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原爆死没者慰霊等施設基本構想報告書(1993年6月)

原爆死没者慰霊等施設基本構想報告書

 1993年6月

 原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会

Ⅰ 施設の設置の基本理念

 人類史上初めて広島および長崎に投下された原子爆弾は、未曾有の悲惨な結果をもたらした。他に例を見ない爆風、熱線および放射線によって極めて多数の人命が奪われたのみならず、生存被爆者にはその後長期間にわたって健康上の障害が残され、さらには家族や職場の崩壊、ひいては地域社会の解体も招いた。

 このように、市民や社会に多大な、しかも永続的な障害をもたらした原爆は、戦争のもつ非人道性の象徴的存在ともなって、我が国はもとより、国際社会に大きな波紋を広げた。それらの中にあって、原爆によってその生命を失った人々に対する哀悼の気持ちは全ての国民が等しく抱いているところであり、原爆死没者全体に対する永続的な慰霊・追悼の場を設けることの必要性を説く所以である。

 原爆投下からすでに半世紀近くの年月が経過しようとしている。この間、原爆被害の記憶を有する人々はしだいに少なくなり、貴重な記録や資料が散逸しつつある現状にあり、一部には原爆体験の風化を懸念する声もある。

 このような現状にかんがみ、被爆者個人々々の記録や原爆被害にかかわる資料・情報を幅広く収集整理して後代に継承していくことは、現在生きている我々の歴史に対する責任である。被爆者の一生は有限であるが、その体験や思いは人類の平和のために無限に語り継がなければならない。

 一方、今日の国際社会においては、東西の冷戦構造に終止符が打たれ、核兵器の廃絶を目指して精力的な努力が続けられているが、原爆の悲惨な状況を全世界の人々に伝えていくことは、世界で唯一の原爆被爆国である我が国の果たすべき役割であり、再び広島・長崎の惨禍を地球上に繰り返さないことを求めるとともに、世界の恒久平和の確立を訴えていかなければならない。

 また、悲惨な過去を振り返るだけでなく、将来に向けての教訓として、我が国が長年培ってきた原爆被害に関する医学を中心とした蓄積を基に、国際社会に貢献していくことも必要であるとともに、内外の関係固体や関係施設の協力を得てネットワークを形成し、互いに交流しあうことが必要である。

 このような基本的な理念を具体化するために、本施設には次の三つの機能をもたせることが適切である。

1慰霊の場とする

 原爆死没者に対する慰霊を行うとともに、再び広島。長崎の惨禍を招かぬための平和を希求する場とする。

2資料・情報の継承の拠点とする

 国の内外に散在する資料・情報を総合的に把握し、原爆被害の実態や遺族の気持ちを世界に広げ、また、後世に継承するための拠点とする。

3国際的な貢献を行う拠点とする

 唯一の原爆被爆国としてこれまでに蓄積してきた原爆被害に関する知見を中心に、国際的な貢献を行うための拠点とする。

Ⅱ 機能の具体的内容

1 慰霊,平和祈念

 本施設の設置そのものが慰霊・平和祈念事業として位置付けられるものであり、したがって、本施設の事業には、慰霊・平和祈念の理念が貫徹されなければならない。

 また、被災者の高齢化と減少により被爆体験の風化が進みつつある中で、被爆者や遺族の気持ちに思いをいたし、さらにそれを後世代に正しく伝え、継承していくことにより、将来を担う若い世代をはじめ全ての人々が国際平和を誓う場とする。

(1)慰霊,平和祈念のための展示

 手紙、日記、手記等の被爆者の遺品や文書等原爆に関する諸資料を展示し、被爆の実態、被爆者の心情や遺族の気持ちを率直に見学者に伝える。

 しかしながら、既存の施設との機能重複を避けるため、展示については、一部の象徴的なものに限って実物を展示する。

 その他については、見学者に分かりやすく、深い印象を与えるような映像展示を中心に行う。

(2)慰霊・平和祈念の交流

 原爆犠牲者の慰霊や平和祈念に関する行事を行うため、被爆者や遺族はもとより、内外の人々が広く交流し合えるような機能を含める。

 そのため、それらの人々が広く原煤に関する諸問題について学ひあい、ネットワークづくりを行いうるよう、現在行われている活動との連携を図りつつ、出会いや交流、さらに学習、情報交換の場を設ける。

(3)原爆死没者情報の検索機能

 原爆死没者一人一人のライフヒストリーを明らかにし保存するため、死没者情報検索システムを構築する。これは被爆者一人一人の思いを尊重することにもつながる。

 死没者に関する情報の具体的な収録範囲については、専門家の検討に委ねることが望ましい。

 また、多数の市民の協力・参加(例えば、公開されている出版物等により知り得た死没者に関する情報をハガキ等に記入し、本施設に送付してもらう。)を得て、データベースの形成に資することとする。それは、一般国民の慰霊施設への参加意識を醸成するとともに、原爆問題の関心を高めることにもつながるであろう。

 しかし、個人々々のデータについては、プライバシーの問題に深くかかわることであり、本人や遺族の考え方もさまざまであると思われるので、慎重な取り扱いが必要である。

 なお、死没者情報検索システムの形成にあたっては、広島市・長崎市の原爆被爆者動態調査のデータの提供を受ける等、両市の協力が必要である。

2 資料情報の収集、利用

 広島平和記念資料館や長崎国際文化会館等の既存の類似施設、図書館、研究機関、団体等は、その施設自体が所有し、保管している資料等の情報は提供できるが、他の施設が所有、保管している資料等については、十分な情報をもっていない現状にある。

 本施設では、多くの他施設を含むネットワーク作りを推進してこれらのすべてが所有する資料等を把握するよう努めるほか、これまで把握できなかった国内外の各地に所在する資料等の情報も包括的に把握することにより、求めに対して必要な情報を提供できるようにするとともに、収集した情報から創造Lた情報をも提供できる機能を持つことを目指すものとする。

(1)情報の総合化

  ア 原爆に関する資料情報検索システム

 原爆に関する資料情報検索システムとは、本施設が収集、保存、展示する資料はもとより、類似施設、図書館、研究機関、団体等に保管されている原爆に関する資料等の目録、概要、所在地等に関するデータベースを構築し、オンラインの活用により、利用者が求める資料等の所在や概要等に関する情報を短時間のうちに検索できるシステムである。(別紙1)

 取扱対象とする資料情報は、原爆による被害の悲惨さと人々の労苦を客観的具体的に伝える資料情報、並びに被爆前から現在に至るまでの被爆者等の生活について広い視野から知ることのできる資料情報とする。(別紙2)

 資料情報検索システムのデータベースとしては、例えば、以下のものが考えられるが、資料等の分類、登録方法等については、専門家の検討に委ねることが望ましい。

 なお、物品類のデータベースには、必要に応じて画像データベースを導入する。

(ア)案内データベース

案内データベースは、保有機関等の協力を得て、次のような項目を登録することが考えられる。

a文書類

 文書形態によって項目は異なるが、例えば、表題、原爆との関係、著者、要約、作成年・月、形態(種類)、保管場所、保管責任者又は保有機関、利用条件、オリジナル・データベースの有無等

b物品類

種類、原爆との関係、大きさ、形体、色、保管場所、保管責任者又は保有機関、利用条件等

(イ)オリジナル・データベース

 本施設が独自に収集した資料、各保有機関等から寄せられた資料などを活用して、創造した新しい情報をデータベース化したもので、例の案内データベースに入るもののほか、必要に応じ、より詳細なデータベースを構築する。

 なお、前述の原爆死没者情報もこの一つとして構成されると考えられる。

(ウ)各保有機関のオリジナル・データベースのコピー

 各保有機関等が保有資料等のデータベースを所有している場合、協力を得て、それらのコピーの提供を受け、(イ)のオリジナル・データベースの補完的機能を果たすことが望まれる。

(エ)事項解説システム

 学生等一般人を対象とした基礎的・解説的な情報提供サービスを行うもので、検索を通じて原爆に関する事項の解説、資料の概要説明とその所在情報等を、文字、音声、動画などを使って提供する。

  イ 原爆に関する資料等のレファレンスサービス

 検索システムについては、例えば、検索する人の知識の水準又は関心の程度に応じて一般向け、専門家向け等といった難易度に応じて検策ができるような工夫が必要であるとともに、利用者の二ーズを顕在化させ、その二-ズに応じて的確に検索の案内をしてくれるレファレンスサービスが必要である。

(2)補完的機能

 国立の施設でないと収集できない資料、広島,長崎以外の地域に散在している資料等、既存の関係機関によって、これまでに必ずしも十分手がつけられていなかった資料情報を収集する。

 収集の方法としては、政府広報による呼びかけ、既存施設・固体等に対するアンケート調査、海外調査等が考えられる。

 散逸している貴重な資料については、所有者が保管に苦労しているものであって、本施設で保管が可能なものについては、所有者の了解を得たうえで本施設が保管する。また、資料によっては、てーブやディスクの形で記録し利用することも考えるべきである。

(3)情報の創造

 収集された資料を活用して、医学的な研究のみならず、人文科学、社会科学等を含めた学際的なアプローチにより、原爆被害の実情を明らかにし、新たな情報の創造を図る。

 情報の創造としては、例えば、以下のようなものが考えられる。

ア 編集情報サービスとして、利用者の希望する資料等が本施設のテークにない場合、登録されているデータを結合、編集し、要請に見合った資料を提供する。

イ 被爆者の被爆記録、被爆体験記、テーブに残された声や映像、原爆被爆者実態調査結果等を集約して、被爆者の健康、心理、生活等をまとめる。

ウ イの研究成果を、展示・学習プログラムヘの反映、情報データベースヘの集積、会議・シンポジウムの開催等の中に生かしていく。

(4)情報の伝達

 伝達する方法としては、例えば、次のようなものが考えられる。

ア 検索浩果を印字して、利用者に提供できるようにする。

イ 利用者がわざわざ本施設に行かなくても、必要な情報を入手できるようにするため、通信回線によるオンライン等を利用して、資料情報検索システムを囲内外のどこからでも利用できるようにする。

ウ 図書・資料の閲覧、貸出しサービスを行う。

エ (3)研究成果を定期的にまとめ、研究紀要を作成する。

オ 原爆関係資料の名称、所在施設等をリストアップした情報誌を作成する。

(5)情報の共用

 本施設のもつ情報を広く利用してもらうため、また、原爆に関する様々な情報を幅広く相互に交換していくため、例えば、国内外を問わず他の類似施設や関係機関等と通信回線等を利用した情報ネットワークを構築する。

 また、国内外の他の類似施設との間はもちろん、国際機関、図書館等の各種施設、研究機関、大学、各種団体などとの資料の交換、人的交流などの組織作りを行い、共同研究や施設の共同利用の斡旋を行う。

(6)留意事項

ア 情報サービスの利用者としては、被爆者やその家族・遺族のほか、研究者、学生、その他幅広い層が考えられることから、資料情報検索システムの構築に当たっては、利用者のレベルや必要度に応じて利用できるような工夫が必要である。

イ サーピス提供については、その実費について適切な負担を利用者に求める。

ウ ブライバシーの問題については、オリジナル・データベース情報に個人情報等保護すべき情報が含まれている場合には、その部分については提供に制限を加えることとし、必要な「情報保護規定」を設ける。

 原資料等の保有機関等の許可がない場合には、利用希望者に対してこれらの原資料等の保有機関等を紹介するにとどめるなど、適切に取り扱う配慮が必要である。

工 情報サービスは、日本語だけでなく、適宜外国語でも行う。

3 国際協力及び交流

 被爆という人類未曾有の悲惨な事態を体験した我が国の貴重な資料は、被爆者の医療に生かされていることは言うに及ばず、放射線の人体影響の評価を行う上での重要な基礎の一つとして活用されている。そうしたなかで、本施設の行う国際協力及び交流により、在外被爆者及び核実験や原子力発電所事故等の新たな放射線被爆による被災者の医療救済に役立てるとともに、本施設の事業を通じて、原爆被害の悲惨さや我が国の平和の希求に向けての決意を世界中に伝えるものとする。

(1)コーディネーター機能

ア 専門家等の諸外国への派遣や研修生等の受け入れについては、従来から行われている医学・医療の分野にとどまらず、原爆関係を幅広く対応すべきである。しかし本施設は、それ自身で派遣や受入れを扱うのではなく、コーディネーターとして施設や制度を紹介・調整する機能を果たすとともに、国内外の他の類似施設との間はもちろん、図書館等の各種施設、研究機関、大学、各種団体等との資料の交換、人的交流などの組織作りを行う。

イ 本施設は、関係団体との連携を図りながら活動を行う。(別紙3)

(2)情報の発信

 利用者には、諸外国からの利用者も含まれることが考えられ、また、広島・長崎の原爆資料・情報に対する国外からの二-ズが著しく増加していることにかんがみ、世界各地域へ関係情報を発信するとともに、情報の受信も積極的に行う。

 また、現在行われている活動との連携を図りつつ、外国から研究者等を招いて、原爆や平和に関する会議やシンポジウムを開催するとともに、外国で開催される会議やシンポジウムに、日本からも被爆者や研究者を派遣する。

Ⅲ施設の設置場所

 広島・長崎両市と原爆は密接な関係があり、当地には原爆被爆者やその遺族の多くが今も住んでいること等を考慮すると、施設を両市に設置することが適当である。しかしながら、同じ内容の施設とするのではなく、地元の要望も踏まえて、両地域の特徴を出すようにすべきである。

Ⅳ施設の運営

 本施設の運営の主体は、持続的に活性化できる組織を構成するという視点から考えるべきであり、そのためには、人・事業・財政面において柔軟で開かれている民間の活力を有効に使っていくことが必要である。

 この見地からすると、国直営、地方公共団体や特殊法人への委託については、必ずしも適切であるとはいえない。そこで、経営基盤が確立され、この施設を運営するにふさわしい公益法人に委託することが現状では望ましいものと考える。

 この場合、国は適切な財政負担を行う等、国として果たすべき役割を担うべきである

別紙1 資料情報検索システムの概念図

別紙2 資料情報検索システム項目例

別紙3 国際協力及び交流の概念図

     原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会名簿

     原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会専門委員会名簿

 

日本社会学会による原爆被災に関する社会学的調査研究の推進についての要請(1967年10月)

日本社会学会による原爆被災に関する社会学的調査研究の推進についての要請(1967年10月)

原子爆弾の投下による人的・物的被害は、その規模、内容ともに人類史上未曾有のものであったことは周知の通りであります。しかもこの原爆被災は、単に物理的な破壊力による損傷ばかりではなく、同時に多量の電離放射線の曝射という特性を有しております。このために被爆に関する問題はこれまで一般的な被爆状況そのものよりも、被爆個体に対する医学的、生物学的諸影響の問題が中心となり、かつ緊急の課題とせられたので、被爆に関する科学的な研究としてはこれらの調査研究が主体をなしてきました。

もちろんこれらの研究は重要な意義を有し、その成果は医療行政にも吸引され昭和三二年には「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が制定されるに至っています。しかしわれわれがなお注視せねばならぬことはこれらの身体的影響もさることながら、かかる大規模な被災に際しての被災者の社会的経済的画側面ならびに精神的心理的側面に対する諸影響であります。被爆による生活の秩序あるいは基盤の解体、喪失という多くの事実は、社会生活の広範な場面に重大かつ深刻な影響を及ぼしたであろうことは自明の通りであります。

しかしながら翻ってみますと戦後二十余年を経た今日においてもなおこうした原爆被災のもたらした社会的,諸影響に関する社会科学的側面からの組織的な研究は極めて少なく、かつ断片的に報告がなされているにすぎず、学問的にも全く空白のまゝ放置されてきております。したがってその社会生活の内面に及ぼした被爆の諸影響の実相については明らかでないばかりか被爆時の諸状況に関する基礎的なデータさえも体系的に記録されていず、その被爆死亡者数も不明のまゝに至っているのが実情であります。

然るに現状では家族の欠損、社会的諸関係の解体等々をはじめとして被爆後の個体の生理構造の脆弱化あるいは時間的推移による被爆者の老令化とあいまって、一方ではその階層的分化、とくに一方落層化、孤老化、スラム等々の現象を噴出せしめ、貧困や結婚、労働の疎外など多くの問題を表出し、社会問題として早急に対策を講ぜざるを得ない段階にきておりますが、これらの生活の実態については科学的には全く未知のまゝにおかれています。

しかも他方ではわれわれにとって誠に遺憾なことは被爆後二十余年の時間的経緯とともに、これらの貴重な未曾有の体験有する被爆者あるいは被爆関係家族の死亡、消滅が著るしくその他記憶の喪失、社会的移動の拡大等々、資料の散逸、埋没化が加重しつつあることであり、かかる社会科学ならびに精神医学、心理学的な立場からの学術的なあとづけが欠落したまゝに消滅寸前の段階を迎えていることてあります。

昭和四十年行政的レベルにおいてではありますが厚生省では原爆医療行政の一環として被爆者調査を実施しており、それによれば今日全国に約三十万名に及ぶ被爆者の生存が確認されています。しかし前述の如き災害時における人間行動の実情あるいは生活構造に対する影響の実態に関しては明らかではなく、なおこの調査によっても把握されていない多数の被爆者集団の在在が確認されております。

寡聞ではありますが諸外国においては人間生活に影響を及ぼした諸災害について、社会科学の独自な立場からの報査研究が学術会議あるいは学術研究会議機関等を通じて組織的かつ広般に行まわれていると聞きます。そして今次大戦の爆撃災害をはじめ他の戦争災害あるいは地震、水害などの自然災害、産業災害などを対象に大量災害における人間行動ならびにその社会影響について着々と成果を集積しつつあり、社会学的研究もその一環として蓄積され、被災者における諸問題の解明と同時にその福祉対策の策定に主要な貢献をなしつつあると聞きます。

もちろんわれわれとしましてもかかる原爆被災の如き大規模な災害の実態に関しては国家的に強力に推進されるべきものと希求するものでありますが、前述の如き背景に鑑みましてなお社会学的立場からの接近と解明が肝要と思われるのてあります。しかもすでにあげた問題の事情からしまして現在の段階ではその研究も一個人の一研究室の研究推進だけではすまされない状況にあり、この機を逸すれば被爆の社会的影響の解明は永久に失なわれることになり、将来のわが国の社会科学の発展の歴史において痛恨事となることは明らかであります。

こゝにわれわれは日本社会学会理事の諸先生はじめ各地域の各位の共同により、全国に散在する原爆被爆者の実態を早急に調査し、それらの有している諸問題の解明の一翼をになうために日本社会学会による組織的調査研究の推進を希求し要請するものであります。具体的な調査研究計画としてとりあえず別記の如き素案を付しておきましたが調査計画ならびに組織の構成、研究費等々に関しまして学会理事ならびに先学の諸先生方の格段のご審議とご高配をお願いする次第であります。

昭和四十二年十月

 広島大学野口隆

八木佐市

谷田部文吉

湯浅良之助

高橋三郎

志水清

渡辺正治

湯崎稔

広島女子大学 間庭充幸

山口大学 近沢敬一

大阪市立大学 上子式次

大藪寿一

吉井藤重郎

 日本社会学会会長殿

日本社会学会理事会殿

「調査研究計画素案」

(1)調査研究機関の名称 日本社会学会原爆被災全国調査委員会

(2)研究組織の構成 調査委員として各都道府県別に会員各位から選出して構成する(各都道府県の被爆者数に比例して選出)

(3)調査期間 昭和四十三年四月一日-四五年三月三十一日

(4)研究費

(イ)出所 文部省科学研究費(その他国の科学研究費)

(ロ)金額 初年度六○○万円-一○○○万円

(総合研究費の三件分に相当)

(5)調査方法

(イ)基礎調査 統一的な質問調査票による全国調査

(ロ)個別精密調査 基礎調査後各地域の特殊問題に応じての個別的テーマによる追跡調査、研究

(6)主要調査項目

(イ)基礎調査

A被爆状況 被爆に至る経緯。被爆場所の状態、距離。受傷状態、その他。

B被爆当日の行動 離脱、移動の状況。入市の日時、場所。被災地内での行動、作業内容。その後の行動状況、その他。

C被爆後の健康状況 急性症状、後遺症状。健康状態の推移、その他。

D被災後の生活史ど変動過程 家族欠損など家族集団の構造に及ぼした影響と推移。職業、婚姻に及ぼした影響。生活環境の変化と推移、その他。

E社会心理的状況 社会意識ならびに態度、その他

Fその他

(ロ)個別調査(略)

 

 

長崎市原爆資料保存委員会の活動(1949年4月11日~)

(1949年4月11日~53年5月30日)

[メモ]『原爆資料保存委員会経過報告』(長崎市原爆資料保存委員会、1959)]をもとに構成した。

昭和24. 4.11 第1回原爆資料保存委員会設立協議会

       [協議事項]

        1.会則の説明、並一部改正の件

        2.委員の委嘱の件

        3.資料収集の周知の件

        4.写真展の開催の件

        5.原爆地の実地調査の件

       [経過]414日現地調査を実施。

昭和24. 4.14 第2回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.火の見台(外人墓地)、石鳥居(山王神社)、石像(浦上天主堂)、 石門(城山小)、水タンク(けい浦学校)、ベッド(マリヤ学院)、 等の資料を平和公園に移す件                 

       [経過]給水タンク昭和25年2月平和公園に移転

昭和24. 5. 6  第2回原爆資料保存委員会

        原爆資料館の開設を決議

昭和24. 5.13 第3回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.原爆火傷者の写真撮影の件

        2.資料館大型資料配置の件

        3.寄捨箱設置の件

        4.資料館に花壇設置の件

        5.絵画買上の件

昭和24. 5.13 第4回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.被爆樹木を平和公園に移植する件

        2.被爆植物の影響統計表作成の件

        3.文化会館設置の件

       [経過]被爆枯木を昭和25年3月平和公園に移転

昭和24.12. 9 原爆資料保存委員会現地調査

       [協議事項]

        1.原爆資料館の視察調査(資料の展示方法、展示資料の整備)

        2.浦上天主堂を視察

       [経過]浦上天主堂に廃きょを資料として保存するよう申入れる

昭和25. 6.29 第1回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.資料を学術的に科学的に収集する

        2.浦上天主堂・山王神社・紡績会社跡・医大その他10ケ所の原爆材指定の件

        3.委員会規則の整備

       [経過]7月に委員会規則を改正、改正に伴い委員を委嘱

昭和25. 7.24 第2回原爆資料保存常任委員会

       [協議事項]原爆中心塔の件

昭和25. 8.17 第3回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.原爆中心塔建設の件

        2.パノラマ製作の件

        3.農産物に対する影響研究発表(古野氏)

        4.原爆資料被災者状況記録収集の件

昭和26. 3.28 原爆資料保存委員会現地調査

       [協議事項]文化会館建設用地視察

昭和26. 8. 3 第1回原爆資料保存委員会

       [協議事項]浦上天主堂の壊壁保存の件

昭和26. 9.18 第2回原爆資料保存委員会

       [協議事項]浦上天主堂残存物保存の件

昭和26.12.25 第3回原爆資料保存委員会

       [協議事項]如己堂保存の件

昭和28. 1.14 第1回原爆資料保存委員会

       [協議事項]原爆娘治療の件

昭和28. 1.20 第2回原爆資料保存小委員会

       [協議事項]

        1.原爆の図の作成の件

        2.被爆者の体験記保存の件

        3.パノラマ作製の件

        4.天主堂さく作製の件[ママ]

        5.傷害者写真保存の件

        6.治療対象者範囲拡大の件

        7.26日の現地調査の件

        8.委員長広島派遣の件

昭和28. 1.26 原爆資料保存委員会現地調査

昭和28. 3. 7 第3回原爆資料保存委員会臨時総会

       [協議事項]

        1.28年度に於ける事業計画の件

        2.委員長広島視察報告の件

昭和28. 5.30 第4回原爆資料保存委員会

       [協議事項]

        1.スライド並模型製作の件

        2.原爆図絵製作の件

        3.「長崎原爆被害概況」パンフレット出版の件

        4.長岡省吾氏招聘の件

        5.ABCC田中直氏委員会嘱託推薦の件

        6.浦上天主堂廃きょ保存の件

        7.資料館新設の件

       [経過]

        1.8月スライド長岡氏によって作製さる。36カット2本。

        2.29年3月、丸木・赤松夫妻共同作2枚屏風式100000円

        3.7月パンフレット「原爆の長崎」10000部発刊

        4.6月に招聘

[以下略]

 

シナリオ・生きていてよかった[抄](1956年5月)

シナリオ・生きていてよかった

脚本・監督 亀井文夫

製作   原水爆禁止日本協議会・日本ドキュメントフィルム社

広島、長崎の原爆症患者の生活を捉えた真実の記録映画がはじめてつくられた。この姿を世界中に訴えて!とケロイドの娘さんも自らすすんでカメラの前に立った。これはそのシナリオを亀井監督が本誌のために特に書き改めたものである。

第1部 死ぬことは苦しい[撮影場所のみ摘記]

・(広島日赤病院)

・(長崎医大の付属病院)

・(広島日赤病院の廊下)

・(広島・比治山下のあるバラック)

第2部 死ぬことは苦しい だが 生きることも苦しい

・(ある家の室内)

・(広島の繁華な街)

・(梅の花が咲いている山村)

・(日赤病院の一室)

・(長崎医大の付属病院の一室)

・(諫早から長崎へ通うバス道路)

・(広島・五日市にある戦災孤児育成所)

第3部 死ぬことは苦しい だが、生きることも苦しい でも、生きていてよかった

・(日本座敷)

・(広島市・宇品町にある明成園)

・(ある家庭の庭先)

・(長崎、路地の奥の家)

・(長崎の道路工事)

・(丘陵へつづくなだらかな坂道)

・(長崎の原爆記念館の陳列棚)

・(再び浦上の美しい道)

出典:『婦人公論』1956年5月号

 

中国から寄せられた救援金に対する要望(1955年9月)

中国から寄せられた救援金に対する要望
日本国民救援会提供
(その一)甲奴郡原爆被害者の会(広島)井出口茂美

前略 郡部はやはり広島市とは事情の異る点がありますので郡部としての希望をまず記させていただき、次に総括的な考えを申しあげてみたいと存じます。
郡部被害者はほとんどが農家でございます。その実態は、作業のほとんどを人手(雇傭)にたよらなければならないので、それらの費用が過重となり収入については一般農家並の常識があてはまらない有様です。
夏は私どもの身体は最も不調の季節でございますがとくに郡部農家の被害者は6月の農繁期の過労がたたって夏季の身体不調を訴えるものが多い。したがって農繁期の労働を軽減することが急務と思います。
農繁期中に最も過労となる仕事は牛馬を使って耕記する作業であると思われます。
したがって
(1)耕運機(動力)が必要であります。価格は20万円から35万円程度であります。
(2)バタンコ(自動三輪車)1台
これは、郡内を耕運機を運搬したり、農作物の運搬その他に利用する。
非農家に対する援助はこの利用によって多少の利益を求め、援助資金が出来るのではないかと思います。
動力耕運機と自動三輪車の利用は、労働を10分の1位に減じ、おくれ勝ちな作業も適期に植付も出来ることとなり、従って増産にもなると考えられます。
郡部として一番に欲しているものは、何といってもこれでございます。その他、種々希望もありますが、全般的に共通の必要を感じ、直接影響力の大きなものは右の通りです。
(3)会として、又個人的な立場として不便を感じ、以前から希望しているものに単車(オートバイ)があります。郡部は交通も不便であり、被害者宅が広範に散財していますので、連絡、見舞、案内、実態調査、病状急変等の場合、実に不便を感じております。
生存者が主体となって会の運営をやっておりますので誰としても遠路、自転車で連絡して歩くのは困なんで、とくに夏季は日中を避けたりしますので運営もなかなか困難です。
広島との連絡も交通費等の関係で十分出来ませんが、オートバイが1台あれば緊急な連絡もでき、間接的に被害者の向上にも益するものと思います。
以上が広島市と異る郡部としての共通の希望であります。
個人に分配することは焼石に水の実状であり、ほとんど益するところがないのではないかと思います。半恒久的な処置としてながくこの浄財の恩恵に浴させていただきたいと思います。
そして、その処置は300円や500円一時的にいただくよりは数倍も価値があります。例えば、耕運機の例をとりましても1反たがやすのに、人を雇えば1日かかり、1500円位の費用がいりますが、自動耕運機でやれば、1時間半ぐらいですから、1年春秋2回だけでも数倍の恩恵があるわけです。これは、一例ですが他の恒久的な処置でも同様のことがいいうるのではないかと思いますので、ぜひ個人的分配を排しての浄財を生かして使うようにしていただきたいと存じます。少なくとも郡の会員はすべてそれを望んでおります。
温品さん(広島原爆被害者の会事務局長)がおはなしくださったように「原爆福祉会館」建立の件、私も日頃賛成しております。実はこれは私の平素よりの定説でもあり、会にも提案し、温品さんも賛成をいただいた次第です。これによって、心のよりどころが出来ます。そして郡部からは「無料宿泊所」の併設によって原対協の併設によって原対協の合同診察会にも気やすく出かけていくことが出来ます。いろんな希望は次にまわして、まずこの建設こそ第一にあげねばならぬ問題ではないかと思います。
但しあくまでこういう施設は被害者以外の人が直接運営にあたることはさけねばなりません。被害者の気持は被害者同士でなければうちとけませんし、被害者のよりよき「いこいの場所」は気易く利用させるために、被害者のみによって利用させるべきでありましょう。
原対協の受付が被害者間に割合に不人気なのもかかる点に原因しているのではないかと思われます。
原爆福祉会館に浴場・宿泊所・相談所・栄養品廉売所等を設ければ、直接利用する者の恩恵はもちろんのこと、利用できない困きゅう者に対しても300円や500円程度の援助ならいつでも出来る状態が出来ると考えます。私どもは地域的・特殊事情によるあらゆる欲求を抑えてまず第一に会館建設に全幅に賛意を表します。そして我々のみのための会館が出来ることが、何か大いなる力を与えてくれるような気がいたしますし皆様の救援のご活動と相まって、ながくはないかもしれぬ余生を、希望と安心と楽しみにすごせるような気がいたします。
一人の叫びは打消されてもたくさんの声が集って世論となれば、大きな反きょうがありますと同様に小さく分割された金の力は、一時的にあらわれて立ちぎえになるように思います。永く被害者の役に立ちますように、有効に集中されるようぜひお伝えねがいいたしたいと存じます。
なお、甲奴郡では生存者・遺族もれなく当会員となっております。

(その二)原爆被災者在京人会(東京)

本会では日本準備会の要請により、救援資金の使途に対する被爆者の意見をまとめるため次の如き懇談会を開きました。

群馬県  8月20日 参加者 6名
神奈川県  8月27日 8名
世田谷区  8月30日 4名
港、目黒区    9月 2日 9名
渋谷区・千代田区 9月 3日 8名
中野区・杉並区  9月 4日 8名
東京都の内、他の地域は九月中旬より順次開く予定です。
この結果次の点に就いて意見が一致しました。
1 医療費の補助
現在広島長崎両県市に居住する被爆者と全国に散在する約10万の被爆者(助け合い新聞152号参照)とを概観した場合、前者より後者が経済上に於いても健康上に於いても、或る程度恵まれていることは否めません。このような点から今回の救援資金は勿論のこと、将来のあらゆる救援活動も広島長崎両県市居住の被爆者に重点がおかれなければならないのは当然と思われます。
しかし乍らそれはあくまでも概観であって、個別的に見た場合東京都及び近県に於いても要治療者は42名(8月末までに判明した分)に達しております。ところが広島長崎両県原対協では資金難から両県市以外に居住する被爆者が発病し、治療費の調達に如何に困っても、何等の援助もなされておりません。人数こそ少いがこうした全国に散在する要治療者のうち治療費に困る者にこの救援資金が使われるよう希望するものです。
2 生活費の補助
生活困窮者に対しては、生活扶助料というものが支給されていますが、その額は極めて僅少であって到底その健康を維持するだけの力はありません。特に生活困窮者の中に要治療者が多いのも普断の生活が暗く最低であるために原因するものと思われます。これに対しては本会としても協力諸団体と提携して生活扶助料の増額を関係方面に交渉し、実現させなければならぬことは勿論でありますが、それでも尚且不足する場合や、生活扶助料の支給対象とならない被爆者の治療中の生活費の補助が望まれます。
3 健康診断の施行
現在までに本会で調べた範囲では、原爆神経症患者は意外に多く、被爆者の殆どが何らかの苦痛を訴えています。ところが原爆を原因とする諸種の症状に対する医師の診断が浅いために、被爆者は自らの健康に就いて確かな判断もできず、いたずらに恐怖をいだいて生活に結婚に絶望している者、或いは症状が悪化しつつあることを知らないために保健に留意せず突如病床に伏す人も多いのです。
こうした弊害を除き、加えて専門医学者による速やかな治療方法の研究を達成する方法は、全国の被爆者の健康状態を適格に調べる統一的な血液検査以外にはありません。
幸いにしてこの要望が容れられるならば、本会は専門医学者の協力により関東各県は勿論中部以東の被爆者の検診を施行するつもりです。
4 憩の家設置
在京被爆者の親睦の便に供するは勿論、治療、精密検診のために上京する地方在住者の宿泊に利するための「憩の家」の設置は、全員の一致した希望であります。しかしこれはあくまでも将来の希望であって、現在前記の3点より優先して直ちに設置することを希望しているものではありません。

原水爆禁止世界大会広島準備会の構成 (1955年6月)

原水爆禁止世界大会広島準備会の構成 1955年6月

2024-03-05-10-21-08-01a
2024-03-05-10-21-08-01b
会長 浜井信三(前広島市長)
副会長 松本鶴子(県婦協委員長)、
檜高憲三(県PTA連会長)、
大原亨(県労会議議長)
事務局長 森瀧市郎(原水協広島協議会)
事務局次長 川北浄(広島県教組)、
桑原英照(世界連邦広島県協議会)
財政委員長 坂田修一(前広島市助役)
財政副委員長 藤居平一(広島市民生委員連盟理事)
常任委員 伊藤満(平和と学問を守る大学人の会)、
温品道義(原爆被害者の会)、
江戸千代士(広島地区労議長)、
栗栖光代(広島市連合未亡人会)
本間大英(国鉄労組)、
丸古清(人類愛善会)、
竹岡静夫(県労会議事務局長)、
末長豊子(県婦連事務局主事)、
佐久間澄(世界平和集会)、
松江澄(平和擁護委員会)、
奈良常五郎(広島YMCA)、
四竈一郎(鷹橋キリスト教会)、
村上操(婦人民主クラブ)、
瀧谷寛一(県PTA連合会)、
迫千代子(婦人新聞)、
小谷鶴次(広大国際問題研究会)、
田辺正治(県労会議副議長)、
田辺耕一郎(広島文学協会)、
外、県民労、県青連、学生等各団体代表
日本準備会常任 森瀧市郎、川北浄、桑原英照、田辺耕一郎、本間大英
及び財政委員会代表1名

出典:『原水爆禁止世界大会広島ニュース』第1号(1955年6月15日)

 

広島大学医学部による同大学職員及び学生生徒の総合調査(昭和1954年1月)

広島大学医学部による同大学職員及び学生生徒の総合調査(昭和1954年1月)

原爆の被爆を蒙った広島大学職員及び学生の9年後の血液学的所見に就て
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昭和29年1月18日より25日に至る間、広島大学及び学生に就て当医学部が総合調査を実施した際、我々はその原爆被爆者223名、直接被爆を受けなかったが二次性の放射能の影響を受けたと思われる22名及び対照19名に就て血液学的検査を行い、次の如き所見を得た。

[以下略]

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原子爆弾被爆者の胸部「レ」像 和田内科
原爆被爆者の心電図的研究 第一内科
広島市の原子爆弾被爆の外科的所見 河石外科
肩胛部のX-線学的検査 外科学教室
広島大学に於ける原爆被爆者の診療調査報告 産婦人科教室
原爆罹災者の眼科学的所見 眼科学教室
原爆被爆者の皮膚科学的所見 皮膚科学教室
原爆被爆者の耳鼻咽喉科学的所見 耳鼻咽喉科学教室

 

厚生省予防衛生研究所のABCCへの協力(1947年6月~52年12月)

 『国立予防衛生研究所年報 昭和23年版』[抄]

原子爆弾影響の医学的調査に関する米国 Atomic Bomb Casualty Commision(A.B.C.C)との協同研究

 本協同研究は昭和22年6月3日ABCC代表者より本研究所に協力申入れがあったことに端を発している。これに先立ちABCCの代表は現地に於て予備的調査を行った。又同年8月中旬 Stanford 大学の Glenrich 博士は被爆小児の発育に関する予備的調査に来朝した。

 その後ABCCの一行は帰米され、同年10月16日軍籍を脱した。 J. Neel 博士は再び来朝、予研に浜野局長、小川課長、小林所長及び小島副所長を訪れ、重ねて協同方を申入れた。

 同博士は米国 National Research Council, Committee on Atomic Bomb Casualtties に提出した genetic program に関する報告及び予研宛の Memorandum を提示して、特に  genetic program の早急な着手を要請された。厚生省ではこれらの資料に基き、早急具体的実施計画の樹立に努力する旨回答して散会した。

 小林所長及び浜野局長は予研永井技官を広島に派遣して従来の genetic study の状況を調査せしめ、これを参考資料として具体的実施計画を樹立せんとした。その際永井技官は現地に於て Neel 博士、広島市保健課長松林博士、広島県衛生部長藤井義明博士と会談、ABCCが既に実施中の hematorogical survey の情況を聴取し、且つ genetic study に必要な人員構成等についても一致点を見出して帰京し、これに基き第1回の具体的草案を作り上司に報告した。

 永井技官は小林所長、浜野局長の命により具体案をたて、これを資料として予算案を作製し、12月15日頃予防局長に提出した。

 前項具体案はABCC Neel 博士にも提示して一部に訂正をうけた。

 厚生省に於ては前項の予算案を以って、数度大蔵省と折衝を重ね結局約150万円の予備金支出の承認を要求することとした。

 昭和22年11月25日小林所長は東京、京都在住の遺伝学者10名の参集を求め具体案につき総合的な意見を徴した。その際予研の東京に於ける責任者として熊本医大教授木田文夫博士が推せんされ、予研は同博士を予研嘱託とした。

 ABCC Neel 博士は広島に於ける使用建物につき考慮中であったが、在広島の浅野図書館の戦災建物を借入れ、修理してこれにあてることを希望し浜野局長にこれが借入斡旋方を依頼した。依って同年12月24日浜野局長は木田博士、永井技官を帯同して広島に赴き、広島市長と折衝し、その結果広島市は該建物を20年間ABCCに提供し、これに対しABCCは広島市に200万円を謝礼として支払う協定案を作製した。

 尚 Neel 博士はこの旨 Washington に承認手続きをとった。一方広島財務局管理中の宇品町所在の旧凱旋館の一部借入れの了解を得た。

 その後久しからずしてabcc顧問建築技師 Pfeiffer 氏来朝、浅野図書館を検査した結果戦災のため強度を減じ、修理しても使用には安全でない事が明らかになったので該建物借入を中止し、旧凱旋館の一部を借入れるとともに別に適当な市内地に永久的な建物を新設する事に決定した。

 昭和23年1月佐世保検疫所勤務の厚生技官田中正四(元京城大学衛生学教室)を広島駐在連絡員に任命し、同時に広島県衛生部勤務参事高島哲造を庶務主任に委嘱した。

 一方昭和23年3月上旬本研究に要する経費は漸く2~3月分のみ認められ令達をうけた。之れは1月から2月に渡る内閣交代による政治空白によっての所以であった。

 昭和23年4月6日小川課長及び永井技官は広島に赴き一般情況を視察した。調査は専らABCCの指揮監督により、予研所属の集計員、書記等のみがこれに当り、予研の幹部は殆んど与る所なく、従って予研の幹部の意向は全体の運営にも又現場下級職員にも全く反映せず、命令系統を明かにする要を痛感した。よって永井技官はこの間の事情を、PHW Section Lt. Col. Thomas Dr. Hamlin の提唱により厚生省の浜野局長、小川課長、予研の小林所長、小島副所長、永井技官が参集してこの問題につき懇談会を催した。

 席上予防局並に予研より問題の核心を述べたる所ABCC側より予研は更に適当なる責任者を参加せしむべきであって、然る後に初めて本問題を更めて討議し得るものと考えるとの意志表示があった。これに対し浜野局長より現在結核予防会に勤務中の槙弘氏が最も適当であると考えられるので、同氏の参加を求める方向に努力する旨を提案して散会した。

 なお槙弘は6月29日厚生技官に任命され、8月31日付を以って広島原子爆弾影響研究所長に就任した。

 次に一方長崎に関しては昭和21年中 Warren 大佐、Tessmer 中佐、 Neel 中尉等の最初の予備的視察以来 Owen 博士等が一度視察をした事があるが、広島の場合と異り日本側に於ても調査をした事なく、ABCCとしても先ず広島に於て陣容を整備し、然る後に長崎に着手する方針をとり、昭和23年7月迄は何等の積極的活動は行われなかった。

 然し昭和23年5月以前に Owen 博士、Tessmer 中佐、北村博士等視察の際に予研から木田博士も同行長崎医科大学有力者等との数次の会談があり、長崎におけるこの問題は微妙なものがあった。

 7月12日、ABCCは統計学者 brewer 及び倉田医師を長崎に派遣、長崎に於ける活動の第一歩を踏出した。予研は従来、長崎県衛生部赤星勝義氏及び雇員2名を以って本調査に関する事務を担当せしめ、長崎に於ける活動に備えた。現在の情況は長崎保健所に一室を借り調査登録に数名の係員を置き漸く登録を開始した程度である。

 本調査の円滑なる運営のためには一つの運営機構を必要とすることは何人も認める所であるので、9月2日の会議席上予研試案を提出して考慮を求めた。その後9月16日の会議の席上ABCCより資料[別紙資料略]の如き試案を提出、この案は厚生省、予研並にSams 准将の承認を得て9月20日の会議の席上採択を決定、即日これが運営規程草案に着手した。

 12月18日小林所長は平尾庶務課長・永井技官・小松事務官を帯同し広島・長崎に出張、現地に於てABCC幹部と運営方針並びに本建築の問題に就き懇談し、相互の理解認識を深めると共に、テンポラー、ラボラトーの建設、職員の養成等に重点が置かれたが、ABCCとの関係の緊密化とともに、24年度の研究には多大の期待が懸けられる。

 『国立予防衛生研究所年報 昭和24年版』[抄]

    Ⅶ.原子爆弾影響研究所

 ABCCはかねて仮研究所の開設の準備を進めていたが遂にその完了を見たので7月14日開所式を挙行した。当日は特にGHQ SAMS 准将の臨席を得て関係各官公庁、日本学術会議、各医科大学、医師会その他各関係諸団体の代表者など約100名を招待し、ABCCから Tessmer 中佐以下各幹部、NIHから小林所長、平尾庶務課長、内外技官、槙支所長外幹部職員が列席した。席上多数名士の祝辞があり茲に改めてABCCの沿革と事業の将来が社会に発表せられ本研究所に対する一般の認識を一段と深め事業運営上多大の成果を終めたものと確信する。

 『国立予防衛生研究所年報 昭和27年版』[抄]

    原子爆弾影響研究所の概要

施設 Atomic Bomb Casualty Commission は、昭和26年1月広島市比治山の本建築5棟に宇品仮研究所から移転したが、同27年10月更に2棟の増築が竣工したので、12月末宇品に残留していた部分が運輸部を残して総て比治山に移転集中したので、業務は一体として円滑に進む様になった。

 

都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」(1952年9月)

都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」

今般、科学研究費交付金総合研究計画に基いて、新に『原子爆弾災害調査研究班』が設けられることとなり、過日、研究班の編成を終わり愈々その作業を始めることになった。就ては、その発足に当り、新研究班が設けられるに至った動機と経緯とを述べ且つ研究班運営の方針を考察し、以て関係各位の御参考に供したい。

昭和20年8月上旬広島市及び長崎市に落とされた原子爆弾によって発生した災害に就いては、当時設けられた文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会に於て詳しい調査研究が行われ、我邦学界の総力を挙げて、その真相を明らかにすべく努力せられたのであった。特別委員会の仕事は前後3ケ年に亘って継続せられ、その間、アメリカ側から派遣せられた原子爆弾調査団とも協力し、理学、生物学、工学、医学、農学等の領域に亘って、広汎研究が行われ、多くの報告が出来上がった。

そこで、原子爆弾災害調査研究特別委員会は、その後、調査研究報告を発表し且つ刊行しようとしたが、色々な事情で、ことが円滑に進行せず且つ刊行費の調達に就いても困難があり、ために延々となっていたことは遺憾なことであった。ところが、その後新しく発足した日本学術会議はこの刊行事業を学術研究会議から引継ぎ、幸にして、刊行費の調達に就いても見透しがついたので、昭和26年8月先づ『総括篇』として概要を記した部分を刊行し、次で『各論篇』として報告書全部を刊行し得る配となったのであって、各論篇は昭和27年秋頃発刊の予定である。

原子爆弾災害に関する総合的の調査研究は前述のように、約3ケ年に亘る特別委員会の作業によって大略終了し、昭和23年以後は特に興味を持つ研究者が夫々の立場から、原子爆弾災害そのもの、或いはそれと直接間接に関連のある事項に就いて、個別的に調査研究をせられていたばかりであったので、纏った報告として発表せられたものは多くない。

一方アメリカ側は昭和22年6月原子爆弾の災害に就て、主として医学的の立場から長期に亘る調査研究を行うことを計画し、日本側としては予防衛生研究所がその世話をすることとなり、昭和23年2月以来準備を始め、昭和24年2月広島市に原子爆弾影響研究所(Atomic Bomb Casualty Commission, Laboratory-略名ABCC)を新設し、次で長崎市にも研究分室を設けて調査研究を開始した。

爾来、広島及び長崎に於けるABCC研究所の職員は熱心に調査研究せられて、夫々成績を挙げておられるようではあるが、もともと、原子爆弾の被爆者を主な対象としての仕事であるために、色々と困難な事情があり且つ研究所の行き方が純アメリカ式であるために、被検者との間に意志の疎通を欠き或は誤解を生ずる等のことも起ったようであった。しかし、時と共に互の理解も出来又互の気持もわかって来て、作業は大体に於て計画通り円満に進んでいるようである。それだけに、他面、仕事の面で或る程度の偏位を余儀なくされている点があるのではなかろうか。他国に於けるこの種の文化事業が甚だ困難なことであることは云うまでもない。ABCC研究所の前所長 Dr.Tessmer もその点に就ては色々と考慮せられていたが、現所長 Dr.Taylor は特にこの点に就ては多大の関心を持ち、熱心にことに当たっていられるようである。

日本側としては、原子爆弾災害に関する医学的調査研究は前述のように、昭和22年度で一先ずその総合的研究を終了したのであったが、その後、広島及び長崎を初めとし、その他の地区に於ても、原子爆弾の被爆者間に色々の後遺症が残されていることが注意せられるようになり、その内でも、既に注目せられているものとしては、貧血症、白血病、白内障等を挙げることが出来よう。又関係医家の間では、被爆生存者が時々異常な病像を示すことがあることが認められ、或は次のような機転によるのではないかとも考えられ始めている。即ち、強力な放射能による傷害の結果として、生存者にも、色々の内臓の障碍が残されており、平素は特別の故障はないにしても、何等か異常の状況が起って病的現象の発現を見る場合には、それ等内臓の機能障碍が、これに関連して、特殊な病像を示すのではなかろうかとの考え方である。

原子爆弾被爆生存者はその大部分が現在も猶広島及び長崎地区に居住しているが、昭和25年10月の国勢調査の結果から判断しても、意外に多くの人々が、日本内各地に転住して、ちらばっているようである。

従って、それ等の人々に就て適切な健康管理を行うことは我邦医学徒の責務であらねばならない。

昭和23年以来、一時下火になっていた我邦における原子爆弾災害の調査研究熱が、そのような関係から、最近、再び盛んとなり、それ等と関連する熱、光、放射能等による傷害に関する研究と共に、各学会等に発表せられるものが漸くその数を増して来たようである。特に、この方面には密接な関係を持つ病理学会、血液病学会、放射線医学会等に於ては、夫々の立場から放射線傷害対策委員会を設けて総合研究を始めるに至った。

そこで、昭和26年暮頃から、有志の間で、この際再び原子爆弾災害調査研究の統合機関を設けてはとの話合が進められていた。ところが昭和27年1月26日広島ABCC研究所々長 Dr.Taylor 初め主要研究員の方々が東京に来られ、日本学術会議の肝入で、ABCCの事業の紹介並に業績発表の講演会が開かれ、同時にABCC及び予防衛生研究所関係の方々と、日本学術会議関係者との懇談も行われた。その結果、統合研究機関設立の議が急に具体化し、塩田広重博士を代表者として原子爆弾災害調査研究班が組織せられることとなったのである。

今般設立を見た原子爆弾災害調査研究班は上述のような事情で生れ出でたものであるから、その発足に当っては、特に次の諸点に就て、特別の考慮が払われなければならない。

1.本研究班の研究項目は純学問的の点だけでなく、あらゆる面で、国際的の性質を帯びていること。

2.アメリカ側の研究所が広島市及び長崎市で研究所を設け、充実した陣容で、すでに3ケ年余研究に従事しており、その初めから、日本側としては予防衛生研究所がその世話係をしていること。

3.広島市及びその付近では、広島医科大学及び日本赤十字社広島支部病院、広島県立病院、広島逓信病院等が従来からの関係で引続いて研究していること。

4.長崎市及びその付近では長崎大学医学部が従来の関係から引続いて研究をしていること。

5.病理学会、血液病学会及び放射線医学会では何れも放射線傷害対策委員会を設けて、夫々の立場から研究が始められたこと。

従って、原子爆弾災害調査研究班はその運営にあたって、特に次の諸点を強調すべきものと思う。

1.本研究班は今後我邦学会独自の立場で運営せられるべきこと。

2.本研究班は今後我邦に於ける原子爆弾災害調査研究の権威ある機関として存在し、既存研究団体間の統合連絡機関として活動するように運営せらるべきこと。

3.本研究班は予防衛生研究所を通じ、アメリカABCC研究所とは常に密接な連絡をとり、相互に協力し得るように運営せらるべきこと。

本研究班の編成にあたっては、上述の事情が考慮され、研究事項に関しては、権威ある独自の研究が十分に行われ得ると共に、各方面との円滑な連絡、相互の協力が支障なく達成し得られるように注意されて、別紙のような研究員の構成によって編成せられたのである。

本研究班の研究項目は最もその重要性が認められている医学部門に於けるものから着手するよう計画されており、第一年度(昭和27年度)に於ける研究計画項目は次の通りに定められた。

1.原子爆弾災害に関する未完結調査及び研究の継続

2.被爆者後遺症に関する調査研究

3.被爆者屍体の病理学的研究

4.原子爆弾災害に関連する基礎的研究

第二年度(昭和28年度)以降に於ては、次の方針で運営せられることとなる予定である。

1.第1年度の研究を継続し且つ増強する。

2.本研究を更に生物学的分野に拡大する。

3.研究成果の出版計画。

[以下略]

広島市の原爆死没者調査趣意書(1952年)

広島市原爆による死没者調査についての趣意書

広島市役所

今回広島市の原爆による死没者調査を全国にわたって実施致しますので、調査洩れのないよう関連者の方々からの申告を切望致します。

一 調査の目的

広島市の平和公園内に(慰霊堂)が建立されるので、本年の七回忌を期して全死没者氏名等の名簿を作成し、これを合祀することを目的とする。

二 調査の時期

五月中・・・・・・申告者に調査票を配布し、回収する。

七月中・・・・・・関係者の名簿縦覧期間とする。(遠隔地はハガキ等による照会、応答を実施)

三 調査の対象者

広島市に投下された原子爆弾により直接に、又は原爆の影響を直接の原因として死没された方全部を含む。これ等の人々を関連者からの申告に基づいて調査する。

例えば

〇原爆時に即死された方、行方不明となられた方、火災、重傷等で死没された方。

〇原爆時に負傷し、その後それが原因で死没された方。

〇原爆時には傷もなく元気であったが、その後原爆の影響で死没された方。(炸裂時に広島市外にいた方も含む)等何れも該当者とする。

四 調査の方法

〇広島市内及び広島県下については特別に徹底を期して、調査票も市内は全世帯に配布、県下も多量配布し、個人票以外に事業体、学校、団体、病院、寺院等には連記制調査票も配布する。

〇各県の地方課から各区町村役場の関係課係を通じて連絡員(部落の世話人)前国勢調査員、学校の生徒達の御協力により、或いは告知板の利用等により申告者に調査票を入手させ、記入して貰う。

〇記入済の調査票は入手した市区町村役場へ提出して貰い、更にこれを都道府県の地方課に募集の上当市に御送付を願う。

申告者と死没者との関連の限界

家族、親戚、知友、近隣、戦友その他凡ゆる範囲にわたって記載して貰う。

但し自分の家族以外の死没者については、その死没者が遺族等から確実に申告されると推定されるものは省くこと。即ち「この人は自分が申告しなければ洩れる」と判断され る人を申告して貰う。

五 調査の項目

1、死没者の氏名

2、性別

3、死没者の年令

4、死没者の当時の住所

5、死没者の当時の職業

6、死没年月日

7、直接の原因

8、死没の場所

9、被爆時にいた場所

(以上9項目を設けることにより、同姓、同名の死没者等も明確に区分される。)

六 周知宣伝

全国主要新聞、並びにラジオ周知放送により極力周知を図り、出来る限り申告者が市区町村で調査票を入手されるよう努める