資料年表:加納竜一<作成中>
年月日 |
|
|
1904 |
|
|
**** |
神戸市生まれ。 |
|
|
|
|
1968 |
|
|
0401 |
『世界 第269号』(岩波書店) |
|
|
「原爆映画」の全巻を見る権利について 加納竜一 274 |
|
0601 |
『マスコミ市民 No.16』(日本マスコミ市民会議) |
|
|
座談会 カメラを廻したのは私たちだ 加納竜一・山中真男・相原秀次・上田哲 6 |
|
|
広島を訪う 加納竜一 32 |
|
06 |
米返還原爆記録映画「広島・長崎における影響」制作スタッフ、原爆の学術記録写真集の出版を計画。 |
C |
|
|
|
1969 |
|
|
0202 |
加納竜一、被爆の後広島を撮影した記録写真(スライド700枚)を広島で公開。 |
C |
0301 |
『マスコミ市民 No.24』(日本マスコミ市民会議) |
|
|
原爆白書としての映画(二) 加納竜一 56 |
|
1970 |
|
|
0511 |
原爆映画全面公開推進会議のメンバー(森滝市郎・相原和光・加納竜一)、坂田文部大臣に原爆記録映画「広島・長崎における原爆の影響」の全面公開を要請。 |
|
0710 |
『アサヒグラフ 第2428号 原爆の記録』(朝日新聞社) |
|
|
文・記録の正確な位置づけを(加納竜一) 44 |
|
|
|
|
1972 |
|
|
0331 |
『広島県史 原爆資料編』(広島県編・刊) |
|
|
「広島・長崎ロケ日記」〔加納竜一氏蔵〕pp.610-626 |
|
|
「資料解題 9原爆映画ロケ班の資料」pp.954-955 |
|
|
|
|
1988 |
|
|
0701 |
死亡。享年84歳。 |
|
|
|
|
1995 |
|
|
0709 |
「検証ヒロシマ1945~95<25>映画」(報道部・西本雅実)(『中国新聞』) |
|
|
|
|
2000 |
|
|
0530 |
「広島・長崎における原子爆弾の影響」台本 |
|
|
資料詳細 – 広島平和記念資料館平和データベース (hpmm-db.jp) |
|
|
原爆被災記録映画製作のプロデューサーを務めた故・加納竜一氏が持っていた資料。映画は、国策会社だった日本映画社の関係者や理化学研究所の仁科博士らの働きかけで「原子爆弾災害調査研究特別委員 会」の調査活動の一環として製作が認められ、9月下旬より撮影開始。映画製作にあ たっては、当初から被爆の実相を客観的に科学的に記録しようとする姿勢が貫かれた。途中、長崎でGHQに 撮影中止を命ぜられるが、米国側と交渉の結果、空襲の効果を調べる目的で来日し、調査活動を行っていた米国戦略爆撃調査団の委嘱を受ける 形で映画製作の継続が可能となり、その監督下で製作が行われた。1946年英語版 「広島・長崎における原子爆弾の影響」が完成し、米国に納品。さらに全ての資料の提出を命じられ、写真・フィルムも全て米 国に持ち帰られるが、一部関係者が何としても映画を残したいという思いから秘かにフィルムの一部分の複製をつくり、保存していた。1952年のサンフランシスコ平和条約発効後、秘かに保存されていたフィルムは、「朝日ニュー ス」363号で一般に公開され、ニュース映像や「原爆の長崎」、「生きていてよかっ た」などの映画に活用され始める。一 方、米国から作品が返還されたのは、1967年 のことだった。 |
|
|
|
|
止
資料年表:宇都宮徳馬<作業中>
年月日 |
|
|
1906 |
|
|
0924 |
生 |
|
|
|
|
1980 |
|
|
05 |
宇都宮軍縮研究室創設。 |
|
1001 |
『軍縮問題資料 No.1』(宇都宮軍縮研究室)創刊。 |
|
1981 |
|
|
0325 |
『軍縮問題資料 No.6』。 |
|
|
「軍縮」に具体的行動を 河野洋平 2頁
付、一、ローマ法王平和アピール 11頁
二、故アイゼンハワア米大統領の離任演説要旨 18頁 |
|
0513 |
国際軍縮促進議員連盟設立総会。東京・第2議員会館。宇都宮・大石武一両参議院議員らの呼びかけ。全党の104人が出席。 |
C |
0525 |
『軍縮問題資料 5月号 No.8』。 |
|
|
一、差し迫った核戦争の危険/ロバート・C・オルドリッジ 3
二、軍縮と日本の使命/前田寿 29
三、軍縮のゲーム 31
四、国連軍縮特別総会の最終文書全文 35
五、包括的軍縮計画への提言 57
六、全面完全軍縮 60
七、国際軍縮促進議員連盟創設 61 |
|
0725 |
『軍縮問題資料 7・8月号 No.10』。 |
|
|
特集号 ヒロシマに想う
海洋の軍事力支配 ストックホルム国際平和問題研究所
オ-エン・ウイルクス 2
核兵器こそ本質的に悪
―アインシュタイン― 篠原正瑛 12
選択を考える 坂本義和 13
強いアメリカ、弱いアメリカ 米谷健一郎 30
第四回 科学者京都会議聲明 34
核兵器絶滅計画 ラルフ・K・坂本 36
核兵器と日本人 宇都宮徳馬 42
ヒロシマを考える 高橋昭博 46
先進国首脳者への要望 三宅善二郎 51 |
|
0925 |
『軍縮問題資料 7・8月号 No.10』。 |
|
|
軍縮のための国際平和秩序創出の急務 関寛治 2
ストックホルム国際平和研究所一九八一年版年鑑要旨 9
ノエル・ベーカー卿の核廃絶アピール 10
ラッセル・アインシュタイン宣言 15
軍縮 国連広報資料 19
戦争と名分 宇都宮徳馬 24
日本よ、大志を抱け 林卓男 26
アメリカの基地-破滅への踏石 ロバート・C・オルドリッジ 33 |
|
1025 |
『軍縮問題資料 11月号 No.13』。 |
|
|
軍縮こそ世界平和の基礎 2
-園田外相国連演説全文-
破滅の牙をとぐ核兵器 高良とみ 9
金日成主席との会談抄録 宇都宮徳馬 17
一枚岩ではないアメリカ(上) 國弘正雄 20
核時代の軍縮 ワルトハイム国連事務総長 27
平和・軍縮に関する世界へのアピ-ル アルヴァ・ミュルダン 30
緊張暖和へのソ連の呼びかけ 三宅善二郎 31
日本にある国連機関 国連広報資料 37
夕雲の「相抜け」剣法の精神で- 高山岩男 44 |
|
1125 |
『軍縮問題資料 12月号 No.14』。 |
|
|
一枚岩ではないアメリカ(下) 國弘正雄 2
アメリカとソ連 ジョ-ジ・ケナン 10
―人類を自滅の道連れに-
ゆさぶられる核抑止戦略 阪中友久 16
「非核三原則をめぐるシンポジウム」の報告 原爆問題 26
広島綜合研究室
「軍縮への提言」応募論文について 38 |
|
1225 |
『軍縮問題資料 1月号 No.15』。 |
|
1981 |
|
|
0806 |
『中国新聞』全面広告 |
|
|
【意見広告 No More Hiroshima 被爆者の証言】「ヒロシマ・ナガサキの「情報」を世界に伝えよう」 |
|
|
宇都宮徳馬(宇都宮軍縮研究室) |
|
|
|
|
1985 |
|
|
0818 |
NTV系全国26局ネット「特別番組ニュージーランド’85・冬~南半球から平和を考える~」 |
|
|
|
|
1993 |
|
|
0815 |
『軍縮問題資料 8月号 No.153』。 |
|
|
特集 核時代に生きる 宇吹暁「原爆体験手記の系譜 」 42 |
|
|
|
|
2000 |
|
|
0701 |
没。享年93歳。 |
|
0712 |
『朝日新聞』「惜別 政治家・宇都宮徳馬さん 生ある限り反核の叫び」(編集委員・小林暉昌) |
|
2001 |
|
|
1026 |
「宇都宮徳馬先生を偲ぶ会」鯨岡兵輔(発起人代表)会場:キャピトル東急ホテル。 |
|
|
宇吹宛案内状 |
|
|
|
|
|
|
|
止
河村盛明
かわむら・せいめい |
1922****生19950708没 |
享年72歳 |
『河村盛明評論集 傷痕よりの出発』(河村盛明、六法出版社、1992.5.30) |
資料年表:河村盛明<作業中>
止
村上経行
むらかみ・つねゆき |
191804生201107没 |
享年93歳 |
『平和に生きる』(村上経行後援会、1972.10.1)、『広島のねがいを国政へ 活躍する、村上経行さん』(村上経行後援会、1975.12.25)、 |
止
宮本顕治
みやもと・けんじ |
19081017生20070718没 |
享年98歳 |
日本共産党中央委員会議長、幹部会委員長、中央委員会議長。 |
資料年表:宮本顕治<作業中>
年月日 |
事項 |
出典など |
|
C=『中国新聞』 |
1908 |
|
|
1017 |
山口県光市生 |
|
|
|
|
1958 |
|
|
0811 |
広島―東京平和行進と長崎―広島―東京自転車平和リレー、六郷橋(東京の入り口)到着。浅沼稲次郎(社会党)・宮本顕治ら出迎え。 |
C |
08 |
日本共産党中央委員会書記長 |
|
|
|
|
1964 |
|
|
0902 |
宮本書記長、赤旗紙上でソ連共産党へ、部分核停条約締結について「帝国主義者に譲歩と妥協をあえてした」と反撃。 |
C |
1017 |
宮本書記長、「中国の核実験は祖国の防衛だけでなく、アジアにおける核戦争を防止するための防衛的な措置」と声明。 |
C |
|
|
|
1967 |
|
|
1213 |
畑中政春(日本原水協代表理事)・吉田嘉清(事務局長)、山本幸一社会党書記長・宮本共産党書記長をそれぞれ訪れ、被爆者援護法実現への協力申入れ。 |
C |
1968 |
|
|
0611 |
宮本共産党書記長、山本幸一社会党書記長に「原水禁運動統一問題での協議」を申入れ。山本幸一書記長、了承。12日、社会党、組織の根本に関する問題を政党レベルで話し合うことは政党の干渉になると、協議を断ることを決定。 |
C |
1969 |
|
|
0804 |
第15回原水禁世界大会本会議開会総会(広島県立体育館)。宮本書記長があいさつ。広島県庁で記者会見。統一問題について語る |
C |
|
|
|
1970 |
|
|
07 |
日本共産党幹部会委員長 |
|
|
|
|
1973 |
|
|
0705 |
宮本委員長、国会内で記者会見。「今後は社会主義国の核実験でも反対する」。 |
C |
|
|
|
1977 |
|
|
0127 |
宮本委員長、記者会見。原水禁運動統一問題について総評とのトップ会談で一致点が確認されれば統一は可能と語る。 |
C |
0315 |
宮本委員長、記者会見。原水禁運動統一問題にとって被爆国際シンポジウムが開かれることしはチャンスと語る。 |
C |
0704 |
宮本委員長、広島市で記者会見。統一大会反対の動きを批判。 |
C |
|
|
|
1982 |
|
|
07 |
日本共産中央委員会議長 |
|
|
|
|
1984 |
|
|
1217 |
日ソ共産党の宮本議長とチェルネンコ書記長、モスクワで会談。核廃絶に向け両党の協力をうたった共同声明。 |
C |
|
|
|
1985 |
|
|
0505 |
『核兵器廃絶への道』(新日本出版社) |
|
|
|
|
|
|
|
2007 |
|
|
0718 |
宮本顕治没 |
|
|
|
|
2015 |
|
|
0501 |
県立山口図書館、戦後70年企画で山口ゆかりの文学者(宮本元共産党議長ら5人)が戦争体験を題材にした小説など展示。~8月27日。 |
|
|
|
|
止
那須正幹
19420606生20210722没 |
なす・まさもと |
享年79 |
児童文学作家、小説家。『広島県現代文学事典』 |
関連資料
年月日 |
資料名 |
備考 |
20190806 |
「筆に託して 戦争体験と表現〈1〉児童文学作家 那須正幹さん(77)防府市」(増田咲子記者『中国新聞』20190806掲載) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
止
日野原重明
ひのはら・しげあき |
20170718 没 |
享年105歳 |
聖路加国際病院理事長。 |
日野原重明
宇吹メモ(広島女学院大学勤務期)
2005 |
10 |
20 |
12:30 |
木曜日チャペル:日野原重明(聖路加国際病院名誉院長・同理事長)「信仰・望み・愛」。出席。 |
2005 |
10 |
21 |
18 |
日野原重明・小沢征爾『世界へおくる平和のメッセージ』。広島県立総合体育館。グリーンアリーナ。参加できず。 |
2005 |
11 |
03 |
15:00 |
BS2「共鳴する魂~日野原重朗・小沢征爾 世界へおくる平和のメッセージ~」。冒頭、一部分撮り損ねる。~16:40。 |
2006 |
12 |
25 |
13:30 |
日野原重朗講演会(私は欠席。1470名以上参加した由)。 |
2007 |
04 |
12 |
24 |
***から自宅に日野原の講演のチケットの礼の電話があった由。 |
2009 |
07 |
10 |
10:40 |
日野原先生講演会。不参加。 |
2010 |
05 |
27 |
15:00 |
日野原講演会。不参加。参加者は1200人あった由。 |
広島平和記念都市建設方案 (昭和24.9.20立案)
|
広島大学蔵 |
原爆にたをれむ人もやすらかに平和の光受けて眠らむ
広島平和記念都市建設方案
(昭和24.9.20立案) |
企画部 |
建設構想の研究、実施の促進 |
建設法に伴ふ国家各機関との交渉 |
建設予算編成と財源捻出(県市、国家、外国) |
都市形態整備 |
特殊的 |
記念保存物調査決定(産業奨励館、原爆十景等) |
新建設物 |
慰霊塔(平和塔) |
記念館 |
美術館 |
科学館 |
一般的 |
土木工事 |
道路 公園 |
軌道 ガス |
上下水道 |
橋梁 |
建築工事 |
公共文化、社会事業的建造物 |
個人住宅 |
内容充実 |
霊場設置 |
二十万犠牲者の鎮魂場 |
原爆資料 |
実物、写真 |
調査蒐集 |
文書、統計 |
平和精神涵養 |
講演会(教育、宗教、文化団体連絡) |
雑誌(平和協会ヨリ発行) |
市旗(平和都市象徴・各戸掲揚) |
平和祭発展 |
行事の研究(世界的構想へ) |
市民の熱意表現工夫 |
世界平和運動 |
国際連合、ユネスコ連絡(行事) |
会場の建設 |
文化施設内容 |
美術館 |
資料研究、調査、蒐集 |
科学館 |
千田書房(店主=山崎与三郎)
やまさき・よさぶろう |
19760704没 |
享年86 |
資料
増岡敏和
ますおか・としかず 2010年7月28日没 享年82歳
8月6日(1945年)には海軍の予科練(飛行機練習生)で松山航空隊に入隊、8月6日頃は軍隊疎開で愛媛県の南部の深浦町にいた。敗戦の数日以内に広島市に帰る。祖母、母、長妹(原爆死)、次妹被爆弟たちは学童疎開中。
資料
年月日 |
タイトル |
形態・メモ |
19560601 |
請願書(広島県原爆被害者団体協議会) |
|
19920911 |
増岡⇒ 吉川生美 |
書簡 |
|
吉川生美⇒ 宇吹 |
書簡 |
19920923 |
増岡⇒ 吉川生美 |
葉書 |
19921006 |
宇吹⇒吉川生美 |
書簡(控) |
|
同上同封資料『東友文庫5 「ヒロシマ・ナガサキから何を学ぶか」被爆45周年連続学習講座 第5集 被爆者・国民は何をしてきたか』 |
19921030 |
宇吹⇒増岡 |
書簡(控) |
|
|
|
19921105 |
増岡⇒ 宇吹 |
葉書 |
|
|
|
19940712 |
増岡持参資料 |
紙1枚 |
|
「不屈の原水禁・被爆者運動前史―「占領期の広島」手控え」 |
19930124 |
1992年度久保医療文化研究所講演録(久保医療文化研究所) |
冊子 |
|
第68回講演会(19920314)増岡敏和「広島における反原爆文化運動の原点」 |
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。