シンポジウム:原爆被害と援護問題
日時:1983年8月7日
場所:広島市社会福祉センター
主催:「原爆被害と援護問題」シンポジウム世話人会
田村和之 | 開会のあいさつ |
小川政亮 | 被爆者援護の法理 |
湯崎稔 | 原爆被害者援護問題への課題 ー「基本懇」答申の問題をめぐって一 |
河合幸尾 | 被爆者援護と社会保障 |
若林節美 | 被爆者行政の現状と限界 |
シンポジウム:原爆被害と援護問題
日時:1983年8月7日
場所:広島市社会福祉センター
主催:「原爆被害と援護問題」シンポジウム世話人会
田村和之 | 開会のあいさつ |
小川政亮 | 被爆者援護の法理 |
湯崎稔 | 原爆被害者援護問題への課題 ー「基本懇」答申の問題をめぐって一 |
河合幸尾 | 被爆者援護と社会保障 |
若林節美 | 被爆者行政の現状と限界 |
公開シンポジウム「核開発の国際史―各時代の幕開けにおける科学者の社会的責任―」(日時:2003年8月10日、 会場:広島平和記念資料館メモリアルホール)
国際シンポジウム「20世紀における戦争・冷戦と科学・技術―国際共同研究の展望―」(日時:2005年10月2日、会場:広島市まちづくり市民交流プラザ内マルチメディア・スタジオ)
記録
『”戦争と科学”の諸相 原爆と科学者をめぐる2つのシンポジウムの記録』(広島大学総合科学部…編、市川浩・山崎正勝責任編集、丸善株式会社)
青年平和文化講座(創価学会) 1973年~
http://www.pv-hiroshima-soka.jp/activity/lecture/backnumber/
年月 | 講師 | 肩書(当時) | テーマ |
197308 | 原田東岷 | 外科医 | ヒロシマの外科医として |
197404 | 伊藤満 | 創価大学教授 | 人権と平和 |
197608 | 熊田重克 | 中国新聞論説副主幹 | 現代における核の状況 |
197608 | 丸山益輝 | 広島大学教授 | 広島の青年の役割 |
198003 | 今堀誠二 | 広島女子大学学長 | 私にとってのヒロシマ |
198004 | 畑博行 | 広島大学教授 | 日本と平和主義 |
198007 | 高橋昭博 | 原爆資料館館長 | 私の被爆体験と広島の心 |
198203 | 熊田重克 | 中国新聞論説主幹 | 広島と沖縄を結ぶ想像力 |
198302 | 豊永恵三郎 | 広島電機大学付属高校教諭 | 朝鮮・韓国人被爆者と私達 |
198308 | 深川宗俊 | 歌人 | 朝鮮・韓国の被爆者 |
198310 | 伏見康治 | 元日本学術会議会長 | 地平から平和の巨塔を |
198404 | 日隈健壬 | 広島修道大学教授 | 21世紀の広島が見える |
198408 | 北西允 | 広島大学教授 | 反核・平和運動の状況と展望 |
198503 | 磯野恭子 | 山口放送テレビ制作部次長 | 生命(いのち)の鼓動を伝えて |
198504 | 山田浩 | 広島大学教授 | これからの平和問題と私達 |
198603 | 片岡徳雄 | 広島大学教授 | いま、教育の原点を考える |
198706 | 川本義隆 | 原爆資料館館長 | 世界のヒロシマ 使命と責任 |
198709 | 大野允子 | 児童文学作家 | あなたへのメッセージ |
198711 | 秋葉忠利 | 広島修道大学客員教授 | ヒロシマの心と広島に住む若者の役割 |
198802 | 小倉桂子 | HIP代表 | 一人の力が平和の万波に |
198805 | 二宮皓 | 広島大学助教授 | 世界のなかのヒロシマ |
198809 | 目瀬守男 | 岡山大学教授 | 地域活性化と青年の役割 |
原爆被害者相談員の会 1981年6月13日発足
若林節美「原爆被害者相談員の発足と1年間のあゆみ」
(「ヒバクシャ-ともに生きる1号」所収)より
一九八○年十二月十一日、原爆による苦しみをなめ尽くしてきた被爆者は、原爆被爆者対策基本問題懇談会の意見書(以下、意見書)を期待と不安の中で、じっと待っていた。
それは、被爆者のみならず、被爆者援護や核廃絶を願う人々にとって、被爆者援護法が制定されるか否かは、日本の将来、ひいては人類の未来が問われるという重大な関心事であった。
しかし、報告された意見書は、国の戦争責任を回避し、原爆の被害を矮小化し、そしてあいまいな国家補償論で、三十五年間にわたる被爆者の苦渋に満ちた歴史に意味を与えず、逆に、被爆者に衝撃を与え、生きる意欲を奪ってしまうものであった。
年の瀬も迫る中、日常的に被爆者に接するソーシャル・ワーカー(以下、ワーカー)は、被爆者の悲しみ、怒りを見すごすことはできず、二十人の被爆者の怒りの声を、厚生大臣宛に直訴状として届けた。
震える手で直訴状をつづった老被爆者は、「夫と娘の死にようはひどいものでした。苦しんで、苦しんで……。生きる支えだった息子は、九年間生きましたが、白血病で狂うようにして死にました。たった一人残された私は、あとどれだけ生きられるかわかりません。この死を無駄にしないで下さい。」と訴えた。しかし、この被爆者は長年願い続けてきた援護法の日の目を見ないまま、意見書の衝撃と寒さのため、一ケ月後に他界してしまった。
こうした二十名の被爆者の怒りと抗議の声は政治の前にはむなしく、私たちの小さな灯は、意見書を乗り越える取組みへと燃えていった。
一九八一年六月一三日、専門ボランティアによる原爆被害者相談が広島市内でスタートした。
これは、不当な意見書を乗り越えるために約半年をかけて産み出された、私たちの唯一の方法であり、運動であった。
今日、被爆者の高令化にともない、被爆者の問題は、複雑かつ深刻化し、とりわけ、被爆者援護の遅れは、被爆者のくらしや、こころの再建を非常に困難にしてきた。
この被爆者の問題に対し、行政や、各関係団体、各機関で相談事業が行なわれてきたが、今日の被爆者の切実な要請に応えるためには、一層、相談事業を強化しなければならず、しかも、専門的知識と経験を生かした総合的、かつ継続的な相談事業が求められていた。
それは、谷間で苦しむ被爆者のために、広く相談窓口を設け、被爆者の直接相談に応じながら、被爆者がかかえる現行二法の問題点、及ぴ、その被害の実態を科学的に究明し、しかも被爆者が被爆者として主体的に生きるための条件を整えていくという内容であった。
しかし、この相談事業の中心的役割を担わなければならないワーカーにとって、これほど重要な課題を目指すには、余りにも荷が重すぎ、不安は隠し切れなかった。
使命感と不安の中で、ワーカー、弁護士、研究者、教師、団体職員、市民等によって原爆被害者相談員の会が発足し、被爆者相談が取り組まれていった。こうして、過去五年にわたる原爆被害者問題研究会活動、NG0国際シンポジウムでの生活史調査、そして「三十五年目の被爆者」の出版等、ねばり強い活動経験が、さまざまな不安を一つ一つとり除き、次のような多くの成果と教訓を残した。
参考
年月日 | 事項 |
197511 | 広島原爆被爆者問題ケースワーカー研究会 |
198208 | 原爆被害者証言のつどい |
198212 | ヒバクシャ-ともに生きる1号 |
1981~ | 年表:原爆被害者相談員の会 |
放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE) 平成3(1991)年4月に発足
http://www.hicare.jp/about/
被曝者医療の国際協力10年の軌跡 | 放医協の歩み(平成2年~平成13年) | 2001/03/01 |
被曝者医療の国際協力25年の軌跡 HICARE25周年記念誌 | 活動年表 | 2017/03/01 |
財団法人広島原爆障害者対策協議会原爆障害者救援事業広島委員会
1.名称 原爆障害者救援事業広島委員会
2.目的 ノーマン・カズンズ氏等国外有志の好意による原爆障害者救援事業の推進を図る
3.委員
原爆障害者救援事業広島委員会委員名簿(順序不同) | ||
顧問 | 東京日赤中央病院長 | 都築正男 |
日米協会長 | 小松隆 | |
日本タイムス社長 | 東ケ埼潔 | |
委員 | 広島市長原医協会長 | 渡辺忠雄 |
日本医師会代議員原対協副会長 | 松坂義正 | |
広島県医師会長原対協副会長 | 正岡旭 | |
広島大学長 | 森戸辰男 | |
広島県副知事 | 河野義信 | |
広島商工会議所会頭 | 白井市郎 | |
広島市医師会長 | 今川卓治 | |
広島市社会福祉協議会 | 鈴川貫一 | |
広島市議会議長 | 柴田重* | |
広島市助役 | 沖野悟 | |
広島原爆犠牲者遺族援護促進会委員長 | 任都栗一興 | |
広島県医師会理事 | 原田東岷 | |
広島県医師会理事 | 大内五良 | |
財団法人広島ピースセンター | 谷本清 | |
広島市厚生局長 | 向井一貫 |
『灰墟の光 甦るヒロシマ』(ロベルト・ユンク著、原田義人訳、文芸春秋、1961年2月10日刊)
目次
目次 | |
Ⅰ 空虚と混乱(一九四五年) | |
書物 | |
原子砂漠 | |
大洪水のあと | |
孤児とやくざ | |
位牌 | |
Ⅱ 新たな開始(一九四六-一九四八年) | |
夢見る人 | |
たけのこ生活 | |
〈アトム・ボーイ〉 | |
〈杖さん〉 | |
Ⅲ 平和の町(一九四八-一九五二年) | |
わが道を行く人びと | |
こわし屋 | |
殺人 | |
八月六日 | |
草履 | |
Ⅳ 生き残った人びと(一九五二-一九五七年) | |
かまぼこ御殿 | |
救援の人たち | |
冷たい人たち | |
破滅にさからう二人 | |
エピローグ | |
訳者あとがきに代えて | |
<メモ >「1957年5月の末、・・日本を去ろうとしたとき、私は小倉薫という若い民間の学者と打ち合わせをした」 | |
187
CHRONOLOGY OF EVENTS. 1945-68
年月日 | 事項 |
194508-10 | 広島および長崎で、原爆投下直後の影響を調べる日本側医学調査班とDr.A.W.OughtersonおよびDr.Shields Wrrenを長とする米国からの科学者が合流して、日本政府より、日米合同調査団の編成が認められた。東京大学の都築正男博士の尽力により、同調査団の偉大な事業を援助するすぐれた日本人科学者90人が集まった。その調査結果は、日本および外国の学術文献に発表されている。 |
<未入力> | |
196806 | |
出典:『1968-69年度ABCC年報』
広島・ナガサキ原爆資料公開展
会場 | 日本赤十字社本社講堂(東京) |
期間 | 1954年11月25日~12月3日 |
主催 | 日本赤十字社、広島市、長崎市。 |
後援 | 厚生省、文部省、農林省、東京都、広島県、長崎県。 |
協賛 | 日本新聞協会、日本放送協会、民間放送連盟、全国社会福祉協議会連合会、中央共同募金会、原水爆禁止署名運動全国協議会 |
役員 | 相談役 池田勇人(衆議員議員広島)<以下未入力> |
委員 | 葛西嘉資(本社副社長)<以下未入力> |
幹事 | 丹羽諦順(広島市厚生局長)<以下未入力> |
展示物 | <以下未入力> |
開場式 | 「名誉副総裁秩父宮妃殿下がテープを切られ、内外人の観覧者がつめかけ、連日満員の盛況であった」 |
「会期中には、日赤中央病院長都築博士の講演や健康相談なども行われ好評を博した」 |
出典:『日本赤十字社社史稿 第6巻』
赤十字国際委員会主催国際専門家会議 1954年4月6日~13日 会場:赤十字国際委員会本部会議室(スイス・ジュネーブ)
年月日 | 事項 | ||
19530929 | 同日付書簡(赤十字国際委員会副会長ー>日本赤十字社島津社長)[専門家会議への代表者の派遣要請]。「同様の書信をベルギー、フランス、インド、寝るウェー、ポーランド、イギリス、アメリカ、ソ連の赤十字社へも発信」「会議予定事項 1.無防備の人民の保護を強化するために空襲に関する規定を明確にし、また決定するための調査の必要についての一般的予備討議、2.人道上の要求と戦争の現実とを考慮した上で空襲(無人操縦機による爆撃も含む」)に関して適用されている、またさるべき既定の調査」 | ||
日本赤十字社、都築正男(原爆症)と榎本重治(国際法)を推薦。 | |||
195402 | この月の開催予定が4月に延期 | ||
19540331 | 都築・榎本、羽田空港を出発、ジュネーブに直行。 | ||
19540406 | 赤十字国際委員会本部会議室で開催。参会者:12か国16人。すべて個人の資格で意見を表明。東ドイツ、ポーランド、ソ連からの出席者なし。「日本代表都築博士からは、原子爆弾の使用や水素爆弾の事件が人体におよぼす被害についての報告がおこなわれ、唯一の被害者である日本の訴えは参会者の胸を強く打った」 | ||
19540413 | 専門家会議としてコミュニケ(「世界の人民を原子戦争から守るためには兵器の破壊力を制限することが第一条件である」など}を発表し、赤十字国際委員会に報告。 | ||
1954 | 第23回赤十字社連盟理事会で日本赤十字社から原水爆実験禁止の提案。 | ||
<以下未入力> |
出典:『日本赤十字社社史稿 第6巻』