「NGO(は行)」カテゴリーアーカイブ

どうやって「ヒロシマ」を伝えるか 悩んでいる一人として

『どうやって「ヒロシマ」を伝えるか 悩んでいる一人として』(栗栖武士郎、1995/02/17)ひろしまピースネットワーク・ブックレット

内容

1 「ヒロシマ」は孤独だろうか…1
 〇ヒロシマを伝えること
○ヒロシマとの繋がり
○被爆者援護法の運動
○スミソニアン原爆展
○原爆投下の国際法違反問題
2 「ヒロシマ」を伝える困難さ…8
 〇忘れっぽい時代
○若いひとたち
○国々の壁に仕切られて
○私たち自身「広島を知っているのか」
3 「ヒロシマ」の肖像を描こう…12
 ○何を求めてきたか
○事実を正確に伝えること
○カタカナのヒロシマ世界
○簡潔な言葉こそ「自信のある言葉」
○威力よりも悲惨さの象徴として
○「核兵器のなくし方」を
栗栖武士郎s
発行者:宮崎安男(ひろしまピースネットワーク:広島平和会館気付)

資料年表:ヒロシマ・平和のリボンの会

資料年表:ヒロシマ・平和のリボンの会

年月日
1989
05 ミニ平和博物館(東京・港区)で「世界を結ぶ平和のリボン展」。平和のリボン:ジャスティン・メリット(米の平和活動家)が1982年に提唱。
0619 米の平和団体「平和のリボン」のジャスティン・メリット、14年ぶりに広島の平和公園を訪問。世界各地からのリボンを披露。
1990
0729 原爆ドームをリボンで取り囲む。
0991
0828 『ヒロシマ・平和のリボン―あしたにむかって』刊
未完

広島平和科学研究所

広島平和科学研究所 開所式:1962年8月22日

資料

”平和”を学問的に研究-「広島平和科学研究所」誕生-中野広大教授ら中心に(「中国新聞」1962年8月23日)
出典:アール・レイノルズ「広島はいまもわが故郷」(『ヒロシマの意味』所収)

もう一つの手段は、ビキニやウラジオストックへ抗議船を出すような直接行動である。しかし、わたしにはやってみたいもう一つの手段があった。その手段とは、学問の領域で、平和を学問の一つの主題として研究することにあった。長い間、わたしはこの第三の方法を考えぬいてきたが、ついに、広島大学長森戸辰男氏と会って、話しあう機会が与えられた。

飾りのない控え室で森戸学長をまっていたのだが、この間中、二、三年前にクエィカー派の一員となってから学びおぼえた、沈黙の瞑想を行なっていた。精神をおちつけ、ととのえるよい機会であった。

やっと森戸氏が現れて、自分の部屋に招じ入れてくれた。前おきのような雑談がすんでから、わたしは率直に語った。平和研究の研究所を、平和を一つの学問の対象として探り、扱う研究の場を立てたいと。森戸氏は一瞬、考え込んだが、立ち上って、書棚のところに行き、大きな書物をもってもどってきた。さあと目をとおしてから、こういった。「レイノルズ博士、ここには、日本でみとめられている職業、業務の全部がのっているはずです。しかし、平和学、平和研究というのはない。いいや、平和という語がのっていない」。

「では、のせる時期だと考えませんか」。

彼は一瞬、考えていたが、微笑した、「考えておきましょう」。一週間して、森戸氏との面会を段取りしてくれた広大の中野清一教授から電話があって、森戸氏が広島平和研究所(Hiroshima Institute of Peace Science)への協力創設者になることに同意したということであった。予備的な声明はすでに一九六二年十一月十日に出してあった。組織委員は、広島YMCAの相原氏、広島大学の久保、中野、西村、内海の諸氏とわたしであった。HIPS--わたしの研究所はこう略称されてきたが--の正式の発足は、一九六二年八月六日であった。この八月の末に、公的な発会式を広島市内で開いた。東京毎日新聞は、研究所は「広島県、市および財界の全面的バック」をもっていると報じ、取上げる研究として次の項目を書きそえている。

一 核実験と軍備競争の問題、
二 核戦争、細菌戦争、化学戦争を含むすべての型の戦争が人間に及ぼす影響の研究、
三 戦争にかかわる社会的、心理的、政治的問題の研究、
四 戦争経済から平和経済へと国家を変換させる問題、
五 世界資源の平等な分配の問題、
六 政治的、イデオロギー的摩擦の問題。

毎日新聞はさらに、「四九名の著名人が顧問として、企画に参加を同意した」と加えて、湯川、川端、茅、ノーマン・カズンズ氏らの名をあげている。

これは広島平和研究所のきわめてさい幸きのいい第一頁であった。そして、仕事の種類はさまざまで、成功もあり、失敗もあったが、この研究所は五、六年も続いたが、ここで、HIPSの物語を全部まとめておきたい。研究の成果の一部を出版できたが、研究所はほんとうの意味では活発な活躍をしなかった。それには数多くの理由があったが、ただ次の数点をあげておこうと思う。

(1)わたしがアメリカ人でありながら、広島に平和の研究所をたてようとしている。この地方の学究人のグルーブは、この活動を自分たちの活動不足への批判と考えて、多くの批判を浴びせた。

(2)HIPS設立の直後、わたしはロンドンからレーニングラードへ、平和活動の航海の指揮を要請されたのだったが、この依頼を断わるわけにはゆがず、HIPSが一ばん助力を必要としたその時点、不在だった。

(3)わたし自身の結婚上の問題。これがある人たちを分裂させ、一般市民の心情に疑惑を与えた。

(4)さまざまのアメリカの団体から、ノーマン・カズンズ氏を含めて、若干の寄付はあったが、日本側からは全くなかったといっていい。そのために、運営を続ける資金面の土台がなかった。

(5)日本に、この種の研究所をたてるべき時が熱してなかった。

以上の理由から、ほかにもあったが、HIPSの気勢はもり上らなかった。で次のステップとして、平和研究の関心を東京にうつし、東京を中心に、何かの組織を導入してみようかと、徐々に、結論するに到ったのである。関心を示すグループや知識人たちに語りかけ、接触しては、機会の到来をまったのだが、ついに、平和研究のグループが一つできて、今日も、国際的な平和研究の組織に加っていることを喜びとしたい。

広島では、HIPSは静かに死んでいった。いまはその存在を語る記念碑もない。わたしの机の上には、広島平和文化センターが一九六九年に出した小冊子、『平和への歩み』(英文)があるが、終戦以来、広島で行われた平和活動の年代表がついている。「フェニックス」号やわたしの家族の活動の一部は記録されているが、HIPSの設立については一行もない。あるいは、全く存在しなかったのであって、わたし一人の空想の産物にすぎないのだろうか。

出典:「ヒロシマ巡礼-バーバラ・レイノルズの生涯」(小谷瑞穂子、筑摩書房)pp153-155

もともとレイノルズ博士は、裁判の判決が下りハワイから再びヒロシマに帰還した時から、原爆都市にこそ世界平和を科学的に研究する機関を設置すべきだという構想を抱いていた。第二次大戦後の欧米の大学では、核兵器の開発と、資本主義と共産主義とのイデオロギーの対立を踏まえて、人類はいかにして平和を確保すべきかという問題を追求する新しい研究が注目されていた。

すでに一九六○年代のアメリカの各大学では、「平和科学研究所」が設置されていたし、スエーデンやノルウェーでも国立の平和研究所があったが、日本ではどこの大学にも平和科学の研究機関をおいている所はなかった。そこでレイノルズは広島大学の社会学教授、中野清一に仲介してもらい学長の森戸辰男に働きかけ賛同を得ると、一九六二年八月六日を「広島国際平和科学研究所」の発足の日として、その構想を中国新間紙上に発表した。

その構想とは、

一、放射能と化学兵器による環境破壊と人類に与える障害の研究。
二、戦争の原因となる社会的、政治的、心理的問題の研究。
三、戦争経済から平和経済に移行するための問題解決策の研究。
四、世界における資源分配の不平等の解決策の研究。
五、政治、宗教、イデオロギーによる国際間の緊張緩和の研究。

などのテーマで、海外の平和研究所と討議や文献資料などの交換をし、すぐれた論文を出版し、国際的視野から、二十世紀がかかえる紛争の解決の要求に応じようとするものであった。

海外からはシュヴァイツァー博士をはじめとして、バートランド・ラッセル卿やノーマン・カズンズなど、日本国内では日本ペンクラブ会長の川端康成や、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹の支援もとりつけた。とりあえず研究所の仮事務所を広島市の管轄下にあったシュモー住宅におき、レイノルズが所長となり、連絡事務にはアルバイト学生をやとって、諸外国の平和科学研究所から情報を収集することになった。運営基金としては、海外および日本の有力財団から寄付を集める方針で、その依頼の手紙を書くこともレイノルズの仕事であった。

ちょうどバーバラが第一回の平和巡礼を終えてヒロシマに帰ってきたころ、レイノルズの紙屋町郵便局私書箱九九番にはニューヨークのカーネギー財団やロンドンの平和研究所、インドのガンジー財団などから照会の手紙が沢山きていた。だがその山積する仕事をふりきるようにして、アールは、ソ連の核実験に抗議するため、レニングラードに向かうヨットの船長となって、イギリスに出発してしまった。レイノルズは出発まえに委員たちを個別に訪問して了解をとったが、日本人委員たちはイエスともノーともいわず、表面ではだれも批判がましい意見をいう人はいなかった。しかし彼がヒロシマからいなくなると、「レイノルズは書斎に腰をすえて研究する学者ではない。科学者としてよりも、反核運動の活動家の道を選んだのだ。国際的に影響を与えるどんな立派なプロジェクトをかかげようとも、実際にはどれだけの科学者が真剣に協力するかに、研究所の将来がかかっている。すべてがレイノルズの独断専行でことが運ばれ、二十名の委員はあってなきがごとしだ」と厳しい批判が起こった。

三カ月後レイノルズがかえってくると、広島大学側や委員たちの態度は冷たかった。申請していた文部省の認定も日本企業からの基金援助も、留守の間になんの進展もなかった。そのうえ、いままでレイノルズに協力していた中野清一が委員を辞任すると、次々とほかの委員からも辞表がだされた。追い打ちをかけるように、頼りにしていた学長の森戸辰男が中央教育審議会の委員長となり、広島大学を去った。広島国際平和科学研究所(HIPS)の会計をまかされていた森戸の秘書の西村宏は、会計報告を0と記して、レイノルズに渡した。

広島県医師連盟推薦候補と選挙結果

広島県医師連盟推薦候補と選挙結果<作業中

『広島県医師会史 第II編』(広島県医師会、20040330)第15章

第1節  広島県医師連盟等の略史…1364
1. 広島県医師連盟の結成…1364
広島県医師連盟初代役員
日本医師連盟初代役員
2. 常勝県医連、反省の一敗地…1365
3. 県医連委員長の旗の下に…1365
4. 新しい医政活動の推進に…1366
日本医師連盟の活動方針
第2節 衆議院議員総選挙…1368
1. 第30回総選挙
2 第31回総選挙
3 第32回総選挙
4 第33回総選挙
5 第34回総選挙
6 第35回総選挙
7 第36回総選挙
8 第37回総選挙
9 第38回総選挙
10 第39回総選挙
11 第40回総選挙
12 第41回総選挙
13 第42回総選挙
14 第43回総選挙
第3節 参議院議員選挙…1392
1. 第6回参議院選挙
2 第7回参議院選挙
3 第8回参議院選挙
4 第9回参議院選挙
5 第10回参議院選挙
6 第11回参議院選挙
7 第12回参議院選挙
8 参議院地方区補欠選挙
9 第13回参議院選挙
10 第14回参議院選挙
11 第15回参議院選挙
12 第16回参議院選挙
13 参議院広島補欠選挙
14 第17回参議院選挙
15 第18回参議院選挙
16 第19回参議院選挙
17 第20回参院選候補に西島英利日医連常任執行委員
第4節 広島県知事選挙…1413
1. 大原博夫知事の誕生…1413
2. 永野厳雄知事の誕生…1414
3. 宮沢弘知事の誕生…1415
4. 竹下虎之助知事の誕生…1415
5. 藤田雄山知事の誕生…1416
第5節  広島県議会議員選挙…1417
1. 田坂三友県議の誕生…1417
  2. 杉原久夫候補、県議に…1417
3. 大谷彰候補、4度県議に…1418
4. 長船元昭候補、県議に…1419
5. 桧田仁県議の時代…1419
6. 麻尾朋久候補、県議補欠選挙…1420
第6節 広島市長選挙など…1421
1. 荒木武候補、広島市長選挙…1421
2. 杉本純雄候補、広島市長選挙…1421
広島県医師連盟役員(平成2年9月8日現在)
杉本純雄後援会規約
「瑠璃の会」発足 杉本純雄の政治団体
広島県医師連盟執行委員会
杉本すみお後援会事務所の移転
自民党、杉本純雄候補を推薦
出陣式から投票日《1991年2月3日》まで
開票結果
 平岡敬(63歳) 276781
 杉本純雄(61歳)151845
 森脇勝義(56歳)18172
3. 大田晋候補、広島市長選《1999年1月31日》、惜敗…1427
 開票結果
 当選:秋葉忠利 次点:大田晋(無新、元厚生官僚) 中本弘(自新)
広島市長選《2003年2月2日》
 当選:秋葉忠利 次点:大田晋、 古葉竹識
  4. 寺上正人候補、庄原市長選挙…1428

 

放射線被曝者医療国際協力推進協議会《略称HICARE》の活動(広島県医師会)

核戦争防止国際医師会議<作業中>作業中
『広島県医師会史 第II編』(広島県医師会、20040330)第6章第5節

内容

1  放医協設立の目的…648
2 放医協の機構…648
放医協組織図
歴代会長
初代:重松逸造放影研理事長(平成3年度~9年度)
2代:鎌田七男広大原医研所長(平成10年度~11年度)
3代:真田幸三県医師会長(平成12年度~1現在)
3 放医協事業の概要…649
 1医師等受入研修・派遣事業 …649
 2被曝者医療解説書作成事業…650
 3放射線被曝者医療国際協力普及啓発事業…650
 4  放医協の活動状況…650
1 医師等受入研修事業
  研修機関
  年度・国別受入研修生
  平成3年度
  ~~平成14年度
2 医師等派遣事業
3 普及啓発事業
①講演会、パネル展
②『原爆放射線の人体影響1992』
内容
執筆者
5 広島県医師会の放医協への直接協力…655
平成3年
~平成12年

核戦争防止国際医師会議(広島県医師会)

核戦争防止国際医師会議<作業中>作業中
『広島県医師会史 第II編』(広島県医師会、20040330)第6章第4節

内容

1 IPPNWとは…619
1 設立の経緯
IPPNW世界大会
2 組織運営
3 一般大衆に対する知識の普及
4 世界の指導者に対する知識の普及
5 医療専門家に対する知識の普及
 6 IPPNWの新しい活動展開
2 IPPNWの歩み…621
1980年
2003年
3 IPPNW日本支部の創生…626
ノーベル平和賞受賞、日本支部の貢献
1 「被爆の実相」を普及させた努力
2 平和の原点を求めての努力
4 IPPNW世界大会(日本支部関係)…629
1回
2回
3回
4回
5回
6回
7回
8回
9回
10回
11回
12回
13回
14回
15回
 5  IPPNW日本支部の関連諸活動…632
IPPNWの歩み
1 1982年
2 1983年
3 1984年
4 1985年
5 1986年
6 1987年
7 1988年
8 1989年
9 1990年
10 1991年
11 1992年
12 1993年
 13  1994年
14 1995年
15 1996年
16 1997年
17 1998年
18 1999年
 19  2000年
20 2001年
 21 2002年
 22 2003年
 IPPNW日本支部役員名簿
 第9回 IPPNW世界大会広島組織委員会委員

在外被爆者支援対策事業(広島県医師会)

在外被爆者支援対策事業
『広島県医師会史 第II編』(広島県医師会、20040330)第6章第2節

内容

1 在北米被爆者検診事業…591
1 大内会長国連訪問の旅
2 米国西海岸で在米被爆者と会見
3 ロサンゼルス郡・広島県の両医師会姉妹縁組
4 第1回在北米被爆者健診
5 アメラシンゲ国連議長、初来広
大内五広島県医師会長スピーチ
広島市長歓迎夕食会出席者
6 第2回在北米被爆者健診
7 第3回在北米被爆者健診
8 サンフランシスコ・広島県の両医師会姉妹縁組
9 第4回在北米被爆者健診
10 ブラッドレー・ロサンゼルス市長、広島へ
11 第5回在北米被爆者健診
12 第6回在北米被爆者健診
13 第7回在北米被爆者健診
14 在北・南米被爆者協会幹部・来広
15 第8回在北米被爆者健診
16 第9回在北米被爆者健診
17 第10回在北米被爆者健診
18 ハワイ州医師会・広島県医師会友好姉妹提携20周年記念会
19 第11回在北米被爆者健診
20 第12回在北米被爆者健診
21 第13回在北米被爆者健診
22 第13回在北米被爆者健診
2 在南米被爆者検診事業…603
1 在南米被爆者の実態調査
2 第1回在南米被爆者巡回医師団
南米の各医師会へ持参した広島医師会長の書簡
3 第2回在南米被爆者巡回医師団
4 第3回在南米被爆者巡回医師団
5 第4回在南米被爆者巡回医師団
6 第5回在南米被爆者巡回医師団
7 第6回在南米被爆者巡回医師団
8 第7回在南米被爆者巡回医師団
9 第8回在南米被爆者巡回医師団
10 第9回在南米被爆者巡回医師団
11 第10回在南米被爆者巡回医師団
12 平成15年度在南米被爆者健康診断事業派遣団
3 在北米被爆者帰国治療事業…607
1 在外被爆者帰国治療事業の充実
2 女流作家上坂冬子の支援
3 広島県医師会長、米国被爆者協会長に確約
4 北米被爆者帰国治療受入実績
4 在南米被爆者帰国治療事業…610
第1回(1990年)~第12回(2001年)計38人

『ヒロシマの子育て・教育』1993年

『ヒロシマの子育て・教育』1993年

01 29 09 私学の頁=「呉・広地区父母懇の発足②」
02 30 06 全国教研集会に参加して
07 第19分科会・平和と国際連帯の教育
10 高校の頁:私の同和教育論
03 31 08 高校の頁:アニメ映画「キムの十字架」を使った平和学習の試み
11 広島教育研究所1年間の活動 1993.2
04 32 06 高校の頁:「沖縄戦」を歩いて
05 33 11 1993年度広島教育研究所の研究活動
06 34 08 八次小・岡田判決の意義(弁護士・高村是あつ)
07 35 06 教育実践:福山同授研サークルのあゆみ
09 私学の頁:夏の高校生(沢野重男)
09  36  05  わが街の資料館2:大久野島毒ガス資料館
 06  高校の頁:長崎・平和の旅(広島高校生平和ゼミナール)
08 マラソン講座「江戸時代の身分制度を教えて」は楽しかった(川島孝郎)
10 37 03 「激動する世界のなかの憲法と教育」 第2回全国教育研究交流集会
 11  38
12 39 04 今こそ八次小判決を生かす取り組みを