「1956年」カテゴリーアーカイブ

平和をきずく児童・生徒の会

平和をきずく児童・生徒の会  1956年1月11日準備会  28日結成総会

平和をきずく児童生徒の会関係資料

 資料名 年月日  メモ
広島平和をきずく児童・生徒の会日記 195703 1955年10月-1957年3月
 平和をきずく児童生徒の会会則 19560201 効力発生
 私たちの手で”原爆の子の像”を  中村正司(基町2年)(平和をきずく児童・生徒の会(広島平和記念館内)委員長)
「原爆の子の像」建設趣意書 19560301
子どもの手で作る「原爆の子の像」に御支援を請う! 19560310 ビラ(謄写印刷)
 私たちの手で”原爆の子の像”を 19560310  中村正司(平和をきずく児童・生徒の会(広島平和記念館内)委員長)
平和 8月6日特集号 19570805 (広島平和をきずく児童・生徒の会機関紙)
”千羽鶴”製作懇談会ご案内 19571101 ”千羽鶴”製作現地本部⇒
千羽鶴・シナリオ第一稿 19571210 共同映画社・広島平和を築く児童生徒の会編
千羽鶴製作ニュース 195804 共同映画社、広島平和をきずく児童生徒の会
千羽鶴製作ニュースNo.1 1958 共同映画社、広島平和をきずく児童生徒の会
「千羽鶴」撮影予定表 195804
(出演現地生徒へのご配慮方要請) 195804 ”千羽鶴”製作現地本部⇒中学校長
 1958年5月5日完成除幕報告 『原爆の子』の像建立募金名簿  広島平和をきずく児童・生徒の会

 

「原爆の子の像」建設趣意書

「原爆の子の像」建設趣意書
1956(昭和31)年3月1日

私たちの手で”原爆の子の像”を
禎子さんはしんどいめをして死んでゆきました。小学校四年生の義登君もそうでした。
原爆の時、禎子さんはまだ二つだった。お母さんにおわれて必死で楠木町の方へ逃げ、ほいでいのちが助かった。それなのに去年のちょうどいまごろ、ぽっくりと原爆症がおき、お医者にかかりました。病名は亜急性リンパ腺白血病というむずかしい名ですが、息がきれるまで九ヶ月間、それはとても苦しいとう病生活でした。
私たちお友だちで、日赤病院へ見舞いに行った時、禎子さんはベッドに寝たまま、薬の紙で千羽鶴を折っていました。「こが-に鶴う折ってどうするん。」と言ったら、「ほいでも、早うなおりたいけ・・・」と、うらめしそうにこたえた禎子さんの顔が、まだ忘れられません。
運動の選手だった禎子さんは、早うなおって、又一番をとりたかったにちがいありません。
千羽鶴はみなで六四三羽折られていました。私たちはそれを一つずつ形見にもらい、あとはみんな私たちの手で、棺の中の禎子さんのお顔や胸におさめてあげ、お別れをしました。
義登君はクリスマスから悪くなり、この一月二十四日には、もうなくなりました。何を問われても、コックリうなずいて寝かされていた義登君。約束の原爆の映画にも、もうとってもらえないし、つまらないなあ。
禎子さんの遺品となった出しかけの手紙があります。
「私の手にゆけつされるときはたいへんいたかった。医者さんがいわれるには、病気をしたときは、少しはいたいことをしないとなおらないといわれました。いたいめをしてでもよいから、私は早くよくなって春休みにはおねえちゃんの所にいきたい」
これをホーム・ルームで読んだとき、島本さんが、「のう、みんなで原爆の子の像を作ろう。」と言いました。「ほいでも、えっとお金がかかるぞ」と洋吉君が口を出し、みんな困った。「そりゃ、お互が節約して出すんよの」と、島本さんが言って、みんなこれに賛成しました。
それからず-りきて、一九五六年一月二十八日でした。広島市内の小学校から高等学校までのぜんぶの児童・生徒のお友達たちの代表が集まり、像をたてる決議をしました。
さいしょの原爆が広島に落とされたとき、私たちはまだこまかった。かすかにしか覚えていません。でも、あの日、町の建物をのけたり、工場のきんろう作業に出されていたお兄さんや、おねえさんは、二十四万の爆死者とともになくなられた。二度と私たちのように楽しい勉強も、カープの試合も見られないから可哀そうです。
紘治君のお母さんも、仕立物をぬいながら、今でもよく泣いています。
この二月のはじめ、市の原爆しょうがい協議会が、私たちの中には、まだ九七〇〇人の爆弾にあったお友達がいると発表されたので、なんだかいびせくなります。
今年も原爆の病気が出て、広島市内でもつぎつぎと、大人の方がなくなっています。
禎子さんや義登君のように、カスリきず一つうけないで、お勉強をしてきたのに、いまになって、しかも自分のせいでない病気のために落さねばならない。ほんとうにこんなことがあってよいでしょうか。
戦争で傷つけられたのは、私たち広島の市民だけではありません。全国の児童・生徒の皆さんも、それぞれぎせいを受けられて、いまもきっと、情けないめをしていられることでしょう。あの時焼け死んだ一万名のお兄さんや、おねえさんたちは、みんな死にたくなかった。どんなにつらかったでしょう。今でも夜がくると、川の橋の下で、その泣き声が聞えるような気がします。
それに、死んでも禎子さんにはまだ仏だんがない、ナメクジ住宅のバラックのお家はすうすうして寒い板の打ちつけです。
全国のお友達の皆さん!
私たちは私たちの手で、これらたくさんの学徒や、お友だちの霊を、おまつりしてあげたいのです。お小づかいをしまつして、祈りのこもった原爆の子の像を作りたいのです。そしてお互に励まし合い、毎日一心に基金を集めています。
しかし、次の計画のように、心のこもった意義のある像を建てるには、えっともとでがかかり、大へん困っています。どうかこのことを知って、げきれいし、できたら、えんじょしていただけないでしょうか。私たちこころからのお願いです。
一九五六年三月一日
広島市材木町 広島平和記念館内 平和をきずく児童・生徒の会
委員長 中村正司

”原爆の子の像”を建てる計画書
1.事業者 広島市公私立小・中・高校の児童・生徒会
2.目的 私たちは戦争の犠牲となった亡き児童・生徒の霊を心からとむらい、傷ついた友達をなぐさめるために”原爆の子の像”を建て、ふたたび戦争をくり返すことのない、平和な住みよい世界を打ちたてるべく、努力することを誓います。
3.規模と制作 真にこの目的にかなって、意義がこもり、つねに私たちや人々の追憶と平和へのしるべとなり、後世に遺る規模のものを、この道のすぐれた彫刻家に依頼して制作してもらう。
4.建てる場所 広島市中島平和記念公園内
5.完成予定 募金額、制作費等と関係があり、まだとり決めていないが、見通しがつき次第、ただちに着手し、なるべく早く完成させたい。そして除幕式には御支援下さったお友達の地方代表をもお招きしたい。
6.募金対象と期限
イ.広島市内各小・中・高校児童・生徒
ロ.全国各学校のお友達
ハ.こころざしある一般の方々
とし第1期の募金〆切期日を昭和31年8月6日とする。
7.建てる基金を送って下さるには
1.一番確実な御送金は、この趣意書につけている振替用紙をおつかい下さい。
2.用紙のない場合も、同じく郵便局を御利用下さって、口座番号、広島20番広島銀行本店宛にお送り願います。
3.右の1.2.どちらの場合も、たいへん御面倒ですが、同封の葉書にて次の事務所宛に御送金下さった由を御一報下さい。
8.募金の扱い及び事務所
広島市材木町 広島平和記念館内  平和をきずく児童・生徒の会

平和をきずく児童生徒の会会則

準備会 昭和31年1月11日 結成総会 昭和31年1月28日

平和をきずく児童生徒の会会則

第1章 総則

(事務所)第4条 この会の事務所を広島市元町一番地、広島市児童文化会館内に置く。

第2章 役員

 委員長  中村正司(基町高)
 副 長  福田晴之(幟町中)
 同      (青崎小)

(顧問)(小学校)田中* (中学校)田中元逸 (高等学校)正月定夫 (市教委総務課長)森岡幹造

広島の教育関係団体による「原爆の子の像」建設への協力依頼

1956年3月10日

子どもの手で作る「原爆の子の像」に御支援を請う!
今般広島市公私立小・中・高校の児童・生徒会が挙って企画・決議しました「原爆の子の像」の建立運動は、大人や各種団体がタッチしない、全く児童・生徒の悲願にもとづく自主的な運動でありまして、これまで広島に於ても類例を見ない聖なる実践活動であります。
趣意書にも、この目的が書かれていますが、幾多の原爆戦災犠牲学徒の霊を慰めたい至情と共に、平和への幼きものの訴えの証(あかし)として、事、極めて有意義な事業と思います。然もこうした自らの営みを通して全国の各児童・生徒、更には世界の子供が「平和の友垣を作る」運動にもなることであり、私共広島県各種教育団体としても満腔の側面的支援を惜しまぬところであります。
本趣意書は追而、児童・生徒の手で全国の小・中・高校のお友達に発送される予定でありますが、貴***教職員組合におかれても、関係各学校の教職員・児童・生徒に御伝達下さり、絶大なる御支援と御協力を賜りますよう御依頼申し上げます。 敬白
昭和31年3月10日
広島県教育委員会協議会 広島県PTA連合会 広島県小学校長連合会 広島県中学校教育会 広島県教職員組合

教職員組合殿

平和をきずく児童生徒の会

平和をきずく児童生徒の会  1956年1月28日結成

広島平和をきずく児童・生徒の会日記
(1955年10月-1957年3月)

年月日 事項
19551025 佐々木禎子さん原爆症でたおれた。
19551110 幟町中の級友、全国中学校長大会で平和を訴え、「原爆の子の像」を作るビラをお願いした。
19551225 禎子さんの級友が「こけしの会」をつくる。
19560128 広島市小中高校が一つになり「平和をきずく児童生徒の会」を結成、宣言文を読む。会則を決め役員を選挙する。
19560325 「原爆の子の像」を建てる全国運動をおこし、趣意書を全国のお友達にくばる。
19560425 会の委員、街頭募金第1回を行う。
19560701 イギリス・ハンガリヤ等外国からも激励文が来はじめる。
19560806 会の代表、原水禁広島大会へ参加、世界の子供が平和への手をつなぐ運動をおこす。
19560809 委員長中村君、長崎世界大会に出席、外国代表に会のメッセージを手渡した。
19561010 像の制作者選考にとりかかり、大人の美術家に相談する。
19561015 像の制作者、東京芸大教授菊池一雄先生に決定。
19561020 アメリカ文化センター・フツイ館長、ノーマン・カズンズ氏をたずね、アメリカの友達とも文通することをお願いした。
19561128 菊池先生来広、制作計画をたてられる。
19561231 像の募金を締切る。
19570227 総会を開き会計報告をし、反省会をする。
19570310 像の模型出来上り菊池先生来広。

出典:『平和』第5号(広島平和をきずく児童・生徒の会、1957年8月5日)

参議院社会労働委員の現地調査

参議院社会労働委員の現地調査

1.視察委員:参議院議員 谷口弥三郎、同 山下義信

2.視察日程概況

1月 時刻 概況
6日 14:20 広島県庁を訪問し、地自宅において副知事、民生部長、衛生部長、関係各課長から原爆傷害者対策の概況説明を聴取した後意見を交換し、又県側の陳情を聴いた。
15:15 県知事応接室
15:30 市役所
16 市役所会議室
7日 10 市役所
11 ABCC(原爆影響研究所)ロバート・エッチ・ホームズ所長
13 日赤広島病院
14

3.調査項目

<以下未入力>

原爆障害者救援事業広島委員会

財団法人広島原爆障害者対策協議会原爆障害者救援事業広島委員会

1.名称  原爆障害者救援事業広島委員会

2.目的  ノーマン・カズンズ氏等国外有志の好意による原爆障害者救援事業の推進を図る

3.委員

   原爆障害者救援事業広島委員会委員名簿(順序不同)
 顧問  東京日赤中央病院長  都築正男
 日米協会長  小松隆
 日本タイムス社長  東ケ埼潔
 委員  広島市長原医協会長  渡辺忠雄
 日本医師会代議員原対協副会長  松坂義正
 広島県医師会長原対協副会長  正岡旭
 広島大学長  森戸辰男
 広島県副知事  河野義信
 広島商工会議所会頭  白井市郎
 広島市医師会長  今川卓治
 広島市社会福祉協議会  鈴川貫一
 広島市議会議長  柴田重*
 広島市助役  沖野悟
 広島原爆犠牲者遺族援護促進会委員長  任都栗一興
 広島県医師会理事  原田東岷
 広島県医師会理事 大内五良
財団法人広島ピースセンター 谷本清
広島市厚生局長 向井一貫

編年資料:ヒロシマ-1956年

編年資料:ヒロシマ-1956年

月日 資料名 備考
0122 原爆被害者団体連絡協議会準備会声明書 1956.1.22
0128 原水爆禁止国会請願デー実施要項 1956年1月28日
01 原爆犠牲者年金等要求について原爆死没者援護に関する陳情経過
[参議院社会労働委員会調査室『広島市にける原爆障害者対策に関する調査概要』  1956.1]
0204 広島市原爆被害者連絡協議会第2回世話人会 1956.2.4
0222 原水爆被害者救援署名運動・国民募金へのお願い  1956年2月22日
0225 被害者救援委員会のあゆみ
0228 広島県被害者大会を成功させるために 1956年2月28日
0301 広島県被害者大会の御案内  1956.3.1
0301 広島県被害者大会への協力お願いについて 1956.3.1
0317 全電通広島支部の第2回原爆犠牲者遺家族臨時大会 1956.3.17
0318 広島県被害者大会式次 1956.3.18
0318 藤居メモ 1956.3.18
0318 広島県被害者大会宣言 1956.3.18
0318 広島県被害者大会決議 1956.3.18
03 国会請願代表者名簿
0320 国会請願書 1956.3.20
0324 広島県議会決議「原水爆実験禁止要望決議」 1956年3月24日
0325 下江武介国会請願報告 1956.3.25
03末 原爆障害者調査票(原対協 昭和31年3月末現在) 652-02
03 藤居メモ(1956年3月-5月)
0329 広島県賀茂地区原爆被害者協議大会 1956年3月29日
03 藤居メモ(1956年3月-5月)
03 広島市職員組合による原爆被爆者対策要請 1956.3
0408 広島県原爆被害者全県地区代表者会議 1956年4月8日
0409 原爆被害者福祉センター(会館)の設立について 1956.4.9
0414 原爆都市青年協議会分科会記録 1956.4.14
0419 8月月6日を祈りの日にする呼びかけ 1956.4.19.
0427 原爆被害者連絡協議会世話人会(1) 1956.4.27
0427 原爆被害者連絡協議会世話人会(2) 1956.4.27
05 シナリオ・生きていてよかった[抄]
0504 原爆被害者連絡協議会第1回準備会 1956.5.4
0506 原爆被害者5団体代表の共同行動 1956.5.6
0513 米国市民への訴え 1959年5月13日
05 アメリカ国民に対するお礼と訴え 1956.5
05 米国市民へのお礼 1959年5月
0521 中国人民へのお礼 1956.5.21
0521 広島県原爆被害者団体協議会結成総会開催通知 1956.5.21
0527 広島県原爆被害者団体協議会結成総会・経過報告 1956.5.27
0527 広島県原爆被害者団体協議会規約案 1956.5.27
0527 広島県原爆被害者団体協議会結成総会・今後の運動方針 1956.5.27
0527 日本原水爆被害者連合(仮称)の設立について 1956.5.27
0527 広島県原爆被害者団体協議会を組織する方法 1956.5.27
05 広島県原爆被害者団体協議会の陳情
0708 久保辰雄の原爆記録 1956.7.8
0806 広島市平和宣言
0806 原水爆禁止世界大会共同デスク『第二回原水爆禁止世界大会議事速報』
0806 8・6学生平和会議・大会宣言
0807 広島県原爆被害者大会宣言 1956.8.7
0806 原水爆禁止広島大会議事録 1956年8月
08 広島機関紙クラブ編『くずれぬ平和を-8・6広島大会、被害者大会議事録』(原水爆禁止広島大会実行委員会、1956年)
0807 原水爆禁止世界大会共同デスク編『第二回原水爆禁止世界大会議事速報(第二日)』(第二回原水爆禁止世界大会実行委員会)
0808 原水爆禁止世界大会共同デスク編『第二回原水爆禁止世界大会議事速報(第三日)』(第二回原水爆禁止世界大会実行委員会)
0809 長崎市平和宣言
0810 日本原水爆被害者団体協議会結成大会宣言 1956.8.10
0810 日本原水爆被害者団体協議会結成大会決議 1956.8.10
0810 日本原水爆被害者団体協議会規約 1956.8.10
0810 日本原水爆被害者団体協議会役員名簿 1956.8.10
08 第2回原爆禁止世界大会(1956年)決議「原水爆被害に関する科学者の国際会議開催を要請する決議-第5決議-」
08 第2回原爆禁止世界大会(1956年)決議「放射線症の根治と予防のための国際的研究機関の設置に関する決議-第6決議-」
0816 原爆症患者援護法案要綱 1956.8.16(原爆障害者援護法案要綱と訂正になりました) 652-02
0820 うたごえ新聞 1956.8.20
0824 和歌山県原爆被害者の会結成準備委員会発足について 1956.8.24
0830 日本原水爆被害者団体協議会活動報告 1956.8.30(日本被害者協第1号) 652-02
08 原爆被害者援護法案要綱 1956.8 652-02
0912 日本原水爆被害者団体協議会第1回・第2回代表者及び理事会の開催について 1956.9.12(日本被害者協第2号) 652-02
0913 動き―19560913 日本原水爆被害者団体協議会 652-02
1002 原爆被災者の援護立法についての発議書 1956.10.2
1008 原水爆禁止全国市議会議長大会「原水爆被爆生存者救援に関する法制化についての要望決議」 1956.10.8
10 高校生による原爆資料紹介の会(仮称) 活動報告 1956.10
1105 広島市・長崎市「原爆障害者援護法制定に関する陳情書」 1956.11.5
1119 日本原水爆被害者団体協議会経過報告 1956.11.19
11 第2回国会請願へのよびかけ 1956.11
1203 第2回国会請願デー出席者名簿 1956.12.3
1212 原爆障害者の治療に関する決議 1956.12.12(『第25回国会衆議院会議録』第17号)
1217 兵庫県原爆被害者の会結成並に被災者相談所設置報告 1956.12.17
12 日本原水爆被害者団体協議会経過報告 1956.12
原子爆弾被爆者の医療等に関する法律案に関する参考資料 1956

 

広島県原爆被害者団体協議会

広島県原爆被害者団体協議会
1956年5月27日設立

1555年8月、広島で開催された原水爆禁止世界大会直後、広島市内には,原爆乙女の会(シオン会)・原爆被害者の会・原爆の子友の会の先駆的3組織のほかに,広島子供を守る会,未亡人会(原爆被害者グループ),大会直前に原爆被害者の会から別れた八・六友の会と原爆被害者の会本部,および大会の期間中に組織された電気通信関係原爆犠牲者遺族会の8組織が存在した。世界大会直後から,これらの被害者組織の一本化が試みられたが,性格の異なる諸組織の統合には,多くの困難が存在した。10数回の会合ののち,1956年1月22日に広島市原爆被害者連絡協議会世話人会の発足にこぎつけた。

広島県原爆被害者大会(1956年3月18日)・国会請願(3月20日)の開催が,広島における既存の原爆被害者組織の大同団結と新たな被害者組織づくりの重要な契機となった。原爆被害者大会実行委員会は,1956年4月8日,事務局に県内各地から30人が参加して代表者会議を開催,次のような決議を行った。

県内の原爆被害者の組織は,被害者大会までに,大竹市(1955年8月6日結成)・甲奴郡(9月1日)・芦品郡(10月11日)・深安郡・神石郡・三次地区(1956年3月15日)などに結成されており,大会後の3月29日には,賀茂郡原爆被害者の会が結成された。

原爆被害者大会実行委員会は,4月8日につづいて5月13日にも代表者会議を開催,5月21日には,事務局長藤居平一の名で,5月27日の広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協と略称)結成総会の案内状を発送した。広島YMCA講堂で開かれた結成総会には,県内の被害者団体代表120人のほか,長崎8人,愛媛1人の代表が参加した。総会は,経過報告,規約案の審議ののち,次のような運動方針を決定した。

総会は,藤居平一(原爆被害者大会実行委員会事務局長・広島原水協事務局次長)・井上昇(広島県東部被害者連絡協議会)・日野義隆(大竹市被害者同志会)の3人を代表委員に,また,藤居を事務局長に選出した。

8・6学生平和会議(1956年8月5~7日)

8・6学生平和会議

主催:広島大学学生自治会

1956年8月5~7日

第1日(5日)

午前9時半~午後5時半 広島児童文化会館

広島大学・広島女子短大、北海道・東北・東京・京都・四国・九州など全国80の大学・高校から約500人が参加。

開会宣言=棗田金治(広島大学文学部)

実行委員長あいさつ=児玉健次(広島大学文学部)

「原爆許すまじ」全員合唱

平和問題シンポジューム

講演

長田新日本教育学会会長

佐久間澄広島大学教授

柳田謙十郎戦没学生記念会理事長

今中次麿広島大学教授

重藤文夫広島赤十字病院院長

討論

午後6時~

高校生代表者会議

映画会=原爆記録映画「生きていてよかった」観賞

レセプション 於紙屋町ガスビル

第2日(6日)

午前8時~ 広島市平和記念式典参列

午前10時~ 修道高等学校講堂

原爆被害者実情報告会=吉川清・原成子・温品道義など7名。

午後1時~

大学部会(於広島市平和記念館)

北海道・東北・東京・京都・四国・九州などから約300名参加。

高校部会(修道高等学校)

四国・鳥取などからの参加者を含め100名参加。

代表30名による原爆症患者の慰問=日赤・市民病院・県病院

午後6時~

被害者を囲む会(学生会館)

柳田謙十郎氏を囲む高校座談会(教育会館)

女子学生懇談会(東保健所ホール)

第3日(7日)

午前9時~午後4時 広島市中央公民館

総会

大会宣言

人類の上に初めての原爆が投下されて十一周年目に世界の平和運動とはっきりとした連帯の下に進められた、始めての日本学生の平和会議が開催されました。この会議に集った学生代表は平和を望むすべての人々、とりわけ日本の学生の平和への希望と期待とに応え、原子戦争を企だてている力をうち砕くためにいかにすべきかについて、自由かつ真剣に討議しました。私達は平和をめぐる世界情勢を検討することを通じて、社会体制の相違にもかゝわらず両体制の共存は可能であり、戦争は不可避ではないという点ですべての参加者の意見の一致を見、平和についての強い確信をうるにいたりました。

私達はこの様な期待のもとに開催される第二回原爆禁止世界大会に心からの支持と援助を送ります。

第一回原爆禁止世界大会以后の此の一年間に国際緊張を緩和し、冷たい戦争を中止させる動きは増々活発になり、現在東西陣営の間での軍縮について、歩みよりが次々と行なわれております。軍備の増大は今迄諸国民に対して貧困と不安をもたらしただけでした。軍拡競争はたヾ戦争に向かって進むにすぎません。最大の軍備である原水爆兵器が出現した現在、戦争の危険ははかりしれない程大きなものとなり、将来もし原水爆戦争がおこるならば世界中がヒロシマ、ナガサキ、ビキニとなって人類は死滅してしまうでしょう。

しかし長い間の国際緊張に代って第一回原水爆禁止世界大会以後のこの一年間、国際緊張を緩和し冷たい戦争を中止させる動きはますます活発となり現在大国の間での軍縮についての歩みよりがつぎつぎと行なわれております。和解のための共通の努力があれば大国の間にある色々な障害は必ず解決されるでしょう。この見通しを実現するのは私達の努力いかんにかゝっております。けれどもこの様な世界の国際緊張緩和の動きに逆行する動きが私達の祖国日本に於て依然続行されております。沖繩問顧にみられる様に、日本がアジアにおける国際緊張の増大の焦点となっております。原水爆戦争の基地は拡大され軍国主義復活の傾向が明らかになり、世界の平和に対する主要な障害となっております。私達は国際緊張増大に反対する立場からその様な平和の障害を取り除く為に活動を続けて行かなくてはなりません。

この様な国際緊張緩和の運動に於て、成功をおさめることこそ原爆被害者の私達の期待にこたえる第一の道であります。この道にそって被害者の国家保障を勝ち取る運動を強力に押し進めて行かればなりません。平和はすべての学生の中心的課題であり、学問と学園を守り発展させることは平和なくしてはありません。

平和運動を正しく展開して行くことによって私達は日本の若き知性と良心と云う名に恥じない立派な学生であることが出来ます。私達は第二回原水爆禁止世界大会を全面的に支持し大会の成果を日本の国民とりわけ学生のものとする為に全カをかたむけるでありましょう。私達は第二回世界大会の成果を全世界のすべての学生の運動に発展させて行くことによって日本の学生の平和への名誉ある義務を果して行くでしょう。

本日の会議によってうち立てられた平和運動の正しい方向によって、私達日本の学生は原水爆が禁止され、その貯蔵が廃棄され全般的な軍縮が達成されて人類の上に恒久平和の確固とした保証が行なわれる日迄広く全世界の願いを同じくする人々としっかりと手を携えて前進して行くでしょう。

輝かしい世界恒久平和への望みは私達の努力にかゝっています。

一九五六年八月六日 広島にて

 

決議

1.軍縮、原水爆実験禁止を世界全学連へアッピールする。

2.大国間の軍縮協定、原水爆実験禁止協定の即時締結を国連に要請する。

3.日ソ国交回復について日本政府に要請する。

4.日本政府に対して、軍縮と原水爆禁止運動の先頭に立って努力するよう要請する。

5.日本の再軍備は世界の動きに逆行するものであるから憲法擁護について日本政府、自民党に要請する。

6.沖縄返還問題について米政府と沖縄政府へ決議文を送る。

7.砂川土地接収に反対するむね日本政府に呼びかける。

8.原水爆被災者の救援について治療、家族の生活の完全な国家保障を政府に要請する。

長崎大会代表選出