吉田治平
よしだ・じへい |
20180131没 |
享年95 | 1945年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。元広島市議会議員。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定> |
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吉田治平
よしだ・じへい |
20180131没 |
享年95 | 1945年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。元広島市議会議員。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定> |
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鈴木直吉<作業中>
すずき・なおきち | 生19860129没 | 享年90歳 | 1949年広島県立医科大学教授。広島大学医学部教授(「中国年鑑1956」)。 |
略歴
年月日 | ||||
1895 | 愛知県生まれ。 | |||
20歳で洗礼、クリスチャンに。 | ||||
1926 | 東京帝国大学農学部卒業 | |||
東北帝国大学助手として解剖学者としての第一歩 | ||||
岩手医学専門学校教授,満洲医科大学教授,横浜医科大学教授等。 | ||||
1949 | 広島県立医科大学教授。 | |||
国立移管により広島大学教授 | ||||
1958 | 停年退官 | |||
岩手医科大学教授,広島文教女子大学教授,順正短期大学教授を歴任 | ||||
武者小路実篤や郭沫若と親交 | ||||
1952 | 広島大学教授らでつくった「平和と学問を守る大学 人の会」会長 |
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1955 | 第1回原水禁世界大会(広島市)の開催に尽力 | |||
1964 | 広島県原水協初代会長 | |||
日中広島県連合会名誉会長 | ||||
1964 | 中国科学院の招待により第1回日本 学術代表団団長として訪中。 |
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呉市芸術文化功労賞 | ||||
1969 | 勲三等瑞宝章。 | |||
参考資料 | ||||
広島大学「学内通信」19850325 | ||||
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川村智治郎
かわむら・としじろう | 19060307生20030127没 | 享年96歳 | 広島大学第3代学長。第52回(昭和37年5月11日)日本学士院賞。 |
関係資料
19671001 | 「放送とわたし」(『放送RCC』第71号1967.10.01 所収) | ||
19821017 | 『追懐 広島高等師範学校創立八十周年記念』(広島高等師範学校創立八十周年記念事業会編・刊) | ||
19950107 | 元広島大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会設立。会長に就任。 | ||
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追悼:葉佐井博巳
葉佐井博巳氏のご逝去を悼む 広島平和記念資料館資料調査研究会 会長 静間 清 |
広島平和記念資料館資料調査研究会研究報告 第15号 巻数 第15号 所収 |
(以下宇吹要約) *平成 31 年 1 月 26 日に心不全のために 87 歳で逝去。 *昭和 6 年 4 月 21 日広島県生まれ、*同 31 年 3 月広島大学工学部卒業、工学部専攻科中退、工学部講師等を経、昭和 58 年教授就任。平成 7 年 3 月に広島大学定年退職、広島電気大学(現広島国際学院大学)教授、学長を務める。 *原爆投下時広島一中の 2 年生、8 月 6 日朝、廿日市の軍需工場に学徒動員、直接被爆をまぬがれる。翌日、自宅のあった白島にもどるため入市内。 *広島・長崎の原爆放射線の研究とその研究グループの育成に尽力。広島、長崎の残留放射能の実測データの収集、国内外の研究者に被爆資料を積極的に提供。被爆建造物が歴史的文化的遺産としての価値を持つのみでなく原爆放射線による被爆の痕跡を留めていることの重要性を指摘、保存と利用に取り組む。日米の研究チームが平成 15 年にまとめた原爆線量システム DS02 では日米共同研究者会議と上級委員会の日本側代表。平成 9 年中国新聞社より中国文化賞を受賞。 *広島平和記念資料館資料調査研究会の発足を提案、平成 10 年発足、発足時から平成 21 年まで会長。自らの被爆体験を語る被爆体験証言者として中高生に話、被爆者の手記データを電子データとして復元する活動。*平成 19 年広島市の「核兵器攻撃被害想定」専門部会長。 |
新聞報道 |
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葉佐井博巳
はさい・ひろみ | 1931****:生20190126没 | 享年87歳 | 広島大名誉教授。広島の原爆被爆時、広島一中2年生。学徒動員先の兵器製作所(現廿日市市)できのこ雲を目撃。翌日に入市被爆。被曝線量推定方式を見直す日米合同研究グループの日本側座長。2002年、新しい推定方式「DS02」をまとめる。「生きて・核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~)」(『中国新聞』15回連載<担当:西本雅実編集委員>)2015年。 |
「被爆建物等継承方策検討委員会」(広島市が1991年7月24日に設置)で同席。 | |||
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『社会調査家 石忠さん 石田忠先生(1916~2011) 生誕100年を記念して』(著者:廣澤昌、編集発行:沓石会 <一橋大学石田忠ゼミナール卒業生の会>)<作業中>。
内容
章 | ||||
序に代えて | ||||
1 | 一橋大学と石忠さん | |||
1 一橋リベラリズム 2 暗い谷間の時代に抗して 3 卒論「社会政策の理論構想」 4 戦争の体験 5 貧困研究とブース 6 石田ゼミナール |
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コラム ゼミナリステンの思い出 | ||||
2 | 1 被爆者との出会い | |||
2〈立場〉と想像力 | ||||
3 反原爆の(立場) | ||||
4 生活史調査票の成立 | ||||
5 1985年 | ||||
6 原爆死をどう考えるか | ||||
7「石田忠統計集〈原爆体験の思想化〉」 | ||||
コラム 石忠さんを支えた人々 | ||||
終章 | 誰か故郷を想はざる | |||
1 生い立ち | ||||
「ドマーニ神戸」にて | ||||
眺ぶのです | ||||
石田忠著作目録 | ||||
年譜《抄》 | ||||
19160203 島根県越智郡美里生まれ | ||||
193906**** 治安維持法により検挙、秋まで拘留。 | ||||
19401201 現役兵として野砲兵第一連隊留守隊入隊。 | ||||
1945** | ||||
あとがき |
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石田忠
いしだ・ただし | 19160203生20110125没 | 享年94 | 一橋大名誉教授・社会学、元日本原水爆被害者団体協議会専門委員)。 |
主著書一覧
年月日 | 資料名 | ||
19730825 | 『反原爆 長崎被爆者の生活史』(石田忠編著、未来社刊) | ||
19740801 | 『反原爆 長崎被爆者の生活史 続』(石田忠編著、未来社刊) | ||
19830520 | 『原爆と人間 被爆 者援護法とはなにか』( 石田忠、機関紙連合通信社) | ||
19860720 | 『原爆体験の思想化 反原爆論集Ⅰ』 (石田忠、 未来社 ) | ||
19860820 | 『原爆被害者援護法 反原爆論集Ⅱ』 (石田忠、 未来社 ) | ||
20160715 | 『社会調査家 石忠さん 石田忠先生(1916~2011)生誕100年を記念して』廣澤昌(著者)沓石会(編集発行) | ||
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『人類は生きねばならぬ 森瀧市郎の歩み 核時代を乗り越えて 森瀧市郎追悼集』(森瀧市郎追悼集刊行委員会<広島平和会館内>19950720)
内容
章節 | 見出し | ||
第1章 | 森瀧市郎とヒロシマの歩み 13 | ||
第1節 | 原爆地獄を乗り越えて 15 | ||
新制広島大学 15 平和問題研究会 18 手記集『原爆の子』 21 精神養子運動 23 ビキニ・第五福竜丸事件 27 百万人署名運動 29 広島原水協の発足 30 原水禁大会広島準備会 32 英国への「語り部」派遣 33 世界大会へ広島の準備 34 直前まで紛糾した海外代表入国 36 初の原水禁大会 37 日本原水協の発足 38 広島県被団協の結成 40 日本被団協発足 42 援護法要求と原爆医療法 44 英国核実験への抗議 47 「政治的行動」 50 1960年安保闘争の中で 52 第6回世界大会 54 |
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第2節 | 統一を願い続けて 56 | ||
分裂への前兆 56 ソ連核実験 59 核実験に抗議して座り込む 61 シュバイツァー博士との出会い 64 分裂前夜 67 再生の努力むなしく 70 原水禁運動ついに分裂へ 73 被災三県連絡会議の結成 77 原水禁国民会議の結成 81 被爆者援護法を求めて 83 海外への平和行脚 86 運動統一への動き 89 総・共合意 91 五・一九合意 93 |
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第3節 | ヒロシマの世界化と非核未来を求めて 99 | ||
非核太平洋 99 地獄の答申 102 ローマ法王来広 104 戦域核配備 106 広がる反核の波 109 第2回国連軍縮特別総会 111 非核都市宣言 113 ゴルバチョフ政権誕生 115 旧ソ連、核実験凍結 117 初の中国訪問 120 ヒバクシャ連帯 122 核軍縮へ 124 チェルノブイリ原発事故 126 INF全廃 128 核被害者世界大会 131 核燃料サイクル反対 134 核実験全面禁止を 137 東欧民主化の波 140 病床と核実験制限の報 142 湾岸戦争 144 プルトニウム輸送 146 START調印 147 核拡散 150 「頑張って」の言葉残して 152 ヒロシマとともに 156 心よ、届け!158 |
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第2章 | 遺稿 161 | ||
被爆30周年を迎えて 163 1、核絶対否定 163 2、援護法 165 3、非核武装宣言、全面核停 168 4、統一 170 四国電力伊方原発訴訟における原告側「準備書面(一二)」の意味するもの 172 ヒロシマ74往復書簡 178 ―生へのあいさつ― 「力より愛の原理を」 哲学者、原水禁国民会議代表委員 森瀧市郎 178 「互いに手をとろう」 ノーベル平和賞受賞者 フィリップ・J・ノエルベーカー 180 死者の記憶 185 座り込み10年・その前史と理念 186 二学生の死―アデモラ・トーマス君への手紙― 194 短歌遺作 203 |
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第3章 | 森瀧さんを偲ぶ | ||
ここに哲学者がいる 大江健三郎 213 森瀧先生を追想して 伊藤満 215 原水禁運動での森瀧先生とのかかわり 安部一成 219 森瀧市郎先生の思い出 行安茂 227 森瀧先生と原水禁運動 若松繁俊 231 森瀧市郎先生を追悼する 坂本国明 240 森瀧先生と私 船田民雄 247 森瀧市郎先生 金子一夫 252 平和への一筋の道 松岡敬八 256 幻の平和会談 李実根 260 弱輩、森瀧先生にソクラテスを講義する 鶴寂 266 森瀧先生の想い出 廣野房一 271 枚方の小学生に”反核”を語りかけて下さった森瀧先生 関山域子 273 森瀧先生、こんにちは 田村順美江 278 |
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第4章 | お別れ会に寄せられた追悼の言葉 283 | ||
村山富市(日会党中央執行委員長) 285 平岡敬(広島市長) 287 本島等(長崎市長) 287 上杉佐一郎(部落解放同盟中央本部委員長) 288 韓徳銖(在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会議長) 288 丹光節子(広島県被爆教職員の会事務局長) 289 石黒寅毅(牧師) 289 佐々木本晃(広島県立三次中学校時代の教え子) 290 梶山敏子(広島子どもを守る会代表) 291 武内利忠(原爆の子友の会) 292 ジャネット・ゴードン(国際平和と自由のための女性同盟共同議長・全米被曝者協会会長・ネバダ「市民の声」会長) 294 口ザリー・バーテル(国際公衆衛生問題研究所所長) 296 コリン・アーチャー(国際平和ビューロー=IPB=事務局長) 297 デイビット・マクレイノルズ(戦争抵抗者同盟事務局) 297 リディア・ポポバ(社会・環境同盟=SEU=) 298 サーロー・節子(JFSカナダ・トロント) 298 カール・フィッシャー(アメリカ社会党=SPUSA=共同議長) 299 ソランジュ・フェルネ(欧州議会議員・国際平和ビューロー=IPB=副会長) 299 デリー・レフリー(イギリス核軍縮運動=CND=事務局長) 300 ジャッキー・カバソ(アメリカ西部諸州法律財団) 301 パトリシア・チルトン(欧州核軍縮運動=END=、欧州公共政策研究所) 301 ウラジミール・ヤキメツ(ネバダ・セミパラチンスク運動) 301 |
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第5章 家族が語る「森瀧市郎」 303 | |||
夫・市郎への思い 森瀧しげ 305 父の遺志を継いで 森瀧健一郎 311 お義父さん・お祖父さん・モリタキさん 寺尾浩次 316 慈の源 寺尾安子 321 父と生きて 森瀧春子 331 |
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付録1 | 森瀧市郎演説・報告関係資料 343 | ||
分裂大会となった第9回原水爆禁止世界大会で広島県原水協理事長として行った「広島県原水協の提案による基調報告」 343 原水爆被災三県連絡会議主催による「原水爆禁止・被爆者救援・核武装阻止・軍備全廃を世界に訴える広島・長崎大会」で広島県原水協理事長として行った基調演説 352 被爆20周年原水爆禁止世界大会で大会代表委員として行った基調演説 363 被爆30周年原水爆禁止世界大会・国際会議で日本側代表として行った基調演説 369 被爆40周年原水爆禁止世界大会で行った主催者あいさつ 373 |
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付録2 | 年表 378 | ||
あとがき 422 | |||
森瀧市郎追悼集刊行委員会 1995年7月 | |||
宮崎安男、近藤幸四郎、金子哲夫、下畠準三、栗栖武士郎、森滝春子、河野道宏、横原由紀夫 |
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吉川清略歴
年 | 事項 | |
1911 | 福岡県に生まれる。 | |
1945 | 8月6日 夜勤明けの帰宅時に妻もろとも被爆。白島にあった自宅は全壊・全焼し、同居の父は避難先の救護所で死亡した。 可部に設けられた救護所での避難生活の後、親戚宅に身を寄せる。 |
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1947 | 広島赤十字病院入院 ケロイド治療のため数度に渡る皮膚移植手術を受ける。 入院中に外国記者団の取材を受けた際、ケロイドのあまりのむごさに一行の一人が「原爆患者ナンバーワン」と声をあげ、以来「原爆一号」と呼ばれる。 |
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1951 | 広島赤十字病院退院後、原爆ドーム前に「原爆一号の店」と自ら名付けたみやげ物店を開店する。観光客の求めに応じ自らのケロイドを見せ原爆の悲惨さと平和を訴える。 | |
初の被爆者による団体組織「原爆傷害者更正会」を結成。原爆乙女治療運動の母体となるが、谷本清氏らとの意見の相違で間もなく身を引く。 | ||
1952 | 峠三吉らと「原爆被害者の会」を結成。 | |
1954 | 原水爆禁止広島市民大会開催。以後、原水禁運動に積極的に参加 | |
妻 生美がABCCの検査により肝臓障害で入院。ABCCとの交渉により治療と補償を勝ち取る。これが、ABCCに対する被爆者による初の交渉となる。 | ||
1955 | 河本一郎氏らと「広島8・6友の会」を結成 | |
原水爆禁止広島大会開催 | ||
1956 | 原爆被害者広島県大会開催 | |
初の被爆者援護法制定国会請願に代表の一員として参加 | ||
1957 | 来広したネール首相と面会 | |
1961 | 「原水爆の禁止と平和をうったえる遊説団」として東南アジア諸国歴訪 | |
1963 | 原爆ドーム前のみやげ物店が不法建築物として撤去させられる。 | |
1969 | 中区流川にバー「原始林」を開店 | |
映画監督の新藤兼人氏をはじめ、郷土の文化人のサロンとして親しまれる。 | ||
1977 | 脳卒中で倒れ、国立畑賀病院へ入院 病床からも、被爆者援護法制定、原水爆全面禁止を訴え続けた。 |
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1986 | 1月25日 10年に近い闘病生活の後 逝去 | |
吉川清著「原爆一号といわれて」を参考に作製 | ||
出典:『 吉川清氏資料概要(中間報告)』(広島平和記念資料館、20030317) |
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灘尾弘吉「政界への道」(『泉 次代への贈りもの』(19931030)所収)
内容
頁 | 見出し | |
233 | 戦後、官界から政界に(対談の聞き手は評論家・草柳大蔵) | |
234 | 公職追放 | |
238 | 浪人生活 | |
241 | 政界へ | |
242 | 政界入り―緒方竹虎 | |
248 | バンドン会議 | 日本が参加した初めての国際会議 |
250 | 厚生大臣 | |
254 | ギャンブル法案 | |
257 | 出会った人々 | |
264 | 私と社会事業 | |
(全国社会福祉協議会刊『灘尾弘吉先生と語る』より抄録) | ||
止