平成5年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式
原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要
名簿に記帳された氏名 |
人 |
|
名簿登録者総数 |
人 |
|
名簿総数 |
冊 |
|
参列者の概要
被爆者や遺族など |
約万人 |
|
宮沢喜一 |
内閣総理大臣(代理:文田久雄総理府次長) |
|
|
[この年閣僚の出席なし]**8月9日細川内閣発足。 |
|
ストヤン・ガーネフ |
国連総会議長 |
|
遺族代表 |
都道府県 |
|
各国大使や代表 |
|
|
|
|
|
広島市長平和宣言(下記参照)
http://www.city.hiroshima.lg.jp/
内閣総理大臣挨拶
内閣総理大臣
出典
平成6年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式
原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要
名簿に記帳された氏名 |
人 |
|
名簿登録者総数 |
人 |
|
名簿総数 |
冊 |
|
参列者の概要
被爆者や遺族など |
約万人 |
|
村山富市 |
内閣総理大臣 |
|
土井たか子 |
衆議院議長 |
|
原文兵衛 |
参議院議長 |
|
遺族代表 |
都道府県 |
|
各国大使や代表 |
|
|
|
|
|
広島市長平和宣言(下記参照)
http://www.city.hiroshima.lg.jp/
内閣総理大臣挨拶
内閣総理大臣
出典
平成7年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式
原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要
名簿に記帳された氏名 |
人 |
|
名簿登録者総数 |
人 |
|
名簿総数 |
冊 |
|
参列者の概要
被爆者や遺族など |
約万人 |
|
村山富市 |
内閣総理大臣 |
|
土井たか子 |
衆議院議長 |
|
斉藤十朗 |
参議院議長 |
|
草場良八 |
最高裁判所長官 |
|
|
三権の長全員が参列(初) |
|
遺族代表 |
都道府県 |
|
各国大使や代表 |
|
|
|
|
|
広島市長平和宣言(下記参照)
http://www.city.hiroshima.lg.jp/
内閣総理大臣挨拶
内閣総理大臣
出典
平成8年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式
原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要
名簿に記帳された氏名 |
人 |
|
名簿登録者総数 |
人 |
|
名簿総数 |
冊 |
|
参列者の概要
被爆者や遺族など |
約万人 |
|
橋本龍太郎 |
内閣総理大臣 |
|
斉藤十朗 |
参議院議長 |
|
遺族代表 |
都道府県 |
|
各国大使や代表 |
|
|
|
|
|
広島市長平和宣言(下記参照)
http://www.city.hiroshima.lg.jp/
内閣総理大臣挨拶
内閣総理大臣
出典
平成9年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式
原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要
名簿に記帳された氏名 |
人 |
|
名簿登録者総数 |
人 |
|
名簿総数 |
冊 |
|
参列者の概要
被爆者や遺族など |
約万人 |
|
橋本龍太郎 |
内閣総理大臣 |
|
|
|
|
遺族代表 |
都道府県 |
|
|
第4回世界平和連帯都市市長会議 |
|
|
|
|
広島市長平和宣言(下記参照)
http://www.city.hiroshima.lg.jp/
内閣総理大臣挨拶
内閣総理大臣
出典
平成10年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式
原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要
名簿に記帳された氏名 |
人 |
|
名簿登録者総数 |
人 |
|
名簿総数 |
冊 |
|
参列者の概要
被爆者や遺族など |
約万人 |
|
小渕恵三 |
内閣総理大臣 |
|
|
国連事務次長 |
|
遺族代表 |
都道府県 |
|
各国大使や代表 |
か国と欧州連合(EU)。核兵器国のを含む。 |
|
|
|
|
広島市長平和宣言(下記参照)
http://www.city.hiroshima.lg.jp/
内閣総理大臣挨拶
内閣総理大臣
出典
おわりに
広島市主催の式典関連行事は、1991年(平成3年)には、49件(公民館29件、広島平和文化センタ-9件、映像文化ライブラリイー4件、保険年金課3件など)存在する。その中には、美術展、音楽会など、平和式典とともに今日まで開催されている文化行事がある。また、平和記念日前後に広島市以外のさまざまな機関や団体によって開催される行事は、慰霊行事を中心に年を経るごとに増加している。これらの諸行事は、平和式典に新たな意味を与えるとともに、平和記念日の広島の雰囲気を大きく変えてきた。式典の将来を考えるとき、式典は、これらの動きとともに振り返られなければならないと考えている。しかし、この小冊子では、触れることができなかった。今後の課題としたい。
資料収集ならびに執筆にあたり、(財)広島平和文化センタ-の宇野正三事業部主幹を始め、広島市総務局総務課、広報課、保険年金課、原爆被害者対策部、公文書館、広島市観光協会、広島県立文書館、中国新聞社など、関係機関の多くの方々にお世話になった。末尾ながら記して厚くお礼申し上げる。
目次
|
まえがき |
|
|
第1章 |
平和祭 |
|
|
1 |
原爆被爆 |
|
|
2 |
原爆死者の慰霊 |
|
|
3 |
平和復興祭 |
|
|
4 |
第1回平和祭 |
|
|
5 |
第2回平和祭 |
|
|
6 |
第3回平和祭 |
|
|
7 |
平和祭の挫折 |
|
|
(1) |
第4回平和祭の中止 |
|
|
(2) |
慰霊式・平和記念式典の開催 |
|
|
第2章 |
平和式典の変遷 |
|
|
1 |
平和式典の原型 |
|
|
(1) |
1952年の式典 |
|
|
(2) |
慰霊と平和 |
|
|
2 |
平和式典の主催者 |
|
|
3 |
平和式典の準備 |
|
|
(1) |
平和式典の会場-平和記念公園 |
|
|
(2) |
設営 |
|
|
(3) |
市民の奉仕活動 |
|
|
(4) |
式典にともなう規制と警備 |
|
|
4 |
平和式典の式次第 |
|
|
(1) |
式次第 |
|
|
(2) |
原爆死没者名簿の奉納 |
|
|
(3) |
献花 |
|
|
(4) |
平和の鐘と黙とう |
|
|
(5) |
演奏と合唱 |
|
|
5 |
平和宣言 |
|
|
(1) |
宣言の主体、対象、形式 |
|
|
(2) |
原爆被害観 |
|
|
(3) |
原水爆禁止 |
|
|
(4) |
国連への期待 |
|
|
(5) |
国際動向への憂慮 |
|
|
(6) |
被爆者援護対策への要望 |
|
|
(7) |
世論への期待 |
|
|
(8) |
被爆体験の継承 |
|
|
(9) |
ヒロシマの動向と決意 |
|
|
(10) |
宣言内容の変遷 |
|
|
(11) |
平和宣言の普及 |
|
|
6 |
平和式典の参列者 |
|
|
(1) |
参列者数 |
|
|
(2) |
黙とうのひろがり |
|
|
(3) |
日本政府の関心 |
|
|
(4) |
マスコミの関心 |
|
|
(5) |
海外での関心 |
|
|
8 |
平和式典の関連行事 |
|
|
(1) |
原爆供養塔合同慰霊祭 |
|
|
(2) |
原爆罹災者名簿の公開 |
|
|
(3) |
とうろう流し |
|
|
(4) |
平和集会・シンポジウム |
|
|
|
おわりに |
|
|
|
平和式典略年表 |
|
|
|
索引 |
|
|
|
|
|
|
まえがき(新版のために)
『平和記念式典の歩み』(1992年3月刊)は、すでに絶版。将来、新版(デジタル版)が製作されることを期待して、旧版のテキストデータに新たな情報を加える予定。
**************************
まえがき
毎年、8月6日前後の広島では、原爆被害に関連したさまざまな行事が催されている。広島市が主催する平和記念式典は、こうした行事の中で、最も大規模なものであるとともに、最も長い歴史を持つ行事の一つである。1991年(平成3年)8月6日午前8時から広島市の平和記念公園において挙行された式典には、海部俊樹内閣総理大臣を始め約5万5,000人が参列し、式典の模様は、テレビにより全国に放映された。
この式典が始まったのは1947年(昭和22年)のことである。平和式典の正式名称は、大まかには平和祭→慰霊式並びに平和記念式(1951年)→広島市原爆死没者慰霊式並びに平和記念式(53年)→広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式(68年)と変わり、現在に至っている。
この式典は、当初は、一地方の平和行事にすぎなかったが、その後、次第に性格を変え、広島の原爆犠牲者を追悼する国民的な行事に成長した。30分から1時間の時間で開催される式典は、毎年同じ形式の繰り返しのように見える。しかし、その式次や平和宣言などを各要素ごとに追ってみると、その時々の原爆被害をめぐる動向を反映して、ある時はダイナミックな、また、年毎でも微妙な変化をしてきていることが明らかになる。その変化は、原爆被害が置かれていた状況や、原水爆禁止運動、平和思想の戦後の歴史を振り返る際の一つの重要な指標になりうるものである。この小冊子では、平和式典の変容を、式典の持つさまざまな要素ごとに、できるだけ詳しく明らかにしようとした。
広島市は、平和式典の総称を1965年に「平和記念式典」とし、68年からは「平和祈念式典」として使用してきた。ところが、75年、広島市は、正式名称には「祈念」を残したまま、総称として「平和記念式典」を使用することとした。「祈念」は、「原爆犠牲者の霊を慰めるための祈り、平和実現のための祈り」を強調した表現であるのに対し、「記念」は、「恒久平和への市民の誓いを将来に伝え残すという継承の意志」を強調した表現であるとし、「記念」の表現が、式典の趣旨に「適切」であるというのが総称変更の理由である(総務局「平和記念式典の名称について」81年10月9日)。しかし、ここでは、さまざまな名称の統一的な表現として「平和式典」あるいは「式典」を用いている。また、広島市は、原爆が投下された8月6日を条例により「平和記念日」と定めているので本書では引用の場合を除いて、「原爆記念日」という名称は使用しないこととする。
平和式典に関する公文書は、1963年以前のものは断片的にしか残されていない。しかし、平和式典の模様は、初期のものから現在に至るまで、マスコミにより詳細に報道されている。記述に際し、資料の多くのは、新聞報道を利用した。その中でも、ベースにしたのは、「中国新聞」(戦後~70年ごろ)、「広島大学原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センタ-新聞切抜き」である。これらについては、煩雑をさけるため、出典の明記を最小限にとどめている。また、読み易くするため、資料の引用にあたって、漢数字を算用数字に直し、旧字を新字に改めたほか、難読の漢字には読みがなを付した。
1992年1月
著 者
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。