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編年資料:梶山季之

編年資料:梶山季之<作業中

年月日
1930
0102 京城(現・韓国ソウル)に生まれる。京城中学校4年の時終戦。1945年末、広島県地御前村に引揚げ。広島二中に編入。
1948  広島高等師範学校入学。
1966
0225 『松田重次郎』
「はしがき」の巻頭
 自叙伝というものがある。よんでみると、なかなかに面白いものである。だが、私は、自叙伝というものを、あまり信用していない。(中略)また伝記というものがある。政財界の大立者が物故すると、必ずといってもよいぐらいに、伝記が刊行される。なかには良心的なものもあるが、故人を追慕するのあまり、美しい面ばかりを取り上げて、欠点や短所はとり上げない傾向の方が強い。人間だから長所もあれば短所もあるはずなのだが、どういうものか、人間の醜い面が取り上げられないのは不思議である(日本に不足しているのは、真の伝記文学とユーモア小説ではあるまいか?)というのは私の持論だが、伝記を書く以上は正確に、その人間像を浮き彫りに、私生活も描かねばならないと、私は考えていた。
 1973
 1020  『広島の文芸 小説・評論 知的風土と軌跡』(岩崎清一郎 著、広島文化出版)
「第五章 死の影―原 民嘉・大田洋子 阿川弘之…88」
1975
 0511  没。享年46歳。
0720 『別冊新評 梶山季之の世界 追悼号』
 0731  『ヒロシマの原風景を抱いて』(栗原貞子著、未来社)
 「梶山季之作「ケロイド心中」をめぐって 87」
1977
0415 『旅とその世界』(山と溪谷社)
1979
0313 『定本原民喜全集 別巻』(山本健吉他編、青土社)
「梶山季之 「天邪鬼」のころ 362」
1991
0615 『梶山季之のメジャー・コンタクト(17回忌・文学碑建立 記念号)』(季節社・代表梶山美那江)
2007
1110 時代を先取りした作家梶山季之をいま見直す 没後33年記念事業』(梶山季之記念事業実行委員会、中国新聞社)
 2010
 1220  『広島県現代文学事典』(天野裕康・記)

今川卓治

今川卓治

いまがわ・たくじ 18961109生19810510没 享年84歳 『被爆医師 今川卓治』(今川静子、19870510)

資料年表:今川卓治<作業中

 年月日  事項 備考
 1896
 1109  群馬県で誕生
 1922  旧九州帝国大学医学部卒業
 1927  東京帝大より医学博士号を受ける
 1928
 03  広島市猫屋町に医院を開業
 1945
 0806  往診中に広島市観音町で被爆。多くの被爆者の救護活動にあたる
 1947  社団法人広島市医師会初代会長に就任。~1949年2月。
 1955  広島市医師会会長。~1957年2月。
 1981
0510  旧制心不全で死去。享年84歳。
1987
0510 『被爆医師 今川卓治』(発行:今川静子)

資料年表:菊池武彦

資料年表:菊池武彦<作業中

年月日 事項 備考
出典:C=『中国新聞』
 **** 誕生
1947
0401 戦後初の日本医学会総会。於:大阪。菊池武彦京大教授らがについて特別講演。 C
1010 菊池武彦京都大学教授ら、広島市で被爆者健康調査のため無料巡回診療。~19日。 C
 1949
1202 菊池武彦京都大学教授、ABCCで被爆生存者の病状記録について協議。 C
 1953
 0505  『原子爆弾災害調査報告集 第二分冊』(日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編、日本学術振興会)
 1954
0919 原子爆弾災害調査研究班第5回研究会議。会場:広島大医学部付属病院(呉市)。都築正男・塩田広重・中泉正徳・菊池ら出席。 C
 1961
 0331  『原子爆弾後障害研究会講演集 第2回 [昭和35年]』(長崎県・長崎市・長崎原爆障害対策協議会編)
1985
0504 死亡。
 1991
 0615  『医師たちのヒロシマ 原爆災害調査の記録』(核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会「医師たちのヒロシマ」刊行委員会編、機関紙共同出版)
 1993
 0901  『京都大学原子爆弾災害綜合研究調査班遭難 「記念碑建立・慰霊の集い」のあゆみ』(芝蘭会広島支部、京都大学)

消えた十字架

『消えた十字架』(碓井静照著、ガリバープロダクツ刊、19950806)

内容

見出し 備考
はじめに 2
1 消えた十字架 9
・心のふるさと-アメリカ 11
/ボストン大学へ… 12
/ボストン近郊にて~ヨットや釣りのこと~ 27
/消えた十字架~ボストンのクリスマスに思いを馳せながら~ 37
/変わりゆくマンハッタン・ハーレム 45
・アフリカ、メヘバ難民キャンプを訪ねて… 51
/アフリカ、難民キャンプを訪ねて… 52
/南部アフリカ回想 56
・世界を語る 73
米ソの穀物事情と世界の緊張 74
/ドルと鯨と核利用 77
/二十世紀最大の疫病-エイズ 80
/真の国際化とは 84
/トイレットペーパーと文明度 86
・友ありユーゴより来る 89
ユーゴの友 90
/友あり、ユーゴより来る 92
/ホームスティのお話 95
2 ノーモアヒロシマの決意新たに 99
・私と原爆 101
時は流れる 102/私と原爆 103/語り継ぐ夏~四十七年目のヒロシマ~ 109/転機を迎えた核時代~処方せんは一つ「核廃絶」~ 110
・ノーモアヒロシマの決意新たに…~IPPNWの活動から~ 113
IPPNW平和学術講演会の印象記 114
/〈座談会〉IPPNWによせて~IPPNW国際会議出席者に聞く~ 121
/IPPNW広島大会、一九八九年に開催決定の瞬間 136
/ノーモアヒロシマ、この決意永遠に…139
/第二回IPPNWアジア太平洋地域会議(マニラ)開かれる 140
/ヒロシマの教訓~第二回IPPNWアジア太平洋地域会議(マニラ)での講演より~ 144
/はじめてチェルノブイリ原発事故被害の真相にせまる・IPPNW日本支部代表団、モスクワなどソ連四都市を公式訪問 154
/「安全保障の共有と健康のための地球規模のコミュニケーション」をテーマに~IPPNW第十回世界大会開催~ 162
/IPPNWストックホルム大会とヒロシマ 167
/ソ連クーデター直後、核管理の揺らぐモスクワに入る・IPPNW「ソ連共和国非核化教育キャンペーン」準備会議へ出席して 170
/IPPNW日本支部・碓井氏が帰国報告 173
/日ソ非核化キャンペーン・ロシアウインターキャンペーン(医療援助募金)について 175
/中国、北朝鮮(DPRK)、韓国、日本によるIPPNWアジア太平洋地域会議のための準備会議開催 183
/エリツィン大統領らに核廃絶を申し入れる・旧ソ連非核化教育キャンペーンの代表団の一員として 187
/国連軍縮会議が広島で行われたことの意義 199
/IPPNWボルゴグラード支部活動について 200
/ 朝鮮半島の非核化と日本のプルトニウム保有について 203
3  CUREとCARE 211
・医師として生きる 213
医学部を志す人達へ、一医師の日常 214/医者の不養生 221/週休二日制を考える 225/四面楚歌の中で 228/心に残った患者さん 232/医師をめざす後輩に物申す 234/〈座談会〉医の原点を求めて~海外医療活動経験者は語る~237
・地域医療の充実を求めて 257
春爛漫 258/広島市医師会創立一〇〇周年記念行事から 259/橋田寿賀子「ドラマの中の女たち」評・広島市医師会創立一〇〇周年記念~文化講演より~ 260
・医療経営を考える 265
規則緩和を求めて-病院協会の在り方 266/生き残れるか民間医療〈座談会〉医療経営について 268
・高齢化を見つめる 289
老人福祉制度への雑感 290/甘露の雨とこしえに 293/ボケ防止について 294
・老人保健施設について 297
都市医師会での老人保健に関する分科会から 298/老人保健施設短評 300
・深刻な看護婦不足 303
書評「ナースコール」を読んで 304/深刻化する看護婦不足 305/診療報酬体系と看護婦不足 309
4 GALLERY 313
・ゴルフ顛末記 315
大学の会報で同級生に紹介されたら 316/B組優勝者の弁 317/B組ブービー残念記 319/広島カントリー倶楽部「成人の日杯」に優勝して 321/またまたB組ブービー賞残念記 323
・写真に魅せられて 327
写真に魅せられて 328/街を撮る〈座談会〉写真放題~〝わがブロック〟担当カメラマン~ 332
・GALLERY 351
天神嶽の石佛 352/モスクワの子供たち 353/カレメグタンの丘にて 354/N・Y・ハーレムにて 355/エニセイ川(ロシア)上流の山脈 356/芽花、白い穂 357
・徒然なるままに 359
なくて七癖 360/徒然なるままに 361/一冊の本「徒然草」 369/英訳「宇津保物語」評・「The Tale of Cavern(Utsuho Monogatari)」について 371/高瀬堰随想~太田川に想う~ 375
あとがき 392

碓井静照

碓井静照

うすい・しずてる 201209没 享年74歳 広島県医師会会長、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部長などを歴任。第67回(2010年)中国文化賞(中国新聞社主催)。8歳の時被爆。

 

資料年表:碓井静照<作業中

年月日 事項 備考
1937
** 広島市牛田本町生まれ
1945
0806 8歳のとき、原爆被爆。
1989
0720 『ヒロシマ医師のカルテ』(広島市医師会)
座談会:あの日  (小山綾夫・横山滋・福原照明)67
碓井静照 「私と原爆」 147、「核戦争の危機-第3回大会」282、「’89年広島大会開催決定の瞬間」314、
川堀耕平・福原照明・茶幡隆之・碓井静照「IPPNWによせ」 338
1992
0130 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成4年1月30日(その1)』(IPPNW日本支部)
日本支部1990年度報告 碓井静照 4
0130 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成4年1月30日(その2)』(IPPNW日本支部)
「安全保障の共有と健康のための地球規模のコミュニケーション」をテーマに日本支部から30名参加 碓井静照 10
IPPNW「ソ連共和国非核化教育キャンペーン」準備会議に出席して 碓井静照 67
0130 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成5年1月30日』
(1)ロシアウィンターキャンペーン(医療援助募金)について
ボストンIPPNW執行委員会報告 碓井静照 7
(4)IPPNW代表団による旧ソ連邦非核化教育キャンペーンに参加して 碓井静照 14
中国、北朝鮮(DPRK)韓国、日本によるIPPNW
アジア太平洋地域会議のための準備会議開催 碓井静照 22
IPPNWボルゴグラード支部活動について 碓井静照 36
ヒロシマからの教訓-第3回IPPNWアジア太平洋地域会議に於ける講演- 福原照明 48
朝鮮半島の非核化と日本のプルトニウム保有について
-第3回IPPNWアジア太平洋地域会議の位置づけ- 碓井静照 64
1995
0806 『消えた十字架』(ガリバープロダクツ刊)
1996
0701 『エドナ・ライル夫人の死』(ガリバープロダクツ刊)
第1章 ミンスク(ベラルーシ)への旅 13
1998
0806 『語り継ぐ夏 Abolition 2000をめざして』(ガリバープロダクツ刊)
2002
0329 『ニューヨーク午後の日射し 続ヒロシマ2001』(ガリバープロダクツ刊)
2004
1212 『哀しみの虹 ある美しき韓国女性の死』(ガリバープロダクツ刊)
2007
1008 『シアトルからの手紙』(ガリバープロダクツ刊)
2009
0331 『核戦争防止国際医師会議日本支部報告 平成20年度(2008年度)』
2.IPPNW日本支部理事会・総会・広島県支部総会 柳田実郎 2
・日本支部長挨拶 碓井静照 5
0911 『ピョンヤンの春 望春-北朝鮮の核廃絶と被爆者医療』(ガリバープロダクツ刊)
2012
0127 『放射能と子ども達 ヒロシマ、チェルノブイリ、セミパラチンスク、そしてフクシマ』(ガリバープロダクツ、20120127)
0509 没。享年74歳。

故議員砂原格君に対する追悼演説

故議員砂原格君に対する追悼演説

出典:『第68回国会 衆議院 本会議 第31号 昭和47年5月23日』

  • 002 船田中

    ○議長(船田中君) 御報告いたすことがあります。  議員砂原格君は、去る八日逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。  同君に対する弔詞は、議長において去る二十一日贈呈いたしました。これを朗読いたします。   〔総員起立〕  衆議院は多年憲政のために尽力しさきに逓信委  員長運輸委員長の要職にあたられた議員従三位  勲二等砂原格君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞  をささげます     —————————————  故議員砂原格君に対する追悼演説

  • 003 船田中

    ○議長(船田中君) この際、弔意を表するため、大原亨君から発言を求められております。これを許します。大原亨君。   〔大原亨君登壇〕

  • 004 大原亨

    ○大原亨君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員砂原格君は、去る五月八日逝去されました。まことに痛恨の念にたえません。
     私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしんで哀悼のことばを申し述べたいと存じます。
    (拍手)
     顧みれば、昭和二十年八月六日午前八時十五分、広島市に史上最初の厚子爆弾が投下され、ただ一発のこの原爆によって全市は一瞬の閃光とともに灰じんに帰し、未曽有の惨状が現出いたしたのであります。このとき、砂原さんは爆心地にほど近い自宅において被爆され、建物の下敷きとなり、文字どおり九死に一生を得られたのであります。あなたは口にこそ出されなかったが、あなたのからだは、その後終生放射能の恐怖にさらされることになったのであります。
     砂原さんは、それに加えて宿痾の糖尿病が悪化して、本年初めから東京において入院加療し、さらに三月中旬からは被爆者治療の権威である郷里の広島赤十字病院に移って治療に専心しておられました。しかし、私が、去る三月、病院にお見舞いしたときには、奥さまと差し向かいでおいしそうに食事をしておられ、「もうだいじょうぶだよ」と言って、病人とも思えぬほど元気であり、かたい握手をして別れたのであります。また、最近は、再起を期して病院の廊下で歩行練習もされ、「六月になったら東京に行くんだ」と言われていたとのことであります。その御様子から、私はあなたが登院される日の近いことを信じ、心からお待ちしていたのでありますが、五月八日夜、だれもが思いもかけなかった病状の急変を来たし、奥さまの手を、しっかりと握ったまま、生けるがごとく大往生を遂げられました。主治医は、あなたの生命を断った要因に原爆症があったことを指摘されましたが、私は、原爆の悲惨さに思いをいたし、深い悲しみとともに強い憤りを抱かずにはおられません。  私は、昭和三十三年本院に議席を得て以来十四年余になりますが、この間五回にわたる選挙を通じて砂原さんと相争ってまいりました。互いに党派を別にし、主義主張を異にしておりましたが、庶民的政治家としての砂原さんに対し、心からの尊敬の念を抱き、あなたを相手として戦うことを誇りとしていたのでありまして、いまここに砂原さんの急逝にあい、私は、いまさらのように人生の無常を感ずるとともに、心から痛惜の念を覚えるものであります。(拍手)
     砂原さんは、明治三十五年四月、広島県高田郡白木町の農家にお生まれになりました。高等小学校を卒業後一たん農業に従事されましたが、独立独行の志かたかったあなたは、広島市に出て、幾多の辛酸をなめつつ未来への模索を続けた末、二十二歳にして土木建築事業を興し、事業家としての第一歩を踏み出されました。その後事業は次第に拡大され、やがて砂原組をはじめ各種の分野で幅広く活躍されることになりました。その間、広島商工会議所副会頭にもあげられ、地方産業界の指導的役割りを果たされたのであります。
     砂原さんが地方政界に入られたのは昭和十七年でありました。あなたは、時のいわゆる翼賛選挙に憤慨をし、持ち前の反骨精神から、敢然として広島市会議員の選挙に非推薦で立候補し、初当選をされたのであります。以来、市会議員として、その庶民性と実行力をもって市政の推進にこん身の熱意を傾け、多くの業績をあげられたことは、広島市民周知の事実であります。
     そして、昭和二十年八月六日、突如としてあの原爆に襲われたのであります。戦後十六年間にわたって広島市長であった故濱井信三氏は、その著書「原爆市長」の中で、「焼け跡にもようやく秋の気配が動きはじめた。八月の終りから九月の初めにかけて身に傷を受けず、火傷もしなかった人たちが、次々に倒れていった。被爆直後から市役所に出て来て、さかんに活躍していた市会議員の砂原格氏も姿を見せなくなった」と書いていますが、砂原さんもついに原爆症のため病床に伏すのやむなきに至りました。原爆のため肉親を失い、みずからも脱毛や歯ぐきよりの出血などの重症におちいりましたが、不屈の砂原さんは、よくこれを乗り越えて再び不死鳥のように立ち上がり、地元町内会長、消防団長をはじめ市会議員として、混乱の極にあった市民の救済に挺身をされました。
     翌二十一年には市会議長の要職につかれ、焦土と化した広島市の復興に全力を傾注し、また、昭和二十二年からは県議会にも議席を占めて、戦後の復興と民生の福祉増進に尽くし、県民の信望を大いに集められたのであります。(拍手)
     そして、昭和二十七年十月、第二十五回衆議院議員総選挙が行なわれるや、あなたは、祖国の再建と郷土広島の復興のため努力したいとの決意を固め、激戦の広島県第一区から勇躍立候補し、みごと当選の栄を獲得されたのであります。(拍手)  本院に議席を得られた砂原さんは、長年地方政界においてつちかわれた経験と、あくまでも庶民の生活に根ざした実際的感覚をもって国政に当たられ、その活躍ぶりは独自のものがありました。
     昭和三十五年には、第二次池田内閣の通商産業政務次官に就任をされ、中小企業の振興、特に零細企業について、商工会の制度創設に尽力をされました。昭和三十八年には、同じ池田内閣の厚生政務次官となり、みずからの貴重な体験に基づいて原爆被爆者対策に積極的に取り組み、また当時から、「街に緑を」と提唱するなど、公害問題に対して先駆的な考えを示されました。
     本院においては、運輸、商工、逓信、建設その他各委員会の委員あるいは理事となって、各方面にわたり幅広い活躍をされました。そして、逓信委員長あるいは運輸委員長の要職にもあげられ、よくその重責を果たされたのであります。
     しかしながら、砂原さんの本領は建設行政にありました。特に、通路問題については、実務を知悉した経験とその卓越した実行力をもって貴重な意見を吐き、欠くことのできない権威として、つとに同僚議員の認めるところでありました。「近代的な交通網の整備は、その国の発展の証左であり、国民の生活や生産を向上させる基本である。」これは、道路の重要性がなお実感として受け取られていない当時からの国土開発に対する砂原さんの政治信念であり、砂原さんが政治生命をかけて提唱してこられたところであります。
     昭和四十一年には、国土開発縦貫自動車道建設法の改正案が成立しましたが、砂原さんは、この法律の制定あるいはまた道路建設の実施にあたって、献身的な努力をいたされました。  最近におきましても、本州四国連絡橋公団法案の制定あるいは道路整備五カ年計画の推進に、陰ともひなたともなって努力をされたのでありまして、この間の砂原さんの尽力は高く評価されなければなりません。(拍手)
     それにつけましても、砂原さんが執念を燃やしておられた地元の中国縦貫自動車道あるいは中国横断道が完成半ばにして急逝されたことは、砂原さんにとって大きな心残りであったでありましょう。
     自由民主党にあっても、道路調査会副会長として、また政務調査会審議委員として、党の政策の立案推進に大きな発言力を持っておられたのであります。
     かくして、砂原さんは本院議員に当選すること前後六回、在職十四年八カ月に及び、この間国政に残された功績はまことに偉大なものがあります。
     思うに、砂原さんは真の大衆政治家であり、きっすいの政党政治家でありました。「政治は、足と真心だ。これに尽きる。奉仕の気持ちで三百六十五日、足を使わなければだめだ」、あなたはこれを政治活動の基本姿勢とし、いたずらに理想に走らず、常に大衆に接し、大衆の心の中に政治の方向を求めてこられました。「困った人があったらまず救済の手を差し伸べ、理屈や法律はそのあとについてくればいいではないか」と言いつつ、はだで感じ取った真実を黙々として現実の政治の上に具現してこられたのであります。そして、時にその政治姿勢に向けられる批判も甘受し、断固としてわが道を歩み続けられたのでありますが、私は、そこにこそ大衆政治家砂原格君の真骨頂があったと信ずるものであります。(拍手)
     砂原さんは、裸一貫から身を起こし、あらゆる辛酸をなめながら、不撓不屈の信念を堅持して、独立独歩、よく今日を築かれました。世人は、そのあなたを立志伝中の人、あるいはまた、その風貌も加えて、今太閤と評しております。しかし、私は、砂原さんが、人生の試練に直面するごとに、それをみずからを高めみがくかてとし、大衆を愛する至情に転化し、政治家としての、また人間としての形成に昇華してこられたことにこそ、惜しみない敬意と拍手を送りたいと思うのであります。  あなたの訃報に接し、広島のお宅には次々と弔問客が訪れたのでありますが、その中には、砂原さん直筆の手紙の束を両手にしっかりと握りしめ、ぼう然として涙にくれながら霊前にただずむ一市民の姿も見られたのであります。(拍手)それはまさに、みずからを顧みず寸暇をさいて世のため人のためをはかってこられた砂原さんをいたむにふさわしい情景でありました。
     御年七十歳。あなたの生命のともしびは静かに消えて、平和の象徴としてよみがえった広島の地において永遠の眠りにつかれたのでありますが、その全生涯をただ一筋に大衆にささげられたあなたのみたまは、多くの人たちの胸中に不滅の灯としていつまでもいつまでも燃え続けていくことでありましょう。  現下、内外の情勢は激しい流動を続けております。このときにあたり、庶民の中から生まれ、常に庶民とともにある砂原さんのごとき政党政治家を失いましたことは、返す返すも残念なことであり、まことに大きな損失と申さなければなりません。  人の値打ちは棺をおおうてきまる。いま私は、病床で最後の握手をかわしたときのあなたのがんじょうでしかもあたたかい手のぬくもりをしみじみと感じつつ、砂原さんの人となりをしのび、その功績をたたえ、心から御冥福をお祈りして、追悼のことばといたします。(拍手)

砂原格

砂原格

すなはら・かく 19020403生19720508没 享年70歳 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨、1978.5.8)

資料年表:砂原格<作業中

年月日 事項 メモ
1902
0403 誕生
1952
0425 『藤野七蔵氏追懐録』(広島瓦斯)
砂原格「産業界の巨星」445
0920 『川よとわに美しく 詩集』(米田栄作著、第二書房)
砂原格「跋」
1954
0625 『ながれ』(村上哲夫著)
砂原格:信用は真実、真剣 <318~320頁>
1965
0330 『砂原組40年史』
1972
0508 死亡
1974
0120 『高田郡史 下巻』
「砂原格」< 518頁>
1978
0508 『砂原格追想録』(砂原格先生顕彰会・会長森本亨)
1995
0301 『砂原組70年史』

 

渡辺忠雄

渡辺忠雄

わたなべ・ただお 18980715生19800506没 享年81歳 元広島市長(1955~59年)。

資料年表:渡辺忠雄<作業中

年月日
1898
0715 山県郡大朝町生まれ。
1928
** 弁護士開業
1946
0411 ~460622衆議院議員(日本自由党)。公職追放。
1955
0430 広島市長選挙。当選。5月2日就任、1959年5月1日退任。
0730 臨時市議会「原子炉導入については世界の科学的水準が高い国々ではすべて原子炉の平和利用の試験が行われ、実用化の段階に入っているので日本だけ、広島市だけが原子力の平和利用に狭量であってはならない。適当な時期に受け入れる気持ちである」
0806 広島市平和記念式典。平和宣言。
1007 第7回広島建設促進協議会、参院議員会館(東京)で開催。渡辺市長の提案で同協議会規約「平和記念都市建設の促進をはかる」を「産業都市建設の促進をはかる」に変更し、協議会の新発足を決める。
1123  原水爆禁止広島県民協議会発足。代表委員7名の一人にに選ばれる。
 1956
0103 中国新聞紙上で柴田重暉市議会議長と対談。「選挙で公約したように私は従来の『平和都市建設』をさらに進めて『産業都市建設』へすべての施策をもっていきたい」
0215 原水爆禁止広島市協議会の結成大会、広島市公会堂で開催。会長に渡辺市長。
0705 広島市、米から帰国した原爆乙女8人を招き、市社会館で渡辺市長を囲み座談会。
0806 広島市平和記念式典。平和宣言。
0928 渡辺市長の平和宣言に米ハワイ・ホノルル市長から返書。
1012
1015
1022
1956
0207
0806
1959
04 広島市長選挙。落選
1978
0508 『砂原格追想録』
渡辺「情熱に燃え実行型の士」pp.55-57
1980
0506

 

高橋和巳

高橋和巳

たかはし・かずみ 19310831生19710503没 享年39歳 作家。『広島県現代文学事典』(岩崎文人・記)<投稿>

資料年表:高橋和巳<作業中

年月日 事項 備考
1931
0831 大阪市浪速区で誕生。
1949
07 京都大学文学部(旧制)入学。
1965
1130 『憂鬱なる党派』(河出書房新社)
1967
06 京都大学文学部助教授。
1969
03 大学闘争の最中、学生側を支持して京都大学文学部助教授を辞職
0615 『京大闘争 京大神話の崩壊』(京大新聞社編・京大全共闘協力、三一書房)
「大学問題をめぐって」ティーチイン(大学変革委員会 講師:高橋和巳)
学生H:僕は4回生ですが、今現実的に卒業や大学院入試がせまっていて、どうしようか迷っています。現実の問題として入試中止といった事態も起こりかねない時に、先生や闘争を組んでいる諸君は一体どんな展望を持っているのか。卒業や入試をひかえた者のことも考えてほしい。
1110
1971
0503 死亡。享年39歳。
0705 『文芸臨時増刊 高橋和巳追悼特集号』(河出書房新社)
1130 『高橋和巳作品集3 憂鬱なる党派』(河出書房新社)
1976
 0115  『わが解体』(河出書房選書)
 1978
 1201  笠原伸夫「高橋和巳論 暗鬱志向の原拠」(『現代思想12月号』青土社)

布川弘

布川弘

ぬのかわ・ひろし 1958**生20190927没 享年61歳 山形県生まれ。広島大学大学院総合科学研究科教授。広島市被爆70年史編集研究会で同席。

著書:『“近代都市”広島の形成』(吉川弘文館、2018年)

はじめに(勝部眞人)
1 近代日本の秩序形成(近代日本社会における「外来」と「在来」の構造的な連関;歩兵第四十一連隊の福山転営と市制施行への動き;戦間期国際秩序構想と日本―太平洋問題調査会における論議を中心として;国際平和運動における新渡戸稲造と賀川豊彦の役割)
2 片隅から見た日本の近代(「片隅」に込めた意味;広島藩における海防の端緒と砲術;戦争と神機隊;救民の構想と軍事;武一騒動;成立した新政府への対抗;第五師団の成立;片隅から見た現在)
世界の片隅からの視座(勝部眞人)