年表:原爆爆心地復元運動

年表:原爆爆心地復元運動 1966~69年

記 事
66 07 33 広島市平和公園の旧中島本町・材木町の住民20人余、NHKの企画で浄宝寺に集まり、慰霊碑周辺の復元を試みる。
66 08 広島大学原医研、中山町の被爆調査を開始。[復元]
66 08 03 NHKテレビ、「カメラリポート:爆心半径500メートル」を放映。広島原爆爆心地の平和公園慰霊碑周辺の復元地図を作成し、初めて公表。
67 06 24 広島大学原医研、広島市の原爆爆心地付近の正確な被害調査をすることを決める。この日、旧中島本町・材木町の元住民3人から当時の状況を詳しく聞き、約40戸の消息をつかむ。[復元]
67 08 03 [掲載紙不明]「ほとんどは被爆死?-広島市中島町-戸籍に残る百歳代」[復元]
67 08 04 NHKテレビ、現代の映像「軒先の閃光~ヒロシマ・爆心地」を放映.[復元]
67 12 18 中国新聞「被災全体像の重量において-ありえない核との妥協」(栗原貞子)[復元]
68 03 18 広島大学原爆放射能医学研究所、爆心地の総合的調査に本格的に着手.[復元]
68 03 19 NHK広島放送局、「よみがえる爆心」を総合テレビ「時の動き」の時間帯の県内ローカルで放映。[復元]
68 04 03 NHKテレビ、「県民の話題:爆心地予備調査終わる~中島地区」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 06 12 NHKテレビ、「県民の話題:進む爆心地調査」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 07 28 毎日新聞「幻の映画-復元上映の使命を痛感」(?画家・新協美術会委員)[原爆映画]
68 08 04 NHK、報道特集「被爆原点の空白~ヒロシマ・1968年夏」を放映。隅谷三喜男・森滝市郎・志水清・山田節男が出演。[復元]
68 08 04 広島大学原医研、爆心地住民のつどいを広島平和記念館で開催.約130人参加.参加した21人の住民,爆心地復元中島地区委員会を結成.会長:土肥常三郎。
68 08 07 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(1)完成間近い爆心地図」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 08 08 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(2)動き出した住民たち~材木町保存会」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 08 09 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(3)ひろがる爆心運動」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 08 10 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(4)被爆から23年」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 09 02 土肥常三郎・被爆地図復元中島地区委員会委員長ら、山田広島市長に、全市復元地図の作製を要望。
68 09 02 被爆地図復元中島地区委員会の代表、山田広島市長に全市的被爆地図を作るよう申し入れる.
68 09 05 NHKテレビ、「県民の話題:原爆地図~もり上る被爆地図の復元」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)
68 10 07 NHKテレビ、「カメラリポート:爆心を刻みたい~平和公園旧住民の願い」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 10 14 志水清広島大学原爆放射能医学研究所長、広島市全域の被爆地図復元運動を提唱。原爆被災総合調査委員会の設置を求めた試案を発表.
68 10 16? 小川岩吉(70歳)、入院中の広島原爆病院で、被爆地図の復元作業を行う。
68 12 04? 広島市旧石見屋町の町民、町内72世帯の被爆地図を復元.
68 12 10 NHKテレビ、「県民の話題:被爆地復元をめざして」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 12 11 広島被爆者援護強化対策協議会、開催.広島市の坂田助役,次年度から被爆地図復元に取り組む町内会に調査費用の援助することを明らかにする.広島大学原医研の調べでは、被爆当時の町内会は208。旧防空法により防空業務に従事中原爆の犠牲になった警防団員・医師・看護婦などへの援護措置を国に要望することを決める。
68 12 24 中国新聞「68ニュースその後(12)原爆映画初めて公開-完全復元へ猛運動-登場する半数からも同意得る」
69 01 21 NHKテレビ、「県民の話題:はじまった復元調査」を放映。[「広島原爆ハンドブック」]
69 02 21 広島市、新年度から被爆地図の復元に取り組むことを計画。
69 03 27 中国新聞、社説「原爆被災「全体像」の調査」[復元]
69 03 29 原爆被災全体像調査のための市民集会、広島平和記念館講堂で開催.日本学術会議永積小委員長が基調講演「原爆被災資料の諸問題」。田原伯原爆被災資料広島研究会事務局長や志水清広島大学原医研所長らが問題提起。約150人参加.広島市が四十四年度から被爆戸別地図の復元作業をする方針を決め、市民の協力を呼びかけ。
69 03 30 原爆被災復元委員会、会議.
69 04 04? 原爆被災復元委員会、発足.会長は志水清広島大学原医研所長。
69 04 27 中国放送(RCC)ラジオ、「市民とともに:「被爆地図復元」」を放送。
69 05 11 広島市旧材木町の元住民、原爆25回忌法要を浄円寺で挙行。同町民の法要は、12年ぶり5回目。約100人が参列。広島大学原医研の湯崎稔ら、復元地図を持参。
69 05 16 中国新聞(夕刊)、連載「”空白”を埋める-原爆被災地図の復元調査」(~20日,4回).
69 05 19 原爆被災地図復元の貴重な資料となる旧広島市千田町2丁目の町内会住民の家族構成・本籍地を記録した町籍簿が見つかる。
69 05 20 NHKテレビ、「県民の話題:町籍簿から被爆地図作り」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 06 18 NHKテレビ、「県民の話題:拡がる爆心地図復元運動」を放映。[「広島原爆ハンドブック」]
69 07 13 朝日新聞「被爆地図、独力で復元-広島・旧広瀬北町の老人[伊藤庫敏]-生き残った者の義務-犠牲者358人わかる」
69 07 18 広島大原医研、NHK広島中央放送局が共同で進めた爆心地復元調査の結果をまとめる。爆心地から半径500メートル以内の中島地区718人は全員死亡、追跡調査で70%の消息つかむ。NHKは調査記録を「原爆爆心地」として出版.
69 07 19 NHKテレビ、「102:爆心地復元(志水清)」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 07 19 朝日新聞「科学者の静かな執念実る-被爆地図復元の志水広島大原医研所長-完成へさらに情熱-市民の共感で早く進む」
69 07 24 中国新聞「風紋:爆心地の元市街図」[復元]
69 07 25 NHKテレビ、「県民の話題:爆心地復元(1)よみがえる旧中島地区」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 07 26 NHKテレビ、「県民の話題:爆心地復元(2)もりあがる市民運動」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 08 01 NHKテレビ、「現代の映像:爆心の橋」を放映。[復元]
69 08 04 中国新聞「この人・この本:「原爆爆心地」の志水清氏-被害の全体像つかむ-拡がった住民運動の輪」[復元]
69 08 05 朝日新聞「閃光に消えた町-広島の爆心地を再現-生命と暮らしへの影響さぐる-ある母子家庭の24年-苦心の地図作り・広島大原医研」[復元]
69 08 10 NHKテレビ、「報道特集:鎮魂への条件~ヒロシマ1969」を放映。志水清・湯崎稔・丹下健三などが出演。[復元]
69 09 09 土肥常三郎・元中島本町原爆復元地図作成委員会会長ら、広島市に平和公園内に爆心地復元銅版の設置を要望.
69 09 22 成宮惣五郎「広島平和公園爆心復元委員会」会長ら10人、山田市長と朝尾市議会議長を訪れ、復元された爆心地の町並みを銅板に掘り、公園内の保存するよう要望。
69 12 09 成宮惣五郎「広島平和公園爆心復元委員会」会長ら3人、山田市長を訪れ、復元された爆心地の町並みを銅板に掘り、公園内の保存するよう要望。
69 12 10 原爆被災復元委員会志水清会長、広島市平和文化推進審議会[平和文化センター]で調査の中間報告.

 

原爆15周年一件

原爆原爆十五周年一件 援護課

礼状および感謝状について(伺) 19600815 8
「原爆十五周年慰霊式並びに平和記念式典」挙行のための鳩の収集先および遺族代表、鐘撞者について(回答) 広島市長・浜井信三 19600726
原爆十五周年慰霊式並びに平和記念式典出欠席者名簿 19600801
原爆十五周年慰霊式並びに平和記念式典事務局係長会議の開催について(通知) 19600615
原爆十五周年慰霊式並びに平和記念式典事務局の設置について 河野義信(事務局長) 19600627
原爆十五周年慰霊式並びに平和記念式典事務局規程(案)
原爆15周年慰霊式並ぴに平和記念式典進行要領
式典事務局長挨拶文
(参考)原爆死没者供養実施要領
総合体育大会実施(案)
民生労働部長挨拶

 

特別調査一件(広島県総務部地方課)195107-08

特別調査一件(広島県総務部地方課) 1951年7・8月

目次番号 文書番号 件名 発元
1  資料  平和擁護運動並全面講和愛国運動の概況
 2  広島平和擁護委員会の動向について
3 平和擁護運動について
8 広島平和祭に併う(共)主流派の平和後援会開催について
 13  平和祭をめぐる諸団体の動向について
 17  県下における日雇自由労働者組合の動向について
 18  日本共産党関係機関紙発行停止一覧について
15 平和運動に関する資料送付について

 

特別調査一件(広島県総務部地方課)195108-12

特別調査一件(広島県総務部地方課) 1951年8月~12月目次

目次番号 文書番号 件名 発元
1  県下における(党)指導による企業組合の動向について
3 平和擁護委員会の届出について
 9  労働者農民党並びに社会党再建全国連絡会の調査について
 10  松本治一郎民主陣営復帰歓迎大会について
 11
 17  県下における日雇自由労働者組合の動向について
 18  日本共産党関係機関紙発行停止一覧について
28 県下における愛善苑の現況について

『広島県史』を読んで、おしゃべりをする会

1978年5月31日 初会合

開催年月日 開催場所 テーマ 参加者
19780531 県史編さん室 文明開化など 松田、川島、中村、井下、今中、内田、天野、児玉、安藤
19780629 県史編さん室 教育問題・移民問題 今中、川島、井下、松田、山口、天野、藤原
19780907 喫茶グリーン 婦人会、社会団体と軍国主義、米騒動ほか 松田、川島、中村、井下、天野
19790917 県史編さん室 276~355 不明

注:(文責・川島)として。会の記録がNO.3までと次回の案内1枚が残存。

文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会

文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会

1945年9月14日設置(文部大臣名の発令は10月24日)

委員長:林春雄(学術研究会議会長、東京帝国大学名誉教授)

    9科会(科会長はすべて東大教授)

科会名 科会長
1.物理学化学地学 西川正治
2.生物学 岡田要
3.機械金属学 真島正市
4.電力通信 瀬藤象二
5.土木・建築 田中豊
6.医学 都築正男
7.農学水産学 雨宮育作
8.林学 三浦伊八郎
9.獣医学畜産学 増井清

第1回報告会。

1945年11月30日、於東京帝国大学。

山崎匡輔科学教育局長挨拶「今回原子爆弾の災害調査につきまして、各般の権威の有る方々に御調査をお願い致すことを決定致しましたところが、学研の方でこの問題を喜んでお取上げ下さいました。いま少し小規模な御研究を願いたいと思いましたのでございますが、皆様の非常な御熱誠の結果非常に完璧な研究団ができまして、私ども非常に衷心より感謝致している次第であります。」

第2回報告会。

1946年2月28日、於東京帝国大学。

「昭和22年度末まで3カ年にわたって作業を継続したが、主要な調査研究は昭和20年度(昭和21年3月まで)に行われた。」

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』

        (日本学術振興会、1953年5月5日)

理工学編 38編
生物学編 6編
医学編 130編

「医学科会は特別委員会中最大の科会であり、約30名の委員、150名の研究員、1,000名の助手から成り、日本の全ての主要な医学部、研究所及び病院を代表している。」

都築正男メモ

医学科会への最初の協力者

都築正男(科会長)、中泉正徳(東京大学)、菊池武彦(京都大学)、大野省三(九州大学)、井深健次(日本陸軍軍医総監)、福井信立、石黒茂夫、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

1945年10月任命

田宮猛雄、都築正男、佐々貫之、中泉正徳、三宅仁(東京大学)、木村廉、船岡省吾、真下俊一、菊池武彦、森茂樹(京都大学)、高木耕三、木下良順、布施信義、福島寛四(大阪大学)神中正一、中島良貞、小野興作、沢田藤一郎(九州大学)、林道倫(岡山医大)、古屋野宏平(長崎医大)、井深健次、平井正民(陸軍軍医)、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

主たる参加機関

東京帝国大学医学部、京都帝国大学医学部、大阪帝国大学医学部、九州帝国大学医学部、長崎医科大学、岡山医科大学、熊本医科大学、金沢医科大学、京都府立医科大学、山口医学専門学校、陸軍軍医学校、海軍軍医学校、広島陸軍病院、大野陸軍病院、呉海軍病院、岩国海軍病院、佐世保海軍病院、大村海軍病院、東京帝国大学伝染病研究所、厚生研究所。

1945年の調査対象

1.被害の統計学的調査、2.有害エネルギーの医学的調査

3.被災者の臨床的調査、4.人体に及ぼす残存エネルギーの影響調査

1946年度の調査の主要テーマ

1.死傷者の統計的調査、2.被災者の臨床的調査、3.病理解剖的調査

4.残存放射能の影響調査、5.人間の遺伝調査

合同調査団の設置と日本側の研究調査の成果の吸収

都築の公職追放

1946年8月15日、公職追放(理由:6年間海軍軍医であったこと)

1947年3月24日、半年間の公職追放規定の免除の覚書(ウィットニィ軍政局長)

1947年7月16日、3月24日の覚書の取り消しの覚書(ウィットニィ軍政局長)

    ***1957年まで日本側の原爆症研究は中断

1947年4月、第12回日本医学会総会演説

菊池武彦(京都帝国大学教授)・木本誠二(東京帝国大学助教授)「原子爆弾症の臨床」

参考文献

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』(日本学術振興会、1953年5月5日) B5版 1642頁

広島市役所編『広島原爆戦災誌 第5巻 資料編』(1971年)

広島県編『広島県史 原爆資料編』(1972年)

仁科記念財団編『原子爆弾-広島・長崎の写真と記録』(光風社書店、1973年)

広島市編『広島新史 資料編1 都築資料編』(1981年)

核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『医師たちのヒロシマ-原爆災害調査の記録』(機関紙共同出版、1991年)

概観広島市史(浜井信三市長 序)

概観広島市史
広島市史編修委員会、広島市役所、1955年1月25日


何ごとによらず、その歴史を明らかにすることは、極めて重要なことであります。
わが広島市には、大正年代に発行された広島市史四巻がありますが、それは、本市の市史編纂事業としてははじめてのことでありましたので、先人の多大な労作にも拘らず、今日から見れば、その内容、形式ともに再検討を要するものが多々残されておりました。それに、この市史はさきにも申しましたように大正年代までの広島の歴史を記録したものでありまして、それ以後のことは早晩追録されなければならない破目になっていたのであります。
しかるに、顧みますと、この市史ができて昭和年代に入り、本市が飛躍的な発展を遂げ、続いて太平洋戦争を経て、昭和二○年八月六日、人類史上未曾有の原子爆弾によって、市街の大半が潰滅し、戦後再び廃墟の中に、新たな都市建設が始められるまでの約四○年間市の歴史は、まことに変転極まりないものでありまして、この間の史実を整理記録して、これを後世に遺すことは、いまこそ、その絶好の機会であり、それはまた今日の市民である吾々の責務でもありますので昭和二六年、私の市長再選を機会に、新しい市史の編纂事業に着手した次第であります。
もっとも過去において、第一七代市長藤田若水氏(昭和一四年~一八年)は、その在任中に新しい市史の編纂を企図せられ、少数の職員の手で、その準備を進められましたが、完成を見るに至らず、その資料などもいまは散逸して残っておりませんので、今回の市史編纂については、その組織、方法等、全然新たな出発点に立ってこれを行うことといたしました。
すなわち、組織としては、広島大学教授を中心とする、市内学識経験者をもって、広島市史編修委員会を設け、これに事務局を併置し、委員会自身の責任において、新たな市史を編修することとし、内容も既存の市史に拘泥することなく、往古より昭和二五年末に至る間の史実を収録することとして、昭和二六年秋から本格的に事業を開始して今日に至っております。しかるに、戦災により史的資料の多くは焼亡或いは散逸して、事業は意想外の困難を来し、これが完成までには、なお若干の日時を要しますので、とりあえす今日までに整理された資料に基づいて、広島市の歴史の概要を単冊にまとめて発行することにいたました。それがこの「概観広島市史」であります。
今日これを世に出すことができましたのも、ひとえに広島市史編集委員各位の並々ならぬ御努力と広島市民各位ならびに各方面の熱心な御援助の賜でありまして、衷心感謝に堪えません。
私は、本書が広島市紹介の良い手引となり、またより良い市史完成への礎石となりますよう心から祈る次第であります。

一九五五年一月  広島市長 浜井信三

 

新修広島市史(全7巻)

新修広島市史(全7巻)

広島市史編修委員会(編)広島市(刊)、1955年1月25日~1962年3月31日発行

年月日 書名
1955012501  概観広島市史
1955031002 広島市史年表

 

発行
年月日
書名
19610228 第1巻-総説編
19580301 第2巻-政治史編
 19590831 第3巻-社会経済史編
19581227  第4巻-文化風俗史編
19620331 第5巻-年表・索引・地図・編纂沿革
19590331 第6巻-資料編その1
19600331 第7巻-資料編その2

概観広島市史
広島市史編修委員会、広島市役所、1955年1月25日
内容
序(広島市長 浜井信三)
1.古代・中世、 2.城下町の建設、 3.城下町としての発展、 4.城下町の変容
5.近代都市としての発足
自由民権運動と広島/広島市制の実施/宇品の築港と山陽鉄道の開通/人口の増加/戦争と広島
6.近代都市の形成
市域拡張と都市計画/宇品港と広島港/近代工業の胎動/新しい文化
7.平和記念都市の建設
太平洋戦争と広島/原子爆弾の惨禍/戦災復興の難業/平和記念都市

概観広島市史略年表
________________________________________
新修広島市史第1巻-総説編
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1961年2月28日
第1編 広島市の地理
第2編 先史時代の広島地方
第3編 通史編
19.幕末の動乱と広島藩、 20.文明開化と新教育、 21.広島市制の施行、 22.戦争と広島、 23.都市計画事業と市域拡張、 24.河川の改修と港湾の整備、 25.近代工業の胎動発展、 26.市街の変化と近代文化の成立、 27.社会問題・労働問題・農地問題、
28.戦時体制下の広島
軍都から学都へ/満州事変/上海事変/満州建国/国際連盟脱退/日独防共協定/軍国主義化の歩み/時局博覧会/国防研究会/宇品港域軍事取締法の制定/広島国防婦人連合会/大日本婦人会広島県支部/昭和九年/護国神社/愛国子女団/昭和十一年/陸軍幼年学校再開校/広島の発展/広島・呉間国道/広島鉄道局/日華事変/第五師団動員/凱旋館/日赤病院拡張/兵站司令部/鉄道司令部/市民生活/広島市義勇団/警防団/経済統制/軍需産業/思想・文化/国民精神総動員運動/思想統制/第二次世界大戦/価格停止令/配給制/七・七禁令/新体制運動/町内会/大政翼賛会/翼賛壮年団/アジアの情勢/国内の反米運動/女学院の受難
29.太平洋戦争と原子爆弾投下
対米英開戦の決意/開戦/戦局/広島の軍事施設の新設・拡充/船舶司令部/広島兵器補給廠/防空態勢/中国行政協議会/中国地方軍需管理部/人口増大/翼賛選挙/経済統制の強化/重工業の拡張/勤労報国隊/国民皆勤労/窮乏生活/思想・言論統制/本土決戦体制と広島/戦局悪化/強制疎開/学童疎開/二十年の戦局/特設警備隊/第二総軍設置/五九軍/中国地方総監府/国民義勇隊/新しい師団の編成/本土空襲/広島の防空体制/八月六日/八時十五分/原爆による死者/救護作業/
30.新生の広島
長崎に原爆投下/ポ宣言受諾/九月十七日の出水/十月八日の豪雨/木原市長の就任/復興の歩み/市長選挙/天皇の行幸/復興の構想/復興の財源/警察・教育制度の改革/学校教育/広島女学院大学/広島大学/広島女子短期大学/戦後の新設校/広島商科大学/エリザベート音楽短期大学/安田女子短期大学/農地改革/復興局/財源調査委員会/広島平和記念都市建設法/第一次第二次事業計画/平和記念施設/平和記念都市建設事業/文化施設/スポーツ施設/医療施設/ABCC/原爆病院/戦災孤児育成所/ハワイからの寄付/平和への努力/復興の第三段階/三村編入/戦後の市長/人口の増加/市政機構/市の財政/広島復興大博覧会/総合企画本部/大広島計画区域/市の将来人口/都市計画/上水道/産業界の復興/工業生産物/農業/水産業/商業/貿易/交通/放送/労働運動/文化運動/雑誌/歌壇/演劇/スポーツ/
第4編 原爆と広島[執筆:中野清一]
1.原爆被害の実態
原爆投下の状況
序説/投下前後の気象/投下敵機の状況/原爆第一号の威力/投下された原爆の爆発状況/黒色の驟雨/
物的災害
概況/建物の被害/特殊施設の被害/放射能による汚染状況/
人的被害(その1):一般市民の場合
序説/一般市民の死傷者数/死傷者数の推移/
人的殺害(その2):一般市民の傷害
原子爆弾傷又は原子爆弾症/後遺病と晩発障碍症/初発障碍の実態/慢性障害者
人的被害(その3):特殊集団の場合
概観/生徒・学生・動員学徒の災害/国民義勇隊特に地域国民義勇隊の災害/軍隊集団の災害/その他の特殊集団/
原爆がもたらした諸影響
概観/経済的影響/人口動態に見られる影響/家族関係への影響/社会生活上の悪条件
2.被害対策の消長
応急措置
応急措置の背景/罹災対策協議会/食糧対策/遺骸収容/負傷者救護/応急措置の限界/
長期対策の胎動
「原子爆弾傷の療養方針」の発表/兆期対策の萌芽とその挫折/アメリカ連合委員会/「原子爆弾災害調査特別委員会」(日本)/調査中心への傾斜/ABCC/治療活動への転換
「原爆医療法」前後
組織的な治療活動の開始/原爆障害者更生会/市勢調査員組織による障害者の把握/広島市外科医会の活動/広島市原爆障害者治療対策協議会/治療費国庫負担への要望台頭/「原爆医療法」の発布/原爆被害対策課の発足/被曝者健康手帳をめぐる諸状況/加療上の問題点と「援護法」への前進要請/
救済活動と被害者団体の組織活動
内外の救援活動/「広島の家」と「憩いの家」/「友の家」/広島被爆者福祉センター/広島平和会館/被害者組織の動き/「原爆の子友の会」/「原爆乙女の会」/「原爆被爆者の会」/「八・六友の会」/広島子供を守る会/あゆみグループ/原爆被爆者救援委員会と広島県原爆被害者団体連絡協議会/広島市原爆被害者連合会/広島県動員学徒犠牲者の会/「こけしの会」、「平和をきずく児童・生徒の会」/折鶴会/遺族会など/
3.原水爆禁止運動
ノー・モーア・ヒロシマズ運動
発端/源流/展開/世界平和デー/平和記念都市建設への世界的関心/ワールド・ピース・センター/世界連邦運動/世界連邦アジア会議/
原爆禁止世界大会前後
概観/地域青年の動き/民主団体の動き/少年少女の動き/学者・専門家たちの動き/広島の婦人たちの動き/原水爆禁止世界大会開催への動き/第一回原水爆禁止世界大会/第一回世界大会以後/第二回原水爆禁止世界大会/八・六学生平和会議/第二回世界大会以後/第三回・第四回原水爆禁止世界大会/
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新修広島市史第2巻-政治史編
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1958年3月1日
目次
第一編 原始・古代、 第二編 中世、 第三編 近世、
第四編 近代
第一章 明治維新と広島
第一節 版籍奉還・廃藩置県
戊辰戦争/版籍奉還・藩政改革/廃藩置県/県治条例
第二節 大小区制・広島区制
大小区制/広島区制
第三節 地租改正と租税制度
税制改革/地租改正/秩禄処分
第四節 自由民権運動
自由民権論/政党の結成
第五節 徴兵令と陸海軍
広島鎮台・第五師団/軍事施設
第六節 皇室と広島
行幸/行啓
第二章 市制の施行と近代都市への発足
第一節 市制の施行
市制・町村制/執行機関/議政機関
第二節 宇品港と山陽鉄道
江波築港計画の挫折と宇品築港/山陽鉄道の開通
第三節 諸戦争と広島
明治初年の諸事変/日清戦争の勃発と広島/北清事変の前後/日露戦争と広島
第四節 財政の膨張
歳入歳出予算決算/市債/市税制度の変遷
第五節 上・下水道の敷設
上水道敷設前の状況/上水道の敷設/上水道の拡張/下水道敷設前の状況/下水道の敷設・拡張
第六節 県三部制と市政機構
県三部制/県三部制廃止運動と三部制廃止/市政機構
第七節 治安・衛生施設の拡充
警察制度の整備/消防制度/病院/結核療養所問題/防疫
第三章 市勢の発展
第一節 第一次世界大戦と産業の発達
青島戦争とシベリア出兵/近代産業の発達/近海航路の進展
第二節 都市計画事業の推進と市庁舎の新築
城濠・西塔川埋立/都市計画法の施行/街路の整備/公園・緑地・墓園/市庁舎の新築
第三節 普通選挙の実施
選挙法の推移/第一回の普通選挙/市政の状況
第四節 隣接七か町村の合併
合併にいたる経過/合併反対論の動向/合併条件
第五節 広島工業港の建設
宇品港修築計画/広島商業港の建設/広島工業港の建設/漁業補償問題
第六節 太田川改修計画
太田川改修計画実現に至る経過/廃川敷地処分問題/計画と着工/終戦後の工事再開
第四章 戦時体制下の広島
第一節 満州事変と日華事変
軍都広島と宇品港域軍事取締法/工業の発達/日華事変の勃発と国民精神総動員運動/物資の統制
第二節 新体制運動
大政翼賛会の成立/翼賛運動の展開/翼賛選挙(衆議院議員選挙/翼賛市会
第三節 太平洋戦争
防空防衛体制の強化/第二軍総軍司令部の設置/中国地方総監府の設置/転業と勤労動員
第四節 原子爆弾の被害とその対策
原子爆弾の投下/原子爆弾の被害/救護作業
第五章 新生の広島
第一節 終戦
軍の解体と復旧作業/占領軍の進駐と軍政
第二節 新自治体の機構
地方自治法/市政機構
第三節 復興と建設
戦災復興事業/平和記念都市建設事業
第四節 救済活動と平和運動
内外の救済活動/平和運動
<「広島市史編修委員会」、「新修広島市史(全7巻)」へ

新修広島市史第3巻-社会経済史編
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1959年8月31日
第1編 原始・古代、 第2編 中世、 第3編 近世
第4編 近代
第1章 近代社会の出発
第一節 封建的諸制限の撤廃
四民平等と諸制限の撤廃/壬申戸籍
第二節 社会の変動と世相の混乱
武一騒動/地租改正/秩禄処分
第三節 貨幣制度の変遷
太政官札と民部省札/藩札の整理と贋金事件/国立銀行と全融機開/
第四節 庚午新開の築成
明治初年の飢饉と新開築成計画/庚午新開の築成/庚午新開の土地配分と経営
第五節 士族授産と同進社
士族の困窮とその救済計画/同進社による士族授産
第六節 殖産興業と特殊産業の助成発達
殖産興業/各種の催し/特殊産業の盛衰
第2章 交通・運輸・通信機関の近代化
第一節 道路および橋梁の整備
区制時代の道路/運河・城濠埋立、新道と市勢の東漸/道路の近代化/渡し船と橋梁の整備
第二節 運輸・通信機関の変遷
概況/軽車両の盛衰/鉄道・電気軌道の発達/自動車交通/通信機関の整備
第三節 水上交通の変遷
河用交通の衰退/港湾の近代化
第3章 金融機権の整備
第一節 金融市場の発展
広島市における金融市場の育成/金融融市場の整理と発展
第二節 銀行と信託会社
銀行創成期と乱立期/全融恐慌と銀行の近代化/信託業の発展
第三節 庶民金融機関
信用組合・国民全融公庫等/郵便貯金
第四節 保険業
生命保険/火災保険・海上保険
第4章 産業界の躍進
第一節 農業(疏菜栽培)の発展
明治前期の農業/明治中期から大正初期まで/大正後半期から終戦まで
第二節 畜産業
第三節 水産業
網漁業の衰退/養殖業の発展/
第四節 工業の発達
明治前期の工業/近代工業の胎動/近代工業の生成/近代工業の発展
第5章 商業圏の拡大と流通組織
第一節 商業の発展と配給組織および経営
商店街の発展/卸売商業/小売商業
第二節 取引所と倉庫業
取引所/倉庫業
第三節 外国貿易
広島市貿易の特殊事情と外国航路/相手国と貿易品目
第四節 商業助成機関
商工会議所/陳列所/共進会・博覧会
第6章 社会問題と社会施設
第一節 労働問題・小作問題
労働者の構成と労働条件/労働組合運動/労働争議/小作争議(宇品小作争議)
第二節 同和問題
水平社運動以前の動き/水平社運動の動き/解放運動の前進
第三節 騒擾事件
憲政擁護運動/米騒動
第四節 出かせぎと移民
概観/市内各地域別状況
第五節 社会施設の拡充
救恤施設と救護施設/経済保護施設/医療保護施設/児童保護施設(付母子寮・養老院)/司法保護施設
第7章 市民生活の近代化
第一節 都市様相の変化
第二節 人口の推移
市制施行後の推移-人口変動の概観/国勢調査に現われた人口構成の推移
第三節 市民組織
町内会・社会福祉協議会/青少年組織/婦人組織
第四節 市民の生活-生活水準の動き
太平洋戦争前の動向/太平洋戦争後の動向(I)-終戦から朝鮮事変の終結まで/太平洋戦争後の動向(Ⅱ)-朝鮮事変終結以後
第8章 原爆後の社会経済問題[執筆:石井金一郎・中野清一]
第一節 戦後の人口推移
人口変動の概観/昼間人口の生態/生存被爆者人口-昭和二十五年調査
第二節 農地改革および広島市の農水産業
地主・小作制の概観/農地改革の進展とその成果/農業経営の現況/水産業
第三節 産業の再建とその方向
戦後インフレ時代/ドッジ・ライン時代/朝鮮動乱前後/工業の現況/流通・金融第/交通・通信機関の発達
第四節 労働問題・厚生問題
労働運動/住宅問題/医療・厚生施設
第五節 原爆被害者の問題と対策
孤児収容施設と国際精神養子運動/国内精神養子運動/原爆障害者治療対策

新修広島市史第4巻-文化風俗史編
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1958年12月27日
内容
第1編 古代・中世、 第2編 近世
第3編 近代
第1章 明治維新と文明開化
第一節 廃仏毀釈
神仏分離/神社・復興
第二節 文明開化
洋風の移入/生活の変化
第2章 教育制度の整備
第一節 学制の推移
学制の頒布とその推移i/監督機関
第二節 小学校の変遷
小学校の変遷/修業年限・教科目の変遷/就学率・二部教授・夜学校
第三節 中学校・高等女学校の設立
市制施行以前/市制施行以後日露戦争まで/日露戦争より第一次世界大戦まで/第一次世界大戦以後隣接町村合併ごろまで昭和時代(終戦まで)
第四節 師範学校・教員養成機関の整備
師範学校/その他の教員養成機関
第五節 実業学校・各種学校の変遷
農学校/商業学校/工業学校
第六節 高等専門学校・文理科大学の設立
高等師範学校・文理科大学/高等工業学校/高等学校/女子専門学校
第七節 特殊教育
盲唖学校/精神薄弱児教育/その他の特殊教育
第八節 社会教育の発達
社会教育方策の発展/青少年団・婦へ会の結成
第3章 学問・芸術の発達
第一節 学問の変遷
伝統の教学/近代科学の普及
第二節 市民の文芸
和歌/新短歌/俳句/詩
第三節 美術・工芸
書道/絵画/工芸
第四節 能・狂言・謡曲・茶華道
能楽諸流派り消長/囃方と狂言、能舞台・/茶道華道
第五節 演劇・映画
演劇/映画
第六節 歌謡・音曲・舞踊
俚謡・流行歌/音曲・舞踊
第4章 文化施設と宗教団体
第一節 文化施設
公会堂・各種陣列館/図書館
第二節 宗教団体
仏教団体/キリスト教諸団体
第三節 その他の諸団体
文化的諸団体/社交的諸団体
第5章 新聞・雑誌・ラジオ
第一節 新聞
明治時代/大正時代/他地方の新聞の進出/昭和時代
第二節 雑誌
広島発行のもの/他の地方発行のもの
第三節 ラジオ
第6章 体育・スポーツの発達
第一節 陸上競技・水泳
陸上競技/水泳
第二節 球技
野球/蹴球・排球・籠球/庭球・卓球・ホッケー・ゴルフ
第三節 武道・相撲・その他
柔道・相撲/剣道・薙刀・弓道/自転車競争・漕艇/馬術(付競馬)
第四節 運動場、その他諸施設
運動場/野球場・その他の球技場/プール
第五節 原爆以後のスポーツの復興
第7章 市民生活の進展[執筆:中野清一]
第一節 生活様式の近代化
洋風服装の発展/建築様式・食慣習の変遷と習俗の動き
第二節 盛り場の変遷
勧工場時代/千日前と新天地/本通り商店街と百貨店出現
第三節 戦時体制下の市民生活
ミッション・スクールの非常時風景/勤労奉仕と勤労動員/一般市民の日常生活
第8章 新教育制度[執筆:中野清一]
第一節 義務教育の整備と拡充
「国民学校」から「小学校」ヘの復帰/六・三制の発足と進展
第二節 新制高等学校と新制大学
新制高校の発足と再編成/新制大学誕生/
第三節 私学の革新、特殊教育と幼稚園
私立新制中学と新制高校/私立新制大学/特殊教育の前進と新幼稚園
第四節 社会教育
社会教育・新体制/終戦後の青年団運動/地域婦人会と同志婦人会/P‐T‐A‐活動/その他の社会散育活動
第9章 原爆と新しい文化[執筆:中野清一]
第一節 風俗文化の動きと新しい文化施設
戦後風俗文化の生態/文化施設の復旧と新設
第二節 各種文化活動の潮流
新聞文化と雑誌文化/児童文化活動と演劇運動/宗教団体の動静/西洋舞踊・音楽・絵画/ペンクラブ活動
第三節 原爆を記録する人々
短詩型文学の動静/文芸雑誌活動/原爆体験記録の出版/一般市民の体験記録

新修広島市史第5巻-年表・索引・地図・編纂沿革
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1962年3月31日

第1部 年表[~昭和35年]
第2部 索引
第3部 編纂沿革
(注)地図は別冊「新修広島市史」(第五巻の地図)1冊、22cm.毛利時代のものから現在までのものまで11種を10枚におさめた.⑩広島平和記念都市建設計画図・昭和37年(1962年)、他.

新修広島市史 第7巻-資料編その2
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1962年3月31日
第一部 安芸国遺跡・遺物地名表
第二部 編年史料
第三部 広島市要職一覧
毛利・福島・浅野氏系図/広島県略図(明治三十年)
第四部 統計資料
附録 広島市における文化財/広島市の主要官公衙および事業所
________________________________________
原爆被爆関連資料
第二部 編年史料
608 広島市空爆直後に於ける措置大要
609 第1回中国文化短歌会詠草
610 恐怖は果しなく[蜂谷道彦「ヒロシマ日記」]
611 ヒロシマの思い[「土曜文芸評論」]
612 Norman Cousins; Hiroshima Four Years Later
613 平和宣言[昭和24年]
614 広島平和記念都市建設法
615 広島平和記念都市建設法成立後のおもな措置と広島平和奇縁俊建設事業施行経過
616 平和都市ヒロシマに寄せる諸外国人の書簡
617 原爆都市青年交歓会の「誓ひ」
618 原爆孤児国内精神養子制要領
619 広島市昼間人口調査要領
________________________________________
第四部 統計資料
第30表 原子爆弾による広島市民の人的被害報告統計表
第31表 原子爆弾による在広島市諸部隊被害状況
第32表 原爆炸裂時に市内に在、不在別人口
第33表 被爆後の人口復帰状況
第34表 原子爆弾による建物被害並びに復興状況
第35表 被爆地別・性別・現住地別原爆生存者数
第36表 昭和25年10月現在日本国内に在住せる広島原爆(昭和20年)生存者数
第37表 被爆地別・性別・現住地別広島県内原爆生存者数
第38表 性別・年齢別・被爆有無別広島市人口
第39表 昭和30年12月末現在の孤児収容施設の措置原因別収容児状況
________________________________________

広島平和記念都市建設法の成立経緯
新修広島市史第二巻』第5章第3節第2項
「平和記念都市建設事業」(執筆:中野清一)より抜粋

さきに述べたように、戦災復興事業の当面した最大の難問は財源をどこに求めるか、ということであった。その場合、もっとも大きな期待をかけようとしたのは旧軍用地の無償払下げであった。そのための市理事者・市会・民間一体になっての熱心な運動も、一応頓挫したあと、昭和二十三年(一九四八)に入って再燃したことは、これも既述した通である。その場合でも、難関は依然として横たわっていたが、大蔵省との数次の折衝のうちに、同省側からのヒントの故もあって、市当局、特に浜井市長の念頭に浮びあがってきた新たな構想があった。なんらかの特別法を制定して財政的な裏付を確保する、という構想にほかならない。しかし、この構想が市側から市会に提示されるに至るまでには、これも既述の、補助金申請も多くを望めぬといういわば進退窮した事情のほかに、なお有力な二つの要因が働いたことを見逃せない。その一つは、国会への特別法制定請願が受容れられそうにもない場合には、G・H・Qを通して推進をうながす道があると、浜井市長が相当確実な根拠をもって見通しをつけた、という事情である。
今一つは、特に昭和二十二年八月の第一回平和祭以来、海外諸国の広島市に対する関心が、恐怖・同情こもごもの消極的な姿のものから、援助・推進を根幹とする積極的なそれへと展開・発展をみせはじめ、二十三年(一九四八)に入ってからは、いよいよこの方向への高まりが著しくなってきた、という情勢である。その間の事情は、第四節で詳述するが、海外の広島によせる関心の、好ましい方向への高まりのあるところ、広島復興をなによりもまず日本国家の名において手がけるべきであると主張できる道義的背景が与えられるに至ったとみてよい。
かような諸要因に促されつつ、二十三年十一月までに、市当局の手許でつくられたのが、「広島原爆災害総合復興対策に関する請願書」であった。その中には、広島を平和のメッカとして建設することは、世界の与論であること、平和国家を標榜して新生した日本にとっても、平和都市として広島を建設するために支援をおしまぬことこそ、対外信用を高めるゆえんであること、他都市に比して甚だしい打撃をうけ、一瞬にして瓦礫の焦土と化したここ広島こそモデル的な近代都市を建設する天与の機会であることなどの請願理由が開陳されている。そのころ、市議会議長は伊藤忠男から任都粟司に異動したが、任都粟議長と浜井市長との第一回事務打合せのおり、市長から請願の構想が打明けられた。市議会議長もまた異論はなく、十一月末、市議会の全員協議会にはかったところ、ここでも異論はなく、請願提出という決議を打出すに至った。
この請願運動は二十四年二月、浜井市長・任那粟市議会議長相携えて上京するとともに、本格的な動きをみせはじめた。当時、衆議院は解散後の選挙で新発足したところでもあり、体制が整っていない事情があり、さしあたって参議院と政府関係に向かつて運動を展開した。ところで二月十三日、県選出の山田節男・山下義信・佐々木鹿(以上参議院)・山本久雄(衆議院)の各議員に、参議院の寺光議事部長、同法制局の牧田課長と協議議したとき、請願よりは議員立法による特別法制定の方針で臨む方が確実・有利という示唆をうけ、ここに請願運動は特別法制定運動に大きく転換することになり、山下議員の発案で、広島県出身の前記寺光議事部長に法案起草を依頼することになった。
二月二十五日には、都市計画協会の飯沼理事長の主唱で、日本赤十字本社講堂に広島原爆災害綜合復興対策協議会が開催され、建設・厚生・大蔵・運輸・文部各省、経済安定本部・地方財政委員会・都市計画協会および広島県・市の関係要路者が参集して協議した。その結果、各省から委員を選出して広島原爆災害綜合対策小委員会を結成することになった。この間日本国際連合協会にも協力を求めたところ、同協会理事会も広島を国際平和の記念都市として建設することに協力する決意を表明した。また特別法法案が寺光議事部長の手で脱稿をみるに至った後、これをさらに東京大学法学郡の田中二郎教授に協力を求めて手を加えてもらった。三月十一日には、都市計画協会主催で、広島原爆災害綜合復興対策不委員会が開かれ、広島市建設工事一五か年計画について検討した。同十五日前後には、G・H・Qに対して、公衆衛生福祉局長サムス准将・マッカーサー元帥高級副官バンカー大佐等を通して協力方を懇請した。これと前後して、法案は「広島平和記念都市建設法案」として脱稿をみるに至ったので、衆・参両院の法制局に依頼して成案化を急ぐことになった。
三月下旬から四月下旬にかけて、特に議会の各党各派への運動はしだいに熱烈の度を加え、ために衆・参両院とも形勢は甚だ有利に展開するに至つたが、四月下旬になって思いがけぬ難関に遭遇した。長崎市が、同市をもこの法案に加え、「広島、長崎平和記念都市建設法」と銘打って提出すべきであると、四月二十六日に申し入れてきたからである。しかしこの難題も、五月七日、民自党役員会で、広島・長崎それぞれ別個に法案を提出することに決定をみて解決した。五月九日広島・長崎両市の法案が衆議院で完成され、G・H・Qに提出したところ、即日二時間の後にその承認を得るに至った。なおこれと前後して、四月二十九日おりから広島市議会議事堂で開催中の、中国五県市議会議長会議では、この法案の至急提出方と議会通過要望を、本会議の決議をもって関係各方面に打電するという緊急動議が、岡山市議会三宅議長の発案で提案され、満場一致で可決された。また五月四・五の両日、高松市で開かれた全国市議会議長会議でも、中国地区議長会議の緊急提案として、同様の決議案が提出され、ここでもまた異議なく可決されたのであった。
かくして「広島平和記念都市建設法」は、「長崎国際文化都市建設法」とともに、昭和二十四年(一九四九)五月十日、衆議院を、翌十一日には参議院を、それぞれ満場一致で通過するに至った。その後をうけて、政府は、憲法第九五条の規定に従い、この法律は住民投票に付すべきであると決定、その趣旨を五月十六日総理大臣名をもって広島市長に通達した。かくして日本の立法史の上でははじめての、「一の地方公共団体のみに適用される特別法」についての住民投票が行われることになった。これにそなえて市当局は五月三十日、賛否投票を七月七日に実施する旨を告示するとともに、市選挙管理委員会による啓蒙家宣伝のほか、平和都市法普及対策本部を市役所内に設けて、市民に周知徹底せしめる諸方法をとらしめた。
七月三日には、市民大会が基町児童文化会館前広場で開かれ、約三○○○人の市民が参集、また六月二十八日から七月六日にかけて、市内の三五地区において、地区市民大会が開かれたが、平均四七五人、総計約一万七○○○人の市民が出席した。七月七日の住民投票は、市内三三投票所で実施され、東部・中部・西部の三開票区ごとに七月八日開票された。その結果は、投票当日確定有権者数一二万一四三七のうち、投票総数は七万八九六二(投票率六五%)・賛成投票七万一八五二・反対投票六三四○・無効投票七七○であった。かくして憲法の規定による、有効投票総数過半数の賛成投票があったので、「広島平和記念都市建設法」は公布さるべきものと決定をみるに至り、戦災第四周年記念日である昭和二十四年八月六日に公布せられた。

広島市史編修委員会

広島市史編修委員会   1951年2月15日正式発足

略年表

月日 事項
1950 1213 第1回広島市史編修委員会
1951 0215 広島市史編修委員会。委員長を魚澄惣五郎に決定。委員会規則を可決し、正式に発足。
1953 0721 原爆戦災時の市役所関係者の会合。
0728 原爆戦災時の市議会関係者の会合。
0730 原爆戦災時の陸軍諸部隊関係者の会合。
1955 0125 「概観広島市史」刊行。
0310 「広島市史年表」刊行。
1956 0125 広島市史編修委員会、一応解散。
0401 渡辺忠雄広島市長と魚澄惣五郎との間で、市史編修の委託契約を締結。
1958 0301 「第2巻-政治史編」刊行。
1227 「第4巻-文化風俗史編」刊行。
1959 0331 「第6巻-資料編その1」刊行。
0831 「第3巻-社会経済史編」刊行。
1960 0202 広島市史編修委員会。「広島原爆戦災誌」の編纂には、できるだけ早い機会に着手すべきで、資料の収集・体験記や感想文なども広範囲にわたって集めるべきで、その体験者は年とともに減少しているから早急に着手を要するとの意向が強く打ち出された。
0331 「第7巻-資料編その2」刊行。
1961 0228 「第1巻-総説編」刊行。
1962 0331 「第5巻-年表・索引・地図・編纂沿革」刊行。

出典:「第5巻-年表・索引・地図・編纂沿革」

 

広島県総務部県史編さん室(略年表)

広島県総務部県史編さん室(略年表)

年月日 事項
19680401 広島県史編さん室・県史編さん審議会を設置
19680604 県史編さん審議会。
19690331 『広島県の歴史』発行。
普及版・県民版。刊行部数1万6000部。「16 現代の広島県」(執筆者:井上洋一郎)pp.291-304
19720331 『原爆資料編』発行(4000部)。
19760331 『原爆三十年 広島県の戦後史』発行(9500部)。
19840630 県史編さん事業完了(全27巻)。県史編さん室廃止。
県史編さん室、中国文化賞を受賞。
19860331 『広島県史研究 創刊号』。
<198604> <『広島県戦災史』編集委員会設置。国連が定めた国際平和年(1981年)の記念事業。1988年3月25日刊。>
198810 広島県立文書館開館。県史編さん事業で収集した資料を引き継ぐ。

出典:『戦後五十年広島県政のあゆみ』(広島県、199503)

原爆資料情報

 

内容 資料概要 備考 年月日
『広島市復興青年運動史料目録』(広島市公文書館) 1990.3.31
三菱重工広島診療所(安佐郡祇園町)での被爆者救護活動の模様 広島県立文書館だより(No.41、2017.3)8頁 垰坂道子氏所蔵文書(寄贈) 2017.3

 

被爆60年と史・資料保存-現状と課題を考える-

小特集「被爆60年と史・資料保存-現状と課題を考える-」
シンポジウムの記録
被爆60年と史・資料保存-現状と課題を考える-文献資料の観点から
『芸備地方史研究』NO.250・251pp11-20

20060425

「文献資料の観点から」宇吹 暁

広島女学院大学に勤めております宇吹といいます。四年半前までの二十五年間、広島大学の原爆放射能医学研究所に勤めておりました。広島市は、一九九一年に広島市被爆建物等継承方策検討委員会を立ち上げて、被爆建物の保存を検討していました。石丸先生も私も委員でしたが、先生は、気迫を漲らせて、保存についての主張をされておりました。見識のない私は、いつも小さくなっていたので、先生をうらやましがっていました。
私は長い間、職場である霞キャンパスの戦前の建物が壊されていくことで、次第に自分たちの環境がよくなると考えていましたが、最後の一棟となった時に、初めて、ちょっとおかしいのではないかと感じるようになりました。さきほど、石丸先生の講演の中に、広島大学医学部十一号館が壊される話がありました。この情報を知ったのは、大学からではなく、広島市の被爆建物等継承方策検討委員会の担当者からでした。「おたくの建物が壊されるということを知っているか、どうするのか」と言われて非常に恥ずかしく、情けない思いをしました。内部で、保存を訴えたのですが、全く聞く耳を持ってもらえませんでした。私の原医研での二十五年間の発言というのは、この例のように、天に唾して自分にみな戻ってくるというものでした。しかし、自分のことを棚上げして言わないと行動・発言できませんので、これからの報告もそういうものとして聞いて頂ければと思います。
文献資料への関心
まず文献資料への関心の歴史に沿ってみていきたいと思います。だいたい十年間ごとに大きな変化があったように思います。占領下で広島市自身が原爆関係資料を保存することに意義を見出した一番初めはいつかということで見てみますと、一九四九年一月二十九日付で広島市が出した「原爆関係資料の提供依頼」が、私の確認した限りでは一番古いものでした。それまで市政要覧に載せているのだけれども、それ以上の情報を国内外から求められるということが契機であったようです。これの流れだと思いますが、翌年八月六日には『原爆体験記』が出されます。この年というのは、全国的にも非常に重要な年だと思います。この前年くらいからある一部の人達が、原爆関係の事実というのを我々がきっちりと認識すべきではないかという声を起こし始めています。一例をあげますと『原爆の図』の赤松俊子さんの証言ですが、原爆で建物がやられただけではなく自分たちの精神状態も呆けていた、体験したものとして何かをやらなければいけないと思ったのが一九四八年で、それまでは空白状態であったと書いています。
戦前教員をやっていた山崎与三郎という方が、戦後、御幸橋のたもとのところで古本屋をやっておられました。私が大学卒業後広島のことを知りたいと思った際に初めて名前を知った人です。ぜひご本人に会いたいと思い伺いました。その後、山崎さんが一九四九年に自筆で書かれた「平和記念都市建設法案」を、たまたま広島大学図書館の片隅で見つけました。これは、未整理だったので今どうなっているのかちょっと心配です。「原爆に倒れん人も安らかに、平和の光受けて眠らん」。こういうように自分で書かれており、原爆資料を収集する必要性も主張しておられます(表1参照)。非常に大きな構想ですが、その中へ原爆資料の保存・調査・収集というのが入っており、山崎さんは一生かけてこの仕事を自分自身でやられたように思います。
被爆十周年を迎えた年に、広島平和記念資料館が開館します。立派な建物が出来ましたが、中身は原爆資料保存会が提供するという形で出発しているようです。資料そのものは、行政の中にも、或いは市民運動としてもあまり大きなものはなかったのです。例外的な動きはあるものの、これ以後広島市は、建物を建てることには一生懸命になりますが、中身のことはあまり本気で取り組まずにきていると思います。原水禁運動も、被爆十周年から非常に大きな盛り上がりを見せますが、資料への関心は薄かった時代と言えます。
それでは、原爆資料、被爆資料に社会的に関心が持たれるようになったのはいつからだといえば、被爆二十周年からだと思います。それの先導役を務めたのが、談和会という団体で、中四国の大学教員を中心に大学人の会というのができていたのですが、そのメンバーの一部の人たちが立ち上げています。それは、一九六四年のことで、政府にきっちりと何か動いてもらおうという被爆二十周年へ向けての新たな動きが起こりました。私はこれに直接関わっておりませんが後でこの動きを知りました。後で紹介するように、非常に大きな仕事をしています。
マスコミも、被爆二十周年の報道で、早くから本格的に準備を行ない、企画ものなど様々な形で原爆被害を取り上げました。たまたま、地元の報道機関で最も多量の報道をした中国新聞社が、これで新聞協会賞というのをもらいます。これは、日本の報道で非常に優れたものに毎年与えられているものです。原爆関連の報道が、この対象として認められたことは、他の新聞社なり中国新聞社自身のその後の報道姿勢に大きな影響を与えたと思います。平岡敬さん、大牟田稔さんなど、その後の広島市政に大きな影響力をもつ人たちが育っていったのも、二十周年の原爆報道の中であったと思います。
私は、それまでも原爆報道というのはあるのですが、八月を迎えるにあたって原爆を報道しなければいけないという恐怖観念がマスコミに生まれたのは被爆二十周年だと思います。翌年、NHKが「爆心半径五百メートル」という番組を放映して、これがきっかけで原爆爆心地復元運動というものが起こりました。これは、今日まで引き継がれている動きです。同じ年、原爆ドームの保存運動も起こっています。
原爆爆心地復元運動というのは、行政なり或いはNHKの企画を引き継いだ広島大学の原医研或いは広島市原対課などが主体であって、個人や市民のエネルギーをそういう場所へ吸収するという構造でした。市民自身が、資料についてきちんと整備をしていこうという動きとして一九六八年の二月に原爆被災資料広島研究会というのが発足します。私自身はこの研究会で最も多くのことを学びました。
談和会の動きに戻りますが、一九六四年に談和会が発足して、翌年には原水爆被災白書についての佐藤総理大臣への要望書を提出しています。佐藤栄作さんの弟さんは広島で原爆に遭い亡くなったそうで、今堀誠二先生がこの要請に行かれた折に、その話をされながら、この要望について正面から取り上げられたそうです。佐藤さんは、閣議でこの要請を検討するように指示したのですが、何をやったらいいのか分からず、受け止める省庁がなくウヤムヤになったとのことでした。今堀先生のご存命中にもう少し詳しく聞いておきたかったのですが、先生などからそのように伺っております。
談話会の動きなどがきっかけとなって原爆被災白書推進委員会が作られます。委員長は茅誠司、委員には、内閣官房長官愛知揆一など錚々たる人々が名を連ねております。占領期の山崎与三郎さんの想いを、今度は日本全国の学者が具体化しようとしたものと考えることもできます。この会が、翌年、政府に要望書を出しているのですが、その中では、日本の政府は世界に原爆被害についてどういうことを発信しなければいけないかということを非常に体系的に述べられています。ここでは、医学的調査とともに被爆者の心理的影響と社会的変動、富の損失についても研究するというテーマがあります。今日では、大きな災害、校内での殺人事件などがあるとPTSDのケアが必要だということになっていますが、こうした心理的影響への対応の認識は、日本では阪神大震災以後のことです。原爆という非常に大きな災害がありながら、これまで何等の配慮がなく今もないということは、被爆者対策の恐るべき空白ではないかと思っています。
原爆被災資料広島研究会ですが、私はこれに関わるととともに、この成果を随分利用させていただきました。慰霊碑めぐりなど色々なものをやる際に手がかりになりました。この会の中心人物の一人である田原伯さんは、非常に貴重な資料を沢山収集しておられ、詳細なデータを整理しておられました。今、それらの資料がどうなっているか分からないのですが、一九九九年には、JRから払い下げを受けたコンテナの中へ保存されていました。占領期の資料で非常に貴重なものをお持ちです。
一九七〇年代の前半というのは、全国的に原爆被害だけではなく戦争被害に対する関心が高まり、資料収集の重要性が様々な場所、行政や平和教育現場、市民運動の中でも認識をされた時期です。その主な動きをまとめております。
先ほど全国組織の要望書を紹介しましたが、地元の広島でも取り組む会が必要だということで原水爆被災資料センター設置推進に関する準備懇談会というのが、一九七二年の二月一日に広島大学原爆放射能医学研究所で開かれました。広島県の中からも担当者を出してほしいということで、県史編さん室員であった私が出席しました。私は、原水爆被災資料センターを国立で作ろうという運動に、最初の時点で関わっていたことになります。その翌年に平和教育シンポジウムというのも、第一回が開かれております。一九七四年には、呉空襲を記録する会というのが生まれました。私は呉に住んでおりますので、この運動の始めだけ関わっておりました。中国新聞社呉支局が、これを取材して独自に本にしました。早くから、会として体験記集を作ろうという声もあったのですが、「こういう運動というのは本を作ってしまったら終わりになるので作るのを遅らせよう」という意見があり、長い間実現していませんでしたが、今年にやっと出版されました(呉戦災を記録する会『呉戦災 あれから六〇年』)。
広島市は、一九七五年にアメリカにある被爆資料の調査を行いました。広島市が自分のところの資料だけではなく、海外に目を向けた恐らく最初の動きだと思います。この年は、被爆三十周年に当たり、日本学術会議が政府へ国立の原水爆被災資料センターを作れという勧告を出しました。日本学術会議は、こういう勧告が出たからか原爆問題に非常に熱心で、事務局長が変わるごとに広大の原爆放射能医学研究所に様子を見に来られました。ただ、広島大学の教員の中には、日本学術会議は、政府に立てつく組織であり、これが言うから実現しないのだという声もありました。
政府としては国立の原水爆被災資料センターは作りませんでしたが、一九七四年に広島大学原医研内に原爆被災学術資料センターを設置します。それまで医学標本だけを集める医学標本センターがあったのですが、それに医学関係資料だけではなくもっと広く資料を収集しようということで予算と人員をつけました。私は、この措置により、そこに就職することができました。国立の原水爆被災資料センター設立運動に関わった人たちからは、この措置に対する強い批判がありました。なぜかといえば、自分たちの運動がこれでごまかされたというものです。先ほど、運動というのはまとめが出ると終わりになるという意見を紹介しましたが、もう一つ組織ができるとだめになるところがあります。原医研に資料センターができたことで、一般的に資料への関心が薄まったように感じています。この運動に関わった人たちの中には、自分の仕事を片方で持ちながら今日に至るまでずっと原爆被災の基本に関わる運動・仕事を続けている人が少なからずいます。彼らに比べ私は非常に恵まれた立場にあったのですが、私もこの運動に関わっていたので、非常に肩身が狭いというか、つらい思いを、原医研へ勤めている間しばしば感じていました。
被爆四十周年前後から新たな動きが起こります。一つは、被爆者団体による原爆手記の出版、証言活動が非常に活発になりました。被爆者自身が、自分たちの声をみんなに伝えようという運動です。これは、四十周年に際立って高まります。もう一つは、広島市、広島県、厚生省といった行政機関が被爆資料に対する取り組みを始めます。まず、原爆手記集を見ていきます。一九八五年が被爆四十周年ですが、この一年間だけで二百冊を超える原爆手記を載せた本が出版されました。その多くは自費出版です。被爆四十年当時には、この事実を分かっていたわけではないのですが、次第に明らかになったので、どの程度の規模なのか、なぜこれほど手記が出されるのか、ちゃんと確認しておきたいと思い調べ始めました。手記集を編んだ意図として、自分たちに被爆五十周年はないのだから、この四十年を機に作っておこうという思いが随分入っております。そこで、五十年まで続かないのであれば、この傾向ががどう消えていくのか確認しておこうと考えました。しかし、消えるどころか持続し、被爆五十年には再び非常に多くの手記集がでるという現象がありました。結局、被爆四十周年から五十周年までずっと原爆手記の収集と分析を自分の仕事中心に据えることとなりました。その結果、一九九五年までの五〇年間に三万七七九三件の手記を掲載する三五四二点の刊行物を確認しました。
もう一つの行政などの取り組みは、先ほどの石丸先生が紹介されたものと重なる部分もありますが、単に建造物だけではなくてもっと様々な形で被爆の資料に対する関心が見られました。私が関わったもので一番早かったのは、平和文化センターが一九八四年に設置した原爆被災資料調査研究委員会です。今堀先生が座長だったと思いますが、今堀先生から依頼を受けて入りました。一九八八年の中国地域データベース推進協議会は、この当時通産省がデータベースというのは今後日本の商業戦略上非常に重要だということで色々な機関に委託研究をさせたものの一環です。中国新聞社が、新聞記事データベースの総合利用に関する調査研究というテーマで引き受け、広島でデータベース化するとすればまずなによりも原爆資料ということで私が関わりました。当時、データベースの中でわが国独自のものは四分の一に過ぎず、日本は外国のものを利用するだけで発信するものが何もないほど少ないという現状がありました。取り組みは早かったのですが、しばらくは進展しませんでした。しかし、森喜朗首相の折に、インパク(インターネット博覧会)というのがあり、それ以降さまざまな機関が、資料のデータベースの作製やホームページによる紹介に取り組んでいます。
厚生省が、被爆五十年の目玉として原爆死没者の追悼施設を作るということを計画しました。色々ややこしい経緯があったのですが、被爆者対策で弔慰金を認めないかわりに、つまり被爆者手帳を持たずに亡くなった人たちに対する対策をしないかわりにこのような追悼施設を作るという形が出てきました。これに対する反対が強く中々実現しませんでした。結局、十一年かかって国立の死没者追悼平和祈念館ができることになります。広島市は、一九九四年に広島平和記念館東館を開館します。被爆五十年を過ぎた一九九八年には原爆資料館の外部委託を打ち出しました。当時、「屋上屋を重ねる」、つまり原爆資料関連施設の機能重複論が国や広島市行政の中でまかり通っていました。私自身は、外部委託でどうなるのか見当もつきませんでしたし、その問題に意見・見解を述べるつもりはなかったのですが、この「屋上屋」論を認めてしまえば歴史的な研究や資料面に対する関心が失われてしまうという危機感を個人的に持ち、自分なりに意見を述べました。たとえば、日銀を原爆文学館として活用してほしいという市民の要望に対して、市立中央図書館や広島平和文化センターと役割が重なるとの声が市の中にありました。私に言わせれば、それでは、市立中央図書館や広島平和文化センターにどれだけ原爆文学が収められているのかと問いたいということです。小泉首相(当時厚生大臣)も、原爆死没者追悼平和祈念館をどのような中身にするかという議論の中で、広島には原爆資料館があり屋上屋を重ねるようなことはないと発言しました。それでは、原爆資料館がどれだけのものなのかと問いたいということです。一九九八年二月十五日に原爆資料館の外部委託を考えるというシンポジウムが中国新聞社の会議室で開かれました。誰が主催なのかよく分からない怪しい会議であったかと思います。そこで、様々な角度からの意見が出されたのですが、私は、行政資料や個人資料などに対する配慮が市の行政にはないということ、広島・長崎両県以外の資料は広島市の手にあまるのではないかということ、それから広島市は、自らが今抱えているもの、あるいは広島市内に存在するものについては資料の収集整理保存利用体制を整える必要があるわけで、それが外部委託で可能なのかという発言をしていました。
公共機関(厚生省・広島市)への期待
被爆六十年になった現状ですが、被爆二十周年以降原爆資料についての関心が非常に高まり、その高まりが四十年間続いた結果、我々が何かを調べようとすれば様々な形で簡単に知ることができるようになっています。国立公文書館で原爆を検索すると、国の公文書など様々なものを検索することができます。中には、要審査という簡単には見せないものも含めて公開されているというはすごいことだと思います。四十年前では考えられなかったことだろうと思います。たとえば、京都大学の行政文書ファイル管理システムがインターネットで確認できます。広島で調査を行っている最中に、台風で亡くなった人の慰霊祭関係の行政文書が残っているということが分かります。
原爆資料館の委託には、先ほど述べたように、当初、抵抗感、違和感があったのですが、人的な充実がなされた結果、非常によい仕事をされていると思います。その中身は、後で高野さんの方から報告があると思います。やはり、施設があり、そこに人がつくということは、非常に大きな変化を生むのだと感じています。それに対して、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は、国の施設でありながら、一体何をしているのだというのが、開館以来の私の気持ちです。国立というには、あまりにも恥ずかしいのではないかという気がしています。
今年、マスコミは被爆問題について非常に関心が高いように見受けられるのですが、その中の資料をめぐる内容は非常に少ないと思います。やはり被爆五十年で終わったのだという感を強くしています。マスコミに関する限り、報道のあり方が五十年と比較することによって一変しています。先ほど言った原爆被災実態や原爆資料への関心の低下は、マスコミだけではなくて全体にいえることだと思います。それから平和教育面ですが、ここに先生方が居られたら是非お話を伺いたいのですが小中高では非常に力が弱まっているように思います。その代わりといってはなんですが、幾つかの大学では活発になっており、広島市では「広島・長崎講座」というのを企画しています。現在の職場である女学院を例に見ても、年間を通じて何らかの形で原爆問題を取り上げています。また、被爆手記の出版活動は一体どうなっているのかということを昨年確認してみました。一九九六年以降、私の確認できた限りですので、もっと多くのものが出版されているはずですが、四百七点の書誌が出版されています。
最後に、新しい動きあるいは今後こういうものが色々な形で起こってくればいいということで幾つかの動きを紹介したいと思います。一つは、昨年出た本ですが『原爆と寺院―ある真宗寺院の社会史』(法藏館、二〇〇四年)という本です。新田光子さんという方は、関西方面の大学教員ですが、自分の実家が寺院ということで、或るお寺がどういう風に原爆に遭遇したのかというのを調べ始めたようです。中身は広島原爆戦災誌をベースにして、それに自分の個人的な関わりを加えているという本です。私自身は、広島原爆戦災誌を新たな形で作る必要があると思っています。この本は、そういう作業の一つだと思っています。次に、一昨日出版されました元大正屋呉服店を保存する会・原爆遺跡保存運動懇談会の『爆心地中島―あの日、あのとき―』も、爆心地域の事実というものを広島原爆戦災誌だけではなく、それ以後出版された手記集、あるいは今日生存している方々の証言を合わせてまとめられたものです。色々な地域を対象にこういう作業がやられる必要があると思っています。三つめは直野章子さんの『「原爆の絵」と出会う』(岩波書店、二〇〇四年)です。原爆の絵を全て見られたそうですが、見ている最中に、夜眠れないと言っていました。絵の情景が寝ても出てくるとも言っていました。この人は若い研究者ですが、広島市など様々な公共機関が集めている資料を、全部を見てみるというチャレンジは素晴らしいことだと思っています。この方は、この四月から九州大学大学院に就職が決まり、幸い今後も原爆問題をテーマとした研究を続けていきたいと言っておられました。
最後は、数野文明さんが、非常にマイナーで我々に見えない雑誌(『国文学研究資料館紀要 アーカイブス研究編』第一号、二〇〇五年)に執筆された「原爆とアーカイブ」という論文です。私は原爆被災で県庁の文書がすべて無くなったと教えられてきましたが、否そんなことはないということに途中で気がついていました。それを真っ向から取り上げ、一体原爆で失った行政資料はどれなのか、戦後行政の怠慢・責任で無くなった資料はどれなのかという事実関係を明らかにしています。非常に面白く読ませて頂きました。原爆問題全体について私が感じていたことですが、広島市や県の行政責任や市民自身の責任まで原爆の責任にするという広島の言説が、まま見られます。例えば占領期の問題では、アメリカ軍をみな悪者にしておけばいいというわけで、アメリカが悪かったからできなかった、占領軍が悪かったから原爆関係のこれこれができなかったという言説です。
原爆問題に関する課題は、文献資料だけを取り上げても、多くが残されています。私は、原爆問題に関心のある学生がいれば一緒に、『広島原爆戦災誌』のテキストをパソコンに取り込んで、活用していこうと思っていましたが、最近、広島市のホームページ上に掲載されているのを見つけました。広島市の当面やるべきことの一つとして、この本の改訂版の作成があると思っています。これは、何も本にする必要は毛頭なく、インターネット上でちゃんと見られるようにすればいいと思います。広島市へ全部これをきちんとやれと言っても、広島市もやることが多いし何も全部やってもらわなくてもいい。それぞれの団体、あるいは関わりのある人々がその改訂版を作っていけばいいと思います。私の場合は、今広島女学院にいますので『戦災誌』の広島女学院部分の改訂作業が、同窓会関係者や学生とともに行えればと考えています。また、折鶴の会の世話をしておられ、広島女学院中高に勤めておられた河本一郎さんの資料を原爆資料館が引き取って下さり整理されています。これらも女学院の関係者で活用させていただければと思っています。
五~六年前元の職場にいた折に、主に政府関係者に対し資料は無限にあるのだということを主張する根拠として、原爆被害関連組織の一覧表を作りました。一九四五年だけでも、三つがあります。これをずっと見ていくと、膨大な団体が生まれております。例えば、一九五七年九月十五日には原爆被害者大分県協議会というのが作られており、五七年三月二十九日には岡山県原爆被害者協議会というのが作られています。毎年、多くの被爆に関わる組織が作られてきています。これらは、資料を生んでいるはずです。そうした資料は、組織が消滅した後にどうなるのだろうか、それぞれの行動記録は残されていくのだろうかと考えると、はなはだ心もとない限りです。これは、広島、長崎あるいは関係者がやれば一番いいのですが、そういうことができないまま消えてしまうものも多くあったと思います。これらへの配慮を、国だけでは無理ですが、少なくとも全国的な運動にならなければならないといけないと思います。『広島県史』を作る折に、広島県予防課と広島市原爆被爆者対策課の資料調査をさせて頂いたことがありますが、原爆手帳交付申請書というのが保管されていました。これは、全国の各県庁にあるはずですが、恐らく広島県や長崎県を除く他県では、こういう資料の重要性を認識してもらうのは非常に難しいのではないかと思います。これら、他県にある資料を一体どうするのかということです。秋田県は、被爆者が全国で一番少ない県で、何年か前にすでに百人を切っていますが、そういった資料は今後どうなるのかということです。時間を四十分使ってしまいましたが、以上で終わります。

山崎与三郎の広島平和記念都市建設方案1949年9月20日

 

 

ローマ法王平和アピール碑

ローマ法王平和アピール碑 1983年2月25日 場所:広島市(広島平和記念公園・広島平和記念館)

資料

「ライオンズを探せ!@広島県・広島 村上薫元国際会長のテーマを伝えるピープル・アット・ピースの碑」(『LION 日本語版 2015年10月号』https://www.thelion-mag.jp/emag/201510/index_h5.html)

文献

 

 

年表:原爆展(1951年)

年表:原爆展(1951年)

記事
02 28? 広島市、西独・ハノーバーで開催予定(7月から約1月)のドイツ復興博に原爆被害写真や復興状況の統計を送ることを決める。
03 28 西独ハノーバー市で開催予定(5月)の都市計画博覧会に出品される東京・広島・長崎のパノラマ、東京日本橋・三越で展示。
05 01 京都大学で春季文化祭「わだつみの声にこたえる全学文化祭」を開催。-20日。この中で同学会主催の原爆展が開催される。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
05 19 京都大学で「原爆に関する講演会」(木村毅一・天野重安・大田洋子の講演)。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
06 この月初め、京都大学文学部学友会の呼びかけにより「原爆体験記編集委員会」を作り、宮川裕行を中心に編集にとりかかることを決定。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
06 09 京都大学の学生、丸木夫妻から総合原爆展への「原爆の図」出展の了解を得て東京から帰任。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
06 10 京都大学の学生、広島より総合原爆展用の大量の原爆資料を持って京都に帰任。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
06 13 同志社大学「平和に生きる会」、原爆展を開催。-18日。3500人が参観。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号収録の「都新聞」)
06 13B 京大=原爆展を中心に全京都的な青年文化祭を行う。(「連盟通信」第101号)
06 15 京都大学同学会、ビラ「京大原爆展を成功させるために」を発行。(「資料戦後学生運動3」)
06 15 東京大学五月祭で展示された原爆資料が京都に到着。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
06 京都大学の学生、「原爆展」の準備のため広島で吉川清を訪問。吉川、上洛の意向を学生に表明。(京大同学会「京大原爆展を成功させるために」)
07 10 京都大学同学会、原爆展を丸物百貨店で開催。10日間。
07 14 京都大学同学会、丸物で総合原爆展を開催。-24日。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号収録「都新聞」7月21日付)
07 22? 宮川裕行(京都大学文学部学生)、広島で原爆体験の手記募集活動を行う。県庁職組、市庁職組・千田書房などを回る。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
08 06 丸木・赤松夫妻の「原爆の図」第4部「虹」、第5部「少年少女」が完成し、東京・日本橋丸善画廊で展覧会。-11日。(「連盟通信」第105号)
08 17 高槻市・京都大学同学会、市会会議室で原爆展を開催。-19日。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号)
08 20 「東京平和会議ニュース」第4号、広告「原爆写真展を御利用下さい!!」を掲載。写真内容=原爆の図(16枚)、広島被害写真(5枚)、赤松丸木絵ピカドン(台紙4枚張17枚)の計38枚。
08 23 川崎駅前の百貨店で赤松俊子の「原爆三部作展」開催(長崎民友)。
08 23 赤松俊子・丸木位理共同製作「広島原爆図展」、川崎駅前・小美屋で開催。-30日。(「進む車両」1951年8月20日)
08 25 民主主義科学者協会・新日本建築家集団・新日本医師協会・京都大学同学会、「戦争・平和をめぐる科学技術展」開催準備のため展示物の一部を占める京都大学同学会の「原爆展」を東京都港区の全銀連会館で関係者に公開。-27日。(大原社研資料)
08 30? 民科・新日本建築集団・新日本医師協会・東大職員組合、9月10日-20日の間、浅草の松屋、渋谷の東横で「戦争と平和の科学技術展」の開催を計画。(「連盟通信」第106号)
09 01 横浜市従業員労働組合、神奈川体育館で「第1回市従平和文化祭」を開催。-5日。行事の一つに原爆絵画展(赤松・丸木協作原爆の図第1部-第5部)。(大原社研資料)
09 22 第38回日本エスペランチスト大会。京都大学エスペランチスト会、名古屋市の区役所廊下で原爆スチールを展示。(「原爆展」掘り起こしニュース)
11 01 大阪大学の体育文化祭で「原子力展」を開催。(「原爆の子に応えよう」520227)
11 08 岐阜大学農学部で文化祭。-11日。自治会主催の原爆展が開催される。(「連盟通信」第116号)
11 20 北海道・札幌市の丸井デパートで「原爆の図展」を開催。-21日。(「原爆展」掘り起こしニュース第5号、「女絵かきの誕生」)
11 22 静岡大学の文化祭で「原爆展」を開催。-25日。(「原爆展」掘り起こしニュース第5号)
11 24 札幌市警、北海道大学の原爆展会場に展示されていたパネル3枚(広島・長崎に落ちた原爆についての市民の声)を占領目的阻害行為処罰令被疑として押収。(「連盟通信」第117号、「女絵かき誕生」)
11 33 「原爆の図」展、1950年2月から51年11月までの期間に、日本全国51か所で延べ223日間開催され、約65万人が入場。(「原爆の図」19520410)

年表:原爆展(1948~50年)

年表:原爆展(1948~50年)

記事
48 08 ? 夏、丸木位里・赤松俊子、「原爆の図」の製作に着手。
48 08 05 長崎市、市立博物館で原子爆弾史料展示会、開催。(~11日)
48 08 06 アトム・ヒロシマ写真・画展、広島市内の茶房で開催(~8日)。中国新聞社写真部松重ら5氏の写真や福井芳郎のスケッチを出品。
49 04 21 広島県観光と物産展、東京日本橋・三越本店で開幕。-28日。「平和の鐘」を展示。
49 08 03 広島市平和協会主催「浮世絵展」、福屋百貨店で開幕。-14日。
49 10 14 広島市中央公民館、全国民生・児童委員大会の協賛行事として原爆写真展を開催(~18日)。
50 02 08 日本美術協会主催第3回アンデパンダン展(東京上野・美術館)。11日間。丸木位里・赤松俊子、「八月六日」(「原爆の図」第1部幽霊)を出品。(「原爆の図」19520410、「三田文学」1950年6月、「女絵かきの誕生」19770820)
50 02 11 広島市中央公民館で、原爆と平和展(広島平和協会主催)、開催(3月12日まで)。原爆関係資料展示。3月8日までの入場者数大人4273人、小人1611人。入場者収入32万2290円。
50 02 21 長崎市、日本産業博覧会(3月15日から、於神戸市)に長崎館を設置し、原爆資料など展示することを決定。
50 03 桃李会主催「原爆の図」展、丸善で開催。(「三田文学」1950年6月)
50 06 01 共産党東京都委員会、池袋駅前で「原子爆弾写真展」を開催し、平和投票を集める。
50 06 21 アカハタ、東京で戦争反対、原子爆弾の使用禁止の宣伝のため原爆による被害を示した数枚のポスターを紙上で紹介。
50 08 月刊誌「働く婦人」、グラビアで赤松俊子夫妻の「原爆の図」を紹介。峠三吉の詩「呼びかけ」、記者常見一の広島ルポ「原子沙漠に草萌えて」を掲載。
50 08 ? 全商工本省支部が省内で開催した原爆写真展の写真が巡視により没収される。(千代田区平和を守る会「平和ニュース」第2号、1950年8月12日)
50 08 07 丸木・赤松の「原爆3部作展」東京・日本橋の丸善画廊で開催。-12日。15-20日には銀座・三越で開催。合わせて9万人が参観。(「連盟通信」第68号、「日本評論」1950年10月)
50 08 18A 日本美術会・婦人民主クラブ・女子勤労連盟・平和を守る会、東京有楽町交通協会で、原爆3部作完成記念の懇談会を開催。本郷新(司会)、八田元夫(丸山定夫の思い出話)、淡徳三郎、武谷三男、大田洋子の話に続き、赤松・丸木夫妻の挨拶。
50 10 ? 民科米子支部、「原爆の図」展を開催。3500人が観覧、2500票のSアピールを集める。(「歴史評論」1951年9月)
50 10 05 広島市内五流荘で原爆の図三部作展覧会始まる。5日間でストックホルムアピール署名186票。(「民族の星」1950年10月16日、10月21日)
50 10 07 「われらの詩の会」、峠三吉のアパートで壷井繁治・丸木位里・赤松俊子を囲む集まりをもつ(「われらの詩」1950年12月15日)
50 10 08 広島市・五流荘で「壷井・丸木・赤松諸氏を囲む座談会」が開かれる。(「われらの詩」1950年12月15日)
50 10 20 広島県・上下高校の記念祭で「平和展」.会場で原爆写真などを紹介(25日まで)。

年表:原爆展

 

 

1948~50年)、1951年、 1952年、 1953年、 1954年、 1955年、 1956年、
1958~64年)、 1967年、 1968年、 1969年、 1970年、
1971年、 1972年、 1973年、 1974年、 1975年、
1976年、 1977年、 1978年、 1979年、 1980年、
1981年、 1982年、 1983年、 1984年、 1985年、
1986年、 1987年、 1988年、 1989年、 1990年、
1991年、 1992年、 1993年、 1994年、 1995年
1996年、 1997年、 1998年、 1999年