「02月忌」カテゴリーアーカイブ

下中記念財団

下中弥三郎  1878 年生、1961年2月21日死亡。享年84歳。

下中記念財団 1962年6月設立。理事に赤井米吉(初代の理事長)。茅誠司、谷川徹三、中島健蔵、湯川秀樹など。

出典:https://www.shimonaka.or.jp/

 

長岡省吾

長岡省吾

ながおか・しょうご 19010811生19730201没 享年71   広島大学理学部[学研調査]。被爆時、広島文理科大学嘱託として山口県に地質調査で出張中。翌日入市。被爆資料収集に努めた(初代広島原爆資料館長)。お宅で面談、資料閲覧

資料

発行年月日 著者・発行所
廣島あの日から 19550525 長岡省吾、資料集成後援会、
 HIROSHIMA  19700720  長岡省吾、長岡省吾
 H iroshima Under Atomic Bomb Attack

 

献花(2月)

献花(2月)

2019年
DSC00637
プリムラ・マラコイデス 撮影日:20190202 場所:自宅
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)
2018年
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小菊  撮影日・場所:2018/2/5 実家
撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

 

庄野直美論

「庄野直美」論

庄野直美 しょうの・なおみ 1925年生

2012年2月18日没

Naomi SHONO

庄野直美先生は、私のヒロシマ研究の先輩である。とりわけ、私が広島県史編さん室・広島大学に勤務した時期にはお世話になった。彼の足跡をたどりつつ、私にとっての「庄野直美」を振り返ってみた(文中で、名前を掲げる人々の敬称を省く非礼をお許しください)。
「人間銘木 藤居平一追想集」(同編集委員会編、藤居美枝子発行、1997年)(注1)に、庄野による藤居(日本原水爆被害者団体協議会初代事務局長)への追悼文が収録されている。これによると、彼が、藤居と知り合ったのは第1回原水爆禁止世界大会の大会運営事務局で、1956年初め以降は、藤居宅に泊まり込んで相談と激論を重ねた。さらに東京に発足した原水爆禁止日本協議会の会合にはしばしば一緒に出席したという。
私は、「原水爆被害白書 かくされた真実」(日本原水協専門委員会編、日本評論新社、1961年)を、学生時代から辞書的に利用していた。私には、「広島・長崎の原爆災害」(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編、岩波書店、1979年)が出版されるまでは、原爆被害を網羅的に概説した最も信頼できる本であった。この「あとがきに」によれば、佐久間澄・杉原芳夫とともに「原爆被害の実態」(第2章、第3章)の第一稿の執筆にあたっている(注2)。
「ヒロシマの証言 平和を考える」(広島平和文化図書刊行会編、日本評論社、1969年)は、広島市の平和推進事業の一環として設けられた編集委員会により発行された。本書の「刊行にあたって」に編集委員5人(注3)・執筆者7人(注4)の名前が記されている。これによれば、庄野だけが、編集者であり執筆者であった。一方、広島の平和教育が組織的・継続的に推進されるようになるのは1972年の広島平和教育研究所設置以降のことである。「平和教育研究 広島平和教育研究所・年報 Vol.1 1972」から、庄野が同研究所の国際交流部長に就任していることがわかる。庄野は、1967年の広島平和文化センターの設置から始まる広島市の平和行政や平和教育の初期から重要な役割を担っていたのである。
「原爆三十年―広島県の戦後史」(広島県編・刊、1967年)で、庄野は「原爆被災の概要」「原爆症」「被爆者の連帯」「平和研究」を執筆した。編集事務局員の私の仕事は、執筆要領に沿った彼の原稿調整を行うことであった。この作業の中で、私は、被爆二世の遺伝的影響の記述に疑問を感じてしまった。にわか勉強では、疑問が解けない。私はまず、県の関係課を訪ね見解を聞いた。その上で庄野を訪ね、原稿と県の見解が異なっていることを伝えた。すると庄野は、私に、遺伝的影響の研究概況と自らの見解を詳細に話してくれた。後日、私は、彼から県の見解に沿った修正原稿を受け取った。私が平和運動や行政から原稿の執筆を依頼された時や被爆二世問題に接するたびに思い出すできごとである。
被爆30年以降、広島・長崎両市(注5)と日本原水協が、国連を中心とした国際活動に乗り出した。両市は、1976年に「国連アピール資料編集専門委員会」(委員長・今堀誠二)を立ち上げる(注6)。『核兵器の廃絶と全面軍縮のために―国連事務総長への要請』(ヒロシマ・ナガサキ、1976年)がその成果である。このアピールの資料編「原爆被害の実態―広島・長崎」は、「物理的破壊」、「身体的破壊」、「社会的破壊」の三つの柱から構成されているが、庄野が前二者の原案を石田定(広島原爆病院内科武法)の協力で起草した。庄野は、同じ時期に日本原水協に事務局を置く団体(注7)が作成した「広島・長崎の原爆被害とその後遺-国連事務総長への報告」(1976年)にも作成のための専門家グループ(注8)の一人でもあった。なお、1977年には、こうした国内の動きに呼応するかのような海外の流れが、国内に流れ込み、この二つの流れのほか、多くの組織・団体を巻き込む大潮流となる。1977年の国連NGO被爆問題シンポジウム(注9)は、その事例である。「広島・長崎の原爆災害」(前掲)は、以上の成果を踏まえ、広島大学・長崎大学の研究者を中心にまとめられたものである。基礎原稿の執筆者が、「物理学関係」「医学生物学関係」「人文社会科学関係」の3分野で掲載されており、「物理学関係」に岡島俊三・岡林隆敏・竹下健児・橋詰雅とともに庄野の名前がある。発行(1979年)時、ある新聞は、原爆被害の集大成と報じた(注10)。
「原爆モニュメント碑文集」(原爆モニュメント研究グループ編・刊、1978年)では、庄野はスポンサーであった。私も一員であった研究会(広島県歴史教育者協議会のメンバーで構成)の横山英代表の指示で、庄野の勤務先の広島女学院大学に研究費を受け取りに行った(注11)。「核と平和―日本人の意識」(庄野直美・永井秀明・上野裕久編、法律文化社、1978年)は、1975年に発足した広島大学平和科学研究センターの研究プロジェクト「核意識構造の実態研究」による研究成果の一部である。このプロジェクトに参加した研究者は、全国13大学の27人であり、専攻分野は十数領域に及んでいる。私もその一員として、資料の収集と整理作業を中心となって進めていた永井秀明のお手伝いをした。この研究グループは、庄野を研究代表者として、1976年・77年に文部省科学研究費補助金の交付を受けている(注12)。
私が庄野の元で、あるいは共に働いたのは、この時期までである。庄野の足跡はこの後も続く。「ヒロシマ・ナガサキの証言 創刊号」(発行所:広島・長崎の証言の会、発行人:秋月辰一郎・庄野直美、1982年)や「広島の被爆建造物―被爆45周年調査報告書」(監修者:庄野直美、発行者:被爆建造物を考える会、発行所:朝日新聞広島支局、1990年)がその証である。また被爆40周年の1985年には「ヒロシマ・ナガサキ平和基金」を設立している。私は、彼からこれらへの参加を強く求められたが固辞した。理由は、依頼内容が事務局への関与であり、それは私の職場における立場では困難だったからである。
(うぶき・さとる=元広島女学院大教授、日本現代史・日本文化史)
(注1)私は、田中聰司(元中国新聞記者)とともにこの本の編集のお手伝いをした。
(注2)第一稿の執筆者:石井金一郎・伊東壮・大江志乃夫・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・杉原芳夫・田沼肇・山手茂・吉田嘉清。
(注3)広瀬ハマコ・今堀誠二・田淵実夫・森脇幸次・庄野直美。
(注4)森下弘・永田守男・文沢隆一・大牟田稔・平岡敬・石田明・庄野直美。庄野が執筆総括者を務めている。
(注5)今から見れば不思議に思えるが、被爆地の広島・長崎両市が連携して被爆問題に取り組み始めるのは、1975年(被爆30年)の平和文化都市連携の調印以降のことである。
(注6)専門委員会の広島側委員は、原田東岷(副委員長)・石田定・岡本直正・庄野・湯崎稔の5人、長崎側委員は秋月辰一郎(副委員長)など5人であった。
(注7)名称は「核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団派遣中央実行委員会」
(注8)伊東壮・川崎昭一郎・草野信男・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・峠一夫。なお、広島・長崎両市に関わった専門家と比べて注目されるのは、庄野のみが、両者に名を連ねていることである。
(注9)庄野とNGOにまつわるエピソードを一つ。私が、NGO(Non-Governmental Organization=非政府組織)という言葉を初めて知るきっかけは県の関係者からの問い合わせである。私の勤務先の広島大学原爆放射能医学研究所でも話題になっていた。シンポジウムの主催者は、県知事や研究所長にあいさつと後援の依頼していた。広島で最も詳しかったのは庄野だったように覚えている。私は、庄野情報によりその内容をぼんやりと理解した。参加した人々が十分理解していたとは思えないが、シンポジウムは、当時存在していた原爆被害に関わる多く動きを糾合した。そして、この成功は、その後の被爆問題をめぐる雰囲気を大きく変化させた。私は、特定の組織に属さずに多くの仕事を成し遂げた庄野直美を「NOM人」(Non- Organization  Movement=非組織運動の人)と呼ぶのがふさわしいと考えている。
(注10)この評価には、事務局の下働き的立場にいた私は違和感を抱いた。この本の広島部分の記述には、1977年には、「原爆と広島大学―『生死の火』学術篇」(広島大学原爆死没者慰霊行事委員会、1977年)の成果に依拠するところが多い。この本には庄野は関わっていない。
(注11)額は、10万円?20万円?30万円?いずれにしても、印刷費に満たないものであった。会では、会員の調査のための交通費や謄写版刷りの会報の費用にすることを申し合わせたように思う。
(注12)私は、うかつにも「原爆モニュメント碑文集」と「核と平和」は、まったく別の動きと思い込んでいた。しかし、今では、前者に関連して私が庄野から受け取った金は、この科研費の一部だったと推測している。

 

02月忌(一覧)

2月に亡くなった人々

没年 名前  よみ  享年  備考
01 1973 長岡省吾  ながおか・しょうご 71  広島大学理学部[学研調査]。被爆時、広島文理科大学嘱託として山口県に地質調査で出張中。翌日入市。被爆資料収集に努めた(初代広島原爆資料館長)。<別記
01 1997 河合幸尾 かわい・ゆきお 広島女子大学元教授。原爆被害者相談員の会代表。宇吹所蔵資料=「故・河合幸尾先生をしのぶ会」(19970405広島県民文化センター)<資料
01 2003 ネルソン、リチャード ねるそん 77 広島原爆投下機エノラ・ゲイの無線士(出典:『中国新聞』20030208)
01 2008 小野文子 おの・ふみこ 広島大学原爆死没者慰霊行事委員会の委員。<別記
02 2013 山岡ミチコ やまおか・みちこ 82 被爆証言者。<別記
04 1980  佐々木雄一郎  ささき・ゆういちろう 63  被爆記録写真を撮り続けた広島の写真家。[69原爆被災資料広島研究会]。<別記
04 1993 柿手春三 かきて・しゅんぞう 84 画家。「広島平和美術展」創立。代表幹事。<別記
05 1991 ペドロ、アルぺ ぺどろ 被爆当時、長束修道院院長。出典:『中国新聞』20110428(増田咲子記者)
06 1989 甲斐英男 かい・ひでお  61 広島県史編さん室の上司。<資料年表:甲斐英男
06 2012 重松逸造 しげまつ・いつぞう 94 放射線影響研究所元理事長。<別記
06 2024 小沢征爾 おざわ・せいじ 88 指揮者。「ヒロシマ 指揮棒に思い 犠牲者へ心寄せ」(『中国新聞』20240210<西村文・記>)
07 1971 尾形静子  おがた・しずこ  44  広島市広瀬国民学校で勤務中被爆。<別記
07 1987 小西ノブ子  こにし・のぶこ  80  反戦被爆者の会会長。『炎の巡礼者 ヒロシマの母 小西のぶ子遺稿集』(小西のぶ子遺稿集編集委員会、社会評論社、19880806)
08 1961 雑賀忠義  さいか・ただよし  67

 

 広島高等学校教授の時被爆。英文学者。1957年広島大学を定年退官。広島平和公園にある原爆慰霊碑の碑文の作者。<別記
08 1980 平野義太郎 ひらの・よしたろう 82 日本平和委員会名誉会長。原水爆禁止日本協議会の結成に参加。[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]<別記
08 1997 小谷鶴次  こたに・つるじ  84

 

 広島大学名誉教授。政経学部教授時代に世界連邦建設運動にかかわる。<別記
08 2015 栄久庵憲司 えくあん・けんじ 85 工業デザイナー。2005年5月18日広島女学院大学春季講演会で講演「道具と人の世界」。人文館303。超満員。3年宇吹ゼミの学生もかなり参加。<別記
09 1982 加藤新一  かとう・しんいち  81

 

 広島市在住の被爆者。[52広島平和問題談話会](日本国際連合協会広島支部局長)。第1回国連軍縮特別総会に参加。<別記
09 1985 真下信一 ました・しんいち 78 哲学者[1982推進連絡会議呼びかけ人]<別記
09 1995 フルブライト、ウィリアム・ ふるぶらいと 89 元米上院議員。広島・長崎への原爆投下に衝撃を受け、日本が復興し、国際社会に復帰するためには人材の育成が不可欠との信念から1946年に「フルブライト交流計画」を創設。<別記予定>
09 1996 小笠原基生  おがさわら・もとお  69

 

 記録映画監督。「ヒロシマ・原爆の記録」、「ヒロシマ・母たちの祈り」などを監督。<別記
10 2010 森一久 もり・かずひさ 84 元日本原子力産業会議副会長、肺炎で3日死去、84歳。1926年広島生まれ。京都大学在学中に広島で家族とともに被爆。<別記
10 2012 宇根利枝 うね・としえ 93 「宇根利枝さんが死去 慰霊碑に献水 半世紀以上 93歳」(『中国新聞』20120212、田中美千子記)<別記
10 2018 松原美代子 まつばら・みよこ 85 12歳の時、建物疎開の作業中に爆心地から約1.5キロで被爆。<別記
10 2018 荒角理宰 あらかど・りさい 99 山陽ジャスコ株式会社元会長。体験記(私家版)あり(『中国新聞』1995年8月2日)。『被爆50周年を迎えて-私の原爆体験談 』(1995年08月01 日刊)<別記>別記
11 1985 村上忠敬  むらかみ・ただよし  77  広島大学高師教授。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。広島大学名誉教授。1970年4月~74年3月、広島女学院大学長。1968年~83年、核禁広島県民会議議長。在韓被爆者のための医師団派遣などに尽力。[70ヒロシマ会議]<別記
11 1990 レイノルズ、バーバラ  れいのるず、ばーばら  74

 

 米の平和運動家。1951年に来広し、18年間広島市に滞在、1962年に広島・長崎平和巡礼団を組織するなど平和運動に貢献。<別記
11 1992 殿敷侃 とのしき・ただし 50

 

 造形作家。3歳の時、広島で両親が被爆死。2日後に疎開先にから広島市に帰る。広島大学中退、1978年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作。殿敷侃 :: 東文研アーカイブデータベース (tobunken.go.jp)
12 2018 松尾雅彦 まつお・まさひこ 76  【訃報】相談役 松尾雅彦 逝去のお知らせ 逝去のお知らせ20180213.pdf (calbee.co.jp)『生きて・カルビー元社長、松尾雅彦さん(1941年~)』(『中国新聞』20100406~0428、15回連載)、山本洋子「評伝・松尾雅彦カルビー元社長」(『中国新聞』20180214)
13 1970 近藤寿治  こんどう・ひさじ  被爆時、広島文理科大学学長(兼高師校長)として出張中。後日入市[広島大学]
13 2008 市川崑 いちかわ ・こン 92 映画監督。広島にいた母を含む家族8人全員が原爆被爆。『東京オリンピック』(1965年、東京オリンピック映画協会) 総監督。
14 1992 有末精三 ありすえ・せいぞう 96 元陸軍中将。終戦時参謀本部第2部長。大本営調査団の団長として広島入り。「原子爆弾広島へ落ちる」『終戦秘史・有末機関長の手記』(有末精三、芙蓉書房、71960815)pp26-38。
15 2001 小沼十寸穂 こぬま 94 広島大学名誉教授。広島の被爆者の精神的苦痛による後障害を実態調査。
16 1977 末川博 すえかわ・ ひろし 84 立命館大学学長・総長。1892年11月20日生。
16 1994 小佐々八郎  こささ・はちろう  88  日本被団協顧問。長崎原爆被災者協議会会長などを歴任。藤居平一氏の紹介で自宅を訪問。
16 2007 宮崎安男 みやざき・やすお 78 原水爆禁止日本国民会議の副議長。全電通中国地方本部委員長、1974年から広島県原水禁事務局長、代表委員経て、96年から04年まで原水禁国民会議副議長、の後も広島県原水禁顧問。広島平和会館・原爆被害者相談所の相談員。<別記
16 2021 バーナード・ラウン 99 ハーバード大学公衆衛生所付属の心臓病研究所長。1980年創設の「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」共同会長。田城明「バーナード・ラウン氏を悼む 命を守る延長に反核運動」(『中国新聞』20210316)
17 2011 黒川万千代 くろかわ・まちよ 81 旧姓富永。広島女専1年生のとき校内で被爆。日本被団協事務局次長など歴任。<別記
18 1987 壬生照順 みぶしょうじゅん 79 宗教NGO[82推進連絡会議呼びかけ人]天台宗華厳院住職。全日本仏教会評議員、仏教徒平和の会幹事長、日本宗教者平和協議会理事長。<別記
18 2011 尾糠政美 おぬか・まさみ 18 陸軍船舶練習部写真班員(23歳)のとき被爆。<広島原爆被災撮影者の会
18 2012 庄野直美  しょうの・なおみ  86  九州帝国大学理学部1年のとき入市被爆。宇吹追悼文あり。<別記
19 2017 林京子 はやし ・きょうこ 86  作家。長崎県立長崎高等女学校3年の時、学徒動員中の三菱兵器工場で被爆。短編『祭りの場』(『群像』1975.6)で第18回群像新人文学賞、および第73回芥川賞。『広島県現代文学辞典』(岩崎清一郎・記)<別記
20 1979 金子弥吉  かねこ・やきち  78  山口県被団協初代会長。芸備銀行横の路上(爆心から500㍍内)で被爆。
20  1985 中野好夫  なかの・よしお  81  英文学者。原水禁運動などに尽力。[82推進連絡会議呼びかけ人]。学生時代の友人の父。
20 2001 今堀宏三 いまほり・こうぞう 広島文理科大学卒業後、1946年金沢高師教授、1949年金沢大学理学部助教授を経て、1960年に大阪大学教授に就任。その後、福井県立短期大学(現福井県立大学看護短期大学部)学長、鳴門教育大学学長、広島女子大学(現県立広島大学)学長、日本生物教育学会会長を歴任。
20 2018 金子兜太 かねこ・ とうた 98 俳人。『たっぷり生きる』(金子 兜太 / 日野原 重明、毎日学芸出版 、2010)
21 1961 下中弥三郎 しもなか・やさぶろう 82 世界連邦会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記
21 2021 関千枝子 せき・ちえこ 88 旧姓富永。ノンフィクション作家。著書に「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」。<資料年表:関千枝子
22 1968 名越史樹 なごや・ふみき 7 白血病で死亡。<別記
22 1998 荘司雅子 しょうじ・まさこ  88 台湾出身。奈良女子高等師範学校卒業後、1935年広島大学教育学科に入学。長田新の勧めなどでフレーベル研究。「資料年表:荘司雅子
22 2019 加納実紀代 かのう・ 78 出典:高雄きくえ「加納実紀代さんを悼む 銃後の加害と被害問う」(『中国新聞』20190226)<別記
24 2011 藤平典 とうへい・のり 82 広島高等師範学校生(16歳)の時、学徒動員先の東洋工業で被爆。東京都原爆被害者団体協議会会長、日本原水爆被害者団体協議会代表委員など。
24 2021 児玉健次 こだま・けんじ 87 広島大学文学部在学中の1956年8月に開催された8・6学生平和会議(1956年8月5~7日)の実行委員長<別記
26 1955 今堀恭子  いまほり・きょうこ  43  被爆当時広島市女教諭。広島文理科大学の第1回女子卒業生。<別記
26 1968 浜井信三  はまい・しんぞう  62  初代公選広島市長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記
26 2002 鎌田定夫 かまた・さだお 72 長崎総合科学大学教授、長崎平和研究所長。<別記予定>
26 2003 藤原彰 ふじわら・あきら  80 歴史学者。宇吹は1980年5月1日から81年2月28日まで文部省内地研究員として一橋大学藤原彰研究室に在籍。<資料年表:藤原彰>
26 2019 見崎進 みさき・すすむ 92 第五福竜丸元乗組員。
26 2019 松尾文夫 まつお・ふみお 85 元共同通信ワシントン支局長。著書「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」などで「相互献花外交」を訴え続けたことが評価され、2017年度日本記者クラブ賞受賞。
27 1987 亀井文夫  かめい・ふみお 78  映画監督。被爆者を描いた「生きていてよかった」(1956年)などを制作。<別記
27 2003 小田 丕昭 おだ・ひしょう 92 洋画家。出典:寺本泰輔「原爆抽象画秘めた鋭さ 小田 丕昭氏を悼む」『中国新聞』20030227
28 1986 パルメ、オロフ  ぱるめ・おるふ  59  スウェーデン首相。暗殺。1981年に、「軍縮と安全保障に関する独立委員会」委員長として、来広し、原爆資料館などを見学。<別記
28 2001 武田寛 たけだ・ひろし 1935年福山市出身。広島大学工学部卒業後、民間企業勤務。1970年日本共産党広島県委員会勤務。1984年~97年、原水爆禁止広島県協議会事務局長。日本原水協担当常任理事。<爆央と爆心 1945年8月6日ヒロシマで何が起きたのか』
28 2015 松谷みよ子 まつたに・みよこ 89 児童文学作家。

 

シナリオ・生きていてよかった[抄](1956年5月)

シナリオ・生きていてよかった

脚本・監督 亀井文夫

製作   原水爆禁止日本協議会・日本ドキュメントフィルム社

広島、長崎の原爆症患者の生活を捉えた真実の記録映画がはじめてつくられた。この姿を世界中に訴えて!とケロイドの娘さんも自らすすんでカメラの前に立った。これはそのシナリオを亀井監督が本誌のために特に書き改めたものである。

第1部 死ぬことは苦しい[撮影場所のみ摘記]

・(広島日赤病院)

・(長崎医大の付属病院)

・(広島日赤病院の廊下)

・(広島・比治山下のあるバラック)

第2部 死ぬことは苦しい だが 生きることも苦しい

・(ある家の室内)

・(広島の繁華な街)

・(梅の花が咲いている山村)

・(日赤病院の一室)

・(長崎医大の付属病院の一室)

・(諫早から長崎へ通うバス道路)

・(広島・五日市にある戦災孤児育成所)

第3部 死ぬことは苦しい だが、生きることも苦しい でも、生きていてよかった

・(日本座敷)

・(広島市・宇品町にある明成園)

・(ある家庭の庭先)

・(長崎、路地の奥の家)

・(長崎の道路工事)

・(丘陵へつづくなだらかな坂道)

・(長崎の原爆記念館の陳列棚)

・(再び浦上の美しい道)

出典:『婦人公論』1956年5月号