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広島県原爆被害者団体協議会

広島県原爆被害者団体協議会
1956年5月27日設立

1555年8月、広島で開催された原水爆禁止世界大会直後、広島市内には,原爆乙女の会(シオン会)・原爆被害者の会・原爆の子友の会の先駆的3組織のほかに,広島子供を守る会,未亡人会(原爆被害者グループ),大会直前に原爆被害者の会から別れた八・六友の会と原爆被害者の会本部,および大会の期間中に組織された電気通信関係原爆犠牲者遺族会の8組織が存在した。世界大会直後から,これらの被害者組織の一本化が試みられたが,性格の異なる諸組織の統合には,多くの困難が存在した。10数回の会合ののち,1956年1月22日に広島市原爆被害者連絡協議会世話人会の発足にこぎつけた。

広島県原爆被害者大会(1956年3月18日)・国会請願(3月20日)の開催が,広島における既存の原爆被害者組織の大同団結と新たな被害者組織づくりの重要な契機となった。原爆被害者大会実行委員会は,1956年4月8日,事務局に県内各地から30人が参加して代表者会議を開催,次のような決議を行った。

県内の原爆被害者の組織は,被害者大会までに,大竹市(1955年8月6日結成)・甲奴郡(9月1日)・芦品郡(10月11日)・深安郡・神石郡・三次地区(1956年3月15日)などに結成されており,大会後の3月29日には,賀茂郡原爆被害者の会が結成された。

原爆被害者大会実行委員会は,4月8日につづいて5月13日にも代表者会議を開催,5月21日には,事務局長藤居平一の名で,5月27日の広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協と略称)結成総会の案内状を発送した。広島YMCA講堂で開かれた結成総会には,県内の被害者団体代表120人のほか,長崎8人,愛媛1人の代表が参加した。総会は,経過報告,規約案の審議ののち,次のような運動方針を決定した。

総会は,藤居平一(原爆被害者大会実行委員会事務局長・広島原水協事務局次長)・井上昇(広島県東部被害者連絡協議会)・日野義隆(大竹市被害者同志会)の3人を代表委員に,また,藤居を事務局長に選出した。

原爆被害者の会会則

原爆被害者の会会則
1952.8.10
<会則>
一、この会は原爆被害者の会といい、原爆の被害者によってつくられます。
二、会員には被害者で趣旨に賛成の人なら誰でも入ることが出来ます。
三、会の事務所は広島市細工町原爆ドーム裏吉川記念品店におきます。
四、会は被害者が団結して多くの人々との協力のもとに、治療生活その他の問題を解決し、あはせて再びこの様な惨事のくりかへされないよう平和のために努力することを目的とします。
五、この会は目的実現のために次の事業を行います。
①原爆傷害者の治療援助を当局に要求し、その他種々の便宜をつくり出す。
②原爆による生活困窮者の就職、生活援助を会員相互の協力によって行う。
③各種の方法により平和のための事業を計画する。
④その他の目的実現のため、会の決定したこと。
六、会は、総会、幹事会、協力会を持ち運営していきます。
七、会の趣旨に賛成し、協力する意志のある団体並びに個人によって協力会をつくります。
八、会の役員は会員の中から会長1名、副会長1名、幹事若干名を選びます。幹事会は事務局を設けます。
九、会の財政は会費、寄付、事業収入でまかないます。
<組織>
1.会員組織
一、会員の会費は月20円、かわりに機関紙を無料配布します。
二、会員はそれぞれの地区で支部をつくることが出来ます。
三、現在の幹事会のメンバーは次の通りです。
吉川清(会代表者)、佐伯晴代、内山正一、上松時枝、峠三吉
当分の間、会長、副会長を決定せず、幹事の合議により運営していきます。
四、事務局は活動に応じて各部を設け、幹事会の決定を実行します。
2.協力会員組織
一、原爆被害者でなく、会の趣旨に賛成、協力する人は協力会員になっていただきます。会費は半年150円、かわりに機関紙を無料配布します。
二、協力会員の協力方法として次の様なことが望まれます。
①一定金額の定期的な資金援助、或は一時的な資金援助
②被害者の就職、内職あっせんの協力
③被害者のその他の生活要求に対する協力
④被害者の平和運動を発展させるための協力
⑤その他、会の決定した計画に対する人的物的な援助、協力
三、協力会員は各地、或は各職種別の協力会をつくることが出来ます。
四、現在の東京協力会の世話人は次の通りです。(イロハ順)
石田一松、大田洋子、神近市子、武谷三男、倉田本、布施辰治、赤松俊子
3.原爆の手記編纂委員会
一、この委員会は独立した組織ですが、会とは密接な関係にあり、相互協力の関係にあります。
二、この委員会は原爆の手記その他を通じて被害者の実態、その要求、或いは原爆の実態、本質を明らかにしていく仕事を行います。
<事業>
1.医療
原爆の惨禍は尚あとをたたず、現在でも原爆症により病床にふし、或は死亡していく人達がいます。又、生活に追われて傷害を治療することも出来ず、苦しんでいる人も数多くあります。これらの医療問題を解決するために、私達は国家予算による無料での診察治療の実施を要求しています。このため実態調査を行い、これを基礎にして陳情書を作り政府並びに国会に陳情する考えでいます。当面の対策としては次の諸活動を行ひます。
一、原爆傷害者の実態調査を行う。
二、市民病院での無料診断実施を要求する。
三、緊急に治療の必要ある患者のカルテをつくり、県並びに市にその治療費の全額負担を要求する。
2.生活
原爆被害者は一般にいって殆どが生活困窮者です。一日わづか7,80円の内職で毎日の生活費にもことかく人達がいます。適当な職がなくて困っている傷害者もいます。生活を転換しようにもその間の生活費がないため、弱い体を無理な労働に使っている婦人もいます。又周囲の冷たい態度に泣きながら、誰か親身になっていろいろな相談の出来る人はないかと求めている人もいます。私達はこれらの生活問題を解決するために、軍事費支出をやめて、その予算で社会保障制度を確立する必要があると考えます。これはただ被害者だけでなくすべての貧困者の問題ですから、そういう人達と共に運動していきたいと思っています。当面の対策としては次の諸活動を行います。
一、出来る限りの就職、内職のあっせんを行う。
二、資金を集め、生活転換その他の理由で必要とする生活資金の貸出しを行う。
三、法律的な保護が受けられるにもかかわらず、それが出来ない時は会が交渉する。
四、衣類その他の生活用品に困窮している人達には寄付を仰いで分配する。
五、その他の問題について相談しあい、相互に助けあう。
3.平和運動
原爆の惨禍は体験した私達が一番よく知っています。二度とこの様な悲劇がくりかへされない様、私達は平和のために出来る限りの努力をしなければなりません。
多くのまじめに平和を求める人々と手をとりあって地道な平和運動を進めようと考えています。
一、原爆写真展の貸出
二、手記編纂委員会に協力し、手記、記録、訴えなどをひろめる。(以下略)
三、その他
4.その他
一、クラブや文化サークルなどをつくり、互いに話合ったり勉強出来る機会をつくる。
二、図書室をつくる。
三、機関紙を発行する。

原爆被害者の会

原爆被害者の会 (1952年8月10日設立)

原爆被害者の会設立の経緯

峠三吉が中心となって活動していた原爆の詩編纂委員会(1952年9月,詩集 原子雲の下より』を発行)が原稿募集を終えた1952(昭和27)年6月末,同委員会は吉川清の訪問をうけた。これを契機に委員会のメンバー,とくに峠三吉・山代巴・川手健・野村英一の4人は,原爆乙女・原爆孤児といった限定された原爆被害者のみでなく,一般被害者の組織化の必要を感じ,吉川とともに被害者の会の準備をはじめた。
7月10日,ロケのために末広中であった新藤兼人・乙羽信子など映画「原爆の子」のスタッフを呼んで開いた懇談会の席上,会結成の提案を行い,組織づくりの第一歩をふみだした。また,8月6日には平和公園の原爆慰霊碑前で会員募集と資金カンパを訴えた。
結成式は,1952年8月10日,広島市の知恩会館でおこない,会則・事業計画を決定,幹事として吉川清・佐伯晴代・内山正一・上松時枝・峠三吉の5人を選出した。結成時の会員は数十人にすぎなかったが,同年12月14日の第1回総会において組織強化の方針を決定し,大衆団体としての体裁を整えた。結成から半年後の1953(昭和28)年3月頃には,300人の会員を擁するまでlこなっている(川手健「半年の足跡」,『原爆に生ぎて原爆被害者の手記』所収)。
関連資料

原爆被害者の会会則 1952.8.10
中野懇談会の被爆者招請(1952年11月22日)
原爆被害者の会 「米国に対する損害賠償請求提訴の件について」 1953.4.5
原爆被害者の手記編纂委員会編『原爆に生きて-原爆被害者の手記-』(三一書房、1953年6月25日発行)
 原爆被害者の会の原爆裁判への対応
『芽生え』NO.2(原爆被害者の会事務局、1954年1月18日)

 

献花(5月)

献花(5月)

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しゅろ(棕梠) 撮影日時 2018.5.4 撮影場所:実家
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シラン(紫蘭) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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ツルギキョウ 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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ポピー(芥子 けし) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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アガバンサス 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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いちご(苺) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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キソケイ? 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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?? 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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アジサイ(紫陽花) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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アイリス 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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やぐるまそう(矢車草) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:倉庫
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アイリス 撮影日時 2018.5.9 撮影場所:自宅
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サルビアとガザニア 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家
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しゅんぎく(春菊) 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家
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アガバンサス 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.14 撮影場所:実家と自宅の道路
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撮影日時 2018.5.14 撮影場所:実家と自宅の道路
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撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:倉庫
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅
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  撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅
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 撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家
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松   撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家
 撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家
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ホオヅキ  撮影日時 2018.5.20 撮影場所:倉庫
 撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

 

 

旅:「阪神・淡路大震災」関連

野島断層保存・北淡町震災記念公園 (1999年2月13日)

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神戸市内(2001年12月21日)

 神戸港震災メモリアルパーク
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神戸ルミナリエ
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阪神・淡路大震災復興支援館(フェニックスプラザ)

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支援館のあゆみ http://www.sinsaikikin.jp/phoenix/

「平成8年7月20日開館」「平成14年3月31日閉館」「  阪神・淡路大震災復興支援館―フェニックスプラザ―は、阪神・淡路大震災からの本格的な復興に向けて、震災復興情報の発信、被災者自立支援情報の提供、また、交流や学習の場を提供することを目的に、兵庫県が平成8年7月から平成14年3月までの5年8ヶ月に渡り設置いたしました。」「当館機能の一部(情報発信等)を引き継ぎ、神戸東部新都心にオープンした、阪神・淡路大震災記念「人と防災未来センター」も引き続きご利用いただきますようお願い申し上げます。」

「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 1995.1.17」(2018年4月8日)

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震災・地震(宇吹日誌より 1992~2016)

キーワード「震災」・「地震」(宇吹日誌より)1992~2016

年月日 事項[敬称略]
19921130 *から聞いた蔵本[原医研所長]の話=文部省の担当官と話してきた。原医研が強い社会的要請で出来たものであること、原爆の研究を続けるものと理解していた。名前の変更には拘っていない。地震研がピナツボ火山を研究対象にして改組、これは原医研でも応用出来る。資料センタ-に良い。
19930527 江戸東京博物館(墨田区横網)見学。*参与の説明を受ける。3月28日開館。多い時で2万人の入館者。参与は、都を退職するまで都の部長で、同館建設の実質的責任者。非常に親切。福山の誠之館出身とのこと。10時30分から館内見学。

感想=雑踏で落ちついて鑑賞できず。「おいらん」・関東大震災時の朝鮮人問題に、人権問題の配慮が感じられる。「収蔵庫からのメッセージ」に関心をもったが、浮世絵が入力されているだけ。図書は、「クウシュウ」で17件できたが、「ゲンバク」はゼロ。

感想=電算機はIBM。電算機の購入・運用に当たっては館の立場で考えてくれるコンサルタントを頼む。電算機・収蔵庫ともに贅をつくしている。知事部局の主導だからか。いずれにせよバブルがはじけた現在では、こうはいかないのではないか。

*にトータルメディアからの二人を含めて質疑応答。-3時半。演出は、トータルメディアによるもの。複製の製作費は莫大。

感想=博物館の担い手といえば、学芸員しか思い浮かばなかったが、同館では、研究者・学芸員・トータルメディアの3者。トータルメディアの存在は、私には胡散臭く感じられるが、これに主導されるのではなく、使いこなせるようにならなくてはいけないのだろう。

19930316 *来室。ロスアンゼルスに地震の影響の調査に行くとのこと。
19950117 *へ兵庫県の地震について見舞いの電話。*子の家は無事とのこと。
19950119 母の話=*が車で*子らを広島に連れて帰った由。本人は現場に泊まり込む予定。
19950120 フェリス来所予定が地震のため中止。
19950122 パソコン通信(ニフティ)で兵庫県南部地震の情報を見る。
19950125 ニュースステーションの関西大地震の救護所に*[原医研助教授]が出演していた。
19950128 桜ケ丘の父母の家に:姉・*子母子・*が来る。水道が使用できるようになったので、今日、神戸に帰るとのことで、母がご馳走をする。私も相伴。*子の話=地震の場合、倒れただけでは火災保険が下りないが、焼ければ下りる。それで、火災の中には放火もあるのでは。
19950212 藤居より自宅に電話。年末より、エソで、情勢が充分掴めていない。「被爆者援護法」問題についての動きについて資料が欲しい。神戸震災と原爆との関係を考えてみたい。89%が家の下敷き。原爆の場合は、警戒警報の解除後だった問題。
19950215 *の話=原田学長の昨日の話では、神戸の震災のため、本部事務局の西条への移転が2・3年遅れるとのこと。
19950218 *の話=朝尾の[退官]記念会は、本人が関西大震災で親戚などの不幸があり、辞退しているので、中止になる可能性が大きい。
19950315 午前中、旧図書室の雑誌・新聞類の箱詰めを手伝う。午後1時からセンター全員で、移動作業。-4時。山田(会計)の話=24日までに工事は完了予定だが、阪神大震災の影響で入手できない資材がある。
19950521 沼田[鈴子]の話=昭和26?年ごろ、東京で被爆のことを話したら、関東大震災の被害を引き合いに出された。戦後、自分史の年表をつけている。宮崎安男との出会いで、妹の病気の認定を申請することになった。総合科学部の小林の講義で話しているが、学生はまじめに聞いている。
19950605 *((朝日新聞社電子電波メディア局データベースセクション))の話=メディア局は、調査部門とデータベース部門が一緒になって設置された。東京本社の戦前の資料は、関東大震災と空襲で無くなっているので、戦後を中心に整備する。大阪本社の資料は、戦前のものも含め、膨大な量にのぼる。
19950729 *(オランダ人、ENGLISH・SCHOOL・OF・OSAKA)、来所。13年日本にいる、芦屋在住、震災を経験、大変だった由。オランダ第2の新聞で「日本社会は原爆をどうとらえているか」を取り上げる。
19960928 墨田区両国・東京都慰霊堂参拝。関東大震災時の朝鮮人虐殺に対する反省は見られない。東京空襲の写真と原爆の写真に違いは無い。
19980411 *先生を囲む会。於クレイトンベイホテル。参加者38名。*、*の話=工場を経営。ともに神戸製鋼の下請けとして成功。阪神大震災以来、親会社の締め付けが厳しい。
19990213 明石海峡大橋-淡路ハイウェイオアシス-道の駅「あわじ」-14時北淡町震災記念公園(野島断層保存館)
19990506 *(*新聞広島総局)来所。-5時半。2年間、県庁で取材。その前は神戸支局。阪神大震災を体験。広島の取材すべき人物の蓄積がないので、人を中心に取材を進めたいとのこと。
20001006 総合情報処理センター講演会。講師:たつみ北海道立札幌医科大学教授。於歯学部2階小会議室。-3時。途中、大きな地震。
20010324 *・*とレガシイで大阪へ出発-8:30西条IC-9:30吉備SA(給油=サービスエリア3570円)10:00-この間、*が運転-11:30三木SA12:00-吹田IC-松原IC-近畿自動車道-1:30杉本町着。ハイウェイカード=3万円。*、腰痛と頭痛を訴える。*の携帯に入った友人からのメール「大丈夫?」がきっかけになって、広島での地震を知る。-17:40西宮名塩SA(給油2730円)-龍野西SA-20:00吉備SA-22:30帰宅。山陽自動車道の岡山以西が不通だったので、心配したが、タイミングよく通行可能となり、順調な帰路。
20010324 西宮名塩SA。テレビのニュースで、広島の地震の情報を得る。*の携帯は、友人とのメールがしばらく出来ていたが、つながらなくなる。Iモードの*の携帯には、初めからつながらず。公衆電話の列に並び、母、*、兄と連絡を取る。皆、無事なことを知り、一安心。龍野西S0324Aで、山陽自動車道の岡山-広島間開通を知る。
20010324 22時半、桜ヶ丘[の母]を見舞う。壁に掛けていた額が落ち、食器棚の食器がずれて、開かなくなったが、兄と一緒に直した、借家のモルタルが落ち、大変なことになった、庭の植木にも被害が出たが、手をつけていない、とのこと。自宅でも、花瓶・玩具・皿・本・CDなどが散乱。
20010325 研究室の地震被害を見るため出勤。3階の病理標本の被害を心配したが、水漏れなし。移動式書架の開いていた部分の雑誌が少し落ちていただけ。引越しの準備。持ち出せばよいだけの状態にする。-2時半。
20010325 桜ヶ丘の借家の落ちたモルタルの一部を、小雨の中片付ける。*・*宅の被害を、電話とメールで確認。
20010327 *医学資料館事務長と地震で動いた展示資料を直す。壁に展示していた資料などが、落ちたりしたが、割れたものは無かったとのこと。娘が女学院の卒業生とのこと。昔は、広島大学の定年退職した事務系職員が、女学院に行っており、女学院の卒業生が、広島大学に沢山採用されていた由。
20010327 **より電話。地震被害の見舞い。大会報告は、私の事情を汲んで、中止になった。来年度のことは保証できないが、雰囲気としては、来年送り。
20011221 メリメリケンパーク-神戸港震災メモリアルパーク-15:00阪神・淡路大震災支援館(フェニックスプラザ)。ケンパーク-神戸港震災メモリアルパーク-15:00阪神・淡路大震災支援館(フェニックスプラザ)。
20060612 強い地震。目が覚める。呉地方は震度5とのニュース。
20080520 *の話=*[中国人留学生]が四川省の地震被害などについて話す。
20110311 東北地方太平洋沖震災。東日本大地震。15:58*にメールを送る。16:40付の返信メール「大丈夫」が夜10時過ぎ?届く。
20110315 「東日本大震災 被災を覚える祈りの集い」。大学チャペル
20110316 *大学謝恩会。宇吹:乾杯の音頭。東北地震・福島原発事故は長期の影響。社会的な転換が必要。我々は目前のことしか関われないが、皆さんは長期の変革で活躍できる。
20110324 前日から始めた東北・関東大震災の新聞の整理終了。
20120817 NHKスペシャル「最後の笑顔~納棺師が描いた東日本大震災」。
20130311 東北大震災2周年。新聞5紙を購入。
20140314 震度5弱の地震。自宅・桜ヶ丘ともに異常なし。夕方、道路の枯葉を取り、温室北の畑に入れる。焼却炉が崩れていることに気付く。
20160414 熊本地震。益城町で震度7の地震。翌日、*から*、*ともに被害なしとのメール連絡。
20180408 「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 1995.1.17」見学。

 

日本の原水爆禁止運動と被爆者の証言活動について(宇吹報告)

日本の原水爆禁止運動と被爆者の証言活動について
1989年2月28日  宇吹暁
・・・・・・・・・・・・・・・・
・Ⅰ 原爆被害の思想化 ・
・Ⅱ 原水爆禁止運動と原爆被害・
・Ⅲ 証言活動の歩み ・
・Ⅳ 被爆者証言の意義 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・

Ⅰ 原爆被害の思想化

資料1)「終戦詔書」 1945.8.14

敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ

資料2)アメリカ人記者の質問への東久迩宮首相返書(「朝日新聞」1945.9.16)

米国民よ、どうか真珠湾を忘れて下さらないか。われわれ日本人も原子爆弾による惨害を忘れよう。そして全く新しい、平和的国家として出発しよう。米国は勝ち日本は敗けた。戦争は終った。互いににくしみを去ろう。これは私の組閣当初からの主張である。

資料3)広島原爆体験者の反応(アメリカ戦略爆撃調査団のインタビューに対する回答 1945.12)

(主婦・29歳)原爆でやられてから、私は今こそ軍需工場へ働きに行くべきだと思った。原爆はひどかった。だれもが怪我をしているのを見ているので何の悪い影響を蒙らなかったのは百人に一人にすぎないように思える。息子はたとえ大きくなっても原爆のことは忘れないだろうと言っている。
(主婦・34歳)私は、アメリカらしいやり方だと思った。私はいつもアメリカは鬼畜だと思っていたので、彼らがあのような野蛮な行為をしたことを責めはしない。彼らは、焼夷弾や通常爆弾と同じように落とすことができた。原爆のようなものを落とすことができるのは鬼畜だけだ。
(女学生・16歳)四か月も経つのに、まだ火傷が治っていない人たちがいる。子供はみな回復したが、大人たちの多くはまだ回復していない。彼らはアメリカ人を心底軽蔑しているので、もし幽霊がいるとしたら、なぜアメリカ人に取り付かないのか、と言っている。

資料4)広島市の陳情団とGHQ情報・企画担当マンソン大佐との合意内容(「中国新聞」1945.12.6)

終戦を速めたのは実に原子爆弾の威力であってこの洗礼を受けたのが不幸広島市で従って広島市が今回の戦災を被ったことは世界平和をもたらす第一歩であると同時にこれに寄与するところ誠に大なるものがあると思考されるので、復興については絶対にその特異性を認め他の戦災都市よりも優先的に復興をはかりたい。

資料5)広島市議会議長のマッカーサーに対するメッセージ要請書    The NEW YORK TIMES 1947.8.6

平和祭は、8月6日が平和に到達した日であるとともに、広島市民が世界平和に貢献する決意を新たにする日として記憶される日付であるという考えにもとづき開催されるものです。

資料6)平和祭に対するマッカーサーのメッセージ(「広島市勢要覧 昭和22年版」)

あの運命の日の諸々は、凡ての民族の凡ての人々に対する警告として役立つ。それは戦争の破壊性を助長する為に、自然力を使用することは益々進歩して、遂には人類を絶滅し、現代世界の物質的構造物を破壊する様な手段が手近に得られる迄発達するだろうと云う警告である。これが広島の教訓である。

資料7)広島市原爆犠牲者遺族援護に関する陳情書
(広島市長・広島市議会議長 1951.11.24)

当時広島市は全市要塞化し市民及県下より動員されたものはすべて老幼男女の区別なく軍命令により義勇隊員として軍都広島市の守備に任じて戦場にあった旧軍人と同じ立場に置かれていた。(中略)
一、原爆により死没した義勇隊員の遺族に対して旧軍人軍属と同様の国家補償を与えられたいこと
二、学徒動員により死没した学徒の遺族に対して前項同様国家補償を与えられたいこと
三、前二項の犠牲者の霊を靖国神社に合祀すること

資料8)広島平和都市記念碑碑文(1952.7.22文案完成、8.6碑除幕)

安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから
(英文)Let all the souls here rest in peace
For we shall not repeat the evils

資料9)雑賀忠義(碑文作成者)の考え(「中国新聞」1952.11.11)

広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちを繰返さないと霊前に誓う-これは全人類の過去・現在・未来に通じる広島市民の感情であり、良心の叫びである。「広島市民が過ちを繰返さぬといっても外国人から落とされた爆弾ではないか。だから繰返さぬではなく繰返させぬであり、広島市民の過ちではない」とは世界市民に通じないことばだ。そんなせせこましい立ち場に立つときは過ちは繰返さぬことは不可能になり霊前でものをいう資格はない。

資料10)原爆被害者の会会則(1957.8.10)

一、この会は原爆被害者の会といい、原爆の被害者によってつくられます。
四、会は被害者が団結して多くの人々との協力のもとに、治療生活その他の問題を解決し、あわせて再びこの様な惨事のくりかえされないよう平和のために努力することを目的とします。
五、この会は目的実現のために次の事業を行います。
① 原爆傷害者の治療援助を当局に要求し、その他種々の便宜をつくり出す。
② 原爆による生活困窮者の就職、生活援助を会員相互の協力によって行う。
③ 各種の方法により平和のための事業を計画する。
④ その他目的実現のため、会の決定したこと。

資料11)原爆被害者数をめぐって

1945.11.30現在 広島県警察部調査 306,545 (戦災者)
1950.10.1現在 ABCC調査 158,597 (広島市に「現在」したもの)(283,508)(広島・長崎両市合計)
1951.5 広島市調査  57,902 (死没者、1952.8慰霊碑奉納)
1972.9.30現在 広島市内被爆二世 66,627 (住民基本台帳より)
 1978.3.31現在  外国人被爆者手帳所持者 4,353 (推定) 広島被爆 3,989 長崎被爆 364 広島市内居住 1,860

広島市原爆被爆者動態調査事業報告1988.8

内死亡 内生存
被爆当時広島市内居住被爆者 284,758 123,010 154,292
被爆当時広島市外居住被爆者  149,231 48,522 97,056
不詳 28,935 17,949 3,169
合計 462,924 189,481  254,517
1945末までに死亡  77,576
原爆医療法施行前に死亡 94,894
1957.4.1~調査時死亡 88,601
死亡時期不詳  5,986

 

パルの自己紹介

パルの自己紹介

年月日 できごと
19980502 やっと自分の住処を得ることができました。 前の飼い主は、私のことをパルと呼んでいました。「キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル」という種に属しています。 年齢は3歳、人間では20歳代後半に相当するそうです。 標準体重は7キログラムだそうです。前の住処では何でも要求するものを食べることができました。家の中に閉じこもって歩くことがなかったので、肥えてしまいました。宇吹家にやってきたときは9キロとちょっと。
PAL9804
 宇吹家に来た直後
19980530 室内犬なのに良く外を歩かされる。ダイエットの成果もあり、体重は現在8.6キログラム
pl980530a
pl980530b
19990104 宇吹家の住民の性格をやっと掴むことができた。粘り強く要求すれば、誰かが折れる。「餌くれー!」(注:目線の先に餌あり)
PAL990107
家族のみなさまは、帰ってきたらまずわたしをなでてくる。でも、今小学5年生のわたしのしもべは抱きついてくるので暑苦しい。
PAL990105
19990826 ペットショップでシャンプーをしてもらいご帰宅
 pal990826s
 20010213  パルの突然の死
 pal010213d

 

戦争と平和の旅1993年1月

戦争と平和の旅1993年1月25日~30日[敬称略]

時間 事項
25 10:30 京都大学文学部博物館。事務長が常設展示(中国関係)を案内してくれる。広島大学の事務長(文学部**事務長?)が見学したとのこと。文学部の校費で運営しているので大変とのこと。学内を歩く。建物が新たに建築されており、構内が学生時代に比べ、狭苦しく感じられた。
25 13:00 コープイン京都で報告。1.戦後初期の原爆体験記、原爆被害報告活動、2.記録に残っている「京大原爆展」、の2点について話す。-15時20分。**・*(機関紙共同出版)・*・*(工学部出身、元毎日新聞編集委員)・山辺昌彦(立命館大学)。
25 13:01 *の話=蔵本淳は2級後輩。自分は岡山出身で近かったので良く知っている。真面目に研究に打ち込むタイプだった。蔵本が米軍基地でインターンをやったのは、当時はそこが最も適切な場所だったから。*は、いいかげんな教師だった。
25 13:02 蔵本が〔NHKの番組で〕被爆の証言をしたことと、現在原医研所長として活躍していることを、私が*に話すと驚いていた。謝礼として2万円貰う。
25 16:03 16:03京都発-18:39東京着。地下鉄東西線大手町-竹橋。出口を間違い、KKR竹橋まで雨の中を歩く。19時半到着。部屋は広く、バス付きで快適。レストラン芙蓉で夕食。最も安いメニューが2000円。少量で食べた気持ちがせず。
26 09:30 国立国会図書館。一般研究室の申込。
26 09:40 憲政資料室。*と会う。あちらが覚えていた。*がしばしば来て私の話をしているとのこと。慶応の学生が百数十枚GHQ資料のフィルム・シートをコピーして一応作業を終了した由。放影研からしばしば連絡がある由。
26 11:00 国会議事録。第85回臨時国会(~1978年10月21日)まで原医研資料センタ-で目録済み。第101回国会(1983年12月)以降、「発言者索引」と「事項索引」を電算化。第110回(1987年11月)以降テキストの電算化。
26 11:30 JAPAN-MARK(国会図書館書誌情報)の検索。1969年以降電算化。遡及版(1969~1983年)、最新版(1984~1991年)・(1992年1~9月)。キ-ワード「原爆」、「平和」で検索。
26 12:00 新聞閲覧室。地方紙の1992年の8・6社説調査。
26 15:00 長崎日日新聞。1957年5月以降の調査。
26 17:00 雑誌論文目録で笹本征男「原爆初動調査における日本軍の役割」を調べる。しかし、雑誌論文のデ-タベースは利用できず、目録では掲載日・掲載書誌を捜し出すことが出来なかった。
26 20:00 「永田町-(半蔵門線)-九段下<夕食>-(東西線)-竹橋」のルートで宿に帰る。
27 08:00 竹橋-東京-川崎-(南武線)-武蔵小杉-(東横線)-元住吉-川崎市平和館(中原区木月住吉町・平和公園内)。
27 10:00 川崎市平和館。見学者なし。しばらくして、身体障害者のグループが入る。図書室では簡単なパソコンによる文献検索が出来るようになっていた。映画が2か所で見ることができる。空襲の体験談が空襲による焼け野原の写真をバックに語られる構成は良かった。
27 11:50 日本被団協。1992年の出版物調査。伊藤直子など3名の女性。12点の図書類(2700円)を入手。
27 13:00 国立国会図書館。地方紙社説調査。
27 20:30 大井町の地下街で夕食。一人での食事は見あたらず、帰りのサラリーマン同士のグループでごった返していた。しかし、九段下より食事のためには良い。
28 08:15 KKR竹橋に宅配便を依頼。5.5キロ。約1400円。宅配便のランクは5、10、15キロ。明日には届くとのこと。
28 10:30 法政大学大原社会問題研究所。JR中央線西八王子駅より法政大学行きバス。最初に原爆写真を紹介した「婦人民主新聞」は、1948年8月「15日」では無く「12日」だった。孫引きの恐ろしさを改めて感じる。
28 10:31 受付の年輩の女性が、麻布分館時代(現地へは1986年移転)に私が通ったことを覚えており、書庫を案内してくれる。原水協関係の資料は1.5段で大したことは無かった。労働団体だけで精いっぱいで、大衆団体にまで手が回りかねるとのこと。資料2400円を購入。
28 13:00 新宿でバッグ(1800円)を購入。
28 14:00 国立国会図書館。長崎新聞1957年10月~58年3月調査。
29 07:30 KKR竹橋を早く出発したので-千鳥ケ淵戦没者墓苑-靖国神社-神田の古書街(朝食)と散歩。
29 09:00 千鳥ケ淵戦没者墓苑(1959年竣工)。参拝者は皆無。靖国の国営版の感じ。
29 09:10 靖国神社。遊就館(1986年改修復元)を見学。1945年9月に死亡した中国軍管区勤務で山県郡出身の30才前後の女性の資料が展示されていたが、原爆についての言及は無し。
29 10:30 第103回平和科学研究センタ-運営委員会。出張中につき欠席。
29 10:30 神田古書街。永井隆全集(1971年8月28日刊)を文華堂で入手。1万円。南海堂に「原水爆時代上下」が3500円で出ていたが買わず。
29 12:00 大手町の「ていぱーく(逓信博物館)」を見学。パソコン通信についての展示を期待したが的外れだった。多くの小学生が見学。すぐに出る。
29 13:30 国立国会図書館。長崎日日新聞1958年4月-8月調査。
29 19:00 東京駅八重洲口地下街でみやげ物の買物。*=ヘアバンド。*=ドラえもんのゲームウォッチ。職場用と桜丘用のサブレ。
30 05:50 KKR竹橋チェックアウト。一泊7000円で計39964円。DCカードで支払う。
30 06:16 東京発-08:58京都着。9:22市バス(50系統)-10:00立命館大学国際平和ミュージアム着。
30 10:00 立命館大学国際平和ミュージアム。現代史と平和学の最新の成果を取り入れており、新鮮な感動。全国の自治体名が入力され、非核自治体宣言を行っているかどうか検索できるシステムがあり、笑った。原水禁運動は、原水禁の資料はなく、原水協のみ。
30 10:30 一通り見終ったところで山辺昌彦と会う。館長室で話をする。途中、*課長が加わる。厚生省援護局・広島県・市・平和記念資料館が見学に来たとのこと。援護局も慰霊施設の建設を計画していることを初めて知る。県は、被服廠の保存策について日本開発銀行に調査を依頼。
30 11:44 京都駅発-12:00新大阪着-(地下鉄)-梅田-(環状線)-森ノ宮。
30 12:00 「ピースおおさか(大阪国際平和センタ-)」(大阪城公園)。販売図書を全部購入したら、7000円を超えた。
30 14:04 新大阪発-15:37広島着。原医研へのバスの中で、空と会う。師範学校の同窓会に出席し帰るところ。被爆50周年に向けて体験記の出版の話が出たとのこと。原医研に宅配便は届いておらず。

 

 

秦野裕子

秦野裕子

没年月日 読み 享年 備考
19920417 はたの・ひろこ 1952年生。1975年広島大学教育学部心理学科卒業後、原医研資料センターに勤務。広島大学事務官。職場の同僚。

『新研ニュース No.11』(中国新聞労組新研部、1984年3月21日刊)図1

はたの02

はたの02b

遺稿

広島大学原爆原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センタ-の新聞切り抜きの現状と課題

広大原医研 秦野裕子

広島大学原医研原爆被災学術資料センタ-(以下、センター)の新聞切り抜きは、1967年頃から始められた。当初は、地元の中国新聞を中心に、被爆者問題についての主要記事をピックアップしておく程度の収集だった。1975年からは、中国・朝日・毎日・読売・長崎新聞の5紙を対象に、被爆者・被爆問題についての記事を網羅的に収集している。

原爆被爆以後、被爆者・被爆問題は、社会問題として、継続して報道されてきた。被爆者の個人情報から、国・地方自治体による被爆者対策、8月6日を中心にした慰霊行事、原爆ドームに代表される被爆遺跡問題、原爆をテーマにした映画・演劇などの文化活動、平和教育等々、様々な角度から取り上げられ、記事にされている。このような多岐にわたる

報道は、その「間口」の広さから、被爆問題を考えていく上での「入門書」としての役割を担うことができる。反面、新聞報道の性格上、その内容の詳細さなどの点では、いわゆる「第一次資料」には劣る。例えば、被爆者行政の当事者である国・県・市が作成する行政資料、あるいは原水禁団体が発行する原水禁大会資料などとは比較にならない。このようなことから、従来、新聞切り抜きの資料としての価値を低く評価する傾向があった。しかし、新聞記事は、それらの「第一次資料」の「索引」として有効に機能するものである。また、被爆問題は現在も進行中の社会問題であり、今なお日々新たに展開している。これらの新しい情報を得るには、新聞はまさに最適の情報源である。さらに、新聞は、報道記事にとどまらず、連載・企画記事として、「原爆・戦争・平和」について、夏場を中心に積極的に紙面に盛り込み、被爆問題についての世論喚起に大きな役割を果たしてきている。このように、新聞は、被爆問題を考えていく上で必要不可欠な資料である。

さて、広島市では資料センタ-以外にも、原爆問題に関心を持つ機関や図書館などで切り抜きを実施している機関がある。広島市平和文化センター・資料保存会・広島市中央図書館広島資料室・中国新聞社・放射線影響研究所・広島原爆障害対策協議会(原対協)などである。このうち、広島資料室は、1976年3月で収集を中止している。分類・保存については、資料保存会・広島資料室・放影研では内容別の分類はされておらず、切り抜き記事は日付順にスクラップブックに貼付されている。平和文化センター・中国新聞社・原対協では独自の分類表によって分類・整理している。対象にしている新聞は、資料保存会では中国・朝日の2紙、原対協では、各記事毎に、中国・朝日・毎日・読売のうちから適当な1紙を選び、採録するという方法をとっている。他機関では中・朝・毎・読と日経などを対象にしている。資料保存会・広島資料室では、個人が収集した新聞スクラップの寄贈を受け、それをもとに収集を開始している。しかし、これらの個人の資料は掲載紙名・日付などが不明のものが多く、資料としての有効性に欠ける。また、広島資料室以外の機関では、主として内部資料として収集・保存さ れており、一般利用者向けのレファレンスの態勢は整っていない。センターでも、切り抜き開始当時は内部資料として用いられていたが、1975年から系統的な収集が開始され、以来15年にも及ぶ収集によって、切り抜き資料の有用性は次第に高められており、外部からの利用も増加している。さらに、センターでは、切り抜き記事をもとに作成した「年表」を冊子にまとめ、広島市内外に配布するという情報サービスの態勢を整えている。また、後に紹介するように、被爆問題記事は地元のニュースとして、広島版に掲載されることが多い。新聞というマスメディアであっても、地方版となると、配布は県内・市内に限られており、他地域には届きにくい。各新聞社が発行している縮刷版でも、地方版は入手も困難である。このような観点から、センターでは、地元紙のほか朝日・毎日・読売から記事を収集している。加えて、同じ被爆地である長崎市の新聞も取り寄せ、長崎側の情報も収集し、より有用性の高い「資料」となることを目指している。広島市にある国立の機関として、被爆地であるという利点を最大限に生かして情報を細大漏らさず収集し、集まった情報を被爆地だけに閉じこめることのないよう に、他地域にも広く提供していきたい考えている。

以下に、センターの新聞切り抜き業務を紹介し、併せて、今後取り組むべき課題について整理してみようと思う。

-新聞切り抜き資料の紹介-

1.切り抜き資料の形態と分類

該当記事は、半年毎の切り抜き作業実施時にまとめて切り抜かれ、A4またはA3判の台紙に貼付される。台紙には切り抜き記事の掲載年月日・掲載紙名・分類番号が記入される。それらの切り抜きは、テーマによって分類され、バインダーにファイルされる。分類項目及び各項目の切り抜き枚数は、表1の通りである。
分類表は、切り抜き開始当初から便宜的に用いていた分類をもとに、中国新聞社などの分類表を参考に作成したものである。利用者にとって、捜したいテーマに沿って分類されていれば都合が良いが、そういう場合ばかりではない。例えば、昨年1990年韓国大統領の訪日とともに話題になった韓国人原爆犠牲者慰霊碑の記事は、分類表のⅡ-25「朝鮮人被爆者」ではなく、Ⅱ-73慰霊祭・碑に分類されている。また、同年8月に、広島市在住の朱碩氏が「被爆朝鮮人教師の戦後史-歳月よ!アリランよ!」を出版したが、それもⅡ-25ではなくⅡ-83「出版」に分類されている。このように切り抜き記事の多くのものは、複数の分類項目に関連しており、そのうちの1つに分類するのは、無理な面もある。担当者としては、分類に優先順位を付け、それに従っているのだが、利用者には不便で、利用しにくい場合も多いと思う。被爆問題の大きな流れを把握するのに役立つ分類を念頭に、作業を進めたいと考えている。また、6.「利用・検索について」の項で紹介するように、パソコンによる複数の分類番号の入力・検索で、これらの分類の欠点を克服するよう努力している。

2.バインダーを開いてみると・・・
センターの切り抜きに対して、具体的イメージを持っていただくため、バインダーを開いて紹介してみる。例として、Ⅱ-13「遺骨」のバインダーを開き、ファイルされた切り抜き記事の日付・紙名・記事見出しを列挙してみる。
・1990. 8.23 被爆者の遺骨千体眠る?旧陸中国 軍馬焼却炉跡見つかる 似島
・1990. 8.23 似島の元陸軍馬匹検疫所 被爆者1000人の遺骨なお?・・  朝日 広島版
・1990. 8.23 似島の原爆犠牲者遺骨 45年ぶり発掘調査へ 広島市 読売
・1990. 8.23 旧陸軍の焼却炉跡発 被爆者の遺骨1000人分眠る? 長崎
・1990. 8.24 被爆者遺骨調査へ 似島の旧陸軍検疫所跡 毎日 広島版
・1990. 9. 1 原爆犠牲者を発掘 似島で7日から 読売 広島版
・1990. 9. 3 1000人の遺骨埋まる? 7日から発掘調査 似島の陸軍検疫所跡 中国 広島版
・1990. 9. 4 似島の検疫所跡地で遺骨発掘へ準備作業 朝日 広島版
・1990. 9. 7 被爆者1000人の遺骨に「光」 広島市似島で発掘調査   朝日
・1990. 9. 8 骨片など40点発掘 被爆者遺骨調査始まる 中国

このように、見出しを追っていくだけで、被爆から45年を経た1990年の時点でも、被爆問題は決して過去の出来事、解決済みの事ではないことが判る。いわゆる「戦争を知らない世代」の人々でも、被爆問題に取り組もうとすれば、これらの切り抜きの集積から「現在の問題」としてのテーマを見いだすことができる。また、上記の切抜き10件のうち5件は広島版に掲載されたものである。先にも述べたように、原爆問題は、地元のニュースとして、広島版に掲載されることが多い。

3.「被爆問題年表」の作成
センタ-では、新聞記事をもとに、1977年より「被爆問題年表」を作成している。1986年9月からはパソコンによるデータ・ベース化を行なっている。年表は図1のような形式で、M=月、D=日、NEWS=事項、CODE=分類番号、PAPER=掲載紙名・掲載月日がそれぞれ入力される。「年表」は、1月毎にまとめられ、センター発行の冊子「資料調査通信」に収録される。

4.「被爆問題年表」紹介
以下に、「資料調査通信」91号に掲載した今年1月の「被爆問題年表」の一部を紹介する。

1991年
1. 4 中国新聞社、広島都市圏住民意識調査結果を発表。それによると、被爆都市の行動として、46%が「核兵器廃絶の訴え」、37%が「被爆者の援護と被爆者援護法の制定」を指摘。
1. 4 米ネバダ州ラスベガスで、核実験禁止国際集会開催(20カ国の海外代表を含め約1500人参加)。7日からの国連本部での部分的核実験禁止条約改定会議に向けて開催。
1. 5 「広島文学資料 新収資料展」、広島市中央図書館で開催(20日まで)。丸木俊の鉛筆画「峠三吉像」・峠三吉の詩「8月6日」などを展示。
1. 6 「中曽根句碑はいらない!広島連絡協議会」代表者会議、広島市で開催。句碑の撤去を求める署名が1万人に達したことなどを報告。
1. 7 朝日新聞社など、チェルノブイリ原発事故の被災者救援のため「朝日チェルノブイリ救援募金」を開始。被災者の受け入れには、広島県・市、広大原医研などが協力。
1. 8 韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長、海部首相の訪韓に関連して声明を発表。日本政府が在韓被爆者援護のための拠出金40億円を一括無条件で支払うよう要求。
1. 9 北海道の江川善次教諭ら、来広し、平和教材作成のため取材を開始。「ヒロシマを語る会」の被爆者原広司の案内で原爆資料館などを見学。
1. 9 広島・長崎両市長、国連の部分的核実験禁止条約改定会議で、世界平和連帯都市市長会議の代表として発言。広島市長、自らの被爆体験を紹介し、核実験の全面禁止を訴え。
1.10 原爆被害者相談所、被爆者手帳交付申請のための被爆証人捜しの1人を公表。
1.10 長崎市長、米ワシントン市のホワイトハウスを訪れ、大統領の長崎訪問を文書で要請。
1.10 日本被団協、米とイラクの外相会談が不調に終ったのを受け、「武力行使はヒロシマ・ナガサキの悲劇につながり絶対反対」との電報を米・イラクなどに打つよう、全都道府県の被団協に要請。
1.10 原水禁国民会議、米・イラク外相会談が不調に終ったのを受け、「広島・長崎に原爆を投下した時と同じ論理が見える」と米を批判する緊急アピールを発表。
1.- 長崎市、北米在住被爆者を対象に実施している渡日治療を、南米在住被爆者にも実施する方針を決定。3月に1人を招請の予定。

以上、少し長くなったが、1991年1月10日までの事項の一部を紹介した。数の多さに驚かれたのではないだろうか。原水禁・平和運動、原爆文学、韓国人被爆者問題、平和教育、被爆証人捜し、平和都市、在米被爆者問題など、多岐にわたる事象が今なお生起している。また、記憶に新しい「湾岸戦争」を懸念する被爆地からの動きや、チェルノブイリ原発のヒバクシャに対するヒロシマからの救済活動など、従来の「被爆問題」の枠を越えた新たな展開も見られる。月別の事項の件数は表2に示した通りである。それによると、1986-1990年の5年間で、年間2000件前後の事項を採録している。このうち、慰霊行事・原水禁大会などが開催される7・8月の合計が、年間の約三分の一を占めている。

5.社説・投書等

社説・投書、コラム、連載記事についても「年表」と同様に、データ・ベース化を実施している。社説・投書・連載については一年分をまとめて「資料調査通信」で紹介している。社説・連載については中国・朝日・毎日・読売・長崎新聞の他、政党紙(自由新報・社会新報・週間民社・公明新聞・赤旗)についても調査し、公明・赤旗については必要記事を切り抜き・保存し、それ以外のものは原紙で保存している。さらに、広島・長崎以外の地域での「原爆報道」について探るため、1986年より国会図書館所蔵の全国主要地方紙50紙を対象に、7.8月掲載の社説・連載の調査を実施している。1986-1990年に掲載された連載記事の件数は表3に示す通りである。

6.利用・検索について

以上、紹介してきたように、資料センタ-の新聞切り抜きは、切り抜きファイルとパソコン入力データの二本立てで整理されている。ある特定のテーマについて調べる場合はファイルの利用が適しており、「年表」では時系列を追って被爆問題全般について概観できる。また、入力データでは、パソコン機能を利用した検索ができる。「年表」の事項には、3つの分類番号が与えられており、実際の切り抜きファイルへの分類は第1番目の分類番号によって分類されているが、パソコンでは第2番目、3番目の分類番号の事項も検索できる。また、事項の中に含まれる単語=キイワードでの検索もできる。複数のキイワードの組合せ、あるいは分類番号とキイワードとの組合せも可能である。例えば、Ⅱ-102「映画・演劇」とキイワード「黒い雨」を組み合わせると、映画「黒い雨」に関する事項を検索できる。このようにパソコン機能を利用すれば、従来のテーマ別分類の欠陥を補うことができる。但し、それらの事項を掲載した切り抜き記事を見ようとすれば、第1番目の分類番号と、年月日によって、切り抜きファイルから捜し出さねばならない。第2・3分類で検索した場合、あるいは分類番号と キイワードの組合せなどで検索した場合には、必ずしも同一分類番号のファイルに分類されていないこともあるので、現状では実際の記事を捜し出す作業が煩雑になるという欠点がある。

7.「資料調査通信」について

「資料調査通信」は1981年8月に創刊され、センターで受け入れた文献・図書資料と、「被爆問題年表」を中心に紹介している。新聞関係では、先に紹介した社説・投書、連載記事の他に、新聞記事ならではの今日的な話題を取り上げて、「トピック」として紹介している。例えば、「国連軍縮週間」(1981年10月号掲載)・「『老人保健法』と原爆医療法」(1981年12月号)・「反核・軍縮の決議・意見書・宣言を採択した途方議会一覧」(1882年3月号)・「ビキニ被災30周年-新聞記事によるビキニデーの変遷」(1984年3月号-5月号)・「厚生省の被爆者実態調査結果の報道」(1987年5月号)・「新聞記事による被爆韓国人・朝鮮人問題年表」(1990年2・3・4月号-7月号)などである。「通信」は、原則として毎月発行され、広島市内・外の120余の関係機関・個人に送付している。
-今後の課題-

1.資料整理に関して
「被爆問題年表」のパソコン入力は、1982年まで完了している。さらに、1977-1981年(「年表」は作成済み)については逐次入力していく予定である。1976年以前については、「年表」の作成から取り組まねばならない。センター所蔵の1967-1976年分の切り抜き枚数は約1万枚に上り、これらを年表化していく作業はかなりの人手と時間を要することから、現在まだ未着手の状態である。しかし、現在の資料を生かすためにも、今後はさらに過去にさかのぼって資料を整理していくことが大きな課題である。
次にそれらの資料の検索システムについても改善の余地がある。6.「利用・検索について」の項で言及したように、現在のシステムでは、入力デ-タと切り抜きファイルが必ずしもスムーズに対応しない場合がある。これに関しては、現在開発の進んでいる光ディスクの利用で、かなりの改善が期待できる。光ディスクに限らず、飛躍的に進歩している情報管理システムに対して、迅速に対応していく態勢を整えることも大きな課題として挙げられる。
また、切り抜きファイルは新聞記事を切り抜き、台紙に貼付したもので、台紙で補強しているため強度の面では現在にところ、十分使用に耐え得る。しかし、新聞紙は劣悪な紙質の再生紙であることから、長期にわたる保存は難しい。従って、将来的には切り抜きのマイクロ・フィルム化などの対策が必要となってくる。

2.利用面での改善
資料センタ-では、これまでのところ、一般の図書館のようなレファレンスやコピーサービスといったサービスシステムが確立されていないという状態であった。しかし、センターの設立の当たっては、被爆者・市民らの「広島に原爆被災の資料センタ-を」との世論が大きな役割を果たしたという経緯があり、センターとしては、これらの被爆者・市民の声に積極的に応えて行かねばならない立場にある。また、被爆問題の社会性という側面から、センター所蔵の資料は、大学内だけでなく、広く一般に活用されるものである。現在でも、6月から8月にかけて、マスコミ関係者、一般の研究者・学生など多数に利用されているが、今後はさらに、被爆地からの情報発信の場として、資料閲覧スペースの整備、コピーサービス・システムの確立などが望まれる。また、入力データについて、パソコンネットワークを利用すれば、より広範囲に手軽に情報の提供が行えることになる。このような機器の導入も併せて検討している。

[中略]

原爆遺跡年表
(原爆ドーム)
58 06 - 広島市が総理府などに依頼した観光診断の報告書がまとまる。それによると、原爆ドームは永久保存すべきと言明。
60 12 01 日本原水協主催の「原水爆禁止、被爆者激励大会」で、広島県・市原水協が原爆ドーム取り壊し反対の緊急動議を提出し、満場一致で採択。
60 12 02 日本原水協代表、原爆ドーム保存を広島市に要請。
61 08 - 建築学の京大名誉教授近藤泰夫、原爆ドームについて緊急に調査・補強工事をすべきであると警告。
63 10 - 広島商工会議所、同会議所新築工事に伴う原爆ドームへの影響調査を広大工学部に依頼。
64 04 11 広島市、原爆ドームが風化現象によって自然崩壊の危険が強いと、ドーム西側の民家1戸に立ち退きを指示。
64 06 - 丹下健三東大工学部教授、来広し、原爆ドームの保存策を考えて欲しいとコメント。
64 07 13 映画監督市川昆ら、東京オリンピックの記録映画撮影のため来広。国内でのトップシーンに原爆ドームを使うことを計画。
64 07 21 原爆ドームの存廃をテーマにしたラジオドラマ「ドームの歌」(NHK広島放送局製作)、放送。
64 12 22 社会・共産党系など11の平和団体代表、浜井広島市長に原爆ドームの永久保存を要請(分裂以来初の共同行動)。市長、保存の意向を表明。
64 44 26 広島市原水協、原爆ドームを永久保存すべきとの方針を決定。
65 01 01 広島折鶴の会、原爆ドーム保存募金運動を開始(15日まで)。
65 01 06 広島折鶴の会、原爆ドーム保存募金と署名簿を広島市長に提出。
65 02 11 広島市、原爆ドーム保存調査費100万円を計上。
65 03 29 京大名誉教授近藤泰夫、広島市長に、原爆ドーム保存を要請する要望書を提出。要望書は湯川秀樹ら8人の連名。
65 07 02 広島市、広大工学部に依頼して原爆ドームの基礎調査を実施。
65 08 06 テレビ番組「現代の映像“ドームの20年”」(NHK)、放送。
65 09 - ソ連の子供たちから、原爆ドーム保存を訴える手紙が広島市長に届く。
65 11 15 広大工学部佐藤重夫教授、原爆ドームは補強すれば保存できるとの中間報告を発表。
66 07 11 広島市議会、「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で決議。
66 07 20 「原爆資料保存会」、広島市に、原爆ドーム保存募金約7万円を寄贈。
66 07 24 広島市被団協(田辺勝理事長)、広島市での被爆者集会で、原爆ドームは市費で永久保存の方策をとるよう要求する方針を決定。
66 07 - 広島市、原爆ドームを一般からの募金で保存することを検討中。
66 08 01 広島市、原爆ドームを保存し、工事費4000万円を募金でまかなうことを決定。6 08 02 高梁市の老人グループ、中国新聞社に原爆ドーム保存募金を寄託。
66 08 06 広島市、「原爆ドーム保存の訴え」を発表し、募金活動を開始。原爆ドーム保存募金事務局を設置。
66 08 16 広島市議会の共産党議員団、原爆ドームを市費で保存するよう広島市に申し入れ。
66 08 17 広島市長、市議会各派代表者会議で、原爆ドームの保存募金を決めた経緯について説明。
66 08 17 広島市議会で、市が決めた原爆ドーム保存募金について、議会側に説明がなかったなどの批判が続出。このため募金要領なども未定のまま。
66 08 22 女優吉永小百合ら、広島市に原爆ドーム保存募金を寄贈。
66 08 - 「広島折鶴の会」、東京で開催中の総評定期大会に、原爆ドーム保存募金に協力を要請するメッセージを送付。
66 08 - 広島市の原爆ドーム保存事務局の体制が整わず、募金体制が足踏み。
66 09 - 9月広島市議会で、原爆ドーム保存募金問題について論議されず、募金活動進まず。
66 10 06 広島市議会の各派代表者会議で、原爆ドーム保存募金に対する結論持ち越し。
66 10 17 インドの国際法学者パール博士からの原爆ドーム保存募金が、広島市に届く。
66 10 21 広島市長、11月1日から原爆ドーム保存募金を実施すると発表。
66 10 28 広島市議会、原爆ドームを文化財保護法による国の史跡指定を受け、永久に保存する運動を進めることを決議。
66 10 - 広島市、原爆ドーム保存募金への協力を呼びかける英文の趣意書を、国内に先立ち、26カ国に発送。
66 10 - 原爆ドーム保存募金として103件・86万円余が寄せられる。
66 11 01 広島市の原爆ドーム保存募金、開始。67年2月末まで、目標額4000万円。
66 11 05 総評、原爆ドーム保存募金について、広島市長らと協議。1000万円の募金を約束。
66 11 07 実践倫理宏正会、原爆ドーム保存募金に100万円を寄付。
66 11 11 原爆ドーム保存の街頭募金スタンド、市役所など4ヵ所に設置。
66 11 13 原水禁国民会議の代表、インドでの「戦争の危険に反対する国際会議」で原爆ドーム保存募金への協力を呼びかけ。
66 11 14 自民党県連、原爆ドーム保存募金に10万円を寄付。自民党県議団48人も一人1000円ずつ募金。
66 11 21 米のヒロシマ・ピースセンター協力会から、原爆ドーム保存募金18万円が届く。海外からの募金第一号。
66 11 22 世界平和アピール七人委員会、建設相に原爆ドーム保存募金への政府の協力を要請。
66 11 25 広島市で開催中の世界連邦西日本大会で、原爆ドーム保存募金への協力を付帯決議。
66 11 25 呉市の呉港高校生徒会、原爆ドーム保存募金に協力。この他、油木町の中学生、呉商業高校生徒、賀茂郡入野中学校生徒・島根県大和中学校生徒、船越小学校生徒、安佐郡原小学校生徒、尾道工業高校、三原東高校生徒らも協力。
66 11 28 広島市、自民・社会・民社・公明等150団体を招いて、原爆ドーム保存募金の趣旨説明をし、協力を要請。
66 12 03 日本原水協、原爆ドーム保存募金運動に積極的に参加することを決定。
66 12 06 日本原水協代表、広島市長に、原爆ドーム保存募金運動への協力を申し入れ。
66 12 09 社会党、党大会で、原爆ドーム保存決議を満場一致で採択。
66 12 19 中国新聞社、原爆ドーム保存募金に金一封を寄付。
66 12 - 原爆ドーム保存募金に、497件500万円余が寄せられる。
66 12 - 広島市、国からの公園整備補助を断念し、原爆ドーム保存の補修費を、全額募金で集めることを決定。
67 01 27 中国国税職員組合、原爆ドーム保存募金に寄金(約9万円)。
67 01 30 広島市長ら、原爆ドーム保存の街頭募金を実施(1時間で約3万円)。
67 01 - 元NHK会長、英紙タイムズに、原爆ドーム保存募金への協力を要請。
67 02 13 広島市長、上京し、平和アピール7人委員会に、ドーム保存募金への協力を再要請。
67 02 19 広島市のボーイスカウト・被爆者団体など(130人)、ドーム保存の街頭募金を実施(23万円余)。広島市長も参加。
67 02 25 島根大学平和委員会など、ドーム保存の街頭募金を実施。
67 02 25 広島市長、上京し、都内で、ドーム保存の街頭募金を実施(27日まで)。43万円余が集まる。
67 02 26 ドーム保存募金、2000件、1300万円。
67 02 27 広島市、2月末で終了する予定だったドーム保存募金を、目標額の4000万円が集まるまで延期することを決定。
67 02 28 広島市、ドーム保存募金を集計。2680件、1666万円余。
67 02 - 東京都の会社員、ドーム保存のための社内募金を実施 。
67 02 - 社会奉仕グループ「広島国際青少年協会」、ドーム保存の街頭募金を毎日実施(3月2日までで、募金額90万円を越える)。
67 02 - ドーム保存募金、低調。2月末までの目標額4000万円に対して、現在高は1000件、800万円。
67 02 - 原爆ドーム保存募金に、連日100万円以上の寄付が届く。
67 03 02 広島県婦協、ドーム募金65万円を広島市に寄付。この他、国泰寺高校・高田郡の老人クラブ・安佐郡の児玉病院などからも寄付。
67 03 03 広島市、市議会に、原爆ドーム保存第一期分補強工事費3000万円を追加提案。
67 03 03 広島市、原爆ドーム保存のための第一期補強工事費3000万円を広島市議会に提案。
67 03 05 尾道ロータリークラブ会長、ドーム保存募金に10万円を寄付。
67 03 05 府中市の青年ら、同市内で、ドーム保存の街頭募金を実施。
67 03 06 原爆ドーム保存募金、3000万円を突破。
67 03 08 広島県知事、県議会で、ドーム保存募金に対して、募金運動の成功を念願するとの態度を表明。積極的関与の考えは無し。
67 03 08 岩国市東小学校生徒ら、ドーム保存募金に寄付。この他、賀茂郡の酒造会社・御調中学校生徒・三次市十日市小学校生徒・竹原市竹原中学校生徒・山県郡の殿賀小学校生徒・世羅郡の西大田中学校生徒・賀茂郡の高屋中学校生徒らも。
67 03 09 広島市、ドーム保存の補強工事を前に、接着剤の注入テストを実施。建設省建築研究所部長ら、視察。
67 03 11 テレビタレント永井智雄ら、東京で、ドーム保存の街頭募金を実施(4万6千円余)。
67 03 12 広島県原水協・県被団協など、平和記念公園で、ドーム保存の街頭募金を実施(1万7千円)。
67 03 13 原爆ドーム募金、目標の4000万円を達成。14日、募金を終了。
67 03 14 浜井広島市長、原爆ドーム募金が目標の4000万円に達したので募金を終了すると発表(7364件、4025万円)。
67 03 - 松江市、原爆ドーム保存募金に協力し、市民に一人一円募金を呼びかけ。
67 03 - 国会議員の一部、原爆ドーム保存募金に協力することを決定。
67 08 05 原爆ドーム保存工事、完成し、完工式開催(山田広島市長ら約500人参加)。
67 08 05 広島市の原爆ドーム補強工事の完成式、開催(山田広島市長ら、約500人参列)。全国からの募金額は668万円(目標額4000万円)。
68 12 02 広島市、原爆ドーム保存募金運動の母体となった「原爆ドーム保存協力会」(会長、山本広島商工会議所会頭)を解散することを決定。
70 04 05 原爆ドームの設計者である故ヤン・レツルの血縁者から、ドームの写真を送ってほしいとの手紙が広島折鶴の会に届く。
72 08 - 広島市の藤本為吉、原爆ドームの噴水口の人面像を保管。
75 08 05 原爆ドーム(旧産業奨励館)、建設以来60年を迎える。85 07 - 岡山大学近藤義郎教授、原爆ドームを国の史跡として保存するよう呼びかけ。
86 02 - 日本考古学協会、原爆ドームを国の特別史跡に指定するよう求める運動を開始。100団体に賛同署名を求める文書を送付。
86 03 08 広島折り鶴の会、日本考古学協会の原爆ドームの特別史跡指定運動に呼応して、広島市で署名運動を開始。
87 01 22 広島市、原爆ドームを20年ぶりに補修することを決定。
87 07 11 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、原爆ドームの保存調査を開始。
87 11 04 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、一部補修の必要があるとの調査結果を発表。
88 01 20 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、原爆ドーム補修工事の工法などを決定。
88 03 - 外務省、日本が批准の準備をしている「世界の文化遺産・自然遺産保護条約保護条約」の指定遺産として原爆ドームを検討中。
88 08 - 「広島折鶴の会」、原爆ドームの設計者ヤン・レツルのめいに被爆写真集などを寄贈。
88 10 06 広島市、1989年秋に原爆ドーム補修工事を実施することを決定。補修費用を全国募金で調達することを検討中。

(原爆遺跡)
69 01 17 広島市の堀川町の久保田本店の煙突、取り壊し工事、開始。煙突上部は広島平和記念資料館に保存。
69 03 - 広島市の「縮景園」に薬草園、開園。被爆したエノキも同園で保存。
70 06 - 広島市教委、基町地区の再開発で破壊される恐れのある旧陸軍輜重隊倉庫・陸軍病院門柱などを、保存するよう広島市に要請。
71 01 25 広島市の住友銀行広島支店、老朽化で取り壊し工事を開始。同支店の「死の人影」は、切り取られて広島平和記念資料館に移設。
71 12 - 広島市基町で、旧護国神社の鳥居の礎石の1つを発見。
72 02 - 広島郵政局局舎(昭和8年建設、広島市東白島町)、建て替えの検討を開始。
72 09 - 旧被服支廠(出汐町)の赤レンガべい、原爆資料館に移設。
73 03 13 御幸橋(昭和5年建設)、取り壊し工事開始。
73 03 - 常盤橋(昭和2年建設)、取り壊し工事開始。
73 04 - 中国郵政局の建て替えで、同局の被爆アオギリ、広島平和記念公園に移植。
73 05 11 相生橋(昭和7年建設)の架け替え、決定。
73 07 30 元安橋、欄干の親柱・石灯ろうなどが欠落したまま放置される。
74 02 - 山陽記念館(昭和9年建設)、荒れ放題のまま放置され、改築の見通しも立たず。
74 07 - 旧燃料会館(大正年間に建設、中島町平和記念公園内)、老朽化のため取り壊しが決定。
76 01 - 旧陸軍被服倉庫、周辺住宅の除去で全容を現し、存廃についての論議が始まる。
76 04 30 基町住民による「基町明治会」、旧陸軍被服倉庫と柳の木の保存を、広島市に要請。
76 06 23 広島市、旧陸軍被服倉庫の保存問題について検討を開始。
76 06 - 広島県被団協(森滝市郎理事長)、旧陸軍被服倉庫の保存運動に乗り出すことを決定。
76 07 - 映画監督楠木徳男ら、旧陸軍被服倉庫を記録する映画の撮影を開始。
76 09 - 広島市、市営アパート建設の計画を練り直し、基町大クスの木の保存を決定。
76 09 - 広島逓信病院の旧病棟(昭和10年建設、東白島町)の取り壊し、開始。
77 01 13 広島市、旧陸軍被服倉庫の撤去を決定。「被爆当時と外形が異なり被爆の惨状を残す建物としての保存は適当でない」との見解。
77 04 - 広島城公園のユーカリ(樹齢80年)、異常寒波で葉枯れ。
77 08 06 舟入公園の老松3本(樹齢60ー70年)、護岸工事のため切り倒し。
77 10 12 相生橋の架け買え工事、開始。
77 11 - 広島市、相生橋の親柱を保存することを決定。
78 07 - 広島地方貯金局、移転に伴い、取り壊しが確定。
78 04 - 広島市役所本庁舎外壁のケロイドの塗り替え工事、開始。
79 04 - 広島市、原爆遺跡選定会議を設置。
78 06 01 旧陸軍被服倉庫の取り壊し、開始。
79 01 - 広島市基町太田川沿いの大エノキ(樹齢約100年)、河川改修工事のため切り倒し。一部は原爆資料館で保存。
79 06 - 広島市立基町小学校児童ら、基町本川沿いのエノキの保存運動を開始。
79 09 17 広島市の「原爆遺跡選定会議」、初会合(原田東岷・庄野直美ら市民代表14人出席)。
79 10 16 広島市の原爆遺跡選定会議、原爆遺跡説明板設置予定地7ヵ所を選定(島病院・広島駅・万代橋・御幸橋など)。
80 01 - 旧被服廠(出汐町)の保存検討中。
80 01 28 原爆遺跡選定会議、「原爆遺跡」として説明板を設する10ヵ所を最終決定(島病院・旧革屋町・広島駅・元安橋・旧中国軍管区司令部・広島赤十字病院・広島大学本部・袋町小学校・原爆ドーム・市役所)。
80 06 10 広島市、架け替え工事中の相生橋のデザイン募集を開始(130点が応募、一席作品は該当無し)。
80 08 08 広島市が、似島に、レクリエーション施設を建設する計画を進めていることが判明。
80 08 20 広島県原水協、広島市に、似島の原爆遺跡保存を要望。
80 09 - 自治体問題研究所・広島研究会、広島市の似島へのレクリエーション施設建設計画について批判。
80 09 - 相生橋の記録映画「生まれ変わる相生橋」(中国地方建設局製作)、完成。
80 09 05 公明党広島県本部など、広島市の似島へのレクリエーション施設建設計画に対して、充分な事前調査を広島市に要望。
80 09 09 社会党広島市議団など、似島のレクリエーション施設建設予定地を視察。
80 09 15 平和を語る青年の集い、似島の原爆遺跡などを見学。
80 12 02 広島市、市役所本庁舎の建て替え計画で、新庁舎のデザインをコンペ方式で採用することを決定。
81 01 27 広島市、「原爆被災説明板」第1号を設置し、原爆ドーム前で除幕式(広島市長ら約50人参加)。
81 04 23 広島市、新庁舎の入選設計を決定。原爆遺跡として玄関石段などを保存することを決定。
81 06 25 新庄の宮神社のクスノキの枝、切り落とし。
81 07 25 旧相生橋の橋げたの一部、被爆資料として広島原爆資料館で展示。
81 11 20 広島市、原爆被災説明板を新たに10ヵ所設置することを決定(1980年に続く第2弾)。
81 11 21 元安橋の欄干の一部、元安川左岸で36年ぶりに発掘。
81 12 28 万代橋の架け替え工事、終了。旧橋の親柱を橋のたもとに保存。
81 12 19 相生橋の新橋のデザイン、決定。
82 01 - 袋町小学校の校舎(大正11年建設)の壁の塗り替え、実施。
82 02 - フコク生命ビル(昭和11年建設)の取り壊し、開始。
82 04 - 旧広島中電話局の庁舎(昭和3年建設)の取り壊し、開始。電通遺族会、被爆タイルの保存・慰霊碑建立などを要望。
82 05 - 広島市の矢野公民館、旧広島中電話局の被爆タイルを用いて平和教育活動を計画。中国電通局・電通遺族会も協力。
82 06 23 中国電通局、旧広島中電話局の跡地に、被爆タイルを用いて慰霊碑を建立することを決定。
82 07 08 旧広島中電話局の被爆タイル、広島原爆資料館に寄贈される。
82 08 04 相生橋の平和記念公園に通じる連絡橋の架け替え工事が終了し、開通。
82 09 - 広島市、旧陸軍糧秣支廠(明治44年建設、宇品)を郷土資料館として保存することを決定。
82 09 11 広島市教委、解体修理中の広島東照宮(1648年建立、二葉の里)について、市民向け説明会を開催。
82 09 18 「似島平和遺跡を保存する会」、似島の原爆遺跡の保存などを広島市に要望。
83 02 03 広島市の新庁舎建設に伴い、庁舎の取り壊し作業開始。
83 08 20 旧陸軍糧秣支廠の改修工事、開始。
83 09 - 牛田浄水場の予備ポンプ室(大正13年建設)が、「水道資料館」として保存されることが決定。
83 11 02 相生橋の架け替え工事、終了し、完成式開催(約400人参加)。
83 10 - 山陰合同銀行広島支店(昭和11年建設、立町)、老朽化のため取り壊し決定。
83 10 26 横川橋(大正12年架橋)の架け替え工事、開始。
84 03 - 旧相生橋の親柱、平和記念公園内に復元し、説明板を設置。
84 10 - 広島市役所の桜の木、新庁舎完成後も現在の場所に残されることが決定。。
84 05 17 御幸橋(昭和6年建設)の架け替え工事、開催。
84 04 - 工兵橋(明治22年建設)の改修、決定。
84 05 - 広島県、旧広島県港湾事務所の保存問題について検討中。
84 08 - 原爆資料館、被爆樹木の選定・保存方法の検討などを開始。
84 08 - 広島市中区役所、被爆樹木についての情報収集に協力を呼びかけ。
84 08 21 基町の被爆エノキ(旧第二陸軍病院跡地)、台風で倒壊。同エノキは、基町小学校生徒らが平和学習の一環として保存運動を推進。
84 08 24 広島市、台風で折れた基町のエノキの保存作業を開始 。折れた幹は平和教育教材・研究資料として提供。
84 09 03 安田女子高校生徒ら、広島城内の被爆ユーカリの保存策を求める要望書を広島市に提出。
84 09 - 鶴見橋のヤナギ(樹齢約120年)、台風で亀裂が入り南区役所が保護作業を実施。
84 09 - 広島県高校生平和ゼミナール、台風で倒れたエノキの枝などを全国の平和資料館などに送付。
84 09 - 大阪府の小学生から、台風で倒れたエノキを見舞う手紙が届く。同小学生らは、5月に修学旅行でエノキを囲んで平和学習。
84 12 20 中国電力本店2号館(昭和4年建設、小町)、老朽化ため取り壊し開始。
84 10 - 広島市中区役所へ、被爆樹木26本の情報が寄せられる。
84 10 - 被爆翌年に広島城跡にあった被爆ヒイラギが、大竹市で保存されていることが判明。
84 12 04 広島県被団協(佐久間澄理事長)など、被爆遺跡である現庁舎を保存するよう求める陳情書を提出。
85 01 25 広島市役所の本庁舎の取り壊し、決定。
85 01 26 広島県原水協など、広島市役所本庁舎の取り壊し決定に対して、広島市に抗議。
85 02 - 広島市平和文化センター、被爆建物の写真撮影作業を実施中。
85 03 - 広島市役所の被爆桜、新庁舎の建設に伴い移設され、残された1本が開花。
85 05 11 旧陸軍糧秣支廠を改造した広島市郷土資料館、完成し開館。
85 04 30 広島市議会、現本庁舎の部分的な保存方法を検討する協議会を発足させることを決定。
85 05 16 広島市役所の新庁舎、完成し、定礎式開催。
85 05 16 広島市、旧庁舎の一部を平和学習教材として全国の小・中学校に寄贈することを決定。
85 05 20 広島市原水協、新本庁舎の定礎箱に被爆資料を入れることや、現庁舎の保存などを要望。
85 05 - 広島市立基町小学校生徒ら、1984年に台風で倒れた被爆エノキの新芽を確認。
85 05 28 広島市、旧慈仙寺の墓石に、「原爆遺跡」であることを示す説明板を設置。
85 06 - 広島東照宮の石積みに、被爆経緯を記した「原爆誌」が設置される。
85 06 12 広島市議会の庁舎検討委員会、初会合。
85 07 - 広島市役所の桜、新庁舎建設のため、一時移転。
85 07 21 広島市役所本庁舎親子スケッチ大会、開催(「市庁舎を保存させる会」主催、約80人参加)。
85 08 15 広島市議会の旧庁舎検討協議会、旧庁舎を取り壊し、正面玄関の石段と地下室の一部のみを保存することを決定。
85 08 19 千葉県我孫子市被爆者の会代表、広島市役所旧庁舎の被爆敷石を展示するため、広島市に譲渡を申し入れ。(兵庫県美方郡なども申し入れ。)
85 08 - 広島電鉄、被爆電車156号を全面修理し、動態保存する方針を決定。
85 08 30 広島市、旧本庁舎の壁の一部を切取り保存・展示することを決定。
85 10 07 広島市役所旧本庁舎の解体工事、開始。
85 09 - 広島地方気象台の移転に伴い、気象台本館の保存を求める声が高まり、陳情・署名運動など開始。
85 11 09 横川橋の架け替え工事、終了し、開通式開催(広島市長ら450人出席)。
85 11 28 広島市役所旧庁舎の敷石、我孫子市の被爆者団体と兵庫県美方郡温泉町などに寄贈。(このほかにも、譲渡の申し出が相次ぐ。)
85 12 10 広島市、市役所新庁舎の玄関前広場の整備計画を決定 。旧庁舎の地下室を被爆資料展示室とすることなどを計画。
86 07 02 構内整備のため、倉掛小学校に一時移植していた広島市役所の被爆桜、同構内に植え戻し。同小学校には被爆桜の苗木を寄贈。
86 05 06 工兵橋の改修工事、終了し、開通。
86 09 11 御幸橋の取り壊し作業、開始。広島市、親柱と飾り柱の保存を決定。
86 10 - 「中区の文化を考える会」日本銀行広島支店を保存し、文学館などに利用するよう求める運動を開始。
86 11 - 「頼山陽先生遺蹟顕彰会」、頼山陽記念館を復元することを決定。
86 11 - 比治山のクロマツ(樹齢約300年)、枯死。
86 12 27 御幸橋の被爆石、東京都葛飾区に寄贈され、平和モニュメントにされることが決定。
87 01 - 広島市、広島気象台を「気象資料館」保存することを決定。
87 02 - 広島市、元安橋の架け替えを計画。
87 04 - 広島市役所の被爆桜、移植後初めて市役所構内で開花。
87 04 08 旧広島文理大の被爆タイル壁、説明板を付けて広大理学部正面玄関に設置。
87 04 25 旧中国逓信局のアオギリ(1973年に平和記念公園に植え替え)の枝が折られているのが発見される。
87 06 11 広島市立本川小学校の東側校舎(昭和3年建設)の解体工事、開始。校舎の一部を保存し、「平和資料室」として利用する計画。
87 06 - 広島市、旧燃料会館(現在の平和記念公園レストハウス)の建て替えを検討中。
87 06 27 旧逓信局のアオギリが、枯死寸前であることが判明。
87 08 - 広島逓信病院の庭で被爆したヒマラヤ杉、健在。
87 08 - 広島城跡発掘調査で、被爆の跡を残す礎石などを発見。
87 09 21 広島市、広島地方気象台の被爆庁舎の保存について検討する委員会を開催。
87 12 - 国前寺本堂・庫裏(1656年建立)、広島市の重要文化財に指定される。
87 12 - 広島地方気象台、新庁舎へ移転。現庁舎は気象資料館として利用することを計画。
88 03 - 旧中国逓信局で被爆したアオギリの二世作り、広島市植物公園で実施。
88 09 28 広島銀行銀山町支店(昭和12年建設)、建て替えのため解体作業を開始。
88 04 - 旧広島市庁舎の被爆石、1989年にオープンする市現代美術館の玄関前広場に敷設。
88 04 - 広島市平和記念公園の被爆アオギリ、広島県の「花と木の百選」に選定される。
88 05 - 広島駅構内のこ線橋(大正14年建設)が被爆遺跡であることが判明。
88 06 - 鶴見橋の被爆ヤナギ、同橋の架け替えのため一時移植される。
88 09 - 日本銀行広島支店の移転、決定。
88 05 - 基町の被爆エノキ、新芽が出ず枯死の心配される。福岡県の小学生ら、エノキを切らないよう広島市に手紙を送付。
88 09 - 旧広島地方気象台の建物を活用した「気象資料館」の基本構想、決定。
88 10 - 御幸橋の欄干のデザイン、決定。旧橋を模したデザインで飾り柱などを復元。
88 10 - 料亭「佐々木別荘」(明治の建築)、都市再開発のため建て替えが決定。
88 11 11 「中区の文化を考える会」、日銀広島支店の保存を求めて署名運動をすることを決定。
88 11 28 旧広島貯金支局(昭和12年建設)の解体作業、開始。被爆タイルなどは原爆資料館に寄贈。
原爆遺跡年表[解題]

秦野裕子(広大原医研)
新聞は、「原爆遺跡」について、様々な機会に多種多様の報道をしてきた。広島大学原医研資料センター所蔵の新聞資料によって作成したのが「原爆遺跡年表」(1958年ー1988年)である。この年表をもとに、「原爆遺跡」について概観し、取り組むべき課題などについて考えてみたい。
(ドーム保存について)
広島市で「原爆遺跡」について考える場合、まず第一に挙げられるのが「原爆ドーム」であろう。1989年のドーム保存募金の全国的な盛り上がりは記憶に新しい。しかし、このドームにしても、初めからこのような「遺跡」の代表として確固たる位置を占めていた訳ではない。以下に新聞報道によるドーム存廃の論議を紹介していく。
1958年に、ドーム存廃について、「市民の意見は半々 撤去論“悲劇を売物にするな” 保存論“忘れられない象徴”」(中国)という見出しで特集記事を掲載している。同記事では撤去論として「あのままドームを残して原爆の威力を伝えるにはあまりにも貧弱だ。外国人にもあの程度の被害かと誤認されたくない。」との当時の広島市議会議長任都栗司の意見を紹介している。また、広島財界の指導者の意見として、「ドームを観光の一助にするという考えは悲劇を売物にするのと同じことだ。」との意見を紹介している。さらに、60年には「存廃論議される“原爆ドーム”」(中国・夕)との見出しで特集されている。撤去論として上記の他に、「いつまでも不快な記憶を留めたくない。」「市の美観をそこなう。」などの理由を挙げ、被爆者の中にも撤去論者は多いようだと報じている。これに対する存置論として、「平和のシンボルとして置くべきだ。」「戦争の惨禍を忘れないためにも必要。」との意見を紹介している。さらに、田宮虎彦、大江健三郎、ロベルト・ユンクら著名人の存置論も紹介し、「存置論者 外部関係に多い」との見出しを付している。このような中で、浜井広島市長は、「積 極的に壊す気はないが、存廃はすべて世論にしたがって決める。」との見解を表明し、補強費1000万円のねん出も困難と財政面での苦労も訴えている。この時点では、広島市さえも、ドーム保存について確固たる方針を持っていなかった訳である。しかし、1960年12月1日には、広島市で行なわれた日本原水協主催の「原水爆禁止、被爆者激励大会」で、原爆ドーム取り壊し反対の緊急動議が満場一致で採択されている。これを受けて翌日、日本原水協代表は、広島市に保存を訴える要請書を提出したが、市側は、「検討中」とのみ回答している。
京大近藤泰夫名誉教授は、翌年1961年8月に来広し、原爆ドームが「非常に危険状態に陥っている。」と指摘している。「一日も早く専門的な調査をし補強工事をすべき」で、「これ以上放置できない限界にきている。」と警告を発したが、市は、危険防止のため周囲に金網をめぐらしてあることや、工事費に多額の費用を要するとの理由で、依然、調査にさえ着手しない。
1963年10月、電車通りをへだてた向いの広島商工会議所のビル新築に伴って、同会議所が、原爆ドームへの工事の振動の影響調査が実施される。この時にも浜井広島市長は、「ドームにはサクが張ってあるので大丈夫ではないか。」とのんきな意見を吐いている。さらに、「私としてはドームを補強してまで保存する価値はないと思う。」とコメントしている。ところで、同月6日のコラムはドームについて、「永久保存」・「即刻取り壊し」・「成行き任せ」の3つの意見があると紹介している。遺跡の存廃論議において、「成行き任せ」というのは、何とも奇妙な意見だが、同コラムは「複雑な両論にはさまれていずれにも決めかねている。」と広島市の「成行き任せ」論を説明し、振動の影響調査では、一応崩壊の心配はないとの結論を得ている。しかし、64年4月には、ドーム西側の民家に自然崩壊の危険が強いと立ち退きを指示た。
・保存への動き
1964年11月に広島市原水協(会長・浜井広島市長)は、原爆ドームは永久保存すべきとの方針を決定し、県原水協総会に、1965年の被爆20周年記念行事としてドーム保存運動を起こすことなどを提案する。翌月12月には分裂以来初めて、社会党・総評系、共産党系、保守・民社党系の3原水禁団体を含めた11の平和団体が大同団結し、広島市にドームの永久保存を要請した。これに対して、浜井広島市長は、「来年度予算案に調査研究費を計上して専門家に保存方法を研究させる。」と答えている。広島市は、被爆後19年にして初めてドーム保存の意志を表明した訳である。被爆20周年に当たる65年には、1月から広島折鶴の会がドーム保存を訴える署名と募金運動を開始する。また、広島市観光協会も、同月広島市に、ドーム保存の要望書を提出している。このような動きの中で、市はやっとドームの強度調査費100万円を計上する。この時点でのドームの保存状態は「昨年春には降り続いた春雨がしみ込んで正面4階部分のヒビが大きく割れ、近くでビル工事も始まったため、内部に30数本のワイヤーや補強サクを取り付けて自然崩壊を防いだ。」(65.2.12中国)という状態で、崩壊寸前だったことがうかが える。3月は、
1961年にもドーム保存について早期補修を進言した京大近藤泰夫名誉教授が、再び来広し、広島市長にドーム保存の要望書を提出する。要望書は湯川秀樹・丹下健三ら8名の連名であった。同教授は、「小っちゃな地震でもすぐこわれるほど危険な状態になっている。」と、ドーム補修が緊急を要することを強調た。さらに、同教授は中国新聞に「原爆ドームの保存を訴える 建築学上もむずかしくない」(4.30)との一文を寄せた。その中で、西ベルリンの戦災を受けた教会の修復の例を引き、ドーム保存の意義を訴え、また、建築学の専門家として、ドーム補修が技術的に可能であると発言している。新聞投書欄に、「原爆ドーム撤去せよ」(65.5.4)との投書が掲載されたのがきっかけで、7・10・12・13日とそれに対する反論が次々と掲載され、投書欄にも「5月1日以降、原爆ドーム保存を求める投書8通。撤去を求める投書は既掲以外にはありません。」(5.13)という状況で、保存を求める意見が主流となっていく。
こうして、65年7月に、市の依頼を受けた広大工学部が基礎調査を開始するが、市は、この調査結果によって、存廃についての結論を出す考えであった。広大佐藤重雄教授は、接着剤で固めれば半永久的に保存でき、費用は約4000万円と報告した。これを受けて、広島市長は、「保存することになろう。」と発言している。
・保存決定と募金運動
66年7月11日、広島市議会は、「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で決議する。その内容は、「原爆ドームを完全に保存し後生に残すのは、原爆でなくなった20数万の犠牲者と世界の平和を願う人たちにたいして広島市議会が果たす義務の1つである。ドーム保存について万全の措置をとるようにすべきだ。」というものであった。市長は、同月「一般募金で、保存工事に着手する方法を検討する。」と発言している。さらに、8月1日には、市幹部会議で、ドーム保存と、工事費を募金でまかなうことを決定する。その理念として、「戦争のない世界にする反省の起点としてドームを保存し、これを平和な未来建設の出発点とする。」とし、「その意味で一般募金は意義がある。」としている。この時点では、浜井市長は、「原爆ドームは時点を高くし、視野を広げれば保存するのが当然ということになる。募金は私の責任でする。募金方法はもう少し検討するが、十円募金は協力団体がしてくれれば別だが市がする考えはない。」との見解を披露している。市は、当初8月6日からの募金開始を企図していたが、議会側から募金実施について事前に相談がなかったことや募金計画がずさんであるとの批判が相次 ぎ、趣意書の作成や発送などもできず、運動は凍結されたまま2カ月余が空費された。この間の市と議会との確執は、「宙に浮く原爆ドーム保存 一部に募金中止論 市長選とからませて」(9.30中国)、「感情的対立の様相」(10.5同)などの見出しで報道されている。このような対立の中で、市長は議会の意志決定を待たず、11月1日から募金開始を決定し、趣意書の発送なども開始する。開始時にはこのようなつまずきがあったが、総評・平和七人委員会・自民党県連・日本原水協・社会党など幅広い層からの支持を得て、期限の2月末を13日延長したものの、3月13日に目標の4000万円を達成した。浜井市長は、14日に募金終了を発表するが、以後も募金が相次ぎ、結局目標を大きく上回る6800万円余(68.2.22)が集まった。保存工事は4月10日に着工し、8月5日に完工式を挙行した。浜井前市長は、同式の中で、「募金が目標を達成できたのは、ヒロシマを繰り返すなという悲願が世界に燃え続けていることを証明した。このドームは戦争の悲惨な事実を刻みつけている。」と述べている。
・20年後の再補修
広島市は、1967年の補修から20年を経て、87年1月にドーム再補修を計画し、同年設置された「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」の調査結果をもとに、89年秋にドーム補修工事を実施することを決定する。2億円の工事費について、市長は、募金で行なうことは「昭和42年当時、募金をした人の気持ちに反することでもあると思う。」と、消極的な姿勢を示していた。しかし、市民団体などの募金実施の要望を受けて、89年2月には2億円のうち1億を市費で、残り1億を募金でという折衷案を打ち出す。募金は5月1日にスタートし、初日には、当初募金に消極的だった荒木市長も街頭に出て募金を呼びかけた。12月25日の締め切りまでに募金総額は3億7000万円を超え、市長は「今後ともドームの永久保存に努める。」とのコメントを発表する。
・67年から87年
1967年にドーム保存を決定するまでは「原爆被害の過小評価になりかねない。」・「思い出したくない」など、様々な理由でドーム撤去を唱える人もいた。それらの意見も、一概に否定されるべきものではなく、それなりの根拠を持つものであった。しかし、87年の再補修の際には、ドームの永久保存は前提で、少なくとも撤去論を持ち出す人はいなかった。これは、20年の間に、ドームが撤去論を乗り越えるだけの働きをしてきたことを証明する。広島市民はもとより、平和学習の修学旅行生、内外の観光客・政治家・文化人らに、ドームは、その被爆体験を言葉を越えて語りかけ、戦争・平和について考えるよすがとしての役目を果たしてきたのである。そのようなドームを、今後も永久に保存していこうと、広島市民のみならず日本国内また海外の人々が決意を新にし、その熱意が89年の補修募金4億円となって結実した。しかし、我々は、67年当時には、ドームすら、撤去しようとしたことがあることを忘れてはなるまい。また、その論拠をも思い返してみる必要がある。美観・経費・原爆被害の過小評価・・・等。現在、我々は再び、そのような理由を挙げて、残り少ない「原爆遺跡」を取り壊そうとし ているのではないか。
もし、67年の時点でドーム撤去を決意していたとしたら・・・。その跡地に近代的ビルを建てていたとしたら・・・。平和都市ヒロシマの役割を我々はドームなしで果たせていただろうか。

次に、「原爆遺跡年表」を見ていく。この年表で、取り壊し・撤去が確認されたのは、「死の人影」のあった住友銀行・中国郵政局・御幸橋・常盤橋・相生橋・旧陸軍被服倉庫・舟入公園の老松・「生めましめんかな」の舞台になった旧広島貯金支局・広島市役所・万世橋・フコク生命ビル・旧広島中電話局・山陰合同銀行広島支店・横川橋・中国電力本店2号館・本川小学校東側校舎・広島銀行銀山町支店など17件にも及ぶ。銀行などの企業、官公庁の建物、橋などが次々に広島市街から消されていった。この時期は、ほぼドームの第1回の補修から第2回補修が実施されるまでの期間に当たる。次々に建て替えられていく多くの建物・橋などは、被爆後補修を重ねながら、使用されてきており、「原爆遺跡」であると同時に銀行・学校などの建物であるという二面性を待っているわけである。老朽化した建物は居住性・美観などの面で劣り、時には危険ですらある。「遺跡」という側面を無視して、建物・橋としての機能を優先させれば、「老朽化」-「建て替え」ということになってしまう。そのような例として、「市役所」の例を検討してみる。

(市役所の場合)
広島市は、1980年12月に、昭和3年に完成した市役所本庁舎を、手狭で老朽化が激しいとの理由で、取り壊し・建て替えることを決定する。この決定がなされた時にも、「また消える“被爆証人”」(80.12.3朝日)との記事の中で、「被爆の事実をかき消すかのような新しがり屋には怒りさえ覚える。」と、詩人栗原貞子の批判が取り上げられている。81年4月にはコンペ方式による新庁舎のデザインの入選作が決定され、原爆遺跡として正面玄関の石段・縁石などを保存することが計画されている。83年2月には、東側の三階建ての庁舎が取り壊され、新庁舎の建設が始まる。84年、新庁舎の建設が進むにつれて、老朽化の激しい本庁舎の存廃が話題にされる。新聞報道にも、「保存か撤去か 原爆“証人”ぜひ いや美観損なう」(84.4.21)との見出しで取り上げられている。その中で、撤去論として「全部取り壊した方がすっきりする。」との美観重視論、「原爆遺跡としては原爆ドームがあるので、金をかけてまで保存しなくても・・・」との意見などを紹介している。それに対して、「傷ついた市民も避難した場所。利便性や美観論だけで壊さないで欲しい。」との職員OBの意見、「古い本庁舎は、市 役所を訪れた外国人らの目にも奇異に映るはず。そこで荒木市長が残した意味を話せば、世界平和の訴えも説得力を増す。」との社会党議員の保存論を紹介している。この時点では、市も「保存にかかる費用や利便性、市民感情などを総合的に判断し、本年度中に存廃に着いて結論を出したい。」と態度を保留している。同年12月に広島県被団協(佐久間理事長)などの市民団体が、広島市に庁舎保存を陳情した際には、市は補修費が高額(13億円)であることなどを理由に、保存に消極的な態度を表明している。翌年1月25日に、広島市長は、本庁舎は取り壊し、玄関石段など被爆の傷跡を明確に残す部分だけを保存する方針を発表する。これに対して、市民団体は、翌日、「被爆地の市長自らが原爆遺跡の破壊を決めたことは、世界の反核・平和の世論に水をさし、市の基本方針である“被爆の実相の普及”に矛盾する」との抗議文を提出している。さらに、2月28日には、市議会で、自民党議員が市側に再考を求めている。このような声を受けて、市は、庁舎の正面玄関石段などの部分的保存を検討し、5月には庁舎の一部を被爆遺跡として全国の平和団体・学校などに寄贈することを発表する。この時には、 すでに庁舎の9月取り壊しが決定されている。県被団協などは5月20日に、3回目の庁舎保存の申し入れをする。
6月には、市議会の「旧庁舎検討協議会」が、①正面玄関の石段・敷石を残す(経費3800万円)、②石段と地下室の一部を残す(同1億1800万円)、③一階部分を縮小して保存する(9300万円)の3案を提示した。8月に、結局②案の採用を決定し、10月には、庁舎の解体工事が開始される。ところで、市が、5月に庁舎の一部譲渡を発表して以来、全国の小中学校・自治体などから申し入れがあり、平和学習教材や平和の碑建設に利用されることになった。翌年1986年2月までには、約30件の申し込みが寄せられ、被爆都市の庁舎への全国的な関心の高さを示している。
このように、市役所庁舎は、結局取り壊されてしまった訳である。これは、市側が、「原爆遺跡」としてより庁舎としての機能を優先させた結果であるが、この他にも市民団体などによる保存運動がドームの時ほど盛り上がらなかったことが指摘される。庁舎保存を申し入れたのは県被団協などの限られた団体で、ドームの場合のような禁・協・保守団体の大同団結は見られなかった。また、市が本庁舎の取り壊しを決定した1985年1月から取り壊し工事の開始される10月までに中国・朝日・毎日・読売各紙に寄せられた庁舎保存を求める投書は1件のみであったことは、市民の関心の低さをうかがわせる(「広島市本庁舎永久保存を望む」1.29中国)。
市庁舎取り壊しに関しては、逆に、市側の対応に目新しいものがあった。調査の石畳などの寄贈呼び掛けである。北海道から九州まで約30件の申し込みがあり、兵庫県美方郡で、「夢千代日記」の被爆二世夢千代像の台座、千葉県八千代・野田両市、東京都中野区の平和記念碑などの他、平和教育教材・展示資料として譲渡された。市の関係者は、「反核を願う動きが広がっているあかし」とコメントしている。
市庁舎は、謂わば市の「表玄関」である。広島市を訪れる内外の政治家・要人を迎えて、その表玄関に「原爆遺跡」を配することは、市が発する平和への提言を単なる美辞麗句で終わらさず、その影響力を高めた筈である。また、外来者だけでなく、被爆の記憶が年々薄らいでいく我々広島市民に対してもその存在は重い警鐘となり得たのではないだろうか。保存に多額の費用を要するとの理由で庁舎を撤去したのは正しい選択だったのだろうか。保存に要する費用13億円は、85年に開館した広島市郷土資料館改修費と同額である。政令指定都市広島にとってその額は無理な額であったのだろうか。被爆40周年だった1985年に、市民の間に庁舎保存についての論議がいま一つ盛り上がらなかったことが悔やまれる。

(「原爆遺跡」の転用-旧陸軍糧抹支廠・旧広島地方気象台・日銀広島支店)
次に、「原爆遺跡」を改修し、転用した例をみていく。
広島市は、82年9月に、旧陸軍糧抹支廠を改修し、郷土資料館として保存することを決定する。同支廠は明治44年の建物で、れんが造りの外壁をそのまま残し、市重要文化財にも指定されている。85年5月には、江戸以降の歴史・生活資料など約300点を展示して開館した。建設費は約13億円であった。
広島地方気象台は、1987年の移転が決定され、「江波地区社会福祉協議会」・「中区の文化を考える会」が、1985年に「平和学習ができる博物館施設として、市が跡地を取得して整備してほしい。」と、市に陳情した。市は、これを受けて、「広島市博物館資料調査収集検討委員会」で検討を開始する。同委員会の広島大工学部鈴木充教授は、「被爆の証人として極めて貴重だ」と発言している。87年1月には「気象資料館」として保存されることが決定され、1990年に、開館している。
これらは、被爆建物を補修し、「資料館」に転用した例であるが、いずれも「原爆遺跡」としての意義を特に強調している訳ではない。また、展示内容も、それぞれ郷土の歴史資料や気象に関する資料と、直接原爆をテーマにしたものではない。(但し、気象資料館の一室は、被爆の被害をそのまま残し、平和学習用として利用されている。)他都市には見られない貴重な被爆建物を再生したのだから、その意義を際立たせる工夫がなされてもよいのではないだろうか。例えば、日本銀行広島支店の場合である。前出の「中区文化を考える会」は、88年10月、同支店の保存を求めると同時に峠三吉などの原爆文学を中心にした文学館としての利用を提唱している。これに対して、日銀は、「跡地は売る方針」としながらも、「市民らの署名運動が起これば県や市と相談しなくてはならないだろう」との見解を表明している。もし、これが実現すれば、「原爆遺跡」を再生・利用した初の原爆文学を中心にした資料の展示館として、内外の注目を集めることになるだろう。これは、遺跡の保存という観点からだけでなく、原爆をテーマにした文学・演劇・映画・絵画などの芸術分野にとっても重要な課題である。 被爆以来、我々は、原爆をテーマにした創作活動から多くの成果を得ている。峠三吉・井伏鱒二・原民喜らによる文学作品、「原爆の子」・「はだしのゲン」・「黒い雨」などの映画、平山郁夫・増田勉・丸木位里・俊らの絵画、東松照明・福島菊次郎らの写真、細川俊夫・芥川也寸志らの音楽作品など、枚挙に暇がない。さらに、毎年8月6日を中心に放送される原爆番組も数多い。このように分野は様々だが、一貫して原爆をテーマにした作品群がある。「原爆遺跡」とともに、これらの芸術分野の作品の収集・整理・保存なども、我々の責務である。このような多くの作品が、一堂に集められ、展観できるとしたら、その迫力は個々の作品の持つ力を倍加するに違いない。また、それらの作品群の「容れ物」として、日銀広島支店のような「原爆遺跡」が使われるとしたら、それは被爆地ヒロシマが誇り得る「モニュメント」になるに違いない。

(被爆樹木と平和教育)
「原爆遺跡年表」に見られるように、広島市には被爆した樹木が残されている。広島市は、79年に河川改修工事のため、そのうちの1本である太田川左岸堤防の大エノキを切り倒す。しかし、皮肉なことに、それがきっかけとなって基町小学校の生徒らによる別のエノキの保存運動が開始されることになる。同校生徒が世話をしているエノキの前の立て札には、「原爆は罪のないエノキまで見苦しい姿にした きょうまでほんとによく生きてきた 生命の力強さと尊さを知ったかわいそうなエノキ 基町に住む私達はこの木を守っていく義務がある 基町小学校児童会」と記されている。84年には、台風でエノキが倒壊し、台風シーズンを前にせん定を怠っていた市の姿勢に批判の声が起き、市は、遅ればせながら、エノキの保存作業を開始する。折れたエノキの幹の部分は、平和教育教材や研究資料として提供され、寄贈を受けた県高校生ゼミナールはそれらを全国6カ所の平和施設に送付する。また、修学旅行で来広した大阪などの小学生らは、このエノキをめぐって基町小学校生徒と交流を続けている。
倉掛小学校では、同校庭に一時移植されていた市役所の被爆桜を植え戻す際には、同校生徒らの要望で、接き木した桜の“二世”を贈っている。同小学校でも、木の根元に被爆の由来を書いた立て札を立て、平和教育の教材として活用されている。88年には、同小学校で、初めて“二世”の桜の花が咲いたことが報道されている。
平和記念公園に移植されていた被爆アオギリは、被爆の語り部沼田鈴子らによって、修学旅行生らに感銘を与えてきたが、87年には木が弱り始め、市は、植物公園で“二世”作りを開始している。88年7月には、二世アオギリの誕生が確認され、市は修学旅行生らに苗木を贈ることを計画中である。
このように、被爆樹木は平和教育に活用され、広島は勿論、広島を訪れる全国の修学旅行生が平和に着いて考えるきっかけとなっている。しかし、先の基町のエノキも、89年2月には枯死が確認されるなど、その数はだんだんと減っていくことが予想される。また、被爆樹木であることが知られていなかったり、個人の所有の樹木もあるため、保護されていない場合もある。行政による被爆樹木の総点検と、樹木の保護・二世作りなどがなされる必要がある。