「07月忌」カテゴリーアーカイブ

参議院社会労働委員の現地調査

参議院社会労働委員の現地調査

1.視察委員:参議院議員 谷口弥三郎、同 山下義信

2.視察日程概況

1月 時刻 概況
6日 14:20 広島県庁を訪問し、地自宅において副知事、民生部長、衛生部長、関係各課長から原爆傷害者対策の概況説明を聴取した後意見を交換し、又県側の陳情を聴いた。
15:15 県知事応接室
15:30 市役所
16 市役所会議室
7日 10 市役所
11 ABCC(原爆影響研究所)ロバート・エッチ・ホームズ所長
13 日赤広島病院
14

3.調査項目

<以下未入力>

灰墟の光甦るヒロシマ

『灰墟の光 甦るヒロシマ』(ロベルト・ユンク著、原田義人訳、文芸春秋、1961年2月10日刊)

目次

 目次
Ⅰ 空虚と混乱(一九四五年)
書物
原子砂漠
大洪水のあと
孤児とやくざ
位牌
Ⅱ 新たな開始(一九四六-一九四八年)
夢見る人
たけのこ生活
〈アトム・ボーイ〉
〈杖さん〉
Ⅲ 平和の町(一九四八-一九五二年)
わが道を行く人びと
こわし屋
殺人
八月六日
草履
Ⅳ 生き残った人びと(一九五二-一九五七年)
かまぼこ御殿
救援の人たち
冷たい人たち
破滅にさからう二人
エピローグ
訳者あとがきに代えて
 <メモ >「1957年5月の末、・・日本を去ろうとしたとき、私は小倉薫という若い民間の学者と打ち合わせをした」

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7月忌一覧

7月に亡くなった人々

没年 名前 よみ 享年 備考
01 1988 加納竜一 かのう・りゅういち 84 元元日本映画社専務。被爆直後の広島・長崎で記録映画を製作。<資料年表:加納竜一
01 2000 宇都宮徳馬 うつのみや・とくま 93 政治家・実業家。月刊誌「軍縮問題資料」創刊。<資料年表:宇都宮徳馬
02 1982 高橋幸八郎 たかはし・こうはちろう 70 日本学術会議副会長[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]
02 1993 中野清一 なかのせ・いいち 88 広島大学名誉教授。元立命館大学教授。「あゆみグループ」を組織し、原爆孤児を支援。<資料年表:中野清一
03 2012 古浦千穂子 こうら・ちほこ 81 小説家、広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』(執筆:梅原勝己)<資料年表:古浦千穂子
04 1981 木村功 きむら・いさお  58 新劇俳優。『広島県現代文学事典』(九内悠水子・記)19230622生。<資料年表:木村功
06 1990 杉本春生 すぎもと・はるお 詩人、文芸評論家。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)<資料年表:杉本春生
06 1992 大原三八雄 おおはらみやお 87 「世界原爆詩集」(角川文庫)を編集。広島女子大学・広島工業大学名誉教授。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)<資料年表:大原三八雄
06 2011 松浦総三 まつうら・そうぞう 96 評論家。19141125生。
06 2013 山口仙二 やまぐちち・ 82 長崎の被爆者。「藤居平一聞き書き」作業の中に登場。藤居の紹介で面談。<山口仙二
07 1976 板倉静夫 いたくら・しずお 50 レッド・パージで三菱広島造船の首切りにあう。機関紙活動、労組書記の活動などを続けながら、1957年の第3回世界大会以来、広島原水協、広島原水禁の事務局次長を歴任。19250103広島市向洋本町生まれ。
07 1990 愛宮真備 えのみやまきび 92 フーゴ・ラッサール=ドイツ生まれのイエズス会員。広島市の幟町天主公教会(幟町教会)で被爆。世界平和記念聖堂を建設することに尽力
07 2022 朝尾直弘 あさお ・なおひろ 90 1931年12月17日、大阪府吹田市生。京都大学時代の教官。一橋大学内地留学にあたり藤原彰教授を紹介していただく。
08 1979 朝永 振一郎 ともなが ・しんいちろう 73 物理学者。ノーベル物理学賞(1965年)。生誕1906年3月31日<朝永 振一郎
08 1992 木村毅一 きむら・きいち 88 京都大学名誉教授。京大理学部の助教授時代の1945年8月、調査団員として広島入り。
08 1995 河村盛明 かわむら・せいめい 72 『河村盛明評論集 傷痕よりの出発』(河村盛明、六法出版社、1992.5.30)<河村盛明
09 1950 長崎五郎 ながさき・ごろう 67 『長崎五郎を偲ぶ』(長崎孝、19621225)。<長崎五郎を偲ぶ
09 1981 田中好一 たなか・こういち 87 [50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆ドーム保存を推進。<資料年表:田中好一
09 2012 山田五十鈴 やまだ・いすず 95 女優。本名:美津<みつ>。映画「生きていてよかった」のナレーションを「山田美津子」名義で担当。
10 1993 井伏鱒二 いぶせ・ますじ 95 作家。本名:井伏 滿壽二。小説『黒い雨』の作者。『広島県現代文学事典』(前田貞昭・記)
12 2011 沼田鈴子 ぬまた・すずこ 87 22歳の時、勤務先の旧広島逓信局(中区東白島町)で被爆。崩壊した建物の下敷きになり左足を切断。映画「にんげんをかえせ」(1982年)に、被写体として登場。<資料年表:沼田鈴子
13 1979 小倉馨 おぐら・かおる 58 広島平和文化センター事務局長(1977年~)。[69原爆被災資料広島研究会]。原爆資料館館長。『広島県史原爆資料版』所収の英文資料の翻訳でお世話になる。<資料年表:小倉馨
13 2005 橋口収 はしぐち・ おさむ 大蔵官僚。19210908生まれ。広島銀行頭取(198406)、広島商工会議所会頭(1988~99)を歴任。著書『「近代」の座標軸を求めて― 文明・文化そぞろある記』(金融財政事情研究会、19970716)
13 2011 末宗明登 すえむね 84 1988年から2005年まで広島県原爆被害者団体協議会<金子一士理事長>事務局長。「広島被爆者団体連絡会議」の事務局長も経験。<資料年表:末宗明登
14 1976 山崎与三郎 やまさき・よさぶろう 86 [1969原爆被災資料広島研究会]。<資料年表:山崎与三郎
14 1994 ロベルト・ユンク  ゆんく 『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)。『戦後ヒロシマの記録と記憶 小倉馨のR・ユンク宛書簡 上・下』(若尾祐司・小倉桂子編、名古屋大学出版会、2018年7月10日)<資料年表:ロベルト・ユンク
14 2008 田中隆荘 たなか・りゅうそう 82 生物学者。広島大学学長・広島市立大学初代学長。<田中隆荘
14 2015 竹前栄治 たけまえ・えいじ 84 占領史研究家。出版社の叢書執筆者の会合で同席。介護犬同伴だったことに強い印象。<資料年表:竹前栄治
15 2004 チャールズ・スウィーニー 84 長崎原爆投下爆撃機ボックスカーの機長(少佐、25歳)。 『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』(チャールズ・W・スウィーニー著 黒田剛訳、原書房、2000/07/31)
17 1982 江上不二夫 えがみ・ふじお 71 生化学者。元日本学術会議会長[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[1982推進連絡会議呼びかけ人]。
17 1999 北西英子 きたにし・ひでこ 70 「広島女性史研究会」代表。論文「近・現代広島女性の歩み」(『広島市公文書館紀要 第14号』)<北西英子
18 1991 坪田正夫 つぼた・まさお 67 大阪市生野区原爆被害者の会会長。句画集「かの一ぱつの原爆に」(新樹社)。<坪田正夫
18 2004 林茂夫 はやし・しげお 75 本名:塩伸一。軍事評論家。京大原爆展の関係者。追悼論文集『無防備地域運動の源流―林茂夫が残したもの』(日本評論社、20060720)<林茂夫
18 2017 日野原重明 ひのはら・しげあき 105 聖路加国際病院理事長。<資料年表:日野原重明
18 2019 天野之弥 あまの・ゆきや 72 外交官。国際原子力機関(IAEA)事務局長。
19 1977 大木惇夫 おおき・あつお 82 詩人。広島市天満町生まれ。本名・軍一。広島商業学校卒業。1941年、文化部隊宣伝班の一員として、ジャワ作戦に配属。『広島県現代文学事典』(石田浩子・記)。<資料年表:大木惇夫
19 2011 原田芳雄 はらだ・よしお 71 俳優。映画『父と暮らせば』(原作:井上ひさし、監督:黒木和雄)に父役で出演。2004年公開。
20 2008 佐々木寅夫 ささき・とらお 70 洋画家、日展会員。1938年広島県山県郡豊平町生まれ。『ひろしまインターネット美術館
20 2019 岡本三夫 おかもと・みつお 86 平和学者。1976年、四国学院大学で初の平和学講座を開講。1992年に第9条の会ヒロシマを結成。<資料年表:岡本三夫
21 1992 徐立伝 じょ・りつでん 70 広島刑務所内で被爆した中国人
22 2021 那須正幹 なす・まさもと 79 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)。
24 1991 志水清 しみず・きよし  84 元広島大学原医研所長。<資料年表:志水清
24 2011 増岡博之 ますおか・ ひろゆき 88 67年衆院選(旧広島2区)に自民党から出馬、初当選、当選8回。この間、厚相、党国対委員長などを歴任。
26 1980 今中次麿 いまなか・つぎまろ 87 [52広島平和問題談話会](広島大学政経学部教授)。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島大学名誉教授。世界平和評議会評議員、第1回原水爆禁止世界大会議長、広島平和教育研究所議長。『広島県大百科事典』(中村義知・記)。<今中次麿 生涯と回想
26 2019 山本治朗 やまもと・じろう 70 中国新聞社社主・会長。『中国新聞百年史』(中国新聞社史編さん室、1992/12/15)
28 2010 増岡敏和 ますおかとしかず 82 8月6日(1945年)には海軍の予科練(飛行機練習生)で松山航空隊に入隊、8月6日頃は軍隊疎開で愛媛県の南部の深浦町にいた。敗戦の数日以内に広島市に帰る。祖母、母、長妹(原爆死)、次妹被爆弟たちは学童疎開中。<資料年表:増岡敏和
 30  1980  山下 義信  やました・ぎしん 95  元参院議員。1945年に原爆孤児を養育する「広島戦災児育成所」を創設、参院社労委員として原爆医療法制定に尽力。<資料年表:山下義信
31 2001 小寺 初世子 こでら・さよこ  69 大阪国際大法政経学部教授、広島県立広島女子大名誉教授、国際法。論文:「朝鮮人被爆者の法的地位」(『広島女子大学文学部紀要 第7号』1972)<資料年表:小寺初世子
?? 2011 村上経行 むらかみ・つねゆき 93 『平和に生きる』(村上経行後援会、1972.10.1)、『広島のねがいを国政へ 活躍する、村上経行さん』(村上経経行後援会、1975.12.25)、<村上経行

 

山下義信

義信
189403生

(明治27)

 

19890730

(昭和64)

広島戦災児育成所の創始者。呉市出身、浄土真宗本願寺派の特任布教使などを経て従軍。復員後、1945年12月、原爆孤児たちを養育する「広島戦災児育成所」を広島県佐伯郡五日市町に創設。53年1月、広島市に移管するまで171人の孤児を育てる。47年、社会党から参議院議員(広島地方区)に当選、59年まで2期務め、原爆医療法制定に尽力(『中国新聞』)

日記・日誌・資料より[敬称略]

1981 11 06 山下義信宅訪問。[『宇吹』という名前に関心。「うすい」という名前の友人が一中時代にいたが親戚かとの問い。内容についての話は無かったが、下記の資料(紙1枚)をプレゼントされる。]
山下
1989 08 05 「ひと きのう きょう 流れ雲 山下義信さん(7月30日没 95歳) 原爆孤児に「家庭」作る」(渡辺雅隆)『朝日新聞(夕刊)』1989年8月5日
1995 06 24 RCCテレビ『補償なき半世紀』(午後3時半-)のビデオを見る。山下義信の所蔵資料が目玉。援護法の当初案に原子力開発にともなう被曝者の救済策が入っていたことを初めて知る。藤居・宮田千秋も出演。「戦時災害保護法」の事実経緯に誤りがあった。
1995 12 02 原田東岷インタビュー=医療法については山下義信と灘尾弘吉が熱心に世話をしてくれた。任都栗を含め、われわれは、政治家を利用もしたが、偽手帳問題など、その悪影響もあった。本当に困っている人は仕方がないとして、法に安易にすがる姿勢には疑問を持つ。
1996 03 23 Sの話=山下義信は、戦災孤児収容所についての詳しい資料を持っている。しかし、実名入りなので公開していない。2017
2017 04 25 <『広島戦災児育成所と山下義信』新田光子、法蔵館、2017.3.21>を昭和図書館で借り出し、読了。

山下義信

資料1 天皇陛下巡幸に関する質問主意書

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/001/syuh/s001111.htm

質問主意書
(質問第百十一号)昭和二十二年十一月六日配付
天皇陛下巡幸に関する質問主意書
右の質問主意書を国会法第七十四条によつて提出する。
昭和二十二年十一月四日
山下 義信
参議院議長 松平 恒雄 殿
天皇陛下巡幸に関する質問主意書
陛下には引続いて全国を巡幸遊ばされ、戦災者を中心に、親しく慰問激励のお言葉をたまわり、経済再建の思召から生産現場などにも臨ませられ、国民も心から感激して御歓迎に熱狂する有様は、誠に感銘に堪えないところであるが、この際次の諸点を質問して政府の善処を要望するものである。
一 天皇陛下巡幸に関する宮内府の処置については挙げて政府の責任と思うが如何。
二 地元地方公共団体長或は宮内府行幸事務関係者などのはからいにて、行幸巡路、お立寄地点などを決定する模様であるが、種々物議を醸し、非難を招き、請託、懇請激烈をきわめ、甚しきに至つては下検分に際して歓待を要するとの風評もある。政府はこれらの弊害なきよう訓告を出していると信ずるも、断乎しゆく正を励行せねばならぬ。巡幸プログラム等の決定については、政府は十分監督しているや否や。又これが所管は何大臣とするものか。
三 近く十一月下旬から中国地方巡幸の御予定と聞くが、その中には広島市も訪わせ給うと承る。同市はいうまでもなく原爆の廃墟都市にして、この地に天皇ののぞませられるは内外の感無量とするところである。
さればその巡幸予定のごとき真に御仁慈に相応わしきよう慎重に吟味されねばならないと思うが政府の所見は如何。
四 然るに聞くところによれば現在においては、同市は二時間余にて通過される程度に止まるとのことである。いわゆる素通りの程度に計画されてあるということは、実に心なきわざと遺憾に堪えざるものである。
政府はかかる巡幸計画を至当と考えるか如何。
世紀の歴史的都市を訪い給うことは、ただに一地方の問題ではないと思う。日本天皇と原爆その地の御行動とは世界の注視するところとなろう。希くは平和日本の象徴であらせたまう天皇として最も厳粛なる歴史的行幸であらせらるるよう政府の中枢部においても深甚なる考慮と関心とを払われんことを希求して止まない。
本員は政府の賢明なる答弁を期待するものである。

 

第1回国会(特別会)
答弁書
(答弁書第百十一号)昭和二十二年十一月十八日配付
内閣参甲第一二四号
昭和二十二年十一月十四日
内閣総理大臣 片山 哲
参議院議長 松平 恒雄 殿
参議院議員山下義信君提出天皇陛下巡幸に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。
参議院議員山下義信君提出天皇陛下巡幸に関する質問に対する答弁書
一、宮内府は、内閣総理大臣の所轄であるから、宮内府の処置については政府は責任を負う。
二、行幸巡路、お立寄地点の決定については、当該都道府県の原案にもとずいて宮内府において全般の計画を見合つて案を作成する。
風評の如きは全然事実無限であると信ずるが、今後も斯かることのないように充分注意する。
三、四、広島御巡幸については、目下案を作成中であつて決定していない。