碧空―「大牟田稔さんをしのぶ会」報告・追悼集(編集人:海老根勲)
内容
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大牟田稔さんの略歴 |
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大牟田稔さんをしのぶ会呼びかけ人 |
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「大牟田さんをしのぶ会」 |
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| 【追悼集第1部】 |
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| 平岡敬 |
見つめ続けたヒロシマ |
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| 小久保均 |
空ゆかば |
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| 長岡千鶴野 |
哀しみを乗り越えて |
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| 嘉指信雄 |
「ヒロシマの鶴」が飛んでゆく |
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| 松元寛 |
大牟田さん、どうして |
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追悼記事2本(朝日新聞「惜別」中外日報「社説」 |
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メッセージ集…那覇市・真喜志津留子ほか |
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| 小泉直子 |
大牟田さんからの宿題 |
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| 繁沢敦子 |
厳しさと優しさと |
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| 江種則貴 |
端正な字に驚いた |
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| 平城智恵子 |
「ヒロシマ」に生きる意味 |
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| 大牟田稔遺稿集 |
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26人の原爆被害者たち |
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インタビュー(機関誌「せこへい」から) |
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「原民喜回顧展」のごあいさつ |
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大牟田稔「古希の記憶」 |
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| 【追悼集第2部】 |
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| 直野章子 |
死者を抱きしめながら |
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| 「しのぶ会」におけるスピーチ |
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| 中沢啓治 |
通じるものを感じていたのに |
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| 近藤憲男 |
原稿を書かなかった大牟田さん |
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| 碓井巧 |
記事への執着 |
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| 則武真一 |
いい人生を送ったな、大牟田君 |
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| 秋信利行 |
病床を見守って |
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| 大牟田聡 |
謝辞「いいオヤジでした」 |
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| 金井宏一郎 |
親子二代の交わり |
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| 海老根勲 |
編集後記 |
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今堀誠二資料
| 冊子・本 |
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| 広島大学在職中における研究業績目録 1939―1977(今堀誠二) |
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| 日本学士院賞受賞記念冊(今堀誠二、1980年8月) |
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| 今堀誠二先生広島女子大学在職期間業績目録―1977年8月~1987年12月(今堀誠二先生業績目録刊行会、1988年9月) |
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| 青眼―今堀先生の御逝去を悼んで(今堀杯争奪広島大学教職員親睦庭球大会第20回記念、藤川行平編、1992年11月27日) |
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| 歴史家の旅(今堀誠二、勁草書房、1993年10月20日) |
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| アジア研究半世紀の軌跡 今堀誠二遺稿集 (今堀百合子編 刊、2002年5月9日) |
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| 資料 |
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| 今堀誠二文書仮目録(広島県立文書館、2007年1月)<請求199608>https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/mokuroku/199608imahori.pdf |
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小野増平
| 小野増平 |
おの・ますへい |
20110918没 |
享年64 |
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中国新聞社入社(1970年4月)、ニューヨーク支局長(1990年8月)・東京支社長(2002年2月)・編集局長(2005年)、広島経済大学メディアビジネス学科教授 (2007年9月)を歴任。 |
関連資料
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広島大学文書館蔵 小野増平関係文書目録(広島大学文書館、2017年」2月刊) |
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核兵器廃絶をめざすヒロシマの会
2001年3月20日設立
Hiroshima Alliance for Nuclear Weapons Abolition (HANWA)
【共同代表】 岡本三夫 河合護郎 森瀧春子
【事務局】
〒730-0802
広島市中区本川町二丁目6番11号 第7ウエノヤビル 5F
広島県生活協同組合連合会内
https://www.e-hanwa.org/date/2001/03
年表:核兵器廃絶をめざすヒロシマの会
| 年月日 |
事項 |
備考 |
| 2001 |
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| 0320 |
核兵器廃絶をめざすヒロシマの会発足 |
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| 0806 |
「核のない21世紀を!広島国際対話集会の夕べ」 |
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| 1114 |
ブッシュ米大統領にCTBT発効促進会議欠席への抗議文を送付。 |
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| 2002 |
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| 0911 |
米中枢同時テロから1年。原爆資料館で集会。 |
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| 1215 |
会員3人、イラクへの「市民平和使節団」員として広島を出発。 |
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| 2022 |
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| 0122 |
核兵器禁止条約発効から1年。原爆ドーム前で10人が横断幕。 |
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| 0308 |
原爆ドーム前でロシアのウクライナ侵攻と核兵器による威嚇に抗議する集い。 |
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| 0806 |
『8・6国際対話集会~反核の夕べ 2022 核戦争をいかに防ぐか ヒロシマで考える』 |
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講演「核戦争をいかに防ぐか ヒロシマで考える」 |
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止
河合護郎
| 月日 |
没年 |
よみ |
享年 |
備考 |
| 1001 |
2012 |
かわい・ごろう |
84 |
広島平和文化センター元理事長。原爆投下の4日後の1945年8月10日、親族を捜すため爆心地付近に入り被爆。50年に広島市職員。企画調整局長、民生局長などを歴任し、87年から5年間、広島平和文化センター理事長。退任後は市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の共同代表に就任。 |
東京朝日の原爆批判キャンペーン(1945年8月~9月)
朝日新聞は、広島に原爆が投下された翌日から連日、原爆に関する報道を行った。1945年8月7日~9月18日の43日間で、原爆関係の記事が掲載されなかったのは、8月22日、同月26日、9月13日の3日のみである。また、この間の関係記事数は115件におよぶ。当時の新聞が表裏2面のみという限られた紙面であることを考えれば、当時、原爆問題がいかに重視されていたかがうかがえる。
同新聞は、占領軍当局により、原爆批判キャンペーンの「先頭にたっ」ていると目され、1945年9月18日、48時間の発刊停止処分を受けた。この発停が直接の契機となり、翌19日には、プレスコードが指令される。
プレスコードを契機に原爆関係の記事は激減し、原爆投下を非難する記事は一切無くなった。次表は、朝日新聞の記事数を、プレスコード(ps)の前(b)と後(a)で比較したものである。
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社説 |
外電 |
報道
(含コラム) |
計 |
一日平均
記事数 |
| ps-b |
8 |
30 |
77 |
115 |
2.7 |
| ps-a |
3 |
66 |
30 |
99 |
0.3 |
注:ps-b=1945年8月7日~9月18日(43日) 注:ps-a=1945年8月21日~1946年8月6日
(322日)
広島市議会「原爆遺跡の保存を求める決議」
1990年3月27日
世界最初の原子爆弾投下による広島市の惨禍は、人類の未来に対して大きな警鐘を打ち鳴らすものであり、この惨禍を二度と繰り返させてはならない。
そのために、原子爆弾の被災による実相を世界の多くの人びとに伝えることは、広島の責務であると考える。
しかしながら、近年、原子爆弾の被災を受けた建物が、老朽化等の名のもとに次々と取り壊されている。
今後、被爆の実相を広く伝えるためにも、これらの被爆建物に対する対応の仕方については、慎重かつ十分な調査研究の上にたって、その歴史的財産を後世の広島市民に伝承すべきである。
以上、決議する。
1990年3月27日
広島市議会
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。