『わしらの被爆体験 100人の証言』(全日自労広島分会・自労被爆者の会編、全日自労広島分会、19770720)<作業中>
内容
章 | わしらの被爆体験 ――この目で見た原爆地獄―― | |
1 | ||
2 | 被爆後のわしら ――その生活と健康の不安―― | |
3 | わしらの願い ――原爆のない世界・援護法の制定―― | |
怒りと悲しみの中から (組合・常任)吉田治平(54) 204 | ||
資料 | ||
止
『わしらの被爆体験 100人の証言』(全日自労広島分会・自労被爆者の会編、全日自労広島分会、19770720)<作業中>
内容
章 | わしらの被爆体験 ――この目で見た原爆地獄―― | |
1 | ||
2 | 被爆後のわしら ――その生活と健康の不安―― | |
3 | わしらの願い ――原爆のない世界・援護法の制定―― | |
怒りと悲しみの中から (組合・常任)吉田治平(54) 204 | ||
資料 | ||
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吉田治平
よしだ・じへい |
20180131没 |
享年95 | 1945年8月6日の広島壊滅を福岡で聞く。軍命令で神奈川へ向かう途次の5日、上幟町の実家跡を掘り返す。1950年に広島自由労組を結成。元広島市議会議員。1977年失対労働者100人の証言『わしらの被爆体験』を編む(西本雅実「評伝・吉田治平さん」『中国新聞』2018.2.9)<別記予定> |
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鈴木直吉<作業中>
すずき・なおきち | 生19860129没 | 享年90歳 | 1949年広島県立医科大学教授。広島大学医学部教授(「中国年鑑1956」)。 |
略歴
年月日 | ||||
1895 | 愛知県生まれ。 | |||
20歳で洗礼、クリスチャンに。 | ||||
1926 | 東京帝国大学農学部卒業 | |||
東北帝国大学助手として解剖学者としての第一歩 | ||||
岩手医学専門学校教授,満洲医科大学教授,横浜医科大学教授等。 | ||||
1949 | 広島県立医科大学教授。 | |||
国立移管により広島大学教授 | ||||
1958 | 停年退官 | |||
岩手医科大学教授,広島文教女子大学教授,順正短期大学教授を歴任 | ||||
武者小路実篤や郭沫若と親交 | ||||
1952 | 広島大学教授らでつくった「平和と学問を守る大学 人の会」会長 |
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1955 | 第1回原水禁世界大会(広島市)の開催に尽力 | |||
1964 | 広島県原水協初代会長 | |||
日中広島県連合会名誉会長 | ||||
1964 | 中国科学院の招待により第1回日本 学術代表団団長として訪中。 |
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呉市芸術文化功労賞 | ||||
1969 | 勲三等瑞宝章。 | |||
参考資料 | ||||
広島大学「学内通信」19850325 | ||||
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栗原登 くりはら・みのる<作業中>
19261130生20160907没 | 享年90歳 | 広島大学原爆放射能医学研究所所長(1985年4月1日~1987年3月)。 |
止
広島大学歴代医学部長
https://www.hiroshima-u.ac.jp/med/about/dean
代 | 姓名 | よみ | 期間 | 備考 |
1 | 河石九二夫 | かわいし・くにお | 昭和28年8月1日~昭和31年4月1日 | |
2 | 西丸和義 | にしまる・かずよし | 昭和31年4月1日~昭和31年10月22日 | |
3 | 鈴木直吉 | すずき・なおきち | 昭和31年10月22日~昭和33年3月31日 | |
4 | 渡辺漸 | わたなべ・すすむ | 昭和33年3月31日~昭和35年3月31日 | |
5 | 塚本寛 | |||
6 | 中塚正行 | |||
7 | 浦城二郎 | |||
8 | 中塚正行 | |||
9 | 浦城二郎 | |||
10 | 小林宏志 | |||
11 | 澤野十蔵 | |||
12 | 矢村卓三 | |||
13 | 仁平寛巳 | |||
14 | 矢村卓三 | |||
15 | 西本幸男 | にしもと・ゆきお | 昭和57年4月2日~昭和60年9月10日 | |
16 | 松尾吉恭 | |||
17 | 徳岡昭治 | |||
18 | 盛生倫夫 | |||
19 | 原田康夫 | はらだ・やすお | 平成2年4月1日~平成5年5月20日 | |
20 | 川崎尚 | |||
21 | 調枝寛治 | |||
22 | 吉永文隆 | よしなが・ふみたか | 平成8年4月1日~平成10年3月31日 | |
23 | 松浦雄一郎 | |||
24 | 大濱絋三 | |||
25 | 井内康輝 | 平成14年4月1日~平成18年3月31日 | ||
26 | ||||
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川村智治郎
かわむら・としじろう | 19060307生20030127没 | 享年96歳 | 広島大学第3代学長。第52回(昭和37年5月11日)日本学士院賞。 |
関係資料
19671001 | 「放送とわたし」(『放送RCC』第71号1967.10.01 所収) | ||
19821017 | 『追懐 広島高等師範学校創立八十周年記念』(広島高等師範学校創立八十周年記念事業会編・刊) | ||
19950107 | 元広島大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会設立。会長に就任。 | ||
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序(蔵本淳・広島大学原爆放射能医学研究所長・付属原爆被災学術資料センター長)
『原爆関係蔵書目録Ⅲ 1984年1月~1988年12月』(広島大学原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センター資料調査室 編・刊、19900731)所収
内容
序 昨年末,全米研究評議会(NRC)は低レベル電離放射線の生物学的影響についてBEIR (Biological Effect ofIonizing Radiation)の報告書Vを発表して注目されている。現在,放射線許容量などの基礎ともなっている BEIR一報告書Ⅲ(Chairman: A, C, Upton, 1980), I CRP (国際放射線防禦委員会)や, UNSCEAR (国連科学委員会)からのデータが,この10年間の広島,長崎での調査研究成果から,大幅な改訂を迫られたというoとくに白血病や,発癌リスクについては従来の甘さが指摘され,また被爆胎児の知能発育,被爆者の子供への遺伝的影響,被爆者年令(ATB)の影響などの見直し,未解決の問題を指摘している。 本資料センターは,原爆被災に関する資料の保存を目的として1974年(昭和49年)4月,日本学術会議の政府勧告,地元広島,長崎市民の要望,研究者,関係財団の熱意と努力の結果,当研究所に併設された。その当時の関係者の卓見とこれを実現された熱意とエネルギーに襟を正す思いである。 以来,営々と資料の収集と整理に努力が重ねられ,すでに「原水爆関係資料目録I」は1974~78年の5年分を1980年に,「原爆関係蔵書目録U」は, 1979~1983年の5年分を1985年に発刊してきた。今回は特に直接被爆者本人からしか聞きとれない,かけがえのない原爆被爆体験に関わる資料を一義的に収集する方針から被爆記録,体験記,手記に重点をおいた。そして個人体験のみならず,原爆当時の組織,機関,団体ごとの手記や記録が主要なものとなっている。45年を経過し,生き証人となる方々が,年々少なくなってこれら貴重な資料が埋れ,散逸することが懸念されている。今回の成果は市民の方々の深い理解と暖かい協力の賜であることを強調して感謝したい。 本センターは,これら「資料調査室」の活動とともに,「医学資料室」,「人口資料室」が各々の作業を進めて,原医研年報に成果を報告している。今後は上記のごとく,広島,長崎のデータが,これからの人類の命運に関わる放射線の人体に及ぼす影響について,原子力の平和利用,宇宙開発に伴う健康管理についてのかけがえのない情報を提供することにより,世界平和にも貢献できる貴重な資料であることを改めて確認する必要があろう。またそうならなくてはならない責任が,この資料センターには嫁せられ,また期待されていることを認識しなければならない。4年を経過したチェルノブイル原発事故後の放射能汚染問題を解決するため,ソ連政府からの依頼でIAEA (国際原子力機関)が調査を開始している。今回も広島,長崎からの参加,研究協力がソ連政府からも,国際機関からもそして現地の官民,医療機関からも強く要望されていることを,身をもって体験し覚悟を新たにしている。 目録刊行にあたり資料の御寄贈御協力頂いた方々に感謝すると共に,目録の作成に尽力された資料調査室の皆様に敬意を表します。今後共,各位の御理解と御指導を切にお願い致します。 1990年5月 広島大学原爆放射能医学研究所長 附属原爆被災学術資料センター長 藏本 淳 |
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『廣島人物傳(広島人物伝) 1955年版』(広島グラフ社、19550815)<作業中>
内容
頁 | 人名 |
伊藤信之…(1) 今西貞夫…〃 石井武…(2) 伊原木貞秀…〃 石崎五郎…(3) 飯田信雄…〃 石田豊…(4) 石田清…〃 梅田雅太郎…(5) 鵜野徳夫…〃 宇佐川襄…(6) 榎並栄…〃 奥久登…(7) 奥村孝…〃 岡崎佐…(8) 岡田秋呂…〃 岡崎稔…(9) 岡本繁…〃 大橋亀吉…(10) 岡垣茂…〃 落合誠…(11) 岡達…〃 上久保新七…(12) 加藤悦蔵…〃 寛康之…(13) 唐須義男…〃 可児毅…(14) 金山司…〃 喜多芳一…(15) 桑田哲夫…〃 草苅禎造…(16) 蔵田明…〃 国分友英…(17) 沢原悟郎…〃 佐々木司三…(18) 佐久間康徳…〃 島田兵蔵…(19) 白井市郎…〃 所沢憲造…(20) 芝徳夫…〃 白神数一…(21) 新持馨…〃 宍戸義太郎…(22) 鈴川貫一…〃 杉本茂憲…(23) 妹尾三郎…〃 瀬川鉄丸…(24) 寒川隆一…〃 田中好一…(25) 田村秀太郎…〃 田辺頼一…(26) 高橋七郎…〃 立石禎介…(27) 田中英夫…〃 武田信雄…(28) 筒井留三…〃 寺田豊…(29) 豊田正夫…〃 富永隼人…(30) 長尾節造…〃 中本庚子郎…(31) 中塩吉高…〃 中島剛男…(32) 長崎亀寿…〃 仁田竹一…(33) 西川交二…〃 西田克巳…(34) 西崎和男…〃 橋本龍一…(35) 林利平…〃 原田楽一…(36) 蜂須賀清…〃 橋岡一市…(37) 浜本八右衛門…〃 久永三郎…(38} 日垣三三…〃 藤田定市…(39) 古川史朗…〃 藤野勇八…(40) 藤井巖…〃 藤永亮一…(41) 福永正一郎…〃 福永忠秋…(42) 藤井条一…〃 藤井邦彦…(43) 本田三郎…〃 松田恒次…(44) 松田教治…〃 前田昇…(45) 丸矯正彦…〃 三好悦治…(46) 三戸正一…〃 森本亨…(47) 森元正治…〃 山本実一…(48) 八幡貞一…〃 山口文吾…(49) 山下正義…〃 横山周一…(50) 吉田元七…〃 |
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『広島評論 ヒロシマ原爆10周年を迎えて』(広島評論社、19550720)<作業中>
内容
頁 | |||
題字 大原博夫筆 寫眞 生き残った人々 |
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6 | この街に何の罪があったのか 原爆前後のヒロシマ | ||
8 | 故峠三吉 原爆詩集序より | ||
9 | 卷頭言 橋本三水 | ||
10 | ヒロシマ原爆10周年を迎えて | ||
大原博夫 11 林興一郎 12 田中好一 13 藤田定市 14 白井市郎 15 橋本龍一 16 林利平 17 伊藤信之 18 森本亨 19 新澤憲三 20 藤原武 21 森脇小祐 22 黒瀬春樹 23 久永三郎 24 渡邊忠雄 25 中村年朗 26 榎並榮 27 河野義信 28 岩井章 29 大野台助 30 濱井信三 31 柴田 重暉 32 中津井眞 33 森澤雄三 34 荒木武 35 植木仙次郎 36 佐藤秀雄 37 梶川裕 38 宮川造六 39 佐々木銑 40 山尾政治 41 士岡光朗 42 木場善男 43 田淵實夫 44 甲斐太郎 45 大原亨 46 名柄正之 47 伊藤忠雄 8 服部圓 49 山本朗 50 新坂力雄 51 後藤文男 52 村上忠人 53 住廣數夫 54 |
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アメリカに歓迎される原爆乙女 吉田治平 55 | |||
廣告 57 | |||
人物論 | |||
廣島四巨翁 佐伯好郎・松本勝大郎 鈴川貫一・中村藤太郎 W・X・Y・Z 59 | |||
附録 63 | |||
廣島縣會騒動記 霞浪人 65 | |||
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追悼:葉佐井博巳
葉佐井博巳氏のご逝去を悼む 広島平和記念資料館資料調査研究会 会長 静間 清 |
広島平和記念資料館資料調査研究会研究報告 第15号 巻数 第15号 所収 |
(以下宇吹要約) *平成 31 年 1 月 26 日に心不全のために 87 歳で逝去。 *昭和 6 年 4 月 21 日広島県生まれ、*同 31 年 3 月広島大学工学部卒業、工学部専攻科中退、工学部講師等を経、昭和 58 年教授就任。平成 7 年 3 月に広島大学定年退職、広島電気大学(現広島国際学院大学)教授、学長を務める。 *原爆投下時広島一中の 2 年生、8 月 6 日朝、廿日市の軍需工場に学徒動員、直接被爆をまぬがれる。翌日、自宅のあった白島にもどるため入市内。 *広島・長崎の原爆放射線の研究とその研究グループの育成に尽力。広島、長崎の残留放射能の実測データの収集、国内外の研究者に被爆資料を積極的に提供。被爆建造物が歴史的文化的遺産としての価値を持つのみでなく原爆放射線による被爆の痕跡を留めていることの重要性を指摘、保存と利用に取り組む。日米の研究チームが平成 15 年にまとめた原爆線量システム DS02 では日米共同研究者会議と上級委員会の日本側代表。平成 9 年中国新聞社より中国文化賞を受賞。 *広島平和記念資料館資料調査研究会の発足を提案、平成 10 年発足、発足時から平成 21 年まで会長。自らの被爆体験を語る被爆体験証言者として中高生に話、被爆者の手記データを電子データとして復元する活動。*平成 19 年広島市の「核兵器攻撃被害想定」専門部会長。 |
新聞報道 |
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