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広島市平和式典(2012年)

平成24年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 5729人
名簿登録者総数 280959人
名簿総数 102冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約5万人
野田佳彦 内閣総理大臣
ブーク・イェレミッチ  国連総会議長
遺族代表 41都道府県
各国大使や代表 71か国と欧州連合(EU)。核兵器国のアメリカ、イギリス、フランスを含む。

出典:『平和文化 No.181 2012年9月号』(広島平和文化センター)

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

六十七年前の今日、原子爆弾が広島を襲い、約十四万人もの尊い命が一瞬にして奪われ、多くの市民の方々が筆舌に尽くしがたい苦痛を受けられました。

広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。
そして今なお原子爆弾の後遺症に苦しまれている方々に、心よりお見舞いを申し上げます。

人類は、核兵器の惨禍を決して忘れてはいけません。そして、人類史に刻まれたこの悲劇を二度と繰り返してはなりません。
唯一の戦争被爆国として核兵器の惨禍を体験した我が国は、人類全体に対して、地球の未来に対して、崇高な責任を負っています。それは、この悲惨な体験の「記憶」を次の世代に伝承していくことです。そして、「核兵器のない世界」を目指して「行動」する情熱を、世界中に広めていくことです。

被爆から六十七年を迎える本日、私は、日本国政府を代表し、核兵器の廃絶と世界の恒久平和の実現に向けて、日本国憲法を遵守し、非核三原則を堅持していくことを、ここに改めてお誓いいたします。

六十七年の歳月を経て、被爆体験を肉声で語っていただける方々もかなりのお年となられています。被爆体験の伝承は、歴史的に極めて重要な局面を迎えつつあります。

「記憶」を新たにする社会基盤として何よりも重要なのは、軍縮・不拡散教育です。その担い手は、公的部門だけではありません。研究・教育機関、NGO、メディアなど、幅広い主体が既に熱心に取り組んでおられます。そして、何よりも、市民自らの取組が大きな原動力となることを忘れてはなりません。被爆体験を世界に伝える、世界四十九か所での「非核特使」の活動に、改めて感謝を申し上げます。政府としては、これからも、「核兵器のない世界」の重要性を訴え、被爆体験の「記憶」を、国境を越え、世代を超えて確かに伝承する取組を様々な形で後押ししてまいります。

「核兵器のない世界」の実現に向けて、国際社会も確かな歩みを進めています。核兵器保有国の間でも、昨年、米露の「新START」が発効し、我が国が国連総会に提出した核軍縮決議が圧倒的な賛成多数で採択されました。こうした動きを発展させ、世界全体の大きなうねりにしていかなければなりません。
我が国は、志を同じくする国々とも連携しながら、核軍縮・不拡散分野での国際的な議論を主導し、「行動への情熱」を世界に広めてまいります。再来年には、ここ広島で、我が国が主導する非核兵器国のグループである軍縮・不拡散イニシアティブ(NPDI)の外相会合を開催いたします。

原子爆弾の後遺症により、現在も苦しんでいる方々に目を向けることも忘れてはなりません。認定制度のあり方については、有識者や被爆者団体などの関係者に熱心にご議論いただき、本年六月に「中間とりまとめ」をいただきました。原爆症の認定を待っておられる方々を一日でも早く認定できるよう最善を尽くします。これからも、被爆者の方々の声に耳を傾けながら、より良い制度への改善を進め、総合的な援護策を進めてまいります。

東日本大震災、そして東京電力福島第一原子力発電所の事故から、一年以上が経過しました。ここ広島からも、福島の再生に心を砕き、様々な支援を寄せていただいています。今なお不自由な生活を余儀なくされている方々が一日も早く普通の日常生活を取り戻せるよう、除染などの生活基盤の再建に全力を尽くします。また、脱原発依存の基本方針の下、中長期的に国民が安心できるエネルギー構成の確立を目指します。

結びに、原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、被爆された方々、ご遺族の皆様の今後のご多幸を心からお祈りするとともに、参列者並びに広島市民の皆様のご健勝を祈念申し上げ、私のあいさつといたします。

平成二十四年八月六日
内閣総理大臣 野田 佳彦

出典http://www.kantei.go.jp/jp/noda/statement/2012/20120806hiroshima.html

 

 

広島市平和式典(2013年)

平成25年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 5859人
名簿登録者総数 286818人
名簿総数 104冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約5万人
安倍晋三 内閣総理大臣
ブーク・イェレミッチ  国連総会議長
遺族代表 42都道府県
各国大使や代表 70か国と欧州連合(EU)。核兵器国のアメリカ、イギリス、フランス、ロシアを含む。

出典:『平和文化 No.184 2013年12月号』(広島平和文化センター)

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

広島市原爆死没者慰霊式、平和祈念式に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。
68年前の朝、一発の爆弾が、十数万になんなんとする、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風にさらわせ、廃墟と化しました。生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。
犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。蝉しぐれが今もしじまを破る、緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出さずにはいられません。
私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には、確実に、核兵器のない世界を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。
昨年、我が国が国連総会に提出した核軍縮決議は、米国並びに英国を含む、史上最多の99カ国を共同提案国として巻き込み、圧倒的な賛成多数で採択されました。
本年、若い世代の方々を、核廃絶の特使とする制度を始めました。来年は、我が国が一貫して主導する非核兵器国の集まり、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、ここ広島で開きます。
今なお苦痛を忍びつつ、原爆症の認定を待つ方々に、一日でも早くその認定が下りるよう、最善を尽くします。被爆された方々の声に耳を傾け、より良い援護策を進めていくため、有識者や被爆された方々の代表を含む関係者の方々に議論を急いで頂いています。
広島の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、旧倍の努力を傾けていくことをお誓いします。
結びに、いま一度、犠牲になった方々の御冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。
平成二十五年八月六日 内閣総理大臣・安倍晋三

出典http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2013/0806hiroshima_aisatsu.html

 

 

広島市平和式典(2014年)

平成26年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 5507人
名簿登録者総数 292325人
名簿総数 107冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約4万5000人
安倍晋三 内閣総理大臣
 アンゲラ・ケイン  国連軍縮担当上級代表
遺族代表 41都道府県
各国大使や代表 68か国と欧州連合(EU)。核兵器国のアメリカ、イギリス、フランス、ロシアを含む。

出典:『平和文化 No.187 2014年12月号』(広島平和文化センター)

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

広島市原爆死没者慰霊式、平和祈念式に臨み、原子爆弾の犠牲となった方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる皆様に、心から、お見舞いを申し上げます。
69年前の朝、一発の爆弾が、十数万になんなんとする、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風にさらわせ、廃墟と化しました。生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。
犠牲と言うべくして、あまりに夥しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出さずにはいられません。
人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我が国には、確実に、「核兵器のない世界」を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。
私は、昨年、国連総会の「核軍縮ハイレベル会合」において、「核兵器のない世界」に向けての決意を表明しました。我が国が提出した核軍縮決議は、初めて100を超える共同提案国を得て、圧倒的な賛成多数で採択されました。包括的核実験禁止条約の早期発効に向け、関係国の首脳に直接、条約の批准を働きかけるなど、現実的、実践的な核軍縮を進めています。
本年4月には、「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合を、ここ広島で開催し、被爆地から我々の思いを力強く発信いたしました。来年は、被爆から70年目という節目の年であり、5年に一度の核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議が開催されます。「核兵器のない世界」を実現するための取組をさらに前へ進めてまいります。
今なお被爆による苦痛に耐え、原爆症の認定を待つ方々がおられます。昨年末には、3年に及ぶ関係者の方々のご議論を踏まえ、認定基準の見直しを行いました。多くの方々に一日でも早く認定が下りるよう、今後とも誠心誠意努力してまいります。
広島の御霊を悼む朝、私は、これら責務に、倍旧の努力を傾けていくことをお誓いいたします。結びに、いま一度、犠牲になった方々のご冥福を、心よりお祈りします。ご遺族と、ご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、世界恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。
平成二十六年八月六日
内閣総理大臣・安倍晋三

出典http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/0806hiroshima_aisatsu.html

 

 

広島市平和式典(2015年)

平成27年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

あらたに3冊の名簿に記帳された氏名 5359人
名簿登録者総数 297684人
名簿総数 109冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約5万5000人
安倍晋三 内閣総理大臣
 寺田逸郎  最高裁判所長官
ラッシーナ・ゼルボ 包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)準備委員会暫定技術事務局長」
遺族代表 41都道府県
各国大使や代表 100か国と欧州連合(EU)。核兵器国のアメリカ、イギリス、フランス、ロシアを含む。
 平和首長会議リーダー都市及び広島市の姉妹・友好都市からの青少年代表

出典:『平和文化 No.190 2015年11月号』(広島平和文化センター)

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

本日ここに、被爆七十周年の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式が挙行されるに当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊に向かい、謹んで、哀悼の誠を捧げます。
そして、被爆による後遺症に、今なお苦しんでおられる方々に対し、衷心よりお見舞いを申し上げます。
あの朝から七十年が経ちました。ここ広島に投下された一発の原子爆弾により、十数万にものぼる幾多の貴い命が奪われ、街は廃墟と化しました。惨禍の中、一命をとりとめた方々にも、言葉に尽くしがたい辛苦の日々をもたらしました。
今、広島の街を見渡すとき、この水の都は、たくましく復興し、国際平和文化都市へと変貌を遂げました。被爆から七十年を迎えた今朝、私は、改めて平和の尊さに思いを致しています。
我が国は唯一の戦争被爆国として、現実的で実践的な取組を着実に積み重ねていくことにより、「核兵器のない世界」を実現する重要な使命があります。また、核兵器の非人道性を世代と国境を越えて広める務めがあります。
特に本年は、被爆七十年という節目の年であります。核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議では、残念ながら、最終合意には至りませんでしたが、我が国としては、核兵器国と非核兵器国、双方の協力を引き続き求めつつ、「核兵器のない世界」の実現に向けて、一層の努力を積み重ねていく決意です。この決意を表明するため、本年秋の国連総会では新たな核兵器廃絶決議案を提出いたします。
八月末には、包括的核実験禁止条約賢人グループ会合並びに国連軍縮会議が、更に来年には、G7外相会合が、ここ広島で開催されます。これらの国際会議を通じ、被爆地から我々の思いを、国際社会に力強く発信いたします。また、世界の指導者や若者が被爆の悲惨な現実に直に触れることを通じ、「核兵器のない世界」の実現に向けた取組をさらに前に進めてまいります。
今年、被爆者の方々の平均年齢が、はじめて八十歳を超えました。高齢化する被爆者の方々に支援を行うために制定された「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」も、施行から二十年を迎えました。引き続き、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策を、しっかりと進めてまいります。
特に、原爆症の認定につきましては、申請された方々の心情を思い、一日も早く認定がなされるよう、審査を急いでまいります。
結びに、亡くなられた方々のご冥福と、ご遺族並びに被爆者の皆様のご多幸をお祈り申し上げるとともに、参列者並びに広島市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私のご挨拶といたします。
平成二十七年八月六日
内閣総理大臣・安倍晋三

出典http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0806hiroshima_aisatsu.html

 

 

広島市平和式典(2016年)

平成28年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

あらたに3冊の名簿に記帳された氏名 5511人
名簿登録者総数 303195人
名簿総数 111冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約5万人
安倍晋三 内閣総理大臣
遺族代表 37都道府県
各国大使や代表 91か国と欧州連合(EU)。核兵器国のアメリカ、イギリス、フランス、ロシアを含む。

出典:『平和文化 No.193 2016年11月号』(広島平和文化センター)

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110537278566/index.html

●平和宣言(PDF文書)(193KB)(PDF文書)

内閣総理大臣挨拶

本日、被爆七十一周年の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式が執り行われるに当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。
そして、今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からお見舞いを申し上げます。
七十一年前のよく晴れた朝、一発の原子爆弾の投下によって、十数万とも言われる貴い命が奪われ、広島は一瞬にして焦土と化しました。
惨禍の中、一命をとりとめた方々も、耐え難い苦難を経験されました。
しかし、広島は、市民の皆様のたゆみない御努力により、見違えるような復興を遂げ、国際平和文化都市としての地位を見事に築き上げられました。
本年五月、オバマ大統領が、米国大統領として初めて、この地を訪れました。核兵器を使用した唯一の国の大統領が、被爆の実相に触れ、被爆者の方々の前で、核兵器のない世界を追求する、 そして、核を保有する国々に対して、その勇気を持とうと、力強く呼びかけました。
G7外相会合の「広島宣言」とともに、「核兵器のない世界」を信じてやまない広島及び長崎の人々、そして、日本中、世界中の人々に大きな希望を与えたものと確信しています。
七十一年前に広島及び長崎で起こった悲惨な経験を二度と繰り返させてはならない。そのための努力を絶え間なく積み重ねていくことは、今を生きる私たちの責任であります。唯一の戦争被爆国として、非核三原則を堅持しつつ、核兵器不拡散条約(NPT)体制の維持及び強化の重要性を訴えてまいります。核兵器国と非核兵器国の双方に協力を求め、また、世界の指導者や若者に被爆の悲惨な実態に触れてもらうことにより、「核兵器のない世界」に向け、努力を積み重ねてまいります。私は、新たな一歩を踏みだす年に、この地広島において、世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを改めてお誓い申し上げます。
被爆者の方々に対しましては、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」に基づき、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策の充実を行ってまいりました。高齢化が進む被爆者の方々の実情を、今後もしっかりと踏まえながら、援護施策を着実に推進してまいります。
特に、原爆症の認定につきましては、一日も早く結果をお知らせできるよう、できる限り迅速な審査に努めてまいります。
結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ広島市において、原子爆弾の犠牲となられた方々の御冥福と、御遺族並びに被爆者の皆様の御多幸をお祈り申し上げるとともに、参列者並びに広島市民の皆様の御平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします。
平成二十八年八月六日
内閣総理大臣 安倍晋三

出典https://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2016/0806hiroshima_aisatsu.html

 

 

広島市平和式典(2017年)

平成29年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

あらたに3冊の名簿に記帳された氏名 5530人.
名簿登録者総数 308725人
名簿総数 113冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約5万人
安倍晋三 内閣総理大臣
アントニオ・グテーレス 国連事務総長(中満泉国連事務次長兼軍縮担当上級代表が日本語で代読。日本語での代読は初めて)
遺族代表 36都道府県
各国大使や代表 80か国と欧州連合(EU)。核兵器国のアメリカ、イギリス、フランス、ロシアを含む。

出典:『平和文化 No.196 2017年12月号』(広島平和文化センター)

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1110537278566/

●平和宣言(PDF文書)pdf

内閣総理大臣挨拶

本日、被爆七十二周年の広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式が執り行われるに当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊(みたま)に対し、謹んで、哀悼の誠を捧(ささ)げます。
そして、今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心からお見舞いを申し上げます。
今から七十二年前の、あの朝、一発の原子爆弾がここ広島に投下され、十数万ともいわれる数多(あまた)の貴い命が失われました。街は一瞬にして焦土と化し、一命をとりとめた方々にも、言葉では言い表せない苦難の日々をもたらしました。若者の夢や明るい未来も、容赦なく奪われました。
このような惨禍が二度と繰り返されてはならない。唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた歩みを着実に前に進める努力を、絶え間なく積み重ねていくこと。それが、今を生きる私たちの責任です。
真に「核兵器のない世界」を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要です。我が国は、非核三原則を堅持し、双方に働きかけを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意です。
そのため、あの悲惨な体験の「記憶」を、世代や国境を越えて、人類が共有する「記憶」として継承していかなければなりません。昨年、オバマ大統領が、現職の米国大統領として初めて、この地を訪れ、被爆の実相に触れ、核を保有する国々に対して、核兵器のない世界を追求する勇気を持とうと力強く呼びかけました。核を保有する国の人々を含め、広島・長崎を訪れる世界中の人々が、被爆の悲惨な実相に触れ、平和への願いを新たにする。若い世代が、被爆者の方々から伝えられた被爆体験を語り継ぐ。政府として、そうした取組をしっかりと推し進めてまいります。
そして、各国の有識者の知見も得ながら、核兵器不拡散条約(NPT)発効五十周年となる二〇二〇年のNPT運用検討会議が意義あるものとなるよう、積極的に貢献してまいります。
被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策の充実を行ってまいりました。今後とも、被爆者の方々に寄り添いながら、援護施策を着実に推進してまいります。特に、原爆症の認定について、引き続き、一日も早く結果をお知らせできるよう、できる限り迅速な審査を行ってまいります。
今や、国際平和文化都市として、見事に発展を遂げられた、ここ広島市において、改めて、「核兵器のない世界」と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げるとともに、原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、広島市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします。
平成二十九年八月六日
内閣総理大臣・安倍晋三

出典https://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2017/0806hiroshima.html

類似式典(総理官邸ホームページより)

2017年月日 行事
0311 東日本大震災6周年追悼式 東京都千代田区の国立劇場。
<天皇、皇后両陛下、約1200人。参列者数は2015年、以後同じ?>
0414 熊本地震犠牲者追悼式(1周年) 熊本県庁
0623 沖縄全戦没者追悼式。 沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園 <約5400人>
0809 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。 平和公園 <約6000人>
0815 全国戦没者追悼式 東京・日本武道館 <天皇・皇后、約6000人>

 

被爆60年と史・資料保存-現状と課題を考える-

小特集「被爆60年と史・資料保存-現状と課題を考える-」
シンポジウムの記録
被爆60年と史・資料保存-現状と課題を考える-文献資料の観点から
『芸備地方史研究』NO.250・251pp11-20

20060425

「文献資料の観点から」宇吹 暁

広島女学院大学に勤めております宇吹といいます。四年半前までの二十五年間、広島大学の原爆放射能医学研究所に勤めておりました。広島市は、一九九一年に広島市被爆建物等継承方策検討委員会を立ち上げて、被爆建物の保存を検討していました。石丸先生も私も委員でしたが、先生は、気迫を漲らせて、保存についての主張をされておりました。見識のない私は、いつも小さくなっていたので、先生をうらやましがっていました。
私は長い間、職場である霞キャンパスの戦前の建物が壊されていくことで、次第に自分たちの環境がよくなると考えていましたが、最後の一棟となった時に、初めて、ちょっとおかしいのではないかと感じるようになりました。さきほど、石丸先生の講演の中に、広島大学医学部十一号館が壊される話がありました。この情報を知ったのは、大学からではなく、広島市の被爆建物等継承方策検討委員会の担当者からでした。「おたくの建物が壊されるということを知っているか、どうするのか」と言われて非常に恥ずかしく、情けない思いをしました。内部で、保存を訴えたのですが、全く聞く耳を持ってもらえませんでした。私の原医研での二十五年間の発言というのは、この例のように、天に唾して自分にみな戻ってくるというものでした。しかし、自分のことを棚上げして言わないと行動・発言できませんので、これからの報告もそういうものとして聞いて頂ければと思います。
文献資料への関心
まず文献資料への関心の歴史に沿ってみていきたいと思います。だいたい十年間ごとに大きな変化があったように思います。占領下で広島市自身が原爆関係資料を保存することに意義を見出した一番初めはいつかということで見てみますと、一九四九年一月二十九日付で広島市が出した「原爆関係資料の提供依頼」が、私の確認した限りでは一番古いものでした。それまで市政要覧に載せているのだけれども、それ以上の情報を国内外から求められるということが契機であったようです。これの流れだと思いますが、翌年八月六日には『原爆体験記』が出されます。この年というのは、全国的にも非常に重要な年だと思います。この前年くらいからある一部の人達が、原爆関係の事実というのを我々がきっちりと認識すべきではないかという声を起こし始めています。一例をあげますと『原爆の図』の赤松俊子さんの証言ですが、原爆で建物がやられただけではなく自分たちの精神状態も呆けていた、体験したものとして何かをやらなければいけないと思ったのが一九四八年で、それまでは空白状態であったと書いています。
戦前教員をやっていた山崎与三郎という方が、戦後、御幸橋のたもとのところで古本屋をやっておられました。私が大学卒業後広島のことを知りたいと思った際に初めて名前を知った人です。ぜひご本人に会いたいと思い伺いました。その後、山崎さんが一九四九年に自筆で書かれた「平和記念都市建設法案」を、たまたま広島大学図書館の片隅で見つけました。これは、未整理だったので今どうなっているのかちょっと心配です。「原爆に倒れん人も安らかに、平和の光受けて眠らん」。こういうように自分で書かれており、原爆資料を収集する必要性も主張しておられます(表1参照)。非常に大きな構想ですが、その中へ原爆資料の保存・調査・収集というのが入っており、山崎さんは一生かけてこの仕事を自分自身でやられたように思います。
被爆十周年を迎えた年に、広島平和記念資料館が開館します。立派な建物が出来ましたが、中身は原爆資料保存会が提供するという形で出発しているようです。資料そのものは、行政の中にも、或いは市民運動としてもあまり大きなものはなかったのです。例外的な動きはあるものの、これ以後広島市は、建物を建てることには一生懸命になりますが、中身のことはあまり本気で取り組まずにきていると思います。原水禁運動も、被爆十周年から非常に大きな盛り上がりを見せますが、資料への関心は薄かった時代と言えます。
それでは、原爆資料、被爆資料に社会的に関心が持たれるようになったのはいつからだといえば、被爆二十周年からだと思います。それの先導役を務めたのが、談和会という団体で、中四国の大学教員を中心に大学人の会というのができていたのですが、そのメンバーの一部の人たちが立ち上げています。それは、一九六四年のことで、政府にきっちりと何か動いてもらおうという被爆二十周年へ向けての新たな動きが起こりました。私はこれに直接関わっておりませんが後でこの動きを知りました。後で紹介するように、非常に大きな仕事をしています。
マスコミも、被爆二十周年の報道で、早くから本格的に準備を行ない、企画ものなど様々な形で原爆被害を取り上げました。たまたま、地元の報道機関で最も多量の報道をした中国新聞社が、これで新聞協会賞というのをもらいます。これは、日本の報道で非常に優れたものに毎年与えられているものです。原爆関連の報道が、この対象として認められたことは、他の新聞社なり中国新聞社自身のその後の報道姿勢に大きな影響を与えたと思います。平岡敬さん、大牟田稔さんなど、その後の広島市政に大きな影響力をもつ人たちが育っていったのも、二十周年の原爆報道の中であったと思います。
私は、それまでも原爆報道というのはあるのですが、八月を迎えるにあたって原爆を報道しなければいけないという恐怖観念がマスコミに生まれたのは被爆二十周年だと思います。翌年、NHKが「爆心半径五百メートル」という番組を放映して、これがきっかけで原爆爆心地復元運動というものが起こりました。これは、今日まで引き継がれている動きです。同じ年、原爆ドームの保存運動も起こっています。
原爆爆心地復元運動というのは、行政なり或いはNHKの企画を引き継いだ広島大学の原医研或いは広島市原対課などが主体であって、個人や市民のエネルギーをそういう場所へ吸収するという構造でした。市民自身が、資料についてきちんと整備をしていこうという動きとして一九六八年の二月に原爆被災資料広島研究会というのが発足します。私自身はこの研究会で最も多くのことを学びました。
談和会の動きに戻りますが、一九六四年に談和会が発足して、翌年には原水爆被災白書についての佐藤総理大臣への要望書を提出しています。佐藤栄作さんの弟さんは広島で原爆に遭い亡くなったそうで、今堀誠二先生がこの要請に行かれた折に、その話をされながら、この要望について正面から取り上げられたそうです。佐藤さんは、閣議でこの要請を検討するように指示したのですが、何をやったらいいのか分からず、受け止める省庁がなくウヤムヤになったとのことでした。今堀先生のご存命中にもう少し詳しく聞いておきたかったのですが、先生などからそのように伺っております。
談話会の動きなどがきっかけとなって原爆被災白書推進委員会が作られます。委員長は茅誠司、委員には、内閣官房長官愛知揆一など錚々たる人々が名を連ねております。占領期の山崎与三郎さんの想いを、今度は日本全国の学者が具体化しようとしたものと考えることもできます。この会が、翌年、政府に要望書を出しているのですが、その中では、日本の政府は世界に原爆被害についてどういうことを発信しなければいけないかということを非常に体系的に述べられています。ここでは、医学的調査とともに被爆者の心理的影響と社会的変動、富の損失についても研究するというテーマがあります。今日では、大きな災害、校内での殺人事件などがあるとPTSDのケアが必要だということになっていますが、こうした心理的影響への対応の認識は、日本では阪神大震災以後のことです。原爆という非常に大きな災害がありながら、これまで何等の配慮がなく今もないということは、被爆者対策の恐るべき空白ではないかと思っています。
原爆被災資料広島研究会ですが、私はこれに関わるととともに、この成果を随分利用させていただきました。慰霊碑めぐりなど色々なものをやる際に手がかりになりました。この会の中心人物の一人である田原伯さんは、非常に貴重な資料を沢山収集しておられ、詳細なデータを整理しておられました。今、それらの資料がどうなっているか分からないのですが、一九九九年には、JRから払い下げを受けたコンテナの中へ保存されていました。占領期の資料で非常に貴重なものをお持ちです。
一九七〇年代の前半というのは、全国的に原爆被害だけではなく戦争被害に対する関心が高まり、資料収集の重要性が様々な場所、行政や平和教育現場、市民運動の中でも認識をされた時期です。その主な動きをまとめております。
先ほど全国組織の要望書を紹介しましたが、地元の広島でも取り組む会が必要だということで原水爆被災資料センター設置推進に関する準備懇談会というのが、一九七二年の二月一日に広島大学原爆放射能医学研究所で開かれました。広島県の中からも担当者を出してほしいということで、県史編さん室員であった私が出席しました。私は、原水爆被災資料センターを国立で作ろうという運動に、最初の時点で関わっていたことになります。その翌年に平和教育シンポジウムというのも、第一回が開かれております。一九七四年には、呉空襲を記録する会というのが生まれました。私は呉に住んでおりますので、この運動の始めだけ関わっておりました。中国新聞社呉支局が、これを取材して独自に本にしました。早くから、会として体験記集を作ろうという声もあったのですが、「こういう運動というのは本を作ってしまったら終わりになるので作るのを遅らせよう」という意見があり、長い間実現していませんでしたが、今年にやっと出版されました(呉戦災を記録する会『呉戦災 あれから六〇年』)。
広島市は、一九七五年にアメリカにある被爆資料の調査を行いました。広島市が自分のところの資料だけではなく、海外に目を向けた恐らく最初の動きだと思います。この年は、被爆三十周年に当たり、日本学術会議が政府へ国立の原水爆被災資料センターを作れという勧告を出しました。日本学術会議は、こういう勧告が出たからか原爆問題に非常に熱心で、事務局長が変わるごとに広大の原爆放射能医学研究所に様子を見に来られました。ただ、広島大学の教員の中には、日本学術会議は、政府に立てつく組織であり、これが言うから実現しないのだという声もありました。
政府としては国立の原水爆被災資料センターは作りませんでしたが、一九七四年に広島大学原医研内に原爆被災学術資料センターを設置します。それまで医学標本だけを集める医学標本センターがあったのですが、それに医学関係資料だけではなくもっと広く資料を収集しようということで予算と人員をつけました。私は、この措置により、そこに就職することができました。国立の原水爆被災資料センター設立運動に関わった人たちからは、この措置に対する強い批判がありました。なぜかといえば、自分たちの運動がこれでごまかされたというものです。先ほど、運動というのはまとめが出ると終わりになるという意見を紹介しましたが、もう一つ組織ができるとだめになるところがあります。原医研に資料センターができたことで、一般的に資料への関心が薄まったように感じています。この運動に関わった人たちの中には、自分の仕事を片方で持ちながら今日に至るまでずっと原爆被災の基本に関わる運動・仕事を続けている人が少なからずいます。彼らに比べ私は非常に恵まれた立場にあったのですが、私もこの運動に関わっていたので、非常に肩身が狭いというか、つらい思いを、原医研へ勤めている間しばしば感じていました。
被爆四十周年前後から新たな動きが起こります。一つは、被爆者団体による原爆手記の出版、証言活動が非常に活発になりました。被爆者自身が、自分たちの声をみんなに伝えようという運動です。これは、四十周年に際立って高まります。もう一つは、広島市、広島県、厚生省といった行政機関が被爆資料に対する取り組みを始めます。まず、原爆手記集を見ていきます。一九八五年が被爆四十周年ですが、この一年間だけで二百冊を超える原爆手記を載せた本が出版されました。その多くは自費出版です。被爆四十年当時には、この事実を分かっていたわけではないのですが、次第に明らかになったので、どの程度の規模なのか、なぜこれほど手記が出されるのか、ちゃんと確認しておきたいと思い調べ始めました。手記集を編んだ意図として、自分たちに被爆五十周年はないのだから、この四十年を機に作っておこうという思いが随分入っております。そこで、五十年まで続かないのであれば、この傾向ががどう消えていくのか確認しておこうと考えました。しかし、消えるどころか持続し、被爆五十年には再び非常に多くの手記集がでるという現象がありました。結局、被爆四十周年から五十周年までずっと原爆手記の収集と分析を自分の仕事中心に据えることとなりました。その結果、一九九五年までの五〇年間に三万七七九三件の手記を掲載する三五四二点の刊行物を確認しました。
もう一つの行政などの取り組みは、先ほどの石丸先生が紹介されたものと重なる部分もありますが、単に建造物だけではなくてもっと様々な形で被爆の資料に対する関心が見られました。私が関わったもので一番早かったのは、平和文化センターが一九八四年に設置した原爆被災資料調査研究委員会です。今堀先生が座長だったと思いますが、今堀先生から依頼を受けて入りました。一九八八年の中国地域データベース推進協議会は、この当時通産省がデータベースというのは今後日本の商業戦略上非常に重要だということで色々な機関に委託研究をさせたものの一環です。中国新聞社が、新聞記事データベースの総合利用に関する調査研究というテーマで引き受け、広島でデータベース化するとすればまずなによりも原爆資料ということで私が関わりました。当時、データベースの中でわが国独自のものは四分の一に過ぎず、日本は外国のものを利用するだけで発信するものが何もないほど少ないという現状がありました。取り組みは早かったのですが、しばらくは進展しませんでした。しかし、森喜朗首相の折に、インパク(インターネット博覧会)というのがあり、それ以降さまざまな機関が、資料のデータベースの作製やホームページによる紹介に取り組んでいます。
厚生省が、被爆五十年の目玉として原爆死没者の追悼施設を作るということを計画しました。色々ややこしい経緯があったのですが、被爆者対策で弔慰金を認めないかわりに、つまり被爆者手帳を持たずに亡くなった人たちに対する対策をしないかわりにこのような追悼施設を作るという形が出てきました。これに対する反対が強く中々実現しませんでした。結局、十一年かかって国立の死没者追悼平和祈念館ができることになります。広島市は、一九九四年に広島平和記念館東館を開館します。被爆五十年を過ぎた一九九八年には原爆資料館の外部委託を打ち出しました。当時、「屋上屋を重ねる」、つまり原爆資料関連施設の機能重複論が国や広島市行政の中でまかり通っていました。私自身は、外部委託でどうなるのか見当もつきませんでしたし、その問題に意見・見解を述べるつもりはなかったのですが、この「屋上屋」論を認めてしまえば歴史的な研究や資料面に対する関心が失われてしまうという危機感を個人的に持ち、自分なりに意見を述べました。たとえば、日銀を原爆文学館として活用してほしいという市民の要望に対して、市立中央図書館や広島平和文化センターと役割が重なるとの声が市の中にありました。私に言わせれば、それでは、市立中央図書館や広島平和文化センターにどれだけ原爆文学が収められているのかと問いたいということです。小泉首相(当時厚生大臣)も、原爆死没者追悼平和祈念館をどのような中身にするかという議論の中で、広島には原爆資料館があり屋上屋を重ねるようなことはないと発言しました。それでは、原爆資料館がどれだけのものなのかと問いたいということです。一九九八年二月十五日に原爆資料館の外部委託を考えるというシンポジウムが中国新聞社の会議室で開かれました。誰が主催なのかよく分からない怪しい会議であったかと思います。そこで、様々な角度からの意見が出されたのですが、私は、行政資料や個人資料などに対する配慮が市の行政にはないということ、広島・長崎両県以外の資料は広島市の手にあまるのではないかということ、それから広島市は、自らが今抱えているもの、あるいは広島市内に存在するものについては資料の収集整理保存利用体制を整える必要があるわけで、それが外部委託で可能なのかという発言をしていました。
公共機関(厚生省・広島市)への期待
被爆六十年になった現状ですが、被爆二十周年以降原爆資料についての関心が非常に高まり、その高まりが四十年間続いた結果、我々が何かを調べようとすれば様々な形で簡単に知ることができるようになっています。国立公文書館で原爆を検索すると、国の公文書など様々なものを検索することができます。中には、要審査という簡単には見せないものも含めて公開されているというはすごいことだと思います。四十年前では考えられなかったことだろうと思います。たとえば、京都大学の行政文書ファイル管理システムがインターネットで確認できます。広島で調査を行っている最中に、台風で亡くなった人の慰霊祭関係の行政文書が残っているということが分かります。
原爆資料館の委託には、先ほど述べたように、当初、抵抗感、違和感があったのですが、人的な充実がなされた結果、非常によい仕事をされていると思います。その中身は、後で高野さんの方から報告があると思います。やはり、施設があり、そこに人がつくということは、非常に大きな変化を生むのだと感じています。それに対して、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は、国の施設でありながら、一体何をしているのだというのが、開館以来の私の気持ちです。国立というには、あまりにも恥ずかしいのではないかという気がしています。
今年、マスコミは被爆問題について非常に関心が高いように見受けられるのですが、その中の資料をめぐる内容は非常に少ないと思います。やはり被爆五十年で終わったのだという感を強くしています。マスコミに関する限り、報道のあり方が五十年と比較することによって一変しています。先ほど言った原爆被災実態や原爆資料への関心の低下は、マスコミだけではなくて全体にいえることだと思います。それから平和教育面ですが、ここに先生方が居られたら是非お話を伺いたいのですが小中高では非常に力が弱まっているように思います。その代わりといってはなんですが、幾つかの大学では活発になっており、広島市では「広島・長崎講座」というのを企画しています。現在の職場である女学院を例に見ても、年間を通じて何らかの形で原爆問題を取り上げています。また、被爆手記の出版活動は一体どうなっているのかということを昨年確認してみました。一九九六年以降、私の確認できた限りですので、もっと多くのものが出版されているはずですが、四百七点の書誌が出版されています。
最後に、新しい動きあるいは今後こういうものが色々な形で起こってくればいいということで幾つかの動きを紹介したいと思います。一つは、昨年出た本ですが『原爆と寺院―ある真宗寺院の社会史』(法藏館、二〇〇四年)という本です。新田光子さんという方は、関西方面の大学教員ですが、自分の実家が寺院ということで、或るお寺がどういう風に原爆に遭遇したのかというのを調べ始めたようです。中身は広島原爆戦災誌をベースにして、それに自分の個人的な関わりを加えているという本です。私自身は、広島原爆戦災誌を新たな形で作る必要があると思っています。この本は、そういう作業の一つだと思っています。次に、一昨日出版されました元大正屋呉服店を保存する会・原爆遺跡保存運動懇談会の『爆心地中島―あの日、あのとき―』も、爆心地域の事実というものを広島原爆戦災誌だけではなく、それ以後出版された手記集、あるいは今日生存している方々の証言を合わせてまとめられたものです。色々な地域を対象にこういう作業がやられる必要があると思っています。三つめは直野章子さんの『「原爆の絵」と出会う』(岩波書店、二〇〇四年)です。原爆の絵を全て見られたそうですが、見ている最中に、夜眠れないと言っていました。絵の情景が寝ても出てくるとも言っていました。この人は若い研究者ですが、広島市など様々な公共機関が集めている資料を、全部を見てみるというチャレンジは素晴らしいことだと思っています。この方は、この四月から九州大学大学院に就職が決まり、幸い今後も原爆問題をテーマとした研究を続けていきたいと言っておられました。
最後は、数野文明さんが、非常にマイナーで我々に見えない雑誌(『国文学研究資料館紀要 アーカイブス研究編』第一号、二〇〇五年)に執筆された「原爆とアーカイブ」という論文です。私は原爆被災で県庁の文書がすべて無くなったと教えられてきましたが、否そんなことはないということに途中で気がついていました。それを真っ向から取り上げ、一体原爆で失った行政資料はどれなのか、戦後行政の怠慢・責任で無くなった資料はどれなのかという事実関係を明らかにしています。非常に面白く読ませて頂きました。原爆問題全体について私が感じていたことですが、広島市や県の行政責任や市民自身の責任まで原爆の責任にするという広島の言説が、まま見られます。例えば占領期の問題では、アメリカ軍をみな悪者にしておけばいいというわけで、アメリカが悪かったからできなかった、占領軍が悪かったから原爆関係のこれこれができなかったという言説です。
原爆問題に関する課題は、文献資料だけを取り上げても、多くが残されています。私は、原爆問題に関心のある学生がいれば一緒に、『広島原爆戦災誌』のテキストをパソコンに取り込んで、活用していこうと思っていましたが、最近、広島市のホームページ上に掲載されているのを見つけました。広島市の当面やるべきことの一つとして、この本の改訂版の作成があると思っています。これは、何も本にする必要は毛頭なく、インターネット上でちゃんと見られるようにすればいいと思います。広島市へ全部これをきちんとやれと言っても、広島市もやることが多いし何も全部やってもらわなくてもいい。それぞれの団体、あるいは関わりのある人々がその改訂版を作っていけばいいと思います。私の場合は、今広島女学院にいますので『戦災誌』の広島女学院部分の改訂作業が、同窓会関係者や学生とともに行えればと考えています。また、折鶴の会の世話をしておられ、広島女学院中高に勤めておられた河本一郎さんの資料を原爆資料館が引き取って下さり整理されています。これらも女学院の関係者で活用させていただければと思っています。
五~六年前元の職場にいた折に、主に政府関係者に対し資料は無限にあるのだということを主張する根拠として、原爆被害関連組織の一覧表を作りました。一九四五年だけでも、三つがあります。これをずっと見ていくと、膨大な団体が生まれております。例えば、一九五七年九月十五日には原爆被害者大分県協議会というのが作られており、五七年三月二十九日には岡山県原爆被害者協議会というのが作られています。毎年、多くの被爆に関わる組織が作られてきています。これらは、資料を生んでいるはずです。そうした資料は、組織が消滅した後にどうなるのだろうか、それぞれの行動記録は残されていくのだろうかと考えると、はなはだ心もとない限りです。これは、広島、長崎あるいは関係者がやれば一番いいのですが、そういうことができないまま消えてしまうものも多くあったと思います。これらへの配慮を、国だけでは無理ですが、少なくとも全国的な運動にならなければならないといけないと思います。『広島県史』を作る折に、広島県予防課と広島市原爆被爆者対策課の資料調査をさせて頂いたことがありますが、原爆手帳交付申請書というのが保管されていました。これは、全国の各県庁にあるはずですが、恐らく広島県や長崎県を除く他県では、こういう資料の重要性を認識してもらうのは非常に難しいのではないかと思います。これら、他県にある資料を一体どうするのかということです。秋田県は、被爆者が全国で一番少ない県で、何年か前にすでに百人を切っていますが、そういった資料は今後どうなるのかということです。時間を四十分使ってしまいましたが、以上で終わります。

山崎与三郎の広島平和記念都市建設方案1949年9月20日

 

 

なぜ広島大学移転は決意されたか?

 第1節 大学紛争と大学改革構想
「六〇年安保闘争」後下火になっていた学生運動は、昭和四〇年(一九六五)以降、米軍のベトナム参戦と日本国内における米軍基地問題、日韓条約の締結、米原子力潜水艦の横須賀・佐世保などへの寄港などの問題をめぐり、新たな高揚を示すようになった。また、これらの問題とともに学費値上げ反対や大学民主化といった大学独自の課題をめぐる動きも見られた。さらに、昭和四三年(一九六八)に入ると、東京大学・東京教育大学・東京外国語大学・日本大学・九州大学などで全学的規模の「大学紛争」が生じたが、これらは大学の歴史の中でかつてみられなかった新たな事態であった。
東京大学での紛争は、一月二九日に医学部の学生が登録医制度に反対する無期限ストに突入したことに端を発し、六月には学生による安田講堂占拠に発展、さらに、これに対する機動隊導入により一挙に全学にエスカレートした。日本大学では、四月に大学の多額の使途不明金が明らかになったことが契機となり、学園民主化闘争が始まった。五月、全学共闘会議が結成され、体育会右翼系学生や警察と対決する中で全共闘系学生はヘルメットと角材で「武装」し、各学部に強固なバリケードを構築してストに突入した。九月に入り機動隊が導入されたが、全共闘は再三にわたってバリケードを構築し、九月三〇日には五万人の学生を結集して総長との大衆団交(団体交渉)をおこなった。
昭和四三年になんらかの紛争が起きた大学は、全国で一一六校にのぼっている。この年の紛争の原因では、学生会館・学寮をめぐる問題が最も多かった。そのほかに学園民主化問題、統合移転問題、学生処分問題などがあげられるが、大学ごとに見れば、ほとんどは、複数の問題を抱えていた。大学で繰り返されるバリケードによる学園封鎖とそれに対する機動隊導入といった事態は、大学だけでなく、社会全体に大きな衝撃を与えた。
広島大学では、昭和四三年二月、いわゆる羽田闘争・佐世保闘争に参加して逮捕された学生に対し、育英会奨学金が停止されたことをめぐって、育英会に抗議せよと主張する学生による川村智治郎学長の缶詰事件が起こった。さらに、この事件に対する処分をめぐり教育学部長拘禁事件が起こり、七月には青医連問題をめぐって医学部で短期ストが行われた。しかし、この年は、全体として平静であった。
昭和四四年一月九日、教養部学友会の活動家学生を中心に、広島大学学園問題全学共闘会議(広大全共闘)が結成された。彼らは、結成と同時に、①新学生ホールの自主管理、②生活協同組合の設立、③大学会館の自主管理、④体育館の自主管理と西条大学村の建設、⑤学生準則の撤廃、⑥寮炊婦の公務員化、⑦東大入試中止にともなう振り分け増募粉砕、⑧全学自治会連合の公認、の「八項目要求」を掲げた。このうち⑦は、文部省が東京大学の紛争激化にともない昭和四四年の入学試験を中止し、その定員を他の大学に振り分ける方針を決めたことに対し広島大学がその方針に追随しているとして、かれらが重点的に取り上げたものであった。また、二月八日の教養部の学生大会では、「八項目要求」に①オリエンテーション・セミナーを学生の手に、②大講義室の使用反対、の二項目を加えた一〇項目要求についてスト権確立の採決が行われ、その結果一一六五対一〇四一でスト権が確立された。
評議会は、二月一二日と一九日に全共闘との「団交」に応じたが、これには、それぞれ二〇〇〇人を超す学生が参加するという関心の高まりが見られた。しかし、この間の一五日に川村学長が疲労により辞任、交渉も成果をあげることができないまま、二四日の一部学生による教養部新館封鎖、二八日の全共闘学生による大学本部封鎖・占拠という結果を招いた。その後、紛争は学部ごとに進行した。封鎖も逐次拡大し、東千田地区のほとんどの建物と霞地区の医学部の建物が封鎖されるにいたった。四月以降、ストライキ決議をした学部・学科はもちろん、スト決議がなされないまま封鎖された学部においても授業の実施は困難であった。さらに、三月三・四の両日に学外で実施された昭和四四年度入学試験による合格者を迎え入れることもできない状況であった。
昭和四月二四日の投票で選出された飯島宗一学長は、就任受諾後の記者会見で、①どんな学生とでも徹底的に話し合う、②大学紛争の根本問題は、社会の急激な変化と学問の進歩についてゆけない大学の体質にあり、学内改革を全教職員で積極的に進める、③その場合、一大学の問題ではないので、社会一般や政府・文部省にも国立大学の一員として働きかけ理解を求める、と抱負を述べた。これらの抱負は、五月七日の発令直後から具体化された。学長は、五月一二日および一五日に、学生の要求する団交に応じた。二回の団交は、封鎖戦術による「帝国主義大学解体」やバリケードの中での「闘う秩序の形成」といった全共闘の要求と、学長の「バリケード封鎖を一手段として提起された課題にこたえるための封鎖解除要求」という対立点を明確にした。全共闘は、これ以後学長との団交には消極的となった。一方、教養部教官会をはじめ各学部教授会は、学長の話し合い路線を受けて、五月から七月にかけ、しばしば学生側との話し合い(団交)の場を持ち、事態の打開を目指した。
政府は、中央教育審議会の答申を経て、五月二四日、「大学の運営に関する臨時措置法」(大学立法)を国会に上程した。この法案は、紛争校の学長や文部大臣に、紛争を収拾するための教育・研究機能の休止・停止権を与え、収拾が困難な時の廃学措置までも盛り込んだもので、五年間の時限立法であった。大学側や野党は、この法案に強く反対したが、実質審議もないまま八月三日に可決成立し、八月一七日から施行されることとなった。
文部省は、八月一六日、この法律に基づく適用対象校(国立三八校、公立七校、私立二一校、計六六校)を発表した。広島大学もこの中に含まれ、教養部・理学部・教育学部は紛争六か月以上、文学部・政経学部・医学部も紛争中とみなされた。これにより、広島大学長は、文部大臣に紛争状況を報告する義務を負うことになり、また、発生後九か月まで紛争が続いた場合、文部大臣により大学の「機能停止」措置が取り得ることとなった。
紛争によって生じた長期間にわたる授業の行えない状況は、大学や学生にとって切実な問題となってきた。教務委員会の検討により、冬期休業を全く実施しないとしても、八月一八日に授業が再開されないければ、大量の留年が発生するということが判明した。留年学生には奨学金の停止措置がなされるという問題もあった。全共闘の方針に反対し、バリケードの封鎖解除、大学の正常化を要求する動きが目立つようになった。
地元市民や父兄の間からも紛争収拾への要望が現れるようになった。七月七日、東千田町構内周辺の一〇町内会長が、営業上の不利・損失、日常生活を脅かす騒音・示威等をあげて、不当行為の禁止と一日も早い紛争解決への努力を学長に要請した。八月三日には、教養部父母の会が初めて開かれ、学長に一日も早い授業再開を要望した。
飯島学長は、五月の学生との団交以来一貫して封鎖解除を学生に要請していた。六月二〇日と七月一四日には、大学立法の動きや学内の状況を踏まえ、改めて文書で学生・教職員に封鎖解除と大学の改革への理解を訴えた。また、八月四日には、全共闘議長宛ての公開質問状を発表し、八月一八日以降において授業を再開する用意があるとの意志表示を行い、自主的な封鎖・占拠の解除を求めた。
学内では、封鎖支持派の学生による学生・教職員に対する暴力事件が発生していた。また、広島大学の封鎖は、強固なものであり、封鎖解除の断行にあたっては、教職員・学生の人的被害の発生が予想された。学内には、警察力の導入に対する批判もあったが、学長は、警察力に頼る道を決断した。
学長は、七月下旬に、封鎖解除のための出動要請を県警本部長におこなった。しかし、警察側の準備等の都合から、それは、八月一七日に決行されることになった。同日午前五時、学長の退去命令伝達と同時に、県警始まって以来と言われる一二〇〇名の機動隊等による封鎖解除が開始された。バリケードのブルドーザーによる排除、学生の火炎ビンなどによる応戦、ガス弾の発射と放水が繰り返され、解除が終了したには、翌一八日一一時一五分のことであった。この後もしばらく、学内デモ、再占拠・再封鎖の動きがみられたが、これを契機に、学内の正常化は進展した。九月一日から教養部と理学部が授業体制に入った。また、一〇月に医学部の研究室封鎖が自主解除された。
広島大学の改革の必要性は、紛争を契機に、学内の共通認識となった。中国放送調査部が封鎖解除の一週間後に広島市民二〇〇人(二〇歳以上の無作為抽出)と広島大学教官一〇〇人(回収は九四人)を対象に実施した世論調査によれば、広島大学の紛争の原因についての回答は表*のようなものであった。学生側に原因があるという意見が半数近くある一方で、紛争の原因は社会の矛盾や大学自体が持つ古い体質にあるとするものが多く、それは、市民の間より教官に多く見られた。また、教官のほとんど(九〇人)が「大学改革をやるべきだ」と回答していた。

表1 広島大学紛争の原因について

市民 教官
教職員の指導力不足と怠慢 24% 22%
全共闘など一部の過激学生のハネアガリ 46 47
大学自体の古い体質・あり方 37 61
日本の社会全体の矛盾のあらわれ 41 68
その他・わからない 11

広島大学では、紛争が激化してまもない昭和四四年三月末に大学問題検討準備委員会が組織された。その意図は、単に紛争を解決するという視点からではなく、大学のかかえる問題を明らかにしようとしたものであった。この委員会は、四月三〇日に、大学紛争の根源を、「国際的緊張の持続と分極化、原子力戦争の危険、急激な技術革新に伴う高度産業社会ないし大衆社会化」といった国際的・社会的・文化的な変容に適応できない点にあるとし、諸問題の改革を検討するために大学改革委員会を設置することを求める答申をまとめた。飯島新学長は、就任直後の五月九日に広島大学改革委員会を設置した。さらに、同月二七日には広報委員会を設置し、紛争の状況や改革の動きなどの学内情勢を「学内通信」(昭和四四年六月二五日創刊)を通じて詳しく知らせる体制を整えた。
大学改革委員会は、紛争最中の五月下旬から、①広島大学の将来像、②当面する諸問題に関する改革、という二点の検討作業を開始した。その結果は、①の作業については「仮設(ヴィジョン)」という形で、また、②については建議シリーズとして公表された。結論を提示するのではなく、こうした形式がとられたのは、「運動としての改革」を目指していたからであった。
大学改革委員会が昭和四四年七月三一日に公表した「広島大学への提言(仮説0)」は、広島大学として初めて本格的に検討した大学の将来像であった。封鎖解除後の八月から九月にかけて部局ごとの説明会や討論会が行なわれ、一〇月には全教職員・学生を対象とした「『仮設0』に関する意見調査」が実施された。「仮設0」公表の二カ月後の九月二八日には、初めての建議(「当面の改革に関する建議-第一次」)が学長に提出された。この中で、当面の課題を詳しく検討し具体化するために、専門委員会を設置することが提案されていた。これを受け、既設のカリキュラム専門委員会(七月一五日設置)に加えて、「管理運営」・「大学院」・「財政問題」・「学生部改組」・「学内規則・処分制度」・「教育系」・「医歯学系」をそれぞれの検討課題とした専門委員会が一〇月から一一月にかけて設置された。また、各部局でも各種の改革委員会・検討委員会が設置され、「仮設0」などを踏まえながら改革案が作成された。
大学改革委員会は、昭和四五年九月に「研究・教育体制改革の基本構想(仮設Ⅰ-その1)」、「教育体制改革の構想(仮設Ⅰ-その2)」を公表した(なお、「研究体制改革の構想(仮設Ⅰ-その3)」は、翌四六年三月に公表)。このうち「仮説Ⅰ-その1」は、つぎのような目標や方針を盛り込んだものであった。
①広島大学を適正規模の総合大学として再編成する。医・歯・薬学系、教員養成過程系部局の分離、独立を考えることなく、相互扶助姉妹型の関係を持つ固有の位置づけを行う。
②旧大学廃止・新大学設置という方式によらず、現在の組織を基礎に漸進的に移行させる。
③広島市近郊にキャンパス用地を入手し、キャンパス統合移転と並行して、大学都市-都市大学の組み合わせによる大学を建設する。
④移行はまず教育組織の改革から着手し、ついでこれと相即する研究組織の改革へと進む。
⑤新キャンパスに作られる大学都市と現キャンパスの一部を用いる都市大学を結んで地域社会との協力を密接にし、市民社会への奉仕の機能を果たす大学を建設する。
⑥新キャンパス移転の際に厚生施設を抜本的に充実させ、大学を「生活の場」として再編する。
⑦中四国の近隣大学との交流を密にし、大学間の連帯を強化する。
⑧研究・教育体制整備の前提として、まず全分野に大学院博士過程を設置する。
⑨前項と同じ目的のために現行の教養部を中心に教養学部を設置する。
評議会は、あいついで作成・提出されたこれらの改革案や建議の具体化を検討するため、昭和四四年一一月一一日に将来計画特別委員会を設けていたが、翌四五年一二月一五日には、この委員会の下に、「一般教育・教養部問題」・「教員要請系問題」・「大学院・研究体制問題」・「キャンパス問題小委員会」を設置し、検討作業を行わせた。
改革案や建議は、具体化の可能なものから具体化が進められた。大学問題調査室の設置(昭和四五年二月)、開放講座の開設(四五年)、大学教育研究センターの設置(四七年五月)、総合コース開講数の増加といった一般教育の改革、学長や学生部長選考規程の改正(四八年)、教養部の総合科学部への改組(四九年)などは、それぞれ、紛争を契機に始まった大学改革の成果と言えるものであった。

第2節 いつ誰がどのように大学移転を決定したのか?
-統合移転構想の出現と西条移転の決定-
広島大学は、昭和二四年(一九四九)五月三一日、原爆被災によって壊滅的被害を被った広島の地に、明治期以後軍都として発展してきた歴史を反省し、国際平和を希求する新しい文化都市を建設したいという広島県民や大学関係者の熱い期待に支えられ、その核たるべき総合大学として誕生した。
これは、同日に公布された国立学校設置法(法律第一五〇号)に基づく措置であり、広島大学のほかに六八校の新制の国立大学が創設されている。新制国立大学の創設に当たっては、同一地域にある官立学校を合併して一大学とする方針が採られた。このため、全国的に創設当初の新制大学は、いわゆる「たこ足大学」となっているものが多かった。広島大学もその例外ではなかった。
広島大学は、広島文理科大学・広島高等学校・広島工業専門学校・広島高等師範学校・広島女子高等師範学校・広島師範学校・広島青年師範学校および広島市立工業専門学校の七校を包括・合併して創設されたものであり、大学の部局は、附属施設を除いても六市町村一一か所に分散していた。しかし、創設前の計画では、学部・分校の「分散的配置」は、「総合大学としての管理運営、およびその機能発揮になんら支障がないばかりでなく、かえって、文化の地方的普及の趣旨に合致するもの」(『国立総合大学設置計画書』昭和二三年)とされていた。
発足時の大学の組織は、本部と六学部(文学部・教育学部・政経学部・理学部・工学部・水畜産学部)、四分校(教育学部東雲分校・三原分校・安浦分校、教養部皆実分校)、一研究所(理論物理学研究所)、附属図書館の一三部局であった。その後、大学の整備・充実が、森戸辰男初代学長を中心に進められた。医学部(昭和二八年八月)・原爆放射能医学研究所(昭和三六年四月)・歯学部(昭和四〇年四月)が設置される一方で、教育学部安浦分校の同学部福山分校への改称(昭和二五年五月)、三原分校の廃止と東雲分校への統合(昭和三七年三月)などがおこなわれた。
キャンパスの統合は、当初からの主要な課題であった。発足時、広島市の東千田町キャンパスには、本部・文学部・理学部および教育学部(広島高等師範学校)附属学校が置かれていたが、昭和二八年八月からは教育学部が、三二年四月には政経学部が、さらに、三十六年三月には皆実分校(教養部)が教育学部附属学校と入れ替わることにより、同キャンパスに移転・統合された。また、呉市にあった医学部が、昭和三二年に広島市霞町に移転された。
広島県内五市四町一九地区への大学敷地の分散は、教育・研究の面のみならず、管理・運営上に、不利・不便を強いていた。中でも主要機能の集中が図られた東千田キャンパスには、狭隘さは、だれの目にも明かな状態であった。昭和四一年三月、理学部動物学教室のある講座の集まりで、「東千田町キャンパスの狭さが、理学部の発展にとって、物理的に一つの障害になっている」ことが嘆かれ、「大学の総合移転」の必要性が話題となったと伝えられている(西岡みどり「大学移転の一面」)。また、同じような事情にある他大学が移転統合を実現する中で、統合移転の問題が評議会の話題になったこともあり、昭和四三年度の概算要求の際、文部省側から移転統合について大学全体の統一見解を求められたといわれる。しかし、大学でこの問題が公式に取り組まれることはなかった。
広島大学の統合移転の問題を全学的な課題としてクローズアップさせたのは、大学紛争であった。紛争を契機に始まった改革論議では、当初からこの問題が取り上げられ、紛争の終息後には大学改革の重要な柱として位置づけられるようになった。
昭和四四年五月の「大学問題検討委員会準備委員会答申」は、キャンパス問題を取り上げ、キャンパスの統合と移転、分散する各キャンパスの活用方法についての検討を求めた。この答申を受けた大学改革委員会は、「仮設0」(四四年七月)において、「広島大学の将来を決定する最大の岐路は、われわれが総合大学として新たに脱皮するか、姉妹型の連合体となるか、分散してそれぞれ独立するかにかかっている」と問いかけ、委員会としては総合大学の道を志向するとし、さらに、「総合大学・姉妹型大学のいずれに向かうにしても、広大なキャンパスの入手には、早急に着手すべきである」と述べた。また、「当面の改革に関する建議-第一次」(昭和四四年九月)では、「総合キャンパス問題を含めた将来計画への着手」のための特別委員会設置を提案した。飯島学長自身も、昭和四五年四月に新入生向けに編集された「学生通信」の中で、「広島大学の未来像」について、「広島の郊外のひろびろとした、樹木と芝生の多いキャンパスに、ゆとりと機能性を備えて配置された大学の建物」を挙げ、そうした大学を作りつくる自らの願いを披瀝している。
昭和四四年一〇月に大学改革委員会が全構成員を対象として実施した「仮設0」に対する意見調査調査の結果が翌四五年一月に明らかにされた。学部・分校・教養部の改組再編のための方策として「キャンパス統合」・「研究条件の低下防止」・「学生数/教員数の比の減少」・「全教員の業績審査」・「研究・教育の適正分担」という五つの選択肢が設けられていたが、意見は分かれ、それぞれ二〇%前後という結果が出ている。「キャンパス統合」は、目前の改革課題としての比重は必ずしも高いものではなかった。また、学長や大学改革委員会・将来計画特別委員会により進められているキャンパス統合への模索について、学内では、さまざまな疑問や心配が生まれてきた。当時、政府の中に「筑波学園都市構想」が生まれていたが、広島大学もその例を倣うのではないかという声があった。また、広島大学改革の中で統合移転の持つ意味が問題となった。
大学改革委員会が昭和四五年九月に「仮設Ⅰ」をまとめるが、その中では、「仮設0」の公表からから一四か月の間に、学内に生まれたこうした疑問・心配に対する委員会としての見解が述べられた。「筑波学園都市構想」については、筑波新大学のように、東京教育大学の廃止による新大学の設置という方式は取らず、「漸進的な移行の方式」を提案した。また、大学改革と統合移転の関連については、つぎのような見解を表明した。
①分散したキャンパスの統合は、真に「総合」大学としての実質を備えた大学への研究・教育組織再編のための、必須の前提条件である。
②郊外への移転は、大学の「大衆化」などから生じた、いわゆる「人間疎外」の状況を克服するため、厚生施設を抜本的に充実し新しい「生活の場」としての大学を建設する前提条件である。
③統合移転は、都市大学と大学都市を結んで地域社会へ奉仕の機能を果たし、「地方大学」としての新しいあり方を追及する基礎条件である。
(大学改革委員会「仮設Ⅰ(その1・その2)の公表に当たって」)
キャンパス候補地については、将来計画特別委員会の専門委員会により昭和四四年七月ごろから資料収集が始められ、その作業は、昭和四五年一二月に改組されたキャンパス問題小委員会に引き継がれた。昭和四五年には候補地の視察も行われるようになっていた。小委員会は、広島市近郊を中心にキャンパス候補地を独自に取り上げて検討するとともに、広島県・広島市の関係者ともしばしば情報交換を行った。また、学長は、大学改革・整備拡充、キャンパス問題について文部省との意見交換を行い、広島県知事・広島市長・福山市長との懇談の機会を持った。この中で、学長が述べたキャンパスについての構想はつぎのようなものであった。
(一)新キャンパスはおよそ三〇〇平方米を予定し、さしあたり医・歯・薬・病院および附属学校などを除く大部分の部局が集中する。
(二)改革委員会仮設Ⅰに示されたキャンパス概念図では研究・教育・厚生空間一三〇平方米、運動場・農場など一〇〇万平方米、学生宿舎、職員宿舎用地七〇万平方米と見込まれ、なお、居住コロニーの構想がある。主キャンパスの建築および環境は従来の基準にとらわれることなく高度かつ新鮮なものを設計する。
(三)医・歯・薬は病院を中心にさしあたり現キャンパスにとどまり、メディカルセンターを形成する。
(四)広島市・福山市内のキャンパスの一部は保有し、夜間部の教育・開放講座その他地域市民のための大学センターを構想する。
学長は、昭和四六年五月一一日の評議会に「キャンパス問題に関する覚書(1)」を提出し、その中で、こうした経緯を明らかにするとともに、広島市近郊での土地開発の急速な進展や地価高騰などの事情から、「現実的な推進をはかるべき必要性」が生じたとして、各部局での検討を要請した。五月二五日の評議会は、各部局での検討結果を踏まえ、「適当な用地を確保・入手し、大学の自主的な改革がそこに実現するという方向でキャンパス問題に関し必要な外部に対する諸手続きをすすめる」ことを決定、六月二五日には、昭和四七年度新規概算の中に統合整備についての調査費を要求することとした。この予算要求は、昭和四七年度政府予算において、研究体制の整備、教養部及び一般教育の改革、教育系の研究・教育体制改革の諸問題と合わせて「広島大学改革総合調査費」として認められ、約三七〇万円が計上された。
一方、対外的手続き面では、一二月九日に、広島大学統合整備推進協議会が設立された。これは、キャンパス問題が、広島県・広島市の将来計画との関係など地域社会の発展に密接に関連するものであり、大学としてもあらゆる点で地域社会の協力を必要とするところから、地域社会の内部および地域社会と大学の連絡調整の場として、大学側から設定を求めていたものであった。設立総会は、広島商工会議所で開催され、会長に永野県知事、副会長に山田広島市長、顧問に県選出の国会議員が選出された。文部省・政府による「調査費」計上が、政府・文部省による「大学改革の一環としてのキャンパス移転」の容認とすれば、この委員会の設立は、それが、地域社会により受け入れられたことを意味するものであった。
キャンパス問題小委員会は、昭和四六年一二月に広島市周辺約三〇キロメートルの範囲内のキャンパス候補地に関する第一次的な基本調査を終了した。昭和四七年一月一八日の評議会は、キャンパス用地を全学的に調査検討するためこの小委員会を解消し、全部局から選出された委員と専門委員からなる「キャンパス用地調査委員会」を設置した。
キャンパス用地調査委員会は、昭和四七年六月、候補地を、キャンパス問題小委員会が選定した二四か所のうちから西条町・可部町・五日市町の三地区にしぼり、地形・地質・土質・給排水関係・農場用地関係などの調査を行い、九月に「広島大学キャンパス候補地の自然的条件に関する調査書」をまとめた。
一方、大学改革委員会(第四次)も、キャンパス移転問題が急速な決断を必要とする時期にさしかかっているとの判断から、これに対応するため、昭和四七年七月に、生活環境専門委員会と継続教育・生涯教育専門委員会を設置した。生活環境専門委員会は、教官のみでなく教職員組合や学生諸団体などの代表も加わった組織で、同月に教職員組合とともに候補地を視察した。また、八月三〇日には、部局長が候補地を視察している。
学長は、こうした学内におけるキャンパス問題についての検討作業の進展を踏まえ、昭和四七年九月一二日、キャンパス用地調査委員会の調査報告書に「キャンパス問題に関する覚書(2)」を付して、評議会に提出し、全学に公表し検討することを求めた。「覚書(2)」は、「覚書(1)」以後の学内外でのキャンパス問題をめぐる経過を述べ、①統合移転の確認をおこなう、②移転先の用地の選択については学内における意見の分布を明らかにする、③ただし最終的かつ形式的な用地の選定は学長に一任する、④移転および用地の学長への注文は充分つける、という今後の意志決定のあり方を提起したものであった。
「覚書(2)」の公表以後、大学のさまざまな組織が、統合移転の学内意志の統一に向けた試みを行った。広報委員会は、「学内通信」の九月二五日号をキャンパス問題の特集にあて、「覚書(2)」ととともに「統合移転に関する経緯」や「広島大学キャンパス候補地選定資料」などの参考資料を掲載した。また、学内に存在する移転に対する不安や疑問について学長へのインタビュー(一〇月三日、一六日)を行い「学内通信」に掲載(一〇月二〇日、一一月四日号)する一方で、統合移転についての意見募集を行い、一一月七日号を特集「統合移転問題について私はこう思う」に当てた。
キャンパス用地調査委員会は、一〇月には「広島大学キャンパス候補地の社会的条件に関する調査書」をまとめた。また、生活環境専門委員会は、一〇月には、新キャンパスに期待される生活環境に関する試案を「教職員・学生の生活環境について(中間報告)」として公表した。試案は、新キャンパスに対する委員の期待をそのまま集約した一種の「バラ色プラン」であった。例えば、その中には、都市部から離れていることから、文化レジャー施設を求め、三〇〇〇人収容の公会堂、劇場や野外音楽ホール、二〇〇〇席の大図書館、ショッピングセンター、ボウリングやコンパのためのレジャーセンターなどが盛り込まれていた。
一一月四日には、学長など大学当局者八人が、学生の意見を汲み上げるため、移転問題をめぐる学生との討論会(大学祭の一環として東千田町の大学会館で開催)に出席した。しかし、この会に参加した学生は一五〇人あまりであった。理学部院生協議会・生協事務局・「大学を考える研究者の会」などによる統合移転反対の意思表示がみられたが、学生や職員の間では、移転問題に対する関心に大きな盛り上がりは見られなかった。教職員組合が同月上旬に全組合員(一八八六人)を対象とした移転に関するアンケート調査(回答数一三四一人)の結果では、移転に関する論議が「十分行われた」と答えたのはわずかに五%、四九%が「十分でない」でないとの回答であった。
一方、各部局においては、「覚書(2)」から二か月余の間、統合移転についてのアンケート調査を含むさまざまな検討が行われた。その結果、つぎのような統合移転についての意見が明らかになった。

文学部 消極的賛成を含めると六二%の賛成、三八%の反対。
教育学部 条件つきで賛成が多数。
東雲分校 全員賛成。
福山分校 教職員ともに大多数が賛成。
政経学部 教授会では反対。事務職員は、賛否半々。
理学部 賛成多数。
医学部 統合に反対という意見はない。事務系は、生活問題に条件をつけて賛成意見が多数。
医学部付属病院 医師・技師・看護婦・事務職員各層ごとのアンケート調査の結果、条件つきを含めて各層、六〇~八〇%が賛成。
歯学部 賛成八五名、反対一四名、どちらとも言えぬ三名。
歯学部付属病院 教官は学部の調査に同調。事務系は三分の一が賛成、三分の二が大学の決定に従うという意見。
工学部 賛成三六名、反対二名。
水畜産学部 賛成八九名、反対二二名、その他七名。
教養部 条件つきを含めて賛成約七五%、反対一〇%。
理論物理学研究所 大部分が賛成。
原爆放射能医学研究所 大体賛成。
図書館 条件つきを含めて賛成。
大学教育研究センター 条件つき賛成。
事務局・学生部 条件つきを含めて賛成六〇%、反対一三%、その他どちらともいえぬという意見。

(一一月二四日の臨時評議会での報告による)

部局の大半が統合移転を支持している中で、政経学部だけが反対の意志表示を行っているが、①社会科学部門の充実、②第二部は現状どおり存置して学部教職員を増員する、③管理運営は筑波型にしない(移転前に自主的改革案の完成)など五つの条件が満たされるなら敢えて反対はしない、としていた。
こうした作業を経て、評議会としての結論をまとまるため、一一月二四日に臨時評議会が開催された。評議会では、各部局での検討結果の報告後、つぎのような決定がなされた。
一、評議会は、統合移転の意志を決定する。
二、評議会は、各部局から提案された統合移転に当っての諸条件を確認し、記録にとどめる。
三、評議会は、用地の決定に関しては、学長に一任する。
四、評議会は、統合移転意志決定に当って別紙の事項を申合わせる。
決定第四項にある別紙の中では、「統合移転の目的」を「理想的な大学の創造」とし、つぎの点を最も重要な要件とすることが申合わされた。
イ、学問思想の自由、大学の自治をまもり、統合移転の遂行にあたって大学の自主性をつらぬくこと。
ロ、全学の合意にもとづく、大学の改革・整備・充実の実現をはかること。
ハ、教職員・学生の生活条件の改善・確保に特に力をつくすこと。
移転決定に至る論議の中で、教職員からさまざまな意見・疑問・心配が表明されていたが、決定事項第二項および申合わせの各項目は、それらに対する評議会としての回答とでも言えるものであった。なお、決定事項第二項については、一二月一二日の評議会で、各部局からの統合移転に関する条件を文章化したものが正式に受理され、確認された。
昭和四七年六月の評議会は、学内の委員会における調査が進行中であったことから、四八年度概算要求には、移転地購入予算は要求せず、再度調査費を要求することを決めた。ただし、文部省には、大学の意志決定がなされ、四八年度における財政措置が必要と見込まれた場合には、その実現を流動的かつ積極的に考慮してくれるよう申し入れていた。昭和四八年一月、統合移転のための用地購入経費として、文部省関係の財政投融資の枠の中から初年度分として一七億円(約五〇万坪=一六五万平方メートルの用地取得財源)が支出される見込みとなり、二月八日、学長は移転統合地を賀茂郡西条町御薗宇地区とすることを決定した。
第3節 なぜ移転先は西条(東広島市)になったか?
広島大学将来計画特別委員会の「キャンパス問題小委員会」は、昭和四六年一二月までにキャンパス用地の候補地として二四か所の資料を収集していた。マスコミでは、学長が昭和四六年一二月の広島大学統合整備推進協議会の設立総会の席上で、候補地を一五カ所と説明したことや、昭和四七年六月一三日の第二回協議会において、五~六カ所に絞ったと報告したことなどが報道された。また、西条町・可部町・五日市町・安芸町(安芸郡)・廿日市町(佐伯郡)などの誘致の動向が新聞紙上を賑わせた。しかし、こうした候補地に関する情報が、大学から学内に公表されることはなかった。それが初めてなされたのは、昭和四七年九月一二日に公表された学長の「キャンパス問題に関する覚書(2)」においてであった。学内には、統合移転の意志確認を行った上で用地調査に入るべきだとする意見があったが、学長は、この「覚書(2)」において、学内構成員に、統合移転の賛否を問うと同時に、キャンパス用地の候補地として西条地区・可部地区・五日市地区の三カ所を提示し選択を求めた。
キャンパス候補地の選択にあたっては、いくつかの条件が設けられていた。統合移転を求める理由の一つに現キャンパスの狭隘・過密があったことから、広大な敷地が確保できることが必要であった。具体的には、三三〇ヘクタール(一〇〇万坪)が要望された。キャンパス用地調査委員会の調査では、整地後の有効利用面積は、西条=約四〇〇ヘクタール)、可部=二七二ヘクタール、五日市=三五五ヘクタールであり、可部では敷地が確保されないことが判明した。候補地は、広島市近郊とされており、キャンパス問題小委員会は広島市周辺約三〇キロメートル圏内に候補地を求めた。広島大学本部からの距離から見れば、五日市(=八キロメートル)、可部(=二〇キロメートル)、西条(=二五キロメートル)と遠ざかっていた。
移転は、大学の意向だけでなし得ることではない。地域社会の受け入れ態勢も重要な条件であった。広島大学の誘致に一番早く乗りだしたのは西条地区であった。昭和四六月一九日に賀茂地区開発協議会として陳情書を提出されたのをはじめ、西条町(一一月二二日)・国立広島大学誘致西条町期成同盟会(四七年昭和四月一四日)・西条町・八本松町・高屋町(五月一二日)の名前でも提出されている。可部町では、昭和四五年末から広島大学誘致のために候補地の選定作業を始めていた。昭和四六年九月の町議会で「可部町広島大学誘致特別委員会」を設置し、一一月に陳情書を提出した。また、翌四七年三月には町長を中心に町の有識者一一人が「広島大学誘致世話人会」を結成した。佐伯郡五日市町でも、昭和四六年九月に県立高等学校と広島大学の誘致を含む「五日市町振興開発長期基本計画」を作成し、翌四七年二月に町長や町議会議長が広島大学に陳情を行った。
昭和四七年九月一二日に、学長の「覚書(2)」とともに公表されたキャンパス用地調査委員会の報告書には、三か所の候補地のついてのこうした基本情報が含まれていた。これらをもとに各部局での検討が行われている最中の一一月一九日、マスコミが、県の策定班がまとめた「学園都市の整備に関する報告書」の内容を一斉に報道した。広島県は、昭和四七年六月、企画部内に学園都市整備計画策定班を組織し、広島大学の移転先の検討を独自に初めていた。報道された報告書は、策定班が八月にまとめたもので、そこでは、「絶対的優位性を示す候補地はみられないけれども、次のような理由から、賀茂郡西条町御薗宇地区を中心に学園都市を建設することが適当と認められる」と結論づけられていた。
報告書によれば、広島県が考えた広島大学の移転先の立地条件はつぎのようなものであった。
a、広島広域都市圏の教育文化機能を分担するために、広島市の都心部からほぼ一時間圏内にあること。
b、現在の通勤・通学者の流れを逆にする上で役立つことが望まれるために、市街地外縁部に立地させるべきであること。
c、東京、大阪などの大都市、松山、松江などの中四国主要都市、および都市圏内の主要都市と、既存および計画中の交通施設によって結ばれること。
d、用地取得が容易で、造成費が安く、災害などの被害の少ない場所であること。
e、周囲の眺望がよく、大学のもつ潜在エネルギーが地域発展に活用される可能性をもつこと。
f、上・下水道などの施設が地域整備計画などと一体であること。
また、西条町を選んだ理由としては、つぎの点があげられている。
a、広島地区の補完的機能を有し、賀茂地区開発協議会の総合開発協議会の総合開発計画では研究学園都市の形成を意図している。
b、数百ヘクタールの用地確保が可能で、オープンスペースに恵まれている。
c、人口が増加しているので、公共投資により、スプロール化を防ぎ、計画的な都市づくりが可能である。
d、国鉄、国道、県道で周辺主要都市と結ばれているが、新たに建設される山陽自動車道、国鉄二号線バイパスにより、さらに交通が密になる。
広島大学では、まだ、候補地の決定を検討中のことであり、学内では反発も見られた。これに対し、一〇月に県からこの資料の提供を受けていた学長は、「県が広島移転について調査研究をしているのは前から知っていた」、「県・市などがそれぞれの立場でデータをつくり検討してくれることは大学としてもありがたい」と述べる一方で、「大学側としてはあくまで大学各層の最多意見をまとめて自主的に態度を決める基本線を守るだけだ」と語っている。
キャンパス候補地についての学内の意見の集約は、昭和四七年一一月二四日の臨時評議会において行われた。ここで明らかにされた部局ごとの意見は、つぎのようなものであった。

文学部 西条が最も多く、五日市・可部の順。
教育学部 五日市・西条を希望する意見が圧倒的に多かった。
東雲分校 西条・五日市が大多数、可部は少数。
福山分校 西条が大多数、五日市が少数。
理学部 五日市・西条はほぼ同数で可部はゼロ。
医学部付属病院 各層とも西条が多い。
歯学部 西条・五日市・可部の順。
歯学部付属病院 西条・五日市がやや多い。
工学部 用地は学長一任(組合のアンケートでは、西条・五日市・可部の順)
水畜産学部 西条が圧倒的に多くついで五日市、可部は少数。
教養部 約半数が西条を希望し、ついで五日市、可部の順。
理論物理学研究所 西条が圧倒的多数。
原爆放射能医学研究所 学長一任。
図書館 西条が約半数、五日市と可部がほぼ同数づつ。

政経学部、医学部、大学教育研究センター、事務局・学生部は、意見を述べていないが、表明された限りでは、新キャンパスとして西条を求める意見が圧倒的に多く、可部は敬遠されていることが明らかになった。
教職員組合が一一月上旬に実施した調査結果も、西条(二四%)、五日市(一七%)、可部(一〇%)の順であり、同様の傾向を示してした。
昭和四八年二月八日、学長は統合移転用地を西条町と決定したが、その理由はつぎのように述べられている。
西条町を選択したのは、学内における意見分布を基本として、自然的・社会的条件ならびに地域社会の受入れ態勢を勘案した結果であり、なかんずく評議会決定にあたって各部局から提案された諸条件の主要なものを実現しうる見通しに重点をおいて考慮しました。西条とともに学内で多くの関心が寄せられた五日市地区についても積極的に検討しましたが、いわゆる虫食い状況の急激な進行、諸種の事情による地価の高騰、広島市との合併計画の遅延などの諸理由から用地取得の確信がえられず、また可部地区からはかさねて招致の要望がありましたが、これも具体的諸条件の打開に見通しを確保しうるに至りませんでした。(飯島宗一「統合移転用地の決定にあたって」)

ニューヨーク・タイムズ原爆関係記事目録(1947~83年)

ニューヨーク・タイムズ原爆関係記事目録1947~83年

47 02 09 42-3 UP WASHINGTON, Feb. 8
[広島爆撃にNolden照準器が、Smithsonian Institution に寄贈されることになる。]
47 07 19 6-2 AP HIROSHIMA, Jul. 18
[オーストラリアのペニシリン1500万個が赤十字病院に寄贈される。]
47 12 08 1-7  UP HIROSHIMA, Dec.7
Hirohito Rules Out New ‘Pearl Harbor’
47 12 08 24-2
HIROSHIMA VIA PEARL HARBOR
48 08 12 23-8  LONDON Aug. 11 by Clifton Daniel
Widespread Shame in America Over Use of Atomic Bombs Reported by a Scientist
[精神心理学者の集会で、G.R.Hargreaves 博士が、アメリカは原爆使用について 罪の意識を持っていると語る。]
49 07 01 21-4  WASHINGTON, Jun. 30
[広島攻撃に使用されたB29、7月3日にスミソニアン協会に公式に渡される 予定。]
50 07 16 13-1  PARIS Jul.15
[浜井信三広島市長、広島の犠牲者は20万人を超すと語る。]
57 11 17 2-6  Reuters HIROSHIMA Nov. 16
[日本被団協の藤居平一、ソ連の医師から長崎の被爆者に対する無料治療の申し出があったことを発表。]
58 02 03 1-1  By Wayne Phillips
[トルーマン前大統領、昨夜のテレビ向けインタビューで原爆投下に言及。]
58 02 14 2-6  TOKYO Feb. 14
[広島市議会、トルーマンの発言に抗議。日本の新聞も、トルーマン発言を非難。]
58 03 15 1-3  KANSAS CITY, Mar.14
[トルーマン、原爆投下非難に反論、仁都栗司広島市議会議長への書簡を公表。]
58 03 19 30-7
[(投書)トルーマンの書簡に賛同]
58 03 22 16-6 by James J. Flynn[Fordham 大学歴史学準教授]
[(投書)トルーマンの書簡について]
58 03 23 21-1 Reuters HIROSHIMA Mar. 22
[広島市議会、トルーマンに再考を促す]
58 06 12 33-5 HANOVER Jun. 11
[28歳の英語女教師 Le Moyne Goodman、生徒が原爆投下を非難する作文を書いたことを理由に辞職をせまられる。]
58 06 19 27-5 HANOVER Jun. 18
[教育委員会、女教師Goodman の辞職問題について語る。]
58 06 21 21-6  HANOVER Jun. 20
[女教師Goodman、辞職を決意する。]
59 05 30 2-1  CAMP HILL May. 29
[エノラ・ゲイ号は、現在アンドリューズ空軍基地にある。将来は、スミソニア ン国立航空博物館に収められる予定。]
60 08 07 32-4
[(写真)戦争終結を報じるニューヨーク・タイムズを手に、15年前を回顧す るチベッツとフェアビー。]
63 12 07 2-3 AP TOKYO Dec.7
[東京地裁、原爆投下は国際法違反との判決を下す。]
64 05 06 3-6  AP INDEPENDENCE,Mo., War.5
[広島・長崎の8人の被爆者、トルーマンと会見。]
70 07 12 10-1 UPI TOKYO Jul.11
[柳田ヒロシ、23人の米兵が原爆により広島で死亡したと語る。]
70 07 12 10-1 UPI WASHINGTON Jul.11
[ペンタゴンのスポークスマン、米兵の広島での死亡を否定。]
70 07 21 13-1
[ニューヨークの文化センターで、8月4日から10日まで、広島・長崎展が開 催される予定。]
71 04 16 14-3 By Junnosuke Ofusa, HIROSHIMA, Apr.15
[天皇・皇后の広島訪問の模様]
71 04 17 12-3 HIROSHIMA, Apr.16
[天皇、広島の感想を語る。]
71 11 24 37-5 By Deirdre Carmody
[広島原爆の日誌、37,000ドルの値がつく。ルイス所蔵のもの。]
71 12 27 1-5  By B. Drummond Ayres Jr. KANSAS CITY, Dec.26
[33代大統領トルーマン、88歳で死亡。]
76 10 13 4-6  AP HIROSHIMA Oct.12
[荒木広島市長、原爆投下ショーに抗議。]
77 09 12 32-5
[(投書)原田東みん、Maurine Parker、連名で、テキサス州ハーリンゲンで開催 予定の航空ショーに遺憾の意を表明。]
78 06 04 40-4
[(写真)国連ロビーにおけるヒロシマ・ナガサキ写真展]

1977年
3月19日(1頁-5段) MAJORCA,SPAIN
WILLIAM L.LAURENCE(アラモゴードの歴史的な核爆発に立ち会い、被爆直後の長崎を取材した記者)死去。89歳。
5月17日(3-1)(写真) 原爆ドーム。
5月17日(3-3) BY HENRY KAMM 、ヒロシマ
カーター声明のヒロシマでの反響。
5月22日(1-3) BY HENRY KAMM 、ヒロシマ
原爆乙女佐古美智子へのインタビュー。
8月 7日(24-1) BY GLANDWIN HILL 、SAN CLEMENTE 8.6
SAN ONOFRE 原子力発電所に向けて行われた反核デモの模様。
8月10日(6-6) AP ナガサキ 8.9
長崎の平和記念式典の模様。
8月14日 (Ⅶ10頁) BY DREW MIDDLETON
GORDEN THOMAS, MAX MORGAN WITTS 共著「エノラ・ゲイ」の紹介。
9月12日(32-5) (投書) 原田東岷・MAURINE PARKER 連名で、テキサス州ハーリンゲンで開催予定の航空ショーに遺憾の意を表明。
9月30日( Ⅳ17頁)(人物紹介) TRAVIS MACNEIL= 退役空軍少将でテキサス州の航空ショーの責任者。
10月11日(42-1)( 人物紹介) GENERAL PAUL TIBBETS
1978年
1月 7日(1-4) BY MALCOLM BROWNE
第2次世界大戦中の日本における原爆開発の紹介。
6月 4日(40-4) (写真) 国連ロビーにおけるヒロシマ・ナガサキ写真展。
7月 7日 (Ⅱ 2頁) BY JOSEPH B. TREASTER
7月 1日、59歳で死去したCLAUDE EATHERLY の紹介。
7月14日(2-1) BY ANDREW H. MALCOLM ナガサキ長崎の歴史と被爆の紹介。
7月24日(2-1) BY DAN LEVIN, HICKSVILLE,N.Y. マリアナ紀行。原爆爆撃機発進基地の紹介。
8月 7日 (Ⅱ13頁)(写真) LACEY TOWNSHIPの広島記念祭の模様。
11月12日(17-1) UPI BIRMINGHAM 11月11日 P.W.TIBBETS,「核戦争を避けるために、われわれはあらゆる努力をしなければならない」と語る。
11月16日 (Ⅲ20頁)(人物紹介) エノラ・ゲイ搭乗員R.LEWIS 。彼の飛行日誌が 8万5000ドルで売却される。
1979年
6月 9日(12-1) 8月 9日原爆攻撃直後、長崎に進駐した元アメリカ海兵隊員に骨髄性ガンが多発していることが判明。
7月 2日 (Ⅳ6-4) 国際協力による国立科学アカデミーの研究によれば広島の被爆者の22%、長崎の被爆者の33%は10ラド以下の被爆量であることが判明。また、被爆Ⅱ世への遺伝的影響は見られないこと、被爆者の死亡率は非被爆者の死亡率よりも少し低いことがわかる。研究者たちは、低レベルのLET放射線による細胞の損傷はしばしば回復していると信じている。
7月23日 (Ⅱ4-2) PAUL DOUTRICHハリスバーグ市長、核被害のもう一つのシンボルである広島市と姉妹都市縁組をしたいとの意向を表明。これを提案したの
は、核絶滅に反対する日米教授連合というカルフォルニアの団体である。会長の JOHN SOMERVILLE は、市長の意向は、広島で大歓迎されるだろう
と語る。
7月29日(18-1) 原爆に被爆した 600人の公務員に年6日の超過休暇を与える計画。3600人の被爆者のうちの 600人は、他の人々より多くの病院治療が必要。
8月10日(3-3) 日本の8月に行われる3つの大きな行事-広島・長崎の原爆記念日、ヒロヒト天皇による降伏記念日-の紹介。日本では、原子力にたいする反
対の大きな声は、原爆反対の声が大きいにもかかわらず、存在しない。
8月10日(13-3) 原爆被爆者-骨髄性ガンの元米海兵隊員HARRY COPPOLA を含む-長崎平和記念公園に参集。17000 人が参加。 8月 6日には、広島で3万人
が同様の式典。
8月15日(22-1) スタンフォード大学 BARTON BERNSTEIN 教授が、1945年 8月 6日の広島原爆攻撃により数人の米兵捕虜が死亡、また、1945年10月 9日付け
の米軍向け日本政府連絡によれば20人の米兵捕虜が死亡していると発表。国防総省にこれらについての説明を求める論説。
8月23日(16-1) 12人以上の米兵捕虜が広島で原爆の犠牲になった可能性。飛行士RALPH J.NEELとNORMAN R.BRISSETの運命。NEELの横顔と彼の母親の写真。
9月 2日 (Ⅳ14-5) PHILIP PARK 師の 8月23日付け米兵捕虜の記事についての投書。原爆攻撃時、広島には4800人の日系アメリカ人がいたと指摘。なお、長崎
の数は不明。
1980年
6月16日(20-1) 広島・長崎に投下された原爆の製造に従事したアメリカの科学者600人、35周年を記念してロス・アラモスに集合。
6月22日(40-3) 広島の被爆者、公衆衛生を専門とするアメリカの科学者とともに上院の健康と科学研究に関する小委員会の核戦争が人間の健康に及ぼす影
響についての公聴会で証言。
6月23日(22-5) R.H.HODGEの手紙。トルーマンが原爆攻撃以外の手段を検討していなかったことについて論じる。
8月 3日(37-3) 最近ガンで死亡したHARRY COPPOLA 、1979年 8月に長崎の平和記念式典に参加した際、広島・長崎に被爆直後進駐したアメリカ人の間で放
射線障害が多発している語った。今年の式典に参加している彼の息子MICHAEL が最近ガンで死亡した6人の海兵隊員のリストを日本人に提供す
る予定。米国退役軍人局の役人、彼らの訴えには根拠が無いとコメント。
8月 6日(3-3) 数千の人々が原爆攻撃35周年を記念して広島に参集。
8月 7日(9-1) 日本の記念行事。
8月10日(37-1) 長崎原爆攻撃35周年を記念して ROCKY FLATS核兵器工場で平和行進をしていた28人、逮捕される。
8月12日(12-5) 核防衛局、広島・長崎に進駐したアメリカ人にガンが多発しているという主張には根拠がないと発表。
11月24日 (Ⅲ14-5) 広島に原爆を投下した飛行士POUL W.TIBBETS、NBC-TV番組「エノラ・ゲイ-男・任務・原爆」の中で、原爆攻撃任務にあった兵士
たちの生活は、彼らの任務ののろいにより破滅的なものとなったという物語を否定する。番組の85%で企業家として成功した元兵士たちを描く。
12月 7日 (Ⅶ39頁) MILLEN BRAND 著「平和行進-長崎から広島へ」の紹介。
12月22日(4-3) JOHN PAUL Ⅱ法皇、日本訪問中に広島・長崎の20万人の犠牲者に祈りを捧げ、原爆症で入院中の被爆者を見舞う予定。
1981年
2月23日(3-4) JOHN PAUL Ⅱ法皇、日本訪問中の5日間に広島・長崎を訪問の予定。
2月25日(2-3) JOHN PAUL Ⅱ法皇、広島を訪問。
2月26日(4-4) JOHN PAUL Ⅱ法皇、長崎を訪問。
3月28日(23-5) 長崎大学市丸道人教授による核戦争の恐怖についての解説。
5月16日(11-1) 広島・長崎の住民が原爆によって被った放射線量の評価に疑い。
8月 6日(8-1) 広島で原爆被爆第36周年記念式典。荒木市長、日本政府が非核三原則を堅持するよう訴える。 4万人以上が参加。
8月 6日(8-1) 日本人科学者による白書、広島・長崎の被爆者の後障害・社会的心理的被害の全体像を明らかにする。
8月 9日(5-5) 長崎で 5万人以上が軍備競争の中止を要求してデモ。
8月 9日 (Ⅶ 1頁) 広島・長崎両市編「原爆の物理的・医学的・社会的影響」の紹介。
8月10日(2-3) 広島・長崎両市で原爆被爆直後に生まれた子供たちについて。
8月21日 (Ⅲ32-1) 「忘れがたき火」。被爆者の描写した絵を日本の放送局が編集。
10月 3日(2-4) 広島市長、米ソの核実験に抗議して電報を打電。
10月 8日(20-1) ワシントン地裁判事JUNE L.GREEN、復員軍人局と核防衛局が核攻撃直後の広島・長崎両市で復旧作業に従事した2000人の復員軍人の障害や死亡について不当な判断を採用していると判決。判決は、広汎な意見を認
める新しい判断を行うよう求める。この集団訴訟は、原爆復員軍人全国協議会により提訴されたもの。
1982年
3月23日(19-1) 4人の広島の被爆者、KENNEDY・HATFIELDの両上院議員により組織されたワシントンでの公聴会で核戦争の恐怖について証言。
8月 1日 (ⅩⅩⅠ3-3) ニューヨークの平和団体「長い島連合」、広島攻撃を記念する行進を計画。
8月 6日(1-1) JAMES B.EDWARDエネルギー省長官、アメリカの核実験に立ち会ったことについて、わざと広島原爆記念日に合わせたわけではないと語る。
8月 6日 (Ⅱ4-1) 広島原爆資料館について。
8月 7日(2-1) 広島市平和記念式典。市長、アメリカの新たな核実験に抗議。
8月 7日(27-5) 広島攻撃についてのRAFAEL STEINBERGの論説。
8月 7日(31-1) 反核グループ、広島攻撃を記念してニューヨークでデモ。
8月 8日(15-1) シカゴの平和博物館、平和教育に関する討論会を計画。この博物は、最近広島・長崎の被爆者の絵を展示した。
8月 8日(15-1) フィラデルフィアで75人が、広島・長崎への原爆攻撃とGE社の核兵器製造に抗議してデモ。
8月10日(16-1) 長崎原爆攻撃を記念して国連周辺でデモ。
8月10日(16-2) 国防総省の警察官、13人のデモ参加者を逮捕。
1983年
8月 6日 (Ⅰ22-1) 武見太郎博士、アメリカの雑誌で原爆攻撃が第2次世界大戦末期に日本を覆っていた飢餓から日本を救ったと語る。
8月 6日 (Ⅰ22-5) 4人のデモ参加者、日本への原爆投下を記念してDRAPER CHARLES STARK LABORATORYのロビーに鳩を放した後逮捕される。
8月 7日 (Ⅰ3-1) 原爆投下38周年を記念して行われたニューヨークでの反核デモの写真。
8月 9日 (Ⅱ5-2) 反核グループの連合、広島・長崎原爆攻撃38週年を記念して、核戦争計画に参画していると報じられているニューヨークの RIVERSIDE RESEARCH INSTITUTE本社の外での1週間のデモを開始。
8月10日 (Ⅰ2-3) 日本人、広島・長崎原爆投下38周年を記念して行事。
10月14日 (Ⅰ14-5) 国立空軍博物館、ダレス国際空港に、広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」のような大型の飛行機の展示を計画。
12月18日 (Ⅰ39-1) 技術評価局の研究によれば、原爆攻撃直後の広島・長崎に入ったアメリカ軍の骨髄性ガンの発生率は一般と比較して高くはないという国家研究会議の結論は、根拠が不十分。

ホロコースト・原爆ドーム世界遺産化についての本島等発言

ホロコースト・原爆ドーム世界遺産化についての本島等発言

Y M D NEWS1
95 03 09 長崎市議会、議員運営委員会で本島長崎市長が会期中に日本外国特派員協会での講演会出席のため出張することを全会一致で了承。
95 03 15 平岡広島市長・本島長崎市長、東京・有楽町の日本外国特派員協会で約70人を前に講演。
95 03 21 米紙ニューヨーク・ポスト紙、社説で、本島長崎市長の原爆投下をナチスのユダヤ人虐殺と並ぶ大虐殺とする発言に反論し、日本に説教する資格は無いと述べる。
95 04 14 日本共産党長崎地区委員会、16日告示の市長選挙で、本島市長を支持すると発表。
95 04 23 長崎市長選挙。本島等落選。伊藤一長(49才)が当選。
95 04 24 平岡広島市長、長崎市長選挙に破れた本島等にねぎらいの、当選した伊藤一長に協調を呼びかけるメッセージを送る。
95 04 27 本島等長崎市長、市長退任を前に記者会見。「長崎市には、核の廃絶を世界に訴える義務と責任、そして誇りがある」と語る。28日、退任式。
95 05 21 核実験に抗議する長崎市民の会、15日の中国の核実験に抗議して平和公園乙女の像の前で座り込み。本島前長崎市長ら20人が参加。
95 05 25 本島前長崎市長、修学旅行で長崎市を訪れた広島県府中市立第二中学校3年生190人に平和問題について話す。
95 07 01 「国際市民フォーラム・長崎」県民連絡会、シンポジウム「核時代の半世紀-長崎とマーシャル諸島を結んで」を長崎市内で開催。パネリストはトマキ・ジュダ・ビキニ市長、ビキニ被曝住民への補償を求める裁判の米国人弁護士、本島元長崎市長。
95 07 13? 市民団体ピースデイズ・インさせぼ実行委員会、本島前長崎市長を招き講演会を開催。
95 07 25 韓国原爆被害者協会・韓国キリスト教会女性連合会、ソウルの韓国基督教連合会館で「侵略と原爆展」を開催。本島元長崎市長が基調講演。約200人が参加。-31日。
95 08 05 「95生協ヒロシマ行動学習講演会」、広島市のYMCAで開催。本島等前長崎市長が講演。
95 08 05 日本生協連、「95ヒロシマ虹の広場」を広島グリーンアリーナで開催。約3000人が参加。本島前長崎市長も参加。
95 08 08 日本マスコミ文化情報労組会議、「なくせニュークス95MIC長崎フォーラム」を長崎新聞文化ホールで開催。約200人が参加。斉藤茂男・原寿雄・本多勝一などによるパネルディスカッションや本島元長崎市長の講演など。
95 11 01 平和シンポジウム「戦後・被爆50年を考える-核兵器・日米安保条約・日本国憲法」を長崎市内で開催。パネリストは本島等・葛西よう子・土山秀夫・山田拓民の4人。約100人が参加。
96 03 31 長崎市、原爆資料館の開館記念式典に本島等元市長を招待せず。
96 08 05 広島県府中市立第二中学校、「8・6平和集会」を開催。本島前長崎市長が講演。
96 08 06 移動演劇隊「桜隊」の慰霊追悼会、東京都目黒区の五百羅漢寺で開催。本島等前長崎市長が招かれ出席。
97 04 22? 本島等・前長崎市長、広島平和教育研究所の年報24巻に原爆ドームの世界遺産登録を「加害」の視点を欠くと批判する論文を掲載。
97 05 06 「長崎の原爆展示をただす会」、本島長崎市長の広島平和研究所年報での原爆ドーム批判は、個人的な見解であることを示すよう長崎市に要望。
97 05 28 広島県被団協、総会で原爆ドームの世界遺産化を批判した本島前長崎市長に抗議文を送付することを決議し、郵送。
97 07 12 東方2001、連続シンポジウム「第5回ヒロシマを語る-原爆ドーム世界遺産化で考える-ヒロシマの被害と加害」を開催。本島前長崎市長・袖井林二郎・松元寛らがパネリスト。約200人が参加。
97 07 23 「長崎の原爆展示をただす市民の会」、本島元長崎市長に、原爆ドーム遺産登録批判の論文と発言に対する抗議文を送付。
97 08 06 本島等前長崎市長、「8・6広島反戦・反核集会」で講演。広島市の平和宣言を「加害・侵略戦争に全く触れていない」と批判。
97 09 25 広島ユネスコ協会、加藤剛の朗読劇と平岡広島市長の講演会「アウシュヴィッツからヒロシマへ」を広島市内で開催。平岡市長、「侵略と核廃絶は別次元」と本島前長崎市長の発言に反論。
98 06 20 毎日新聞「ニュースパーク:核拡散時代の広島・長崎-「和解の世紀」の先頭に-本島等前長崎市長」
98 07 17 長崎新聞「インタビュー:本島等さん-前長崎市長、広島批判の真意は-忘れてならない戦争責任、謝罪の気持ち心に刻んで」
98 07 29 本島等前長崎市長、「原爆投下は仕方がなかった」と共同通信のインタビューで語る。
98 08 01 沖縄駐留の米軍が、1950年代後半、旧ソ連など敵の侵攻を受けた際に備え、核兵器の使用を含む沖縄本島の防衛作戦計画を立てていたことが、米海兵隊の秘密指定文書で明らかになる。
98 08 06 被爆53周年8・6ヒロシマ広島反戦・反核集会、広島市のアステールプラザで開催。本島等前長崎市長がパネリストとして出席。
98 08 06 本島等前長崎市長、広島市内での記者会見で、「原爆投下は仕方がない」と語る。
98 08 09 「被爆53周年8・9長崎反戦集会」、長崎市内で開催。約200人が参加。本島前長崎市長がパネルディスカッションに出演。
98 10 03 長崎原爆被災者協議会、「本島発言を考えるつどい」を長崎市内で開催。約20人が参加。
98 12 11 長崎ピースウイーク実行委員会、シンポジウム「戦争被害の実相を知る-ヒロシマ・ナガサキの被爆<再考>」を長崎市内で開催。本島等前長崎市長らが講演。
98 12 19 長崎原爆被災者協議会など、「本島発言を考える会」(第2回)を開催。11人が参加。