「1978年」カテゴリーアーカイブ

年表:平和教育(1978年)

年表:平和教育(1978年)

事項
01 09 「教育問題研究委員会」長崎市で開かれ、「平和」指導事例について協議。
01 12? このほど広島女学院原爆被災誌の英訳本が米高校で紹介され、読後感届く。
01 20 広島県原水禁主催「ヒロシマを考える平和講座」第2回講座開講。2月10日まで4回、於労働会館。
01 21 広島県教組、県内高校生の原爆意識調査結果発表。
01 28 「教育問題研究委」、教師用平和教育手引き書の市教委原案について、被爆者・教師らから長崎市で「意見を聞く会」開く。
01 29 日教組教研集会、平和運動・平和教育推進のアピール採択。(26日-29日)
01 30 「教育問題研究委」、第2回「意見を聞く会」開く。
02 06 北九州市教委が8・6に平和授業をした教諭を処分していた事が判明。
02 07 三重県の高校から、長崎市国際文化会館へ募金・折りヅル届く。
02 11 第1回県高校生平和ゼミナール(県高校平和ゼミ実行委主催)、広島市内で開催。
02 11 長崎県教組、市内で平和教育研究会開く。
02 18? 佐伯郡廿日市中学校生徒による平和を願うモザイク壁画制作開始。
02 20 長崎市教育委員会、平和教育は原爆を原点としないとする教師向け手引き書を作成。
02 24? このほど広島大学総合科学部で「平和」講座終了。
03 10 東京上平井中学、ヒロシマへの修学旅行の前に被爆者招き体験談聞く。
03 11 長崎定例市議会で教育長、「被爆を原点とせず素材として平和教育に用いる」との見解表明。
03 17 広島県立皆実高校の生徒、第一県女の先輩から被爆体験聞く。
03 24? 広島三次高校の教師、平和教育教材としてスライド「語り継ぐ戦争体験」製作完成。
03 24? 大竹市の石材業者、市内の小学校へ平和教育教材にと“被爆の石”贈る。
03 25 広島県被爆教師の会、新指導要領からの核記述削除に対して文相に公開質問状提出。
03 25 全国被爆教師の会、今年の平和教育シンポジウムを長崎で開催すると発表。
03 28 平和文化センター、昨夏実施した「被爆の継承に関する意識調査」結果を発表。
03 31? 安田女子高校社会科学研究部のメンバーら、核廃絶のため、総理大臣に手紙を書く運動始める。
04 11? 東京都上平井中学校の生徒ら、広島への修学旅行へ向けての原爆学習をまとめる。
04 18 岐阜県恵那市の中学生、修学旅行で来広。ヒロシマ学習。
04 18? 三次高校の教師、父母の戦争体験を基に生徒が描いた絵で、スライド「語り継ぐ戦争体験」を作成。
05 07 広教組結成30周年、広島教育会館落成の記念式典開催。
05 08 北九州市の中学生ら、修学旅行途中で千羽ヅルなど原爆病院へ贈る。
05 09 「県高校生平和ゼミナール実行委員会」、核廃絶への首相の積極的行動を要請する手紙を首相あてに発送。
05 10 修学旅行で来広した岐阜県の中学生、感想文集を発行。
05 12 岐阜県恵那市の中学生、修学旅行で来広。
05 14 長崎原爆被災者協議会、修学旅行生に原爆映画を上映。
05 15 広島平和教育研究所、1980年に広島市で「国際平和教育会議」を開くことを決定。
05 16 広島市長崎市の中学生、広島市平和記念公園で交歓会。
05 16 文部省、先の「被爆教師の会」の原爆記述削除についての公開質問について核記述の復活はしないと回答。
05 18 長崎市教委の平和教育手引き書「平和に関する指導資料」完成。その中に「平和教育は原爆を原点としていない」と明記。
05 20? 広島市翠町中学校生徒会、母校の被爆死者名簿作成、被害調査など推進。
05 22 平和教育研究サークル、長崎市教委に「研究委託と平和に関する教育」についての公開質問状提出。
05 22? 広島平和教育研究所・広島平和文化センター共同で、広島を訪問する修学旅行生にヒロシマを訴える運動にとり組む。
05 27 県立広島商で、「平和教育週間」(5月27日-6月2日)開始。
05 27 京都府の中学生、修学旅行で来広、“ヒロシマ”を学習。
05 31 東京都上平井中学校3年生、ヒロシマ学習のため来広。(1日まで)
05 31? 安芸郡こばと学園で、母親参加のユニークな幼児平和教育推進。
06 02 広島大学公開講座「市民にとっての平和」始まる。(7月21日まで、15講座)
06 08? 長崎市の小学生による共同制作の壁画「原爆の証」、このほど完成。
06 09 NHK、東京上平井中学校の広島への修学旅行を取材した番組放映。
06 09 長崎県教組の平和教育推進委員会、長崎市教委発行(5月18日)の指導資料への批判書発行配布。
06 10 第6回全国平和教育シンポジウム、長崎市で開催。(日本平和教育研究協議会主催、11日まで)
06 10 第6回全国平和教育シンポジウム、長崎市で開催。(日本平和教育研究協議会主催、11日まで)
06 10 広島平和教育研究所、平和学習を中心にした「夏休み帳」の見本完成。
06 16 広大総合科学部で平和講座。テーマ「資源エネルギー問題と平和」
06 20 広大総合科学部で、平和講座。テーマ「南北問題と平和」
06 21 長崎市長、長崎市教委の“原爆”を平和教育の原点としないとの見解で一致しているとの見解発表。
06 22 文部省、“核”記述を現行通り生かした「高等学校学習指導要領案」発表。
06 24 広島平和教育研究所主催「平和教育基礎公開講座」開かれる。
06 27 米カリフォルニア州の小学生から、「原爆の子の像」に千羽ヅル届く。
06 27 広大総合科学部で平和講座、テーマ「原水禁運動の歴史と現実」
06 28 青年教養講座「わが町“広島”をたずねて」、テーマ「被爆都市ヒロシマの課題」
07 07 長崎市の小学生による原爆壁画、国際文化会館に寄贈される。
07 13 広島基町高校の姉妹校の英高校校長ら、来広。
07 18 広島市安田女子高生ら、原爆遺跡を訪ねて「原爆フィールドワーク」実施。
07 19 愛知県津島市の教職員来広、広島の教職員と平和教育について話し合い。
07 19 横浜市の高校生、ヒロシマ学習のため来広、広島の高校生と交流。
07 25 広島県の高校生、「8・6高校生学習会」を開き、「’78核兵器完全禁止・被爆者援護大会」への参加を決定。
08 01 広島県被爆教師の会、県教委に被爆教師の休養休暇設置を要望。
08 02 広島の高校演劇部、「全国高校総合文化祭」で原爆をテーマにした劇上演。
08 02? 京都府宇治市の中学生による広島での平和学習(5・27)の記念文集届く。
08 03 愛知県津島市、広島県から被爆教師招き平和教育問題で交流会。
08 03? 広島市の大学生による「閃影-33年後の若者の戦争観」まとまる。
08 05 長崎市の小学校長、8月9日の原爆投下日に「原爆許すまじ」を歌ってはならないと指示していたことが判明。
08 05 NHKテレビ「特集・ヒロシマを受け継ぐ-平和教育」など、原爆特集番組放送。
08 05 全国被爆教師の会、「平和教育国際シンポジウム」の開催呼びかけ。
08 05? 広島への修学旅行で平和学習を続けている東京上平井中学生徒から、近況報告届く。
08 06 (修学旅行で芽ばえた平和教育、文通主婦へ熊本の教諭)
08 06 大分市の中学校で、被爆者の体験談聞き平和学習。
08 06 ウィーンの合唱団から折りヅル届き「原爆の子の像」にかけられる。
08 07 米のJ・サマヴィル博士、広大で講演。テーマ「ヒロシマの意味-平和研究・平和教育の課題」
08 09 北九州市内の小・中学校、「平和学習の日」として登校。
08 09 長崎県内小・中学校で、約7割が登校し原爆学習。
08 10 長崎市の中学校で、生徒会主催の平和祈念式典。
08 16? 東京の高校生、広島を訪れ原爆をテーマに映画作成。
08 17 国連青少年友好センターのメンバー、ニューヨークで国連について学習。
08 17? 岐阜県の中学生、広島への修学旅行で学んだ平和学習成果をまとめ文集発行。
08 17? 大分県教組、「大分の平和教育」発行。
08 19? (平和教育をめざす公民館活動)
08 20 日本YWCA主催「ひろしまを考える旅」、広島市で始まる。(22日まで)
08 21 東京上平井中の父兄ら来広し、平和学習。
08 24 東京の教師・大阪の高校生グループ、広島で平和学習。
08 25 広島市出身の母子、広島に帰省し、平和学習。
08 31 広大付属東雲小学校の母子、被爆者に体験談を聞く。
09 05 明治学院大放送研究会、広島で被爆者らを取材。
09 09 被爆教師の会のメンバーら、修学旅行で広島を訪れる学生らの受け入れ態勢を協議。
09 09? 広島市翠町中学校、「軍港宇品で考えること」発行。
09 13 名古屋市の事業所従業員来広し、平和学習。
09 14 尾道市内の中学校で、ブラジルの広島市中学校に原爆写真集贈るためのカンパ活動開始。
09 18 広島県被団協(森滝理事長)、広島市で理事会開き、広島への修学旅行生受け入れ問題など討議。
09 18 全国被爆教師の会・平和文化センターなど、広島への修学旅行生の平和教育について討議。
09 22 広島県被爆教師の会、国連軍縮週間を「第2期平和教育週間」にすると決定。
09 27? 三次高校教師らによる平和教育教材のスライド、10月米で紹介するため、英語版を作成中。
09 29 広島県被団協の高橋昭博、全国各地で「被爆体験を語る旅」に出発。
09 30? 平戸市の小学生ら、修学旅行中、長崎市の原爆資料館に貝殻細工寄贈。
10 02 県高校被爆教職員の会会長、米での「新しい平和達成努力のための全米会議」に向け出発。米各地で被爆の実相訴え。
10 06 「高校生のための国際文化セミナー」、広島市内の高校で開催。
10 09 ブラジルサンパウロ市の広島中学の役員来広し、「折鶴の会」と交流。
10 18 広島県の中学生、修学旅行で長崎市訪問、平和学習。
10 19 広島市の中学校で、「戦争と平和」テーマに核問題を考える文化祭開催中。
10 23 高知県の中学生、修学旅行で長崎市訪問し平和学習。
10 24 全国公民館研究集会で祇園公民館主事、被爆体験継承を公民館活動に取り入れるよう提言。
10 24 「’78国連軍縮週間行動広島実行委」主催で、広島市で「平和教育」について討論集会。
10 25 日本原水協主催、東京で「第1回国連軍縮週間連続市民講座」(30日まで)
10 28 広大平和科学研究センター・広島平和文化センター共催「国連軍縮特別総会最終文書検討会」、広島市で開催。
10 30 核兵器完全禁止・被爆者援護をめざす国民(NGO)懇談会主催「国連軍縮週間セミナー」、東京で開催。
10 31 東京都上平井中の卒業生による「ヒロシマOB会」、被爆者福祉に寄金。
11 01 長崎市内小学校で、第29回平和祈念式。
11 02 広島市内女子高の文化祭で、原爆写真展。
11 03 広島市の鈴峯女子高など、文化祭で被爆問題取り上げる。
11 04 第28次広島県教育研究集会開催。「平和教育」などで分科会。(5日まで)
11 04? 広島市内の中学生、平和記念公園で外人を対象に行った原爆観アンケート調査結果まとめる。
11 08 原爆被爆教師の会、福岡市で全国連絡総会開き「原爆被爆者教職員の会」と改称。
11 09 名古屋市の高校生、修学旅行で長崎市訪れ平和集会開く。
11 09 大阪枚方市の中学校で、教師が自作自演で原爆劇上演。
11 09 沖縄那覇市の中学生、修学旅行で長崎市訪れ平和集会開く。
11 18 日本YMCA同盟主催「平和教育コンサルテーション」、広島県内で開く。
11 20 広島県教組、主任手当きょ出金で「基金」を設置し平和教育教材費などにあてることを決定。
11 25 「世界連邦市民講座」、広島市で開く。
11 25 「第2回県高校生文化祭典」広島市内の高校で開かれ、原爆問題など研究成果を総括。
12 25 広島県被爆教職員の会総会で、修学旅行生のための「ヒロシマ子供平和文化会館」の建設など決定。
12 25 広島県被爆教職員の会、県教委に被爆教職員の休養休暇の制度化を要求。

 

 

広島原爆被災撮影者の会

広島原爆被災撮影者の会

設立準備会?:19780715

関係資料

 資料名 備考
広島原爆被災写真撮影者名簿
  22名の住所、電話番号、
初会合(宇吹メモ)
   1978.9.14 於広島YMCA
 本
『広島壊滅のとき―被爆カメラマン写真集』 (広島原爆被災撮影者の会、198108)
 『被爆の遺言 被災カメラマン写真集』(広島原爆被災撮影者の会、19850801)
 『中国新聞』(20050801、編集委員 西本雅実)
 http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?gallery=20110613141546676_ja

SSDⅠ(第1回軍縮特別総会)

SSDⅠ(第1回軍縮特別総会)1978年5月23日~6月30日、ニューヨーク

出典:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/un_cd/gun_un/gaiyo.html

国連における軍縮・不拡散への取り組み
平成25年2月
1.国際連合による議論
国際連合は、1945年の創立以来、国連憲章第11条(国連総会が、軍縮について審議し、加盟国もしくは安全保障理事会に勧告を行うことを規定)等に基づき、軍縮問題についても積極的に取り組んできた。
冷戦時代は、非同盟運動諸国(NAM)のイニシアチブによって、1978年、1982年、1988年と計3 回の国連軍縮特別総会が開催されるなどの動きはあったものの、全体としては国連を通じた具体的な軍縮・不拡散上の成果は限定的であり、むしろ二国間又は地域的な枠組みを通じて主要な軍縮の合意が形成されてきた。
他方、国連は基本的に総会における議論及び決議の採択という形で軍縮・不拡散に関与してきている。これらの議論や決議は、その時々の国際情勢、安全保障環境の中で国際社会の軍縮・不拡散問題についての関心や考えを反映したものであり、中長期的にみれば、これらの問題についての国際世論の形成に大きな役割を果たしてきた。
冷戦終焉後は、国連軍備登録制度の設置(1991年)、包括的核実験禁止条約(CTBT)の国連総会における採択(1996年)、国連小型武器行動計画の採択(2001年)等、国連総会の場を通じて軍縮・不拡散の具体的な成果が上げられている。また、安全保障理事会も1992年1月に軍縮・不拡散の重要性を強調する議長声明を発出したほか、2001年の米同時多発テロ以降のテロ組織等非国家主体に対する大量破壊兵器拡散への懸念の高まりを受けて、2004年4月には不拡散に関する安保理決議第1540号を採択し、さらに、2009年9月に行われた核不拡散・核軍縮に関する安保理首脳会合において安保理決議第1887号を採択した。また、2006年以降、安保理は北朝鮮及びイランといった個別の核問題について、制裁措置を含む決議を採択しており、国際的な不拡散体制の強化に安保理が果たす役割は、近年急速に増大している。

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出典:外交青書21_1977
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1977_1/s52-2-4-2.htm#ab1

6. 軍縮特別総会
(1) 第31回国連総会では「全面完全軍縮」の議題の下に,ユーゴースラヴィア等非同盟主要国が提唱し,わが国を含む75カ国が共同提案した軍縮特別総会の開催に関する決議が採択された。これにより78年5月ないし6月に国連創設以来初めて専ら軍縮問題の審議にあてられる特別総会が開催されることとなった。
(2) 軍縮特別総会開催の構想そのものは,1946年12月の第1回国連総会再開会合で採択された決議に始まるが,一方,非同盟諸国は,1961年の第1回首脳会議において世界軍縮会議もしくは軍縮特別総会の開催を呼びかけて以来,特別総会の開催を度々提唱してきた。76年,スリ・ランカで開催された第5回非同盟首脳会議で採択された政治宣言においても,1978年までに軍縮特別総会の開催を要求する趣旨が謳われており,第31回総会に提出された決議案もこれを受けたものである。
(3) 採択された決議に基づき,総会議長により指名された54カ国から構成される準備委員会が設立され(わが国もアジア・グループの一員としてメンバーとなり,副議長国となった),今後特別総会開催までに77年3月,5月,9月の3回にわたり同委員会の会合が開催され,特別総会の議題及び手続規則を決定する予定である。

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外交青書22_1978
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1978/s53-2-4-2.htm

3. 軍縮特別総会開催準備状況
(1) 78年5月に開催される国連軍縮特別総会のための準備委員会(54カ国で構成。わが国は副議長国)は,77年中に3回会合(3月,5月及び9月)し,次の決定を含む報告書を作成して第32回総会に提出した。
(イ) 特別総会開催期日
78年5月23日~6月28日。
(ロ) 特別総会開催場所
国連本部(ニューヨーク)。
(ハ) 代表レベル
できる限り高いレベル。
(ニ) 仮議題
(a) 軍縮交渉の成果と現状の再検討。
(b) 軍縮宣言及び行動計画の採択。
(c) 軍縮交渉のための国際的機構の役割の再検討。
(2) また第31回国連総会で採択された決議は,各国政府に対し,4月15日までに軍縮特別総会に関する見解を国連事務総長に提出するよう要請していたが,77年末までに,国連加盟国のうち合計59カ国がその見解を提出した。
わが国は,軍縮特別総会においては,次の項目が優先的に取り上げられるべきであるとの見解を4月15日付で国連事務総長に提出した。
(イ) 核軍備競争の停止と核兵器の削減。
(ロ) 核実験の全面的禁止。
(ハ) 化学兵器の禁止。
(ニ) 通常兵器の国際的移転。
(ホ) 軍事費削減問題。
(3) 第32回国連総会は、準備委員会の報告書を承認し,更に同委員会に作業を継続するよう要請する決議を採択した(わが国を含む55カ国の共同提案)。
78年の2月及び4月には,上記決議に基づく第4回と第5回の準備委員会を開催し,特別総会において審議,採択されるべき最終文書の起草作業を行う予定である。

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外交青書23_1979
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1979/s54-2-4-2.htm#1_1

(1) 国連軍縮特別総会
(イ) 概   説
国連史上初の軍縮特別総会は,1978年5月23日から7月1日までニュー・ヨークにおいて開催された。この特別総会には,従来軍縮交渉に参加していなかつた中国,フランスを含む145カ国が参加し,今後の軍縮審議,交渉の指針となる最終文書が,投票に付されることなく全会一致で採択されたほか,軍縮審議,交渉機構にも種々の改善が加えられた。
(ロ) 一般討論演説
5月24日から6月9日まで行われた一般討論演説においては,元首4名,首相16名,副首相4名,外相49名を含む126カ国の代表が演説を行った。
わが国は,園田外務大臣が5月30日に一般討論演説を行った。
演説において園田外務大臣は,平和憲法に立脚し,今後の国際社会における先覚者たるべく,軍事大国への道を排し,平和に徹し続けるわが国の決意を披瀝し,またわが国が非核三原則を堅持していることを宣明するとともに,核兵器国に対し,その責任を自覚し核軍縮を促進するよう強く要請した。さらに,軍縮の分野では,核兵器の廃絶を目標とした核軍縮の促進が,今日,最も高い優先度を置かれるべき課題であることを強調するとともに,この目標を達成するためには,まず核軍備競争を停止し,次に核軍備の削減を進めるとの方向で実行可能な措置を一歩一歩積み重ねて行くことが最も肝要である旨指摘した。そして,かかる観点から,米ソ戦略兵器制限交渉の早期妥結,包括的核実験禁止条約の早期締結などを強く訴えた。
(ハ) 最終文書
特別総会において採択された最終文書は,「序文」,「宣言」,「行動計画」,「機構」の4部から構成される。軍縮に関する一般原則を規定した「宣言」は,軍縮の究極的な目標が効果的な国際管理下での全面完全軍縮であり,この目標への前進のためには諸国の安全を守る必要性を考慮に入れ,軍備競争の停止と真の軍縮措置に関する協定の締結,及びその履行が必要であるとし,更にそのような措置の中では,核軍縮と核戦争の防止が最も優先度が高い旨規定している。
「行動計画」は,上記原則に沿って,今後,諸国家が着手すべき軍縮分野における諸措置を挙げ,今後の軍縮分野における努力の諸目標を示している。
(ニ) 軍縮審議交渉機構の改革
軍縮の審議,交渉機構の分野では,最終文書の「機構」が示すように特別総会において次のような改善,強化がなされた。
(a) 全ての国連加盟国が参加する審議機関としての国連軍縮委員会(UNDC)の復活(同委員会は65年以来休眠状態にあつた)。
(b) ジュネーヴ軍縮委員会については,主として次の改善が行なわれ,79年1月より新たに軍縮委員会(CD)として発足。
(i) 新軍縮委は米,英,ソ,仏,中の全ての核兵器国に開放されるとともに(従来軍縮委の加盟国であつたが実際上参加していなかつたフランスが参加を決定。中国は当面参加しないとみられている),わが国を含む旧軍縮委の加盟27カ国に加え,次の8非核兵器国が新たに構成国となった。アルジェリア,オーストラリア,ベルギー,キューバ,インドネシア,ケニア,スリ・ランカ,ヴェネズエラ。
(ii) 米ソ共同議長制を廃止し,議長を全ての構成国間で月毎の輪番制にする。
(c) 国連第1委員会は,従来,軍縮問題のほか,政治,安全保障,科学技術問題を審議してきたが,今後は,軍縮及びそれに関連する国際安全保障問題のみを取り扱う。
(d) 国連事務総長に助言するための軍縮諮問委員会の設置。
(2) 第33回国連総会
軍縮特別総会を受けて行なわれた第33回国連総会の軍縮討議においては,核軍縮の促進を中心として,軍縮特別総会で採択された最終文書の行動計画に盛られた諸分野につき審議され,40の軍縮関係決議が採択された。
なお,わが国は,包括的核実験禁止条約の早期締結を求める決議及び同条約が締結されるまでの間,全ての国に核実験を慎むよう要請する決議など,7つの決議の共同提案国となった。

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出典:http://www.unic.or.jp/texts_audiovisual/libraries/research_guide/themes/disarmament/

A/RES/31/189Bによる第1回軍縮特別総会(通算10回目の国連特別総会)は1978年5月23日から6月30日にかけ、ニューヨークで開催されました。
A/RES/31/189Bによって設置された準備委員会の作業文書は、文書記号A/AC.187/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/AC.187/SR.-で発行されました。準備委員会の総会に対する最終報告書は、A/S-10/1(GAOR, 10th spec. sess., Suppl. No. 1)として発行されています。
総会決定S-10/21によって設置された第10回特別総会アドホック委員会の作業文書は、文書記号A/S-10/AC.1/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/S-10/AC.1/SR.-の形で発行されました。アドホック委員会の最終報告書はA/S-10/23として発行されています。
同特別総会の作業文書は文書記号A/S-10/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/S-10/PV.-の形で発行されました。第1回軍縮総会の最終文書(A/RES/S-10/2)には宣言、行動計画および国際軍縮機構に関するセクションが含まれています。

 

 

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

1978.9.14 於YMCA

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

(佐々木)東京に行っている広島の撮影分は、入れるというより記録に残しておくだけにしないと。

(松重)それらを入れないと、集大成にならないのではないか。ほとんど出版されているのではないか。

(佐々木)出版物掲載分も記録として残してはどうか。木村さんのは(大和人絹内撮影)ほとんど東京へ行っているのではないか。それを入れるとなると、いろいろ問題が出てくる。個人と写したものと、軍や警察が写したものを一緒にするとトラブルが起きはしないか。

(木村)主人も死んでいるし、撮影を指示した医師も死んでいて、当時のことがわからなくなっている。当時の看護婦さんなどは生きている。

(佐々木)行動記録が今は一番大切ではないか。今後写真が出てきた場合、推定の根拠になる。死なれた人のは、もうわからなくなってしまう。6×6で何枚、キャビネで何枚などという記録が大事。

川本さんの写真――N.G.ピンボケなどのネガが残っている。最初写したものは、米軍が全部持って帰った。それではもう一度撮れとの警察の指示で写したものが残っている。

大和人絹の中には相原さんは行っていない。日赤と逓信病院のみ。大和人絹の中は木村さんのものだけで済ましている。軍と警察のものだけがわからない。

(尾糠)憲兵隊に提出。ネガを提出したかどうかわからない。

(佐々木)川本さんも尾糠さんと同じコースを歩いている。

(尾糠)終戦後すべての写真を焼いた。写真班の横に穴を掘ってうめた。

(佐々木)東京空襲のも警視庁のものだけ残っている。東京のもの、ライカで30本ぐらい写している。

(松重)川本さんの写真、現像ミスも含めれば4~50枚残っているのでは。見たものだけでもそれくらいある。

(佐々木)

(松重)出版物のも写したものにまちがいなければ、複写してでも残してはどうか。

(佐々木)それはいいが、あいまいなものまで加えると目録の価値がなくなる。木村さんは自分の責任でとったもの以外は、自分で写したものとは言われなかった。軍と警察以外のものは、ほぼ検討がつく。

(松重)今日来ておられない人のネガ、枚数の確認と行動記録をつくることが必要。

(川原)6日は罹災者へ食料をもていったと言っていた。7日から写したものと思われる。軍人と一緒に巡ったそうだ。

(木村)宇品が解散になるまで、やめさせてもらえなかった。

(佐々木)9月15日頃までと聞いた。

(川原)相原さんが(調べるため)問い合わせた件についてもすべて返事を主人の代理で書いた思えがある。あの手紙が借りれれば書けると思うんだが。

(佐々木)相原さんがどこかに出すつもりがなければ、借りれると思うが。

川原さんが我々にもっと心を開いてくれたらなあ。

(川原)あの頃は市役所とのいきちがいがあったので、何もしゃべらなくなった。

(佐々木)相原さんは、S44、ぼくが東京へ行くまでは何も知らなかった。

(入室)(山本よしえ)中国新聞写真部に松重君と一緒にいた。

(佐々木)川原さんがついて行ったのは憲兵隊の人と一緒だったと言っていた。

(尾糠)私も憲兵隊と一緒に行った。

(川原)次の日(終戦日)行かれないからと憲兵隊の人にカメラを貸したら、もう返してもらえなくなった。

(佐々木)江波へも行っている。どうやって行ったのか、宇品から船で行ったのかも知れない。

(川原)楠木を写したものは、ゆがんだので写し直した。ゆがんだものが相原さんのところにあり、まっすぐなったのが残っている。

(松重)藤井さんは撮影しているか。

(川原)藤井さんは出ていないと聞いているが、会って話した時には、自分も出たと言っておられた。

(松重)来年どうしても出版しなければならないということはないが、みんないつ死ぬかわからないから早くしておきたい。

(深田)林(タクマ)さんは、自分のは大したことは何(ママ)から、と言っておられたが、早く行っていないと、もう高齢だから。

(松重)川本さんのは、息子が私に任せると言っているが、足どりをまとめておかなくては。

(佐々木)息子さんではわからないのではないか。私も警察関係の人々にずい分聞いたがわからなくなった。

(松重)いよいよ本職の新聞記者にやってもらわなくてはどうにもならないのではないか。今、原災研は150~60万ある。

(岸田)キャビネで揃えたらどうか。費用の点は自分でやっておくことにし、やれない人は私のところでもやるから。

(佐々木)36mmはベタ焼きの方がよい。

(岸田)虫目がねで見るようなですよ。

(山本)出版するのなら写真のサイズを考えておかないと。

中国新聞屋上から、同僚(谷川君)と一緒に移した。合計4枚出てきた。あとは整理してみないとわからない。

(佐々木)わかるものは、もう作業しましょうや。

(川原)当時のことは何も知らないから、私は遠慮さしてください。

(佐々木)尾糠さんは川原さんの行動を知っていないか。

(尾糠)わからない。写真を見ればわかるものがある。

(佐々木)藤井さんが元気な時聞いたら、現像焼付みな別々の人間がやったのだから、だれが写したかわかりはしないよと言っておられた。それがほんとのことだろうと思う。

(松重)キャビネに統一して。

(佐々木)35mmもか。

(松重)そうだ。

(山本)(岸田)利用にはキャビネが良い。

(松重)カード添付写真はキャビネ版とする。行動記録はいつにするか。

(岸田)11月末までにやったらどうか。

(松重)行動記録、11月末までに〆切ったらどうか。

(松重)<ネガ再製について>

市平和文化センターから手紙。田中にやらせるからオリジナルネガを貸して欲しいとの要請があった。それについての私案をつくった。8・6前に依頼があった。

(岸田)<貸出しの場合撮影者の同意をうる>は個人ではなく撮影者の会にしたらどうか。

(山本)撮影者の会を通してやったらどうか。

(岸田)撮影者の会としての権威をもたなくては。

(佐々木)個人で協力しない人もいる。それをどう考えるか。職員が個人でやって、充分責任をもっていない。

(深田)島本

(川原)〃

(入室)(黒石)

(岸田)佐々木さんは佐々木さんの意志ですればよい。

(松重)字句については、また考えてみる。

(佐々木)出版などで依頼があった場合どうか。

(岸田)個人へ来たら、撮影者の会へ連絡することにする。代表者・会則をつくる必要がある。

(松重)原爆写真は公共性が強いから、金銭面は慎重でなくてはならぬ。文化センターは永久保存用ネガと貸出用ネガをつくろうとしている。

(佐々木)文化センターは、いる写真といらない写真を別けようとしている。公文書館は全部を保存しようとしている。

(松重)文化センターは、貸出用ネガがあれば良い。

(松重 三)借りに来たが(キャビネ)何のあいさつもない。

(山本)原稿なら原稿料がでるのだから写真に対しても謝礼があって当然。

(松重)これは森本タイジさんの写真です。

(佐々木)もうこれで集まって話すよりも、あとは通信でやったらどうか。

(黒石)会費をとったらどうか。

(佐々木)1000円づつ集めたらどうか。2000円。

            次回11月末までに通信でやる。

(川原)記録の会の写真は返ってくるか。

(松重)あれは言いますよ。

            15:35 終了