『原爆ゆるすまじ』(広島県被爆者の手記編集委員会(編)、新日本出版社(新日本新書9)、19650705)
内容
頁 |
タイトル |
著者 |
009 |
あれから20年 |
大江 恵美 |
021 |
弟の日記 |
四国 五郎 |
043 |
空中に被爆して |
(一被爆者(長野県) |
045 |
太陽のない朝 |
はやみ ちかこ |
052 |
差別の壁をこえて |
金崎 是 |
068 |
父母を失って |
大倉 和子 |
083 |
たたかいの20年 |
福田 須磨子 |
099 |
7歳の証言 |
山中 みちこ |
115 |
死中に生を得て―広島・長崎での二重被爆記 |
山口 彊 |
133 |
原爆とその後-短歌と日記- |
山下 寛治 |
153 |
過去の広島商人として |
温品 道義 |
174 |
医師として |
杉原 芳夫 |
188 |
まともな目 |
志水 禎吉 |
202 |
たたかいの中で |
吉岡 幸雄 |
はしがき
この手記集の発行を広島県平和委員会(会長鈴木直吉)が計画したのは、昨年の秋であった。広島県平和委員会では、企画を検討決定し、各友誼団体に協力をもとめるとともに、ひろく原稿の公募をおこなった。
この広島県平和委員会の企画にたいして、広島県文学会議・原水爆禁止広島県協議会・広島県原爆被害者団体協議会が、それぞれ協力を申し出、その後は、四団体の共同事業として手記集の編集刊行をおこなうことになり、それぞれの団体から編集委員を選出して「原爆被爆者の手記編集委員会」をつくり、編集の実務にあたった。
被爆二十年、本手記集の刊行を企画したのは、第一に、二十年後の今日、なお被爆の実状を知らない多くの人がいるためであり、第二に、「被爆者」というと一般国民とは異なる生活環境のなかで生活している人のようにうけとり、「被爆者」が国民の一人として働き、平和のためにたたかっていることを十分に認識していない人がいるからであり、第三に、被爆者のなかから独立・平和のために積極的にたたかっている活動家が多数でていることを多くの人に知ってもらいたかったからである。
そのため、編集にあたっては、原子爆弾の惨禍を唄らかにするとともに、「原体験の尊重」を口実にして核兵器そのものが戦争の根源であるかのようにいうあやまった見解があることに注意しながら、被爆者が現実に生きぬき、たたかいつづけてきた二十年間の生活史・精神史をたどる手記になるように、きょくりょくつとめた。
現在、アメリカは、ベトナムをはじめとして、世界各地で、核戦争準備、核脅迫をつよめながら、侵略戦争を拡大している。また、原爆の被害国でありながら、アメリカの侵略戦争に加担することによって、加害国に転化しようとしている日本の現実がある。
戦争中、広島、長崎での悲惨な経験をもって出発した日本の平和運動・原水禁運動は、たびだびの分裂策動と当面しながらも、このような現実の戦争政策とたたかいつづけ、力強く発展してきた。今日それは、核戦争阻止・核兵器完全禁止を中心に、「原潜寄港」阻止、ベトナム人民支援、日本の核武装阻止、軍事基地撤去、沖縄返還の要求、被爆から二十年、なんらの救援措置もなく放置されている数十万の被爆者の救援運動の強化などをかかげている。
第十回原水禁大会の席上、被爆者の代表の一人は訴えた。
「私はどうしていままで生きることができたのでしょう。原水禁運動が平和を守り、平和が私を生かしてくれたからです。もし原水禁運動がなかったら、私もこうしていないだろうと思います。同時に十九年前、私のからだをこのようにした原爆をあえて投下した国が、現在おもにアジアで核戦争の危険をひきおこし、私と同じような犠牲者をつくりだそうとしていることはがまんができません」と。
ここにこそ、「核戦争阻止・核兵器完全禁止」をめざす、ふたたび広島・長崎をくりかえさないためのたたかいがある。なお、原稿のうち、県外在住の方の手記は、原水爆禁止日本協議会に集めていただいた。この手記集の編さんにあたって寄せられた多くの方がたの御協力にたいし、紙上をかって心から謝意を表させていただく。
この書を、広島・長崎ビキニの被爆死亡者の霊に捧げる。
原爆被爆者の手記編集委員会
石井金一郎 新宅直哉 世良寛 田辺勝 久枝昭義 深川宗俊 堀博自 三宅登、吉岡幸雄(五十音順)
止