へ、吉田内閣打倒国民大会へともりあがった。各職場で二・一ゼネストヘ向けての集会が開かれるころの大村は、共産党中央から派遣されたオルグ塚田大願の片腕になって職場をまわっていた。

一九四七(昭和二十二)年の八月六日の平和式典にはマッカーサーのメッセージがおくられ、片山内閣(社会・民主・国民協同党の三党連立)を代表して文部大臣森戸辰男氏、参議院議員を代表して山下義信議員が参列した。マッカーサーは原爆の出現が戦争の意味を一変させたことを強調し、原爆は人類を絶滅に導くと説き、「この広島の教訓が等閑に付せられざるよう、神よみそなわせ給え」と結んでいた。広島平和祭協会の会長、浜井信三市長は、爆心地に設立した平和塔前の広場で、平和式典、慰霊祭、平和の鐘除幕式を行った。午後は、みこし、だし、仮装行列が市中をねり歩いた。被爆者は眉をひそめ「何のためのお祭り騒ぎ」と批判の声もあがった。

一方では、広島県下のすべての労働組合が参加している労働文化協会が、この八月、県下二十二か所で夏期大学を開いていた。これは労働文化協会会長の中井正一氏が、前年の尾道での夏期大学の成功から、憲法の中村哲氏、歴史の羽仁五郎氏など、有名な学者、文化人二十一名を講師として呼び、広島大学の教授や、労働文化協会の会長、副会長も講師団に加わって、二十日にわたって県下を歩く壮大な文化活動だった。広島青年文化連盟もこれに加わり、広島では、会場の国鉄企画部にあふれるほどの聴講者を集めた。講師は誰もが、含蓄のある講議をし、職場で、地域で、平和へ向かって歩む基礎知識を吸収させていた。

一九四八(昭和二十三)年春、文理科大学哲学科の卒業生は六人、大村英幸はその中の一人だった。彼の卒論は「ヘーゲルの法哲学へのマルクスの批判」で、先生から「良くできました」とほめられている。だが彼は出世コースはたどらず、共産党広島県委員会の機関誌『ひろしま民報』の責任者になっていた。『ひろしま民報』読者としての私が忘れられないのは、四九年六月の日本製鋼所広島工場のストライキの報道だった。ドッジプラン(四九年、GHQ経済顧間ドッジが指導した財政金融引締政策)

出典:「占領下の広島」

広島青年文化連盟のこと

[楠]広島青年文化連盟はいつ結成されたんですか。広島における戦後最初の文化運動ですよね。大村さんが初代委員長で・・・。

[大村]たしか1945年12月だと思います。あの当時なんにもなかった。それでよい音楽を聞こう。被爆の実相を残そうというのが目的でした。そしてみんな新しい知識に飢えていました。いろんな人を呼んで講演会や講座を開きました。原子物理学の仁科芳雄博士の話も聞きました。中井正一、山代巴、労働文化協会といっしょに憲法の中村哲、歴史の羽仁五郎、右以外の人は数多く呼んでおおいに全県下でやりました。なかでも中井先生は立派な人物でしたね。この方が私らに大きな影響を与えました。

弁論大会も開きました。中四国の大学・高等専門学校の生徒で。優勝したのは富永君(現・黒川万千代さん)でした。

中心メンバーには学生の柘植、大西、織田、須浦君らがいました。この4君はその後、東京などの有名大学の教授となった学者です。また、仲間のなかにはお亡くなりになった佐久間澄先生の弟子たちが多くいました。もちろん私のあと広島青年文化連盟の委員長を引き受けてくれた峠三吉もいっしょでした。

そうです。音楽会や前進座やプークの公演もやりました。機関紙「探究」も発行しました。はじめ文学部長と宗教部長が峠さんで、歴史部長が三谷藤四郎さんだったかな・・・。

広島で劇団もつくりました(広島芸術劇場)。横川あたりでやった劇のシナリオもつくりました。九州のアメリカ軍に許可をとりにいったら、原爆に関係する部分はプレスコード違反ということで全部削られました。杉田俊也君は劇団の八月座→トランク座をつくっていました。彼は朗読がうまかった。だから日鋼争議のとき峠三吉の詩「怒りのうた」を群衆の前で朗読してもらいました。

私はこういう活動を続けていたらよかったんだが、徳毛宣策さんからどうしても日本共産党の専従に出てこいと言われて県委員会に出ました。そして「ひろしま民報」の編集をやりました。衆院選挙も一区でやりましたよ。その時、原田香留夫候補は次点までいきましたね。

峠さんはうちによく来ていっしょに飯を食いましたよ。彼は原爆は絶対だめだというものすごい勢いのある詩をつくってくれました。要請すると必ず応えてくれる人でした。日鋼争議の「怒りのうた」や原爆詩集にある「八月六日」もそうです。

先輩の井伏鱒二も「黒い雨」など立派なものを書いて残しました。四国五郎君も反原爆の絵を書いています。

ただ原爆が落ちたというだけでは聖地にはなりません。原爆というものを二度と世界に使ってはならん。そういう運動の聖地にせんといかんと思います。

中国文化連盟

結成:1945年12月17日

 1945年12月17日,広島近郊の国民学校で栗原唯一・貞子夫妻を中心に結成.細田民樹・畑耕一を顧問とするこの連盟は,翌46年,「中国文化人追悼大会」という名目で原爆犠牲者追悼大会を開催し,参加者150人が慰霊と平和の誓いをたてる.同連盟は,46年3月機関誌『中国文化』を「原子爆弾特輯号」と銘打って創刊し,8月には栗原貞子の詩集『黒いたまご』(原爆詩「生ましめんかな」を収録)を出版.『中国文化』の発行人であった栗原唯一は呉市にあった米軍民間情報部に呼びだされ,「原爆の惨禍が原爆以後もなお続いているというような表現は,いかなる意味でも書いてはならない」と厳重に言い渡される(栗原貞子『「中国文化」原子爆弾特集号・復刻』,『黒い卵―占領下検閲と反戦・原爆詩歌集』).

広島戦災児育成所

開設:1945年12月1日

広島戦災児育成所要覧[抄] 1948

一.沿革

1.広島市原爆による孤児の収容施設を設置のため山下義信氏発起し広島県労政課協力し広島市労務課賛同し原爆後直ちに即ち10月中旬より山下氏を中心に計画をすすめ、県有土地建物の使用認可を得て開設した。開設費は山下氏個人の支出するところであった。

2.開設と同時に広島市の学童集団教育所を併設し学校教員数名宿泊し所内の小学校教育を開始し昭和23年3月までこれを継続した。

3.昭和21年8月6日の原爆記念日を期して財団法人広島戦災児育成会の設立認可があった。

4.爾来食堂浴場便所児童寮(4棟)を増築し更に最近2棟を建築完成した。

5.昭和22年5月9日神父フラナガン氏来訪した。

6.昭和22年12月6日天皇陛下御巡幸をお迎えした。

7.昭和23年10月23日高松宮殿下御来所。

二.創設年月日

1.昭和20年11月1日設立準備開始。

2.昭和20年12月1日開設。

3.昭和20年12月23日第1回児童入所。

4.昭和21年1月19日開所式挙行。

[以下略]

文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会

1945年9月14日設置(文部大臣名の発令は10月24日)

委員長:林春雄(学術研究会議会長、東京帝国大学名誉教授)

9科会(科会長はすべて東大教授)

科会名

科会長
1.物理学化学地学 西川正治
2.生物学 岡田要
3.機械金属学 真島正市
4.電力通信 瀬藤象二
5.土木・建築 田中豊
6.医学 都築正男
7.農学水産学 雨宮育作
8.林学 三浦伊八郎
9.獣医学畜産学 増井清

第1回報告会。 1945年11月30日、於東京帝国大学。

山崎匡輔科学教育局長挨拶「今回原子爆弾の災害調査につきまして、各般の権威の有る方々に御調査をお願い致すことを決定致しましたところが、学研の方でこの問題を喜んでお取上げ下さいました。いま少し小規模な御研究を願いたいと思いましたのでございますが、皆様の非常な御熱誠の結果非常に完璧な研究団ができまして、私ども非常に衷心より感謝致している次第であります。」

第2回報告会。1946年2月28日、於東京帝国大学。
「昭和22年度末まで3カ年にわたって作業を継続したが、主要な調査研究は昭和20年度(昭和21年3月まで)に行われた。」

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』

(日本学術振興会、1953年5月5日)

理工学編 38編
生物学編 6編
医学編 130編

「医学科会は特別委員会中最大の科会であり、約30名の委員、150名の研究員、1,000名の助手から成り、日本の全ての主要な医学部、研究所及び病院を代表している。」

都築正男メモ

医学科会への最初の協力者都築正男(科会長)、中泉正徳(東京大学)、菊池武彦(京都大学)、大野省三(九州大学)、井深健次(日本陸軍軍医総監)、福井信立、石黒茂夫、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

1945年10月任命

田宮猛雄、都築正男、佐々貫之、中泉正徳、三宅仁(東京大学)、木村廉、船岡省吾、真下俊一、菊池武彦、森茂樹(京都大学)、高木耕三、木下良順、布施信義、福島寛四(大阪大学)神中正一、中島良貞、小野興作、沢田藤一郎(九州大学)、林道倫(岡山医大)、古屋野宏平(長崎医大)、井深健次、平井正民(陸軍軍医)、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

主たる参加機関

東京帝国大学医学部、京都帝国大学医学部、大阪帝国大学医学部、九州帝国大学医学部、長崎医科大学、岡山医科大学、熊本医科大学、金沢医科大学、京都府立医科大学、山口医学専門学校、陸軍軍医学校、海軍軍医学校、広島陸軍病院、大野陸軍病院、呉海軍病院、岩国海軍病院、佐世保海軍病院、大村海軍病院、東京帝国大学伝染病研究所、厚生研究所。

1945年の調査対象

1.被害の統計学的調査、2.有害エネルギーの医学的調査

3.被災者の臨床的調査、4.人体に及ぼす残存エネルギーの影響調査

1946年度の調査の主要テーマ

1.死傷者の統計的調査、2.被災者の臨床的調査、

3.病理解剖的調査4.残存放射能の影響調査、

5.人間の遺伝調査

合同調査団の設置と日本側の研究調査の成果の吸収

都築の公職追放

1946年8月15日、公職追放(理由:6年間海軍軍医であったこと)

1947年3月24日、半年間の公職追放規定の免除の覚書(ウィットニィ軍政局長)

1947年7月16日、3月24日の覚書の取り消しの覚書(ウィットニィ軍政局長)

***1957年まで日本側の原爆症研究は中断

1947年4月、第12回日本医学会総会演説

菊池武彦(京都帝国大学教授)木本誠二(東京帝国大学助教授)「原子爆弾症の臨床」

参考文献

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』(日本学術振興会、1953年5月5日) B5版 1642頁

広島市役所編『広島原爆戦災誌 第5巻 資料編』(1971年)

広島県編『広島県史 原爆資料編』(1972年)

仁科記念財団編『原子爆弾-広島・長崎の写真と記録』(光風社書店、1973年)

広島市編『広島新史 資料編1 都築資料編』(1981年)

核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『医師たちのヒロシマ-原爆災害調査の記録』(機関紙共同出版、1991年)

広島折鶴の会

1958年6月22日?
一九五六年に発足して「原爆の子の像」を制作した「平和をきずく児童・生徒の会」の活動は、像の完成(一九五八年五月)とともにその主目標を終った。また子どもたちの身の上にも就職・進学などの変化かおとずれたため、なんらかの転換を必要とするようになった。たまたま一九五八年(昭三三)四月、映画「千羽鶴」に出演協力した子どもたちがいたが、彼らを中心にして新しく参加した子どもたちを加え、発展的に「折鶴の会」を発足させることになった。
この会は、河本一郎氏夫妻を世話役として一九五八年六月に発会し、中学・高校生で組織され、現在は約六〇人の会員をもっている。被爆者の慰問や世話、各国核実験への抗議、ボルゴグラード・ピオニールやアウシュヴィッツなど外国との交流活動などのほか、一九五九年(昭三四)からは市内の少年少女たちに呼びかけて、八月六日に「原爆の子の像」の前で平和集会を開くなどの活動を続けている。
広島平和文化図書刊行会(編)『ヒロシマの証言-平和を考える』日本評論社(刊)、1969年8月6日

1958年5月、平和記念公園の一隅に原爆の子の像が建てられ、さらに佐々木禎子の死をテーマにした映画『千羽鶴』も同年6月に完成した。この映画に出演した子供たちに、禎子の兄佐々木雅弘も加わって、広島折鶴の会が発足した。世話人は、禎子とは生前から親しく、子ども達への平和指導を続けてきた入市被爆者の河本一郎。以来23年間」、女子中学生を中心に200人を超える少年少女がこの会に参加し、被爆者救援に、また来広する世界の人々の送迎に、広島の子供たちの平和の灯を掲げ続けて今日に至っている。この間、1972年西ドイツのハイネマン大統領の招きで西ドイツを訪問、また韓国へも前後7回、平和の使節として渡り、被爆二世のビドルギ団とも交流しているほか、ブラジルのヒロシマ中学とも姉妹団体となっている。1981年現在の会員数は約10人。『広島県大百科事典』(橋本栄一執筆)より抜粋。

「星は静かに動いた そこにある平和37 新しい芽 折鶴の会 被爆者へいじらしい救援」 (『中国新聞』1961年8月1日)
ロベルト・ユンク『廃墟の光』
ロベルト・ユンク生誕100周年記念資料展 「ヒロシマを世界に伝える-核の被害なき未来を求めて-」
広島平和記念資料館・ユンク科研グループ(共催)
2013年2月15日~3月28日

年表:広島折鶴の会

事項
58 06 22 広島折鶴の会発足。
60 02 08 広島の「折鶴の会」の代表8人、ドゴール大統領宛の核実験中止署名3700余人分を浜井市長に渡す。
60 08 28 広島折鶴の会、原爆ドーム保存署名運動を開始。
65 02 11 広島「折鶴の会」、広島市に原爆ドーム保存資金として9181円と1300人の署名を提出。
68 10 06 広島折鶴の会、原爆症治療のため密入国した孫貴達の治療などを求めた嘆願書を赤間法相・園田外相宛に送付。
69 02 16 広島折鶴の会と韓国原爆被害者援護協会、広島市内で姉妹縁組の調印。約70人が参加。
69 07 25 広島折鶴の会、28日から韓国で開かれる夏季学校に参加する広島在住の韓国席の高校・大学生一行22人に、韓国原爆被害者援護協会にあてたメッセージや折り鶴を託する。
70 05 07 在日大韓民国居留民団広島県本部と韓国原爆被害者援護協会の幹部、広島折鶴の会を訪れ、少女たちの韓国への招待を申し入れ。
70 08 06 広島の女子高校生グループ「折鶴の会」、3月に白血病で死亡した8歳の被爆二世の少女をしのぶパンフレットを平和記念式終了後、遺族に配布。
70 10 12 朝日新聞「ひろしま文化:悲惨な韓国の被爆者-「広島折鶴の会」会員に聞く」
71 08 18 広島折鶴の会の少女ら8人、在韓被爆者慰問のため広島を出発。ソウル市に5日、釜山市に2日滞在し、在韓被爆者や韓国の被爆二世の会「ビドルギ団(鳩の会)と交流の予定。
71 09 29? 広島折鶴の会のもとに、韓国の被爆二世の団体・ビドルギ団(鳩の会)のメンバーによる父母からの聞き取りが届く。同会では出版を計画。
72 04 26 日米交換留学生としてアメリカに滞在した「広島折鶴の会」会員、帰広。米国原爆被爆者協会と折鶴の会が姉妹団体縁組み、「在米被爆者たちは広島からの医師団が来ることを心待ちにしている」と報告。
72 06 17 広島折鶴の会、韓国の被爆二世を平和式典に招待するための募金活動を開始。
72 07 30 「韓国被爆二世ビドルギ団」の4人、広島折鶴の会の招きで広島入り。14日まで滞在。
72 07 31 広島折鶴の会の招きで広島入りしている「韓国被爆二世ビドルギ団」の4人、山田広島市長を訪問。
73 05 07? 広島折鶴の会、韓国への原爆診療所建設のための募金活動(3回目)を広島市内で実施。
73 06 24 広島折鶴の会、創立15周年の集いをヒロシマし青少年センターで開催。出席した約30人の韓国人被爆者が「韓国人被爆者の会」を組織することを計画。
73 08 17 広島折鶴の会、韓国人被爆者の慰問のため広島を出発。韓国政府の招待による同会の訪韓は4回目。
73 10 09 広島折鶴の会、ハワイひろしま親善訪問団に、ハワイ在住県人会宛ての、在米被爆者救援をはたらきかける手紙託す。
74 02 06? 広島折鶴の会のメンバー韓国人被爆者の体験記集の作成を計画。
74 08 03 韓国被爆二世の会「ビドルギ団」の少女2人、広島折鶴の会のメンバーと広島女学院高校で懇談。
74 08 17 広島折鶴の会、韓国大統領暗殺未遂事件のため、この日からの韓国人被爆者との親善訪問の予定を中止。
74 11 23 広島折鶴の会、広島市の河村病院に入院中の韓国人被爆者・崔英順を見舞う。
75 09 13 広島折鶴の会、来日中の白光欽韓国原爆被害者援護協会副会長を招き親善懇談会を広島女学院高校で開催。
76 11 27 広島折鶴の会、河村病院に入院中の在韓被爆者・林福順を見舞う。
78 08 20 折鶴の会、韓国を訪れ、被爆者慰問。
78 10 09 ブラジルサンパウロ市の広島中学の役員来広し、「折鶴の会」と交流。
79 05 19 「広島折鶴の会」、広島県の南米訪問団に、在南米被爆者激励の手紙など託す。
80 04 20 「ヒロシマ折鶴の会」、ヒロシマ市中・高校校長の歓迎交流会開く。
83 02 20 広島折鶴の会のメンバーら、広島原爆養護ホーム「神田山やすらぎ園」を慰問。
83 07 99 カナダの作家コーリン・トーマスより、脚本執筆のため原爆症で死んだササキ・サダコについての資料を依頼する手紙が広島折鶴の会へ届く。
84 03 10 「広島折鶴の会」、放火で折りづるが焼失した動員学徒慰霊塔に折りづるささげる。
84 05 13 広島折鶴の会、広島市を訪れている在カナダ被爆者協会のメンバーに折りヅル、平和カレンダーなどを贈る。
85 01 17 ブラジルの日本語学校の生徒ら、来広し原爆資料館など見学、原爆病院を慰問。18日広島折鶴の会と交流。
85 11 06? 原爆をテーマにした戯曲「千羽鶴」の作者コーリン・トーマスから、同戯曲の脚本(日本語訳)などが、広島市の平和活動グループ「広島折鶴の会」に届く。
85 12 14 広島市、西独で出版される児童文学「サダコと千羽鶴」の插絵・折りづる(「広島折鶴の会」などが作成) を、ハノーバー市へ送付。
86 02 21 広島折鶴の会、広島-札幌間の航空便就航を記念して、北海道・広島町などに千羽づるを贈呈、広島市で贈呈式。
86 03 08 広島折鶴の会のメンバー、広島市平和記念公園内の原爆ドーム前で、ドームを国の特別史跡に指定するよう求める署名運動を開始。
86 04 17 広島折鶴の会、カナダ原爆被害者の会に親子縁組を申し込むメッセージなどを、カナダを訪れる広島市長に寄託。
86 05 09? 広島折鶴の会が1960年頃交流していたインド人のヒロシマ・ボガの消息が判明し、同会のメンバーら、交流の再開を呼びかける手紙を送付。
86 06 22 広島折鶴の会、ソ連原発事故の被災者に見舞いの折りづるを作成、ソ連共産党書記長に寄贈。
86 11 30 広島折鶴の会、国際駅伝広島大会に参加した韓国の選手に折りづるを贈る。
87 01 15 広島折鶴の会、韓国人原爆犠牲者の慰霊碑を平和記念公園内に移設するよう求める署名運動を開始。
87 01 21 ブラジル・サンパウロ市の日本語学校生徒(18名)、来広し、平和学習。広島折鶴の会のメンバーと交流。
87 06 18h 広島折鶴の会に、姉妹縁組しているソ連ボルゴグラード市のピオネール(少年団)から、旗など届く。
87 10 25 広島折鶴の会、広島市の平和記念公園「原爆の子の像」前で、原爆症で死去した佐々木禎子の追悼式開催。
88 04 27? 「広島折鶴の会」、1936年のベルリン・オリンピックに「日本人」として出場させられた韓国のマラソン選手に、折りづるを送付し、同選手から礼状届く。
88 07 25 「広島折鶴の会」、原爆ドームの設計者ヤン・レツルのめい(チェコスロバキア在住)にドームの写真などを寄贈。
89 04 02 広島折鶴の会、24年前のドーム保存運動のきっかけとなった日記を残した故楮山ヒロ子(1960年に白血病で死去)の墓前に献花、ドーム保存運動の再開を報告。
89 04 02 広島折鶴の会、カナダの小学校などから届いた千羽づる約2000羽を平和記念公園の原爆の子の像にささげる。
89 04 05? 旧広島県産業奨励館(原爆ドーム)の設計者故ヤン・レツルのめいから、「広島折鶴の会」メンバーに、ドーム保存への協力を訴えた手紙(1988年夏に送付)に対する返書が届く。
89 05 04? 広島折鶴の会、長野市の布コイ製造業赤石平太郎から託された「こいのぼり」をブラジルのヒロシマ中学校に寄贈。
89 06 02 広島折鶴の会と電気通信共済会中国支部、原爆ドーム保存募金協賛のテレホンカードを作成し、販売を開始。1枚1000円で、うち200円を募金に。
89 06 10 埼玉県与野市の与野西中学校生徒、修学旅行で来広し、「原爆の子の像」前で慰霊祭。チェコ・ナホト市へ贈る原爆ド-ムの絵を広島折鶴の会に寄託。
89 07 30 米ミシガン州の小学生より千羽鶴と平和メッセージが届き、「広島折鶴の会」メンバーらによって「原爆の子の像」に献納。
89 08 04 仏マラコフ市のミシェル・シボ助役一家、来広し、「原爆の子の像」前で「広島折鶴の会」と交流。
89 08 25 広島折鶴の会と電気・電信共済会中国支部、原爆ド-ム保存募金テレホンカ-ドの販売益金(80万円)を広島市に寄付。
89 10 14 米のアニメーション映画「サダコと千羽づる」の米国人プロデューサー、ジョージ・レベンソン、来広し、「原爆の子の像」に参拝。「折鶴の会」会員らと交流。
90 04 01 「広島折鶴の会」、原爆ドームの設計者のめいに送るため、補修工事の終了した同ドームを撮影。
90 04 01 「広島折鶴の会」、原爆ドーム保存運動のきっかけになった故楮山ひろ子の墓前に、ドーム補修工事の終了を報告。
90 05 28 広島折鶴の会、来広したチェコの体操選手団に、原爆ドームの保存工事終了を記念して、同ドームのレプリカを寄贈。
90 08 03 米の児童文学者エレノア・コア、女性国際シンポジウム参加のため来広。「広島折鶴の会」メンバーらと「原爆の子の像」に参拝。
90 10 31? 福山市の専門学校講師吉原綾子ら、1967年当時の原爆ドーム保存運動の記録「爆心地」(B5、96ページ、折鶴の会自費出版)の英訳を開始。
91 04 10 チェルノブイリ原発事故被災地の子供ら、広島赤十字・原爆病院に入院(13日まで)。市民グループ「広島折鶴の会」、折りづるなどの慰問品を届ける。
91 06 09 埼玉県の与野西中学校の生徒(234人)、来広し、平和学習。チェルノブイリの子どもたちへの贈物を「折鶴の会」に寄託。
91 07 19 広島女学院大学名誉教授メアリー・マクミラン、ニューヨーク市で死去。広島滞在中、折鶴の会・ワールド・フレンドシップ・センター などの平和運動に参画。1980年には広島市の特別名誉市民に選ばれる。(広島女学院)
91 11 24 「広島折鶴の会」、ハワイ真珠湾(パールハーバー)のアリゾナ記念館に折りづるを送付。12月8日に同記念館に献納。
91 11 14? 「広島折鶴の会」、ハワイ真珠湾(パールハーバー)のアリゾナ記念館に折りづるを送る運動を開始。
92 01 12 広島折鶴の会の子どもたち5人、河村病院で韓国人被爆者と一緒に書初め。ハングル文字で「韓国人原爆犠牲者慰霊碑を平和公園に」。
93 05 29 広島折鶴の会の小学生ら6人、広島赤十字・原爆病院に南米から里帰り治療で入院中の3人の被爆者を慰問。
93 12 13 広島折鶴の会、中国・南京の小学生と平和文通を行うことを決める。
94 03 11 広島折鶴の会、カナダ・モントリオール市の生徒から届いた千羽鶴を平和記念公園の「原爆の子の像」に供える。
94 08 06? 「広島折鶴の会」、新潟県の主婦らの手づくりによる親指大の幸福地蔵200体を受け取る。
95 06 18 広島折鶴の会の5人、ブラジルから里帰りして広島赤十字・原爆病院で治療中の被爆者4人にブラジル・サンパウロ州立ヒロシマ市中学校宛の折り鶴を託す。
95 08 03? 広島「折鶴の会」の河本一郎、英水爆実験に抗議し1957年に原爆慰霊碑前に初めて座り込み、2年後に首相官邸前で割腹自殺した僧侶・小林葆生の遺骨を原爆供養塔に納骨することを希望。
95 08 09? 「広島折鶴の会」、今年2月に北朝鮮で結成された「反核と平和のための朝鮮被爆者協会」との交流を計画。
95 10 03 「広島折鶴の会」、韓国釜山市の医師から贈られたチョゴリを着て、広島市内で療養中の韓国人被爆者と交流。
95 10 19 「折鶴の会」(河本一郎世話人)、県庁を訪れ、来月南米を訪問する藤田知事に託する折鶴4000羽を渡す。
96 06 12? 広島折鶴の会、中国の核実験に対する手紙を千羽鶴を添えて送ることを計画。
96 09 28 広島折鶴の会、広島市を訪れたチェコ・プラハ国立歌劇場還元楽団に千羽鶴などを贈る。
96 11 28? 広島折鶴の会のメンバーである市立基町高校2年生、ユネスコの世界遺産化委員会のメンバーに原爆ドームの世界遺産化を願う手紙を送る。
97 10 25 河本一郎ら「広島折鶴の会」のメンバー2人、広島市平和公園の「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子の墓に折り鶴をささげるため福岡市に向かう。
98 07 09 「広島折鶴の会」の小学生2人、インドの市民団体に送る折鶴約500羽を「プルトニウム・アクション・ヒロシマ」の代表に託す。

山下義信

義信
189403生

(明治27)

 

19890730

(昭和64)

広島戦災児育成所の創始者。呉市出身、浄土真宗本願寺派の特任布教使などを経て従軍。復員後、1945年12月、原爆孤児たちを養育する「広島戦災児育成所」を広島県佐伯郡五日市町に創設。53年1月、広島市に移管するまで171人の孤児を育てる。47年、社会党から参議院議員(広島地方区)に当選、59年まで2期務め、原爆医療法制定に尽力(『中国新聞』)

日記・日誌・資料より[敬称略]

1981 11 06 山下義信宅訪問。[『宇吹』という名前に関心。「うすい」という名前の友人が一中時代にいたが親戚かとの問い。内容についての話は無かったが、下記の資料(紙1枚)をプレゼントされる。]
山下
1989 08 05 「ひと きのう きょう 流れ雲 山下義信さん(7月30日没 95歳) 原爆孤児に「家庭」作る」(渡辺雅隆)『朝日新聞(夕刊)』1989年8月5日
1995 06 24 RCCテレビ『補償なき半世紀』(午後3時半-)のビデオを見る。山下義信の所蔵資料が目玉。援護法の当初案に原子力開発にともなう被曝者の救済策が入っていたことを初めて知る。藤居・宮田千秋も出演。「戦時災害保護法」の事実経緯に誤りがあった。
1995 12 02 原田東岷インタビュー=医療法については山下義信と灘尾弘吉が熱心に世話をしてくれた。任都栗を含め、われわれは、政治家を利用もしたが、偽手帳問題など、その悪影響もあった。本当に困っている人は仕方がないとして、法に安易にすがる姿勢には疑問を持つ。
1996 03 23 Sの話=山下義信は、戦災孤児収容所についての詳しい資料を持っている。しかし、実名入りなので公開していない。2017
2017 04 25 <『広島戦災児育成所と山下義信』新田光子、法蔵館、2017.3.21>を昭和図書館で借り出し、読了。

山下義信

資料1 天皇陛下巡幸に関する質問主意書

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/001/syuh/s001111.htm

質問主意書
(質問第百十一号)昭和二十二年十一月六日配付
天皇陛下巡幸に関する質問主意書
右の質問主意書を国会法第七十四条によつて提出する。
昭和二十二年十一月四日
山下 義信
参議院議長 松平 恒雄 殿
天皇陛下巡幸に関する質問主意書
陛下には引続いて全国を巡幸遊ばされ、戦災者を中心に、親しく慰問激励のお言葉をたまわり、経済再建の思召から生産現場などにも臨ませられ、国民も心から感激して御歓迎に熱狂する有様は、誠に感銘に堪えないところであるが、この際次の諸点を質問して政府の善処を要望するものである。
一 天皇陛下巡幸に関する宮内府の処置については挙げて政府の責任と思うが如何。
二 地元地方公共団体長或は宮内府行幸事務関係者などのはからいにて、行幸巡路、お立寄地点などを決定する模様であるが、種々物議を醸し、非難を招き、請託、懇請激烈をきわめ、甚しきに至つては下検分に際して歓待を要するとの風評もある。政府はこれらの弊害なきよう訓告を出していると信ずるも、断乎しゆく正を励行せねばならぬ。巡幸プログラム等の決定については、政府は十分監督しているや否や。又これが所管は何大臣とするものか。
三 近く十一月下旬から中国地方巡幸の御予定と聞くが、その中には広島市も訪わせ給うと承る。同市はいうまでもなく原爆の廃墟都市にして、この地に天皇ののぞませられるは内外の感無量とするところである。
さればその巡幸予定のごとき真に御仁慈に相応わしきよう慎重に吟味されねばならないと思うが政府の所見は如何。
四 然るに聞くところによれば現在においては、同市は二時間余にて通過される程度に止まるとのことである。いわゆる素通りの程度に計画されてあるということは、実に心なきわざと遺憾に堪えざるものである。
政府はかかる巡幸計画を至当と考えるか如何。
世紀の歴史的都市を訪い給うことは、ただに一地方の問題ではないと思う。日本天皇と原爆その地の御行動とは世界の注視するところとなろう。希くは平和日本の象徴であらせたまう天皇として最も厳粛なる歴史的行幸であらせらるるよう政府の中枢部においても深甚なる考慮と関心とを払われんことを希求して止まない。
本員は政府の賢明なる答弁を期待するものである。

 

第1回国会(特別会)
答弁書
(答弁書第百十一号)昭和二十二年十一月十八日配付
内閣参甲第一二四号
昭和二十二年十一月十四日
内閣総理大臣 片山 哲
参議院議長 松平 恒雄 殿
参議院議員山下義信君提出天皇陛下巡幸に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。
参議院議員山下義信君提出天皇陛下巡幸に関する質問に対する答弁書
一、宮内府は、内閣総理大臣の所轄であるから、宮内府の処置については政府は責任を負う。
二、行幸巡路、お立寄地点の決定については、当該都道府県の原案にもとずいて宮内府において全般の計画を見合つて案を作成する。
風評の如きは全然事実無限であると信ずるが、今後も斯かることのないように充分注意する。
三、四、広島御巡幸については、目下案を作成中であつて決定していない。

 

原爆被災資料広島研究会(原災研)

1968年2月15日発足

あゆみ

1967.10.02  ピカ資料研究所(ピカ研)が「原爆資料の調査・研究」について提言。全井利博賛同して、「ピカ研を母体」で合意、以後具体化をめぐって七回会談。
1968.01.16 結成準備会五回開く。出席、今堀誠二、金井、山崎与三郎、ピカ研。
1968.02.15 『原爆被災資科広島研究会』発足。
1968.07.30  役員会 人事、企画、運営方針を決定。
1968.12.06 金井利博事務所開設。所内に原災研「編集部室」設置。(1970.3.28閉所)
1969.08.06 原爆被災資料総目録第一集を発刊。
1970.03.04 ピカ研 原災研「編集部室」を長崎に移設。
1970.08.06 総目録第二集を発刊。
1970.11.24 編集部会文沢隆一、ピカ研が第三集専任。
1972.10.25  総目録第三集を発刊。
1974.06.16 金井利博死去。
1975.04.30 ピカ研・長崎「第一~三集」の作成による累積債務で一時閉鎖。
1977.12.17 役員会 企画、運営をめぐり討議。分裂決定。
1980.08.25   編集部会 編集企画会議。
1982.07.23 ピカ研・長崎書庫冠水害
 続刊=第五集以降企画編集進行占領下の文献解説・占領下の新聞・著作選集録・原爆史詳細年表・写真、映像・長崎の手記・広島の手記・教育児童文学・社会科学評論…(順不同)

出典:原爆被災資料広島研究会『原爆被災資料総目録』第4集

藤居平一

 

ふじい へいいち 19150807生 19960417没

 

 略歴
広島市民生委員連盟理事
広島市社会福祉協議会理事
1954.09 原水爆禁止運動広島協議会常任委員
1955.05 原水爆禁止世界大会広島準備会財政副委員長
1955.09 原水爆禁止日本協議会常任理事
1955.11 原水爆禁止広島協議会事務局次長
1955.11 原水爆禁止広島協議会原爆被害者救援委員会幹事長
1956.02 広島県原爆被害者大会実行委員会事務局長
1956.05 広島県原爆被害者団体協議会代表委員・事務局長
1956.05 全国社会福祉協議会原爆被害者救援特別小委員会代表
1956.08 日本原水爆被害者団体協議会事務局長

 

原爆被害問題研究の恩師

 「先生は、原水爆禁止運動について、どう思われますか」、「忘れた」。「先生は、第1回原水爆禁止世界大会の中で重要な役割を果たされています。何か思い出されることは、ありませんか」、「忘れた」。1995年12月のある日、原爆医療法制定当時に広島市の医師会の幹部だったドクターのお宅で、数回繰り返されたQ&Aです。それまで、「原爆医療法の成立」(広島大学テレビ公開講座用の1テーマ)過程について、打ち解けてお話してくださっていたドクターの顔が、突然無表情になりました。私のシナリオでは、原水禁運動が原爆医療法成立に果たした積極的な役割(藤居さんから学んだことです)が予定されています。カメラは回り続けています。窮地に立った私は、「藤居さんをご存知ですか」と話題を変えてみました。ドクターの表情が緩みました。「良く知っている。快男児だった」。会話がつながりました。シナリオどおりにはなりませんでしたが、インタビューを無事終えることができました。

私自身が藤居さんに初めてお会いした(熊田重邦先生の紹介)のは、1980年(昭和55)4月26日のことです。しかし、その3年前の1977年に「藤居資料」に出会っています。それは、広島大学法学部の北西允研究室の2箱の段ボールの中にありました。当時、私は、日本人の核意識をテーマとする文部省の研究班(庄野直美班長)の仕事で同研究室に出入りしていました。この研究が一段落ついた7月、北西教授は、私に、この資料を生かして欲しいと託されました。聞けば、それは、石井金一郎教授が日本の原水爆禁止運動の歴史をまとめるために藤居さんから借用したもので、石井教授の死(1967年)後、同教授が預かっていたとのことでした。

私は、大学卒業後約6年間、広島県史編さん室に勤務し、今堀誠二・熊田の両先生の指導の下で、『広島県史・原爆資料編』編纂業務に従事しており、原爆問題に関する資料は、かなりのものに目を通していたつもりでいました。しかし、「藤居資料」(簿冊13冊、一点資料も含めた総点数は429点)のほとんどは、初めて目にするものでした。学生時代、数人の先輩から、歴史研究を志すものにはいつか自分の研究を方向づける資料との運命的な出会いが訪れると聞かされていました。「藤居資料」と出会った私は、とっさに「これだ!」と思いました。早速、勤務先の原爆放射能医学研究所で、整理に取りかかり、8月末には目録を作成しました。この経緯を熊田先生に伝えたところから、資料の主であった藤居さんとの出会いが実現したわけです。

それから15年の間の私の原爆被害問題研究の歩みは、藤居さんとともにありました。翌年から始まった藤居さんへの聞き取りは、1984年まで続きました。その録音テープは、120分テープで60本に及んでいます。その成果は、広島大学原爆被災学術資料センター資料調査室発行の『資料調査通信』に「まどうてくれ-藤居平一聞書」として8回(第5号1981年12月号から第29号1984年1月号)にわたり、まとめさせていただきました。

この作業の中で、藤居さんは、原爆被爆者運動草創期に活躍された多くの人々に紹介してくださいました。中でも忘れられないのは、原水爆禁止日本協議会が製作した映画「生きていてよかった」の関係者との出会いです。1982年3月には、草月流の勅使河原宏家元(この映画の助監督)が出席された同派の広島支部の会合に、原爆乙女の会の会員だった人たちと一緒に参加させていただきました。また、同年7月には、藤居さんの発案で、映画に出演された主だった方々を招いて、広島市の平和記念館で同映画の上映会を開催しました。関係者の招待に奔走されたのは竹内武さんでしたが、私も映写技師として裏方を勤めさせていただきました。

竹内さんから日本原水爆被害者団体協議会の初期資料である「平和会館資料」を借用したのは、この上映会から5日後のことでした。この資料との格闘は、1985年6月まで続きました。この間に整理した資料(1963年の原水爆禁止運動分裂までのもの)は、単行本・パンフレット・逐次刊行物合わせて901点4373冊、文書綴・ノート類は55冊3897点、一点資料1287点に及ぶものでした。

1995年10月26日夜、藤居さんから自宅に電話がありました。日赤病院からとのことで、7月下旬に広島で開催されたパグウォッシュ会議のことや、広島大学原医研に新たに導入された機器のことを話されました。しかし、突然、すごい剣幕で怒鳴られたかと思うと、電話が切れてしまいました。病室の電話の接続にトラブルが生じたものと思い、再び電話がかかるのを待っていましたが、かかっては来ませんでした。そして、これが、私が聞いた藤居さんの最後の声となりました。「藤居平一聞書」のために録音テープを取り始めたのは日赤病院の病室でした。そして、最後の声も同病院内からのもの。私には、入院生活の合間に藤居さんからお話を伺っていたような印象があります。今では、翌朝すぐにお見舞いにゆくべきだったと悔やんでいますが、その時は、死につながる病とは思ってもいませんでした。

藤居さんの原爆被害に対する関心は、この15年間に、大きく変りました。「まどうてくれ」の作業に応じてくださった気持ちを、「紙の碑を残したい」と語られていました。いわば関心は、「過去」あったわけです。ところが、その後、関心が「現在・未来」へ移りました。時期的には、1990年前後と記憶しています。この頃から藤居さんは、私にしばしば原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に対する批判や原爆被害を調査・研究する「医者・科学者グループ」の組織化への協力を要請されました。しかし、私には、荷が重すぎて積極的な回答ができません。その度に励ましとお叱りを受けました。藤居銘木に残された資料を1996年7月30日に頂いて帰りましたが、同社の高瀬さんが丁寧に準備されたその資料からは、お亡くなりになる直前まで、藤居さんがこれらの問題と取り組まれていた様子が伝わってきました。

藤居さんは、私に多くの宿題を残して逝かれました。「庶民の歴史を世界史にする」、これは藤居さんから私が聞いた好きな言葉の一つです。過去10年間、私は原爆手記の収集と分析を行ってきましたが、この作業を私は藤居さんへのレポートと考えています。

1996年5月のある夜、私は広島駅前の飲み屋で、二人の先生と同席していました。広島在住のA先生が、友人であるB先生(日本の平和運動のリーダーの一人)に、原水爆禁止運動に関心を持つ私を引き合わしてくださったのです。何から話してよいか迷った私は、「藤居さんをご存知ですか」と聞いてみました。即座に出た答は、「日本被団協を作った人でしょ」でした。1955年当時、B先生にとって藤居さんは雲の上の存在だったそうです。しかし、しばしば原水爆禁止運動関係の会合でお目にかかったことがあるとのことでした。初対面の会話が、これを機にはずんだことは言うまでもありません。

同じ年の7月、私は、信濃毎日新聞社に1956年当時の長野県内の被爆者組織について問い合わせの電話を入れました。「藤居資料」では、日本被団協は、広島・長崎・愛媛・長野の4県の被爆者組織で出発したことになっています。しかし、藤居さんは、長野の組織の状況をご存知なかったのです。同社からは、オリンピック関連の取材で手一杯であるが、あなたが長野に調査に来れば、そのこと自体を記事にすることができる、それによって当時の状況を知る手がかりが得られるのでは、との親切な回答をいただきました。

私は、藤居さんの「現在・未来」の課題にはお役に立つことができませんでした。しかし、私の「過去」との取り組みは、これからも藤居さんととともに続きます。