資料年表:山田浩
年月日 |
事項 |
1925 |
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0310 |
誕生(佐賀県唐津市) |
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1944 |
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12 |
入営、中国出征 |
1945 |
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03 |
広島高等学校文科乙類卒。 |
1946 |
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05 |
中国より復員 |
1949 |
|
03 |
九州帝国大学法文学部法科卒業 |
1953 |
|
04 |
広島大学皆実分校助手 |
1960 |
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08 |
『戦後日本の国家権力』(共著、三一書房) |
1964 |
|
04 |
広島大学教養部助教授 |
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1967 |
|
0110 |
『戦後アメリカの世界政策と日本』(法律文化社) |
1971 |
|
1001 |
『安全保障と日本の未来 核抑止戦略を超えて』(法律文化社) |
1973 |
|
0830 |
山田浩「廣高沿革小史」(『廣島高等学校創立五十年記念誌』廣島高等学校同窓会)所収 |
1120 |
座談会・手記を読んで 石田成雄 大槻和夫 庄野直美 空辰男 藤井敏彦 山田浩 (『戦前の教育と私』広島平和教育研究所編、朝日新聞社) |
1975 |
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0825 |
「核問題の現状と平和 山田浩」(『平和の探求』岡倉古志郎 他編、時事通信社) |
1976 |
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0731 |
『ヒロシマからの報告 平和・教育・被爆者問題を考える』(山田浩 他編、労働教育センター) |
1977 |
|
0701 |
「核と平和」(『地域と科学者 被爆・核・広島特集』、日本科学者会議広島県支部編) |
0910 |
「第Ⅱ章 社会科学関係(山田浩、北西允、横山英)」(『広島大学原爆死歿者慰霊行事委員会』) |
1979 |
|
0518 |
山田浩、森利一編『平和研究ノート』(広島大学総合科学部国際関係論教室) |
1103 |
『核抑止戦略の歴史と理論』(法律文化社) |
1980 |
|
0925 |
『平和学講義』(森利一・山田浩編、勁草書房) |
1981 |
|
1001 |
「第9回 :第2次大戦後の軍拡競争の歴史 、第10回 :今日の核軍拡競争 」(『平和を研究する』、広島大学放送教育実験実施委員会) |
1982 |
|
01 |
「栗野鳳先生をお送りする言葉」、「戦略論議と限定核戦争―1960年代末以降のアメリカの核戦略構想をめぐって」(『広島平和科学 5 1982年』広島大学平和科学研究センター) |
0220 |
「団体の紹介:学問と平和を守る大学人会」 『ヒロシマ・ナガサキの証言’82冬 創刊号』所収 |
1983 |
|
0520 |
『現代日本の政治』(北西允。山田浩著、法律文化社) |
0930 |
『青春回想録 廣高その永遠なるもの 廣島高等学校創立六十年記念』(廣島高等学校同窓会) |
1984 |
|
0331 |
『軍備と軍縮の歴史』(広島平和文化センター) |
0830 |
山田浩編『平和学講義』(勁草書房) |
1985 |
|
0215 |
『半生雑記帳』(溪水社) |
0730 |
「限定核戦争論 第2報告者 山田浩」(『核戦争の危機と人類の生存』江口朴郎 他編、三省堂) |
1130 |
「限定核戦争政策について 」(『平和のメッセージ 核戦争の脅威をのりこえて』アンセルモ・マタイス、関寛治編、明石書店) |
1986 |
|
0630 |
「広島大学平和科学研究センターの歴史と今後の課題-平和研究の制度化推進のために- 山田浩」(『ヒバクシャと現代 創立20周年記念』日本科学者会議広島支部) |
1987 |
|
0101 |
「ゲイサー報告をめぐる若干の考察―アメリカ核戦略の転換期における先駆的な道標―
山田浩」(『広島平和科学 9 1986年』広島大学平和科学研究センター) |
0211 |
「核廃絶の道を探る-山田浩氏、金井利博氏との座談会(昭和四七年)」(『安部一成論文選集 5巻 原水爆禁止運動』東洋図書出版) |
1107 |
「大学と平和教育」(『平和研究 第12号 エスニシティと平和』日本平和学会) |
1988 |
|
0301 |
『最近のアメリカ非核通常戦略の一般的な動向 「水平的エスカレーション」戦略とNATO戦略を中心として』 |
0310 |
『半生雑記帳 続』(溪水社) |
1990 |
|
0630 |
「広島の活性化と文化・平和行政」(『ひろしま新時代 21世紀への可能性を探る』香川不苦三著 中国新聞社編) |
1992 |
|
0720 |
「核軍拡・軍縮の歴史と課題」(芝田進午編『戦争と平和の理論』勁草書房) |
1995 |
|
0720 |
「社会科学者と原水爆問題-故石井金一郎氏と私-山田浩(昭20文乙)」(『廣高とヒロシマ 被爆五十年の回想』廣島高等学校同窓有志の会) |
1997 |
|
0801 |
「金井利博氏とヒロシマ・核問題-『核権力』を読む 」山田浩<昭20文乙>)(『ヒロシマと廣高 被爆五十二年・回顧と追悼』廣島高等学校同窓有志の会) |
2000 |
|
1010 |
山田浩、吉川元編『なぜ核はなくならないのか 核兵器と国際関係』(法律文化社) |
2002 |
|
1120 |
『現代アメリカの軍事戦略と日本』(法律文化社) |
2004 |
|
0101 |
「米ロ間戦略核削減と「備蓄」問題―いわゆる「モスコワ条約」(SORT)の意義を考える―」(『広島平和科学 26 2004年』広島大学平和科学研究センター) |
2006 |
|
0930 |
『核拡散問題とその対策の多様性 とくに武力行使について考える』(広島修道大学学術交流センター) |
|
|
止
『信州白樺第61・62・63合併号―長田新特集』(信州白樺、1985/02/13)
内容
頁 |
著者 |
タイトル |
備考 |
005 |
|
長田新先生照影 |
|
006 |
|
長田新先生の分骨の墓碑 |
|
007 |
|
長田新年譜 |
|
035 |
長田新 |
ペスタロッチに還れ-上からの教育学より下からの教育学へ |
|
043 |
長田新 |
平和を築くことが人間としての最高の道徳である |
|
55 |
飯島宗一 |
長田新先生のことども |
|
58 |
碓井正久 |
長田新先生と「新知育論」 |
|
67 |
太田尭 |
ペスタロッチの「直観」論と長田新 |
|
70 |
沖原豊 |
学問と平和を求めて-書斎から街頭へ- |
|
80 |
金子金治郎 |
長田新先生の私的回想 |
|
94 |
小崎軍司 |
感銘をうけた教育評論 |
|
103 |
田畑忍 |
長田新博士との出会い |
|
106 |
寺田英夫 |
最後の教え子として-『平和をもとめて』- |
|
113 |
伏見康治 |
長田新先生の憶い出 |
|
115 |
福島要一 |
長田新先生と私 |
|
125 |
細谷俊夫 |
長田新氏を追想して |
|
127 |
堀内守 |
長田新の教育学 |
|
135 |
宮坂広作 |
「近き理想主義」の教育哲学 |
|
151 |
村井実 |
長田新先生の郷土性 |
|
156 |
森滝市郎 |
ゲッチンゲン宣言と長田新先生 |
|
161 |
松浦勉 |
「大正自由教育」と部落問題-長田新の被差別部落民教育論- |
|
230 |
羽仁説子 |
平和への祈りとともに |
|
232 |
島為男 |
長田先生の片影 |
|
238 |
山口勇子 |
行動する知識人 |
|
240 |
与田準一 |
子どものしあわせ |
|
241 |
柴谷久雄 |
学者として市民として |
|
243 |
武内利忠 |
原爆の子の父-長田先生を衷いて- |
|
256 |
玉置孝 |
いかに生くべきか |
|
266 |
上原専禄 |
「同志」だけではなかった長田さん |
|
268 |
上田庄三郎 |
日本自由教育史の先駆者 |
|
269 |
小川太郎 |
戦時中の長田さん |
|
272 |
坂田昌一 |
あやまち二度とくりかえさせませんから |
|
273 |
末川博 |
平和のための闘士 |
|
275 |
砂沢喜代次 |
日本民主教育の先達 |
|
279 |
南原繁 |
真理と平和を求めて |
|
281 |
ハンス・シュテーエッドバッハー |
日本におけるペスタロッチ運動創設者の追想のために |
|
283 |
前芝確三 |
その面影をしのびつつ |
|
285 |
務台理作 |
長田新博士を偲ぶ-人間の可能性を強く信じた理想主義者- |
|
287 |
矢川徳光 |
「社会科学的ヒューマニズム」の立場に立って |
|
|
|
|
|
289 |
特集 反戦・反核を訴える詩人たち |
|
290 |
小崎軍司 |
プロローグ「反戦・詩人と市民のつどい」 |
|
294 |
三井為友 |
現代日本における反戦詩の役割 |
|
302 |
松本隆晴 |
歓迎の言葉 |
|
303 |
丸地守 |
朗読詩(1) |
|
305 |
小崎軍司 |
上田自由大学運動の今日的意義 |
|
310 |
森田宗一 |
反戦平和への行脚の旅 |
|
314 |
長谷川龍生 |
戦争と人間 |
|
318 |
大島博光 |
抵抗詩について |
|
322 |
藤原定 |
戦争と民主主義 |
|
326 |
増岡敏和 |
峠三吉と『原爆詩集』 |
|
332 |
|
朗読詩(2) |
|
334 |
長田三郎 |
歴史を繰り返さないために |
|
337 |
清野竜 |
エピローグ 一参加者の個人的な感想 |
|
|
|
|
|
340 |
船山謙次 |
長田教育学に学ぶ |
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|
|
|
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372 |
自由席 |
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|
松浦勉 |
本誌掲載の拙論について |
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|
宮坂栄一 |
編集記を兼ねて |
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|
止
フロイド・シュモー
18950921生20010420没 |
享年105歳 |
米国の平和活動家。シュモーハウス。 |
資料年表:フロイド・シュモー<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
1895 |
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0921 |
アメリカ中西部の一農家に誕生。 |
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1949 |
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|
0702 |
フロイド・シュモー(クエーカー教徒)ら4人、広島市に育児診療所建設のため17日にサンフランシスコを出港予定。 |
C |
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|
1951 |
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0331 |
『外國人より廣島によせることば』(広島県土木部計画課) |
|
|
「(7)廣島の家 計画主任 フロイド・シュモー博士 13」 |
|
1952 |
|
|
1001 |
『日本印象記』(フロイド・シュモー(Schmore,Floyd)(著)・大原三八雄(訳)
広島ピース・センター(刊)) |
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|
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|
1995 |
|
|
0801 |
『けんみん文化 1995.08』(広島・県民センター文化情報課) |
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|
まちかど シュモー会館 |
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|
2013 |
|
|
0201 |
『平和文化 2013.2』(広島平和文化センター) |
|
|
シュモーハウスがオープン………1~2 |
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|
2017 |
|
|
1201 |
『平和文化 2017.12』(広島平和文化センター) |
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|
Sarayama Village ―フロイド・シュモーが写した広島・江波・皿山…⑬ |
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|
|
|
|
|
2004 |
|
|
?? |
原爆資料館のヒロシマ・ピース・ボランティア 3人、「シュモ―さんの『ヒロシマの家』を語りつぐ会」を結成。 |
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|
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|
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|
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|
|
|
|
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|
2012 |
|
|
1101 |
「シュモーハウス」、広島平和記念資料館付属展示施設として開館(広島市中区江波二本松一丁目) |
|
|
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|
2014 |
|
|
1101 |
『ヒロシマの家 フロイド・シュモーと仲間たち』(シュモーに学ぶ会) |
|
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|
2018 |
|
|
1001 |
『月刊放送ジャーナル 2018.10』(第48巻第9号) |
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|
ETV特集 ~シリーズアメリカと被爆者第1回『シュモーさんを探して』~…鈴木典之…36 |
|
1101 |
『歴史地理教育 2018.11』( 886号)歴史教育者協議会 |
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|
探訪ミュージアム112 シュモーハウス[広島平和記念資料館付属展示施設](広島市) 谷本真由美 |
|
|
|
|
2020 |
|
|
1221 |
『広島平和記念資料館総合図録 ヒロシマをつなぐ』(広島平和記念資料館編、広島平和文化センター) |
|
|
コラム「シュモーハウス フロイド・シュモーと『広島の家』計画」 |
|
|
|
止
『日本印象記-ヒロシマの家』(フロイド・シュモー著、大原三八雄訳、広島ピース・センター発行、19521001)
内容
頁 |
|
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|
|
フロイド・シュモー博士の横顔―序文にかえて 訳者 1 |
|
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|
日本印象記(ヒロシマの家) 1 |
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|
71 |
シュモー博士と広島の家 浜井信三 |
|
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|
|
75 |
跋 谷本清 |
|
|
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|
|
|
|
Japan Journey by Floyd Schmoe (Silver Quoin Press 1950) |
|
|
止
川端康成
かわばた・やすなり |
18990614生19720416没 |
享年72歳 |
日本ペンクラブ会長[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。 |
資料年表:川端康成<作業中>
年月日 |
|
|
1899 |
|
|
0614 |
誕生 |
|
|
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|
1949 |
|
|
1126 |
川端日本ペンクラブ会長ら、国際ペンクラブ大会(1950年・英国)出席に備え広島市を訪問。 |
C |
1950 |
|
|
0415 |
日本ペンクラブ主催「広島の会」。川端会長らペンクラブ会員約80人参加。講師:川端、石川達三、真杉静江、阿部知二、原民喜ら18人。平和宣言を発表。 |
C |
|
|
|
1959 |
|
|
0814 |
川端から広島「憩いの家」(広島市宇品町)に小説990冊が届く。 |
|
|
|
|
1961 |
|
|
0730 |
日本ペンクラブ、広島「憩いの家」の運営資金にと42枚の色紙を贈る。寄贈者:川端、井伏鱒二、井上靖、徳川無声、丹羽文雄、佐藤春夫、東郷青児ら。 |
|
|
|
|
1967 |
|
|
0612 |
世界平和アピール7人委員会の4人(茅誠司・川端康成・上代たの・内山尚三)、佐藤首相に文化人18人が署名した原爆被爆者援護法制定に関する要望書を手渡す。 |
|
|
|
|
1969 |
|
|
0816 |
広島「憩いの家」主催「被爆者援護第7回文芸家・画家・国際色紙展」(会場:広島市・福屋百貨店)。川端ら約120人、300点を出品。サルトルらの被爆者へのメッセージも展示。 |
|
1970 |
|
|
0814 |
広島「憩いの家」主催の被爆者救援の色紙展(会場:広島市・福屋百貨店)。川端らの色紙300点を展示。 |
|
|
|
|
1972 |
|
|
0416 |
神奈川県逗子市のマンションでガス自殺。72歳。 |
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|
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|
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|
|
2016 |
|
|
0921 |
森本穫「緑地帯 川端康成と広島<1>」(『中国新聞』連載)~<8>(9月30日)。 |
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|
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|
|
|
|
止
『駆けぬけて 羽原好恵追悼集』(羽原好恵追悼集刊行委員会、1993/12/01)
内容
頁 |
|
|
|
|
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003 |
吉見弘(中国放送) |
序にかえて |
|
015 |
|
日記(抄) |
19921124~19930412 |
023 |
追悼文 |
025 |
松林俊一 |
一枚の写真から |
広島市公文書館 |
028 |
磯崎弘幸 |
もう、好恵さんのすがすがしい声をきくことはできない |
民放労連書記長 |
031 |
市川美根 |
羽原さんと真珠の指輪 |
東京放送 |
033 |
隅井美沙子 |
浅草デート |
東北放送 |
036 |
宮崎安男 |
羽原さんの笑顔 |
原水爆禁止広島県協議会代表委員 |
040 |
尾津訓三 |
透明な人 |
日本演劇学会 |
042 |
大林進 |
働く仲間の中にはいつも好恵さんがいた |
元山陽新聞 |
045 |
古浦千穂子 |
無念の死 |
作家 |
048 |
岡本美紀 |
放送局で女性の数が半分になったら |
ラジオ日本 |
051 |
原田東岷 |
羽原さんを悼む |
医師 |
054 |
川上三夫 |
歌わなくなったうた |
元山陽新聞 |
056 |
井口泰子 |
彼女の闘いの終りに |
作家 |
059 |
安部親雄 |
羽原かあちゃんを偲んで |
「寿司富」店主 |
061 |
水藤晉 |
残酷な地雷 |
共同通信 |
063 |
岡野信子 |
ホンモノの優しさ |
梅光女学院大学名誉教授 |
067 |
河井章子 |
イチ抜-けない |
元中国放送 |
070 |
杜師弘一 |
人間を そして哲学を |
中国放送 |
073 |
松本洋 |
明るく親切だった ヤンちゃんへ |
元・元宇品小学校教諭 |
075 |
高岡日出子 |
まだまだ生きてほしかった |
東京放送 |
078 |
森悦子 |
勇気ある旅立ち |
広島市役所 |
080 |
田辺昭太郎 |
好っちゃんの怒ったとき |
映画プロデューサー |
082 |
岡本純江 |
ゆっくり休んで… |
毎日放送 |
083 |
今田純子 |
いまごろになって |
朝日放送 |
084 |
寺本真名 |
爽やかな人 |
元放送映画製作所 |
085 |
野崎清 |
精一ぱい生きた人 |
朝日放送 |
086 |
井上俊逸 |
メッセージ・フォー・あす |
中国新聞 |
089 |
酒井幸 |
ボルゴグラードでの思い出 |
中国新聞 |
093 |
香川そのみ |
女性記者であること |
中国放送 |
095 |
中川幹朗 |
羽原さんの思い出 |
皆実高校教諭 |
098 |
徳光国弘 |
年上の女 は婆らさん |
中国放送 |
101 |
須山楓 |
羽原さん 力をかして |
南海放送 |
104 |
丸屋博 |
友よ、さらば 羽原さんの残した課題 |
広島共立病院名誉院長 |
109 |
栗本陽子 |
私達にできること |
大阪文学学校研究生 |
111 |
天野茂 |
羽原好恵さん逝去の悲報に |
元比治山女子短大教授 |
112 |
芝田進午 |
羽原好恵さんへの感謝 |
広島大学名誉教授 |
115 |
池谷洋二 |
チロ |
毎日新聞 |
118 |
柴田和広 |
宿題 |
中国放送 |
122 |
三宅芙由 |
星 |
大芝小学校4年 |
123 |
長谷川洋 |
遠い声 |
共同通信 |
127 |
石田明 |
ヒロシマからあなたへ |
被爆者 |
132 |
坂本治子 |
まるでマリア様のように |
民放労連中四国地連・広島テレビ労組書記長 |
134 |
沼田鈴子 |
羽原好恵さんとの「きずな」 |
語り部の会 |
137 |
荒井栄子 |
姉のようだった好恵さんへ |
中国放送 |
138 |
水野喬 |
牛んでも「モーン」 |
RCCミュージック |
142 |
石嵜隆博 |
拝啓 羽原さま
広島市役所 |
|
144 |
古島哲朗 |
羽原さんの死が問いかけるもの |
歌人 |
146 |
籔井和夫 |
クラブの母 |
中国新聞 |
149 |
川路恵理子 |
平和公園で会いましょう |
毎日新聞 |
151 |
栗原貞子 |
ヒロシマの人体実験はまだ続いている |
詩人 |
159 |
中村一郎 |
しっかりしんちゃい |
読売新聞 |
161 |
田代真理子 |
天国でどうしていますか |
中国放送 |
163 |
松本愛子 |
あなたの声を聞いてみせます |
山陰放送 |
165 |
奥村宗洋 |
いつもの笑顔で |
読売新聞 |
167 |
T・U |
実録 好っちゃんの失敗 |
|
169 |
佐々木典明 |
『ヒロシマ記者』ヨッチャンの軌跡 |
中国放送 |
173 |
高木春美 |
沖縄大会を無事終えて |
西日本放送 |
175 |
赤松怜子 |
この人好きだな… |
西日本放送 |
177 |
大元誠司 |
一緒に伝えたい |
CGオペレーター |
181 |
藤原茂 |
思い出を語るにはあまりにも… |
読売新聞 |
183 |
谷上朋子 |
青空グループ |
中学校同級生 |
187 |
水原肇 |
雑誌『正觀』生みの親だった羽原好恵さん |
ジャーナリスト |
|
|
|
|
191 |
遺稿 |
|
|
193 |
ささやくキャンパス― |
1970年8月 |
195 |
とうとう社員にさせました― |
1972年4月 |
201 |
白馬が跳ぶ海のことば― |
1979年7月 |
217 |
ボルゴグラード友好の旅 |
1987年7月 |
220 |
ある日突然 海・外・取・材― |
1990年3月 |
226 |
みつめる90 平和の夢を追いつづけて― |
1992年4月 |
242 |
中四国地連第14回婦人集会へのメッセージ― |
1993年2月 |
244 |
在広民放4組合婦人部合同「お花見」へのメッセージ― |
1993年4月 |
|
|
|
|
245 |
おもいで |
247 |
45歳いのち見つめて 新聞記事より |
|
|
|
|
|
家族より |
|
251 |
山根喜美子 |
好恵が生まれたころ |
母 |
254 |
羽原博子 |
好恵さんに逢えて |
義妹 |
256 |
羽原幹男 |
好恵とのこと |
夫 |
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267 |
堀口勲 |
弔辞 |
中国放送社長 |
269 |
原森勝成 |
お別れの言葉 |
中国放送労組 |
273 |
田端佐紀子 |
弔辞 |
友人代表、広島テレビ放送 |
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275 |
羽原好恵年譜 |
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279 |
原森泉 |
あとがき |
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池本恵子、田端佐紀子、野田恵美、原森勝成、三宅泰次、山原玲子、三宅文枝 |
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止
羽原好恵
はばら・よしえ |
19450730生19930418没 |
享年47歳 |
RCC中国放送勤務。 |
羽原好恵年譜<『駆けぬけて 羽原好恵追悼集』(羽原好恵追悼集刊行委員会、1993/12/01)>
止
『平和をもとめて 長田新論文・追想記』(広島大学新聞会編・刊、19620325)
内容
頁 |
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はしがき(岡本明) |
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長田新論文 |
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03 |
ノーモーア広島か、ワンスモーア広島か |
『広島大学新聞』第13号、19520417 |
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07 |
原子爆弾は何故投下されたか |
『世界』195309 |
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24 |
原爆をつくる人、こわす人 |
『改造』195310 |
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46 |
原水爆と日本の子供たち |
『思想』195408 |
|
68 |
松川事件に思うこと |
『松川通信』19581107,1115号 |
|
73 |
核武装激化の歴史―原水爆禁止大会を迎えて |
『中国新聞』19590806,0807 |
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80 |
安保条約改訂のもたらすもの―危機日本のピーク |
19590505 |
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93 |
学生運動と危機にたつ日本 |
『広島大学新聞』第75号、19590408 |
|
96 |
大学の自由と独立 |
『広島大学新聞』第84号、19591125 |
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98 |
国民教育の大道―危機を突破せよ |
『広島大学新聞』創刊100号、19601210 |
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103 |
青年学徒の使命 |
『広島大学新聞』104号、19610330 |
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107 |
民衆の中へ-若き日のペスタロッチー |
『広島大学新聞』96,97、101号 |
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114 |
ペスタロッチーに還れ―上からの教育学より下からの教育学へ |
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126 |
最近の体育問題 |
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追想記 |
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157 |
長田新博士のこと |
南原繁 |
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159 |
平和のための闘士 |
末川博 |
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162 |
「同志」だけではなかった長田さん |
上原専禄 |
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164 |
熱烈なヒューマニスト |
田畑忍 |
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167 |
その面影をしのびつつ |
前芝確三 |
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169 |
あやまちは二度とくりかえさせませんから |
坂田昌一 |
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171 |
長田さんにつながる想い出 |
福島要一 |
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176 |
フィヒテと同じ道を歩んだ人 |
細谷俊夫 |
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178 |
荒けずりな人・朴訥な人 |
三井為友 |
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181 |
戦時中の長田さん |
小川太郎 |
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184 |
日本民主教育の先達 |
砂沢喜代次 |
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190 |
長田教育学の発展 |
船山謙次 |
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195 |
学者として市民として |
柴谷久雄 |
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197 |
実践的な学者 |
鈴木直吉 |
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200 |
「幼き神の子の声を聞け」 |
森滝市郎 |
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204 |
長田先生についての私記 |
金子金治郎 |
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213 |
大学の研究室における晩年の長田先生 |
沖原豊 |
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221 |
いかに生くべきか |
玉置孝 |
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235 |
偉大なおやじをうしなって |
篠原孝義 |
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239 |
敬・愛・信 |
西原章 |
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246 |
ペスタロッチーと長田先生と |
清水慶子 |
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253 |
原爆孤児を守るために |
山口勇子 |
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257 |
原爆の子の父-長田先生を喪いて |
武内利忠 |
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273 |
「真理は最後の勝利者である」 |
大内昭三 |
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278 |
若き学徒の渇仰の的 |
為藤五郎 |
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279 |
日本の自由教育史の先駆者 |
上田庄三郎 |
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281 |
長田教育学の本質 |
矢川徳光 |
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292 |
偉大なる生涯 |
森徳治 |
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304 |
長田先生の片影 |
島為男 |
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312 |
先生と先生の最初の弟子達 |
島為男 |
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323 |
不滅の真理をかかげて |
李東準 |
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329 |
日本におけるペスタロッチー運動創設者の追想のために |
ハンス・シュテットバッハー |
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333 |
長田新略伝 |
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362 |
あとがき |
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止
勅使河原宏
てしがわら・ひろし |
19270128生20010414没 |
享年74歳 |
映画監督、草月流家元。 |
資料年表:勅使河原宏<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
1927 |
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0128 |
東京・青山で誕生。 |
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1956 |
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記録映画「生きていてよかった」(監督:亀井文夫、助監督:勅使河原宏) |
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1957 |
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06 |
記録映画「世界は恐怖する」(監督:亀井文夫、助監督:勅使河原宏) |
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1981 |
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0905 |
『創造の森』(草月出版編集部著・編、草月出版) |
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1982 |
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0325 |
勅使河原宏(草月流家元)、広島原爆病院に100万円寄付。(出典:『中国新聞』) |
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0325 |
~30日。「中国地区草月展」(広島・福屋) |
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0325 |
草月流レセプション。於福屋。藤居・松原<宇吹メモ> |
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1110 |
『勅使河原宏カタログ』(草月出版編集部、草月出版刊) |
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1988 |
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1013 |
勅使河原宏「東京駅をいける」<(『東京駅と煉瓦 JR東日本で巡る日本の煉瓦建築』(東京ステーションギャラリー編集・デザイン、東日本旅客鉄道刊)> |
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1997 |
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04 |
「ART 勅使河原宏展」<『けんみん文化 1997.04』(広島・県民センター文化情報課)> |
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1998 |
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0331 |
『1997話題の展覧会から ◎勅使河原宏展「舞竹」』<『’98美術ひろしま』(広島市文化振興事業団)> |
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2001 |
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0414 |
没 |
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止
蜂谷道彦
はちや・みちひこ |
1903生19800413没 |
享年76 |
蜂谷道彦 |
『ヒロシマ日記』(朝日新聞社、1955) |
資料年表:蜂谷道彦<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
1903 |
岡山県生まれ |
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1929 |
岡山医科大学卒 |
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1942 |
広島逓信病院院長就任 |
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1945 |
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0806 |
逓信病院近くの自宅で原爆被爆、大怪我。8月11日職場復帰。原爆投下直後の56日間の職務記録、1955年に『ヒロシマ日記』として出版(朝日新聞社)。 |
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1952 |
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0601 |
「原爆放射線病の回顧 蜂谷道彦」(『広島医学』) |
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1959 |
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0613 |
土木学会第45回通常総会記念講演「原爆の災害と家屋の放射遮蔽効果」(学会誌 (jsce.or.jp)) |
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1966 |
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0815 |
広島逓信病院院長辞職。 |
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1980 |
|
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0413 |
死去。 |
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|
止
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