「01 月忌」カテゴリーアーカイブ

川手健

川手健

かわて・たけし 19310213生
19600428没
広島市大手町生まれ。県立忠海中学校在学中に広島の工場に動員中被爆。広島高等学校理科を経て広島大学文学部を専攻。1952年、原爆被害者の会を結成。東京都内で自殺。29歳。

資料

文献
19521101 川手健「七年後の廣島」(『新日本文学』)
19530625 『原爆に生きて 原爆被害者の手記』(原爆手記編纂委員会、三一書房)
19540215 『風のように炎のように-峠三吉追悼集』
19550109 川手健「原爆被害者の青年クラブのこと」(『われらのうたの会』第3号)
19950806 『川手健を語る』(川手健を語る会編、ウイウド・岡本智恵子)

資料

川手健=「原爆被害者自身の口から全世界に向って原爆の惨禍と平和の必要を訴えるその意義は大きい。原爆の投下が世界史的な大事件であるなら、その被害者が立上がって原爆の反対を叫ぶこともまさに世界史的な出来事である。このことの重要性についてはまだまだ本当に考えている人は少ない様に思う。」
(「半年の足跡」、『原爆に生きて』、三一書房、1953年、所収)

佐々木禎子

佐々木禎子

ささき・さだこ 19430107生
19551025没
2歳の時、広島市三篠町で被爆。1955年1月9日、発病。同年2月21日、広島日赤病院に入院(広島市幟町小学校6年生)。4月幟町中学校に進学するが、登校不能。入院中折り鶴を製作。10月、亜急性リンパ性白血病で死去。享年12歳。

参考

広島平和をきずく児童・生徒の会
原爆の子の像(折鶴の子の像)
広島折鶴の会
資料
広島市原対協被爆生存者(児童生徒)調査表(1956年1月10日現在)(1956年2月~3月実施) 出典:『広島原爆医療史』601頁
文献(原爆の子の像関係)
千羽鶴 原爆の子の像の記録(豊田清史、昭森社)  1958/08/06
はばたけ千羽鶴(豊田清史、 筑摩書房) 1982/07/30
悲しみの千羽鶴(田清史、創樹社) 1991/07/10
折り鶴の子どもたち 原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち(那須正幹・作 高田三郎・絵  PHP研究所  ) 1984/07/02
現代日本朝日人物事典(長岡弘芳執筆)

 

9月忌(一覧)

9月に亡くなった人々

 日  没年  名前 よみ 享年
01 2002 林重男 はやし・しげお 84 写真家。文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会に参加、広島と長崎を撮影。<資料年表:林重男
02 1994 門秀一 かど・しゅういち 79 核禁広島県民会議初代議長。広島大学名誉教授。西洋倫理哲学専攻。<資料年表:門秀一
02 1999 尾津訓三 おづ・くんぞう 65 劇作家。広島で被爆。「追記 だれよりも願った地域演劇の復興」(『中国新聞19991102』田原直樹・記)<資料年表:尾津訓三
02 2017 土山秀夫 つちやま・ひでお 92 元長崎大学長。2009年2月28日に面識。<16時半~、広島(代表:難波健治)・長崎(代表:峠憲治)の報道関係者の交流会。会場:長崎新聞社。19時~懇親会。>宇吹の質問および意見<平和教育、平和行政、市民運動、医学者の動向、IPPNW、パグウォッシュ会議>に丁寧な応答。
03 2018 オマール、サイド さいど・おまーる 19 マラヤ(現マレーシア)の王族。 南方特別留学生。興南寮(広島市大手町)で被爆。<資料年表:サイド・オマール51.pdf (hiroshima-u.ac.jp)
04 1965 シュバイツァー、アルベルト・ 90 1952年度のノーベル平和賞受賞。
1962年6月30日、赤道直下のランバレネの病院で森瀧市郎氏の訪問を受ける。出典:http://www.ne.jp/asahi/nozaki/peace/data/gen_moritaki.html 森瀧宅で、当時のアルバムを前にこの時の話を聞く(宇吹)
04 2009 大山広司 おおやま・ひろし 91 元広島県議会議長、元全国都道府県議会議長会会長。『広島県議の半世紀 : 五人の知事に相まみえて : 大原博夫氏・永野巌雄氏・宮澤弘氏・竹下虎之助氏・藤田雄山氏』(大山広司・述、大平泰・記、溪水社、2005)1918生
05 1998 堀田善衛 ほった・よしえ 80 小説家。『広島県現代文学事典』(山根繁樹・記)<資料年表:堀田善衛
06 1998 黒沢明 くろさわ・あきら 88 映画監督。「生きものの記録」・「八月の狂詩曲」で核問題を取り上げる。
07 2020 岩佐幹三 いわさ・みきそう 91  修道中学在学中、被爆。1953年金沢大学教官となり同大名誉教授。1960年「石川県原爆被災者友の会」を設立。日本被団協事務局次長(2000年)・同会代表委員(2011年)<資料年表:岩佐幹三
08 1981 湯川秀樹 ゆかわひでき 74 1949年日本人として初のノーベル物理学賞受賞。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。「世界平和アピール七人委員会」メンバーとして平和運動にも尽力。[70ヒロシマ会議]<資料年表:湯川秀樹
10 2014 坂井義則 さかい・よしのり 69  1945年(昭和20年)8月6日広島原爆被爆直後に広島県三次市で誕生。父は被爆者。1964年東京オリンピックの開会式で聖火リレーの最終ランナー。
11 2019 粟屋憲太郎 あわや・けんたろう 75 日本近現代史研究者。著書に『東京裁判への道』など。1944年 6月11日生<資料年表:粟屋憲太郎
14 2010 大道あや だいどう・あや 101  絵本作家。本名:大道アヤコ。丸木スマ母、丸木位里は兄。19090411誕生。
15 1990 土門拳 どもん・けん 80 写真家。1958年に被爆者を写した写真集「ヒロシマ」を発表。『広島県現代文学事典』(20101220)<田中裕之・記><資料年表:土門拳
15 2010 秋信利彦 あきのぶ・としひこ 75 放送ジャーナリスト。中国放送(RCC)ディレクター・記者・常務取締役歴任。きのこ会。1935生。<資料年表:秋信利彦
18 2011 小野増平 おの・ますへい 64 中国新聞社入社(1970年4月)、ニューヨーク支局長(1990年8月)・東京支社長(2002年2月)・編集局長(2005年)、広島経済大学メディアビジネス学科教授 (2007年9月)を歴任。(広島大学文書館<解題:小野増平関係文書目録>)
19 2002 好村冨士彦 こうむら・ふじひこ 71 広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)『考えるとは乗り越えることである―好村冨士彦遺稿・追悼集』2003<資料年表:好村冨士彦
20 1976 升川貴志栄 ますかわ・きしえ 78 原水爆禁止広島母の会会長。<資料年表:升川貴志栄
20 1981 竹下健児 たけした・けんじ 55 放射線物理学者。1945年学徒動員先の長崎で被爆。1965年広島大学原医研教授。
21 2011 辺見じゅん へんみ・じゅん 72 広島女学院創立120周年記念2006年度企業懇談会・講演会(会場:リーガロイヤルホテル)講演会:辺見じゅん「生きるための自分力」。並んで挨拶。宇吹:大和ブーム批判に取り組んでいることを伝えると自著『女たちの大和』(ハルキ文庫、2005年)を挙げて切り返えされる。
21 2017 森本順子 もりもと・じゅんこ 85 オーストラリア在住の絵本作家。広島女学院高女在学中に被爆。
22 2010 橘祐典 たちばな・ゆうてん 77 本名:橘裕彦(ひろひこ)。映画監督。原爆記録映画「にんげんをかえせ」など。
23 1954 久保山愛吉 くぼやま・あいきち 40 第5福龍丸無線長。1954年3月1日にアメリカが南太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験で被曝。<資料年表:久保山愛吉
24 2015 福島菊次郎 ふくしま・きくじろう 94  写真家。<資料年表:福島菊次郎
27  1983 バーチェット、ウィルフレッド・ 72 ジャーナリスト。広島の被爆のもようを世界に最初に報道。<資料年表:バーチェット
27 2019 布川弘 ぬのかわ・ひろし 61 広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。
28 1986 谷本清 たにもと・きよし 77 日本基督教団広島流川教会牧師。教会で面談。
[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆乙女の米での手術実現などに尽力。86アキバ・プロジェクト」で来日した米記者、被爆牧師死去の記事(60行余)を掲載。AP通信を通じて米の各メディアに配信。[69原爆被災資料広島研究会]。『広島県現代文学事典』<田中裕之・記>19090627生。<資料年表:谷本清
28 1991 中本 たか子 なかもと・ たかこ 87 小説家。1927年上京、『女人芸術』誌に参加。1941年蔵原惟人と結婚。<資料年表:中本 たか子
28 1991 佐久間澄 さくま・きよし 80 広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆。お宅で面談、資料を閲覧。<資料年表:佐久間澄
28 2023 小河原正己 おがはら・まさみ 83 1940年山梨県生まれ。NHKプロデューサー。<資料年表:小河原正己>

 

佐久間澄

佐久間澄

 

さくま・きよし 19910928生19910928没 享年80
 広島大学名誉教授。広島県原水協理事長・同県被団協理事長。広島大学構内で被爆し、原水禁運動に貢献。広島大学。お宅で面談、資料を閲覧

資料

 死亡記事  1991年9月29日付、中国・朝日・読売・長崎・赤旗
 追悼文  庄野直美(広島女学院大学名誉教授)「佐久間澄氏を悼む 核兵器廃絶に尽力」(掲載新聞不明)

佐久間澄さんをしのぶ会

日時 1992年12月26日
会場 広島国際会議場・ダリア(広島平和公園内)
資料 会への案内(呼びかけ人:)
式次第
遺族礼状
宇吹宛佐久間書簡(8月26日付)
報道 不明紙、赤旗

森滝市郎

森滝市郎

 もりたき・いちろう 19010428生
19940125没
享年92歳 [51広島大学平和問題研究会会長理事(文)]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島県君田村生まれ。京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。[70ヒロシマ会議]。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。

庄野直美論

「庄野直美」論

庄野直美 しょうの・なおみ 1925年生

2012年2月18日没

Naomi SHONO

庄野直美先生は、私のヒロシマ研究の先輩である。とりわけ、私が広島県史編さん室・広島大学に勤務した時期にはお世話になった。彼の足跡をたどりつつ、私にとっての「庄野直美」を振り返ってみた(文中で、名前を掲げる人々の敬称を省く非礼をお許しください)。
「人間銘木 藤居平一追想集」(同編集委員会編、藤居美枝子発行、1997年)(注1)に、庄野による藤居(日本原水爆被害者団体協議会初代事務局長)への追悼文が収録されている。これによると、彼が、藤居と知り合ったのは第1回原水爆禁止世界大会の大会運営事務局で、1956年初め以降は、藤居宅に泊まり込んで相談と激論を重ねた。さらに東京に発足した原水爆禁止日本協議会の会合にはしばしば一緒に出席したという。
私は、「原水爆被害白書 かくされた真実」(日本原水協専門委員会編、日本評論新社、1961年)を、学生時代から辞書的に利用していた。私には、「広島・長崎の原爆災害」(広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編、岩波書店、1979年)が出版されるまでは、原爆被害を網羅的に概説した最も信頼できる本であった。この「あとがきに」によれば、佐久間澄・杉原芳夫とともに「原爆被害の実態」(第2章、第3章)の第一稿の執筆にあたっている(注2)。
「ヒロシマの証言 平和を考える」(広島平和文化図書刊行会編、日本評論社、1969年)は、広島市の平和推進事業の一環として設けられた編集委員会により発行された。本書の「刊行にあたって」に編集委員5人(注3)・執筆者7人(注4)の名前が記されている。これによれば、庄野だけが、編集者であり執筆者であった。一方、広島の平和教育が組織的・継続的に推進されるようになるのは1972年の広島平和教育研究所設置以降のことである。「平和教育研究 広島平和教育研究所・年報 Vol.1 1972」から、庄野が同研究所の国際交流部長に就任していることがわかる。庄野は、1967年の広島平和文化センターの設置から始まる広島市の平和行政や平和教育の初期から重要な役割を担っていたのである。
「原爆三十年―広島県の戦後史」(広島県編・刊、1967年)で、庄野は「原爆被災の概要」「原爆症」「被爆者の連帯」「平和研究」を執筆した。編集事務局員の私の仕事は、執筆要領に沿った彼の原稿調整を行うことであった。この作業の中で、私は、被爆二世の遺伝的影響の記述に疑問を感じてしまった。にわか勉強では、疑問が解けない。私はまず、県の関係課を訪ね見解を聞いた。その上で庄野を訪ね、原稿と県の見解が異なっていることを伝えた。すると庄野は、私に、遺伝的影響の研究概況と自らの見解を詳細に話してくれた。後日、私は、彼から県の見解に沿った修正原稿を受け取った。私が平和運動や行政から原稿の執筆を依頼された時や被爆二世問題に接するたびに思い出すできごとである。
被爆30年以降、広島・長崎両市(注5)と日本原水協が、国連を中心とした国際活動に乗り出した。両市は、1976年に「国連アピール資料編集専門委員会」(委員長・今堀誠二)を立ち上げる(注6)。『核兵器の廃絶と全面軍縮のために―国連事務総長への要請』(ヒロシマ・ナガサキ、1976年)がその成果である。このアピールの資料編「原爆被害の実態―広島・長崎」は、「物理的破壊」、「身体的破壊」、「社会的破壊」の三つの柱から構成されているが、庄野が前二者の原案を石田定(広島原爆病院内科武法)の協力で起草した。庄野は、同じ時期に日本原水協に事務局を置く団体(注7)が作成した「広島・長崎の原爆被害とその後遺-国連事務総長への報告」(1976年)にも作成のための専門家グループ(注8)の一人でもあった。なお、1977年には、こうした国内の動きに呼応するかのような海外の流れが、国内に流れ込み、この二つの流れのほか、多くの組織・団体を巻き込む大潮流となる。1977年の国連NGO被爆問題シンポジウム(注9)は、その事例である。「広島・長崎の原爆災害」(前掲)は、以上の成果を踏まえ、広島大学・長崎大学の研究者を中心にまとめられたものである。基礎原稿の執筆者が、「物理学関係」「医学生物学関係」「人文社会科学関係」の3分野で掲載されており、「物理学関係」に岡島俊三・岡林隆敏・竹下健児・橋詰雅とともに庄野の名前がある。発行(1979年)時、ある新聞は、原爆被害の集大成と報じた(注10)。
「原爆モニュメント碑文集」(原爆モニュメント研究グループ編・刊、1978年)では、庄野はスポンサーであった。私も一員であった研究会(広島県歴史教育者協議会のメンバーで構成)の横山英代表の指示で、庄野の勤務先の広島女学院大学に研究費を受け取りに行った(注11)。「核と平和―日本人の意識」(庄野直美・永井秀明・上野裕久編、法律文化社、1978年)は、1975年に発足した広島大学平和科学研究センターの研究プロジェクト「核意識構造の実態研究」による研究成果の一部である。このプロジェクトに参加した研究者は、全国13大学の27人であり、専攻分野は十数領域に及んでいる。私もその一員として、資料の収集と整理作業を中心となって進めていた永井秀明のお手伝いをした。この研究グループは、庄野を研究代表者として、1976年・77年に文部省科学研究費補助金の交付を受けている(注12)。
私が庄野の元で、あるいは共に働いたのは、この時期までである。庄野の足跡はこの後も続く。「ヒロシマ・ナガサキの証言 創刊号」(発行所:広島・長崎の証言の会、発行人:秋月辰一郎・庄野直美、1982年)や「広島の被爆建造物―被爆45周年調査報告書」(監修者:庄野直美、発行者:被爆建造物を考える会、発行所:朝日新聞広島支局、1990年)がその証である。また被爆40周年の1985年には「ヒロシマ・ナガサキ平和基金」を設立している。私は、彼からこれらへの参加を強く求められたが固辞した。理由は、依頼内容が事務局への関与であり、それは私の職場における立場では困難だったからである。
(うぶき・さとる=元広島女学院大教授、日本現代史・日本文化史)
(注1)私は、田中聰司(元中国新聞記者)とともにこの本の編集のお手伝いをした。
(注2)第一稿の執筆者:石井金一郎・伊東壮・大江志乃夫・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・杉原芳夫・田沼肇・山手茂・吉田嘉清。
(注3)広瀬ハマコ・今堀誠二・田淵実夫・森脇幸次・庄野直美。
(注4)森下弘・永田守男・文沢隆一・大牟田稔・平岡敬・石田明・庄野直美。庄野が執筆総括者を務めている。
(注5)今から見れば不思議に思えるが、被爆地の広島・長崎両市が連携して被爆問題に取り組み始めるのは、1975年(被爆30年)の平和文化都市連携の調印以降のことである。
(注6)専門委員会の広島側委員は、原田東岷(副委員長)・石田定・岡本直正・庄野・湯崎稔の5人、長崎側委員は秋月辰一郎(副委員長)など5人であった。
(注7)名称は「核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団派遣中央実行委員会」
(注8)伊東壮・川崎昭一郎・草野信男・佐久間澄・庄野直美・田沼肇・峠一夫。なお、広島・長崎両市に関わった専門家と比べて注目されるのは、庄野のみが、両者に名を連ねていることである。
(注9)庄野とNGOにまつわるエピソードを一つ。私が、NGO(Non-Governmental Organization=非政府組織)という言葉を初めて知るきっかけは県の関係者からの問い合わせである。私の勤務先の広島大学原爆放射能医学研究所でも話題になっていた。シンポジウムの主催者は、県知事や研究所長にあいさつと後援の依頼していた。広島で最も詳しかったのは庄野だったように覚えている。私は、庄野情報によりその内容をぼんやりと理解した。参加した人々が十分理解していたとは思えないが、シンポジウムは、当時存在していた原爆被害に関わる多く動きを糾合した。そして、この成功は、その後の被爆問題をめぐる雰囲気を大きく変化させた。私は、特定の組織に属さずに多くの仕事を成し遂げた庄野直美を「NOM人」(Non- Organization  Movement=非組織運動の人)と呼ぶのがふさわしいと考えている。
(注10)この評価には、事務局の下働き的立場にいた私は違和感を抱いた。この本の広島部分の記述には、1977年には、「原爆と広島大学―『生死の火』学術篇」(広島大学原爆死没者慰霊行事委員会、1977年)の成果に依拠するところが多い。この本には庄野は関わっていない。
(注11)額は、10万円?20万円?30万円?いずれにしても、印刷費に満たないものであった。会では、会員の調査のための交通費や謄写版刷りの会報の費用にすることを申し合わせたように思う。
(注12)私は、うかつにも「原爆モニュメント碑文集」と「核と平和」は、まったく別の動きと思い込んでいた。しかし、今では、前者に関連して私が庄野から受け取った金は、この科研費の一部だったと推測している。

 

02月忌(一覧)

2月に亡くなった人々

没年 名前  よみ  享年  備考
01 1973 長岡省吾  ながおか・しょうご 71  広島大学理学部[学研調査]。被爆時、広島文理科大学嘱託として山口県に地質調査で出張中。翌日入市。被爆資料収集に努めた(初代広島原爆資料館長)。<別記
01 1997 河合幸尾 かわい・ゆきお 広島女子大学元教授。原爆被害者相談員の会代表。宇吹所蔵資料=「故・河合幸尾先生をしのぶ会」(19970405広島県民文化センター)<資料
01 2003 ネルソン、リチャード ねるそん 77 広島原爆投下機エノラ・ゲイの無線士(出典:『中国新聞』20030208)
01 2008 小野文子 おの・ふみこ 広島大学原爆死没者慰霊行事委員会の委員。<別記
02 2013 山岡ミチコ やまおか・みちこ 82 被爆証言者。<別記
04 1980  佐々木雄一郎  ささき・ゆういちろう 63  被爆記録写真を撮り続けた広島の写真家。[69原爆被災資料広島研究会]。<別記
04 1993 柿手春三 かきて・しゅんぞう 84 画家。「広島平和美術展」創立。代表幹事。<別記
05 1991 ペドロ、アルぺ ぺどろ 被爆当時、長束修道院院長。出典:『中国新聞』20110428(増田咲子記者)
06 1989 甲斐英男 かい・ひでお  61 広島県史編さん室の上司。<資料年表:甲斐英男
06 2012 重松逸造 しげまつ・いつぞう 94 放射線影響研究所元理事長。<別記
06 2024 小沢征爾 おざわ・せいじ 88 指揮者。「ヒロシマ 指揮棒に思い 犠牲者へ心寄せ」(『中国新聞』20240210<西村文・記>)
07 1971 尾形静子  おがた・しずこ  44  広島市広瀬国民学校で勤務中被爆。<別記
07 1987 小西ノブ子  こにし・のぶこ  80  反戦被爆者の会会長。『炎の巡礼者 ヒロシマの母 小西のぶ子遺稿集』(小西のぶ子遺稿集編集委員会、社会評論社、19880806)
08 1961 雑賀忠義  さいか・ただよし  67

 

 広島高等学校教授の時被爆。英文学者。1957年広島大学を定年退官。広島平和公園にある原爆慰霊碑の碑文の作者。<別記
08 1980 平野義太郎 ひらの・よしたろう 82 日本平和委員会名誉会長。原水爆禁止日本協議会の結成に参加。[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]<別記
08 1997 小谷鶴次  こたに・つるじ  84

 

 広島大学名誉教授。政経学部教授時代に世界連邦建設運動にかかわる。<別記
08 2015 栄久庵憲司 えくあん・けんじ 85 工業デザイナー。2005年5月18日広島女学院大学春季講演会で講演「道具と人の世界」。人文館303。超満員。3年宇吹ゼミの学生もかなり参加。<別記
09 1982 加藤新一  かとう・しんいち  81

 

 広島市在住の被爆者。[52広島平和問題談話会](日本国際連合協会広島支部局長)。第1回国連軍縮特別総会に参加。<別記
09 1985 真下信一 ました・しんいち 78 哲学者[1982推進連絡会議呼びかけ人]<別記
09 1995 フルブライト、ウィリアム・ ふるぶらいと 89 元米上院議員。広島・長崎への原爆投下に衝撃を受け、日本が復興し、国際社会に復帰するためには人材の育成が不可欠との信念から1946年に「フルブライト交流計画」を創設。<別記予定>
09 1996 小笠原基生  おがさわら・もとお  69

 

 記録映画監督。「ヒロシマ・原爆の記録」、「ヒロシマ・母たちの祈り」などを監督。<別記
10 2010 森一久 もり・かずひさ 84 元日本原子力産業会議副会長、肺炎で3日死去、84歳。1926年広島生まれ。京都大学在学中に広島で家族とともに被爆。<別記
10 2012 宇根利枝 うね・としえ 93 「宇根利枝さんが死去 慰霊碑に献水 半世紀以上 93歳」(『中国新聞』20120212、田中美千子記)<別記
10 2018 松原美代子 まつばら・みよこ 85 12歳の時、建物疎開の作業中に爆心地から約1.5キロで被爆。<別記
10 2018 荒角理宰 あらかど・りさい 99 山陽ジャスコ株式会社元会長。体験記(私家版)あり(『中国新聞』1995年8月2日)。『被爆50周年を迎えて-私の原爆体験談 』(1995年08月01 日刊)<別記>別記
11 1985 村上忠敬  むらかみ・ただよし  77  広島大学高師教授。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。広島大学名誉教授。1970年4月~74年3月、広島女学院大学長。1968年~83年、核禁広島県民会議議長。在韓被爆者のための医師団派遣などに尽力。[70ヒロシマ会議]<別記
11 1990 レイノルズ、バーバラ  れいのるず、ばーばら  74

 

 米の平和運動家。1951年に来広し、18年間広島市に滞在、1962年に広島・長崎平和巡礼団を組織するなど平和運動に貢献。<別記
11 1992 殿敷侃 とのしき・ただし 50

 

 造形作家。3歳の時、広島で両親が被爆死。2日後に疎開先にから広島市に帰る。広島大学中退、1978年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作。殿敷侃 :: 東文研アーカイブデータベース (tobunken.go.jp)
12 2018 松尾雅彦 まつお・まさひこ 76  【訃報】相談役 松尾雅彦 逝去のお知らせ 逝去のお知らせ20180213.pdf (calbee.co.jp)『生きて・カルビー元社長、松尾雅彦さん(1941年~)』(『中国新聞』20100406~0428、15回連載)、山本洋子「評伝・松尾雅彦カルビー元社長」(『中国新聞』20180214)
13 1970 近藤寿治  こんどう・ひさじ  被爆時、広島文理科大学学長(兼高師校長)として出張中。後日入市[広島大学]
13 2008 市川崑 いちかわ ・こン 92 映画監督。広島にいた母を含む家族8人全員が原爆被爆。『東京オリンピック』(1965年、東京オリンピック映画協会) 総監督。
14 1992 有末精三 ありすえ・せいぞう 96 元陸軍中将。終戦時参謀本部第2部長。大本営調査団の団長として広島入り。「原子爆弾広島へ落ちる」『終戦秘史・有末機関長の手記』(有末精三、芙蓉書房、71960815)pp26-38。
15 2001 小沼十寸穂 こぬま 94 広島大学名誉教授。広島の被爆者の精神的苦痛による後障害を実態調査。
16 1977 末川博 すえかわ・ ひろし 84 立命館大学学長・総長。1892年11月20日生。
16 1994 小佐々八郎  こささ・はちろう  88  日本被団協顧問。長崎原爆被災者協議会会長などを歴任。藤居平一氏の紹介で自宅を訪問。
16 2007 宮崎安男 みやざき・やすお 78 原水爆禁止日本国民会議の副議長。全電通中国地方本部委員長、1974年から広島県原水禁事務局長、代表委員経て、96年から04年まで原水禁国民会議副議長、の後も広島県原水禁顧問。広島平和会館・原爆被害者相談所の相談員。<別記
16 2021 バーナード・ラウン 99 ハーバード大学公衆衛生所付属の心臓病研究所長。1980年創設の「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」共同会長。田城明「バーナード・ラウン氏を悼む 命を守る延長に反核運動」(『中国新聞』20210316)
17 2011 黒川万千代 くろかわ・まちよ 81 旧姓富永。広島女専1年生のとき校内で被爆。日本被団協事務局次長など歴任。<別記
18 1987 壬生照順 みぶしょうじゅん 79 宗教NGO[82推進連絡会議呼びかけ人]天台宗華厳院住職。全日本仏教会評議員、仏教徒平和の会幹事長、日本宗教者平和協議会理事長。<別記
18 2011 尾糠政美 おぬか・まさみ 18 陸軍船舶練習部写真班員(23歳)のとき被爆。<広島原爆被災撮影者の会
18 2012 庄野直美  しょうの・なおみ  86  九州帝国大学理学部1年のとき入市被爆。宇吹追悼文あり。<別記
19 2017 林京子 はやし ・きょうこ 86  作家。長崎県立長崎高等女学校3年の時、学徒動員中の三菱兵器工場で被爆。短編『祭りの場』(『群像』1975.6)で第18回群像新人文学賞、および第73回芥川賞。『広島県現代文学辞典』(岩崎清一郎・記)<別記
20 1979 金子弥吉  かねこ・やきち  78  山口県被団協初代会長。芸備銀行横の路上(爆心から500㍍内)で被爆。
20  1985 中野好夫  なかの・よしお  81  英文学者。原水禁運動などに尽力。[82推進連絡会議呼びかけ人]。学生時代の友人の父。
20 2001 今堀宏三 いまほり・こうぞう 広島文理科大学卒業後、1946年金沢高師教授、1949年金沢大学理学部助教授を経て、1960年に大阪大学教授に就任。その後、福井県立短期大学(現福井県立大学看護短期大学部)学長、鳴門教育大学学長、広島女子大学(現県立広島大学)学長、日本生物教育学会会長を歴任。
20 2018 金子兜太 かねこ・ とうた 98 俳人。『たっぷり生きる』(金子 兜太 / 日野原 重明、毎日学芸出版 、2010)
21 1961 下中弥三郎 しもなか・やさぶろう 82 世界連邦会長[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記
21 2021 関千枝子 せき・ちえこ 88 旧姓富永。ノンフィクション作家。著書に「広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち」。<資料年表:関千枝子
22 1968 名越史樹 なごや・ふみき 7 白血病で死亡。<別記
22 1998 荘司雅子 しょうじ・まさこ  88 台湾出身。奈良女子高等師範学校卒業後、1935年広島大学教育学科に入学。長田新の勧めなどでフレーベル研究。「資料年表:荘司雅子
22 2019 加納実紀代 かのう・ 78 出典:高雄きくえ「加納実紀代さんを悼む 銃後の加害と被害問う」(『中国新聞』20190226)<別記
24 2011 藤平典 とうへい・のり 82 広島高等師範学校生(16歳)の時、学徒動員先の東洋工業で被爆。東京都原爆被害者団体協議会会長、日本原水爆被害者団体協議会代表委員など。
24 2021 児玉健次 こだま・けんじ 87 広島大学文学部在学中の1956年8月に開催された8・6学生平和会議(1956年8月5~7日)の実行委員長<別記
26 1955 今堀恭子  いまほり・きょうこ  43  被爆当時広島市女教諭。広島文理科大学の第1回女子卒業生。<別記
26 1968 浜井信三  はまい・しんぞう  62  初代公選広島市長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起)]。[原水爆禁止世界大会日本準備会代表委員]。[日本原水協代表委員]。<別記
26 2002 鎌田定夫 かまた・さだお 72 長崎総合科学大学教授、長崎平和研究所長。<別記予定>
26 2003 藤原彰 ふじわら・あきら  80 歴史学者。宇吹は1980年5月1日から81年2月28日まで文部省内地研究員として一橋大学藤原彰研究室に在籍。<資料年表:藤原彰>
26 2019 見崎進 みさき・すすむ 92 第五福竜丸元乗組員。
26 2019 松尾文夫 まつお・ふみお 85 元共同通信ワシントン支局長。著書「オバマ大統領がヒロシマに献花する日」などで「相互献花外交」を訴え続けたことが評価され、2017年度日本記者クラブ賞受賞。
27 1987 亀井文夫  かめい・ふみお 78  映画監督。被爆者を描いた「生きていてよかった」(1956年)などを制作。<別記
27 2003 小田 丕昭 おだ・ひしょう 92 洋画家。出典:寺本泰輔「原爆抽象画秘めた鋭さ 小田 丕昭氏を悼む」『中国新聞』20030227
28 1986 パルメ、オロフ  ぱるめ・おるふ  59  スウェーデン首相。暗殺。1981年に、「軍縮と安全保障に関する独立委員会」委員長として、来広し、原爆資料館などを見学。<別記
28 2001 武田寛 たけだ・ひろし 1935年福山市出身。広島大学工学部卒業後、民間企業勤務。1970年日本共産党広島県委員会勤務。1984年~97年、原水爆禁止広島県協議会事務局長。日本原水協担当常任理事。<爆央と爆心 1945年8月6日ヒロシマで何が起きたのか』
28 2015 松谷みよ子 まつたに・みよこ 89 児童文学作家。

 

6月忌(一覧)

 

 日  没年  氏名  よみ  享年
01 1997 サーバー、ロバート・ Robert Serber 88 マンハッタン計画に参加した米科学者。ファーレル・モリソンらとともに被爆地調査。
01 2004 嘉屋文子 かや・ふみこ 90 ハワイ島生まれ。5歳の時、一家で帰国。広島市南観音町の自宅前で被爆。県内政部衛生課勤務。<投稿
01 2006 小島丈児 こじま・じょうじ 89 広島大名誉教授。<投稿>岩石学。『小島丈兒先生追悼文集』(2007/06/01)
03 1975 佐藤栄作 さとう・えいさく 74 広島平和記念式典に初めて参列した内閣総理大臣。ノーベル平和賞受賞者。<投稿
05 1989 加藤陽三 かとう・ようぞう 内務・防衛官僚、政治家。防衛事務次官、衆議院議員(2期)。海田町名誉町民。<投稿
05 2003 松元寛  まつもと・ひろし 78  英文学者。 広島大学名誉教授。<投稿><『ヒロシマという思想―「死なないために」ではなく「生きるために」』
05 2008 松井康浩 まつい・ひろやす 85 弁護士。日本原水協代表理事。『原爆裁判 核兵器廃絶と被爆者援護の法理
07 1984 大内五良 おおうち・ごろう 74 広島市医師会長(1957~59年)。広島県医師会長(1967~82年)。原爆乙女の渡米治療、在米被爆者検診などに貢献。<投稿
07 2001 河本一郎 かわもと・いちろう 72  「原爆被害者の会」設立、「広島折鶴の会」結成に奔走。谷本清平和賞(第13回=2001年没後)受賞。<投稿
07 2018 日高六郎 ひだか・ろくろう 101 社会学者。
 08  2018  谷川和穂  たにかわ・かずほ  87  自民党衆議院議員。防衛庁長官、法務大臣など歴任。<投稿
08 2003 山田かん やまだ・かん 72 長崎県県立図書館勤務。利用中に面識。
10 1982 小山祐士 こやま・ゆうし 78 劇作家。原爆をテーマにした劇「泰山木の木の下で」などの作者。『広島県現代文学事典』(秋枝美保・記)<投稿
10 1989 沢近宏 さわちか・ひろし 71 広島原対協副会長。同副会長は、宇品船舶司令部で、軍医として勤務中被爆。戦後、被爆者治療活動に尽力。<投稿
 10  1996  小倉豊文  おぐらとよふみ 96  広島大学名誉教授。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)<投稿
11  1984  湯崎稔  ゆざき・みのる  53  [69原爆被災資料広島研究会]。広島大学総合科学部教授。広大原医研で、爆心五百メートル以内の復元調査に従事。職場の上司。『世紀を超えて 爆心地復元運動とヒロシマの思想』<投稿
12 1978 郭沫若 かくまつじゃく 85 1955年12月来広し。原爆慰霊碑参拝(藤居平一との会話)。広島大学で「平和共存」のテーマで講演。<投稿
12 2004 下崎末満 しもざき・すえみつ 57 「インタビュー・この人に聞く ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト世話人代表」(『読売新聞』19990830)
12 2011 大村英幸 おおむら・ひでゆき 88  広島青年文化連盟初代委員長。<投稿
12 2017 据石和江 すえいし・かずえ 90 米国広島・長崎原爆被爆者協会会長。https://www.rafu.com/2017/06/据石和江さん死去%ef%bc%9a米国広島・長崎原爆被爆者協/
14 1986 名越操 なごや・みさお 『ヒロシマ母の記』(汐文社、19850616)。広島市在住の被爆者、死去。白血病で死亡した息子への思いをつづった「ぼく生きたかった」の著者。<投稿
14 1989 黒田秀俊 くろだひでとし 84 元原水協事務局長。1955年当時、原水協結成に尽力。<投稿
14 2019 山崎寛治 やまさき・かんじ 91 県立広島二中(現・観音高校)の代用教員だった17歳の時同校で被爆。旧天神町北組の慰霊碑の世話役。<投稿
14 2008 河瀬正利 かわせ・まさとし 67 広島大学名誉教授、広島県文化財保護審議会委員。被爆建物保存運動に尽力<投稿
15 1965 正田篠枝 しょうだしのえ 54 歌人。『広島県現代文学事典』『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)<投稿
15 1994 荒木武 あらき・たけし 78  広島市長。27代(19750223~19790223)28代(19790223~19830222)29代(19830223~19870222)30代(19870223~19880222)。『荒木武
16 1961 ジュノー、マルセル じゅのーMarcel Junod 57 スイス国籍の外科医。赤十字国際委員会駐日代表として来日。1945年9月8日、GHQの医薬品ともに広島入り。<投稿
16 1974 金井利博 かない・としひろ 60 [52広島平和問題談話会](中国新聞社学芸部記者)。中国新聞社取締役論説担当。原爆被災白書運動を提唱。<資料年表:金井利博
16 1998 江口保 えぐちたもつ 69 「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」を主宰した長崎の被爆者。平和教育。<資料年表:江口保
16 2021 森脇勝義 もりわき・かつよし 86 1987年~非核の政府を求める広島の会常任世話人。<資料年表:森脇勝義
17 1992 ビーザー、ジェイコブ Jacob Beser 71 広島・長崎両市への原爆投下機の唯一の搭乗員。Lt. Jacob Beser, radar countermeasure officer
18 1983 ルイス、ロバート・アルビン るいすRobert A. Lewis 65 広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」号の副操縦士。Capt. Robert A. Lewis, co-pilot
18 2018 加藤剛 かとう・たけし 80 俳優。映画『ヒロシマ一九六六』に出演。<資料年表:加藤剛
19 2017 岡ヨシエ おか・よしえ 86 原爆投下第一報。『炎のなかに 原爆で逝った級友の25回忌によせて』(旧比治山高女第5期生の会、1969/08/06)<資料年表:岡ヨシエ
20 2002 吉川豊 きっかわ・ゆたか 86 吉川豊似島学園理事長「創立五十周年記念誌に寄せて」(『似島学園 50年のあゆみ』)
20 2017 シャル、ウィリアム しゃる、うぃりあむ 95 1949年ABCCに赴任、遺伝調査を実施。放射線影響研究所副理事長、米テキサス大学教授。〈資料年表:ウィリアム・シャール
21 1967 石井金一郎 いしい・きんいちろう 45 [52広島平和問題談話会](広島女子短期大学助教授)。[54世界平和集会世話人(発起)]。元広島大学教授。日本原水協専門委員。〈資料年表:石井金一郎
21 1987 河村虎太郎 かわむら・とらたろう 73 医師。核禁会議広島県民会議議長。在韓被爆者渡日治療広島委員会代表。<投稿
22 1993 市岡正憲 いちおか・まさのり 74 広島県被団協理事長・県原水協理事長。<資料年表:市岡正憲
23 2002 亀井正夫 かめいまさお 86 元国鉄再建監理委員会委員長。広島被爆者。<投稿
24 2008 大倉記代 おおくらきよ 67 「サダコ」・虹基金を設立。
24 2019 松本善明 まつもと・ぜんめい 93 日本共産党衆議院議員。1950年いわさきちひろ(画家)と結婚。藤原彰(宇吹の一橋大学内地研修時代の指導教官)の友人。
25 1999 原田東岷 はらだとうみん 87 外科医。「原爆乙女」の渡米治療に尽力。ワールド・フレンドシップ・センター初代理事長。広島市名誉市民。<投稿><資料年表:原田東岷
26 1965 佐伯好郎 さえき・よしろう 93 中国キリスト教・法制史学者。広島県生まれ。1947年から9年間廿日市町長。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。
26 1989 美空ひばり みそら・ひばり 歌手。第1回広島平和音楽祭に出演。1988年の15周年の同音楽祭にも参加し、原爆をテーマにした「一本の鉛筆」を歌唱。
26 2006 井出三千男 いで・みちお 65 広島市安佐北区出身。変貌する都市広島をフィルムに残した写真家。 <資料年表:井出三千男
27 1978 熊平源蔵 くまひら・げんぞう 97 金庫メーカーのクマヒラ創業者。『熊平源蔵伝 人とその』、『熊平源蔵追想録』、
28 2007 宮沢喜一 みやざわ・きいち 内閣総理大臣(第78代)『戦後政治の証言』(読売新聞社、1991.8.30)。広島県名誉県民。<資料年表:宮澤喜一
28 2008 佐々木久子 ささき・ひさこ 81 随筆家・評論家。『わたしの放浪記』。『広島県現代文学事典』(天瀬裕康・記)<投稿
28 2021 山田拓民 やまだ・ひろたみ 90 長崎原被災者協議会(被災協)の元事務局長。旧制長崎県立長崎中学校2年の時、長崎市鳴滝町の同校(爆心地から約3・3キロ)で被爆。
29 1979 桧山袖四郎 ひやま・そでしろう 80 『檜山袖四郎―広島県政に賭けた生と死』(刊行委員会、1981.6.20)<資料年表:桧山袖四郎
29 2020 荻野晃也 おぎの・こうや 80 元京都大講師、原子核工学、電磁波環境研究所主宰。京都大学美術研究会の先輩。
33 2020 高山等 たかやま・ひとし 89 『高山等資料』(広島県立文書館)
https://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000746monjogun_183
昭和20年8月6日から12月20日までに傷痍軍人広島療養所(現国立療養所広島病院)に入院した被爆者218名のカルテ。(平成14年6月記)
高山等氏が出版した『ヒロシマの追憶』『ヒロシマの追憶と今日』に掲載した手記や,平和のために被爆地の果たす役割について国内外から寄せられたメッセージの原文など。(平成15年12月記)

 

10月忌(一覧)

10月に亡くなった人々

没年 名前 よみ 享年 備考
01 2012 河合護郎 かわい・ごろう 84 広島平和文化センター元理事長。原爆投下の4日後の1945年8月10日、親族を捜すため爆心地付近に入り被爆。1950年に広島市職員。企画調整局長、民生局長などを歴任。1987年から5年間、広島平和文化センター理事長。退任後は市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の共同代表に就任。資料年表:河合護郎
02 2014 坂本義和 さかもと・よしかず 87 国際政治学者。
02 2015 犬丸義一 いぬまる・ぎいち 87 歴史研究者。1967年の歴史科学協議会の結成に参加、全国委員を務める。元長崎総合科学大学教授。資料年表:犬丸義一
02 2017 中村敏 なかむら・さとし 73 中国新聞記者、日本ジャーナリスト会議(JCJ)広島支部幹事、広島マスコミ9条の会運営委員など歴任。『中村敏遺稿集』。「中村敏さんを偲ぶ会」(20171118、会場:広島市文化交流会館)
02 2018 西川潤 にしかわ ・じゅん 82 1936年 9月22日 生。平和研究の草分け。学生時代から早大代表として原水爆禁止運動に参加。(大平隆彦「西川潤さんを悼む」『中国新聞』20181214)
03 2017 佐伯敏子 さえき・としこ 97 「被爆者の魂守り続け 97歳 佐伯敏子さん死去」(宮崎園子『朝日新聞20171005』)、「原爆供養塔通い40年 佐伯敏子さんを偲ぶ会」(宮崎園子『朝日新聞20171204』)
05 1972 細田民樹 ほそだ・たみき 作家。1982年生。『広島県大百科事典』(坂根俊英・記)『広島県現代文学事典』(石田浩子・記)。
05 2001 瀬長亀次郎 せなが・かめじろう 94  沖縄人民党委員長。衆議院議員として人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長。資料年表:瀬長亀次郎
07 2001 大牟田稔 おおむた・みのる 71 元中国新聞論説主幹、1992年、広島平和文化センター理事長。『広島県現代文学事典』(小宮山道夫・記)。資料年表:大牟田稔
08 1982 ノエルベーカー、フィリップ・J・ 92 英の平和運動家。1962年、初めて広島を訪問、ヒロシマ会議(1970年)、77年、81年にも来訪。[70ヒロシマ会議]
08 2000 高木仁三郎 たかぎ・じんざぶろう 62 市民団体「原子力資料情報室」代表。
09 1992 今堀誠二 いまほり・せいじ 77 広島大学名誉教授。前広島女子大学長。資料年表:今堀誠二
09 1994 飯沢匡 いいざわ・ただす 85 『アサヒグラフ 8月6日号 原爆被害の初公開』発行時の同誌編集長。
10 2009 新江義雄 しんえ・よしお  62 筆名:山ノ木竹志。広島合唱団。2009/1/24 山ノ木竹志とその仲間たちコンサート (県民文化センター)2010/1/31 山ノ木竹志をうたうコンサート (厚生年金会館)。資料年表:新江義雄
11 2003 田坂正利 たさか・まさとし 76  福島病院院長。1927年呉市生まれ。 <田坂正利
11 2017 荒井信一 あらい・しんいち 91 歴史学者。「日本の戦争責任資料センター」共同代表、「戦争と空爆問題研究会」・「韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議」などの代表を務める。『朝日新聞』2017.11.5  資料年表:荒井信一
12 2006 田端展 たばた・てん  79 小説家。本名:小久保三好。広島工業専門学校1年生の時、勤労動員先の中国配電大洲製作所(爆心地から3・6キロ)で被爆。享年79歳。『広島県現代文学事典』(寺島洋一・記)
13 2002 関屋綾子 せきや・あやこ 87 東京YWCA、日本YWCA会長、世界平和アピール七人委員会委員、原爆の図丸木美術館館長。関屋綾子
14 1953 徳田 球一 とくだ ・きゅういち 59 日本共産党(戦後)書記長(初代)。『原子爆弾と世界恐慌 時局と生活叢書1集』(19491225)徳田 球一
15 1980 栗原唯一 73 『栗原唯一追悼 平和憲法の光をかかげて』(栗原貞子、詩集刊行の会、1980.1.15)。元社会党県議.
15 1990 土門拳 どもん・けん 80 写真家。1958年に被爆者を写した写真集「ヒロシマ」を発表。『広島県現代文学事典』(田中裕之・記)。
15 1993 香川亀人 かがわ・かめと  97 広島県呉市。方面委員、民生委員。
15 2010 松尾雅嗣 まつお・まさつぐ  65 元広島大平和科学研究センター長。資料年表:松尾雅嗣
16 1990 原田一三 はらだ・いちぞう 86 広島県能美島出身。日中友好協会呉支部長。宇吹が小学生から中学生にかけ切手収集の趣味を持ったのは先生のおかげ。 <原田一三>
16 1990 三宅泰雄 みやけやすお 82 元東京教育大学教授。「第五福竜丸事件」の調査にあたり、原水禁運動に貢献。
18 1979 坂田修一 さかたしゅういち 71 [1954世界平和集会世話人(常任)](広島市助役)。広島市助役(1951年6月~55年4月)。広島平和文化センター理事長(初代、1967年~73年8月。
18 1982 重藤文夫 しげとう・ふみお 79 広島原爆病院の初代院長(被爆者)。[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。原爆病院長室で面談、資料を閲覧。<資料年表:重藤文夫
19 1995 丸木位里 まるき・いり 94 日本画家。「原爆の図」。『広島県現代文学事典』(西原大輔・記)資料年表:丸木位里
22 1922 青木圭介 あおき・けいすけ 77 1973広島女子大学文学部社会福祉学科、2001年4月京都橘女子大学文化政策学部。2010年4月1日学長(第10代)。
23 23 久保田卓三 くぼた・たくそう  県立三次中学校在学中、海軍第一空廠に勤労動員、1945年8月6日被爆。公認会計士。
24 2021 坪井直 つぼい ・すなお 96 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県原爆被害者団体協議会理事長。広島市名誉市民。資料年表:坪井直
25 1955 佐々木禎子 ささき・さだこ 12 広島市の中学生、白血病で死去。佐々木禎子 | ヒロシマ遺文 (hiroshima-ibun.com)
25 2011 安倍一成 あべ・ かずなり 84 山口県原爆被爆者支援センター「ゆだ苑」理事長(1993年〜2008年)。1986年中国文化賞受賞。
26 1965 三村剛昂 みむら・よしたか 67 1898年3月広島県竹原生。広島文理科大学教授(物理学)の時被爆。
26 2017 神田三亀男 かんだ・みきお 95 民俗学者、歌人。『広島県現代文学事典』(綾目広自・記)資料年表:神田三亀男
 27  2003 石田明  いしだ・あきら  75  全国原爆被爆教職員の会会長、広島県原水禁代表委員、社民党同県連顧問、元同県議。17歳の時、広島原爆の爆心から約1キロの広島市中区八丁堀の路面電車の中で被爆。教員、広島県教組委員長を経て83年から県議となり、今年4月に引退。原爆白内障の認定申請却下を不当とした「石田原爆訴訟」を広島地裁に起こし、76年7月に全面勝訴。自社さ連立政権下、94年の社会党(現社民党)の基本方針転換には同県本部を挙げて反対。資料年表:石田明
29 2023 中塚明 なかつか・あきら 94 元奈良女子大学文学部教授。19290917生。大学(京都大学文学部史学科国史学専攻)の先輩。資料年表:中塚明
30 1997 栗栖洋 くりす・ひろし  67 広島県被団協、常任理事、事務局次長、副理事長を歴任。『わたしの心が癒されるときは 栗栖洋遺稿・追悼文集』(広島県原爆被害者団体協議会被爆者相談所、1998/10/30)資料年表:栗栖洋
30 2016 宗藤尚三 むねとう・しょうそう 88 広島県府中町・こばと幼稚園園長。被爆牧師。
31 2014 本島等 もとしま・ひとし 92 元長崎市長。
** 2018 山下義宣 やました・よしのり 創価学会青年部広島県反戦出版委員会委員長。胎内被爆者。宇吹の高校時代の同級生。 宇吹メモ:1990410創価学会小西・山下来所。山下義宣

 

7月忌一覧

7月に亡くなった人々

没年 名前 よみ 享年 備考
01 1988 加納竜一 かのう・りゅういち 84 元元日本映画社専務。被爆直後の広島・長崎で記録映画を製作。<資料年表:加納竜一
01 2000 宇都宮徳馬 うつのみや・とくま 93 政治家・実業家。月刊誌「軍縮問題資料」創刊。<資料年表:宇都宮徳馬
02 1982 高橋幸八郎 たかはし・こうはちろう 70 日本学術会議副会長[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]
02 1993 中野清一 なかのせ・いいち 88 広島大学名誉教授。元立命館大学教授。「あゆみグループ」を組織し、原爆孤児を支援。<資料年表:中野清一
03 2012 古浦千穂子 こうら・ちほこ 81 小説家、広島文学資料保全の会代表。『広島県現代文学事典』(執筆:梅原勝己)<資料年表:古浦千穂子
04 1981 木村功 きむら・いさお  58 新劇俳優。『広島県現代文学事典』(九内悠水子・記)19230622生。<資料年表:木村功
06 1990 杉本春生 すぎもと・はるお 詩人、文芸評論家。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)<資料年表:杉本春生
06 1992 大原三八雄 おおはらみやお 87 「世界原爆詩集」(角川文庫)を編集。広島女子大学・広島工業大学名誉教授。『広島県現代文学事典』(福谷昭二・記)<資料年表:大原三八雄
06 2011 松浦総三 まつうら・そうぞう 96 評論家。19141125生。
06 2013 山口仙二 やまぐちち・ 82 長崎の被爆者。「藤居平一聞き書き」作業の中に登場。藤居の紹介で面談。<山口仙二
07 1976 板倉静夫 いたくら・しずお 50 レッド・パージで三菱広島造船の首切りにあう。機関紙活動、労組書記の活動などを続けながら、1957年の第3回世界大会以来、広島原水協、広島原水禁の事務局次長を歴任。19250103広島市向洋本町生まれ。
07 1990 愛宮真備 えのみやまきび 92 フーゴ・ラッサール=ドイツ生まれのイエズス会員。広島市の幟町天主公教会(幟町教会)で被爆。世界平和記念聖堂を建設することに尽力
07 2022 朝尾直弘 あさお ・なおひろ 90 1931年12月17日、大阪府吹田市生。京都大学時代の教官。一橋大学内地留学にあたり藤原彰教授を紹介していただく。
08 1979 朝永 振一郎 ともなが ・しんいちろう 73 物理学者。ノーベル物理学賞(1965年)。生誕1906年3月31日<朝永 振一郎
08 1992 木村毅一 きむら・きいち 88 京都大学名誉教授。京大理学部の助教授時代の1945年8月、調査団員として広島入り。
08 1995 河村盛明 かわむら・せいめい 72 『河村盛明評論集 傷痕よりの出発』(河村盛明、六法出版社、1992.5.30)<河村盛明
09 1950 長崎五郎 ながさき・ごろう 67 『長崎五郎を偲ぶ』(長崎孝、19621225)。<長崎五郎を偲ぶ
09 1981 田中好一 たなか・こういち 87 [50ヒロシマ・ピース・センター理事]。原爆ドーム保存を推進。<資料年表:田中好一
09 2012 山田五十鈴 やまだ・いすず 95 女優。本名:美津<みつ>。映画「生きていてよかった」のナレーションを「山田美津子」名義で担当。
10 1993 井伏鱒二 いぶせ・ますじ 95 作家。本名:井伏 滿壽二。小説『黒い雨』の作者。『広島県現代文学事典』(前田貞昭・記)
12 2011 沼田鈴子 ぬまた・すずこ 87 22歳の時、勤務先の旧広島逓信局(中区東白島町)で被爆。崩壊した建物の下敷きになり左足を切断。映画「にんげんをかえせ」(1982年)に、被写体として登場。<資料年表:沼田鈴子
13 1979 小倉馨 おぐら・かおる 58 広島平和文化センター事務局長(1977年~)。[69原爆被災資料広島研究会]。原爆資料館館長。『広島県史原爆資料版』所収の英文資料の翻訳でお世話になる。<資料年表:小倉馨
13 2005 橋口収 はしぐち・ おさむ 大蔵官僚。19210908生まれ。広島銀行頭取(198406)、広島商工会議所会頭(1988~99)を歴任。著書『「近代」の座標軸を求めて― 文明・文化そぞろある記』(金融財政事情研究会、19970716)
13 2011 末宗明登 すえむね 84 1988年から2005年まで広島県原爆被害者団体協議会<金子一士理事長>事務局長。「広島被爆者団体連絡会議」の事務局長も経験。<資料年表:末宗明登
14 1976 山崎与三郎 やまさき・よさぶろう 86 [1969原爆被災資料広島研究会]。<資料年表:山崎与三郎
14 1994 ロベルト・ユンク  ゆんく 『広島県現代文学事典』(川口隆行・記)。『戦後ヒロシマの記録と記憶 小倉馨のR・ユンク宛書簡 上・下』(若尾祐司・小倉桂子編、名古屋大学出版会、2018年7月10日)<資料年表:ロベルト・ユンク
14 2008 田中隆荘 たなか・りゅうそう 82 生物学者。広島大学学長・広島市立大学初代学長。<田中隆荘
14 2015 竹前栄治 たけまえ・えいじ 84 占領史研究家。出版社の叢書執筆者の会合で同席。介護犬同伴だったことに強い印象。<資料年表:竹前栄治
15 2004 チャールズ・スウィーニー 84 長崎原爆投下爆撃機ボックスカーの機長(少佐、25歳)。 『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』(チャールズ・W・スウィーニー著 黒田剛訳、原書房、2000/07/31)
17 1982 江上不二夫 えがみ・ふじお 71 生化学者。元日本学術会議会長[1977被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[1982推進連絡会議呼びかけ人]。
17 1999 北西英子 きたにし・ひでこ 70 「広島女性史研究会」代表。論文「近・現代広島女性の歩み」(『広島市公文書館紀要 第14号』)<北西英子
18 1991 坪田正夫 つぼた・まさお 67 大阪市生野区原爆被害者の会会長。句画集「かの一ぱつの原爆に」(新樹社)。<坪田正夫
18 2004 林茂夫 はやし・しげお 75 本名:塩伸一。軍事評論家。京大原爆展の関係者。追悼論文集『無防備地域運動の源流―林茂夫が残したもの』(日本評論社、20060720)<林茂夫
18 2017 日野原重明 ひのはら・しげあき 105 聖路加国際病院理事長。<資料年表:日野原重明
18 2019 天野之弥 あまの・ゆきや 72 外交官。国際原子力機関(IAEA)事務局長。
19 1977 大木惇夫 おおき・あつお 82 詩人。広島市天満町生まれ。本名・軍一。広島商業学校卒業。1941年、文化部隊宣伝班の一員として、ジャワ作戦に配属。『広島県現代文学事典』(石田浩子・記)。<資料年表:大木惇夫
19 2011 原田芳雄 はらだ・よしお 71 俳優。映画『父と暮らせば』(原作:井上ひさし、監督:黒木和雄)に父役で出演。2004年公開。
20 2008 佐々木寅夫 ささき・とらお 70 洋画家、日展会員。1938年広島県山県郡豊平町生まれ。『ひろしまインターネット美術館
20 2019 岡本三夫 おかもと・みつお 86 平和学者。1976年、四国学院大学で初の平和学講座を開講。1992年に第9条の会ヒロシマを結成。<資料年表:岡本三夫
21 1992 徐立伝 じょ・りつでん 70 広島刑務所内で被爆した中国人
22 2021 那須正幹 なす・まさもと 79 児童文学作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)。
24 1991 志水清 しみず・きよし  84 元広島大学原医研所長。<資料年表:志水清
24 2011 増岡博之 ますおか・ ひろゆき 88 67年衆院選(旧広島2区)に自民党から出馬、初当選、当選8回。この間、厚相、党国対委員長などを歴任。
26 1980 今中次麿 いまなか・つぎまろ 87 [52広島平和問題談話会](広島大学政経学部教授)。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島大学名誉教授。世界平和評議会評議員、第1回原水爆禁止世界大会議長、広島平和教育研究所議長。『広島県大百科事典』(中村義知・記)。<今中次麿 生涯と回想
26 2019 山本治朗 やまもと・じろう 70 中国新聞社社主・会長。『中国新聞百年史』(中国新聞社史編さん室、1992/12/15)
28 2010 増岡敏和 ますおかとしかず 82 8月6日(1945年)には海軍の予科練(飛行機練習生)で松山航空隊に入隊、8月6日頃は軍隊疎開で愛媛県の南部の深浦町にいた。敗戦の数日以内に広島市に帰る。祖母、母、長妹(原爆死)、次妹被爆弟たちは学童疎開中。<資料年表:増岡敏和
 30  1980  山下 義信  やました・ぎしん 95  元参院議員。1945年に原爆孤児を養育する「広島戦災児育成所」を創設、参院社労委員として原爆医療法制定に尽力。<資料年表:山下義信
31 2001 小寺 初世子 こでら・さよこ  69 大阪国際大法政経学部教授、広島県立広島女子大名誉教授、国際法。論文:「朝鮮人被爆者の法的地位」(『広島女子大学文学部紀要 第7号』1972)<資料年表:小寺初世子
?? 2011 村上経行 むらかみ・つねゆき 93 『平和に生きる』(村上経行後援会、1972.10.1)、『広島のねがいを国政へ 活躍する、村上経行さん』(村上経経行後援会、1975.12.25)、<村上経行