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被爆体験継承普及事業(概要)

被爆体験継承普及事業

開始年 事業名 備考
1968 原爆罹災者名簿の公開
1978 修学旅行生への被爆証言講話等
1978 国内原爆写真展用資料の普及・活用
1980 原爆被災説明板及び被爆建物表示板の設置
1982 原爆展・平和学習用資料の普及・活用
1986 被爆者証言ビデオテープの制作
1987 被爆体験証言者交流の集いの運営
1993 被爆建物等保存・継承事業
1994 平和記念資料館の企画展等の実施
1998 広島平和記念資料館資料調査研究会発表会の開催
1999 ヒロシマピースボランティア事業
2001 被爆樹木の樹勢回復措置
2002 中・高校生ピースクラブの開催
2002 ヒロシマ・ピースフォーラム
2003 平和文化センターインターンシップ事業
2004 次世代と描く「原爆の絵」……………
2012 平和記念資料館再整備事業
2012 被爆体験伝承者の養成
2012 折り鶴に託された思いを昇華させるための取組の推進
2016 被ばく樹木のモニタリング
国内原爆展雄開催
英語で伝えようヒロシマセミナー
被爆関連映像資料のアーカイブ化
旧日本銀行広島支店での平和記念資料館収蔵品の展示
「新着資料展」の開催
「収蔵資料の紹介」コーナーの展示
被爆体験伝承者による伝承講話の定時開始
折り鶴データベースの記録保存
被爆体験講話会の定時開催
平和・戦争に関する博物館等とのネットワーク
2016 平和記念資資料館収蔵資料の保存措置の強化 新規
2016 被爆資料の収集の強化 新規
2016 平和首長会議国内加盟都市会議に合わせた原爆展の開催 新規
2016 三重県における原爆展の開催 新規
2016 平和記念資料館ボランティアスタッフ活動支援事業 新規

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/hpcf/jigyo/pdf/2017/04.pdf
1 修学旅行生への被爆証言講話等………14
(1)実施状況………………………………14
(2)申し込み方法…………………………15
(3)被爆体験証言者(本財団所属)名簿…………16
2 ヒロシマピースボランティア事業……………17
3 国内原爆展の開催………………………………18
4 原爆展・平和学習用資料の貸出し……………21
(1)貸出件数………………21
(2)資料一覧………………21
(3)貸出方法………………24
☆原爆被災写真の貸出し…………25
5 被爆者証言ビデオテープの制作………………25
6 被爆体験証言者交流の集いの運営……………26
(1)全体会の実施………………26
(2)研修会の実施………………26
(3)構成団体一覧表……………27
(4)団体別被爆体験証言実施状況………28
7 次世代と描く「原爆の絵」……………29
◇被爆建物等保存・継承事業………………30
◇原爆被災説明板の設置……………………31
◇被爆樹木の樹勢回復措置…………………31
◇原爆罹災者名簿の公開……………………33
◇折り鶴データベースの記録保存…………34
◇折り鶴の保存・展示を実施………………34
◇平和記念施設保存・整備方針の策定………35

年表:原爆展(1951年)

年表:原爆展(1951年)

記事
02 28? 広島市、西独・ハノーバーで開催予定(7月から約1月)のドイツ復興博に原爆被害写真や復興状況の統計を送ることを決める。
03 28 西独ハノーバー市で開催予定(5月)の都市計画博覧会に出品される東京・広島・長崎のパノラマ、東京日本橋・三越で展示。
05 01 京都大学で春季文化祭「わだつみの声にこたえる全学文化祭」を開催。-20日。この中で同学会主催の原爆展が開催される。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
05 19 京都大学で「原爆に関する講演会」(木村毅一・天野重安・大田洋子の講演)。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
06 この月初め、京都大学文学部学友会の呼びかけにより「原爆体験記編集委員会」を作り、宮川裕行を中心に編集にとりかかることを決定。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
06 09 京都大学の学生、丸木夫妻から総合原爆展への「原爆の図」出展の了解を得て東京から帰任。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
06 10 京都大学の学生、広島より総合原爆展用の大量の原爆資料を持って京都に帰任。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
06 13 同志社大学「平和に生きる会」、原爆展を開催。-18日。3500人が参観。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号収録の「都新聞」)
06 13B 京大=原爆展を中心に全京都的な青年文化祭を行う。(「連盟通信」第101号)
06 15 京都大学同学会、ビラ「京大原爆展を成功させるために」を発行。(「資料戦後学生運動3」)
06 15 東京大学五月祭で展示された原爆資料が京都に到着。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
06 京都大学の学生、「原爆展」の準備のため広島で吉川清を訪問。吉川、上洛の意向を学生に表明。(京大同学会「京大原爆展を成功させるために」)
07 10 京都大学同学会、原爆展を丸物百貨店で開催。10日間。
07 14 京都大学同学会、丸物で総合原爆展を開催。-24日。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号収録「都新聞」7月21日付)
07 22? 宮川裕行(京都大学文学部学生)、広島で原爆体験の手記募集活動を行う。県庁職組、市庁職組・千田書房などを回る。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
08 06 丸木・赤松夫妻の「原爆の図」第4部「虹」、第5部「少年少女」が完成し、東京・日本橋丸善画廊で展覧会。-11日。(「連盟通信」第105号)
08 17 高槻市・京都大学同学会、市会会議室で原爆展を開催。-19日。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
08 20 「東京平和会議ニュース」第4号、広告「原爆写真展を御利用下さい!!」を掲載。写真内容=原爆の図(16枚)、広島被害写真(5枚)、赤松丸木絵ピカドン(台紙4枚張17枚)の計38枚。
08 23 川崎駅前の百貨店で赤松俊子の「原爆三部作展」開催(長崎民友)。
08 23 赤松俊子・丸木位理共同製作「広島原爆図展」、川崎駅前・小美屋で開催。-30日。(「進む車両」1951年8月20日)
08 25 民主主義科学者協会・新日本建築家集団・新日本医師協会・京都大学同学会、「戦争・平和をめぐる科学技術展」開催準備のため展示物の一部を占める京都大学同学会の「原爆展」を東京都港区の全銀連会館で関係者に公開。-27日。(大原社研資料)
08 30? 民科・新日本建築集団・新日本医師協会・東大職員組合、9月10日-20日の間、浅草の松屋、渋谷の東横で「戦争と平和の科学技術展」の開催を計画。(「連盟通信」第106号)
09 01 横浜市従業員労働組合、神奈川体育館で「第1回市従平和文化祭」を開催。-5日。行事の一つに原爆絵画展(赤松・丸木協作原爆の図第1部-第5部)。(大原社研資料)
09 22 第38回日本エスペランチスト大会。京都大学エスペランチスト会、名古屋市の区役所廊下で原爆スチールを展示。(「原爆展」掘り起こしニュース)
11 01 大阪大学の体育文化祭で「原子力展」を開催。(「原爆の子に応えよう」520227)
11 08 岐阜大学農学部で文化祭。-11日。自治会主催の原爆展が開催される。(「連盟通信」第116号)
11 20 北海道・札幌市の丸井デパートで「原爆の図展」を開催。-21日。(「原爆展」掘り起こしニュース第5号、「女絵かきの誕生」)
11 22 静岡大学の文化祭で「原爆展」を開催。-25日。(「原爆展」掘り起こしニュース第5号)
11 24 札幌市警、北海道大学の原爆展会場に展示されていたパネル3枚(広島・長崎に落ちた原爆についての市民の声)を占領目的阻害行為処罰令被疑として押収。(「連盟通信」第117号、「女絵かき誕生」)
11 33 「原爆の図」展、1950年2月から51年11月までの期間に、日本全国51か所で延べ223日間開催され、約65万人が入場。(「原爆の図」19520410)

年表:原爆展(1948~50年)

年表:原爆展(1948~50年)

記事
48 08 ? 夏、丸木位里・赤松俊子、「原爆の図」の製作に着手。
48 08 05 長崎市、市立博物館で原子爆弾史料展示会、開催。(~11日)
48 08 06 アトム・ヒロシマ写真・画展、広島市内の茶房で開催(~8日)。中国新聞社写真部松重ら5氏の写真や福井芳郎のスケッチを出品。
49 04 21 広島県観光と物産展、東京日本橋・三越本店で開幕。-28日。「平和の鐘」を展示。
49 08 03 広島市平和協会主催「浮世絵展」、福屋百貨店で開幕。-14日。
49 10 14 広島市中央公民館、全国民生・児童委員大会の協賛行事として原爆写真展を開催(~18日)。
50 02 08 日本美術協会主催第3回アンデパンダン展(東京上野・美術館)。11日間。丸木位里・赤松俊子、「八月六日」(「原爆の図」第1部幽霊)を出品。(「原爆の図」19520410、「三田文学」1950年6月、「女絵かきの誕生」19770820)
50 02 11 広島市中央公民館で、原爆と平和展(広島平和協会主催)、開催(3月12日まで)。原爆関係資料展示。3月8日までの入場者数大人4273人、小人1611人。入場者収入32万2290円。
50 02 21 長崎市、日本産業博覧会(3月15日から、於神戸市)に長崎館を設置し、原爆資料など展示することを決定。
50 03 桃李会主催「原爆の図」展、丸善で開催。(「三田文学」1950年6月)
50 06 01 共産党東京都委員会、池袋駅前で「原子爆弾写真展」を開催し、平和投票を集める。
50 06 21 アカハタ、東京で戦争反対、原子爆弾の使用禁止の宣伝のため原爆による被害を示した数枚のポスターを紙上で紹介。
50 08 月刊誌「働く婦人」、グラビアで赤松俊子夫妻の「原爆の図」を紹介。峠三吉の詩「呼びかけ」、記者常見一の広島ルポ「原子沙漠に草萌えて」を掲載。
50 08 ? 全商工本省支部が省内で開催した原爆写真展の写真が巡視により没収される。(千代田区平和を守る会「平和ニュース」第2号、1950年8月12日)
50 08 07 丸木・赤松の「原爆3部作展」東京・日本橋の丸善画廊で開催。-12日。15-20日には銀座・三越で開催。合わせて9万人が参観。(「連盟通信」第68号、「日本評論」1950年10月)
50 08 18A 日本美術会・婦人民主クラブ・女子勤労連盟・平和を守る会、東京有楽町交通協会で、原爆3部作完成記念の懇談会を開催。本郷新(司会)、八田元夫(丸山定夫の思い出話)、淡徳三郎、武谷三男、大田洋子の話に続き、赤松・丸木夫妻の挨拶。
50 10 ? 民科米子支部、「原爆の図」展を開催。3500人が観覧、2500票のSアピールを集める。(「歴史評論」1951年9月)
50 10 05 広島市内五流荘で原爆の図三部作展覧会始まる。5日間でストックホルムアピール署名186票。(「民族の星」1950年10月16日、10月21日)
50 10 07 「われらの詩の会」、峠三吉のアパートで壷井繁治・丸木位里・赤松俊子を囲む集まりをもつ(「われらの詩」1950年12月15日)
50 10 08 広島市・五流荘で「壷井・丸木・赤松諸氏を囲む座談会」が開かれる。(「われらの詩」1950年12月15日)
50 10 20 広島県・上下高校の記念祭で「平和展」.会場で原爆写真などを紹介(25日まで)。

大江・高橋・三島との遭遇

作家名 遭遇年月日 遭遇場所
高橋和巳 1969年?  京都大学本部構内(京都)
三島由紀夫 1970年11月25日  陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(東京)
大江健三郎  1987年7月30日  広島ターミナルホテル(広島)

高橋 和巳
たかはし かずみ 19310831生
19710503没 作家。歳。
高橋和巳=「私たちはしばしば、一つの時代を、その繁栄の中心において記述しがちであるが、一つの時代は先端的な繁栄の場をもつと同時にその時代の矛盾と悲惨の集約の場をももつ。そして文化というものは、社会の先端を切る人々にのみ担われるのではなく、矛盾と悲惨の場に耐えた人々によっても担われる。その不運の場に居あわさねばならなかった人々の苦しみのうちに築かれてゆく価値を無視してしまっては、その時代、その民族の精神は十全ではありえないのである。」
(「滅びざる民」、『読書人』1966年8月1日号掲載)

三島 由紀夫

広島に”新型爆弾”が投下されたとき、私は東大法学部の学生であった。(中略)
それが原爆だと知ったのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだった。世界の終わりだ、と思った。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。もっとも、原爆によって突然発生したというより、私自身の中に初めから潜在したものであろうが・・・。 ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。まぎれもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは二度とくりかえしません」といった。原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、終戦の詔勅の「五内為ニ裂ク」という一節以外に、私は知らない。(中略)
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさえながら核を作っている。彼らは言いわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被爆国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもって対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思い起こすべきではないのか。
(三島由紀夫の発言、「私の中のヒロシマ」、『週刊朝日』1967年8月11日号

大江 健三郎
1958年「飼育」で芥川賞受賞。
「ヒロシマ1960」(『中国新聞』1960年8月7日)
***私はきょう広島を訪れて原爆記念祭に出席した。それは私にとって貴重な体験である。***日本人はその生涯に、すくなくとも一度は広島を訪れるべきである。
***私は広島で、原爆と戦いつづけながら日常生活をきずいている、勇気にみちた人たちを見た。それは土門拳の「ヒロシマ」で私が発見し、深い敬意をはらっていた人たちを、現実に見ることであった。そしてまた私は、納骨塔の前で会った母親のように、深く暗い海のような悲しみと嘆きをもつ人たちをも見たのである。
***この二つの人間像が広島の人たちを代表するものであろう。私はこの勇気ある人たち、しかも深い悲嘆を心にいだきつづける優しさをもった人たちを、おなじ日本人としてもつことに誇りを感じる。
「ヒロシマ・ノート」(『世界』1965年3月号)
***広島こそが、僕のいちばん基本的な、いちばん硬いヤスリなのだ。広島を、そのような根本的な思想の表現とみなすことにおいて、僕は自分が日本人の小説家であることを確認したいのである。
「ヒロシマからの新しい光-人類再生のシンボルに」(『中国新聞』1992年1月1日)
***これまで広島は第二次世界大戦で始まった核兵器体制の黒い巨大なシンボルでした。いま核軍縮の方向性があきらかとなって-逆行がありうるのであれ-、広島は核の被害から人間がどのように再生したかを示す光のシンボルともなりうるはずです。チェルノブイリの被災者の広島における治療は、すでに具体的にそれをあらわしていると思います。
1994年10月13日、ノーベル文学賞受賞決定。
「世界文学は日本文学たりうるか?」
(ノーベル賞受賞後初の講演。『あいまいな日本の私』(岩波新書、1995年)所収)
***私どもは、広島と長崎の経験を持っていますが、はたして日本人はそれを本当に思想化したか、日本文明の問題として考えてきたか?あるいは、日本人の文化の問題として捉えてきたかというと、私はそうではないのではないかと考えています。
***広島と長崎の課題を日本人が経験した20世紀最大の出来事として把えなおすならば、そのとき初めて日本人は、この世紀末から次の世紀に橋渡しすべき思想を、あるいは文明をかちとりうるのではないでしょうか。
***われわれは、ゆがんだ貧しい近代をつくってしまった。そして大きい戦争を惹き起こして、悲惨な経験をした。その頂点に広島と長崎があります。そのことをわれわれは、自分たちの文化の問題として、文明の問題としてあらためて徹底的に考えるべきではないか?それが私たちにとって、ついに世界言語を構想することにもつながる仕方で世界の文学に参加するための出発点ともなるのではないか?
***広島、長崎のあの大きな犠牲は、償わなければならないと思います。償うのは私たちです。また、広島、長崎にいたった、そしてそれ以後も決して完全に治っているとはいえない国家の疾患から、私たちは恢復しなければならない。
ノーベル賞受賞記念講演「あいまいな日本の私」
(1994年12月7日『あいまいな日本の私』(岩波新書、1995年)所収)
***日本と日本人は、ほぼ50年前の敗戦を機に***大きい悲惨と苦しみのなかから再出発しました。新生に向かう日本人をささえていたのは、民主主義と不戦の誓いであって、それが新しい日本人の根本のモラルでありました。しかもそのモラルを内包する個人と社会は、イノセントな、無傷のものではなく、アジアへの侵略者としての経験にしみをつけられていたのでした。また広島、長崎の、人類がこうむった最初の核攻撃の死者たち、放射能障害を背負う生存者と二世たちが--それは日本人にとどまらず、朝鮮語を母国語とする多くの人びとをふくんでいますが--、われわれのモラルを問いかけているのでもありました。
「『ヒロシマの心』と想像力」(『核と人間2』(岩波書店、1999年)所収)
***核兵器に対する日本人の国民感情という政府の声明の常套句も、広島、長崎から発せられる実際には内容のぎっしりつまった「ヒロシマの心」という言葉も、ともに、海外では本気で受けとられなくなっている現状がある、とあえて私はいいたいと思います。
***被爆者たちの反核の感情に、すくなくともいまナショナルなものは大きくない、と私はこれまで幾らかなりとその傍に立って運動に参加したり、観察したりしてきた者としていうことができます。被爆者はあきらかに被害者ですが、そして被爆直後反核の運動の開始、そしてある時期まで、深い被害者意識があったことは当然だと思いますが、しだいにそれを克服して、その核兵器の投下をもたらすものとなった--だからといって、それが必然的に核兵器を広島に、またとくに長崎にまで投下させるものだった、とはいえませんが--太平洋戦争、それに先だつ日中戦争での、加害者としての日本人という意識を、被爆者援護法の運動は実際に取り込んできました。また植民地化された朝鮮半島の人々への加害者意識を、具体的に生活感覚のなかに生かしもしました。私は戦後の日本人の思想史において、広島、長崎の被爆者たちの、援護法に焦点をおいた、そしてさらに今日まで続く核廃絶の運動のなかでの、その経験の普遍化の道程は特別な重みを持つものだと考えています。

 

 

 

 

平和と学問を守る大学人の会

平和と学問を守る大学人の会
会の結成
1953(昭和28)年2月21日,広島県内の大学に教職を持つ有志約50人は,平和と学問を守る大学人の会(略称・大学人会)を結成した。結成の背景について同会会報創刊号(1953年6月1日)は次のように述べている。
昨年の破防法問題の時には,広島の大学人は結局これを見送ったのであったが,見送りながらも刻々民主々義の基盤が侵蝕され,平和が危機に曝されて行く事実を見逃すことはでぎなかったのである。さらに昨年末から本年にかけて問題となった科学技術庁案は,侵略の魔手が直接研究の現場にまで迫ってきていることを気づかせたのである。そして,このことはかって支那事変から太平洋戦争の時代にかけて,軍事科学の偏重のために人文・社会の研究は勿論,自然科学といえども,基礎的研究は経済的に圧迫されて事実上閉塞し,さらに軍国主義思想が学問の自由を破壊したという,まだ去って間もない過去の苦しい経験を,まざまざと思い起させたのである。この反省が,今度こそはわれわれ自身の手によって学問の自由を確保し,平和を擁護しなければならないという自覚を促し,その自覚がわれわれを,今,ここに結集させているのである。春秋の筆法を以てすれば,破防法に始まる悪法が--さらに遡ってサンフランシスコ条約以来の反平和的情勢が,われわれ広島の大学人会を結成させたものである。
大学人会の目的は,「平和を擁護し良心と学問自由を守ること」(規約第2条)とし,事業として,1.共同研究会の開催,2.公開講演会・公開討論会・座談会等の開催,3.本会と目的を同じくする諸団体との連絡提携などが定められた(規約第3条)。発足以後,3月末には会員数は90入に達し,5月末現在では100人を超した。
大学人会の発足当初の活動は,地味なものであったが,この会は,のちの広島の社会運動,とりわけ原水爆禁止運動・安保闘争の中で重要な役割を果すこととなる。
大学人の会の研究活動
平和と学問を守る大学人の会は,同会研究論集として『原爆と広島』(1954年12月10日),『広島の農村』(1955年7月20日)を発行し,高い評価を受けていたが,これらは同会の共同研究の成果というよりも,個人的労作を編集したものであった。1956(昭和31)年には会の共同研究を推進することを決め,石井金一郎を中心に検討がなされた。その結果,次のような計画がまとめられ,6月12日の常任委員会で承認された。
1.広島の平和運動の過去と現状及び将来の展望(世話役=今中次麿・石井)-運動実践家を囲んで運動の実態を聞く会と,研究参加会員によるその運動の評価の研究会とを交互にもって,研究をすすめる。平和運動としては原水爆禁止運動・平和憲法擁護運動・平和文学の運動等々を含めた広い運動を対象とする。
2.原子力問題(伊藤満・庄野博允)=肩のこらない軽い気持で参加できる研究会にする。原子力をめぐる各方両の問題を一つづつとりあげて懇談を行うことから出発する。自然科学部門の人と社会科学部門の人との共同研究の場にしたい。
3.日本における学問の自由=欧州の学問の自由の歴史・日本の学問の自由の歴史・大学自治の問題,現在われわれが直面している問題等々を問題としたい。
(「広島大学人会会報」NO.16)
このほか,平和文学(または国民文学)の問題を取りあげることも検討されたが,結局見送ることになった。
平和運動の研究班は,8月17日に大原亨(広島県労議長)・松江澄(平和擁護委)・棗田金治(広大自治会)から労組・学生団体の平和運動について,同月20日に円辺耕一郎・藤居平一(広島県原水協)・山口勇子(広島子供を守る会)・松江澄から原水爆禁止運動について,また,23日には米田栄作・望月久・島陽二(詩人)・佐々木豊・志木寥波(歌人)・小林健三・土谷厳郎(平和問題談話会)・桑原英昭(人類愛善会)・河本一郎(FOR友和会)・金井利博(中国新聞社記者)から宗教・文化関係の話を聞く会を開いた。この3回の懇談会の記録は,同年12月に石井金一郎により『広島の平和運動(平和運動研究班(中間報告)」としてまとめられた。同書は,「広島の平和運動研究資料一」と銘打たれていたが,1957(昭和32)年中に「同二」として『原爆被害者の歩み』(庄野博允執筆)が、また「同三」として『原爆被害者救援の動き』(佐久間澄執筆)がそれぞれ発行された。
なお,原子力の班は,討議の資料として原子力に関する自然科学・社会科学各方面にわたる国内文献目録の作成と原子力問題についての歴史年表の作成を計画,前者については,1957(昭和32)年3月に「原子力問題研究資料1原子力関係文献目録』(佐久間澄編)として発行している。

年表:原爆展

 

 

1948~50年)、1951年、 1952年、 1953年、 1954年、 1955年、 1956年、
1958~64年)、 1967年、 1968年、 1969年、 1970年、
1971年、 1972年、 1973年、 1974年、 1975年、
1976年、 1977年、 1978年、 1979年、 1980年、
1981年、 1982年、 1983年、 1984年、 1985年、
1986年、 1987年、 1988年、 1989年、 1990年、
1991年、 1992年、 1993年、 1994年、 1995年
1996年、 1997年、 1998年、 1999年

 

世界のヒバクシャ(概要)

世界のヒバクシャ

 

国・地域 アメリカ、 イギリス、 旧ソ連、 フランス、 中国、 インド、 パキスタン、  日本

世界の被曝地域一覧

マスコミ マスコミのキャンペーン
被害者組織 全米原爆復員兵協会(1979年8月)、 全米放射線被害者協会(1984年10月12日)

原水爆禁止世界大会の参加者に見る世界の ヒバクシャ団体

救援・連帯 市民団体による調査・救援活動
世界大会へ参加した海外のヒバクシャ、 ミクロネシア・マーシャル諸島の米核実験被曝者の参加状況
世界のヒバクシャの連帯
調査・研究 放射線影響研究所、広島大学、長崎大学、原爆後障害研究会
国際協力 笹川財団放射線被曝者医療国際協力推進協議会 、長崎・ヒバクシャ医療国際協力会
文献 世界のヒバクシャ全般
地図 世界の被曝地域、
年表 1969~76年、1977~79年、1980~82年、1983~85年、1986~87年、1988年、1989年、1990年、1991年、1992年、1993年、1994年、1995年、1996年、1997年、1998

 

原爆後障害研究会で取り上げられた海外のヒバクシャ

原爆後障害研究会で取り上げられた海外のヒバクシャ

報告者 タイトル
64 6 熊取敏之 ロンゲラップ島被曝住民の調査報告(特別報告)
78 19 石田定ほか 韓国在住被爆者の健康状況(第1報)-韓国被爆者検診報告
鄭基璋ほか 韓国陜川郡における被爆者の実態(基礎的調査の報告)
79 20 石田定ほか 韓国在住被爆者の健康状況(第2報)-陜川郡在住被爆者の急性障害
80 21 石田定ほか 韓国在住被爆者の健康状況(第3報)-陜川郡在住被爆者の疾病傾向
82 23 伊藤千賀子ほか 在米被爆者の実態
84 25 伊藤千賀子ほか 在米被爆者の実態(第2報)-第4回在米被爆者検診成績
86 27 鎌田定夫 在韓被爆者の現状と渡日治療問題
87 28 蔵本淳 チェルノブイリ原発事故における医療の実態
89 30 蔵本淳 チェルノブイリ原発事故における医療の実態(第2報)-骨髄移植の適応と再評価
91 32 佐々木英夫ほか IAEA国際チェルノブイリ計画検診報告
パネルディスカッション:放射線被曝者医療の国際協力
平田克己 放射線被曝者医療の国際協力:広島県医師会の立場から
迎英明 過去の経験をふまえての被曝者への海外協力の問題点
石野誠 放射線被曝者医療の国際協力:長崎における国際協力
蔵本淳 放射線被曝者医療の国際協力:チェルノブイリの場合(医療サイドから)
河合護郎 医療推進事業への願いと提言
矢野周作 放射線被曝者医療の国際協力:行政としての立場から
本間泉 放射線被曝と国際協力
寺崎昌幸ほか 腫瘍登録による国際協力-長崎市医師会腫瘍統計・組織登録
93 34 竹岡清二ほか ヒューマンカウンターによるチェルノブイリ周辺地域から来日した子供の137Cs体内放射能測定
難波裕幸ほか チェルノブイリ周辺地域住民の尿中ヨード測定
武市宣雄ほか チェルノブイリ原発事故と小児甲状腺癌-広島の原爆被爆者例と比べて
武市宣雄ほか 広島の胎内原爆被爆者にみられた甲状腺癌の経験、チェルノブイリ原発事故の胎内被爆症例も含めて
佐藤幸男ほか WHOのInternational Program on the Health Effects of the Chernobyl Accident (IPHECA) のプロジェクト “Brain Damage in Utero” 紹介
94 35 久住静代ほか チェルノブイリ原発事故による広域放射能被曝の心理的影響(国際シンポジウム報告)
島崎達也ほか チェルノブイリ原発周辺住民の内部被曝線量の測定
伊東正博ほか チェルノブイリ原発周辺地域における小児甲状腺疾患の形態学的検討
瀬山敏雄ほか チェルノブイリ事故汚染地域における小児甲状腺癌の遺伝子変化
高木昌彦 セミパラチンスク医科大学における第1回国際会議(環境・放射線・健康)の報告
95 36 Raphail Rozensonほか セミパラチンスク住民における電離放射線被曝の発癌におよぼす影響
伊東正博ほか チェルノブイリ周辺地域における小児甲状腺疾患の組織学的検討
武市宣雄ほか セミパラチンスク核実験と甲状腺癌、1994年の調査結果
芹沢潔人ほか チェルノブイリ原発事故後の周辺地区における小児甲状腺疾患と137Cs体内被曝線量
高木静子ほか HIBAKUSHAの医療と福祉
96 37 伊東正博ほか 穿刺吸引細胞診からみたチェルノブイリ原発周辺地域での小児甲状腺疾患の特徴
芹沢潔人ほか 小児甲状腺癌:チェルノブイリ原発周辺地区と本邦症例との比較
97 38 藤田委由ほか National Death Index (NDI) による在米被爆者の追跡調査
伊藤千賀子ほか 在米被爆者検診内容に関する検討-原死因・死亡時年齢の分析
芹沢潔人ほか チェルノブイリ周辺地区における小児甲状腺疾患:スクリーニング5年間のまとめ

 

原子爆弾後障害研究会(第1回)

原子爆弾後障害研究会(第1回)
1959年6月13日-14日 於広島市平和記念館
挨拶
広島市長 浜井 信三
主催者を代表致しまして一言御挨拶申上げます。
本日茲に広島県・市並に広島原爆障害対策協議会共催のもとに原子爆弾後障害研究会を開催致しましたところ,御多忙中にも拘らず厚生省尾村局長,塩田先生をはじめ医学界の各先生方並に来賓各位多数の御臨席を頂きましたことは誠に感謝に堪えないところでございます。一昨年四月,原爆医療法制定以来多数の被害者の方々が健康診断及び治療等の恩典に浴し,原爆障害の将来に明かるい見透しを持つことが出来るようになりましたことは誠に喜びに堪えないところでございますが,被爆後十年を経ました今日尚原爆後障害に悩んで居る人々が多いのでありまして,原爆の惨禍は今尚存して居るのでございまして,現在原爆障害対策に就きまして二つの問題があると考えるのでございます。その一つは原爆障害者の生活援護の問題でありましてその点につきましては今後皆様方の御理解と御援助によりまして何とか解決の道を見出すべく努力を続けて参りたいと存じます。今一つの問題は原爆障害についての医療的研究と治療の問題でございます。その意味に於きまして被爆者は勿論,行政の衝に当ります県・市といたしましても本研究会に期待するところ極めて大であると思うのでございます。幸い,関 係者の皆様方の絶大な御支援と御協力とによりまして,本日此の研究会を開催する運びに到りましたことは誠に喜びにたえません。私達関係者は此の研究会が今後の原爆障害者の医療に新生面を拓き,今尚この障害に悩んで居る人々に明かるい希望を与えるきっかかけとなりますように念願致してやみません。最後に,本研究会開催に当りまして厚生省をはじめ各方面から寄せられました特別の御好意に対して厚く感謝致しますと共に今後一層の御指導,御鞭撻を腸りますよう重ねてお願い致しまして御挨拶と致します。
挨拶
厚生省公衆衛生局長 尾村 偉久
本日は県・市・原対協三者の主催で我々厚生省はじめ長崎関係等後援申上げまして,本研究会が会の大きさこそささやかでございますが,非常に斯界でも質的に貴重な意義のある研究会が本日発足致しまして非常におめでたいことでございます。心より主催者に対しまして敬意を表する次第でございます。14年前に多数の原爆による死没の犠牲者を出し,更に二十数万,約三十万に及ぶ負傷原爆被爆者の生存者が居られるわけで,その蔭には10年以上,公の点では国の政策に於ても必ずしもうまく行っておらず,地元のそれぞれの団体の御協力によりまして細々とこれらの救済が続けられておったのでございます。非常な熱誠ある御努力によりまして,32年から原爆医療法が施行されまして,国費を以ての或る程度の医療の道が開かれて更に原爆医療に対する審議会が設けられまして,斯界の権威者を網羅してこの医療を全うするための御協議や審議が続けられて軌道にのせるべく進んでいるのでありますが,しかし何といたしましても之等の被爆生存者の方々に対する国なり国民の願いは最もよい,適切な治療を速かに施して早くなおして頂き,立派な一般の社会人として100%の生活を続けて頂き たいというところにあるのであります。ただ何といたしましてもこの病気が或はこの負傷が世界でも初めてのことでございまして,それ以前にすでに我が国はもとより世界各国で確立された治療法なり医学的のまとまった意見というものが必しもなかった。むしろ過去十四年間にそれぞれ地元の関係の方々或いは市全体のこれに関係をもたれた方々が経験によりましてつみ重ねられて来られたことが現在においてもそれが一つの治療に対する最も高ろ意見であろうと,かように思われるのであります。むしろまだ治っておらない,これらの多数の被爆者の方々の適切な医療をやるには過去の個々に積まれた意見をこのさいにお互に示し合ってその綜合の中からまた新たな点をみいだす。或いは今後もお互いに研究しながら生じて行く方向につきまして相互に認識し合って速かな進歩を来すということはこれからは国内の被爆者にとって一番必要なことであると同時に,これが将来の原子力の平和利用に基きましての色んな障害が予想されるのでありますが,それらに対しましてもこのような会に於けるまとまった意見というものは斯界にも非常に貢献することは疑いないと信ずるわけであります。さような意味で, お集まりの方々は恐らく2~300人の関係の学者の方々であろうと思うのでありますが,此の学会の結果如何によっては学会それ自身を権威し,或いは協議会というようなところが,大いにお世話をされてそれぞれの学者の発表を充分うまく利用されて非常な力をいたされておる。さらにもう一つは一番被害をうけられた市の土地,地元のしかも爆心地に近い地でこの研究会が行われるということは恐らくやはりこの会場の下でも相当の犠牲者の方々がここで死なれておられる。かようなことも非常な特徴でございまして,更に全国にわたりまして家族を含めて数十万以上の直接のこの治療がどうなるかということについて関心をもたれている方々が,この二日間の小さい乍らも学会を非常に注目しておられる,とこう信ずるのであります。これは従来の一般の学会とは非常な性質も違い,その大きさは小さくとも質的に非常な重要性をもち又,今後もますます発展すべき含みをもっている学会であろうしさような意味で本日,スムースに発会出来ましたことを大いにお祝い申上げると同時に我々と致しましても国が今後原爆被災者に対する医療行政をやるのに,この発会の成果は直ちに,利用出来,利用という と具合が悪いですが,反映して適切な行政に裏付をするということがあとに続いているのであります。さような意味でも厚生省といたしましても,大いにこれは関心をもつと同時に御協力申上げなければいかんわけであります。さような意味でお祝いを申上げると同時にみなさま方の熱心なノーリツ的な御検討を心からお願い致します。よい成果を被害者のためにお出し下さるようにお願い致しましてお祝いの言葉と致します。
挨拶
原爆後障害研究会名誉会長 塩田 広重
(略)
祝辞
広島医学会々頭 田坂 三友
(略)
経過報告
準備委員会副委員長・原対協副会長 松坂 義正
ここに本日及ぴ明日にわたり、原子爆弾後障害研究会の開催に至りました経過の概要を御報告申上げます。
御承知の如く,我が広島市におきましては,昭和28年1月県・市当局,医科大学,在広官公立病院,県・市医師会,及び本市各層有識者によって,広島原爆障害対策協議会を設立し,爾来原爆症に関する治療研究,及び障害者に対する治療の国費支弁獲得に努力致して参りました。ついで原爆症研究に対する公的の会日,昭和28年11月,国立予防衛生研究所に原爆症調査研究協議会を,広島・長崎に於ける関係者及び中央の諸家により構成設置され,29年5月,第五福龍丸ビキニ問題発生により同年10月,前の協議会を発展的に解消されて厚生省に原爆被害対策調査研究連絡協議会の第5部会として,広島・長崎部会となり,其の間数回現地でシンポジウム又は学術報告などを開催され,昨年広島県医師会特別委員会に於てもシンポジウムを開催いたされていたのであります。
一方被爆地としての県・市当局,原対協は,障害者医療費等の国費支弁につきしばしば政府や国会に陳情しておりましたところ,政府は昭和32年3月原爆医療法として国会に提案し,その可決により同年4月より被爆者の健康管理及び治療は,国の施策により行なわれることに相なり,爾来医療法の施行2年余に及びましたが障害者がその恩恵に浴するところ少なしとしないのであります。
他面,被爆者の健康管理の向上,治療法の究明j,援護などの諸問題,等々の研究は一日も怠り得ざる重要なる基礎であり,これらについて諸家の研究にまつ所尠からずと信ずるものがあります。被爆地広島・長崎においてもその研究の学会を開催して解明に努力してはおりましたが,かつて原爆医療法を推進して頂いた参議院議員在任中山下義信氏が、厚生省当局に対しこの研究治療等は学会のゆるがせにすぺからざる事を以てその開催の緊要なることを強く献言いたされ,厚生省当局に於かれても,かねての宿願でもあったので,原爆医療審議会に其の議を諮問し,その賛同を得られ,且つ諸般の協力を約束されよって広島県・市に其の開催を要望されたのであります。
茲に県・市は多額の予算を計上し原対協と共に本会開催の運びとなり地元に於ては本年3月関係者が一丸となり準備委員会を組織して諸般の用意をいたし,本日より開催することと相成った次第であります。
本会開催にあたりまして諸先生方が遠路のところ多数御参加,御講演いただくことは準備委員会として光栄とするところであります。以上,概要を御報告申上げます。
尚準備委員会に於きましては,本研究会の会長を,広島大学医学部長渡辺漸教授をお願いしているところであります。皆様の拍手を以て御賛成を願います。
更に今回の研究会に厚生省原爆医療審議会々長塩田先生を名誉会長に御堆載致したいと存じます。満場の拍手を以て御賛成を願います。
挨拶
原爆後障害研究会長 渡辺 漸
本研究会の開会に当りまして一言御あいさつ申上げたいと思います。こういうふうな原爆の被爆による障害についての研究会は従来も開会されたことがないわけではございません,例えば日本血液学会或いは広島医学会などにおいてそれぞれ相当の時間をさいてこのことを論じたことはございますけれども,二日間にわたってそのことのみに専心して研究のデータを発表する,そして永くつづけて原爆被爆者の福祉に貢献しよう,というようなことはなかったのであります。その意味において唯原爆に起因するところの障害者そういうことの医学的の調査研究,それだけを目的とする学会としての意義は非常に深いのであります。大体原爆の投下にみられる医学的の調査研究のデータを発表致しまして,且、それについて,討議を交わして被爆者の福祉によき貢献をなすということが,この研究会の目的であることは申すまでもございません。しかしながら私は医療を必要とするという程度に至るまでにはっきりと臨床的の症候をそなえてきた,そういう医学的の障害或いは医学的の障害を蒙った人,それのみが我々の調査研究の対象ではないことを特に強調いたしたいのであります。即ち,被爆者の病理のみ ならず,その健康管理についても我々は重要に努力しなければならないのでございます。かくして被爆者の健康管理は完全に行われるのでございまして,被爆者の健康の擁護ということが最も大切な命題であって,ひいてはこのことが後障害の発現の防止にも寄与するものと信じております。被爆者にすでに発現している後障害の治療をすることが大体,医療法制定の主旨でございますが,単に治療のみでなく健康の保持乃至は発病の阻止という点までずっと一貫した措置がとられなければならないのでございまして,こういうような,はなればなれにその措置がとられるということでは,不充分でございます。従ってそのためには原爆被爆者に見られるいかなる自覚的障害も,又生理的にさえみえるその因習に対する反応の態度も一々刻明に記載され、且つ提示される必要があるのでございます。今日我々の知識では原爆被爆者にみられる障害のあるものを,被爆と関連のないもの或いは少ないものとして見逃しておるかも知れませんが,我々はこうしたことをはっきり記憶しておく必要があると思います。そしてその集積されたものの解析と総合によってはじめてかかる障害が如何なる理由で原爆の放射能との 因果関係があるかをはっきりと認識して行けるのであります。どうかここにお集まりの皆様方も,そうした態度でこの問題にとりくんでいただき,原爆被爆者の健康が之以上に障害されないように適切な対策が樹立されることを望んでやみません。そして本研究会が被爆者自身の幸福のために医学的に役立つことを第一に且最も重要な目標としてテーマを掲げられんことを切に望むものであります。終りに遠路はるばるおいで下さいました講師の方々,多忙な時間を割いて参加下さいました参会者の各位に,厚く御礼を申上げ本研究会の今日の成立までに尽力された方,準備委員の方々に深い敬意を表する次第でございます。プログラムの時間が非常にぎっしりつまっておりますので,どうか講演なさる方々だけでなく,更に御参加の方々も御意見をお聞かせねがうことも非常に重要な問題でございますので,そういう討論の時間を犯さないように尊重してやって下さるように演者の方々にも御願い致すとともに,皆様方の隔意ない御討議,御意見をおきかせ下さるようお願いする次第でございます。
閉会の辞
原爆後障害研究会長 渡辺 漸
一言閉会に当って御あいさつ申上げたいと思います。只今,主催者である県知事或いは広島市長も居られませんので,私から代りまして御あいさつ申上げたいと存じます。昨日及び本日の二日間に皆様方に色々と御話をねがいましたが,此の学会の成果と致しましては,やはりこの二日間に皆様方が原爆の後遺障害というものの全ぼうを略把握された,そういうことが最も有益なる収穫であったのではないかと考えます。但し只今も或いは二日間のその間にも皆様方,色々と御話しになったのでありますが,原爆被爆者においては,やはり,一見何でもないようにみえておっても,その予備力というものは非常に低下しておるのでその取扱いには慎重な注意を要するということが,最も大切なことでありまして,殊に今日治療の方面に於きましても,ここにシンポジウムに参加された方々が,ていねいに色々な治療法についてお示しになりましたけれども私はこういう治療法の施行に当っては,やはり薄氷をふむ思いでやって頂きたいということを痛感するものでございます。あまり治療にねっしんの余りに,そういう治療法を乱用されるということは被爆者にとってはむしろ有害でこそあれ決して益のないこ とでありまして,どうかそういう治療に当っては,いやが上にも慎重になすって頂きたいということを私も臨床医家ではございませんけれども特に,ここに御参集の指定医の皆々様,並びに他の方々におねがい致しておく次第でございます。この会は非常に予期以上の成果を挙げ得ましたが,これはわざわざ遠路参加して頂きました講師の方々,又昨日今日に此の会に参加するためにおいで頂きました,一般の参加者の方々の御協力によるもので,深く感謝する次第でございます。こういう成果はやはりこのままにしておいてはいけないので,これを記録に致しまして,出来るだけ早い機会に皆様のお手元に届くように,又,必要に応じましてはそういうものを実費頒布か何かの形式で頒布いたしまして,少なくとも今日いらっしゃる方々の御目にとまるように,又利用出来るような形にいたしたい所存でございます。それから,この学会は,やはり中々そういうデータが集まるのが難しいとは申しますものの,やはりたえず我々勉強して行かなければならないのでございまして,ひきつづき来年も,こういう研究会を催したいのでございますが,それは御迷惑でございましょうけども広島と肩を並ベ,或いはうれ いを共にしているところの長崎において開催していただくように我々はおねがい致したく存ずる次第でございまして,又ほかの方々の御意見でも,そうしたらいいだろう,ということでございますし,長崎の方々には,これには多分の負担を感じられるかしれませんけれども,どうかそういう負担を原爆被爆者に免じてお担い下さいますよう,重ねて私から御願い申上げる次第でございます。これを以て閉会の御あいさつとさせて頂きます。