『炎のなかに 原爆で逝った級友の25回忌によせて』(旧比治山高女第5期生の会、19690806)
内容
頁 |
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01 |
国信玉三 |
序 |
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02 |
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原爆死没者名簿 |
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11 |
秦政子 |
第二総軍に動員された学徒 |
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15 |
平松イチコ |
原爆の思い出 |
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17 |
荒木克子 |
軍管区司令部に動員されて |
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21 |
恵美敏枝 |
通信室・終戦まで |
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26 |
大畠麗子 |
山縣さんのこと |
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28 |
岡ヨシエ |
交換台と共に |
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32 |
倉田美佐子 |
通信部の解散まで |
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35 |
児玉典子 |
二葉の里のことなど |
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40 |
中川トモヨ |
八月六日 |
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41 |
西田安子 |
蓮の花の思い出 |
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44 |
花田艶子 |
あの日のこと |
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46 |
三浦冨美枝 |
猿猴川を渡って |
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48 |
安宅義則 |
木魚の話 |
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50 |
国信玉三 |
思い出すままに |
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あとがき |
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止
幟町国民学校原爆犠牲者慰霊碑護持会(幟町公園慰霊碑護持会) 慰霊碑 建立年1981年 建立場所:元幟町小学校跡
冊子
年月日 |
資料名 |
メモ |
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G=原爆資料館蔵、U=宇吹蔵 |
1983/05/01 |
原爆死者名簿 広島地区東第一特設警備部隊関係分中部第32037部隊山内隊及び世羅部隊 |
G |
1983/05/15 |
原爆の記 抜粋 |
G |
1984/05/13 |
幟町国民学校の被爆状況 |
G |
1985/05/19 |
原爆に散華 橋本副官追悼の記 |
G |
1987/05/17 |
夫と二児を奪い取られて 抜粋 |
G |
1987/05/17 |
原爆に愛児を失いて-抜粋(玉田富子著) |
G |
1987/05/17 |
幟町公園慰霊碑護持会 慰霊祭資料 (自昭和45年度 至昭和49年度) |
G |
1988/05/15 |
撫子抄 |
G |
1989/05/21 |
原爆秘録 (生き地獄さながらの広島、衛生兵助けてくれ、原爆に今も弟を捜す) |
GU |
1990/05/20 |
追憶 |
G |
1991/05/19 |
追憶 続 |
G |
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広島市立商業学校・広島市立造船工業学校
原爆戦没者慰霊碑
建立年月日:1963(昭和38)年8月6日
場所:広島市・平和記念公園
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撮影日:2015年8月6日 08:59 撮影:宇吹暁 |
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(正面)(原文右横書き)
慰霊碑
(裏面)
建立発起人総代
広島市商同窓会々長 堀江守
同 副会長 平岡繁穂
同 同 大田広一
遺族代表 宮本卯三郎
広島市立造船工業学校原爆戦没者(略)
広島市立商業学校卒業生戦没者(略)
〔左側碑〕
碑文
青天の霹靂とはまさにこのことであった
昭和二十年八月六日午前八時十五分 われらの郷土広島は ただの一発の原子爆弾によってこの世ながらの地獄を現出し一瞬にして壊滅した
われらが母校広島市商は当時造船工業に転換を余儀なくされていたのであるが 当時学徒動員市内建物疎開作業に出動中の生徒二七〇名付添職員三名もまた 全滅の悲運に遭った
われらは年少の諸君の清純熱烈な愛国の至情に想いを至し 可憐悲痛全くいうべき言葉を知らない
われらここに殉難生徒職員各位の諸霊の冥福を祈り かくの如き悲劇の再び人間の手によってくり返さしめざることを誓うとともに 併せて今次大戦を通じて戦列に参加し 奮戦苦闘武運拙くも散華して護国の鬼と化した多数の旧市商同窓生各位の英霊をも弔うべくこの碑を建立し われらの微衷を永く後世に伝えんとするものである
昭和三十八年八月六日
広島市商同窓会 造船工業学校遺族
広島市商業高等学校長 田中浩造
撰文
〔右側碑〕(原文左横書き)
原爆戦没者慰霊
原爆死没者(五八名人名略)
戦争死没者(一〇一名人名略)
〔説明柱〕
広島市商業学校
広島市造船工業学校
原爆戦没者慰霊碑標
被爆動員学徒死没者の慈母観音像
建立年月日:1966(昭和41)年7月31日
場所:広島市・平和大橋東詰
[台座正面]
観音となりて平和を守りゆく
少年学徒らのみたま尊し
康夫
[台座裏面]
世話人代表 秋田正之
[側碑]
慈母観音に抱かれ眠る 汝が姿
心にえがきて われら安らぐ
礼助
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撮影年 2015年8月6日08:46 撮影者:宇吹暁 |
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撮影年 不詳 撮影者:宇吹暁 |
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袋町小学校平和資料館
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2015年8月6日撮影 |
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ニック・ユソフ墓
南方特別留学生 |
場所:広島市佐伯区五日市 光禅寺 |
2019年5月26日撮影 |
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動員学徒慰霊塔
建立年月日:1967(昭和42)年5月
場所:広島市中区大手町・原爆ドーム側
動員学徒慰霊塔
[裏面]
広島県動員学徒犠牲者の会
会長 石橋礒一
建設委員長 大東和徳雄
後援会長 檜山袖四郎
設計者 村田相互設計事務所
彫刻者 円鍔勝三
施工者 株式会社砂原組
昭和42年5月
[右側碑]
慰霊塔建設委員
委員長 大東和徳雄
副委員長 朝日輝一 松田亀夫
委員 石橋礒一 沖本津代 栗末義則 笹野口栄 佐々木寿雄 住田道子 平馨 辰本キミヨ 寺前妙子 土井通哉 二井サワエ 温品康子 判田勇 升田建造 丸谷儀一
[側碑]
動員学徒 歌
ほのお果てては
一、君知るや 学徒百万 祖国こそ 生くる命と うち捨てぬ ペンもノートも
二、たたかいの すさぶ折から こぞり立ち 力つくして うち振りし 鎌やハンマー
三、黒髪の 子らも男の子も 若き胸 血汐こぼれて うち絶えし 者や幾人
四、禍つ日の ほのお 果てては いけにえの 人となりもて うち目守る 明日の世界を
うち目守る 明日の世界を ああ学徒 動員学徒
(広島県動員学徒犠牲者会撰)
第二次世界大戦中増産協力等いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は全国にわたり三百数十万人あたら青春の光輝と学究の本分を犠牲にしつつ挺身した者の内戦禍にたおれた者は一万有余人その六千余人は原爆死を遂げたこの塔は明眸青雲を望み将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと有志同胞の手によってうち建てた
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。