内閣総理大臣挨拶(墨書き 佐藤栄作)1971年8月6日
内閣総理大臣挨拶(墨書き 佐藤栄作)1971年8月6日
広島市平和記念式典案内状(2005年)
内閣総理大臣挨拶(墨書き)
年 | 名前 | 備考 |
昭和38年(1963) | 池田勇人 | |
昭和40年(1965) | 佐藤栄作 | |
昭和41年(1966) | 佐藤栄作 | |
昭和42年(1967) | 佐藤栄作 | |
昭和44年(1969) | 佐藤栄作 | |
昭和45年(1970) | 佐藤栄作 | |
昭和46年(1971) | 佐藤栄作 | 本人 |
昭和47年(1972) | 田中角栄 | |
昭和51年(1976) | 三木武夫 | 本人 |
昭和52年(1977) | 福田赳夫 | 2種類残存 |
昭和53年(1978) | 福田赳夫 | |
1991年の外国人参列者の概要
<区分> | 人 |
来賓席(計34人) | |
世界テレビ映像祭関係者 | 16 |
その他 | 18 |
団体席(計339人) | |
原水爆禁止1991年世界大会海外代表者 | 100 |
YMCAピースセミナー参加者一行 | 50 |
第38回国際学生会議参加者 | 40 |
被爆46周年原水爆禁止世界大会海外代表者 | 36 |
日米文化センタ-関係者一行 | 20 |
ニュージーランド・ギスボン市長一行 | 16 |
ワールドフレンドシップセンター関係者一行 | 15 |
広島市国際交流員及び英語指導助手新規招致者 | 14 |
英国・ブライトン市元市長一行 | 11 |
英国・コベントリー市青年一行 | 11 |
その他 | 26 |
出典:広島市『平成3年平和記念式典資料』
総理大臣・衆参両院議長の参列状況(1971-91年)
年 | 総理大臣(代理) | 衆議院 | 参議院 |
1971 | 佐藤栄作総理大臣 | 船田中(議長) | 森八三一(副議長) |
1972 | 二階堂進(内閣官房長官) | (メッセージのみ) | (メッセージのみ) |
1973 | 二階堂進(官房長官) | (メッセージのみ) | (メッセージのみ) |
1974 | 斉藤邦吉(厚生大臣) | (メッセージのみ) | (メッセージのみ) |
1975 | 田中正己(厚生大臣) | 秋田大助(副議長) | (メッセージのみ) |
1976 | 三木武夫(総理大臣) | (メッセージのみ) | (メッセージのみ) |
1977 | 藤田正明(総務長官) | (メッセージのみ) | 加瀬完(副議長) |
1978 | 安倍晋太郎(官房長官) | (メッセージのみ) | (メッセージのみ) |
1979 | 橋本龍太郎(厚生大臣) | 灘尾弘吉(議長) | (メッセージのみ) |
1980 | 宮沢喜一(官房長官) | (メッセージのみ) | 徳永正利(議長) |
1981 | 鈴木善幸(総理大臣) | (メッセージのみ) | 秋山長造(副議長) |
1982 | 森下元晴(厚生大臣) | (メッセージのみ) | 徳永正利(議長) |
1983 | 中曽根康弘(総理大臣) | (メッセージのみ) | 木村睦男(議長) |
1984 | 渡部恒三(厚生大臣) | (メッセージのみ) | (メッセージのみ) |
1985 | 中曽根康弘(総理大臣) | 坂田道太(議長) | 木村睦男(議長) |
1986 | 斉藤十朗(厚生大臣) | 原健三郎(議長) | 藤田正明(議長) |
1987 | 中曽根康弘(総理大臣) | 多賀谷真稔(副議長) | 藤田正明(議長) |
1988 | 藤本孝雄(厚生大臣) | 多賀谷真稔(副議長) | 藤田正明(議長) |
1989 | 宇野宗佑(総理大臣) | 安井吉典(副議長) | 瀬谷英行(副議長) |
1990 | 海部俊樹(総理大臣) | 桜内義雄(議長) | 小山一平(副議長) |
1991 | 海部俊樹(総理大臣) | 桜内義雄(議長) | 土屋義彦(議長) |
出典:新聞報道、広島市総務局総務課の資料
特別来賓の案内数(1991年)
区分 | 人員 |
国機関 | 9 |
県関係 | 2 |
名誉市民 | 4 |
特別名誉市民 | 3 |
被爆者代表・遺族代表 | 55 |
長崎市民代表 | 3 |
地元選出・出身国会議員 | 18 |
22人委員会 | 24 |
国の出先機関 | 49 |
財界代表 | 17 |
市政功労者 | 40 |
平和問題調査会 | 18 |
平和文化センタ- | 35 |
平和団体関係 | 8 |
広島市原爆被爆者協議会 | 9 |
広島原爆障害対策協議会 | 20 |
医療機関・研究機関 | 8 |
その他 | 10 |
出典:広島市『平成3年平和記念式典資料』
平和式典の参列者
(7) 一般参列者
平和式典への参列者の顔ぶれは、広島市当局の招待者と同様、一般参列者も、年ごとに多彩となってきた。賀茂郡西条町(現西広島市)の原爆被害者の会は、1958年(昭和33年)に地元で第1回慰霊祭を開催したが、翌59年には、第5回原水爆禁止世界大会への参加をかねて、貸切りバスで式典に参列した。こうした被爆者団体の組織的な式典への参加は、その後も見ることができる。73年には西宮市原爆被害者の会の会員44人が参列した。この旅費は、原水爆禁止西宮市協議会が結成15周年を記念して全額負担していた。被爆40年にあたる85年には、被爆者団体の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会が、墓参団を組織し、平和記念式典に参列した。
甲府市は、1984年の平和式典に市民代表約50人を派遣した。甲府市議会は、82年7月に県庁所在地の都市としては初めて「核兵器廃絶平和都市宣言」を決議したが、広島の式典への市民の派遣は、宣言に基づく具体的な行動の一つとして企画されたものであった。自治体による式典への市民派遣は、非核宣言自治体の増加とともに増えていった。広島市に連絡された限りの数(配席要望数)であるが、89年24団体422人、90年36団体603人、91年38団体1,005人となっている。91年の式典に多くの市民を派遣した自治体としては、東大阪市(「広島平和バスツアー」100人)、甲府市(80人)、藤井寺市(「平和バス」50人)、高知市(「広島平和のバス」50人)、藤沢市(「広島平和ツアー」48人)などがあった。
平和式典の参列者
(6) 遺族、被爆者、市民、平和団体代表
当初の式典は、占領軍関係者、政府代表を中心とした官製色の強いものであった。しかし、遺族代表の花輪奉呈(1954年)、「原爆乙女」の平和の鐘点打(57年)、被爆者代表の献花(61年)など、市民的色彩を強める工夫が徐々になされた。
1970年(昭和45年)の式典で採用された「流れ献花」は、市民的色彩の強化という点では、画期的な試みであった。この年、市長、総理大臣代理などの献花に引き続いて、10才から75才までの市民代表男女各25人計50人が、白と黄の菊を各3輪計6輪ずつ原爆死没者慰霊碑に献花した。50人の大半は、市内の各地区社会福祉協議会などから推薦された日本人であったが、在日本大韓民国居留民団広島地方本部と在日本朝鮮人総連合広島県本部から推薦された韓国人・朝鮮人代表の姿もあった。この式次は、被爆25周年という節目の年にあたり広島市が採用したものであった。しかし、その後も続けられ現在に至っている。参加する市民の数は、70年に倍増された。91年には市内の地区社会福祉協議会(67人)、広島市原爆被爆者協議会(6人)、広島被爆者団体連絡会議(6人)、日本原水爆被害者団体協議会(1人)、在日本大韓民国居留民団広島地方本部(1人)、広島県朝鮮人被爆者協議会(1人)、日本労働組合総連合会広島県連合会(2人)から推薦された84人が、流れ献花を行なった。
このほか、1981年からは全国の各都道府県から毎年1人ずつ原爆犠牲者の遺族代表が招へいされるようになった。厚生省は、80年12月の原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に沿う犠牲者に対する特別な弔意として、81年度予算に式典参列に対する補助金394万円(うち広島分169万円)を計上したが、この招へいは、これに伴う措置であった。広島市は、厚生省の予算に市費57万円を上積みして実施した。81年には、47都道府県から参列した遺族のうち、北海道と沖縄から参列した遺族2人が、全国の遺族代表として「献花」を行なった。なお、遺族代表の枠は、被爆40周年の85年のみ1県1人から3人に増やされている。これは、被曝40周年記念事業として「原爆被爆者援護事業功労者厚生大臣表彰」が広島市で行なわれたためである。
原水禁運動関係者の公式の参列は、1964年以降途絶えていたが、68年から再び見られるようになった。同年6月24日、山田広島市長は、原水禁運動を進めている3団体(原水協、原水禁、核禁会議)の代表を3団体の統一を願って特別来賓として招待すると発表した。また、世界連邦主義者である山田市長は、この年から、原水禁団体の代表とともに世界連邦諸団体(世界平和アピール7人委員会、世界連邦建設同盟、世界連邦宣言自治体全国協議会)の代表も招待している。91年の式典には、原水禁3団体、世界連邦諸団体(世界平和アピール7人委員会、世界連邦日本国会委員会、世界連邦建設同盟)のほかに核戦争防止国際医師会議日本支部、原水爆被害者団体協議会の代表が、「平和団体関係者」として招待された。このほかに、最近では、広島平和文化センタ-、核軍縮を求める22人委員会、平和問題調査会の関係者やメンバーも、招へいされている。
平和式典の参列者
(5) 海外からの参列者
1955年(昭和30年)の原水爆禁止世界大会(第1回)には、14か国52人の海外代表が参加した。この中のインドから参加した夫妻が、平和式典において「花輪奉呈」を行なった。この後、広島市が再び世界大会の会場となった59年(第5回)および61年から63年(第7-9回)にかけても、「花輪奉呈」という形で、世界大会参加の海外代表が式典に公式に参列していた。しかし、広島市は、63年の世界大会の混乱を契機に、世界大会外国代表の「花輪奉呈」を廃止した。
1967年4月に広島市長となった山田節男は、同年6月2日に開かれた平和式典実施要項を検討する市の幹部会議で、世界の著名人を式典に招く構想を明らかにした。しかし、在任中に、この構想が具体化することはなかった。ところが、この構想は、つぎの荒木市長により、国連関係者の参列という形で実現された。70年代中ごろから、非同盟諸国や国際的な平和団体は、核軍縮への関心を高め、そのイニシアティブを国連に求めるようになっていた。広島・長崎両市長も、76年12月1日、国連本部を訪問し、ワルトハイム事務総長とH.S.アメラシンゲ国連総会議長に核兵器廃絶への措置を要請した。さらに、両市長は、翌77年5月15日、式典への招請状を発送した。こうした両市の働きかけに応え、77年の式典には、アメラシンゲ総会議長と国連事務総長代理(マイケル・クラーク国連広報センタ-所長)が両市の式典に参列した。その後も、85年にはヤン・モーテンソン国連事務次長が、また86年と89年には明石康国連事務次長が、それぞれ国連事務総長代理として出席している。
広島市は、1984年から名誉市民および特別名誉市民を招へいするようになった。84年には、フロイド・シュモーとメアリー・マクミラン、85年にノーマン・カズンズとバーバラ・レイノルズと、復興期の広島に救済の手をさしのべたアメリカ人が、特別名誉市民として招へいされている。また、85年以降、広島市は、国際会議(シンポジウム)を毎年開催するようになったが、会議(シンポジウム)参加者は、来賓として式典に参列した。
外国人の参列は、式典の中で目だち、マスコミはこれを大きく取り上げた。1969年の式典には、約30人の広島在住の韓国婦人が民族衣装で参列した。同年3月14日にソウルの韓国原爆被害者援護協会と広島折鶴の会が姉妹団体となったことが、この参列の契機となった。その後も、日米学生会議の90人(75年)、婦人国際平和自由連盟一行60人(77年)などの海外からの参列者が見られた。84年には、580人という多数の外国人が参列した。原水爆禁止1984年世界大会参加の90人、7月下旬東京で開催された国際自由宗教者世界大会で来日中の宗教者265人などであった(「朝日新聞」1984年7月28日)。外国人の参列者は、この後も例年300人を超えている。広島市に配席の希望があったものだけでも、85年252人、86年521人、87年354人、88年299人、89年388人、90年312人となっている。広島市は、91年の式典において、こうした外国人参列者のためにレシーバーを貸し出し、英語の同時通訳を流すという試みを初めて採用した。なお、91年の外国人の参列状況は、表8のとおりであった。
平和式典の参列者
(4) 長崎市など他都市からの参列者
広島・長崎両市は、同じ被爆地あることから、当初からお互いの式典に対して関心を持っていた。浜井信三広島市長と大橋博長崎市長は、被爆から3周年目の式典を前にした1948年(昭和22年)7月31日に、新聞社の求めに応じ電話で対談している(「中国新聞」1948年8月1日)。また、翌49年7月28日、浜井市長は、東京からの帰途立ち寄った大橋市長につぎのように提案した。
8月6日を世界平和デーとする動きは世界的なものとなりつつあるので、このさい6日から5日間を世界平和週間とすると長崎の方も9日が入るのでよいが、検討して欲しい。 (「中国新聞」1949年7月29日)
1954年には、広島市青年連合会の代表が、広島市の平和宣言、市長および市議会議長のメッセージを持って長崎の式典に参列、翌55年にも、広島市長は、長崎の式典にメッセージを寄せた。こうした両市の式典の関係は、72年の長崎市の卜部壮一助役らの広島市の式典への参列を契機に、式典への相互参列という形に発展した。翌73年には、広島市が、諸谷義武長崎市長、宮崎勝美長崎市議会議長、被爆者代表を初めて招待し、山田節男広島市長らが、初めて長崎の式典に参列した。
長崎市のような継続的な参列ではないが、多くの自治体の代表が、平和式典に自主的に参列している。1955年および59年に広島で開催された原水爆禁止世界大会には、全国各地から自治体の首長が参加しており、その多くは平和式典にも参列したと推定される。74年には屋良朝苗沖縄県知事が参列した。これは、広島県知事の訪問要請に応じたもので、他府県の知事としては初めての公式参列であった。反核運動が大きな盛り上がりを示した82年以降、式典会場には非核宣言を行なった自治体の首長の姿が見られるようになった。82年には、全国で15の非核宣言自治体のうち8自治体の首長らが参列し、86年には、非核都市宣言自治体連絡協議会代表100人が、協議会として初めて式典に参列した。