ubuki のすべての投稿

平和記念資料館メルマガ第98号(2011/ 9/ 1)

 

平和記念資料館メルマガ第98号(2011/ 9/ 1

最近、研究過程で作成した過去の資料を整理中、「広島大学原医研新聞切抜きの分類別枚数(1975~81年分)」とのタイトルのデジタルデータを見つけた。そして二つのことを思い出した。

その一つは、私の提案が原因で、「原発」関係の記事の収集が1982年から取りやめとなったことである。1975~81年分の切り抜き枚数総計は、12507枚、うち「核軍事」(3221枚)と「核平和利用」(3083枚)に分類されている枚数の合計は6304枚で全体のほぼ半数を占めている。原爆放射能医学研究所では、原爆被害に関する資料を収集対象としていたので、私には、限りある予算・人員を考えれば、この二つの分類に属する記事収集を中止するのはやむを得ないと主張した。

もう一つは、広島の眼科医・杉本茂憲先生(故人)との出会いである。チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)から2ヶ月あまり後に先生が原医研に来所、この事故関連の新聞記事の閲覧を希望された。要望された資料は収集対象としていないことを伝えると、非常に残念がられた。そして、ヒロシマの蓄積をこの被災者に生かすことはヒロシマの医師の使命と力説されたのである。被爆者医療に情熱を注ぐと同時に、世界にも目を向ける医師の存在に直接触れる ことのできた貴重な体験であった。

       元広島大学原爆放射能医学研究所 宇吹 暁(うぶき さとる)

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

1978.9.14 於YMCA

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

(佐々木)東京に行っている広島の撮影分は、入れるというより記録に残しておくだけにしないと。

(松重)それらを入れないと、集大成にならないのではないか。ほとんど出版されているのではないか。

(佐々木)出版物掲載分も記録として残してはどうか。木村さんのは(大和人絹内撮影)ほとんど東京へ行っているのではないか。それを入れるとなると、いろいろ問題が出てくる。個人と写したものと、軍や警察が写したものを一緒にするとトラブルが起きはしないか。

(木村)主人も死んでいるし、撮影を指示した医師も死んでいて、当時のことがわからなくなっている。当時の看護婦さんなどは生きている。

(佐々木)行動記録が今は一番大切ではないか。今後写真が出てきた場合、推定の根拠になる。死なれた人のは、もうわからなくなってしまう。6×6で何枚、キャビネで何枚などという記録が大事。

川本さんの写真――N.G.ピンボケなどのネガが残っている。最初写したものは、米軍が全部持って帰った。それではもう一度撮れとの警察の指示で写したものが残っている。

大和人絹の中には相原さんは行っていない。日赤と逓信病院のみ。大和人絹の中は木村さんのものだけで済ましている。軍と警察のものだけがわからない。

(尾糠)憲兵隊に提出。ネガを提出したかどうかわからない。

(佐々木)川本さんも尾糠さんと同じコースを歩いている。

(尾糠)終戦後すべての写真を焼いた。写真班の横に穴を掘ってうめた。

(佐々木)東京空襲のも警視庁のものだけ残っている。東京のもの、ライカで30本ぐらい写している。

(松重)川本さんの写真、現像ミスも含めれば4~50枚残っているのでは。見たものだけでもそれくらいある。

(佐々木)

(松重)出版物のも写したものにまちがいなければ、複写してでも残してはどうか。

(佐々木)それはいいが、あいまいなものまで加えると目録の価値がなくなる。木村さんは自分の責任でとったもの以外は、自分で写したものとは言われなかった。軍と警察以外のものは、ほぼ検討がつく。

(松重)今日来ておられない人のネガ、枚数の確認と行動記録をつくることが必要。

(川原)6日は罹災者へ食料をもていったと言っていた。7日から写したものと思われる。軍人と一緒に巡ったそうだ。

(木村)宇品が解散になるまで、やめさせてもらえなかった。

(佐々木)9月15日頃までと聞いた。

(川原)相原さんが(調べるため)問い合わせた件についてもすべて返事を主人の代理で書いた思えがある。あの手紙が借りれれば書けると思うんだが。

(佐々木)相原さんがどこかに出すつもりがなければ、借りれると思うが。

川原さんが我々にもっと心を開いてくれたらなあ。

(川原)あの頃は市役所とのいきちがいがあったので、何もしゃべらなくなった。

(佐々木)相原さんは、S44、ぼくが東京へ行くまでは何も知らなかった。

(入室)(山本よしえ)中国新聞写真部に松重君と一緒にいた。

(佐々木)川原さんがついて行ったのは憲兵隊の人と一緒だったと言っていた。

(尾糠)私も憲兵隊と一緒に行った。

(川原)次の日(終戦日)行かれないからと憲兵隊の人にカメラを貸したら、もう返してもらえなくなった。

(佐々木)江波へも行っている。どうやって行ったのか、宇品から船で行ったのかも知れない。

(川原)楠木を写したものは、ゆがんだので写し直した。ゆがんだものが相原さんのところにあり、まっすぐなったのが残っている。

(松重)藤井さんは撮影しているか。

(川原)藤井さんは出ていないと聞いているが、会って話した時には、自分も出たと言っておられた。

(松重)来年どうしても出版しなければならないということはないが、みんないつ死ぬかわからないから早くしておきたい。

(深田)林(タクマ)さんは、自分のは大したことは何(ママ)から、と言っておられたが、早く行っていないと、もう高齢だから。

(松重)川本さんのは、息子が私に任せると言っているが、足どりをまとめておかなくては。

(佐々木)息子さんではわからないのではないか。私も警察関係の人々にずい分聞いたがわからなくなった。

(松重)いよいよ本職の新聞記者にやってもらわなくてはどうにもならないのではないか。今、原災研は150~60万ある。

(岸田)キャビネで揃えたらどうか。費用の点は自分でやっておくことにし、やれない人は私のところでもやるから。

(佐々木)36mmはベタ焼きの方がよい。

(岸田)虫目がねで見るようなですよ。

(山本)出版するのなら写真のサイズを考えておかないと。

中国新聞屋上から、同僚(谷川君)と一緒に移した。合計4枚出てきた。あとは整理してみないとわからない。

(佐々木)わかるものは、もう作業しましょうや。

(川原)当時のことは何も知らないから、私は遠慮さしてください。

(佐々木)尾糠さんは川原さんの行動を知っていないか。

(尾糠)わからない。写真を見ればわかるものがある。

(佐々木)藤井さんが元気な時聞いたら、現像焼付みな別々の人間がやったのだから、だれが写したかわかりはしないよと言っておられた。それがほんとのことだろうと思う。

(松重)キャビネに統一して。

(佐々木)35mmもか。

(松重)そうだ。

(山本)(岸田)利用にはキャビネが良い。

(松重)カード添付写真はキャビネ版とする。行動記録はいつにするか。

(岸田)11月末までにやったらどうか。

(松重)行動記録、11月末までに〆切ったらどうか。

(松重)<ネガ再製について>

市平和文化センターから手紙。田中にやらせるからオリジナルネガを貸して欲しいとの要請があった。それについての私案をつくった。8・6前に依頼があった。

(岸田)<貸出しの場合撮影者の同意をうる>は個人ではなく撮影者の会にしたらどうか。

(山本)撮影者の会を通してやったらどうか。

(岸田)撮影者の会としての権威をもたなくては。

(佐々木)個人で協力しない人もいる。それをどう考えるか。職員が個人でやって、充分責任をもっていない。

(深田)島本

(川原)〃

(入室)(黒石)

(岸田)佐々木さんは佐々木さんの意志ですればよい。

(松重)字句については、また考えてみる。

(佐々木)出版などで依頼があった場合どうか。

(岸田)個人へ来たら、撮影者の会へ連絡することにする。代表者・会則をつくる必要がある。

(松重)原爆写真は公共性が強いから、金銭面は慎重でなくてはならぬ。文化センターは永久保存用ネガと貸出用ネガをつくろうとしている。

(佐々木)文化センターは、いる写真といらない写真を別けようとしている。公文書館は全部を保存しようとしている。

(松重)文化センターは、貸出用ネガがあれば良い。

(松重 三)借りに来たが(キャビネ)何のあいさつもない。

(山本)原稿なら原稿料がでるのだから写真に対しても謝礼があって当然。

(松重)これは森本タイジさんの写真です。

(佐々木)もうこれで集まって話すよりも、あとは通信でやったらどうか。

(黒石)会費をとったらどうか。

(佐々木)1000円づつ集めたらどうか。2000円。

            次回11月末までに通信でやる。

(川原)記録の会の写真は返ってくるか。

(松重)あれは言いますよ。

            15:35 終了

 

 

被爆問題国際シンポジウム広島準備委員会第1回社会科学委員会(広島)議事録(文責 宇吹)

第1回社会科学委員会(広島)議事録(文責 宇吹)
(被爆問題国際シンポジウム広島準備委員会)

第1回社会科学委員会(広島)議事録
1977.4.30 午後1:30~ 於YMCA
[出席者]宇吹暁、大西典茂、北西允、山本鎮雄、湯崎稔
議題
1. 日本準備委主催 第1回・第2回社会科学委員会の報告
湯崎世話人より概要の報告、内容は別添資料のとおり
2.「総合報告書」のItemsの検討
各委員に予め『市長国連レポート』を第0次案とし、これに関する修正・加筆の意見を送付してもらうよう事務局より依頼してあったが、寄せられた意見がなかったので、出席者で3月9日国際準備会に提出されたItemsをもとに討論をおこなった。その大要はつぎのとおりである。
作業文書Ⅲ(社会科学)
1. アプローチと原爆被害の全体像
2. 原爆投下をめぐる政治的諸問題
3. 原爆による社会の破壊
4. 原爆による生活の破壊
4-1家族の破壊
4-2労働力の損壊
4-3病気と貧困の悪循環
5. 原爆による精神的崩壊
6. 被爆者の運動
〇2.はどういう意図か。項目の中で2.が異質な感じがする。6.と一緒に論じた方がよいのではないか。
〇被害の実態にしぼってはどうか。政治的諸問題を扱うとすれば、さまざまな解釈があるので慎重を要する。報告書としては、2.の項目を立てない方がよい。
〇外国人被爆者の問題もとりあげるべきだ。
〇4.の項目内容は個人レベルの問題という感じが強いが、これが3.とどう結びつくのか。
〇これを機会に、広島における被爆者の実態を示す諸資料を集めたいので関係者をあげて欲しい。
<名前のあがった関係機関・個人>
市役所労政課、原対協、吉田治平、田中一郎、相原和光、温品道義、藤居平一、山口夕[ママ]子、中野清一
3.その他
〇湯崎世話人より、第3回社会科学委員会(東京)への出席要請および生活史調査(広島)の世話人決定の要請があったが、未定。
<文責 宇吹>

公的機関・団体の原爆資料(非医学的資料)

公的機関・団体の原爆資料(非医学的資料)
原爆資料の所蔵機関と主な資料
1992年2月17日 広島大学原医研 宇吹 暁
これは、広島県総務部県史編さん室・広島県戦災史編集委員会・広島大学原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センタ-の業務の中で、存在が確認された資料の目録である。調査の期間は、約20年間にわたるので、所蔵場所に変更のある資料が多くあるものと推定される。
広島市内
広島大学原爆放射能医学研究所
志水清資料
原医研2代所長の旧蔵資料。
久保良敏資料
元広島大学教授の原爆被害者の心理学的影響に関する研究資料(調査表など)を含む。
原爆爆心地復元関係資料
地図・調査票・聞き取りテープなど。
原爆原爆医療審議会資料(部外秘)
原医研籍の審議会委員より寄贈を受けたもの。
米国陸軍病理学研究所返還資料(写真)
1973年5月返還。被爆直後の原爆被災写真3973件(医学関係も含む)。
原爆文献
原爆被災記録・体験記・手記を中心とする約9,000件(単行本6,000冊、逐次刊行物7,000冊)。所蔵目録を3冊発行。
新聞切抜き
1967年以降の原爆被爆関係記事を中心とした約12万件。切抜き対象は、1967~73年は主に中国新聞、1974年以降は、中国・朝日・毎日・読売・長崎の5紙。
平和会館資料(複製)
文書綴55件約3,900点、一点資料1 ,300件。
渡辺漸所蔵資料(複製)
原医研初代所長の論文別冊のほか「文部省研究報告集録」・「国連科学委員会報告」を含む約160点。
1981年12月借用。
陸軍軍医学校など『原子爆弾ニ依ル広島戦災医学的調査報告』
山科清より寄贈。
広島地方気象台
当番日誌(昭和20年)
放射線影響研究所
MEDICAL EFFECTS OF ATOMIC BOMBS
合同調査団の調査報告書。
広島県衛生部公衆衛生課
原爆手帳交付申請書綴(昭和32~45年)約8,700人分。
広島県立文書館
原爆関係資料(複製)
『広島県史原爆資料編』(1972年)、『原爆三十年』(1976年)、『広島県戦災史』(1988年)編さんのため収集したもの。広島県民生部援護課
傷病恩給(援護課)
紙箱29冊。「原爆死軍人」、「病床日誌」などの文書を含む。
動員学徒死没者名簿(昭和27年12月)
職域義勇隊死没者名簿
地域義勇隊死没者名簿
広島県警察本部刑事部捜査一課
原爆死亡者イロハ名簿(広島東警察署)
広島県企画部統計課
昭和35年分国勢調査(付広島県長崎県原爆被爆者実態調査翌年繰越分)
広島県議会図書室
広島県議会会議録
広島市衛生局原爆被害対策部
原爆手帳交付申請書綴(昭和32~46年)
約11万8,000点。
広島市立公文書館
都築正男資料
東京帝国大学医学部教授の旧蔵資料。資料の概要は『広島新史資料編Ⅰ都築資料』で知ることができる。
広島市の行政資料および合併町村役場文書
基本的資料は『広島新史』編集に利用された。
広島市秘書室国際交流課
諸外国書簡綴(広島平和協会)
平和宣言に対する諸外国からの返書
広島市平和記念資料館
呉鎮守府調査団資料(神津幸直旧蔵資料
原子爆弾による人的被害及び1か年後の状況調査綴(調査課)
被爆による建物被害状況等調査綴
中国軍管区軍医部衛生速報
広島市立中央図書館
原爆文献
『広島市立図書館蔵広島資料目録』(1979年)。
広島平和文化センタ-
原子爆弾に依る被害状況調査一件(調査課)
原爆関係資料提供依頼(昭和23年1月)についての回答
58の事業所・学校からの回答。
米国戦略爆撃調査団収集資料(複製)
罹災者名簿類
85冊34,703人分。
証言ビデオ
1985年度より毎年50人づつ収録。
原爆文献
『広島平和文化センタ-図書室蔵書目録』(1985年)。
広島原爆障害対策協議会
川田兼三郎文書
原爆投下当時広島県属警部補として県衛生課に勤務していた川田の作成した資料。
新聞切抜き
1950年から1985年の原爆被爆関係記事28,473件。
広島市立広島舟入高等学校
昭和20年8月6日罹災関係経過日誌
似島学園
学園日誌(昭和21年8月26日~)
修道高等学校
昭和20年8月原爆被災記録参考書類
安田女子高等学校
原爆死没者名簿
比治山女子高等学校
教務日誌(昭和20年)
広島県内
廿日市市
戦没者遺族名簿
廿日市市(宮内公民館)
罹災者収容名簿
大竹市
義勇隊学徒隊関係綴
大竹市(玖波支所)
戦災関係参考一件(「集団罹災者名簿」などを含む綴)
呉市
原爆被害者実態調査綴(教育委員会社会教育課 昭和30年)
呉市(郷原支所)
戦災一件(昭和20年)
呉市(警固屋支所
特設警備隊員名簿(昭和20年)
尾道市
原爆被爆者手帳交付台帳
尾道市(医師会
救援医療班編成表
尾道市(福祉事務所)
被爆手帳交付台帳
福山市(山野郷土資料館)
戦没者名簿(山野遺族会  昭和25年)
福山市(福山城)
原爆死没者関係書類綴(昭和27年)
三次市
被爆者調査書綴(被爆者であって手帳の未交付者の調査  昭和43年調査)
庄原市
被爆者健康手帳交付申請書交付台帳
府中市
被爆者健康手帳申請書綴(昭和40年5月~)
府中市(協和村)
原爆被害者実態(昭和30年)
安芸郡熊野町
被爆者健康手帳台帳
安芸郡江田島町
原爆戦死の軍人軍属並びに義勇隊学徒動員女子挺身隊等公務原爆犠牲者名簿
安芸郡坂町
罹災患者名簿
安芸郡倉橋町
原爆被害者台帳
安芸郡府中町
死亡診断書綴
佐伯郡吉和村
原爆手帳交付申請書控(昭和32年7月)
佐伯郡宮島町
被爆者手帳申請書類
佐伯郡佐伯町
広島原爆死者調査票綴
賀茂郡高屋町
罹災者受入控簿
賀茂郡高屋町(造賀支所)
罹災疎開一件
賀茂郡黒瀬町
終戦以降公報綴(下黒瀬村役場)
賀茂郡大和町
戦災者引揚者援護台帳
賀茂郡豊栄町
原爆被災者一件(昭和33年)
山県郡加計町
原爆被害者会文書綴(昭和35年)
山県郡加計町(安野村)
広島戦災者名簿(昭和20年)
山県郡加計町(筒賀村)
疎開復員引揚者・帰郷軍人健康診断票綴(昭和20年)
高田郡高宮町
原爆関係死亡調査
豊田郡豊浜村
戦災者給与金書類綴
豊田郡本郷町(上北方第一公民館)
戦災罹災者一件(昭和20年)
御調郡久井町
戦災者引揚者台帳(昭和21-22年)
御調郡向島町
戦災並外地引揚者名簿
世羅郡甲山町
被爆者健康手帳交付名簿
世羅郡世羅西町
被爆者健康手帳所持者名簿
神石郡三和町
原爆(昭和36-40年)
神石郡豊松村
戦時罹災一件(昭和20年
双三郡布野村
被爆者名簿
比婆郡口和町
被爆者手帳交付関係書類
比婆郡高野町
被爆者関係書類(昭和35-36年)
比婆郡西城町
原爆被爆者一件書類
比婆郡東城町
被爆手帳交付関係書類
国内
国立公文書館
広島市爆撃問題ニ対スル反響ニ就テ(第一報)
厚生省援護局調査課
引揚援護局中国駐在事務所旧蔵資料。「死亡者連名簿」など約260綴。
防衛庁防衛研究所
第二総軍隷下部隊主要職員表
中国軍管内部隊人員調査表(昭和20年10月15日)
第二総軍命令等(昭和20年8月9日~10月10日)
畑俊六「第二総軍終戦記」
佐伯文郎「戦災処理の概要」昭和30年3月
昭和20年8月有末調査団の広島特殊団調査史料
第二総軍・第二復員司令部復員報告綴
元船舶参謀篠原優「暁部隊始末記」昭和36年8月
長岡半太郎博士「原子核分裂を兵器に利用する批判」昭和19年12月
外務省外交資料館
米軍捕虜名簿
中国軍管区司令部が作成したもので、原爆に被爆した米軍捕虜の名前を含む。
国立国会図書館
GHQ/SCAP文書(マイクロフィッシュ)   原爆検閲関係の資料を含む。
米国戦略爆撃調査団報告書(マイクロフィルム)
経済安定本部戦争被害調査資料
経済安定本部企画部調査課「戦争被害調査資料集  」
原子爆弾被害調査基礎資料
広島・長崎に於ける原子爆弾に依る物的被害算定方法(原稿)
広島市原爆被害図
長崎市原爆被害図
広島・長崎に於ける原子爆弾に依る物的被害(原稿)
仁科記念文庫
仁科芳雄ノート-原子爆弾-
小川新
草津国民義勇隊資料
米国議会図書館

参考資料 戦災者名簿一覧
これは、市町村役場資料・厚生省資料・市町村史などにより、所在の確認できた戦災者に関する名簿類の一覧である。
名簿は、昭和二〇年当時の市町村別と軍関係(部隊別)に大別して収録した。
各名簿は、作成者・「名簿名」・作成時・(収録史誌)の順に記載した。作成者に、「広島一陸」・「広島二陸」とあるのは、それぞれ「広島第一陸軍病院」・「広島第二陸軍病院」の略である。
福山市
(福山市)厚生課「戦災ニ関スル綴」昭和二〇年八月八日(「福山市史下巻」)
(福山市)「死没者名簿」  (「続福山空襲の記録」)
安芸郡
戸坂村役場「戦災者調査票」昭和二二年九月現在
(戸坂村)「戦災死没者」          (「戸坂町誌」)
広島一陸戸坂分院「死亡者連名簿」
広島一陸戸坂分院「入院患者名簿」
広島一陸戸坂分院「遺骨交付名簿」
(温品村)「死亡診断書綴」
(府中町)「戦没者名簿」(「安芸府中町史 補遺編」)
(府中町)「町内会別原爆死没者氏名一覧表」(「安芸府中町史 補遺編」)
(府中町)「戦死者調」
(府中町)「未亡人調査表」
府中町役場「死亡診断書綴」昭和二〇年(「安芸府中町史通史編」)
瀬野村役場「戦時災害(水害)並疎開一件」昭和二〇年
(瀬野村)「復員並援護一件」昭和二一年起
瀬野村役場「復員軍人・戦災者・外地引揚者名簿綴」昭和二一年七月現在
(瀬野村)「遺族名簿」
(瀬野村)「陸軍・海軍復員者調査表」(「瀬野川町史」)
昭和村役場「火葬認可稟議簿」昭和二〇年
(坂村)「罹災患者名簿 収容所小屋浦」昭和二〇年八月
(坂村)「罹災患者名簿 収容所坂国民学校」昭和二〇年八月一二日調
(坂村)「患者名簿 横浜収容所」八月一一日収容
(坂村)「収容患者名簿 横浜ノ部」八月一一日
坂村役場「罹災者名簿」昭和二〇年
坂村役場「遺骨名簿」昭和二〇年一一月
坂村役場「戦災給与金関係綴」昭和二〇年一一月起
(坂村)「原爆関係戦没者調査票」昭和二七年一月調
坂町役場「原爆患者死亡者関係簿」昭和二七年七月
佐伯郡
河内村役場「復員者並引揚者名簿」昭和二二年
八幡村「罹災者収容名簿」
(観音村)村長「戦災患者名簿」昭和二〇年八月(「五日市町史(中巻)」)
廿日市町役場「罹災者名簿」
(廿日市町)「戦没軍人・傷痍軍人関係書類」昭和二〇年~
(廿日市)「戦没者遺族調査簿」  (「廿日市町史」)
平良村「死亡診断書綴」
原村「広島原爆調査一件」
宮内村援護係「戦災者給与金交付簿」((宮内村)「戦災一件」昭和二〇~所収)
宮内村「埋火葬送届綴」昭和二〇年
宮内村「復員者戦災者名簿」昭和二二年
宮内村「戦没者名簿」
宮内村銃後奉公会「戦死者名簿」昭和一九年作成
宮内村「戦没軍人・軍人・公務員名簿」昭和二六年
地御前村「罹災者名簿 広島市観音町」
地御前村「罹災者名簿」昭和二〇年八月一四日現在
(地御前村)「海外引揚者戦災者調査票」昭和二二年七月一八日現在
地御前村役場「戦時災害見舞金弔慰金支給原簿」昭和二〇年一〇月二三日
地御前村役場「戦災罹災者台帳」
(地御前村)「戦傷病死者・出征軍人・傷痍軍人遺家族名簿」
地御前村「見舞金受領書」
地御前村役場「広島市戦災死者遺骨交付不能者名簿」昭和二一年七月三一日調
地御前村役場「戦時災害第二十二条第二十三条申請者簿」昭和二〇年一〇月二三日
(地御前村)「戦災者引揚者軍関係者等ニ関スル調査票」
(地御前村役場「援護関係書類」昭和二一年中所収)
(地御前村)「傷痍軍人名簿・軍人遺族名簿・未帰還者軍人調査表」
(地御前村)「戦災者収容名簿」
(大竹市)「戦没者遺族台帳」(「大竹市史史料編第三巻」)
(大竹警察署)「大竹警察署管内収容患者名簿 玖波国民学校収容患者の分」
玖波町役場「戦没者氏名簿」昭和二〇年八月
玖波町役場「広島市戦災ニ因ル死亡者」昭和二〇年八月六日
玖波町役場「義勇隊戦死者追弔会一件」昭和二〇年一〇月三日
大竹警察署「集団罹災者名簿 小方国民学校」八月一一日受入
大竹警察署「集団罹災者名簿 大竹国民学校」八月一一日受入
大竹警察署「集団罹災者名簿 大竹町ノ部」八月一二日受入
大竹警察署「集団罹災者名簿 木野村ノ部」八月一一日受入
安佐郡
(祇園町)「戦禍にたおれた人」(「祇園町誌」)
川内村役場「変死者検視調書」昭和二〇年八月
川内村役場「戦災死者名簿」昭和二〇年八月六日
広島県地域国民義勇隊川内村義勇戦闘隊「国民義勇隊員として出動中原子爆弾により負傷し又は疾病にかかりこれにより死亡した者の調」
八木村・緑井役場「変死者検視調書」昭和二〇年度(「佐東町史」)
(戸山村)「戦災負傷者名簿」(「沼田住民手記」)
佐伯郡久地村「復員者名簿」
(久地村)世話部係「復員者人名簿」昭和二一年三月調
広島一陸久地病棟「死亡者連名簿」
(鈴張村)「陸軍海軍復員者調査票」昭和一〇~二〇年
鈴張村「戦死者戦病者名簿」
鈴張村役場「引揚者調」
広島一陸鈴張病棟「死亡者連名簿」
広島一陸鈴張病棟「遺骨引渡簿」
安佐郡飯室村「復員軍人軍属名簿」昭和二一年一月末現在調(「安佐町史」)
広島一陸飯室分院「死亡者連名簿」
広島一陸飯室分院「入院患者名簿」
広島一陸飯室分院「遺骨交付名簿」
広島一陸飯室分院「遺骨引渡簿」
広島一陸飯室分院「遺留品引渡簿」
広島一陸亀山病棟「死亡者連名簿」
広島一陸亀山分院「遺骨交付名簿」
広島一陸亀山分院「遺骨受領証綴」
広島一陸亀山分院「遺物品受領証綴」
可部町大林「戦没者名簿」昭和三〇年四月一五日
佐伯郡大林村役場「疎開者戦災者名簿」昭和二〇年一二月一四日現在
安佐郡大林村役場「戦災者名簿」昭和二〇年八月起
大林村役場「罹災者名簿」昭和二〇年八月六日
(大林村)「戦災者名簿」昭和二一年度
広島一陸大林分病棟「死亡者連名簿」
広島一陸大林分院「死亡証書控綴」
広島一陸大林分院「入院患者名簿」
広島一陸大林分院「遺骨交付名簿」
広島一陸大林分院「遺留品授受簿」
広島一陸三入病棟「死亡者連名簿」
広島一陸三入病棟「入院患者名簿」
(可部町)「過去帳記載の原爆死没者数」(「被爆四十年追悼の記」)
広島一陸可部分院「死亡者連名簿」
広島一陸可部分院「戦災患者名簿」
狩小川村「罹災者受入状況報告綴」(「高陽町史」)
山県郡
(加計町)「戦死病没公報綴」
加計町役場「戦死戦没者名簿」
加計町役場「戦災者引揚者名簿台帳」
加計町役場「戦災者引揚民名簿及配給台帳 新転入の部」
(加計町)「戦争犠牲者名簿」(「加計町史史料下巻」)
殿賀村役場「傷痍軍人台帳」
殿賀国保組合「疎開復員引揚者名簿・帰郷軍人健康診断票綴」昭和二〇年
(「加計町史下巻」)
広島一陸筒賀分院「死亡者連名簿」
広島一陸筒賀分院「入院患者名簿」
広島一陸戸河内分院「入院患者名簿」
(八幡村)「従軍者名簿」(「八幡村史」)
(雄鹿原村)「戦争犠牲者連名簿」(「雄鹿原村史再版」)
(中野村)「日支事変並に大東亜戦争従軍者」(「中野村史」)
(大朝町)「戦没者名簿」        (「大朝町史下巻」)
(安野村)「招魂祭祭神並ニ遺族名簿」昭和一七年四月七日
(安野村「招魂祭一件」昭和九年所収)
安野村役場「支那事変戦病没傷痍疾病者一件」自昭和一二年度
安野村「戦没者遺族台帳」昭和一四年
(安野村)「戦災見舞金等要支給報告(昭和二十年八月分)」
(安野村「戦時災害保護一件」昭和二〇年)
安野村「広島戦災者名簿 昭和二十年八月六日戦災」
山県郡安野村役場「未帰還者名簿」
恩賜財団同胞援護会安野村分会「給与台帳」昭和二一年
高田郡
(刈田村)「刈田地区大東亜戦争従軍者」(「八千代町郷土誌」)
(刈田村)「戦没者氏名」(「平和の礎」)
(根野村)「大東亜戦争従軍者」(「八千代町郷土誌」)
(根野村)「戦没者氏名」(「平和の礎」)
(横田村・本村・北村・生桑村)「軍人軍属殉国者一覧」(「美土里の歴史と伝説」)
(川根村・来原村・船佐村)「戦没者名簿」(「高宮町史」)
(甲立町・小田村)「戦没者名簿」(「甲田町誌」)
広島二陸向原分院「死亡者連名簿」
広島二陸向原分院「入院患者名簿」
広島二陸向原分院「入院患者イロハ名簿」
広島二陸三田分院「死亡者連名簿」
賀茂郡
(原村)「(戦没者名簿)」(「原村史上巻」)
下黒瀬村役場「公報綴」終戦以降
下黒瀬村「各種名簿綴」
(下黒瀬村)大倫遺家族会「各戦役戦病死者名簿」
郷原村役場「戦災罹災者名簿」昭和二〇年一一月調
郷原村役場「疎開者名簿」
更正会郷原分会「海外引揚者名簿」昭和二三年四月
竹原町役場兵時課「皇后陛下御下賜品・戦死病没者調・軍人遺族記章授与願報告一件綴」 昭和一七年一月~
(西高屋村)「罹災者・引揚者名簿」
豊田郡
(豊栄村)「原爆死没者(百六名)」(「あ〃豊栄百六の叫び」)
(椹梨村・豊田村・大草村)「戦病没者」(「大和町誌」)
(椹梨村・豊田村・大草村)「応召者」(「大和町誌」)
(豊浜村)帝国在郷軍人会分会「戦病没者並遺族名簿」
豊浜村役場「傷痍軍人台帳」
豊浜村役場「戦災者給与金書類綴」昭和二〇年八月起
豊浜村役場「戦災者名簿」昭和二〇年一〇月一日調
豊浜村役場「復員者名簿」
(豊浜村)「戦没者名簿」
(豊浜村)「昭和二十年十月一日村葬執行英霊一覧表」
(豊浜村)「昭和二十年十二月二十七日村葬執行英霊一覧表」
(豊浜村役場「戦没者関係書類綴」昭和二一年所収)
(豊浜村)「昭和二十一年十月八日村葬執行英霊一覧表」
(豊浜村役場「戦死者関係書類綴」昭和二一年所収)
御調郡
御調郡久井町役場「応召軍人台帳・復員台帳 元羽和泉関係」
(久井村)援護係「復員台帳」昭和二一年
久井町役場「戦没者調査票」
久井町「戦没者並に遺族名簿」昭和三一年五月
向島西村役場「戦災者並外地引揚者一件」昭和二一年
向島西村役場「戦災者並外地引揚者名簿」
(向島西村)厚生係「海軍関係戦没者名簿」
世羅郡
(上山村)「戦没者」(「三和町誌」)
神田村役場「戦災者・引揚者援護台帳 萩原・福田之部」
神田村役場「戦災者・引揚者援護台帳 下徳良・蔵宗之部」
(神田村)「戦病没者」(「大和町誌」)
(神田村)「応召者」(「大和町誌」)
「岡竹隊・大原隊隊員名簿」(「世羅部隊誌」)
沼隈郡
(瀬戸村)「支那事変功績者調査書」(「福山市史下巻」)
沼隈郡神村長「疎開者調査ノ件報告」(福山税務署長宛)昭和二一年一月二〇日
(神村役場「戦時災害及罹災者関係綴」昭和二〇年四月所収)
(神村)「戦災者引揚者世帯票」 (「福山市史下巻」)
(本郷村)「軍人援護恩賞関係綴」(「福山市史下巻」)
(今津町)「支那事変功績者調査書」(「福山市史下巻」)
(今津町)「兵事綴」(「福山市史下巻」)
(松永町)「戦死者」(「松永町誌」)
(鞆町)「戦死者名簿」(「福山市史下巻」)
芦品郡
(藤尾村・常金丸村・戸手村・新市村・網引村)「明治以降戦没者名簿」(「新市町誌」)
「芦品部隊戦没者名簿」(「閃光は消えず-被爆した芦品部隊と警防団」)
神石郡
「戦病没者」(「神石郡誌続編」)
豊松村銃後奉公会「軍人援護台帳」昭和一五年以降
豊松村役場「死没者関係書綴」昭和一九年~昭和二〇年
豊松村役場「戦災者弔慰見舞金交付調書」
(豊松村役場「戦時罹災一件」昭和二〇年四月所収)
(豊松村役場)「罹災者及引揚者調査書」
(豊松村役場「戦時罹災一件」昭和二〇年四月所収)
豊松村役場「死没者関係書綴」昭和二一年~
豊松村役場「復員軍人・軍属調査書綴」
豊松村役場「戦没者遺族名簿」昭和二七年一〇月一〇日
(豊松村役場「戦没軍人軍属一件綴」昭和二七年度所収)
豊松村役場「戦死病没者・戦争犠牲者名簿」昭和二八年四月二〇日
(豊松村役場「戦没軍人軍属一件綴」昭和二七年度所収)
甲奴郡
(上川村)「戦没者芳名」(「甲奴町郷土誌(第二集上川地区編)」)
(甲奴村)「各戦役戦没者」(「甲奴町郷土誌(第一集甲奴地区編)」)
双三郡
(板木村)「戦没者」(「三和町誌」)
広島二陸三次分院「死亡者連名簿」
広島二陸三次分院「在室患者イロハ名簿」
広島二陸三次分院「病症増進通報録」
広島二陸三次分院「遺骨授受証綴」
「三次分院の犠牲者名簿」(「鎮魂-原爆投下直後の三次における救援活動」)
(三良坂村)「戦没者名簿」(「三良坂町誌」)
「三良坂町原爆死没者名簿」(「百日紅」)
比婆郡
「比婆部隊被爆者(死亡)名簿」(「庄原原爆の記録 第二集」)
広島一陸庄原分院「死亡者連名簿」
広島一陸庄原分院「収容患者名簿」
広島一陸庄原分院「遺骨交付名簿」
広島一陸庄原分院「遺骨授受簿」
広島一陸庄原分院「遺骨受領証綴」
広島一陸庄原分院「患者遺留品授受簿」
広島一陸庄原分院「遺骨遺留品引渡簿」
広島一陸庄原分院「遺留品受領証」
広島二陸東城分院「死亡者連名簿」
広島二陸東城分院「在室患者名簿イロハ」
広島一陸山之内病棟「死亡者連名簿」
広島一陸山之内病棟「収容患者名簿」
広島一陸山之内病棟「入院患者名簿」
広島一陸山之内病棟「遺骨交付名簿」
広島一陸山之内病棟「遺骨授受簿」
広島一陸山之内病棟「患者遺留品授受簿」
広島一陸山之内病棟「遺骨遺留品引渡簿」
広島一陸山之内病棟「遺留品受領証」
「戦没者芳名録 於広島第一陸軍病院庄原分院山内西病棟」(「庄原原爆の記録第二集」)
軍関係(厚生省援護局資料)
第二総軍司令部「戦没者名簿」
第二総軍司令部「死没者ニ関スル綴」
第二総軍司令部「死亡診断書調整資料」
第二総軍司令部「昭和二十年八月六日遺骨遺留品名簿」
第二総軍「人事(恩典)に関する綴」
(第二総軍司令部)「昭和二十年八月六日における第二総軍司令部防衛通信班人名表」
中国軍管区司令部「原子爆弾関係死亡者連名簿」
留守業務班「慰霊祭前ニ於ケル死没者連名簿」
中軍司「慰霊祭後ニ於ケル死没者連名簿」
中国軍管区司令部留守業務班「連隊区別死亡者連名簿」
中国軍管区司令部「死亡者連名簿」
中国軍管区司令部「死亡證言者死亡證書綴」
軍管区司令部「死亡證書」
中国軍管区司令部「功績列次名簿」
留守業務班「死没佐尉官功績ニ関スル綴」
留守業務班「死没准士官下士官功績ニ関スル綴」
留守業務班「死没兵功績ニ関スル綴」
中国軍管区司令部「功績上申者名簿」
中国軍管区司令部「遺骨交付名簿」
中国軍管区司令部「残留遺骨・遺留品・公報未送・弔慰金未払・未済者処理状況」
中国軍管区司令部「遺留品受渡簿」
中国軍管区司令部留守班「中国軍管区各部生死不明者連名簿」
留守業務班「死没者関係雑書綴」
留守業務班「死没者状況報告書」
留守班「死没者恩給証拠書類調整資料」
中国第一〇四部隊「死没者連名簿」
中国第一〇四部隊「戦没者連名簿」
中国第一〇四部隊「戦没者イロハ名簿」
中国軍管区歩兵第一補充隊「戦死(傷)者名簿」
中国第一〇四部隊「健在者・入院者・戦死者・生死不明者名簿綴」
中国軍管区歩兵第一補充隊「佐尉官死没者功績名簿」
中国軍管区歩兵第一補充隊「殊勲者・兵功績列次名簿」
中国軍管区歩兵第一補充隊「功績名簿(甲)」
中国軍管区歩兵第一補充隊「准士官・下士官死没者功績名簿」
中国一〇四・一一一部隊関係「死亡證書」
中国百十部隊「広島連隊区管内生死不明者名簿」
中国一一〇部隊「行方不明者連名簿」
中国第一一一部隊「広島連隊区戦没者名簿」
中国第一一一部隊「連隊区不明戦没者名簿」
広島連隊区司令部中国第一一一部隊「死亡者イロハ名簿」
中国軍管区砲兵補充隊「将校死没者功績上申名簿」
中国一一一部隊「遺留品名簿」
中国第一一四部隊「死没者連名簿」
中国一一四部隊「死没者功績上申スベキ名簿」
中国第一二一部隊「死没者連名簿」
中国第一二一部隊「戦(傷)死者連名簿」
中国軍管区通信補充隊(中国第一二一部隊)「死没者名簿」
中国第一二一部隊「死亡證書」
中国第一三九部隊「死亡者連名簿」
中国第一三九部隊(旧西部十部隊)「戦災死没者及生死不明者名簿」
中国第一三九部隊「戦死者連名簿」
中国第一三九部隊「負傷者連名簿」
中国第一三九部隊「生死不明者連名簿」
中国第四七部隊「原爆戦災者名簿」
中国第二七八四部隊第二百五特設警備工兵隊「死没者連名簿」
中国軍管区第二百五特設警備工兵隊「死没佐尉官功績名簿」
第二〇五特設警備工兵隊(中国第二七八四部隊)「生死不明者連名簿」
中国第七一六一部隊特設警備第二五一大隊「死没者連名簿」
特設警備第二五一大隊「戦災死亡者連名簿」
特設警備第二五一大隊「戦死者(原籍不明分)功績名簿」
中国第三二〇三七部隊(第一特警)「死没者連名簿」
中国第三二〇三八部隊(広島第二特設警備隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五二部隊(賀東部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五二部隊「患者人名簿」
中国第三二〇五三部隊(豊北部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五七部隊(世羅部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇五七部隊「原爆戦災者名簿」
中国第三二〇五九部隊(芦品部隊)「戦災死亡者連名簿」
中国第三二〇六〇部隊(甲神部隊)「死没者連名簿」
中国第三二〇六二部隊(比婆部隊)「戦災死亡者連名簿」
広島第一陸軍病院「死没者名簿」
広島第一陸軍病院「死没者連名簿」
広島一陸江波分院「死亡者連名簿」
広島第一陸軍病院「死亡證書綴」
第一陸軍病院「戦死判任分官・同等待遇者事実・死亡證明書」
第一陸軍病院「事実・死亡證明書綴」
第一陸軍病院「軍属関係死亡證書」
広島第一陸軍病院「死亡證書綴(教育隊関係)」
一陸関係「入院患者名簿」
広島第一陸軍病院「昭和二十年八月六日現在(推定)在院患者名簿」
広島陸軍病院「在院患者名簿」
広島第一陸軍病院本院「在室患者名簿」
広島第一陸軍病院「戦死兵功績列次名簿」
広島第一陸軍病院「戦死准士官・下士官功績列次名簿」
広島第一陸軍病院「戦死佐尉官功績名簿」
広島第一陸軍病院「戦死兵功績名簿」
広島第一陸軍病院「功績名簿」
広島第一陸軍病院「戦死庸人・工員功績名簿」
広島第一陸軍病院「戦死庸人・工員功績列次名簿」
広島第一陸軍病院「戦死判任文官同等待遇功績名簿」
広一陸「功績上申者名簿」
医事科「入院患者・死没者功績資料綴」
広島第一陸軍病院「遺骨受領簿」
広島第一陸軍病院「遺骨授受簿」
広島第一陸軍病院「遺留品授受證綴」
広島第一陸軍病院「教育隊遺留品受領証綴」
一陸教育隊「遺留品送付簿」
広島第一陸軍病院「入院患者職員遺骨名簿」
一陸「遺留品授受證早見表」
広島第一陸軍病院「死没者(生死不明者)書類ニ関スル綴」(広一陸病)医事科「死没者生死不明者ニ関スル書類綴」
一陸「二条報告」
一陸医事科「死没者に関する照会綴」
一陸「死没者名簿調整原稿」
一陸「軍属身分証明書」
広島一陸江波分院「死亡者連名簿」
陸病江波分院「遺骨授受簿」
江波分院「遺骨未交付者名簿」
江波分院「遺骨交付名簿」
江波分院「死体及遺物引渡簿」
(宇品病院)患者係「昭和二十一年地方世話部移管遺骨ニ関スル綴」
広島第一陸軍病院宇品分院「入院患者名簿」
広島第一陸軍病院宇品分院「イロハ患者名簿」
宇品分院「遺骨名簿」
宇品分院「遺骨交付名簿」
広島第一陸軍病院宇品分院「遺留品授受證綴」
赤十字関係分「死亡診断書及証明書綴」
日赤病院「入院患者名簿」
国立広島病院医事科「昭和二十年八月六日以降広島第二陸軍病院勤務原子爆弾ニ依ル死亡者連名簿」
広島第二陸軍病院本院「昭和二十年八月室別(死亡者名簿)職員表」
広島第二陸軍病院「二陸勤務者死亡調査表」
広島第二陸軍病院「昭和二十年八月以降病院職員死亡證書綴」広島第二陸軍病院「昭和二十年八月以降入院患者死亡證書」
広島第二陸軍病院「死亡証書綴(教育隊関係)」
第二陸軍病院「在院患者名簿」
広島第二陸軍病院本部「八月六日本部ニテ収容患者名簿」
広島第二陸軍病院「部隊別患者名簿」
広島第二陸軍病院「部隊別収容患者名簿」
広島第二陸病「遺骨申送書」
広二陸「昭和二十年八月以降空襲ニ於ケル職員・患者被害状況」
赤穂師団司令部「昭和二十年十一月発来翰書類綴」
赤穂第二八三二九部隊「人事ニ関スル綴」
赤穂第二八三三〇部隊「死没者連名簿」
赤穂第二八三三〇部隊「遺骨連名簿」
赤穂第二八三三〇部隊「遺留品名簿」
赤穂第二八三三六部隊「戦死者名簿」
赤穂第二八三三六部隊「負傷者名簿」
赤穂第二八三三六部隊「生死不明者名簿」
赤穂第二八三三六部隊「負傷者名簿」
第二三一師団関係「戦死兵功績列次名簿」
独立混成第百二十四旅団通信隊「戦死兵功績列次名簿」
中部第二八三七四部隊「イロハ名簿」
(広島兵器補給廠)「昭和二十年八月六日現在広島兵器補給廠勤務中隊第一中隊隊員名簿」
船通補「原爆死亡者ニ関スル綴」
船舶通信隊補充隊「死没者名簿」
船舶通信隊補充隊「昭和二十年八月六日在隊者人名録」
世話課「司令部関係処理未済者一覧表綴」
厚生省中部復員連絡局広島支部「昭和二十二年十二月原爆関係死亡者認定票綴」
広島県民生労働部世話課「原爆関係未請求者名簿」

広島県史編さん室の原爆資料調査

広島県史編さん室の原爆資料調査
出典:「広島県史 原爆資料編」(1972年3月31日)
資料調査概要
原爆被災資料という概念は、原爆の何を明らかにするかあるいは原爆をどのように考えるかで異なった意味内容をもち、極めてあいまいであるが、広島県史編さん近代・現代史部会では、オリジナルな文献資料(その時点で作成されたもの、時間の経過により思想的ろ過のされてないもの)に焦点づけて、調査を行うことにした。
調査の対象は、次の五つに大別することができる。
1官公庁・市町村・学校
2調査団関係者
3各種団体
4新聞資料
5被爆者
1官公庁・市町村・学校
広島県は、原爆により、近代・現代史の基本資料ともいうべき県庁文書の大半を失った。その欠を補うため、県史編さん資料調査の過程で、中央官公庁文書と県下の市町村役場の両面から、広般な所在調査を行なってきた。原爆資料について、このような網羅的な調査はこれまでほとんどなされておらず、多数の資料の所在を新たに確認することができた。
中央官庁は、外務省・自治省・防衛庁・厚生省について調査を行なった。外務省は戦後の文書が非公開であり、自治省・防衛庁は、戦前の内務省・陸海軍の文書をほとんど残していなかった。厚生省は、廃止になった引揚援護局広島支部のばく大な文書群を引き継いでいた。
広島県・市については、関係各課、書庫の調査を行なった。県・市ともに、昭和二十年代の文書のほとんどを廃棄処分にしていた。
県予防課・市原爆被爆者対策課は,被爆者が提出した原爆手帳交付申請書を保管しているが(県は広島市外在住被爆者分約八万七千点、市は市内在住被爆者分約十一万八千点)、これには、被災の状況を証明できる資料のある場合には、添付することになっているので、このうち広島県予防課所蔵分について調査を行ない、約三四○点の罹災証明書・診断書など、当時の資料の所在を確認した。
市町村役場文書は、県史編さんの一般的所在調査の過程で軍事関係資料の所在の多くが確認されていたが、原爆資料に焦点づけて徹底を期すため、改めて、県下の全市町村に原爆資料の有無について調査を依頼した。このうち半数近い四七市町村から報告を得ることができ、重要と思われるものについては現地に赴いて、所在と内容を確認した。また、広島市周辺の安芸,安佐・佐伯の三都は、特に重視し、原則として現地調査を行なった。旧坂村(安芸郡)の罹災者収容名簿類、旧大林村・八木村・川内村(安佐郡)の罹災者名簿、変死者検視調書、旧宮内村(佐伯郡)の日誌・罹災者収容諸件などは、この過程で、収集されたものである。
広島市内・周辺町村の学校、寺院が収容所となった場合が多いことは、周知の事実であるが、このうち学校については広島市内と、安芸・安佐・佐伯・高田の四郡の小学校、旧制中・女学校の後身校に、原爆被災資料の所在・救護活動を行なった事実・学校が収容所となった事実の有無の報告を文書で依頼し、必要に応じて現地に赴いた。この中で、原爆被災の記述のある数点の学校日誌を発掘したのをはじめ、次の学校が収容所となったという報告をえた。
県立廿日市高等学校、県立三次高等学校、比治山女子高等学校、鈴峯女子高等学校、
広島市立小河内小学校、同亀山小学校、同大林小学校、同可部小学校、
安芸町立温品小学校、海田町立海田小学校、同東海田小学校、坂町立板小学校、同横浜小学校、同小屋浦小学校(以上安芸郡)、
安古市町立新知小学校、同安小学校、佐東町立川内小学校、同八木小学校、高場町立狩小川小学校、同深川小学校(以上安佐郡)、
吉田町立吉日小学校、甲田町立甲立小学校、向原町立向原小学校、白木町立井原小学校、同高南小学校(以上高田郡)<学校名は現在のもの>
2調査団関係者
被災直後の広島に入った調査団には、呉鎮守府・陸軍々医学校・海軍々医学校・東京帝国大学・京都帝国大学・大阪帝国大学、理化学研究所などがある。また昭和二十年九月に発足した文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会には、わが国自然科学系の学界の総力が結集され、千数百名の研究者が、広島・長崎において調査を行なっている。このうち、軍調査団、および、原爆調査の中心的存在であった理研、東大、京大、阪大に焦点づけて調査を行なった。直接、お会いして当時の状況を聴いたり、書簡、電話などで、資料の有無を確認した調査団関係者の方々は次のとおりである。
陸軍 新妻清一 大橋成一 山科清
海軍 福井信立 神津幸直
理化学研究所 故仁科秀雄(仁科記念文庫) 田島英三 玉木英彦 中山弘美 山崎文男
東大 故都築正男(都築正和)
京大 荒勝文策 木村毅一 清水栄 菊池武彦 脇版行一 清水三郎 故杉山繁輝 故天野重安
阪大 浅田常三郎 尾崎誠之助
九大 篠原健一 石川数雄
日本映画社 加納竜一 相原秀次
3各種団体
被爆体験をもつ団体・被爆者と常に接している団体・被爆体験に基づいた平和運動にたずさわっている団体から、原爆被災の実相・その後の歩み・現在直面している課題について学ぶように努めた。訪問した主な団体は次のとおりである。
広島地方気象台 広島地方貯金局 国鉄中国支社 広島市平和記念資料館 広島市平和文化センター 広鳥市原爆戦災誌編さん室 広島大学原爆放射能医学研究所 広島原爆病院 広島原爆障害対策協議会 広島県医師会 広島市医師会 ABCC 広島逓信病院 原爆資料保存会 原爆被災資料広島研究会 広島ペンクラブ 学問と平和を守る大学人の会 広島折鶴の会 広島子供を守る会 同青年部 広島市立本川小学校 広島県被爆教師の会 広島県原爆被害者団体協議会 原水爆禁止日本協議会 同広島県協議会 小沢綾子 黒田秀俊 村上操 泉谷甫
4新聞資料
原爆の与えた社会的影響を概略的に把握するため、新聞資料を収集した。特に被災直後(昭和二十年内)の報道・調査団の行動とその成果の新聞発表・広島市内の平和への歩みに注目し、これらを年表に活用した。このために関覧した新聞名・所蔵機関は次のとおりである。
新聞名 中国新聞(昭和二十年~昭和四五年)、朝日新聞・毎日新聞・読売報知新聞(昭和二十年八月~十二月)
所蔵機関 広島市立浅野図書館・呉市立図書館・三原市立図書館・国立国会図書館・東京大学新聞研究所・朝日新聞大阪本社・中国新聞社
平和運動については、前記の新聞では十分把握できない面もあるので、各団体の機関紙・誌を参照した。
大原社会問題研究所(新文化・民主日本・ゼンセン)
広島県地域婦人団体連絡協議会(県婦連・県婦協)
今堀誠二(平和の斗士・民族の星・広島生活新聞・その他被爆者団体・平和団体の機関誌など)
外国の新聞は、次の所蔵者のもののマイクロフィルムを、手に入れることができた。
米国議会図書館 大英博物館新聞ライブラリー シカゴ大学ユニバーシティ・マイクロフィルム社 ベイ・マイクロフィルム社 ニューヨークタイムズ社 国立国会図書館財団法人東洋文庫 大下応(昭和二十年当時シカゴ在住)
5被爆者
被爆者や広島被爆直後入市者が昭和二十年前後に書いた記録を探すため、前述の広島県予防課所蔵の被爆者手帳交付申請書の調査、および、体験記を発表した被爆者など四百人余を対象としたアンケート調査をおこなった。アンケートに対して八十七名の方々から回答をいただき、貴重な示唆・参考資料の提供を受けた。
[以下略]

出典:『広島県史 原爆資料編』

原爆被災資料総目録 第一集 発刊に寄せて

原爆被災資料総目録 第一集 発刊に寄せて

(五十音順・敬称略)

相原和光(広島YMCA総主事)

月に人が降り立つ新時代に、地上の平和と世界市民の意識を築いて二度と核兵器が使用されないことを万人が銘記するためにこの総目録の活用されることを祈ってやみません。

伊東 壮 (東友会=東京都原爆被害者団体協議会=事務局長)

被爆二十五周年、安保再改定期に当たって、人類の最初に受けた災禍の資料の散失しないうちに、その調査・収集に努めて広く公開し、平和の問題を原点から鋭く考え合うことは、被爆者と国民との断絶を埋ずめて、被爆者援護法制定の緒を開くことになる。

糸川成辰(原水爆被災白書をすすめる市民の会会長)

この総目録刊行は「原水爆被災白書」をすすめる広島市民の活動の第一歩である。

大江健三郎(作家)

広島を忘れ、核兵器の破滅的な実質から眼をそむけようとする者を、問いつめる本質的な目録。それは広島を記憶しつづけようとする者にもまた、総合的な問いかけを発する目録である。

梶山季之(作家)

広島の文学青年時代のぼくは、原爆被災問題についても、まじめな追究者の一人であった。その後広島を離れているが、罪ほろぼしをしたい気持ちは大いにある。この被災総目録の続刊に協力したい。

河本一郎 (広島折鶴の会世話人代表)

資料を調べ集めてゆくことは、目に見える原爆の証拠を一つでも多く残して原爆体験を心のなかから消さないため大切なことです。文学なり、写真なりの一つ一つが被爆者ひとりひとりの心の「塚」です。この総目録がその事実をつかむきっかけとして活用されるよう念願します。

熊田重邦(広島県史編さん室長)

広島県史のうえで七、原爆は世界史と広島県民との接点として大切なので、この目録の続刊を期待します。

桑田駒夫(広島県PTA連合会事務局長)             一

子供の幸福を願うPTA会員として、世の親御と先生方がこの総目録を平和教育資料に利用され、億万人が平和な地上を築く呼び水とされることを望みます。

桑原英昭(世界連邦建設同盟広島県協議会会長)

私たちは六年前からポーランドのアウシュヴィッツと広島との被災資料の交換を続け、この八月、同国の招きで渡欧するが、この総目録第一集を貴重な交換資料として持参したい。ユダヤ人虐殺についてはすでに約四百万人分の詳細な名簿ができており、これに比べて広島の実態把握の立ち遅れに市民として共同責任を感じている。

栗原貞子(詩人)

この目録は 故人となった原民喜・峠三吉・大田洋子・正田篠枝をはじめ、被占領の弾圧下で書きつづられてきた原爆の非人間的な残虐の告発と平和への祈りの二十五年にわたる総量を示す。核時代に生きる人々、特に核保有諸国の首脳にも読んでほしい諸記録の案内書である。

小堺吉光(広島市戦災誌編集主査)

この目録は広島の惨禍から世界の平和へいたる道しるべであり、民間有志の熱情の賜物です。

佐久間澄(日本原水爆禁止団体協議会代表理事)

歴史は未来を築く大切な資料です。過ちが再びくり返されないために広島の被爆の事実の徹底的な追跡こそ、もっとも重要な人類将来への基盤となるでしょう。

志水清(広島大学原爆放射能医学研究所長)

原爆被災の全体像をとらえ、原点の空白を埋ずめるために、被災資料の収集保存は重要な役割りをもつので、今後ともこの目録が充実されるよう期待します。

庄野直美(広島女学院大学教授)

繰り返してはならないヒロシマのために、ここに繰り返し後世に残す。

宅和純(広島県教職員組合執行委員長)

広島の原点に立つ平和教育推進にとって貴重な資料だと思う。

永積安明(日本学術会議原爆被災資料小委員会前委員長)

この仕事は、原爆絶滅の拠点、学術会議の期待した事業の先駆けです。

任都栗司(日本原爆被爆者協議会会長)

原爆被災の実態とその影響についての、こういうまとまった手引書は、真の平和を訴えるとともに、被爆者救済・援護の目的を達する上に大切な励ましになる。この総目録の刊行に協力したい。

長谷川鉦三(広島県教育長)

平和教育とは何かについて、まず基礎資料を客観的にとらえるため、この総目録はよい手がかりだ。

林寿彦 (国際青少年協会総主事)

今世紀の人間がつくった世界史の傷を二十一世紀へ再び持ちこまないためにも、その「傷」についての体験と認識を語り伝えることは、新しい世代に対する今世紀の人間の義務だと思う。

原田東岷(広島市医師会元会長)

全世界はより精密なヒロシマの実態を知る必要があり、また欲しているのに日本政府はこれについてまことに冷淡である。広島市民の努力によるこの総目録刊行は、国際的規模において貴重な資料研究の手がかりであり、今後もこの刊行事業の継続を期待する。

藤本千万太(広島平和文化センター次長)

時の経過は世界の人々に原爆の惨禍を忘れさせ、恐怖の感覚さえ失わせようとしている。この資料刊行が、被爆体験の継承に大きく役立つことを期待する。

松元寛(広島大学文学部助教授)

原爆被災資料の調査に、日本全体の戦災についての時期を失しない調査研究の突破口となり、戦争白書のつくられるきっかけとなってほしい。また過去の記録だけでなく、現在の公害など、文明災害の問題について、国民の目を開かせる警鐘になってほしい。

村上忠敬(核兵器禁止平和建設広島県民会議議長)

核兵器の恐ろしさを知るためには広島原爆をもっともリアルに知る必要がある。悲しくても、苦しくても、再びその事実をはっきりとらえるために、これは貴重な資料となるであろう。

森滝市郎(日本原爆被害者団体協議会理事長)

ここ数年来願い続けてきた原爆被災資料調査の第一着が広島から始まって喜ばしい。これによって被爆者の声を消さず、その実態を後世に伝える手がかりを得た。

山代巴(作家)

人権の目覚めの足あとをふりかえるために、またその欠落は、あとに続く人々が補うために。

山手光 (広島市立浅野図書館長)

この総目録は原爆被災研究の第一の手がかりです。

 

被災資料総目録 第一集

発行日  昭和四十四年八月六日

体裁   B5版 横組一三〇頁 上質紙

内容

原爆慰霊碑(六七ヵ所)原爆遺跡(九五ヵ所)物品資料(原爆資料館所蔵一七九七点)遺品(原爆資料保存会所蔵一九二一点)放送番組(昭和二二年-四三年末まで二〇年間のNHK広島中央放送局ラジオーテレビ放送記録)美術(絵画の部一二九点)文学(長崎を含み小説・詩・俳句・短歌・児童文学の五部門で約一五〇〇点)

配布方法 会員制度による。会員資格は個人加入を主とし、団体加入も可。

会員   一口五〇〇円として何口でも可。一口につき一冊、送料当会負担)

会員登録

個人・団体とも会費の振替払いこみをもって代用させていただきます(同封振替用紙をご利用ください。一枚の振替用紙で団体としてでなく個人お二人以上の共同申し込みのばあいは用紙「通信欄」にお名前を列記してください)。

第二集の刊行予定

昭和四五年上半期を目標に、被爆手記(広島・長崎・ビキニ)各種団体原爆戦災誌芸能(映画・演劇・音楽・バレー)の台本・レコード・テープ・楽譜など民間放送番組(ラジオ・テレビ)写真集各種の計五部門と第一集の各部門の長崎および昭和四四年以降の追加分を企画中です。

第三集以降予想

医学ほか自然科学、社会科学、評論、観光庁資料、民間団体資料、戦災復興誌資料、報道資料などを昭和四五年下半期以降続刊の検討を進めております。

 

なお当会のスタッフは左記の通りです。お気付きの点は、どうぞご連絡ください。

委員長  田淵実夫(前広島文化センター局長)

副委員長 今堀誠二(広島大学教授)

同    横田工(原爆資料保存会会長)

財務委員 山崎与三郎

事務局長 田原伯

「原爆被災体験資料」蒐集のための御協力者のお集まりのお願い

1965年7月7日
「原爆被災体験資料」蒐集のための御協力者のお集まりのお願い
御協力の意志表明をいたゞいた標記の件につきましては、先便で経過の概略をお知らせいたしましたが、今般左記のようにお集まりをいたゞきたいと存し、御案内申し上げます。
その際、左記の三氏よりそれぞれの部門について御報告があります。
物理学(医学)部門(広島)
庄野直美氏(理学博士 広島女学院短大教授)
文学部門(広島)
豊田清史氏(歌人)
長崎の概況
木野普見雄氏(長崎市常任監査員 日本被団協代表理事)
なお、最初にお送りした「計画要網」にミス・プリントもあり、「協力」の内容がはっきりしないと云う御批判が多くよせられましたが、このことについては私どもは次のように考えております。
一、日本被団協のこの事業を支持する意志表示によって、私どもをサポートしていただくこと。
一、この事業の推進のため、日本被団協は募金を行いたいと存じますが、そのお願いに対して連名でお口添えをしていただくこと。(このことについて、募金は「協力委員会」内部だけにとどめよという御意見もあります)
一、以上のほか、できれば
1.御自身でおもちのまたは御存知の資料についてお知らせいたゞくこと。
2.御専門の分野から、資料の調査、蒐集、保管方法、その他の問題点について御意見をお寄せいただくこと
3.将来、目録の作成(出版)、編集、翻訳等の問題が具体化すれば、御助言と御助勢をいただくこと。
4.その他
何分非力の私どもが進めている仕事のこと故、いろいろと手落ちも多く、なお御得心のいかない不備の点もあろうかと存じます。
また当日は御多忙中のことと存じますが、何とぞ御出席のうえ私どもを御指導、御激励下さるようお願い致します。

一、日時 七月一五日(木曜日)午後一時
一、場所 電通会館第一会議室
千代田区神田駿河台三の六 電話(二五二)九六一八
一、会合の内容
経過報告と今後のお願い 森滝市郎
各部門報告 前記三氏
御意見の交換
以上
一九六五年七月七日
日本原水爆被害者団体協議会
理事長 森滝市郎

***********************

『「原爆被災体験資料」蒐集のための御協力者のお集まりのお願い』(森滝市郎(日本原水爆被害者団体協議会理事長)、1965年7月7日)

20220211213140036
庄野直美
豊田清史
木野普見雄
日時:7月15日(木)午後1時
場所:電通会館第一会議室
会合の内容
森滝市郎:経過報告と今後のお願い
前記3氏:各部門報告
意見交換
20220211213140036

旧陸軍被服倉庫(広島市基町)消滅過程に見る原爆遺跡存廃論議

問題の発端

『中国新聞(夕刊)』1970年6月11日

広島市教委は、同市基町地区の再開発事業によって破壊される恐れがある旧陸軍輜重(しちょう)隊倉庫などいわゆる〃原爆遺跡〃を保存するよう、このほど市に文書で要請した。史跡として保存するとなれば、再開発計画を一部手直ししなければならず、保存か取りこわしかをめぐって論議は〃原爆遺跡〃にまで及んできた。

市教委が保存を要請したのは、輜重隊倉庫(第二基町バス停前)、陸軍病院門柱(第五基町バス停前)、陸軍病院の由来を記した石碑(県営アパートわきの不法住宅地内)の三件。(中略)

三つの〃遺跡〃のうち、門柱と石碑は場所を移すなどすれば保存も可能だが倉庫は延べ二百六十二平方メートルもあって移転は困難。しかも被爆後二十五年もたって荒れ方がひどく、ブロックもくずれ落ちている。この付近は、市の基町再開発計画で中央公園の芝生広場に予定され、近くに市立図書館や野外音楽堂を建てることになっている。

計画通り工事が進められるとなると、倉庫は取りこわしの運命にある。このため市教委は、先に開かれた市文化財審議会にはかり「補修して現位置に保存するのが望ましい」との結論を得た。

市教委の要請に、対して基町再開発事業を進めている都市計画局では、門柱と石碑の保存には問題ないとしながらも、倉庫については公園計画との関連で慎重な態度をとっている。公園計画を担当する市建設公園緑地課の浅地課長は「史実を後世に伝える意味で保存は必要だと思う。しかし史実を伝える場合、建て物跡を表示する方法もある」と言っている。(後略)

 

存廃論議

年表:1976~78(昭和51~53)年の動向

 動向
76 01 24 中国新聞「30年ぶりに全容-旧陸軍”被爆倉庫”-広島市が周辺取り壊し-惨状伝える壁・ガレキ-”第2のドーム”-関係者ら保存訴える」
76 02 04 中国新聞(夕刊)「水曜グラフ:姿消す”戦争と被爆の遺跡群”-再開発進む広島市基町地区-旧軍の施設が次々」
76 04 30 広島市基町の住民有志で作る「基町明治会」の代表5人、基町公園内の旧第5師団経理部倉庫と県立体育館裏の柳の木3本(樹齢60年以上)を保存するよう求めた要望書を広島市に提出。
76 06 23 広島市、基町の被爆倉庫の保存の検討作業を始める。
76 06 24 広島ユネスコ協会、例会と理事会を開催。基町の陸軍被服倉庫の保存について協議。運動を始めた「基町明治会」を支援する方針を決定。
76 06 29? 広島県被団協(森滝市郎理事長)、広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動に乗り出すことを決める。
76 07 04 広島県被団協(森滝市郎理事長)、日本被団協総会で広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動を全国的に広げるよう提案。
76 07 07 広島市基町の旧陸軍被服倉庫の保存運動を進める「基町明治会」、写真家佐々木雄一郎が昭和26年当時に同倉庫を撮影した写真を入手。
76 07 07 フリーの映画監督楠木徳男、広島市基町の旧陸軍被服倉庫をテーマにした映画のロケを開始。
76 07 07 広島県被団協(森滝市郎理事長)、旧陸軍被服倉庫の保存を広島市に要望。
76 07 13 読売新聞「保存に賛否両論-広島の旧陸軍被服倉庫-「被爆のあかし」地元老人らが運動-意義に疑問も「ドームだけで十分」
77 01 13 広島市、基町の旧軍被服倉庫を撤去することを決定。
77 01 17 中国新聞「記者ノート:原爆遺跡の保護対策を」
77 07 13 中国新聞(夕刊)「消え行く原爆遺跡<広島>-実態つかめず風化-問われる市の保存行政」
78 05 10 広島市、庁内関係課長等12人で構成する原爆遺跡選定調査会議を設置(広島市資料)。原爆に関係のある155件の建物・橋梁などが候補にのぼるが、そのうち重要なものとして41件を選ぶ。
78 06 01 広島市基町の旧軍被服倉庫の取り壊し開始。

 

『中国新聞』1976年1月24日

原爆資料保存会などの関係者=都心部でこれだけの施設がいまだに残っているのはまれだ。都市化で原爆資料が年々姿を消しており、被爆を伝える生きた証言として残すべきだ。

この建物の隣に住む高野千都子=被爆直後の広島の面影です。このガレキの上で下で、たくさんの人が死んだのだろう、とここを見ると手を合わせたくなる思いです。

原爆資料保存会の横田工会長=外国の平和運動家からもなぜもっと原爆の惨状を残さなかったのかと言われる。原爆の継承の意味からも保存するよう市に働きかけたい。

『読売新聞』1976年5月1日

基町明治会が広島市に提出した要望書=レンガ造りの被服倉庫は崩れ落ち、柳も被爆したため幹の半分近くが枯れているが、いずれも原爆を知らない戦後生まれの若い人たちのために残すべき資料。

『毎日新聞』1976年6月18日

片島薫(元同盟通信記者で基町明治会の会員)=被爆の事実が忘れられてゆくなかで、被爆したままの姿で出てきた倉庫は、どうしても残しておくべきだ。撤去せず公園の一部に、歴史の資料としてとどめておくのが、ヒロシマの願いでもあり、義務だと思う。

『毎日新聞』1976年6月19日

いぬいとみこ(東京在住の児童文学者)=ドームは、現在、単なる観光の象徴となってきている。ヒロシマをとどめておく意味でも被服倉庫跡を保存することは重要な意味を持つ。

田中千禾夫(作家)=原爆ドームにしろ被爆の痛ましい残がいは、すべて残しておくべきだ。残がいは生きている。現実に平和を訴える”証”として現代に息づいている。半永久的にドームを保護した広島市は、ぜひ残しておくべきだ。

栗原貞子(地元の詩人)=ヒロシマのありのままの歴史を伝える建築物がどんどん姿を消している。原爆ドームは今や観光のトレードマーク。原爆のツメ跡がくっきり残った残がいはきちんと保存しておくべきだ。

竹内武広島県被団協事務局員=私有地で見つかった残がいならば買い取るといった問題があると思う。しかし、今回のケースはそれと違い国有地の中。ぜひとも保存してとどめておくべきだろう。

広島市建設局公園緑地部=あの残がいは、公園予定地(5ヘクタール)のちょうど真ん中にあたる。あれが残っていると支障があることは事実。また、建設省の最初の指導指針でも、一切の建物を建てず、広場だけの公園を作るようにといっている。しかし、爆心地にあれほど近く、原爆の惨状を生々しく伝える貴重な残がいであるということは十分認識している。

『毎日新聞』1976年6月24日

野村哲夫基町明治会会長=この倉庫が当時どうなったのかを、こうした証人の人の話を集めれば、原爆で空白になった部分を解明できる。この倉庫は軍隊の施設だったから残すという考えではなく、原爆の悲惨さを訴え、平和のために残したい。

広島ユネスコ協会=被爆体験の継承に役立つ貴重な被爆建築物。

『毎日新聞』1976年6月24日

高校生平和大使

高校生平和大使

長崎市内の平和団体などでつくる「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」が派遣。スイス・ジュネーブの国連欧州本部などを訪れ、平和のメッセージを伝える。

Y M D NEWS1
98 05 18 「ながさき平和大集会実行委員会」、開催。6月11日に「すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」(仮称)を発足させることを確認。
98 06 11 長崎の約50団体でつくる「ながさき平和大集会実行委員会」、「核兵器廃絶を目指しすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」を発足させる。代表に今田斐男・松永照正・鎌田定夫を選出。
98 08 06? 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、10月に計画している国連本部への要請行動に参加するメンバーを募集。
98 10 11 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」派遣団の結団式、長崎原爆資料館で開催。
98 10 15 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」、伊藤長崎市長を訪れ、国連事務次長あてのメッセージを受け取る。
98 10 17 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」一行4人、アメリカに向け長崎を出発。
98 10 19 (日本時間20日)「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」一行9人、ダナパラ国連事務次長に核兵器廃絶を求める署名や伊藤長崎市長のメッセージを提出。
98 10 20 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」一行、国連事務局を訪問。ダナパラ事務次長に会見。
98 10 25 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」派遣の「国連平和大使」の2人、長崎原爆資料館で帰国報告。
99 06 24 「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、10月末にニューヨークの国連本部に派遣する「平和大使」として高校生数人を募集。
99 08 01 「核兵器廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、高校生の「国連平和大使」の選考面接会を長崎原爆資料館で開催。2回目。59人が参加。
99 09 26 「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」(反核ネット)、高校生平和大使の派遣にむけた募金活動を長崎市内で実施。
99 11 14 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」の「国連平和大使」派遣団10人、同市を出発。-20日。
99 12 04 「核兵器の廃絶をめざしすべての核実験に反対する長崎ネットワーク」が派遣した「高校生平和大使」3人の帰国報告会、長崎市内で開催。
00 01 27? 「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、長崎から反核平和のメッセージを世界に届ける「高校生平和大使」を、今年(3回目)はスイスの国連ジュネーブ欧州本部とする方針を固める。
00 04 11 「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、国連などに反核・平和のメッセージを届ける「高校生平和大使」を募集。
00 05 28 「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」、高校生平和大使の選考を開始。51人が応募。
00 07 08 「核兵器の廃絶をめざし、全ての核実験に反対する長崎ネットワーク」、8月22-30日にスイスの国連応酬本部などに派遣する高校生平和大使の2人を決定し公表。
00 08 06 中国新聞「この人:宮原司優子さん-「高校生平和大使」に選ばれた長崎県立大村城南高校2年」
00 08 17 今月末、スイス・ジュネーブの国連欧州本部などを訪問し、平和のメッセージを伝える高校生平和大使の結団式、長崎市の県教育文化会館で開催。

 

NPT再検討会議(2000年)

4月から5月、核兵器不拡散条約(NPT)の無期限延長決定後初めてとなるNPT運用検討会議が、ニュー・ヨークで開催された。この会議は、包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期発効、カットオフ条約交渉の即時開始とその5年以内の終了等を始めとする、今後国際社会が取り組むべき核軍縮・不拡散のための「現実的措置」を含む最終文書を全会一致で採択することに成功した。最終文書では、全面的核廃絶に対する核兵器国の「明確な約束」が明記されるなど、目標としての核廃絶はより現実的なものとなっており、今後、国際社会は、これらの「現実的措置」の実施のため、真摯に議論し実行することが要請される。

なお、この会議に際して、日本は、核軍縮・不拡散のための将来に向けた現実的措置に関する8項目提案を行って各国の合意形成のための基盤を提供する等、会議成功のために積極的な貢献を行った。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/01/1st/bk01_21.html#21-2-3

略年表:NPT(2000年)

M D NEWS1
02 12 読売新聞「解説と提言:NPT再検討会議4月開催へ-実効的核軍縮へ日本の努力重要」
02 18? 連合・原水禁国民会議・核禁会議、4月下旬から米ニューヨークで開かれる核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ、原爆展の開催を計画。
02 26 読売新聞「シンポジウム「核不拡散体制-核軍備競争再来の可能性に直面して」-核軍縮、危機の国際情勢-4月にNPT再検討会議」
03 04 中国新聞「中国論壇:核軍縮か核抑止か-NPTで問われる日本」(ハンズ・クリステンセン)
03 12 4月下旬から米ニューヨークで開催される核拡散防止条約(NPT)再検討会議で議長を務めるアブダラ・バーリ、外務省の招きで広島市を訪問、原爆資料館を見学。
03 14 中国新聞「核軍縮進展に希望-NPT再検討会議前に広島訪問-バーリ議長<アルジェリア国連大使>に聞く」
03 23 伊藤長崎市長、国連で開催される核拡散防止条約(NPT)で5月3日にスピーチを行うことを明らかにする。
03 33 広島市、4月下旬から米ニューヨークで開かれる核拡散防止条約(NPT)再検討会議に提出するため、世界平和連帯都市市長会議に加わっている486都市の市長に平和メッセージを依頼。
04 05 核拡散防止条約の再検討会議-核軍縮へ具体的前進を-印パの核実験でNPTの危機-梅林宏道さんに聞く」
04 10 秋葉忠利広島市長、今月下旬から米国ニューヨ ークの国連本部で始まる核拡散防止条約(NPT)の再検討会議には、ひろしまフラワーフェスティバル(FF)への参加を理由に出席しない考えを明らかにする。
04 11 朝日新聞「論壇:NPT再検討会議に望む」(神谷昌道)
04 13 広島県原水禁・連合広島などのNPT派遣団の結団式、広島市内で開催。約70人が訪米の予定。
04 14 広島市、米国ニューヨークの国連本部での核拡散防止条約(NPT)再検討会議開幕を控え、日本政府が会議で「核兵器廃絶」の姿勢を明確にするよう外務省に要請書を提出。
04 14 秋葉忠利広島市長と伊藤一長長崎市長、連名で、核拡散防止条約(NPT)再検討会議において核兵器廃絶に向けた積極的外交を展開するよう求めた要請文を森首相と河野外相に送付。
04 16? 日本政府、核拡散防止条約(NPT)再検討会議で、2003年までの兵器用核分裂物質生産禁止(カットオフ)条約交渉の合意達成など、核軍縮・核拡散防止での包括提案を行う方針を固める。
04 17 伊藤長崎市長、核拡散防止条約(NPT)再検討会議での演説の骨子を発表。核兵器の違法性を指摘。
04 17 中国新聞連載「NPT会議の行方」(-19日、3回)
04 17 「プルトニウム・アクション・ヒロシマ」、米ニューヨークの国連本部で開かれる核拡散防止条約(NPT)再検討会議で日本政府が核廃絶に向けて努力するよう求める要望書を河野外相宛に送付。
04 19 広島県原水禁・連合広島・核禁県民会議の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けての訪問団一行10人、広島を出発。
04 19 原水禁・連合・核禁会議の核拡散防止条約(NPT)再検討会議派遣団一行約70人、成田空港を出発。
04 21 朝日新聞「論壇:NPT前進に積極的役割を」(黒沢満)
04 21 原水禁などの「NPT再検討会議派遣団」、ネバダ核実験場を訪問。実験場ゲート前で座り込み。
04 22 原水禁などの「NPT再検討会議派遣団」、米ニューヨークに到着。23日、非政府組織のメンバーを招き学習会を開く。
04 22 長崎新聞「24日からNPT再検討会議-無期限延長後初めて-21世紀の核不拡散を左右」
04 22 長崎新聞連載「核軍縮は進むか-NPT再検討会議を前に」(-24日、3回)
04 22 毎日新聞社説「NPT会議-核廃絶の歩みを止めるな」
04 22 毎日新聞「深層:NPT再検討会議-ほんろうされる核軍縮努力-被爆者らの訴えどこまで」
04 23 長崎新聞社説「NPT会議-「核の傘」を考えてみよう」
04 23 中国新聞社説「「非核の世紀」-NPT再検討会議-核廃絶への道筋を描け」
04 23 読売新聞「NPT体制維持の道探る-再検討会議あす開幕」
04 24 朝日新聞社説「NPT会議-世論こそ核軍縮の推力」
04 24 核拡散防止条約(NPT)再検討会議、米ニューヨークの国連本部で開催。-5月19日。アナン国連事務総長が冒頭の演説で米本土ミサイル防衛(NMD) 構想に触れ、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約を危機にさら し、新たな軍拡競争を促す可能性があると指摘、米国を批判。
04 24 朝日新聞「核の行方、波瀾含み-NPT再検討会議」
04 25 反核ネットワーク「アボリション2000」、核不拡散条約(NPT)再検討会議が開かれている米ニューヨークの国連本部前で集会「TIME IS UP」を開催。約300人が参加。
04 27 原水禁・連合・核禁会議の「NPT再検討会議派遣団」、米ニューヨーク国連本部の日本代表部を訪れ、核兵器廃絶へ向けたリーダーシップを発揮するよう要請。
04 27 朝日新聞「NPT再検討会議で批判の的-米NMD予算膨らむばかり-総見積もり594億ドル」
04 27 読売新聞「解説と提言:NPT再検討会議、米への批判強まる-「核」改良続行に懸念」
04 27 広島市が世界平和連帯都市市長会議のメンバーから募った核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けたメッセージの冊子が完成。森元広島市助役が核兵器保有国や国連関係者に配布する予定。
04 28 伊藤一長長崎市長、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に出席のため出発。
04 29 読売新聞「NPT再検討会議前米代表トマス・グレアム氏に聞く」
04 29 中国新聞「NPT会議第1週終了-登・軍縮大使に聞く-各国、合意へ強い意志-日本提案には高い評価」
04 30 伊藤一長長崎市長、森元広島市助役、米・ニューヨーク入り。5月1日、ダナパラ国連軍縮局長、バーリNPT再検討会議議長を表敬訪問。
04 30 読売新聞「核保有国に「廃絶」圧力-新アジェンダ連合、厳しい要求-NPT再検討会議-非同盟諸国にも共感」
05 01 フランスの代表、米・ロ・仏・英・中国の核保有5カ国、NPT再検討会議で、核廃絶を目指した「明確な誓約」などをうたった共同宣言を発表。
05 02 広島県原水禁などの核拡散防止条約(NPT)再検討会議派遣団の一行5人、広島市役所で帰国報告。
05 03 核拡散防止条約(NPT)再検討会議で非政府組織代表の演説。公式会合としては初。伊藤一長長崎市長、世界平和連帯都市市長会議の副会長として演説。
05 03 読売新聞「全米ミサイル防衛網計画-核軍縮後退、世界が懸念-米にNPT不信」
05 04 毎日新聞「NPT・核保有国「廃絶」共同声明-中露合意で「照準解除」-拒否一転、緊張緩和に期待」
05 06 中国新聞社説「「非核の世紀」-NPT再検討会議-抽象論では許されない」
05 06 中国新聞「NPTの行方:NGOと連携手ごたえ-”被爆地ロビー外交”終了」
05 08 伊藤一長長崎市長、帰国の記者会見。ニューヨークで開催中の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で、被爆地を代表して演説した様子を語る。
05 08 森元弘志広島市助役、米・ニューヨークの国連本部で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議から帰任し、記者会見。
05 08 核拡散防止条約(NPT)再検討会議、論議を再開。ニュージーランドのピアソン議長が示した早急な核廃絶を求める提案に核保有5カ国が猛反発。
05 09 長崎県平和・労働センターなど、「反核9の日座り込み」を平和公園で実施。県原水禁から核拡散防止条約(NPT)再検討会議に派遣された西首延子が参加報告。
05 11 (日本時間12日)国連本部で開か れている核拡散防止条約(NPT)再検討会議、核軍縮を議論する第1主要委員会の最終会合を開く。核兵器廃 絶への姿勢をめぐる核保有国と非保有国との意見の溝は埋まらず、「合意なし」のまま12日の本会議に報告することを決定。
05 15 新アジェンダ連合、核拡散防止条約(NPT)再検討会議、論議を再開で、核保有5カ国の主張に大幅に譲歩する妥協案に対し反発。結論を16日以降に持ち越す。
05 20 中国新聞「NPT会議制約合意-非核保有国の粘り強さ奏功-思惑絡み玉虫色の決着」
05 20 朝日新聞「時時刻刻:核廃絶の道筋、地図なき交渉-NPT再検討会議大詰め-「主役」中国、軟化カギ-187カ国思惑バラバラ-進む核開発にいらだち」
05 20 (日本時間21日)核拡散防止条約(NPT)再検討会議、初めて保有国も一致して、核兵器完全廃絶の「疑いのない約束」をうたった最終文書を採択し閉幕。
05 21 中国新聞社説「「非核の世紀」-NPT会議-「核廃絶の約束」は成果」
05 21 毎日新聞「ニュースキー2000:NPT会議、土壇場で紛糾-ガード堅い核保有国-政治的駆け引きに終始」
05 21 毎日新聞「NPT会議空転-米の妥協に限界-合意の弱さ露呈」
05 21 米主要メディア、前日まで開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議をほとんどが無視。
05 22 長崎新聞「決裂の危機辛うじて回避-日本代表ら必死の説得-核保有国が廃絶確約-NPT体制維持へ仏など折れる」
05 22 長崎新聞「NPT最終文書採択-薄れゆく核の惨禍-保有国の無関心、浮き彫り」
05 22 朝日新聞社説「NPT会議-合意を結実させよう」
05 22 中国新聞「表層深層:NPT最終文書採択-日本の説得、決裂救う-登大使が大演説、各国に妥協訴え」
05 22 読売新聞「再検討会議閉幕-軍縮停滞、揺らぐNPT体制」
05 22 朝日新聞「NPT最終文書採択-核軍縮の道なお不透明-具体策は決まらず-米の指導力低下」
05 22 毎日新聞連載「核廃絶は可能か-NPT再検討会議」(-24日、3回)
05 23 読売新聞社説「NPT最終文書の有言実行を」
05 23 毎日新聞社説「NPT会議閉幕-核廃絶誓約を実現させよ」
05 23 長崎新聞社説「NPT会議-被爆地長崎の役割大きい」
05 24 赤旗「NPT再検討会議、核廃絶訴えたNGOの2代表に聞く」
05 26 中国新聞連載「核廃絶の誓約-NPT会議を終えて」(-28日、3回)
05 28 朝日新聞「世界の論調:ガーディアン(英国)-NPT合意の核軍縮実行を」
05 29 赤旗「NPT2000年再検討会議-国際世論の高まりを反映」
05 30 中国新聞「本社記事審査担当から-NPT再検討会議-核廃絶運動の試練続く」
06 05 伊藤長崎市長、NPT再検討会議への参加について定例市議会の冒頭で報告。
06 08 朝日新聞「オピニオン:核不拡散条約(NPT)再検討会議-「核廃絶の約束」実現へ-NGOと被爆地連携を」
07 06? プーチン・ロシア大統領、秋葉忠利・長崎の伊藤一長両市長にそれぞれ書簡を送り、米国との第三次戦略兵器削減条約(START3)で核弾頭を1500個まで削減する用意があるとあらためて表明。書簡は、ニューヨークで今春開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議の際に両市長がプーチンにあてた核兵器削減の要望書への返書。
07 23 沖縄サミット、終了。共同宣言「沖縄2000」で、「核兵器廃絶への明確な誓約」を合意した今年五月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議について、「その成功を歓迎する」とさらりと触れただけで論議は皆無。
07 24 広島市、今年の平和式典の概要を発表。遺族・子ども代表ら決まる。森首相・津島厚相・衆参両院議長のほかアブダラ・バーリNPT再検討会議議長などが参列予定。
08 01 中国新聞「あすからNPT合意実行どう迫る-原子力平和利用も柱に」
08 03 4月から1カ月米国ニューヨークの国連本部であった核拡散防止条約(NPT)再検討会議で議長を務めたアルジェリア国連大使、アブダラ・バーリ、秋葉広島市長を訪問。
08 05 アブダラ・バーリ核不拡散条約(NPT)再検討会議議長、広島市内での記者会見で、広島市民に「原爆の恐ろしさを世界に訴えて欲しい」と語る。
08 06 アブダラ・バーリ核拡散防止条約(NPT)再検討会議元議長、広島市の平和式典に参列。