那須正幹
19420606生20210722没 | なす・まさもと | 享年79 | 児童文学作家、小説家。『広島県現代文学事典』 |
関連資料
年月日 | 資料名 | 備考 |
20190806 | 「筆に託して 戦争体験と表現〈1〉児童文学作家 那須正幹さん(77)防府市」(増田咲子記者『中国新聞』20190806掲載) | |
止
那須正幹
19420606生20210722没 | なす・まさもと | 享年79 | 児童文学作家、小説家。『広島県現代文学事典』 |
関連資料
年月日 | 資料名 | 備考 |
20190806 | 「筆に託して 戦争体験と表現〈1〉児童文学作家 那須正幹さん(77)防府市」(増田咲子記者『中国新聞』20190806掲載) | |
止
日野原重明
ひのはら・しげあき | 20170718 没 | 享年105歳 | 聖路加国際病院理事長。 |
日野原重明
宇吹メモ(広島女学院大学勤務期)
2005 | 10 | 20 | 12:30 | 木曜日チャペル:日野原重明(聖路加国際病院名誉院長・同理事長)「信仰・望み・愛」。出席。 |
2005 | 10 | 21 | 18 | 日野原重明・小沢征爾『世界へおくる平和のメッセージ』。広島県立総合体育館。グリーンアリーナ。参加できず。 |
2005 | 11 | 03 | 15:00 | BS2「共鳴する魂~日野原重朗・小沢征爾 世界へおくる平和のメッセージ~」。冒頭、一部分撮り損ねる。~16:40。 |
2006 | 12 | 25 | 13:30 | 日野原重朗講演会(私は欠席。1470名以上参加した由)。 |
2007 | 04 | 12 | 24 | ***から自宅に日野原の講演のチケットの礼の電話があった由。 |
a9 | 07 | 10 | 10:40 | 日野原先生講演会。不参加。 |
b0 | 05 | 27 | 15:00 | 日野原講演会。不参加。参加者は1200人あった由。 |
広島平和記念都市建設方案 (昭和24.9.20立案)
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広島大学蔵 |
原爆にたをれむ人もやすらかに平和の光受けて眠らむ
広島平和記念都市建設方案 (昭和24.9.20立案) |
企画部 | 建設構想の研究、実施の促進 | ||
建設法に伴ふ国家各機関との交渉 | ||||
建設予算編成と財源捻出(県市、国家、外国) | ||||
都市形態整備 | 特殊的 | 記念保存物調査決定(産業奨励館、原爆十景等) | ||
新建設物 | 慰霊塔(平和塔) | |||
記念館 | ||||
美術館 | ||||
科学館 | ||||
一般的 | 土木工事 | 道路 公園 | ||
軌道 ガス | ||||
上下水道 | ||||
橋梁 | ||||
建築工事 | 公共文化、社会事業的建造物 | |||
個人住宅 | ||||
内容充実 | 霊場設置 | 二十万犠牲者の鎮魂場 | ||
原爆資料 | 実物、写真 | 調査蒐集 | ||
文書、統計 | ||||
平和精神涵養 | 講演会(教育、宗教、文化団体連絡) | |||
雑誌(平和協会ヨリ発行) | ||||
市旗(平和都市象徴・各戸掲揚) | ||||
平和祭発展 | 行事の研究(世界的構想へ) | |||
市民の熱意表現工夫 | ||||
世界平和運動 | 国際連合、ユネスコ連絡(行事) | |||
会場の建設 | ||||
文化施設内容 | 美術館 | 資料研究、調査、蒐集 | ||
科学館 |
千田書房(店主=山崎与三郎)
やまさき・よさぶろう | 19760704没 | 享年86 |
資料
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広島大学原医研資料 20201030撮影 | |
増岡敏和
ますおか・としかず 2010年7月28日没 享年82歳
8月6日(1945年)には海軍の予科練(飛行機練習生)で松山航空隊に入隊、8月6日頃は軍隊疎開で愛媛県の南部の深浦町にいた。敗戦の数日以内に広島市に帰る。祖母、母、長妹(原爆死)、次妹被爆弟たちは学童疎開中。
資料
年月日 | タイトル | 形態・メモ |
19560601 | 請願書(広島県原爆被害者団体協議会) | |
19920911 | 増岡⇒ 吉川生美 | 書簡 |
吉川生美⇒ 宇吹 | 書簡 | |
19920923 | 増岡⇒ 吉川生美 | 葉書 |
19921006 | 宇吹⇒吉川生美 | 書簡(控) |
同上同封資料『東友文庫5 「ヒロシマ・ナガサキから何を学ぶか」被爆45周年連続学習講座 第5集 被爆者・国民は何をしてきたか』 | ||
19921030 | 宇吹⇒増岡 | 書簡(控) |
19921105 | 増岡⇒ 宇吹 | 葉書 |
19940712 | 増岡持参資料 | 紙1枚 |
「不屈の原水禁・被爆者運動前史―「占領期の広島」手控え」 | ||
19930124 | 1992年度久保医療文化研究所講演録(久保医療文化研究所) | 冊子 |
第68回講演会(19920314)増岡敏和「広島における反原爆文化運動の原点」 |
山崎与三郎
やまさき・よさぶろう | 19760704没 | 享年86 |
資料
体験記 『吾家の原爆体験記 死線を越えて』(山崎与三郎、19730715)
目次 | ||
1 | はしがき | |
2 | 山崎基定(長男) | あの日の思い出 |
3 | 山崎キミ( 妻) | 家の下敷から救われた命 |
4 | 八木道子(長女) | 灰燼の中に幼児を抱きて |
5 | 山崎与三郎(父) | 死線を越えて |
6 | あとがき | |
編著書
原爆関係文献目録 広島・長崎を中心とする | 山崎与三郎編、千田書房 | 19540723 | U |
原爆被災資料総目録 第二集 | 原爆被災資料広島研究会 | 19700806 | U |
創立百周年記念誌 | 広島市立本川小学校 | 19730110 | |
平和の聖都ひろしま 広島巡礼案内 | 山崎与三郎著 高橋謄写堂 | 19750720 | U |
吾家の原爆体験記 死線を越えて | |||
大原三八雄
19920706没 | おおはら・みやお | 享年87 | 「広島詩集 1965」(広島県詩人協会)、「世界原爆詩集」(角川文庫)を編集。広島女子大学・広島工業大学名誉教授。『広島県現代文学事典』 |
『今中次麿―生涯と回想』(今中次麿先生追悼記念事業会編、法律文化社、19820415)
目次
まえがき | ||
Ⅰ | 私の政治学の歩み | 今中次麿 |
Ⅱ | 時々事々 | 今中次麿 |
Ⅲ | ||
Ⅳ | ||
Ⅴ | ||
Ⅵ | ||
Ⅶ | ||
今中先生と平和運動―広島大学人会を中心として | 佐久間澄 | |
回想の五十年 | 今堀誠二 | |
今中先生を偲んで | 後藤陽一 | |
今中先生を偲ぶ | 佐藤正夫 | |
留守番としての交わり | 山代巴 | |
今中先生の笑顔 | 狭田喜義 | |
今中先生と私 | 山口利男 | |
今中先生を偲んで | 石田明 | |
マルキシズムを超えることだ | 中村吉男 | |
「畏敬」の対象としての先生 | 山田浩 | |
今中先生のこと―思い出すままに | 大西典茂 | |
今中門下の末っ子として | 北西允 | |
広島大学時代の先生 | 池田重久 | |
今中先生の思い出―「今中大学日記」寄託のことなど | 頼和子 | |
Ⅷ | ||
Ⅸ | 学者として、人間として―父を語る | 今中比呂志 |
今中次麿年譜 | ||
遺稿目録 | ||
あとがき <大西典茂・北西允・中村義知・山田浩 > | ||
今中次麿(いまなか・つぎまろ)
18930409生19800726没 | 享年87 | [52広島平和問題談話会](広島大学政経学部教授)。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島大学名誉教授。世界平和評議会評議員、第1回原水爆禁止世界大会議長、広島平和教育研究所議長。『広島県大百科事典』(中村義知・記)。 |
略年譜
年月日 | ||
18930409 | 広島市中区国泰寺町1丁目20番地に生まれる | |
19450529 | 東京大空襲 | |
19450630 | 東亜研究所を辞職し、家族全員で長野県佐久郡に疎開。 | |
19450806 | 原爆のため兄の権六夫婦被爆。そのため妻とともに広島に向う。 | |
195304 | 広島大学政経学部教授として九大法学部から配置換え。 | |
平和と学問を守る大学人の会代表理事 | ||
1972 | 広島平和教育研究所研究会議議長 | |
19800726 | 午前5時45分、死亡。 |
1912生19910719没 | 享年78 | 広島女学院大学名誉教授。広島滞在中、折鶴の会・ワールド・フレンドシップ・センター などの平和運動に参画。1980年には広島市の特別名誉市民に選ばれる。 |