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宣言の主体、対象、形式(平和宣言)

平和宣言

(1) 宣言の主体、対象、形式

平和式典の中で、平和宣言を読み上げたのは、浜井信三(1947-54年、59-66年)、渡辺忠雄(55-58年)、山田節男(67-74年)、荒木武(75-90年)、平岡敬(91年)の5人の広島市長であった。歴代市長のうち、浜井、渡辺、荒木の3市長は、原爆の直接体験者であった。
平和宣言は、1950年(昭和25年)には、式典の中止により読み上げられることはなかった。また、翌51年には、宣言は発表されず、そのかわり、市長のあいさつがなされた。
宣言の主体は、慣例として、市長個人ではなく、「広島市民の代表としての広島市長」あるいは「被爆体験を持つ広島市民の代表としての広島市長」であった。例えば、「われら広島市民」(1947年)、「原爆を体験したわれわれ」(55年)という表現が用いられている。ところが、91年の宣言は、「平和への不断の努力を市民の皆様とともにお誓いする」と結ばれている。英文では、この主語は、「We」ではなく、「I」であり、市長個人が主体として宣言に登場した初めての例であった。なお、54年までは、宣言主体の肩書に、「広島市長」の他に、「広島平和祭協会長」(47年)、あるいは「広島平和協会長」(48年、54年)が付されている。
1947年と48年の宣言は、最後をそれぞれ、「ここに平和塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する」、「戦災3周年の歴史的記念日に当り、我等はかくの如く誓い平和を中外に宣言する」と結んだ。当初の宣言は、このように自らの誓いを内外に明らかにするということを目的としていた。ところが、51年以降、宣言の対象が、具体的に文面に表現されるようになった。51年には、「犠牲者の霊を慰めるとともに・・・平和都市建設の礎とならんことを誓うものである」と結んでおり、慰めの対象として「犠牲者の霊」が現れた。また、翌52年には「・・・尊い精霊たちの前に誓うものである」と結び、「精霊」が宣言の対象の一つとして明確に表現された。さらに、54年には、宣言の対象として「全世界に訴える」という表現が使用された。これ以後、宣言の中には、この三つの要素(「誓い」、「慰霊」、「世界への訴え」)が、常に盛り込まれるようになった。
宣言の長さは、読み上げる市長により大きく変化している。字数で見ると、1947年の最初の宣言は、約830字であった。これは、47年から66年までの浜井、渡辺両市長の宣言の中では、最も長いものであった。最も短いのは、54年の320字であり、最初のものと比べて半分以下となっている。しかし、67年から74年の山田市長の時期には、字数はほぼ800字代で定着した。75年以降の荒木市長の時期には、字数は更に増え、88年から90年の3年間は、1,500字前後にまでなっている。最も短い54年のものと比較すると、5倍近くなったことになる。
このほか、元号で表記されていた宣言の日付に1991年に初めて西暦が併記されたことも、宣言の形式に現れた変化の一つである。

(2) 原爆被害観

平和宣言の内容は、その原爆被害観に大きな特色を持っている。1947年(昭和22年)の最初の宣言は、原爆被害をつぎの2種類の論理で平和と関連づけた。
(a)これ(原爆被害=筆者注)が戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に   導く要因となったことは不幸中の幸であった。この意味に於て8月6日は   世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして世界人類に記憶されな   ければならない。
(b)この恐るべき兵器は恒久平和の必然性と真実性を確認せしめる「思想革   命」を招来せしめた。すなわちこれ(原爆被害)によって原子力をもっ   て争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味するという真実を世界   の人々に明白に認識せしめたからである。
(a)は、原爆被害を終戦の根拠とし、「終戦=平和」という論理で、一方、(b)は、原爆被害は人類破滅を示唆しているから、人類破滅を避けるためには平和を選択しなければならないという論理で、それぞれ原爆被害を平和とつないでいる。(a)は、「終戦詔書」において用いられた論理で、被爆直後から今日まで根強く残っているものである。しかし、平和宣言においては、翌年には消え、今日まで現れたことはない。一方、(b)は、原爆投下直後に、世界連邦主義者など一部の間で唱えられていたものであり、マーカーサーも、同年の式典にこの論理を盛り込んだメッセージを寄せた。この人類破滅観は、ニュアンスの差はあるものの、その後の宣言の中に一貫して盛り込まれてきた。1991年の宣言の中では、それは、「ヒロシマはその体験から、核戦争は人類の絶滅につながることを知り・・・」と表現されている。
人類破滅観は、当初は将来の可能性として取り上げられていた。しかし、ビキニ水爆被災事件を経験した1954年の宣言では、「今や・・・滅亡の脅威に曝されるに至った」と、現在の可能性として表現された。
1947年の宣言は、広島の原爆被害を「わが広島市は一瞬にして壊滅に帰し、十数万の同胞は、その尊き生命を失い、広島は暗黒の死の都と化した」と述べた。調査報告では、被害は「爆心地から半径何メートル以内の建物は云々、人間、生物は云々」という表現が一般的である。宣言が、それを「全市壊滅」というイメージで捉えたことは、注目に値する。宣言の人類破滅観は、このイメージを世界規模に拡大したものであり、その意味で、広島の具体的被害の裏付けを持っているということができる。
一方、広島の原爆被害の表現形式は、時代とともに変化している。1947年の宣言は、被害を都市の壊滅と大量死の二つの要素で把握しているが、53年の宣言では、それを「原爆下の惨状」と表現し、新たに「原子爆弾が残した罪悪の痕は、いまなお、消えるべくもなく続いている」と原爆の後遺症を付け加えた。以後、宣言は、原爆の被害を、都市の壊滅、大量死、後遺症の3要素で表現するようになった。とはいえ、常に3要素を具体的に述べているわけではなく、3要素を総括する表現として、「原爆の惨禍」、「ヒロシマ」、「被爆体験」を併用するようになった。
宣言が、原爆被害の実相について詳細に述べるということはなく、また、被害の3要素も年を経るにしたがって抽象的な表現に変わった。しかし、被爆30周年に当たる1975年の宣言は、例外的に宣言のほぼ半分をそれにあて、詳細に被害の実相を述べている。これは、山田節男に替わって市長に就任した荒木武が初めて読み上げたものであったが、その内容は、つぎのようなものである。
昭和20年8月6日、広島市民の頭上で、突然、原子爆弾が炸裂した。爆弾  は灼熱の閃光を放射し、爆発音が地鳴りのごとく轟きわたった。その一瞬、  広島市は、すでに地面に叩きつぶされていた。
死者、負傷者が続出し、黒煙もうもうたるなかで、この世ならぬ凄惨な  生き地獄が出現したのであった。
倒壊した建物の下から、或は襲い来る火焔の中から、助けを求めつつ、  生きながらに死んでいった人々、路傍に打ち重なって、そのまま息絶えた  人々、川にはまた、浮き沈みしつつ流される人々、文字通り狂乱の巷から  一歩でも安全を求めて逃げまどう血だるまの襤褸の列、「水、水」と息絶  え絶えに水を求める声・・・・・・・・・。今もなお脳裡にあって、三十年を経た今  日、惻々として胸を突き、痛恨の情を禁じ得ない。
更に被爆以来、今日まで一日として放射能障害の苦痛と不安から脱し切  れず、生活に喘ぐ人々が多数あり、その非道性を広島は身をもって証言す  る。

(3) 原水爆禁止

宣言は、当初、人類破滅観にもとづいて絶対平和の創造や戦争放棄を訴えた。しかし、原爆の禁止を訴えることはなかった。ビキニ水爆被災事件の発生した1954年(昭和29年)においても、「一切の戦争排除と原子力の適当なる管理を全世界に訴える」という表現にとどまっていた。ところが、57年の宣言では、「原水爆の保有と実験を理由づける力による平和が愚かなまぼろしにすぎない」と指摘し、翌58年には、「われわれは更に声を大にして世論を喚起し、核兵器の製造と使用を全面的に禁止する国際協定の成立に努力を傾注し、もって人類を滅亡の危機から救わなければならない」と初めて明確に原水爆禁止を主張した。68年には、「核兵器を戦争抑止力とみることは、核力競争をあおる以外のなにものでもなく、むしろ、この競争の極まるところに人類の破滅は結びついている」という明確な核抑止論批判に発展した。さらに、73年には、「全世界の強い抗議を無視して、南太平洋において核実験を強行したフランス政府をはじめ、いまもなお核実験を続ける米・ソ・中国など、国家主権を楯として、自国の安全のためにのみ、核実験を正当化しようとしていることは、まさに時代錯誤であり、全人 類に対する犯罪行為でもある」と、名指しで核保有国を厳しく非難するまでになった。
1973年の宣言は、「核兵器の速やかなる廃絶と核実験の即時全面禁止」という表現で、核兵器廃絶の課題のうちまず核実験禁止を要請している。それまでにも、「核実験停止決議や査察専門家会議開催」(1958年)、「米、英、ソ3国による部分的核実験停止条約の締結」(63年と64年)など核実験の制限、管理をめぐる国際動向に歓迎の意を表していたが、核実験禁止を緊急の課題として要請したのは、この時が初めてである。その後、79年には、「相次ぐ核実験の強行」が新たに提起した「放射能被曝の問題」を指摘し、「すべての核実験はただちに停止し、これ以上新たな被曝者をつくってはならない」と強く訴えた。また、82年以降、核実験の即時停止を求め続けている。
1965年の宣言は、核兵器の「保有国が漸次その数を増して、事態をいよいよ混乱させている」ことに憂慮を表明した。その後、宣言が、核拡散の問題を独自に取り上げることはなかったが、74年になって、宣言の中心テーマを、核拡散防止にあてた。この年の宣言は、米ソ両大国が、核の拡散を助長していることを指摘し、核拡散の阻止を国連に期待するとともに、日本政府へも「核拡散防止条約の速やかなる批准」を求めている。この後、核拡散についての言及は、75年、76年、80年、88年の宣言でもなされた。
1974年の宣言は、政府の外交政策に対して具体的要請を表明した最初のものである。同年の宣言は、日本政府に対し「核拡散防止条約の速やかなる批准を求め」た。以後、政府に対し、核軍縮に積極的な役割を果たすよう求め続けている。78年には、つぎのように政府に要請した。
いまこそ唯一の被爆国であるわが国は、国際社会における平和の先覚者  として国際世論の喚起に努め、核兵器の廃絶と戦争放棄への国際的合意の  達成を目ざして、全精力を傾注すべきときである。
こうした核兵器廃絶への日本政府のイニシアティブの要望は、1980年の宣言でも現れ、81年には、「平和国家の理念を掲げ、非核三原則を国是とするわが国がその先導者となることを期待する」と、その根拠として「非核三原則」に触れた。81年の宣言に初めて言及された「非核三原則」は、以後、90年まで毎年宣言の中に現れており、83年からは、政府に、その堅持あるいは厳守を要望するようになった。なお、89年と90年の宣言は、政府に「非核三原則の厳守」とともに、「アジア・太平洋地域の国際的非核化の実現」に向けての外交努力も要望している。

(4) 国連

宣言が、国連に初めて言及するのは、1972年(昭和47年)のことである。この年の宣言は、つぎのように述べた。
さきの国連人間環境会議は、自然環境の破壊と人口の増加、資源の枯渇  により人類が陥りつつある多面的な危険に対し、70年代を生きる人間活動  の理念を明らかにし、核兵器の完全な破棄をめざす国際的な合意を急ぐよ  う宣言した。
ここに現れた国連の役割の積極的評価は、74年には、「国連において、核保有国のすべてを含む緊急国際会議を開き、核兵器の全面禁止協定の早期成立に努めるよう」にとの国連に対する提唱に発展する。71年の宣言で「核不使用協定の締結」を要請したことはあるが、要請対象は明確ではない。74年の宣言は、具体的な国際政治への提唱を行なった最初のものであった。さらに76年から80年代初めにかけて毎年、国連への期待あるいは国連を軸とした行動の提唱が行なわれるようになった。その後の宣言における国連への言及は、つぎのようなものである。
1976年「このときにあたり、広島市長は、長崎市長とともに国連に赴き、  被爆体験の事実を、生き証人として証言し、世界の国々に、これが  正しく継承されるよう提言すると同時に、国連総会が議決した核兵  器使用禁止、核拡散防止、核実験停止に関する諸決議のめざす、核  兵器廃絶への具体的措置が早急に実現されるよう、強く要請する決  意である。」
1977年「昨年、広島市長は、被爆都市の市長として、長崎市長とともに国  連に赴き、永年にわたる両市民の胸深くうっ積した悲願をこめて、  被爆体験の事実を生き証人として証言し、核兵器の廃絶と戦争の放  棄を強く訴えてきた。
われわれのこの訴えに対し、ワルトハイム事務総長、並びにアメ  ラシンゲ総会議長は、それぞれ国連を代表し、広島・長崎の苦しみ  は人類共通の苦しみであり、広島・長崎の死の灰の中から新しい世  界秩序の概念が生まれるであろうと強調し、心から共鳴するととも  に、広島・長崎を訪問したいとの意志を披瀝した。本日ここに、ア  メラシンゲ総会議長をこの地に迎えたことは、ヒロシマの声が直接  国連に反映されると思われ、その国際的意義はまことに深いものが  ある。
国連は、明年5月、国連軍縮特別総会の開催を予定している。世界     は、その成果に大いなる期待を寄せているのである。」
1978年「このヒロシマの願いは、ようやく世界の良心を動かし、本年5月、  国連加盟149か国による史上初の軍縮特別総会が開催された。
広島市長は、長崎市長とともに、両市民を代表してこの軍縮特別  総会に列席し、あわせて国連本部で画期的な「ヒロシマ・ナガサキ  原爆写真展」を実現した。この写真展は、被爆の実相を生々しく再  現し、国連加盟国代表はもちろん、国連を訪れた人びとに大きな衝  撃を与えた。
今回の軍縮特別総会では、全面的かつ完全な軍縮を究極の目標と     し、この目標を達成するため国連全加盟国で構成する新しい軍縮機     構の設置を取り決めた。その意義はまことに大きい。」
1979年「もとより、今日まで、世界では数多くの平和への努力が試みられ     ている。特に、国際連合は、昨年、史上初の軍縮特別総会を開催し、     核兵器の廃絶を究極の目標とした軍備の縮小をめざして、その第一     歩を踏み出した。さらにこれに応えて、軍縮委員会は、英知を結集     し3年後の軍縮特別総会に向かって討議を続けている。」
1980年「もとより、今日まで核兵器の増大を憂え、人類を破滅から救おう     とする努力は、部分核実験禁止条約、核不拡散条約、米ソによる戦     略兵器制限交渉等にも見ることができる。特に、国連初の軍縮特別     総会では、国家の安全は、軍備の拡大よりも軍縮によってこそ保た     れるとの合意を見、廃絶を目標とする核兵器の削減が軍縮の最優先     課題であるとの決議がなされた。
1981年「来る第2回国連軍縮特別総会において全加盟国は、この精神に立脚     し、核兵器保有国率先の下に、核兵器の不使用・非核武装地帯の拡     大・核実験全面禁止など、核兵器廃絶と全面軍縮に向けて具体的施     策を合意し、すみやかに実行に移すべきである。」
1982年「この時開催された第2回国連軍縮特別総会は、遺憾ながら国家間の     不信を克服しえず、「包括的軍縮計画」の合意には至らなかった。   しかし、核戦争の防止と核軍縮が最優先課題であるとの第1回軍縮     特別総会の決議を再確認するとともに、新たに、軍縮への世論形成     を目的とする「世界軍縮キャンペーン」の実施に合意し、さらに、  日本政府が提案した広島・長崎への軍縮特別研究員派遣を採択した。  」
1983年「国際連合は、第2回軍縮特別総会で採択した軍縮キャンペーンの一     環として、今年秋の各国軍縮特別研究員の広島派遣、国連本部での     原爆被災資料の常設展示など、被爆実相の普及と継承への新たな努     力を始めた。」
1986年「国連事務総長は、米ソ両首脳の広島訪問を積極的に働きかけると  ともに、第3回軍縮特別総会を速やかに開催すべきである。」
1987年「折しも、本年は、国連軍縮週間創設十周年を迎え、来年は、第3回     国連軍縮特別総会が開催される。ヒロシマは、その実りある成果を     切望してやまない。」
1988年「こうしたさ中、第3回国連軍縮特別総会が開催され、広島市長は世     界の恒久平和を願う「ヒロシマの心」を強く訴えた。
軍縮総会は、過去最多の政府首脳と非政府組織の代表が参加して  行われ、核実験禁止や核不拡散について具体的な議論を尽くしなが  らも、関係国が自国の利害に固執するあまり、世界の包括的軍縮へ  の展望を示す最終文書の採択に至らなかったことは、極めて遺憾で  ある。
ヒロシマは主張する。核兵器廃絶こそが人類生存の最優先課題で  あり、俊巡は許されない。いまこそ、国連の平和維持機能を強化し、  活性化することを各国に強く要請するとともに、今後、国連主催に  よる平和と軍縮の会議が被爆地広島で開催されることを望むもので  ある。」
このように、宣言は、1970年代半ばから、核兵器禁止のイニシアティブを国連に求め続けている。その一方で、80年代に入ると、米ソ核超大国のイニシアティブへの期待も現れるようになった。82年の宣言では、第2回国連軍縮総会の結果に遺憾の意を表明する一方で、「核保有国の元首をはじめ各国首脳」に「広島で軍縮のための首脳会議」を開催することを訴えた。また、翌83年から87年米ソ首脳会談を求めるという形で、両国のイニシアティブに期待を寄せている。

(5) 国際動向への憂慮

1965年(昭和40年)の宣言は、「ベトナムを初め世界各所において、大いなる危険を冒しつつ武力構想が繰り返されていることは真に憂慮に堪えない」と述べた。これ以後、宣言の中で、核戦争につながりかねない紛争についての憂慮が表明されるようになった。宣言が触れたものは、ベトナム戦争(66年、70-72年)、中東問題(66年、70年、80年)、東南アジアの紛争(80年)、イラクのクェート侵攻と湾岸戦争(91年)である。また、「ヨーロパにおけるSS20の配備、パーシングⅡの配備計画」(83年と84年)、「宇宙空間にまで拡大された核戦略」(84-88年)、チェルノブイリ原発事故(86年と91年)、海洋の核戦略(88年)、米軍水爆搭載機水没事件(89年)といった核問題をめぐる国際動向にも憂慮が表明されている。
1970年代以降の宣言は、国連への期待を表明する一方で、平和の問題を、単に戦争のない状態としてではなく、環境・資源問題、飢餓・貧困問題、人権抑圧問題など、平和を脅かす要因の除去という積極的な立場から取り上げるようになった。この点については、1972年の宣言では、国連人間環境会議の紹介に関連して初めて触れ、翌73年の宣言では、つぎのように述べている。
戦争は人間の心のなかに芽生えるものであるが、今日、世界をおおう環  境の破壊、人口増加の圧力、食糧危機、枯渇への速度をはやめる資源消耗  の現実を直視するとき、ここにも人間精神の荒廃と、世界平和を脅す要因  が潜在することを憂えるものである。
1976年にも同様の指摘が見られ、79年には「おろかにも地球の限りある資源を軍備の拡張に浪費し、飢えと貧困を拡大させている現実」という表現で、こうした問題を軍縮との関連で取り上げた。80年の宣言は、「拡大し続ける世界の軍事費はついに一日10億ドルを超え、また、軍備拡大の波は発展途上国にも及んでいる」と述べるとともに、「中東や東南アジアの相つぐ紛争」によって生じた「多数の難民の問題」に憂慮を表明した。そして、85年からは、飢餓(85年-)、貧困(85年、88年-)、人権抑圧(86年-)、難民(86-88年、90年-)・地球環境破壊(89年-)・暴力(91年)の問題が、ほぼ継続的に取り上げられるようになった

(6) 被爆者援護対策への要望

宣言は、1974年(昭和49年)以降、核拡散防止条約批准や非核三原則堅持など外交政策に関連した要望を、日本政府へ行なうようになっていた。その後、79年からは、原爆被爆者援護対策に関連した要望も、宣言に盛り込まれた。79年の宣言は、原爆被爆者対策基本問題懇談会(79年6月厚生大臣の諮問機関として設置)に期待し、つぎのように述べた。
今や、原爆被爆者の問題と放射能被曝者の問題は、世界的課題として緊  急な解決を迫られている。この時にあたり、日本政府において、被爆者援  護対策の基本理念と制度の見直しが始められたことに、われわれは大きな  期待を寄せるものである。
翌1980年には「原爆被爆者援護対策が国家補償の理念に基づいて一日も早く法制化されることを念願」した。この年12月に懇談会の答申が出されたが、その内容は、被爆者団体が強く要望していた原爆被爆者援護法の制定や広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(略称「八者協」、広島・長崎両県市および議会で構成)が要望していた「被爆者及びその遺族の年金制度の創設」については、否定的なものであった。81年の宣言は、「国家補償の精神に基づく原爆被爆者及び遺族への援護対策の拡充強化を求める」という表現で、被爆者援護対策への要望を改めて表明した。91年の宣言では、「国家補償の精神に基づいた被爆者援護法を速やかに実現しなければならない」という表現が使用されたが、「被爆者援護法」という表現が宣言に使用されたのは、初めてのことであった。また、この年の宣言は、原爆被爆者以外の「ヒバクシャの救援」について言及したが、これも初めてのことであった(「被曝者」への言及はすでに79年になされている)。宣言は、これについて、つぎのように述べている。
人類はきょうまで、かろうじて核戦争は回避してきたが、無謀な核実験  の続行や原子力発電所の事故などで、放射線被害が世界の各地に拡がりつ  つある。もうこれ以上、ヒバクシャを増やしてはならない。
ヒロシマはいま、新たにチェルノブイリ原発事故の被害者らに医療面か  らの救援を始めたが、ヒバクシャはぼう大な数にのぼっている。ヒロシマ  は国際的な救援を世界に訴え、その先頭に立ちたいと思う。

(7) 世論への期待

1949年(昭和24年)の宣言は、前年から海外で展開された広島への関心を、つぎのように紹介した。
・・・いまやわれら広島市民の過去の小さな努力は漸く世界の人々の共  感を呼び、8月6日を世界平和日に指定し広島を世界平和センターたらしめ  ようとする運動が広く全世界に展開せられ、また永遠に戦争を防止する強  力な世界組織樹立運動が漸次拡大されつつあることは実に欣快にたえない。
初期の宣言が、国内外の動向に具体的に触れることは極めてまれであったことを考えれば、この表現は、広島の訴えに呼応する動きへの広島市長の熱い思いを示したものといえよう。
1955年の平和記念日には、広島を舞台に原水爆禁止世界大会(第1回)が開催され、57年4月には、原爆医療法が施行された。こうした国内外の広島への関心の高まりは、広島を大いに励ますものであった。56年の宣言は、つぎのように述べている。
凄惨を極めたあの運命の日の体験に基づいて、「広島の悲劇をくりかえ  すな」と叫びつづけてきたわれわれの声に応じ、今日漸く世界各地より共  鳴と激励が寄せられ、原水爆禁止運動は次第に力強い支持を得ており、ひ  いては、永く充分な医療も受け得ず相次いで斃れて行きつつあった被爆生  存者に対する救援も漸次軌道に乗りつつあることは、われわれに新たな勇  気を与えるものである。
1968年と70年の宣言は、世論への強い期待を表明した。68年には、「広島の声を広く世界の声とすることこそ、市民に課せられた任務」と述べ、70年には、「このヒロシマの叫びは、世界の輿論に支えられ、少なくとも核兵器の使用を阻止することができた。われわれはこの成果をふまえて国民的悲願を結集しつつ、ヒロシマの体験をすべての人間の心に深く定着させ、核兵器の全廃と世界恒久平和の実現にむかって前進をつづけよう」と述べている。
こうした世論への期待は、1970年代後半から、宣言の中にしばしば現れるようになった。78年に、「国際政治の潮流は、イデオロギーを越えた良識ある国際世論の結集によって、変革されなければならない」と述べ、世界的な反核運動が盛り上がった82年には、各国政府が「世界各地で澎湃として高まっている核兵器廃絶への熱望を真摯に受け止め」軍縮を促進するよう訴えた。さらに、83年の宣言では、核兵器廃絶の声が、「国際的世論にまで高まっている」と述べた。こうした国際的世論の評価は、84年と86年の宣言でも示され、87年の宣言では、「東西両陣営が米ソの欧州中距離核ミサイル廃絶の方向で同意したこと」を、国際世論の成果と位置づけた。その後、88年、89年、90年の宣言でも、世論への言及がなされている。

(8) 被爆体験の継承

宣言の主張の根拠は、被爆体験である。1962年(昭和37年)の宣言は、そのことについて、「爾来、わたくしたちは機会あるごとに、全世界に、わたくしたちの体験を伝え、核兵器の禁止と戦争放棄の必要とを訴えつづけてきた」と、述べている。また、67年には、つぎのような表現で、被爆体験に対する注意を喚起した。
眼から去るものは心からも去る。22年前、一瞬にして二十数万の生命を  失い、今なお多くの被爆者が生命の不安におののきつつある広島の悲劇を  忘れることなく、これを世界の体験として受けとめ、全人類が戦争の完全  放棄と核兵器の絶対禁止を目ざし全智全能を傾注することを強く訴えるも  のである。
この宣言は、山田節男が市長になって初めて発した宣言である。山田市長は、1968年、70-73年の宣言の中でも、被爆体験の継承の必要性を訴えた。このうち、71年の宣言は、「次の世代に戦争と平和の意義を正しく継承するための平和教育が、全世界に力をこめて推進されなければならない。これこそ、ヒロシマの惨禍を繰り返さないための絶対の道である」と述べている。同じ時期、学校現場においても、平和教育の必要性が認識されるようになっていた。68年には、広島市教育委員会が、また、翌69年には広島県教育委員会と総務部が、それぞれ「『原爆記念日』の取扱いについて」・「八月六日の『原爆の日』の指導について」と題する通知を学校あてに送り、平和記念日の意義の理解の徹底を図った。「広島県被爆教職員の会」が結成されたのは69年のことであり、72年6月には、「広島平和教育研究所」が設立されている。
被爆体験の継承の必要性は、その後、1976年、77年、82年、83年、85年の宣言でも言及され、87年からは毎年触れられるようになった。87年の宣言は、過去10年間で日本全国からヒロシマを訪れた児童・生徒が500万人に達したことを紹介し、「大きな希望」であると評価している。

(9) ヒロシマの動向と決意

1975年(昭和50年)以降、宣言は、ヒロシマを巡る重要な動きを逐一盛り込むようになった。この部分を見れば、ヒロシマの核兵器廃絶への努力と決意の足跡を知ることができる。
1975年から78年までの宣言は、広島・長崎両市長の国連訪問を盛り込んでいる。また、78年のものは、国連本部で画期的な「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真展」が実現し、これが、「国連加盟国代表はもちろん国連を訪れた人びとに大きな衝撃を与えた」ことを報告した。その後、80年の米国上院議員会館での原爆展の開催、81年2月のローマ法王ヨハネ・パウロ二世の広島訪問、82年の「軍縮と安全保障問題に関する独立委員会」(パルメ委員会)の広島での会議開催と広島市長の国連軍縮特別総会への出席を盛り込んだ。
1983年1月、広島・長崎両市長は、核兵器廃絶に向けての「世界平和都市連帯」を呼びかけたが、83年の宣言では「世界の各地から熱い賛同のメッセージが寄せられ、国境を越えて連帯の輪が広がりつつある」と報告し、84年と85年には、「都市連帯による新しい平和秩序を探求する」(84年)、「平和を希求する世界のあらゆる都市が、国境を越え、思想・信条の違いを超えて連帯し、恒久平和確立への国際世論を喚起しようとするものである」(85年)と会議の意図と会議に向けての決意を表明した。
1970年代半ばから国連という舞台を通じて急速に進展したヒロシマの国際化は、85年の世界平和連帯都市市長会議を契機に、広島を舞台にしても推進されるようになった。その状況は、宣言の中では、つぎのように報告されている。
1986年「ノーベル平和賞を受賞した「核戦争防止国際医師会議」のメンバ  ーが、本年6月広島を訪れ、被爆の実相に驚愕し、核実験即時停止を     強く訴えた。
本日、世界各地でヒロシマ・デーが開催され、メキシコでは、非  同盟6カ国首脳が相集い、核軍縮を世界に訴える。
時あたかも国際平和年。
ヒロシマは、ここに、「平和サミット」を開催し、核兵器廃絶と  恒久平和実現への国際世論を喚起する。」
1987年「本日、核保有国の代表的ジャーナリストによるシンポジウムをこ  こ広島で開催し、核兵器廃絶の更なる国際世論の醸成を図る。」
1988年「本日、ここ広島において、姉妹・友好都市の青年による「国際平  和シンポジウム」を開催し、「ヒロシマの体験」を継承すべく、市  民とともに討議する。」
1989年「広島市は、本年、市制施行100周年、「広島平和記念都市建設法」  施行40周年を迎えた。この意義ある年に、今ここ広島で「第2回世界     平和連帯都市市長会議」を開催している。世界三十数か国、約130都     市の市長らが、体制の違いや国境を乗り越えて相集い、「核兵器廃     絶を目指して-核時代における都市の役割」を基調テーマに、活発     な討論を交わしている。
10月には、「核戦争防止国際医師会議」の第9回世界大会が、「ノ     ーモア・ヒロシマ この決意永遠に」をテーマに、広島市で開催さ     れる。
去る4月に、日本で初めて京都市において「国連軍縮会議」が開催     された。その参加者が被爆地広島を訪れ、核兵器がもたらした被害     の実相に触れ、その凄まじさを改めて認識し、核兵器廃絶への思い     を強くした。
時恰も、核兵器による人類絶滅の危機を警告し続けてきた原爆ド  ームの保存募金には、国の内外から大きな反響が寄せられている。  原爆資料館の昨年度の入館者数が140万人を超え、過去最高を記録し     た。これらの事実は、「ヒロシマの心」が着実にひろがっている証     左である。」
1990年「本年3月、原爆ドーム保存工事が、国の内外から寄せられた多くの     浄財と平和への熱い思いに支えられて、完成した。広島平和記念資  料館の来館者は、初めて一年間に150万人を突破するに到った。核兵     器廃絶を求める世界平和都市連帯推進計画に賛同する都市も50か国、     287都市に達した。これらの事実は、強く平和を願う多くの人々の意     志を示すものである。
本日は、ここ広島において、女性国際平和シンポジウムを開催し、  平和への実現や核兵器廃絶のために、女性が果たすべき役割を討議  する。」

(10) 宣言内容の変遷

宣言に盛り込まれてきた要素は、実に多様である。しかし、「人類破滅観」のように当初より一貫して存在するものや、ある年以降継続的に盛り込まれている要素、ある時期にのみに存在する要素もある。1991年(平成3年)の宣言の構成は、(a)被害の実相、(b)ヒロシマの願い、(c)国際動向、(d)日本政府への要望、(e)ヒロシマの動向と決意、(f)ヒロシマの訴え、(g)結語となっている。結語では、国際協力のあり方、平和教育の推進、被爆者援護法の実現、海外の被爆者への援護についての注意を喚起し、原爆犠牲者への追悼の意の表明と、平和への不断の努力の誓いが述べられた。これら各要素の変化の概要は、前述の通りである。
これまで触れなかったが、マスコミが大きく取り上げた要素もいくらか存在する。たとえば、1969年(昭和44年)の宣言は、「人間の月着陸という人類の夢はついに実現した」と述べたが、これを中国新聞は「アポロ11号の英知を 人類の平和建設に 平和祈念式 広島市長の平和宣言」との見出しで報じた(「中国新聞」69年7月30日)。また、各紙は、79年の宣言が「核実験被曝」に初めて言及したとして大きく取り上げた。このほか、広島への平和と軍縮に関する国際的な平和研究機関の設置が、82年の平和宣言で初めて提唱された。この提唱は、88年から90年の宣言にも盛り込まれたが、91年の宣言では消えた。
宣言内容は、時代とともに大きく変化してきた。浜井市長の時期(前期)の宣言では見ることのできなかった原水爆禁止の直接的訴えが、渡辺市長の時期には明確に現れるようになった。こうした変化は、市長の交代にともなう変化というより、基本的には式典を取り巻く環境の変化によりもたらされたものである。これは、山田市長の時期に現れた「被爆体験の継承」についても同様のことがいえる。
とはいえ、市長の交代による変化と思われるものも存在する。山田市長の時期の宣言では、「世界法」(1967年と70年)、「正義と世界新秩序の支配する社会の建設」(68年)、「世界市民意識」(69-71年、74年)、「一切の軍備主権を人類連帯の世界機構に移譲し、解消すべきである」(71年)、「世界国家」(73年)といった表現が使用されている。これらは、いずれも世界連邦主義に基づくものと考えられ、山田市長以外には使用していない。また、平岡市長は、「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」という表現で、日本がもたらした戦争被害への謝罪の気持ちを述べた。この気持ちは、81年、87年、89年の宣言が原爆死没者慰霊碑の碑文の「過ち」や89年の「戦争の過ち」について触れることで間接的に表わされてきたとの解釈がある(「毎日新聞」87年8月7日)。しかし、それが明確な表現で盛り込まれた背景には、市長の強い意向があった。

(11) 平和宣言の普及

1948年(昭和43年)の宣言は、世界160都市に浜井市長のメッセージとともに送付された。宣言の海外への送付は、これ以後も続けられ、54年には、世界主要都市市長へ98通、平和団体へ29通、計127通を原水爆禁止決議文とともに郵送されている。この年には、初めて共産圏に13通が送られたが、これは、占領解除の翌年にあたる前年に計画されながら中止となっていたものであった。その後の海外への送付総数は、新聞報道によれば、55年には151通、56年179通、58年300通、59年258通、60年265通、61年275通、66年170通、69年257通、71年281通、72年257通、74年236通、75年250通、76年247通、77年362通となっている。また、国別では、56年には、アメリカ64通、イギリス15通、ドイツ11通、フランス・カナダ・南米各8通、オーストラリア6通などであり、61年には、アメリカ81通、西独28、イギリス21通、フランス15通、オーストラリア10通、カナダ9通、東独8通などとなっている。
海外への送付先は、都市長や平和団体、個人あてであったが、1974年には初めてインドを含む核保有国を始め、19か国の首相、大統領が送付先に加えられた。さらに、翌75年には、在日大使館、領事館や在日海外特派員(100人)など国内の海外機関・個人への送付とともにニューヨークタイムス、ルモンド、BBC、プラウダ、人民日報など海外の新聞、放送通信社108社への送付が行なわれた。その後、国連加盟国161国の国連代表部への送付も加えられ、82年には英文の宣言の送付数は、国内外合わせて1,170通にものぼっている。
一方、国内への送付数も、次第に増加してきた。1955年420通、72年422通、75年926通、76年1,335通、77年1,918通と報じられている。76年から77年にかけての送付先の増加は、送付先をそれまでの広島・長崎両県選出の衆・参両院議員から全議員(723人)に拡大したためであった。77年には、海外送付分も115通増加し、国内外合わせて2,280通が送られた。
1975年には、平和宣言を印刷したパンフレットが5万部が印刷され、そのうちの約2万5,000枚が、「ひろしま平和の歌」のパンフレットとともに、平和式典開式前にボーイスカウトによって配布された。また、76年からは1枚のパンフレットに作成された「平和宣言・平和の歌・式次第」が、会場で配布されるようになり、78年からは、英文のパンフレットも作成され、会場で参列の外国人に配布されるようになった。このほかに広島市による宣言普及の努力は、平和宣言文パネルの設置という形でも行なわれている。83年12月28日、広島市は市役所本庁や市議会棟の玄関、広島平和記念資料館の展示ロビー、市内7区役所の計10か所に、平和宣言文のパネル板を設置した(91年には12か所)。
最近では、平和宣言普及が、市民の奉仕活動としても行われるようになった。
広島市視力障害者福祉協議会は、87年の宣言から、点訳を行い、会員と日本盲人会連合に加盟している56団体に送るようになった。また、88年からは、国際青少年友好センタ-主宰のコンピュ-タ-・ネットワーク「カモメ」が、平和宣言を日英2か国語で発信している。

平和式典実況中継1996年8月6日

平和式典実況中継1996年8月6日(宇吹メモより)<敬称略>

前日23:30 平和式典実況中継の原稿をやっと書き上げる。気が付いたら、NHK「被爆の言葉」が終わりかけていた。大牟田と大石芳野が対談していた。
06:20 年休をとる。5時に起きて原医研へ寄りNHKへ到着。*・*と一緒に平和公園へ行き、6時半、慰霊碑への石段下西側の記者席に着席。*(東京・NHKラジオセンター)がプロデューサー格で加わる。
06:21 リハーサルの時、*から総理挨拶批判について「あなたがそう思わないなら言わなくても良いが、もし思っているのなら」
07:00 平和式典会場の上空にヘリコプター2機。朝日とまともに向き合う席ではなはだ暑い。
07 平岡市長が近くに来て立っているので何ごとかと思ったら、橋本総理を出迎えるため。二人は挨拶を交わしていたが、こうした場合何を言い合うのか。
08:07 市長の宣言朗読直後、慈仙寺鼻方面で激しい爆竹の音。終了後の*の話では、橋本来広への抗議のため数人がやったとのこと。
08:50 開式前、金沢は短い現場中継、その後、式典の進行については簡単に打ち合わす。私は準備した原稿の趣旨の半分も話せず。一般参列者としては、随分長く感じたが、今回はあっと言う間に1時間が過ぎた。
09 終了後県立体育館に寄ったが成果無し。バスセンターで新聞各紙を購入して原医研に帰る。寝不足で仕事にならず、そのまま帰宅。昼食後、3時まで寝込む。
後日 私のラジオ出演への反響。盛岡の友人=車を運転中ラジオから君の声が聞こえた。石踊=今にも倒れそうな溜息(?)が聞こえ、聞くに堪えなかった。*(NHK広島)より電話。東京のラジオセンターでは実況中継の評判が良かった。

 

秋葉忠利広島市長平和宣言(1999~2010年)

1999(平成11年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

戦争の世紀だった20世紀は、悪魔の武器、核兵器を生み、私たち人類はいまだにその呪縛(じゅばく)から逃れることができません。しかしながら広島・長崎への原爆投下後54年間、私たちは、原爆によって非業の死を遂げられた数十万の皆さんに、そしてすべての戦争の犠牲者に思いを馳(は)せながら、核兵器を廃絶するために闘ってきました。

この闘いの先頭を切ったのは多くの被爆者であり、また自らを被爆者の魂と重ね合わせて生きてきた人々でした。なかんずく、多くの被爆者が世界のために残した足跡を顧みるとき、私たちは感謝の気持ちを表さずにはいられません。

大きな足跡は三つあります。

一つ目は、原爆のもたらした地獄の惨苦や絶望を乗り越えて、人間であり続けた事実です。若い世代の皆さんには、高齢の被爆者の多くが、被爆時には皆さんと同じ年ごろだったことを心に留めていただきたいのです。家族も学校も街も一瞬にして消え去り、死屍累々(ししるいるい)たる瓦礫(がれき)の中、生死の間(はざま)をさまよい、死を選んだとしてもだれにも非難できないような状況下にあって、それでも生を選び人間であり続けた意志と勇気を、共に胸に刻みたいと思います。

二つ目は、核兵器の使用を阻止したことです。紛争や戦争の度に、核兵器を使うべしという声が必ず起こります。コソボでもそうでした。しかし、自らの体験を世界に伝え、核兵器の使用が人類の破滅と同義であり、究極の悪であることを訴え続け、二度と過ちを繰り返さぬと誓った被爆者たちの意志の力によって、これまでの間、人類は三度目の愚行を犯さなかったのです。だからこそ私たちの、そして若い世代の皆さんの未来への可能性が残されたのです。

三つ目は、原爆死没者慰霊碑に刻まれ日本国憲法に凝縮された「新しい」世界の考え方を提示し実行してきたことです。復讐(ふくしゅう)や敵対という人類滅亡につながる道ではなく、国家としての日本の過ちのみならず、戦争の過ちを一身に背負って未来を見据え、人類全体の公正と信義に依拠する道を選んだのです。今年5月に開かれたハーグの平和会議で世界の平和を愛する人々が高らかに宣言したように、この考え方こそ21世紀、人類の進むべき道を指し示しています。その趣旨を憲法や法律の形で具現化したすべての国々そして人々に、私たちは心から拍手を送ります。

核兵器を廃絶するために何より大切なのは、被爆者の持ち続けた意志に倣って私たちも、「核兵器を廃絶する」強い意志を持つことです。全世界がこの意志を持てば、いや核保有国の指導者たちだけでもこの意志を持てば、明日にでも核兵器は廃絶できるからです。

強い意志は真実から生まれます。核兵器は人類滅亡を引き起こす絶対悪だという事実です。

意志さえあれば、必ず道は開けます。意志さえあれば、どの道を選んでも核兵器の廃絶に到達できます。逆に、どんなに広い道があっても、一歩を踏み出す意志がなければ、目的地には到達できないのです。特に、若い世代の皆さんにその意志を持ってもらいたいのです。

私たちは改めて日本国政府が、被爆者の果たしてきた役割を正当に評価し援護策を更に充実することを求めます。その上で、すべての施策に優先して核兵器廃絶のための強い意志を持つことを求めます。日本国政府は憲法の前文に則(のっと)って世界各国政府を説得し、世界的な核兵器廃絶への意志を形成しなくてはなりません。地球の未来のために、私たちが人間として果たさなくてはならない最も重要な責務が核兵器廃絶であることをここに宣言し、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2000(平成12年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

私たちは今日、20世紀最後の8月6日を迎えました。

一発の原子爆弾が作り出した地獄の日から55年、私たちは、絶望の淵(ふち)から甦(よみがえ)った被爆者と共に悲嘆にくれ、慰め励まし、怒り祈り、学び癒(いや)し、そして訴え行動してきました。その結果、広島平和記念都市建設法の制定、原爆死没者慰霊碑の建立、被爆者援護法の制定、南半球を中心とした非核兵器地帯の設定、国際司法裁判所による核兵器使用の違法性判断、包括的核実験禁止条約の締結、原爆ドームの世界遺産化、核保有国による「核兵器全廃に向けた明確な約束」等、多くの成果を挙げることができました。特に、長崎以降、核兵器が実戦において使われなかったことは全人類的成果です。しかし、今世紀中に核兵器の全廃をという私たちの願いは、残念ながら実現に至りませんでした。

21世紀には、何としてもこの悲願を達成しなくてはなりません。そのためにも今一度、より大きな文脈で被爆体験の意味を整理し直し、その表現手段を確立し、人類全体の遺産として継承していかなくてはなりません。世界遺産として認められた原爆ドーム、被爆に耐えた旧日本銀行広島支店や世界中の子どもたちから寄せられる折鶴(おりづる)の保存や活用はそのためにも重要です。また、「核兵器は違法である」という大きな成果を核兵器廃絶につなげるため、世界平和連帯都市市長会議の力を結集する必要もあります。そして人類の誰(だれ)もが自らの国家や民族の戦争責任を問い、自ら憎しみや暴力の連鎖を断つことで「和解」への道を拓(ひら)くよう、そして一日も早く人類が核兵器を全廃するよう、世界に訴え続けたいと考えています。

コンピュータはもちろん鉛筆も、いや文字さえなかった太古から今日まで、20世紀が他のどの時代とも違うのは、人類の生存そのものを脅かす具体的な危険を科学技術の力によって創(つく)り出してしまったからです。その一つが核兵器であり、もう一つが地球環境の破壊であることは、言うまでもありません。そのどちらも私たち人類が自ら創(つく)り出した問題です。その解決も当然、私たち自身の手で行わなくてはなりません。

核兵器の廃絶を世界に向って呼び掛けてきた広島は、さらに、科学技術を真に「人間的目的」のために活用するモデル都市として新たな出発をしたいと思います。広島そのものが「人間的目的」の具現化であるような未来を、広島の存在そのものが「平和」であることの実質を示す21世紀を創(つく)りたいと考えています。それは人間の存在そのものを危機に陥れた科学技術と、人類との「和解」でもあります。

朝鮮半島における南北首脳会談で両国の首脳が劇的に示してくれたのは、人間的な「和解」の姿です。私たちは、20世紀の初め日米友好の象徴として交換されたサクラとハナミズキの故事に倣(なら)い、日米市民の協力の下、広島にすべての「和解」の象徴としてハナミズキの並木を作りたいと考えています。国際的な場面においても広島は、対立や敵対関係を超える「和解」を創(つく)り出す、調停役としての役割が果せる都市に成長したいと思います。

私たちは改めて、日本国政府が、被爆者の果してきた重要な役割を正当に評価し援護策を更に充実することを求めます。その上で、核兵器廃絶のための強い意志を持ち、かつ憲法の前文に則(のっと)って、広島と共に世界に「和解」を広める役割を果すよう、強く要請します。

20世紀最後の8月6日、私たちは、人類の来し方行く末に思いを馳(は)せつつ広島に集い、一本の鉛筆があれば、何よりもまず「人間の命」と書き「核兵器廃絶」と書き続ける決意であることをここに宣言し、すべての原爆犠牲者の御霊(みたま)に衷心より哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2001(平成13年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

今世紀初めての8月6日を迎え、「戦争の世紀」の生き証人であるヒロシマは、21世紀を核兵器のない、「平和と人道の世紀」にするため、全力を尽すことを宣言します。

人道とは、生きとし生けるものすべての声に耳を傾ける態度です。子どもたちを慈しみ育(はぐく)む姿勢でもあります。人類共通の未来を創(つく)るため和解を重んじ、暴力を否定し理性と良心に従って平和的な結論に至る手法でもあります。人道によってのみ核兵器の廃絶は可能になり、人道こそ核兵器の全廃後、再び核兵器を造り出さない保障でもあります。

21世紀の広島は人道都市として大きく羽ばたきたいと思います。世界中の子どもや若者にとって優しさに満ち、創造力とエネルギーの源であり、老若男女誰(だれ)にとっても憩いや寛(くつろ)ぎの「居場所」がある都市、万人のための「故郷(ふるさと)」を創(つく)りたいと考えています。

しかし、暦の上で「戦争の世紀」が終っても、自動的に「平和と人道の世紀」が訪れるわけではありません。地域紛争や内戦等の直接的暴力だけでなく、環境破壊をはじめ、言論や映像、ゲーム等、様々な形をした暴力が世界を覆い、高度の科学技術によって戦場は宇宙空間にまで広がりつつあります。

世界の指導者たちは、まず、こうした現実を謙虚に直視する必要があります。その上で、核兵器廃絶への強い意志、人類の英知の結晶である約束事を守る誠実さ、そして和解や人道を重視する勇気を持たなくてはなりません。

多くの被爆者は、そして被爆者と魂を重ねる人々は、人類の運命にまで自らの責任を感じ、岩をも貫き通す堅い意志を持って核兵器の廃絶と世界平和を求めてきました。被爆者にとって56年前の「生き地獄」は昨日のように鮮明だからです。その記憶と責任感、意志を、生きた形で若い世代に伝えることこそ、人類が21世紀を生き延び、22世紀へ虹色の橋を架けるための最も確実な第一歩です。

そのために私たちは、広い意味での平和教育の再活性化に力を入れています。特に、世界の主要大学で「広島・長崎講座」を開講するため私たちは努力を続けています。骨格になるのは、広島平和研究所等における研究実績です。事実に基づいた学問研究の成果を糧(かて)に、私たち人類は真実に近付いてきたからです。

今、広島市と長崎市で世界平和連帯都市市長会議が開催されています。21世紀、人道の担い手になる世界の都市が、真実に導かれ連帯することで核兵器の廃絶と世界平和を実現するための会議です。近い将来、この会議の加盟都市が先頭に立って世界中に「非核自治体」を広げ、最終的には地球全体を非核地帯にすることも夢ではありません。

わが国政府には、アジアのまとめ役として非核地帯の創設や信頼醸成のための具体的行動、ならびに国策として核兵器禁止条約締結の推進を期待します。同時に、世界各地に住む被爆者の果してきた役割を正当に評価し、彼らの権利を尊重し、さらなる援護策の充実を求めます。その上で、核兵器廃絶のための強い意志を持ち、憲法の前文に則(のっと)って、広島と共に「平和と人道の世紀」を創(つく)るよう、強く要請します。

21世紀最初の8月6日、私たちは今、目の前にある平和の瞬間(とき)を、21世紀にそして世界に広げることを誓い、すべての原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2002(平成14年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

57年前、「この世の終り」を経験した被爆者、それ故に「他(ほか)の誰(だれ)にもこんな思いをさせてはならない」と現世の平和を願い活動してきた被爆者にとって、再び辛(つら)く暑い夏が巡ってきました。

一つには、暑さと共に当時の悲惨な記憶が蘇(よみがえ)るからです。

それ以上に辛(つら)いのは、その記憶が世界的に薄れつつあるからです。実体験を持たない大多数の世界市民にとっては、原爆の恐ろしさを想像することさえ難しい上に、ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』やジョナサン・シェルの『地球の運命』さえも忘れられつつあります。その結果、「忘れられた歴史は繰り返す」という言葉通り、核戦争の危険性や核兵器の使用される可能性が高まっています。

その傾向は、昨年9月11日のアメリカ市民に対するテロ攻撃以後、特に顕著になりました。被爆者が訴えて来た「憎しみと暴力、報復の連鎖」を断ち切る和解の道は忘れ去られ、「今に見ていろ」そして「俺の方が強いんだぞ」が世界の哲学になりつつあります。そしてアフガニスタンや中東、さらにインドやパキスタン等、世界の紛争地でその犠牲になるのは圧倒的に女性・子供・老人等、弱い立場の人たちです。

ケネディ大統領は、地球の未来のためには、全(すべ)ての人がお互いを愛する必要はない、必要なのはお互いの違いに寛容であることだと述べました。その枠組みの中で、人類共通の明るい未来を創(つく)るために、どんなに小さくても良いから協力を始めることが「和解」の意味なのです。

また「和解」の心は過去を「裁く」ことにはありません。人類の過ちを素直に受け止め、その過ちを繰り返さずに、未来を創(つく)ることにあります。そのためにも、誠実に過去の事実を知り理解することが大切です。だからこそ私たちは、世界の大学で「広島・長崎講座」を開設しようとしているのです。

広島が目指す「万人のための故郷(ふるさと)」には豊かな記憶の森があり、その森から流れ出る和解と人道の川には理性と良心そして共感の船が行き交い、やがて希望と未来の海に到達します。

その森と川に触れて貰(もら)うためにも、ブッシュ大統領に広島・長崎を訪れること、人類としての記憶を呼び覚まし、核兵器が人類に何をもたらすのかを自らの目で確認することを強く求めます。

アメリカ政府は、「パックス・アメリカーナ」を押し付けたり世界の運命を決定する権利を与えられている訳ではありません。「人類を絶滅させる権限をあなたに与えてはいない」と主張する権利を私たち世界の市民が持っているからです。

 

日本国憲法第99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規定しています。この規定に従うべき日本国政府の役割は、まず我が国を「他(ほか)の全(すべ)ての国と同じように」戦争のできる、「普通の国」にしないことです。すなわち、核兵器の絶対否定と戦争の放棄です。その上で、政府は広島・長崎の記憶と声そして祈りを世界、特にアメリカ合衆国に伝え、明日の子どもたちのために戦争を未然に防ぐ責任を有します。

その第一歩は、謙虚に世界の被爆者の声に耳を傾けることから始まります。特に海外に住む被爆者が、安心して平和のメッセージを世界に伝え続けられるよう、全(すべ)ての被爆者援護のための施策をさらに充実すべきです。

本日、私たち広島市民は改めて57年前を想(おも)い起し、人類共有の記憶を貴び「平和と人道の世紀」を創造するため、あらん限り努力することを誓い、全(すべ)ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2003(平成15年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

今年もまた、58年前の灼熱(しゃくねつ)地獄を思わせる夏が巡って来ました。被爆者が訴え続けて来た核兵器や戦争のない世界は遠ざかり、至る所に暗雲が垂れこめています。今にもそれがきのこ雲に変り、黒い雨が降り出しそうな気配さえあります。

一つには、核兵器をなくすための中心的な国際合意である、核不拡散条約体制が崩壊の危機に瀕(ひん)しているからです。核兵器先制使用の可能性を明言し、「使える核兵器」を目指して小型核兵器の研究を再開するなど、「核兵器は神」であることを奉じる米国の核政策が最大の原因です。

しかし、問題は核兵器だけではありません。国連憲章や日本国憲法さえ存在しないかのような言動が世を覆い、時代は正に戦後から戦前へと大きく舵(かじ)を切っているからです。また、米英軍主導のイラク戦争が明らかにしたように、「戦争が平和」だとの主張があたかも真理であるかのように喧伝(けんでん)されています。しかし、この戦争は、国連査察の継続による平和的解決を望んだ、世界の声をよそに始められ、罪のない多くの女性や子ども、老人を殺し、自然を破壊し、何十億年も拭(ぬぐ)えぬ放射能汚染をもたらしました。開戦の口実だった大量破壊兵器も未(いま)だに見つかっていません。

かつてリンカーン大統領が述べたように「全(すべ)ての人を永遠に騙(だま)すことはできません」。そして今こそ、私たちは「暗闇(くらやみ)を消せるのは、暗闇(くらやみ)ではなく光だ」という真実を見つめ直さなくてはなりません。「力の支配」は闇(やみ)、「法の支配」が光です。「報復」という闇(やみ)に対して、「他(ほか)の誰(だれ)にもこんな思いをさせてはならない」という、被爆者たちの決意から生まれた「和解」の精神は、人類の行く手を明るく照らす光です。

その光を掲げて、高齢化の目立つ被爆者は米国のブッシュ大統領に広島を訪れるよう呼び掛けています。私たちも、ブッシュ大統領、北朝鮮の金総書記をはじめとして、核兵器保有国のリーダーたちが広島を訪れ核戦争の現実を直視するよう強く求めます。何をおいても、彼らに核兵器が極悪、非道、国際法違反の武器であることを伝えなくてはならないからです。同時に広島・長崎の実相が世界中により広く伝わり、世界の大学でさらに多くの「広島・長崎講座」が開設されることを期待します。

また、核不拡散条約体制を強化するために、広島市は世界の平和市長会議の加盟都市並びに市長に、核兵器廃絶のための緊急行動を提案します。被爆60周年の2005年にニューヨークで開かれる核不拡散条約再検討会議に世界から多くの都市の代表が集まり、各国政府代表に、核兵器全廃を目的とする「核兵器禁止条約」締結のための交渉を、国連で始めるよう積極的に働き掛けるためです。

同時に、世界中の人々、特に政治家、宗教者、学者、作家、ジャーナリスト、教師、芸術家やスポーツ選手など、影響力を持つリーダーの皆さんに呼び掛けます。いささかでも戦争や核兵器を容認する言辞は弄(ろう)せず、戦争を起こさせないために、また絶対悪である核兵器を使わせず廃絶させるために、日常のレベルで祈り、発言し、行動していこうではありませんか。

また「唯一の被爆国」を標榜(ひょうぼう)する日本政府は、国の内外でそれに伴う責任を果さなくてはなりません。具体的には、「作らせず、持たせず、使わせない」を内容とする新・非核三原則を新たな国是とした上で、アジア地域の非核地帯化に誠心誠意取り組み、「黒い雨降雨地域」や海外に住む被爆者も含めて、世界の全(すべ)ての被爆者への援護を充実させるべきです。

58年目の8月6日、子どもたちの時代までに、核兵器を廃絶し戦争を起こさない世界を実現するため、新たな決意で努力することを誓い、全(すべ)ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に衷心より哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2004(平成16年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

「75年間は草木も生えぬ」と言われたほど破壊し尽された8月6日から59年。あの日の苦しみを未(いま)だに背負った亡骸(なきがら)——愛する人々そして未来への思いを残しながら幽明界(ゆうめいさかい)を異(こと)にした仏たちが、今再び、似島(にのしま)に還(かえ)り、原爆の非人間性と戦争の醜さを告発しています。

残念なことに、人類は未(いま)だにその惨状を忠実に記述するだけの語彙(ごい)を持たず、その空白を埋めるべき想像力に欠けています。また、私たちの多くは時代に流され惰眠(だみん)を貪(むさぼ)り、将来を見通すべき理性の眼鏡は曇り、勇気ある少数には背を向けています。

その結果、米国の自己中心主義はその極に達しています。国連に代表される法の支配を無視し、核兵器を小型化し日常的に「使う」ための研究を再開しています。また世界各地における暴力と報復の連鎖は止(や)むところを知らず、暴力を増幅するテロへの依存や北朝鮮等による実のない「核兵器保険」への加入が、時代の流れを象徴しています。

このような人類の危機を、私たちは人類史という文脈の中で認識し直さなくてはなりません。人間社会と自然との織り成す循環が振り出しに戻る被爆60周年を前に、私たちは今こそ、人類未曾有(みぞう)の経験であった被爆という原点に戻り、この一年の間に新たな希望の種を蒔(ま)き、未来に向かう流れを創(つく)らなくてはなりません。

そのために広島市は、世界109か国・地域、611都市からなる平和市長会議と共に、今日から来年の8月9日までを「核兵器のない世界を創(つく)るための記憶と行動の一年」にすることを宣言します。私たちの目的は、被爆後75年目に当る2020年までに、この地球から全(すべ)ての核兵器をなくすという「花」を咲かせることにあります。そのときこそ「草木も生えない」地球に、希望の生命が復活します。

私たちが今、蒔(ま)く種は、2005年5月に芽吹きます。ニューヨークで開かれる国連の核不拡散条約再検討会議において、2020年を目標年次とし、2010年までに核兵器禁止条約を締結するという中間目標を盛り込んだ行動プログラムが採択されるよう、世界の都市、市民、NGOは、志を同じくする国々と共に「核兵器廃絶のための緊急行動」を展開するからです。

そして今、世界各地でこの緊急行動を支持する大きな流れができつつあります。今年2月には欧州議会が圧倒的多数で、6月には1183都市の加盟する全米市長会議総会が満場一致でより強力な形の、緊急行動支持決議を採択しました。

その全米市長会議に続いて、良識ある米国市民が人類愛の観点から「核兵器廃絶のための緊急行動」支持の本流となり、唯一の超大国として核兵器廃絶の責任を果すよう期待します。

私たちは、核兵器の非人間性と戦争の悲惨さとを、特に若い世代に理解してもらうため、被爆者の証言を世界に届け、「広島・長崎講座」の普及に力を入れると共に、さらにこの一年間、世界の子どもたちに大人の世代が被爆体験記を読み語るプロジェクトを展開します。

日本国政府は、私たちの代表として、世界に誇るべき平和憲法を擁護し、国内外で顕著になりつつある戦争並びに核兵器容認の風潮を匡(ただ)すべきです。また、唯一の被爆国の責務として、平和市長会議の提唱する緊急行動を全面的に支持し、核兵器廃絶のため世界のリーダーとなり、大きなうねりを創(つく)るよう強く要請します。さらに、海外や黒い雨地域も含め高齢化した被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

本日私たちは、被爆60周年を、核兵器廃絶の芽が萌(も)え出る希望の年にするため、これからの一年間、ヒロシマ・ナガサキの記憶を呼び覚ましつつ力を尽し行動することを誓い、全(すべ)ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に哀悼の誠を捧(ささ)げます。

2005(平成17年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

被爆60周年の8月6日、30万を越える原爆犠牲者の御霊(みたま)と生き残った私たちが幽明(ゆうめい)の界(さかい)を越え、あの日を振り返る慟哭(どうこく)の刻(とき)を迎えました。それは、核兵器廃絶と世界平和実現のため、ひたすら努力し続けた被爆者の志を受け継ぎ、私たち自身が果たすべき責任に目覚め、行動に移す決意をする、継承と目覚め、決意の刻(とき)でもあります。この決意は、全(すべ)ての戦争犠牲者や世界各地で今この刻(とき)を共にしている多くの人々の思いと重なり、地球を包むハーモニーとなりつつあります。

その主旋律は、「こんな思いを、他(ほか)の誰(だれ)にもさせてはならない」という被爆者の声であり、宗教や法律が揃(そろ)って説く「汝(なんじ)殺すなかれ」です。未来世代への責務として、私たちはこの真理を、なかんずく「子どもを殺すなかれ」を、国家や宗教を超える人類最優先の公理として確立する必要があります。9年前の国際司法裁判所の勧告的意見はそのための大切な一歩です。また主権国家の意思として、この真理を永久に採用した日本国憲法は、21世紀の世界を導く道標(みちしるべ)です。

しかし、今年の5月に開かれた核不拡散条約再検討会議で明らかになったのは、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮等の核保有国並びに核保有願望国が、世界の大多数の市民や国の声を無視し、人類を滅亡に導く危機に陥れているという事実です。

これらの国々は「力は正義」を前提に、核兵器の保有を入会証とする「核クラブ」を結成し、マスコミを通して「核兵器が貴方(あなた)を守る」という偽りの呪(まじな)いを繰り返してきました。その結果、反論する手段を持たない多くの世界市民は「自分には何もできない」と信じさせられています。また、国連では、自らの我儘を通せる拒否権に恃(たの)んで、世界の大多数の声を封じ込めています。

この現実を変えるため、加盟都市が1080に増えた平和市長会議は現在、広島市で第6回総会を開き、一昨年採択した「核兵器廃絶のための緊急行動」を改訂しています。目標は、全米市長会議や欧州議会、核戦争防止国際医師の会等々、世界に広がる様々な組織やNGOそして多くの市民との協働の輪を広げるための、そしてまた、世界の市民が「地球の未来はあたかも自分一人の肩に懸かっているかのような」危機感を持って自らの責任に目覚め、新たな決意で核廃絶を目指して行動するための、具体的指針を作ることです。

まず私たちは、国連に多数意見を届けるため、10月に開かれる国連総会の第一委員会が、核兵器のない世界の実現と維持とを検討する特別委員会を設置するよう提案します。それは、ジュネーブでの軍縮会議、ニューヨークにおける核不拡散条約再検討会議のどちらも不毛に終わった理由が、どの国も拒否権を行使できる「全員一致方式」だったからです。

さらに国連総会がこの特別委員会の勧告に従い、2020年までに核兵器の廃絶を実現するための具体的ステップを2010年までに策定するよう、期待します。

同時に私たちは、今日から来年の8月9日までの369日を「継承と目覚め、決意の年」と位置付け、世界の多くの国、NGOや大多数の市民と共に、世界中の多くの都市で核兵器廃絶に向けた多様なキャンペーンを展開します。

日本政府は、こうした世界の都市の声を尊重し、第一委員会や総会の場で、多数決による核兵器廃絶実現のために力を尽くすべきです。重ねて日本政府には、海外や黒い雨地域も含め高齢化した被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

被爆60周年の今日、「過ちは繰返さない」と誓った私たちの責任を謙虚に再確認し、全(すべ)ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に哀悼の誠を捧(ささ)げます。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

2006(平成18年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

放射線、熱線、爆風、そしてその相乗作用が現世(げんせ)の地獄を作り出してから61年——悪魔に魅入られ核兵器の奴隷と化した国の数はいや増し、人類は今、全(すべ)ての国が奴隷となるか、全(すべ)ての国が自由となるかの岐路に立たされています。それはまた、都市が、その中でも特に罪のない子どもたちが、核兵器の攻撃目標であり続けて良いのか、と問うことでもあります。

一点の曇りもなく答は明らかです。世界を核兵器から解放する道筋も、これまでの61年間が明確に示しています。

被爆者たちは、死を選んだとしても誰(だれ)も非難できない地獄から、生と未来に向かっての歩みを始めました。心身を苛(さいな)む傷病苦を乗り越えて自らの体験を語り続け、あらゆる差別や誹謗(ひぼう)・中傷を撥(は)ね返して「他(ほか)の誰(だれ)にもこんな思いをさせてはならない」と訴え続けてきたのです。その声は、心ある世界の市民に広がり力強い大合唱になりつつあります。

「核兵器の持つ唯一の役割は廃絶されることにある」がその基調です。しかし、世界政治のリーダーたちはその声を無視し続けています。10年前、世界市民の創造力と活動が勝ち取った国際司法裁判所による勧告的意見は、彼らの蒙(もう)を啓(ひら)き真実に目を向けさせるために、極めて有効な手段となるはずでした。

国際司法裁判所は、「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に反する」との判断を下した上で、「全(すべ)ての国家には、全(すべ)ての局面において核軍縮につながる交渉を、誠実に行い完了させる義務がある」と述べているからです。

核保有国が率先して、誠実にこの義務を果していれば、既に核兵器は廃絶されていたはずです。しかし、この10年間、多くの国々、そして市民もこの義務を真正面からは受け止めませんでした。私たちはそうした反省の上に立って、加盟都市が1403に増えた平和市長会議と共に、核軍縮に向けた「誠実な交渉義務」を果すよう求めるキャンペーン(Good Faith Challenge)を「2020ビジョン(核兵器廃絶のための緊急行動)」の第二期の出発点として位置付け展開します。さらに核保有国に対して都市を核攻撃の目標にしないよう求める「都市を攻撃目標にするな(Cities Are Not Targets)プロジェクト」に、取り組みます。

核兵器は都市を壊滅させることを目的とした非人道的かつ非合法な兵器です。私たちの目的は、これまで都市を人質として利用してきた「核抑止論」そして「核の傘」の虚妄を暴き、人道的・合法的な立場から市民の生存権を守ることにあります。

この取組の先頭を切っているのは、米国の1139都市が加盟する全米市長会議です。本年6月の総会で同会議は、自国を含む核保有国に対して核攻撃の標的から都市を外すことを求める決議を採択しました。

迷える羊たちを核兵器による呪(のろい)から解き放ち、世界に核兵器からの自由をもたらす責任は今や、私たち世界の市民と都市にあります。岩をも通す固い意志と燃えるような情熱を持って私たちが目覚め起(た)つ時が来たのです。

日本国政府には、被爆者や市民の代弁者として、核保有国に対して「核兵器廃絶に向けた誠実な交渉義務を果せ」と迫る、世界的運動を展開するよう要請します。そのためにも世界に誇るべき平和憲法を遵守し、さらに「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め高齢化した被爆者の実態に即した人間本位の温かい援護策を充実するよう求めます。

未(いま)だに氏名さえ分らぬ多くの死没者の霊安かれと、今年改めて、「氏名不詳者多数」の言葉を添えた名簿を慰霊碑に奉納しました。全(すべ)ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に哀悼の誠を捧(ささ)げ、人類の未来の安寧を祈って合掌致します。

2007(平成19年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

運命の夏、8時15分。朝凪(あさなぎ)を破るB-29の爆音。青空に開く「落下傘」。そして閃光(せんこう)、轟音(ごうおん)——静寂——阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)。

落下傘を見た少女たちの眼(まなこ)は焼かれ顔は爛(ただ)れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝(つ)き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰(つぶ)れた家の下敷になり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人——辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨(うらや)むほどの「地獄」でした。

14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病、甲状腺癌(こうじょうせんがん)等、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。

それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。

しかし、その中から生れたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、忘れてしまいたい体験を語り続け、三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来(みらい)永劫(えいごう)忘れてはなりません。

こうした被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのままに膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕(ひん)しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、未だに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。

しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。かつての植民地は独立し、民主的な政治が世界に定着しました。さらに人類は、歴史からの教訓を汲んで、非戦闘員への攻撃や非人道的兵器の使用を禁ずる国際ルールを築き、国連を国際紛争解決の手段として育ててきました。そして今や、市民と共に歩み、悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、人類の叡智(えいち)を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしています。

世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までの核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。

我がヒロシマは、全米101都市での原爆展開催や世界の大学での「広島・長崎講座」普及など、被爆体験を世界と共有するための努力を続けています。アメリカの市長たちは「都市を攻撃目標にするな」プロジェクトの先頭に立ち、チェコの市長たちはミサイル防衛に反対しています。ゲルニカ市長は国際政治への倫理の再登場を呼び掛け、イーペル市長は平和市長会議の国際事務局を提供し、ベルギーの市長たちが資金を集める等、世界中の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には、地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは、人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。

唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。また、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、平均年齢が74歳を超えた被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた伊藤前長崎市長の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することをここに誓います。

2008(平成20年)年平和宣言(広島)

平均年齢75歳を超えた被爆者の脳裡(のうり)に、63年前がそのまま蘇(よみがえ)る8月6日が巡って来ました。「水を下さい」「助けて下さい」「お母ちゃん」———被爆者が永遠に忘れることのできない地獄に消えた声、顔、姿を私たちも胸に刻み、「こんな思いを他の誰(だれ)にもさせない」ための決意を新たにする日です。

しかし、被爆者の心身を今なお苛(さいな)む原爆の影響は永年にわたり過少評価され、未だに被害の全貌(ぜんぼう)は解明されていません。中でも、心の傷は深刻です。こうした状況を踏まえ、広島市では2か年掛けて、原爆体験の精神的影響などについて、科学的な調査を行います。

そして、この調査は、悲劇と苦悩の中から生れた「核兵器は廃絶されることにだけ意味がある」という真理の重みをも私たちに教えてくれるはずです。

昨年11月、科学者や核問題の専門家などの議論を経て広島市がまとめた核攻撃被害想定もこの真理を裏付けています。核攻撃から市民を守る唯一の手段は核兵器の廃絶です。だからこそ、核不拡散条約や国際司法裁判所の勧告的意見は、核軍縮に向けて誠実に交渉する義務を全(すべ)ての国家が負うことを明言しているのです。さらに、米国の核政策の中枢を担ってきた指導者たちさえ、核兵器のない世界の実現を繰り返し求めるまでになったのです。

核兵器の廃絶を求める私たちが多数派であることは、様々な事実が示しています。地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」が平和市長会議の活動を支持しているだけでなく、核不拡散条約は190か国が批准、非核兵器地帯条約は113か国・地域が署名、昨年我が国が国連に提出した核廃絶決議は170か国が支持し、反対は米国を含む3か国だけです。今年11月には、人類の生存を最優先する多数派の声に耳を傾ける米国新大統領が誕生することを期待します。

多数派の意思である核兵器の廃絶を2020年までに実現するため、世界の2368都市が加盟する平和市長会議では、本年4月、核不拡散条約を補完する「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を発表しました。核保有国による核兵器取得・配備の即時停止、核兵器の取得・使用につながる行為を禁止する条約の2015年までの締結など、議定書は核兵器廃絶に至る道筋を具体的に提示しています。目指すべき方向と道筋が明らかになった今、必要なのは子どもたちの未来を守るという強い意志と行動力です。

対人地雷やクラスター弾の禁止条約は、世界の市民並びに志を同じくする国々の力で実現しました。また、地球温暖化への最も有効な対応が都市を中心に生れています。市民が都市単位で協力し人類的な課題を解決できるのは、都市が世界人口の過半数を占めており、軍隊を持たず、世界中の都市同士が相互理解と信頼に基づく「パートナー」の関係を築いて来たからです。

日本国憲法は、こうした都市間関係をモデルとして世界を考える「パラダイム転換」の出発点とも言えます。我が国政府には、その憲法を遵守し、「ヒロシマ・ナガサキ議定書」の採択のために各国政府へ働き掛けるなど核兵器廃絶に向けて主導的な役割を果すことを求めます。さらに「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、また原爆症の認定に当たっても、高齢化した被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を要請します。

また来月、我が国で初めて、G8下院議長会議が開かれます。開催地広島から、「被爆者の哲学」が世界に広まることを期待しています。

被爆63周年の平和記念式典に当たり、私たちは原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、長崎市と共に、また世界の市民と共に、核兵器廃絶のためあらん限りの力を尽し行動することをここに誓います。

2009(平成21年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

人類絶滅兵器・原子爆弾が広島市民の上に投下されてから64年、どんな言葉を使っても言い尽せない被爆者の苦しみは今でも続いています。64年前の放射線が未(いま)だに身体を蝕(むしば)み、64年前の記憶が昨日のことのように蘇(よみがえ)り続けるからです。

幸いなことに、被爆体験の重みは法的にも支えられています。原爆の人体への影響が未(いま)だに解明されていない事実を謙虚に受け止めた勇気ある司法判断がその好例です。日本国政府は、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め高齢化した被爆者の実態に即した援護策を充実すると共に、今こそ省庁の壁を取り払い、「こんな思いを他(ほか)の誰(だれ)にもさせてはならぬ」という被爆者たちの悲願を実現するため、2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきです。

今年4月には米国のオバマ大統領がプラハで、「核兵器を使った唯一の国として」、「核兵器のない世界」実現のために努力する「道義的責任」があることを明言しました。核兵器の廃絶は、被爆者のみならず世界の大多数の市民並びに国々の声であり、その声にオバマ大統領が耳を傾けたことは、「廃絶されることにしか意味のない核兵器」の位置付けを確固たるものにしました。

それに応(こた)えて私たちには、オバマ大統領を支持し、核兵器廃絶のために活動する責任があります。この点を強調するため、世界の多数派である私たち自身を「オバマジョリティー」と呼び、力を合せて2020年までに核兵器の廃絶を実現しようと世界に呼び掛けます。その思いは、世界的評価が益々(ますます)高まる日本国憲法に凝縮されています。

全世界からの加盟都市が3,000を超えた平和市長会議では、「2020ビジョン」を具体化した「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を、来年のNPT再検討会議で採択して貰(もら)うため全力疾走しています。採択後の筋書は、核実験を強行した北朝鮮等、全(すべ)ての国における核兵器取得・配備の即時停止、核保有国・疑惑国等の首脳の被爆地訪問、国連軍縮特別総会の早期開催、2015年までの核兵器禁止条約締結を目指す交渉開始、そして、2020年までの全(すべ)ての核兵器廃絶を想定しています。明日から長崎市で開かれる平和市長会議の総会で、さらに詳細な計画を策定します。

2020年が大切なのは、一人でも多くの被爆者と共に核兵器の廃絶される日を迎えたいからですし、また私たちの世代が核兵器を廃絶しなければ、次の世代への最低限の責任さえ果したことにはならないからです。

核兵器廃絶を視野に入れ積極的な活動を始めたグローバル・ゼロや核不拡散・核軍縮に関する国際委員会等、世界的影響力を持つ人々にも、2020年を目指す輪に加わって頂きたいと願っています。

対人地雷の禁止、グラミン銀行による貧困からの解放、温暖化の防止等、大多数の世界市民の意思を尊重し市民の力で問題を解決する地球規模の民主主義が今、正に発芽しつつあります。その芽を伸ばし、さらに大きな問題を解決するためには、国連の中にこれら市民の声が直接届く仕組みを創(つく)る必要があります。例えば、これまで戦争等の大きな悲劇を体験してきた都市100、そして、人口の多い都市100、計200都市からなる国連の下院を創設し、現在の国連総会を上院とすることも一案です。

被爆64周年の平和記念式典に当り、私たちは原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、長崎市と共に、また世界の多数派の市民そして国々と共に、核兵器のない世界実現のため渾身(こんしん)の力を振り絞ることをここに誓います。

最後に、英語で世界に呼び掛けます。

We have the power. We have the responsibility. And we are the Obamajority.

Together, we can abolish nuclear weapons. Yes, we can.

2010(平成22年)年平和宣言(広島)秋葉忠利

「ああ やれんのう、こがあな辛(つら)い目に、なんで遭わにゃあ いけんのかいのう」―――65年前のこの日、ようやくにして生き永らえた被爆者、そして非業の最期を迎えられた多くの御霊(みたま)と共に、改めて「こがあな いびせえこたあ、ほかの誰(だれ)にも あっちゃあいけん」と決意を新たにする8月6日を迎えました。

ヒロシマは、被爆者と市民の力で、また国の内外からの支援により美しい都市として復興し、今や「世界のモデル都市」を、そしてオリンピックの招致を目指しています。地獄の苦悩を乗り越え、平和を愛する諸国民に期待しつつ被爆者が発してきたメッセージは、平和憲法の礎であり、世界の行く手を照らしています。

今年5月に開かれた核不拡散条約再検討会議の成果がその証拠です。全会一致で採択された最終文書には、核兵器廃絶を求める全(すべ)ての締約国の意向を尊重すること、市民社会の声に耳を傾けること、大多数の締約国が期限を区切った核兵器廃絶の取組に賛成していること、核兵器禁止条約を含め新たな法的枠組みの必要なこと等が盛り込まれ、これまでの広島市・長崎市そして、加盟都市が4000を超えた平和市長会議、さらに「ヒロシマ・ナガサキ議定書」に賛同した国内3分の2にも上る自治体の主張こそ、未来を拓(ひら)くために必要であることが確認されました。

核兵器のない未来を願う市民社会の声、良心の叫びが国連に届いたのは、今回、国連事務総長としてこの式典に初めて参列して下さっている潘基文閣下のリーダーシップの成せる業ですし、オバマ大統領率いる米国連邦政府や1200もの都市が加盟する全米市長会議も、大きな影響を与えました。

また、この式典には、70か国以上の政府代表、さらに国際機関の代表、NGOや市民代表が、被爆者やその家族・遺族そして広島市民の気持ちを汲(く)み、参列されています。核保有国としては、これまでロシア、中国等が参列されましたが、今回初めて米国大使や英仏の代表が参列されています。

このように、核兵器廃絶の緊急性は世界に浸透し始めており、大多数の世界市民の声が国際社会を動かす最大の力になりつつあります。

こうした絶好の機会を捉(とら)え、核兵器のない世界を実現するために必要なのは、被爆者の本願をそのまま世界に伝え、被爆者の魂と世界との距離を縮めることです。核兵器廃絶の緊急性に気付かず、人類滅亡が回避されたのは私たちが賢かったからではなく、運が良かっただけだという事実に目を瞑(つぶ)っている人もまだ多いからです。

今こそ、日本国政府の出番です。「核兵器廃絶に向けて先頭に立」つために、まずは、非核三原則の法制化と「核の傘」からの離脱、そして「黒い雨降雨地域」の拡大、並びに高齢化した世界全(すべ)ての被爆者に肌理(きめ)細かく優しい援護策を実現すべきです。

また、内閣総理大臣が、被爆者の願いを真摯(しんし)に受け止め自ら行動してこそ、「核兵器ゼロ」の世界を創(つく)り出し、「ゼロ(0)の発見」に匹敵する人類の新たな一頁を2020年に開くことが可能になります。核保有国の首脳に核兵器廃絶の緊急性を訴え核兵器禁止条約締結の音頭を取る、全(すべ)ての国に核兵器等軍事関連予算の削減を求める等、選択肢は無限です。

私たち市民や都市も行動します。志を同じくする国々、NGO、国連等と協力し、先月末に開催した「2020核廃絶広島会議」で採択した「ヒロシマアピール」に沿って、2020年までの核兵器廃絶のため更に大きなうねりを創(つく)ります。

最後に、被爆65周年の本日、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げつつ、世界で最も我慢強き人々、すなわち被爆者に、これ以上の忍耐を強いてはならないこと、そして、全(すべ)ての被爆者が「生きていて良かった」と心から喜べる、核兵器のない世界を一日も早く実現することこそ、私たち人類に課せられ、死力を尽して遂行しなくてはならない責務であることをここに宣言します。

秋葉忠利広島市長の平和宣言

秋葉忠利広島市長の平和宣言

概要
出典:平和宣言の歴史 – 広島市公式ホームページ (hiroshima.lg.jp)
1999 ヒロシマのたどった歩みを振り返り、被爆者の足跡を称える/世界の指導者が核兵器を廃絶する意志を持つことが何よりも大切であることを訴える
2000 戦争と科学技術の世紀であった20世紀を振り返り、憎しみや暴力の連鎖を断ち「和解」への道を拓くよう訴える/広島が世界に和解を広める都市、科学技術を人間的目的に用いるモデル都市とする決意を表明
2001 21世紀最初の宣言として、21世紀を核兵器のない「平和と人道の世紀」にするため、和解や人道を重視する勇気を持つよう訴える/広島を「人道都市」、「万人のための故郷」とする決意を表明
2002 報復の連鎖や力の論理が蔓延する現在の世界情勢に大きな不安/広島を「万人のための故郷」とし、人類共有の記憶を貴び「平和と人道の世紀」を創造する決意を表明/米国政府・国民に対し、力の論理からの脱却を説得/日本政府に対し、戦争のできる「普通の国」にならないよう要求
2003 力の支配が蔓延する現在の世界情勢に大きな不安/自国中心主義を押し進める米国の政策を強く批判/2005年のNPT再検討会議に向け、平和市長会議加盟都市に、核兵器廃絶のための緊急行動を呼び掛け/世界中の影響力を持つリーダーに、核兵器廃絶のため、日常のレベルで祈り、発言し、行動することを呼び掛け/日本政府に対し、「作らせず、持たせず、使わせない」を内容とする「新・非核三原則」を国是とするよう要求/初めて「黒い雨降雨地域」の被爆者援護に言及
2004 2005年8月9日までを「核兵器のない世界を創るための記憶と行動の一年」とすることを宣言/2020年までの核兵器廃絶を決意/米国市民に人類愛の観点から唯一の超大国として核兵器廃絶の責任を果たすように期待/被爆者の証言を世界に届け、「広島・長崎講座」の普及や被爆体験記を読み語るプロジェクトを展開/日本政府に対し、平和憲法の擁護、戦争並びに核兵器容認の風潮を匡すよう要請/NPT再検討会議に向け、「核兵器廃絶のための緊急行動」への支持を訴え
2005 未来世代への責務として、「汝殺すなかれ」特に「子ども殺すなかれ」を人類最優先の公理として確立する必要を訴え/2006年8月9日までを「継承と目覚め、決意の年」と位置付けて、核兵器廃絶に向けた多様なキャンペーンを展開することを表明/国連総会の第一委員会が核兵器のない世界の実現と維持とを検討する特別委員会を設置するよう提案
2006 「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に違反する」とした国際司法裁判所(ICJ)による勧告的意見から10周年を迎えたが核軍縮の義務は果たされていないことを訴え/核軍縮に向けた「誠実な交渉義務」を果たすよう求めるキャンペーン(Good Faith Challenge)や、核保有国に対して都市を核攻撃の目標にしないよう求める「都市を攻撃目標にするな(Cities Are Not Targets(CANT))プロジェクト」に取り組むことを表明
2007 被爆者の苦しみの中から生まれたメッセージの重要性と、忘れてしまいたい体験を語り続け三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を訴え/「少数の指導者たち」が「力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき」、人類を滅亡の危機に陥れている現状の問題点を指摘/「21世紀は市民の力で問題を解決できる時代」/市民と共に都市が立ち上がり、民主的な政治や国際ルールなど人類の叡智を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしている世界の各都市の活動事例を紹介/核兵器のない地球を未来の世代に残すために行動することを誓う
2008 「核兵器は廃絶されることにだけ意味がある」という真理/世界の多数派が核兵器の廃絶を支持/人類の生存を最優先する多数派の声に耳を傾ける米国新大統領が誕生することを期待/核兵器の廃絶を2020年までに実現するため、平和市長会議で「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を発表/相互理解と信頼にもとづく都市間関係をモデルに世界を考える「パラダイム転換」の重要性を訴え/G8下院議長会議の広島開催で「被爆者の哲学」が世界に広まることを期待
2009 今なお続く被爆者の苦しみと、被爆体験の重みが勇気ある司法判断により法的にも支えられていることを指摘/核兵器廃絶を求める世界の多数派を「オバマジョリティー」と呼ぶことを提案/大多数の世界市民の意思を尊重し市民の力で問題を解決する地球規模の民主主義が今、正に発芽しつつある事実を指摘/国連の中に市民の声が直接届く仕組みとして国連に下院の創設を提案/最後に、英語で世界に、力を合せて核兵器の廃絶を実現しようと呼び掛け
2010 「こんな思いをほかの誰にもさせてはならない」という被爆者の思いを広島弁で表現/NPT再検討会議の最終文書により広島市・長崎市・平和市長会議等の主張こそ未来を拓くために必要であることが確認されたことを指摘/市民社会の声と潘基文国連事務総長・オバマ大統領等のリーダーシップがNPT再検討会議を成功に導いた/内閣総理大臣に被爆者の願いを真摯に受け止め核兵器廃絶に向けてリーダーシップを発揮するよう要請/2020核廃絶広島会議で採択した「ヒロシマアピール」に沿って行動することを表明

 

 

 

 

 

時代と記憶

『時代と記憶 メディア・朝鮮・ヒロシマ』(平岡敬、影書房、20110615 )

目次

部章
1 メディアの世界で
1- 衰弱する言論
1– “書き屋”の弁
吉川幸次郎氏 人間生活こそ文明
1— 唯一の一面コラム
天風録
1—- 新聞界の苦悩
1—– 「為人民服務」はどこへ
2 朝鮮半島へのまなざし
2-1 韓国の被爆者たち
2-2 私の”朝鮮体験”
3 原爆・平和をめぐって
3- 原水禁運動の混乱と後遺症
分裂と主導権争い 一九六一年の平和運動
一九六二年・平和理論の課題
被爆者の苦悩みつめる福島菊次郎の写真集「ピカドン』
今も消えぬ原爆のせん光 二十四年目の被爆者たち
広島市の平和行政の展開
新しい生き方を
痛烈な異議申し立て こうの史代『夕凪の街桜の国」(双葉社)
被爆五十周年の広島
核兵器を禁止する国際法を
世界各国で「原爆展」を
二十一世紀におけるヒロシマの役割
ヒロシマからアジアへ 平和をつくる市民運動
癒しの空間 効率主義に抗して
調査と医療支援の一体化 NGO「ヒロ・セミ」の活動
日本・カザフスタンの人々の連帯を強め核兵器廃絶の世論を
事前説明が不充分か?不満を訴える被害者
前進する被曝者医療 第五次医療支援訪問を終えて
カザフの聞き取り調査に対する所感
生き抜く人々
カザフの高麗人
広島と長崎の教訓を忘れるな
私と原子力光と影を見つめて
大胆な原子力政策の転換を ヒロシマからのメッセージ
「ヒロシマ再考」ノート
おわりに

報復ではなく和解を

『報復ではなく和解を いま、ヒロシマから世界へ』(秋葉忠利、岩波書店、20040707)

内容

はしがき
三つの勝利
国際平和会議「ハーグ平和アピール1999」19990513、オランダ・ハーグ市にて
報復ではなく和解を、敵対関係ではなく人道を
国連軍縮フェローズ 市長講演 20031007 広島国際会議場にて
女性と平和
第13回日本・ヨルダン・エジプト・パレスチナ女性交流公開フォーラム 20040214
平和宣言の作り方
20020901 神奈川県二宮町にて
本書に関連する広島市の主な平和への取組み
平和宣言(1999年~2003年)

人間の心ヒロシマの心

『人間の心ヒロシマの心』(秋葉忠利、三友社出版、19881223)

目次

章節=頁 タイトル
はしがき
広島・長崎の経験を人類の祈りの基盤に〈基調講演〉 大江健三郎
被爆体験の意味と平和運動
028 なぜ広島でシンポジウムか〈主催者挨拶〉 柿木昇治
030 「ヒロシマの心」を世界の心に〈開会挨拶〉 荒木武
033 高い理想、そして具体的な出発〈オーガナイザー挨拶〉 秋葉忠利
035 何を誰にどう伝えるのか-そして何のために 秋葉忠利
被爆体験の人類史的意味
060 「被爆の証人」として生きる 高橋昭博
072 あらたな意味をもつ被爆体験の継承 宇吹暁
079 あたらしい被爆者像を求めて 舟橋喜恵
092 被爆後の年月を通して考える〈パネルディスカッション1〉
広島のメッセージを実現するために
116 教育の現場で平和を考える 片山美代子
127 仏教徒としての被爆体験と平和の願い 光寺重信
144 核廃絶の可能性を求めて 安江良介
153 心理学者と平和の問題 ジョン・J・フューレディ
158 「広島のこころ」を蘇らせるために〈パネルディスカッション2〉
193 平和シンポジウム趣意書
196 平和シンポジウム感想歌集から
198 パネリスト紹介
203 広島ターミナルホテルあいさつ
204 協力者一覧
205 フロアからの発言者プロフィル(発言順)
原田東岷
竹内千代
上神千波弥
江崎寿賀子
原伸幸
熊田信道
空フミコ
中川幹朗
山本誠
延本充弘
井上敬喜
ローレンス・ウィイグ
永井秀明
あとがき

真珠と桜

『 真珠と桜 「ヒロシマ」から見たアメリカの心』(秋葉忠利、朝日新聞社、19860720)

目次

章(頁) タイトル メモ
はしがき
怒涛
009 アキバ・プロジェクト  ローカル・ジャーナリストを広島へ
(『ヒロシマ』森下弘)あなたの目で確かに見つめなさい
039 平和の使徒 アメリカ人の原爆観
(アメリカ合衆国国家)赤いロケットの焔/空中に炸裂する爆弾/それは星条旗が翻っている証(しるし)
058 卑劣な日本人 悪の原点=パール・ハーバー
(能『葵上』)今の恨みはありし報い 瞋恚の炎は身を焦がす 思い知らずや 思ひ知れ
079 一人ひとりの顔 記者たちの広島体験
(『法句経』友松円諦)われらはここ 市の領域に近し… このことわりを知る 人々にこそ かくしていさかひは止まん
源流
097 鎖を断つ プロジェクト実現まで
118 他人の痛み 私の見た平和運動
136 道端の焼夷弾 私の戦争体験
156 カラオケに耳を覆う 文化の壁は越えられるか
179 プラウド・オブ・ユア・サン アメリカで父になる
分水
201 ビッガー・ザン・ユー カウボーイ社会アメリカ
225 医者と患者の関係 エキスパートの支配
243 ワシントン・シンドローム 忘れられる過去
265 死を歓迎する心 被爆者は『生ける屍』か
281 二重被爆者神話 アメリカ社会の無力感
303 現実と想像力 平和への意志
327 あとがき

大使の平和メッセージ-21世紀を平和な時代に

『大使の平和メッセージ-21世紀を平和な時代に』(広島市市民局国際平和推進部平和推進担当編・刊、19990801 )

はじめに
本年8月6日の平和記念日に向けて、私は、126名の各国駐日大使の方々に「平和のメッセージ」の送付を要請いたしました。
これは、各国を代表している大使の皆様によりヒロシマに関心を持っていただき、世界平和都市連帯の推進など平和の取組みを進めているヒロシマに対する理解を深めていただくとともに、ヒロシマと各国の架け橋となっていただくことを期待し、要請したものです。
このたび43名の大使の方から、各国の平和の取組みや大使自身の平和への思い、ヒロシマヘの思い、21世紀への平和の誓いなどを内容とするメッセージをいただくことができました。
メッセージをお寄せいただいた大使の皆様に深く感謝申し上げます。
紛争の相次ぐ今日、民族や政治体制の異なる各国の大使に、この機会に平和に思いを馳せながらメッセージを作成していただくことは、そのこと自体有意義であり、
また、そのメッセージは多くの人々に読まれることにより一層意義を増すものと考えます。
御来場の皆様には、大使からのメッセージや広島市内の小学生20名が平和への思いを込めて書いた作文に触れていただくことにより、平和への思いをより一層強めていただければ幸いです。
私としても、今回の取組みが国境を越えた連帯の輪を広げ、来る21世紀を「核兵器のない、平和な時代」にしていくための第一歩となることを期待しております。
終わりに、重ねて大使の皆様をはじめ関係者の皆様に感謝の意を表します。
平成11 (1999)年8月1日
広島市長 秋葉忠利

各国駐日大使への平和メッセージの要請について

1趣旨
現在、核保有国による核軍縮は遅々として進まず、核兵器の廃絶への道筋を見い出すことができないまま21世紀を迎えようとしており、また、ユーゴスラビアのコソボ自治州をめぐる問題も.平和的解決に向けて事態が動きだしたが、依然として根本的な解決には克服すべき課題も多く残されている。
平和な世界の実現を求める願いは、政治、文化、宗教、民族などの違いを超えて人類共通のものであり、ヒロシマとしても、こうした願いを結集し、国境を越えた連帯の輪を広げることにより、来る21世紀を「平和の世紀」にしていくための努力を行っていきたいと考えている。そのための取り組みの一つとして、各国駐日大使特命全権大使等に平和のメッセージを寄せていただくよう依頼したものである。
2依頼先
各国駐日大使館特命全権大使、臨時代理大使 126名
3依頼日
平成11(1999)年6月11日(金)
4メッセージ送付数 43通

(地域別内訳)
●アジア州 14か国
イスラエル国、イラン・イスラム共和国、インド、インドネシア共和国、オマーン国、カンボジア王国、シリア・
アラプ共和国、シンガポール共和国、、タイ王国、トルコ共和国、パキスタン・イスラム共和国、フィリピン共和国、
ブルネイ・ダルサラー厶国、マレイシア
●大洋州 2か国
オーストラリア、フィジー共和国
●アフリカ州 6か国
ウガンダ共和国、エジプト・アラブ共和国、ギニア共和国、ザンビア共和国、ボツワナ共和国、モザンビーク共和国、
●ヨーロッパ州 11か国
アイルランド.イタリア共和国、オランダ王国、クロアチア共和国、スイス連邦、スウz一デン王国.スペイン国、
チェコ共和国、フィンランド共和国、ルーマニア.ユーゴスラビア連邦共和国、
●NIS諸国(エストニア、ラトビア、リトアニアを除く旧ソ連の新独立国) 3か国
ウズベキスタン共和国、カザフスタン共和国、べラルーシ共和国、
●北アメリカ州 3か国
コスタ・リカ共和国、ミーカ共共和国、メキシコ合衆国
●南アメリカ州 5か国
アルゼンチン共和国、エクアドル共和国、コロンビ共和国ア、ブラジル連邦共和国、ペルー共和国

駐日大使の平和メッセージ(1999年)

駐日大使の平和メッセージ(1999年)

平和な世界の実現を求める願いは、政治、文化、宗教、民族などの違いを超えた人類共通のものです。こうした願いを結集し、来たる21世紀を「平和の世紀」にしていくための取組みの一つとして、各国駐日大使へ平和メッセージの寄稿を呼びかけました。これに応えて、48か国の駐日大使から寄せられたメッセージを平成11年8月1日から31日まで平和記念資料館で展示しました。
また、8月6日に、メッセージを寄せたユーゴスラビア、コスタ・リカ、ベラルーシ、カンボジアの4か国の大使らを広島に招き、当夜、原爆ドーム前で平和メッセージを読み上げていただきました。これにより市民の平和への関心を高め、広島と各国との平和と友好の連帯の絆を深めることができました。
『平和と交流2000年版(平成11年度事業)』(財団法人広島平和文化センター、20010209)