エドマンド・ブランデン詩碑<作業中>
| 2019 0221 宇吹暁撮影 |
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| 18961101―19740120 |
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ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。
エドマンド・ブランデン詩碑<作業中>
| 2019 0221 宇吹暁撮影 |
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横山英
| よこやま・すぐる | 1924生20060106没 | 中国史学者。 広島文理科大学卒業。1975年「中国初期立憲思想の研究」で名古屋大学法学博士、広島大学文学部助教授、教授。1988年定年退官、名誉教授。 |
<工事中>
『核を葬れ!森瀧市郎・春子父娘の非核活動記録 』(広岩近広、藤原書店、20170806)内容
| 章 | ||
| プロローグ | ||
| 1 | 「力の文明」の対極に「愛の文明」 | |
| 右目に突き刺さった原爆のガラス片 残された左目に映った広島の惨禍 原爆と敗戦の深い傷痕 同僚や子らの死に深い悲しみ 戦争は「力の文化」の必然的帰結 原子力時代に求められる新しい道徳 |
||
| 2 | 「ヒロシマ後の世界」を見据えて | |
| 「広島子どもを守る会」が発足 ビキニ事件に憤慨して原水爆禁止国民運動 六〇年安保に揺さぶられた平和運動 国民運動は原水協と原水禁に分裂 |
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| 3 | 「不殺生」「非暴力」「生命への畏敬」 | |
| 国民平和使節として欧州に反核の旅 大学に辞表を提出して、重大決意を実行 「原水爆禁止広島母の会」の活動 三人の聖者の生き方に感銘 「人類は生きねばならぬ」と退官後も奮迅 |
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| 4 | 幻想だった核の平和利用 | |
| 平和利用の名のもとに原発の建設計画 原発は原爆の材料プルトニウムをつくる 「核と人類は共存できない」と世界に訴える 反核の力を結集させたい 「ヒロシマの役割」を再認識する 非核の未来をつくらねばならない 「それでも原発は危険だ」と言いつづける 「いのちとうとし」のラストメッセージ |
||
| 5 | ウラン採掘に始まる放射能汚染 | |
| インド.パキスタンの若者と平和交流 ウラン鉱山の放射線被害を現地で調査 「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」が始動 「子どもの命を返してくれ!」 劣化ウラン国際大会が警告した内部被曝 |
||
| 6 | 原子力体制を問う | |
| 核廃絶は、原発廃絶と切り離せない 日本政府の原発輸出と核政策を問う 「国から二度、棄民にされた」 三つの課題と三つのキーワードで責任を追及 法廷で「核の人道に対する罪」を陳述 フクシマを忘れない、繰り返させない特別アピール |
||
| 7 | 地球規模で広がるヒバクシャ | |
| 核被害を総合的に捉える 「私たちには怒る義務がある」 ヒバクシャは世界的な用語になった 「核なき世界」を目指す取り組み オーストリアが「人道の誓約」 「平和の種」が「反核の息子」に 核兵器禁止条約に反対する被爆国 国連で、核兵器禁止条約を策定 |
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| エピローグ | ||
| 資料 | ||
| 世界核被害者フォーラム 広島宣言 世界核被害者の権利憲章要綱草案 核兵器禁止条約 |
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| 森瀧市郎・春子の活動年譜 | ||
| 主な引用・参考文献 | ||
松重美人「世界の記録写真」をめぐって
記事見出し
世紀の記録写真 米誌が全世界へ紹介
生きている”死せるカメラマン”
『夕刊ひろしま』1946年7月6日第2面(広島県立文書館蔵)
出典:『禁じられた原爆体験』(堀場清子、岩波書店、19950623)pp.57-71
『広島は訴える 原爆広島11年の記録』(小積明男<川手健?>編、発行者:吉川清、発行所:広島原爆資料出版会、19560801)
目次
| 頁 | 見出し | |
| 002 | その朝までの広島 | |
| 005 | 運命の日、八月六日 | |
| 014 | 原爆は平和をもたらしたか | |
| 019 | 魔の遺産、原爆症 | |
| 045 | 原爆被害者の生活 | |
| 069 | 原爆被災児の実態 | |
| 082 | 原爆被害者の運動 | |
| 103 | 原水爆禁止運動の発展 | |
| 128 | 附録1 原爆障害者調査結果表(原対協発表) | |
| 132 | 附録2 原爆被害者の損害賠償請求起訴状 | |
| 145 | 附録3 損害賠償請求訴訟の政府側答弁書 | |
『「原爆一号」といわれて ちくまぶっくす36』(吉川清、筑摩書房、19810724)
目次
| 章 | 頁 | 見出し |
| はじめに | ||
| 1 | 怒りこみ上げる基本懇の答申 | |
| 1 | 運命の日 | |
| 8 | 夜勤明けのその日 | |
| 19 | 死に脅える毎日 | |
| 23 | 八月一五日 | |
| 2 | 救護所での日々 | |
| 26 | 血と膿の体 | |
| 29 | 極貧の日々 | |
| 32 | 死亡者名簿の私の名前 | |
| 37 | 救護所の閉鎖 | |
| 39 | 日赤病院へ入院 | |
| 3 | 43 | 原爆一号 |
| 44 | 原爆一号の命名 | |
| 49 | インタビューや訪問客に追われる | |
| 写真(1947年)広島日赤病院の屋上でライフ誌の撮影に協力。 | ||
| 51 | 医学学術集会での研究材料 | |
| 写真(1949年)広島日赤病院を慰問したプロ野球選手と。故小西得郎氏、藤村冨美男氏の姿も。 | ||
| 54 | ケロイド手術の失敗 | |
| 57 | 患者会結成と強制退院 | |
| 4 | 原爆ドーム横集落時代 | |
| 62 | 野宿 | |
| 65 | 原爆ドーム横にみやげ物店開店 | |
| 70 | 被爆者を訪ね歩く | |
| 78 | 原爆傷害者更生会の誕生 | |
| 83 | 原爆乙女と私 | |
| 写真(1950年)日赤広島病院を訪れた日本ペンクラブの一行と。故川端康成氏の姿も。 | ||
| 写真(1953年)東大附属病院小石川分院で、原爆乙女の診察に立ち会う。 | ||
| 5 | 被爆者運動の組織化 | |
| 92 | 原爆被害者の会を結成 | |
| 100 | ケロイドを見せものにしてなぜ悪い | |
| 写真(1963年)ヒロシマみやげをつくるのもひと苦労。福島菊次郎氏撮影。 | ||
| 103 | 原爆被害者の会の協力会 | |
| 105 | 原爆被害者の会分裂 | |
| 111 | ABCCの横暴 | |
| 6 | 原水爆禁止世界大会 | |
| 118 | 平和都市広島の再興 | |
| 128 | 原水爆禁止広島市民大会 | |
| 129 | ネール首相の広島訪問 | |
| 写真(1957年)広島原爆病院前で故ネール首相と。 | ||
| 131 | 国会請願と日本被団協結成 | |
| 134 | 原爆一号の店取り壊し | |
| 写真(1957年)原爆一号の店の前で。 | ||
| 136 | 原水禁運動の分裂 | |
| 7 | バー「原始林」開店 | |
| 138 | マスターの私、ママの妻 | |
| 140 | ホステス、被爆者の売春婦 | |
| 144 | 不愉快な客 | |
| 8 | 東南アジア歴訪 | |
| 150 | パール博士の碑文への疑問 | |
| 157 | インドネシアでの広島出身元日本兵 | |
| 9 | 映画と私 | |
| 164 | 「原爆の子」 | |
| 166 | 「ひろしま」 | |
| 167 | 「生きていてよかった」 | |
| 168 | 「二十四時間の情事」 | |
| 169 | 「ヒロシマ一九六六」 | |
| 175 | 「記録なき青春」 | |
| 176 | 「ヒロシマの証人」 | |
| 177 | 挫折した「小さな恋人たち」 | |
| 178 | 「灯は生きていた」 | |
| 178 | 流産した「にっぽんの青い鳥」 | |
| 180 | 反響をよんだ「はだしのゲン」 | |
| 10 | 折り折りの人 | |
| 182 | 宗教と私 | |
| 186 | 病に倒れた峠三吉 | |
| 189 | 首相官邸前で割腹自殺した小林雲徹 | |
| 写真(1957年)クリスマス島英水爆実験に抗議して座り込み。右端が小林雲徹。 | ||
| 193 | ガンで死んだ南小一 | |
| 197 | 広島へ通った土門拳 | |
| 写真(1953年)原爆一号の店の前で土門氏と。 | ||
| 203 | 結びにかえて |
『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815)目次
| 頁 | 事項 |
| 口絵 | 上図:著者の両腕と背のケロイド(松笠やうのもの) |
| 下図:ライフ誌上に掲載された一文 | |
| 「ライフ」特派員より著者に送られた書簡 | |
| 病床にある著者と妻。英文はタイム誌上に掲げられた一文 | |
| 永久に平和記念館として保存される旧産業奨励館 | |
| 1 | 序 (富田勝己 <京都府立医科大学外科教室> ) |
| 5 | 目次 |
| 図:避難場所、休憩場所 | |
| 1 | 思ひ出の八月六日 |
| 4 | 悲しき経験 |
| 11 | 命は助つたが |
| 15 | 生の欲望 |
| 「大粒の雨」、「西原国民学校」 | |
| 21 | 遂に失神 |
| 「祇園青年会館」 | |
| 25 | その夜の救護所 |
| 「祇園神社」 | |
| 29 | 可部町勝圓寺にて |
| 29 | 父を亡ふ |
| 「可部の警察署の診療所」、「勝圓寺の御堂」 | |
| 33 | 八月十五日を迎ふ |
| 37 | 顕著な原爆症状 |
| 42 | 絶望より微かな希望へ |
| 52 | 焼土廣島の見開 |
| 59 | 復員列車をみる |
| 63 | 友情に泣く |
| 三次町より川内村へ | |
| 70 | 無医村に迎へる冬 |
| 赤十字病院に入院 | |
| 75 | 三度廣島へ |
| 79 | 闘病生活つづく |
| 87 | 山根さんの人間的魅力 |
| 91 | 再び思ひ出の八月六日 |
| 97 | 平和の黙祷 |
| 100 | 死の淵を彷徨 |
| 103 | 春を迎へて |
| 105 | 平和の礎石に |
| 111 | 実験臺上へ |
| 116 | 「ライフ」特派員と會ふ |
| 122 | 跋 (伊藤嘉夫 広島赤十字病院皮膚科医学博士 ) |
| 後記( 吉川清) | |
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| 帯 | |
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| 口絵 | |
京都印書館=1944年(昭和19年) 人文書院と立命館出版部ほか京都の出版社数社が企業整備により統合し誕生した出版社。http://www.jimbunshoin.co.jp/company/c285.html
【資料】原爆第1号吉川清の試み
『中国新聞』 1951.4.3
原爆第1号きのう退院
昭和21年1月広島赤十字病院に入院、療養をつづけていた原爆1号吉川清氏は前後16回におよぶ手術で健康を全く回復し2日午後退院、5年2ヵ月の病院生活に別れをつげた。
(吉川清氏談)私は原爆による限りない苦悩を過去の長い病床生活において切実に味わってきた。同じような原爆による傷害者とかたく手をたずさえ、更生の道をどこまでも突き進みたい。このような意味からこのたび広島原爆傷害者救済援護会を設立した。
『中国新聞(夕刊)』 1951.6.4
インドから援助第1号!
めぐり来る原爆7周忌を前に原爆第1号患者として有名な吉川清氏(38)を中心に同病傷害者のうち127名の有志が内外の浄財によって人造パール製造の共同作業所と原爆患者診療所を設置し、相互に雄々しく立ち上がらんとする朗話がある。
原爆傷者立上がる 作業・診療所“われらの手で”
発起人に選ばれた吉川氏は6年にわたる入院生活からさる4月2日退院、爆心地産業奨励館ドーム前に夫人生美さん(30)とともに外人相手にみやげ物店を開業、細々ながら再起の日々を送っていたが、たまたま同地の整地作業に訪れる原爆ケロイド患者の日雇人夫の人々と病状を語り合うと共に、身体障害でどん底の困窮生活にあえぐ人々の多きを知り“なんとか相携えて働ける仕事 もちたい”と話し合った結果、予算70万円で次の事業計画をたて、かつて日赤入院時代同氏を見舞った内外人にこの基金募集を呼びかけ、すでにインドのシャルマン氏(昨年12月来広)がニューデリーにおいて松本滝蔵代議士と会見、50万円寄付の伝言があり、6月からは地元名士の援助署名運動に着手している
▽共同作業場=主として海外輸出用の人造パール(真珠)の製作ならびに販売
▽原爆患者の診療所の設置=原爆患者に対し実費治療ならびに一般困窮者の無料診察および相談(担当医は日赤副委員長服部達太郎氏が無料奉仕で当たる)
(吉川氏談)なんとかこの同病患者が結束して暗い気持を忘れ仕事にぼっとうして立上がれば幸いと思っています。予算面もインドから50万円近く送金するという手紙もあり、残りは私がリュックサックを背負って全国資金行脚してでも完成さす決心です。
| やまぐち・ゆうこ | 19161022生20000103没 | 享年83 |
| 広島市生まれ。広島女学院専門学校中退。29歳の時、疎開先から広島に入市し被爆。国内精神養子運動に参画。広島子どもを守る会副会長、日本原水協代表理事、同筆頭代表理事、非核の政府を求める会常任世話人などを歴任。小説『荒れ地ばら』で1982年に第14回多喜二・百合子賞を受賞。 | ||
著書(本)
| 書名 | 編著者 | 発行所 | 発行年月日 |
| つるのとぶ日-ヒロシマの童話 | 大野允子、御手洗旬江、宮本泰子、山口勇子 | 東都書房 | 19630725 |
| かあさんと呼べた日 | 山口勇子編 | 草土文化 | 19780720 |
| 絵本おこりじぞう | 山口勇子(原作)・沼田曜一(語り)・四国五郎(絵) | 金の星社 | 197911 |
| 荒れ地野ばら | 山口勇子 | 新日本出版社 | 19810830 |
| おこりじぞう | 山口勇子(作)四国五郎(絵) | 新日本出版社 | 19820625 |
| 原爆瓦-世界史をつくる十代たち | 山口勇子 | 平和文化(発行)・汐文社(発売) | 19820707 |
| みずき芽吹くとき | 山口勇子 | 新日本出版社 | 19840325 |
| 子どもに平和を・平和の教育を | 山口勇子 | あゆみ出版 | 19850120 |
| ヒロシマの火 | 山口勇子(さく)・四国五郎(絵) | 新日本出版社 | 19880806 |
| にんげんの鎖(上・下) | 山口勇子 | 新日本出版社 | 19890610 |
| 原爆の火の長い旅 | 山口勇子 | 新日本出版社 | 19910625 |
著書(雑誌)
| ひづめ・しのぶ | 19940102没 | 享年91 | 広島県被団協理事。1955年皆実原爆被害者の会会長。原水爆禁止広島母の会の活動、機関紙「ひろしまの河」。 |
日詰忍年表
| 1955 | 02 | 10 | 日詰しのぶ(広島市皆実町)、ロンドン医師会代表ホレース・ジュールスから体験談を聞きたいとの招待状を受け取る。 |
| 1955 | 02 | 16 | 森滝日記=夜、世界平和集会世話人会。日詰忍夫人がロンドンの医師団体(代表ホレース・ジュール博士)に招かれて原爆被災の体験談をすることになったので、その支度金カンパにつき相談うける。(目標五万) |
| 1955 | 02 | 20 | 原爆被害者の会、日詰忍の渡英壮行会を事務所で開催。会員13人が参加。(「めばえ」NO.7) |
| 1955 | 02 | 22 | 森滝日記=午後2時半、日詰さん安芸で立つ。渡辺、佐久間氏らとともに見送り。 |
| 1955 | 03 | 06 | 日詰しのぶ・居原貴久江(長崎被爆者)・山本杉・岡本彰祐、英国へむけて羽田を出発。 |
| 1955 | 03 | 13 | 日詰しのぶ・居原貴久江・山本杉、ロンドンに到着。(日本経済夕刊) |
| 1955 | 03 | 23 | 原爆被害者の会、渡英中の日詰忍の第1報を入手。(「めばえ」NO.6、NO.7) |
| 1955 | 04 | 05 | 山本中国新聞社長のもとに渡欧中の日詰忍から詳しい報告と感想が届く。 |
| 1955 | 04 | 19 | 原爆被害者の会幹事日詰忍、英国から帰国。(「めばえ」NO.6) |
| 1955 | 05 | 03 | 日詰しのぶ(原爆被害者の会)、渡英の旅から広島に帰る。 |
| 1955 | 08 | 07 | 日詰忍、原水爆禁止世界大会第4分散会(農協ビル)に参加。 |
| 1956 | 02 | 20 | 広島県被団協代表の市川千代子・山田静代・日詰忍、国会の原水爆禁止決議へのお礼のための上京を終え帰広。(朝日新聞) |
| 1959 | 11 | 21 | 「冷戦終結推進・安保改訂打破日本平和大会」、東京で開催。-23日。広島県平和委員会から日詰(皆実)・村上(婦民)・板倉(書記局)など6名が参加。 |
| 1994 | 01 | 02 | 日詰忍(広島県被団協理事)、死亡。4日のお別れ会には300人が参加。 |
資料
| 案内状「第7回先人を語る会(慰霊と講話)海外で最初の被爆証言~日詰忍さんを語る会~」(主催:広島市原爆被害者の会、日時:2018年10月13日、場所:広島平和記念資料館) | |
| 投稿タイトル | 掲載書誌 (発行年月日) |
| 7年の記 | 原爆に生きて-原爆被害者の手記(19530625) |
| 欧州に招ねかれて | 開拓者(195508) |
| 一枚の服 | めばえ(19560501) |
| (アンケート特集への回答) | 平和(広島平和をきずく児童・生徒の会)(19570805) |
| 座談会・被爆体験と今日私たち | ひろしまの河NO.2(19610801) |
| 署名 | ひろしまの河NO.2(19610801) |
| 被爆体験と平和憲法 | ひろしまの河NO.4(19611201) |
| みちのくのたび | ひろしまの河NO.4(19611201) |
| 勲章について一言 | ひろしまの河NO.11(19650101) |
| うた[短歌] | ひろしまの河NO.12(19650801) |
| 日詰忍 | ひろしまの河NO.13(19660301) |
吉川生美
| きっかわ・いきみ | 生20131228没 | 享年92 |
| 爆心地から約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆。夫の「原爆1号」と呼ばれた故吉川清とともに、戦後のヒロシマを生き抜く。 | ||
閃光を背負って―原爆第一号の足跡(毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日
| 回 | 掲載月日 | 見出し1 | 見出し2 |
| 1 | 0816 | 署名運動 | 救済求め手を組もう |
| 2 | 0817 | 請願書 | 最初は”外注”友人に依頼 |
| 3 | 0818 | 被爆者の叫び1 | 「このケロイドを見よ」 |
| 4 | 0819 | 被爆者の叫び2 | 東京でも体験語る |
| 5 | 0822 | 被爆者の叫び3 | 被害者の会を脱退 |
| 6 | 0823 | 八・六友の会 | すべてと仲良く |
| 7 | 0824 | 抗議 | 広島の人間として |
| 8 | 0826 | あがき | 自分が手がけたのに |
| 9 | 0830 | 吉川清の思い | この”肩書”ずしりと |
| 10 | 0831 | 歩み・上 | 権利の主体へと |
| 11 | 0902 | 歩み・中 | 土産物店など経営 |
| 12 | 0902 | 歩み・下 | ぐち口にせず往生 |
吉川清
| きっかわ・きよし | 生19860125没 | 享年74 |
| 「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。 | ||
資料
| 『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815) | |
| 『 閃光を背負って―原爆第一号の足跡』毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日 | |
| 『 吉川清氏資料概要(中間報告)』(広島平和記念資料館、20030317) | |
| リンク:吉川生美(きっかわ・いきみ)20131228没 享年92歳。「原爆1号」と呼ばれた故吉川清は夫。 約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆した。 広島市東区のグループホームで死去。 | |
止
森滝日記
『中国新聞』連載 1984年1月1日~8月1日 200回
| 第部 | 見出し | 回 | 日記日付 |
| 1 | 運命の日 | 1~14 | 19170113~19460314 |
| 2 | 反核への道 | 15~30 | 19461203~19550803 |
| 3 | 世界への訴え | 31~50 | 1950920~11995590806 |
| 4 | 分裂の軌跡 | 51~88 | 19600116~19630805 |
| 5 | 被爆地の願い | 89~128 | 19630818~19690814 |
| 6 | 風化に抗して | 129~158 | 19700101~19741009 |
| 7 | 統一への模索 | 159~200 | 19750302~19820805 |
献花(1月)
| 2021年 |
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| ロウバイ(蝋梅) 撮影日:5日、場所:実家 |
| 2019年 |
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| ウメ(梅) 撮影日:7日、場所:自宅 |
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| ロウバイ(蝋梅) 撮影日:1日、場所:実家 |
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| キク(菊) 撮影日:1日、場所:実家 |
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| ハボタン(葉牡丹) 撮影日:1日、場所:実家 |
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| センリョウ(千両) 撮影日:1日、場所:実家 |
| 撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市) |
| 2018年 |
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| 棕梠の実 撮影日:21日、場所:実家 |
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| ろうばい(蝋梅) 撮影日:5日、場所:実家 |
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| 蕗の薹(ふきのとう) 撮影日:2日、場所:実家 |
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| すいせん(水仙)撮影日:2日、場所:実家 |
| 撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市) |
| 日 | 没年 | 名前 | よみ | 享年 | 備考 |
| 02 | 1994 | 日詰忍 | ひづめ・しのぶ | 91 | 広島県被団協理事。1955年皆実原爆被害者の会会長。原水爆禁止広島母の会の活動、機関紙「ひろしまの河」。<別記> |
| 02 | 2011 | 林幸子 | はやし・さちこ | 81 | 原爆詩「ヒロシマの空」の作者。「林幸子さん遺影登録 広島祈念館」(『中国新聞』2018.6.7 西本雅実の紹介記事) |
| 03 | 2000 | 山口勇子 | やまぐち・ ゆう | 83 | 児童文学者。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆)。1982年3月25日、平和親善センターで面会。三宅・網岡両氏、同席。<別記> |
| 04 | 1969 | 高野源進 | たかの・げんしん | 73 | 広島原爆被爆時の広島県知事。広島原爆被爆時の広島県知事。参考文献:安藤福平「原爆被災と行政」(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会(広島県・広島市)編『広島の復興経験を生かすために 廃墟からの再生 第3巻 ひろしま復興・平和構築研究事業報告書』2017年) |
| 04 | 2010 | 山口彊 | やまぐち・つとむ | 93 | 三菱重工業長崎造船所設計技師。広島と長崎で被爆。 |
| 04 | 2015 | 金子一士 | かねこ・かずし | 89 | 船舶会社に勤めていた19歳の時入市被爆。広島県被団協理事長。「本川小学校平和資料館」(1988年5月開設)の開設前に面談。「金子一士さんを偲び意志をつぐ会」(2015年5月16日、広島国際会議場)に参列。<金子一士さんを偲び遺志をつぐ会> |
| 04 | 2016 | ヨシダ・ヨシエ | よしだ・ | 86 | 本名:吉田早苗。出典:岡村幸宣「ヨシダ・ヨシエさんを悼む 「原爆の図に新たな命」」(『中国新聞』20160119)。本名=吉田早苗=よしだ・さなえ、美術評論家。『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、19720805) |
| 05 | 2000 | 伊藤サカエ | いとう・さかえ | 88 | 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県被団協理事長。広島県呉市生まれ。広島市鶴見橋で建物疎開作業の勤労動員中に被爆。矢野町議会議員、同町婦人会長などを歴任。「伊藤サカエさんを語る会」(広島市原爆被害者の会主催、2013年4月16日。4回目の「先人を語る会」) |
| 05 | 2012 | 林光 | はやし・ひかる | 80 | 作曲家。1971年合唱曲「原爆小景」。「反核・日本の音楽家たち」の呼びかけ人」。 |
| 06 | 1998 | 安江良介 | やすえ・りょうすけ | 62 | 岩波書店社長。大江健三郎の広島取材を編集者として支える。1998年8月15日、日本ジャーナリスト会議広島支部「8・15不戦の夕べ」で講演「戦後民主主義とヒロシマ」。 |
| 07 | 1989 | 裕仁 | ひろひと | 87 | 追号:昭和天皇。宮内庁ホームページhttp://www.kunaicho.go.jp/ |
| 07 | 1996 | 岡本 太郎 | おかもと ・たろう | 84 | 芸術家。メキシコで制作した壁画「核の神話」の広島市への誘致運動が起こる。 |
| 08 | 1975 | 山田節男 | やまだ・せつお | 76 | 広島市長。1969年ハマーショルド記念国際平和賞受賞。[70ヒロシマ会議]。『山田節男追想録』。<別記> |
| 08 | 1994 | サマヴィル、ジョン・M・ | 88 | 米国の哲学者。『平和のための革命』(ジョン・サマヴィル、芝田進午訳、岩波書店、19741216) | |
| 09 | 1978 | 久保良敏 | くぼ・よしとし | 64 | [51広島大学平和問題研究会理事(皆)]。広島大学名誉教授。産業社会心理学専攻。被爆直後の人間の心理を初めて学問的に分析。遺された資料を一時預かる。 |
| 09 | 1885 | 藤井日達 | ふじい・にちだつ | 99 | 日本山妙法寺の山主。1982年の国連軍縮特別総会に参加するなど平和運動に貢献。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。『毒鼓(どっく)』(藤井日達、わせだ書房、1961.5.10)。『写真集 撃鼓宣令』 (柏樹社、19850528) http://nipponzanmyohoji.net/ |
| 09 | 2005 | 小川修三 | おがわ・しゅうぞう | 81 | 『小川修三博士を偲んで』(小川修三先生追悼文集発行呼びかけ人、200606) |
| 10
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1951
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仁科芳雄 | にしな・よしお | 61
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物理学者。岡山県生まれ。理化学研究所で1943年に原爆開発のための「二号研究」を発足させる。被爆直後の広島・長崎で調査。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。<別記予定>。『広島県史 原爆資料編』に関連資料を収録。 |
| 10 | 1967 | パールRadhabinod Pal | 71 | インド人法律家。東京裁判でインド代表判事を務める。彼の原爆慰霊碑の碑文についての発言をめぐり論争が起こる。『日本無罪論』、『平和の宣言』。 | |
| 10 | 2025 | 堀場 清子 | ほりば ・きよこ | 94 | 詩人 、 女性史 研究者。戦争と平和を考える詩の会会員。 |
| 11 | 1966 | 大原博夫 | おおはら・ひろお | 71 | 衆議院議員。広島県会議員、同議長。広島県知事。広島県医師会長。『大原博夫伝』(大原博夫追想録編集委員会、1971.3.20) |
| 11 | 1998 | レイノルズ、アール | れいのるず | 87 | 広島の反核運動の先駆者で米国の人類学者。1960年、広島女学院客員教授。参考サイト=「バーバラ・レイノルズ」、「年表 レイノルズ夫妻」、「広島平和科学研究所」 |
| 11 | 2015 | カートライト、T | 90 | 米軍B24爆撃機の元機長。広島で捕虜となった同僚を原爆で失う。出典:『中国新聞』20150116(金崎由美・記) | |
| 11 | 2020 | 八杉康夫 | やすぎ・やすお | 92 | 戦艦大和の元乗組員で生還者。広島の救援活動で入市被爆。著書『戦艦大和 最後の乗組員の遺言』(八杉康夫著、栗野仁雄<構成>、ワック、20021208) |
| 12 | 2021 | 半藤一利 | はんどう・かずとし | 90 | 作家。日本近現代史を対象とした。 |
| 12 | 2019 | 市原悦子 | いちはら・えつこ | 82 | 俳優。映画「黒い雨」(今村昌平監督)に出演。 |
| 13 | 2000 | 赤松俊子 | あかまつ・としこ | 87 | →丸木俊。『広島県現代文学事典』 |
| 13 | 2000 | 丸木俊 | まるき・とし | 87 | 画家。疎開先の浦和市から広島に入市し被爆。夫・位里と『原爆の図』全15部を制作。世界平和文化賞(1953年)、国際童画ビエンナーレのゴールデンアップル賞(1971年)、朝日賞(1995年)などを受賞。 |
| 13 | 2016 | 広瀬方人 | ひろせ・まさひと | 85 | 長崎被爆者。 |
| 14 | 1992 | 於保源作 | おぼ・げんさく | 87 | 広島市医師会副会長。被爆者の癌の疫学的研究の草分け。広島原爆障害研究会。『面影 原爆ガンと取組んだ町医者 於保源作』(小川加弥太・於保信義編、渓水社、1993.1.14) |
| 15 | 1983 | 大西良慶 | おおにし・りょうけい | 107 | 京都、清水寺貫首[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]1981年、7月、京都の宗教家らと「核兵器廃絶アピール」発表。[82推進連絡会議呼びかけ人] |
| 15 | 1984 | 中津泰人 | なかつ | 『慟哭・川柳句集』(中津泰人、19740725)。串かつ川柳会主宰。1973年に呉原爆被爆者友の会結成、同会会長。 | |
| 15 | 1988 | マクブライド、ショーン | 83 | アイルランドの政治家。1974年ノーベル平和賞、77年レーニン平和賞受賞。1977年広島市でのNGO主催の被爆問題国際シンポジウムに参加。 | |
| 15 | 2005 | 松江澄 | まつえ・きよし | 85 | 1959年に日本共産党初めての県議。元広島県原水禁常任理事、元統一労働者党議長。 |
| 16 | 2002 | いぬいとみこ | いぬい・とみこ | 77 | 本名乾富子。児童文学者。「いぬいとみこさんとヒロシマ 「体験」の壁執念の取材」(『中国新聞』2002.1.22 石井伸司記)。『広島県現代文学事典』(三浦精子執筆) |
| 17 | 2025 | 黒瀬真一郎 | くろせ・しんいちろう | 83 | 学校法人広島女学院理事長など歴任。<資料年表:黒瀬真一郎> |
| 17 | 2023 | 土井作治 | どい・さくじ | 92 | |
| 18 | 2015 | 御庄博実 | 89 | →丸屋博 | |
| 18 | 2015 | 丸屋博 | まるや・ひろし | 89 | 1945年8月8日、広島入市。詩人(御庄博実)。広島共立病院名誉院長。 |
| 18 | 2015 | 丸屋博 | ピカに灼かれて―被爆体験記(広島医療生活協同組合原爆被害者の会) | ヒロシマ遺文 (hiroshima-ibun.com) | ||
| ピカに灼かれて 第28集 終刊号 2005年7月15日 | |||||
| 丸屋博『ヒロシマ随想 医師として被爆者として』 | |||||
| 20 | 1974 | ブランデン、エドモンド・ | 77 | 英国の詩人。1948年広島訪問。広島市立中央図書館前に詩碑(1975年8月3日建立)。『広島県現代文学事典』(植木研介執筆)。 | |
| 20 | 1990 | 田淵昭 | たぶち・あきら | 83 | 元広大医学部付属病院長。胎内被爆小頭症の調査に尽力。 |
| 20 | 2019 | 北西允 | きたにし・まこと | 93 | 「生きて 政治学者 北西允さん」(『中国新聞』2013年4月9日~27日、15回連載、担当:編集委員・西本雅実)。<別記> |
| 21 | 2008 | 浜本万三 | はまもと・まんそう | 87 | 広島県選出の元社会党参院議員。1974年に初当選し、通算3期。『花は想う人の側に咲く 浜本万三回顧録』(浜本万三、広島大学文書館(編)・現代史料出版・東出版(出版)2009.1)<別記> |
| 22 | 1994 | 灘尾弘吉 | なだお・こうきち | 94 | 江田島市出身。元衆議院議長。『灘尾弘吉先生追悼集』(中国新聞社メディア開発局出版部/編集協力、1996.12) |
| 22 | 2018 | 河内光子 | こうち・みつこ | 86 | 広島女子商業学校2年の時、学徒動員先の広島貯金支局で被爆。御幸橋の救護所ので様子が松重美人撮影の写真に残る。出典:『読売新聞』20120805、『中国新聞』20180209、『朝日新聞』20180210(宮崎園子・記) |
| 23 | 2008 | 相原秀次 | あいはら・ひでつぐ | 98 | 日本映画社の企画部員として広島・長崎への原爆投下直後から記録映画の製作に従事。 |
| 久保田明子「広島における原爆被災の映像と相原秀二資料について」 | |||||
| 23 | 2011 | 喜味こいし | きみ・こいし | 83 | 漫才師。「喜味こいしさんを悼む 上方漫才の正道歩む」(権藤芳一記)「戦争やったらあかん 被爆体験とつとつと」(岩崎秀史記)(『中国新聞』2011.1.26) |
| 23 | 2012 | 栗原真理子 | くりはら・まりこ | 76 | 被爆詩人・栗原貞子の長女。広島女学院大学の栗原貞子記念文庫開設に尽力(『朝日新聞』20120125) |
| 24 | 2018 | 香川龍介 | かがわ・りゅうすけ | 85 | 画家。(『中国新聞』20180210) |
| 25 | 1986 | 吉川清 | きっかわ・きよし | 74 | 「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。<別記> |
| 25 | 1994 | 森滝市郎 | もりたき・いちろう | 101 | 京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。広島大学。自宅で面識、資料閲覧。<別記> |
| 25 | 2011 | 石田忠 | いしだ・ただし | 94 | 一橋大名誉教授・社会学、元日本原水爆被害者団体協議会専門委員)。<別記> |
| 25 | 2023 | 林紀子 | はやし・としこ | 81 | 元アナウンサー。元参議院議員(2期)。日本共産党。宇吹メモ=1990年5月15日午後2時、 共産党国会調査団来所(=広島大学原爆放射能医学研究所)。林紀子、児玉健次など12人。宇吹助手が応対。 |
| 26 | 2019 | 葉佐井博巳 | はさい・ひろみ | 87 | 広島大名誉教授。広島の原爆被爆時、広島一中2年生。学徒動員先の兵器製作所(現廿日市市)できのこ雲を目撃。翌日に入市被爆。被曝線量推定方式を見直す日米合同研究グループの日本側座長。2002年、新しい推定方式「DS02」をまとめる。<別記>「被爆建物等継承方策検討委員会」(広島市が1991年7月24日に設置)で同席。 |
| 27 | 2003 | 川村智治郎 | かわむら・としじろう | 96 | 明39(1906)年滋賀県生まれ。広島高等師範学校・広島文理科大学卒業。京都帝国大学理学部講師、広島文理科大学助教授等、広島大学理学部教授、同理学部長を経て、昭和41(1966)年、広島大学第3代学長。広島大学長に就任。両生類研究者、カエルの染色体の分析研究。広島大学附属両生類研究所所長。第52回日本学士院賞受賞。元広島文理科大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会(設立:1995年1月7日)会長<別記> |
| 27 | 2005 | 竹内武 | たけうち・たけし | 77 | 広島平和会館。 |
| 29 | 1986 | 鈴木直吉 | すずき・なおきち | 90 | 1948年広島県立医科大学教授。広島大学医学部教授。「鈴木直吉先生の御逝去を悼む」(片岡勝子記、『(広島大学)学内通信』1985.3.25)<別記> |
| 29 | 2013 | 熊田重邦 | くまだ・しげくに | 92 | 広島女子大学教授、広島県史編さん室室長、広島県立文書館館長<別記> |
| 30 | 2016 | 亀本和彦 | かめもと・かずひこ | 69 | 小学校・高校の同級生。「祖母も伯母もその日路面電車に乗っていて被爆し、また、父も翌日軍務で広島市街地に入って被爆」(彼のブログより) |
| 31 | 2018 | 吉田治平 | よしだ・じへい | 95 | 845年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定> |
| 31 | 2023 | 久留島恵一 | くるしま・けいいち | 94
|
音戸高校時代に指導を受けた先輩教員。「呉を中心とした軍事基地の現状」(ビラ「米軍・自衛隊 基地調査告発全国交流呉集会の集まろう!!」(1975年)) |
森滝市郎
| もりたき・いちろう | 19010428生 19940125没 |
享年92歳 | [51広島大学平和問題研究会会長理事(文)]。[52広島平和問題談話会]。[54世界平和集会世話人(発起・常任)]。広島県君田村生まれ。京都帝国大学卒。広島高等師範教授を経て広島大学文理学部教授。1953年から原爆孤児を支える精神養子運動を展開。広島県被団協理事長。[70ヒロシマ会議]。[77被爆国際シンポ日本準備委員会結成呼びかけ人]。[82推進連絡会議呼びかけ人]。 |
熊田重邦
くまだ しげくに |
192002生20130129没 |
享年92歳 |
資料
| 『熊田教授退官記念事業会』(記念録、1983年3月) | |
| 『熊田重邦先生勲三等旭日中綬章受章記念祝賀会(式次第・出席者名簿)』(1994年6月24日) | |


被爆体験の風化をくいとめるために、被爆の実相を明らかにする資料集成が進められている(広島県史編さん室で)
『中国新聞』1971年8月2日
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熊田重邦(広島県立文書館長)「地方公文書館の業務―広島県立文書館の場合」(出典:『北の丸―国立公文書報第24号』1992年3月)
熊田重邦(広島県立文書館長)「情報化社会における文書館の課題―広島県立文書における公文書管理を中心として」(出典:『北の丸―国立公文書報第24号』1992年3月)