「NGO(は行)」カテゴリーアーカイブ

部落問題研究会の成立と展開

部落問題研究会の成立と展開 (『戦後地域民主主義の歩み』(天野卓郎、溪水社、19900320)pp.76-102)<作業中

76 部落問題研究会の設立総会
会場:広島大学文学部大講義室。参加者:100名以上
祝辞:部落問題研究所、解放同盟広島連合会、広島県教職員組合
記念講演
小森竜邦(同盟県連副委員長)「部落解放問題の今日的課題」
天野卓郎:(県教育研究所)「”明治百年”と部落問題」
 80 部落問題研究会設立趣意書 1968年3月1日
burakumonndaikennkyuukai
設立準備会 後藤陽一(広島大学)他、11名
82 部落問題の科学的研究について
86 第1回広島部落問題研究集会
89 第2回広島部落問題研究集会
93 第3回広島部落問題研究集会
98 第4回広島部落問題研究集会

広島商工会議所百年史

『広島商工会議所百年史』(広島商工会議所、1992/03/30)

内容<作業中

近代化への離陸-広島商業会議所前史-
1 日本の近代化 1
2 商工会議所の100年 3
3 『広島商法会議所』 4
4 勧業世話掛の設置 8
5 広島区商工会の設立 11
6 商工会の活動 20
1 地域発展の先がけとして-広島商業会議所の創設-
1 「商業会議所条例」の制定 31
2 広島商業会議所設立への機運 37
3 発起人会と設立準備 38
4 広島商業会議所の発足 42
2 都市と産業の近代化をめざして-広島商業会議所の活動-
1 明治後期-大正期の経済動向 49
2 明治-大正期の機構と役員 61
桐原恒三郎会頭の時代61/早速整爾会頭の時代70/高坂萬兵衛会頭の時代76/松浦泰次郎会頭の時代82/藤田一郎会頭の時代92/熊平源蔵会頭の時代97
3 課税問題への対処 100
営業税反対運動100/営業税付加税反対運動104/関税減免運動105/税制整理対策108/その他の税制改正運動110
4 商工業近代化への献策 114
工員・店員の待遇改善策114/商工従業員表彰118/商店経営の改善120
5 産業基盤整備の推進 129
交通通信網の整備129/対外貿易振興方策138/商工業振興策の推進144/広島県立商品陳列館の設立153/各種イベントの開催159/各種官公衙・施設の誘致・存続運動163
6 他の諸組織との連携 172
商業会議所連合会172/中国四国商業会議所連合会174/広島県商工団体連合会175/その他の各関連団体176
3 「大広島」志向から戦乱の時代へ
1 昭和戦前・戦中期の広島経済 181
2 商工会議所への改組 186
「商工会議所法」の制定186/広島商工会議所としての再発足188/新所屋の建設190
3 商工経済会への転換 195
経済会議所への改組論195/商工経済会への転換201
4 各会頭とその時代 205
熊平源蔵会頭の時代205/森田福市会頭の時代207/守屋義之会頭の時代213/山縣元兵衛会頭の時代216/山崎吾一会頭の時代219/森田福市会頭の時代(再任)224/柳生昌一会頭の時代225/勝盛達之助会頭の時代227/田中好一会頭の時代228/鈴川貫一会頭の時代(広島県商工経済会)230
5 「昭和恐慌」とその対策 231
課税軽減運動231/職業紹介所の開設232/商工相談所の設置234/中小商工業救済対策の推進235/日華貿易体制の強化240
6産業合理化の推進246
産業合理化の時代246/産業合理化展覧会248/国産品愛用運動などの実施249/過当競争の排除251/技術進歩による合理化253/電力国家管理への対応 256
7 「大広島」建設への構想 259
「大広島」の構想259/特別市制の実施を要望262/周辺町村の合併推進264/昭和産業博覧会の開催266/商工立市へ271/広島港修築への運動279/太田川改修に着手289/交通網の充実へ293/飛行場設置を陳情297/観光事業の振興300
8 戦時経済統制への対応 303
戦争勃発への反応303/戦時経済統制への対応305/物価統制への協力311/中国大陸への貿易拡大策313/広島工業港の建設317
4 戦後の混乱から再建・復興へ
1 混乱から復興への経済過程 321
原爆の被害321/復興への胎動325/ドッジ不況328/朝鮮戦争と特需景気330/産業合理化の推進336/高度経済成長の開幕339
2 広島商工経済会の活動 340
商工経済会の被爆340/生活必需品受給対策341/復興活動への参画343
3 広島商工会議所としての再発足 346
広島県商工経済会の解散346/社団法人広島商工会議所の発足348/「商工会議所法」の制定352/特殊法人としての再発足354
4 各会頭とその時代 356
鈴川貫一会頭の時代356/
中村藤太郎会頭の時代357/
伊藤豊会頭の時代361/
藤田定市会頭の時代363/
白井市郎会頭の時代366/
森本亨会頭の時代369
5 戦後復興活動への貢献 371
物価引下げ運動を推進371/賠償指定の解除促進374/電力危機への対処377/産業の再建と復興380/中小企業の再建・復興383
6 高度経済成長時代の開幕にさいして 388
企業合理化の推進388/貿易の振興/中小企業の振興393/労働問題への対処400/「大広島」計画と広島復興大博覧会408/地域開発への始動411
5 「経済大国」化への過程にあって
1 「経済大国」へのみち 423
2 各会頭とその時代 449
伊藤信之会頭の時代449/
川村郷四会頭の時代452/
山本正房会頭の時代460/
村田可朗会頭の時代463/
山田克彦会頭の時代367/
山内敕靖会頭の時代471
3 地域開発の促進 477
地域経済発展のビジョン477/地域間交流の強化490/施設の誘致・整備505/交通問題の解決をめざして517/道路網の整備520/鉄道網拡充への要請526/空港の整備拡充529/広島港の国際港化533/本州四国連絡橋の建設へ535/観光開発とイベント537
4 国際化時代への対応 542
貿易・資本自由化対策542/海外との提携の強化546/ロスアンゼルス広島事務所の開設549/ホノルル日本人商工会議所との姉妹縁ぐみ551/国際化時代への態勢強化553
5 中小企業経営の革新 535
中小企業の保護と「二重構造」の解消へ555/中小企業の経営革新559/中小企業の集団化569/産学協同の推進571/見本市・展示会の開催573/労働力不足への対処577/近代化資金とその条件の改善589
6 「流通革命」の時代 594
大型小売店舗とデパートの進出・拡張594/「流通革命」605
7 産業公害防止対策 612
公害問題の顕在化612/環境汚染規制案の実施614/会議所独自の環境保全対策618
8 オイル・ショックへの対応 627
オイル・ショックの襲来627/「当面の景気対策に関する要望」を提起630/資源・エネルギー問題対策室を設置634/経営環境問題相談室の開設635/経済危機突破大会636/郷心会の結成638/地域経済対策チームの編成640/第2次オイル・ショックへの対応644
6 21世紀への助走
1 円高不況から新たな成長へ 648
2 各会頭の時代 653
3 中小・小規模企業の振興 661
中小企業活性化への支援601/大企業と中小企業の調整666/人材の確保と育成の支援671/小規模事業者の自立への支援680
4 産業構造変化への対応 686
技術振興-産学懇から産業技術振興機構へ686/部会・委員会の再編成692/ファッション、デザインの振興699/観光事業振興のために703
5新しい発展への基盤づくり 709
インフラ整備の引きがねに-第12回アジア競技大会の誘致709/空港と航空路線の整備促進715/公共交通の拡充を724
6 国際交流のひろがり 730
姉妹縁組をむすんで絆をつよく730/ロスアンゼルス広島事務所の運営735/姉妹都市との交流739/輸出から輸入の増進へ741
創立百周年記念事業 746
記念事業の企画746/記念式典の挙行746/百年史の編さん763/広島近代産業100年展764/100周年記念モニュメント765/ファッションフェアひろしま’91765/中小企業振興月間行事766/広島商工会議所長期活動ビジョン767/ひろしま・食のフェスティバル768
執筆をおえて(高橋衛)769
資料
議員名簿 774
建議・要望・陳情・答申等 779
年表 815
歴代会頭一覧 841
写真説明 844
人名索引 847

広島に文学館を 広島の心を21世紀に伝えよう!

『広島に文学館を 広島の心を21世紀に伝えよう!』(尾津訓三・池田正彦編、広島文学資料保全の会、 19990420)

内容<作業中

02 好村冨士彦 広島に文学館を 広島の心を21世紀に伝えよう!
03 広島文学館のビジョン
04 広島文学資料保全の会 活動日記
09 沖原豊 文化的成熟のバロメーター
広島文学資料保全の会代表・元広島大学学長
09 鮎川美代子 広島に文学館を希一人
10 岩崎清一郎 広島にコアがない
11 伊藤真理子 まだ間に合うだろうか広島文学館
11 小久保均 凍りつく<冬の時代>に
12 古浦千穂子 広島文学館へ共有したい夢
13 田端展 広島文学賞を授ける文学館の設立を
13 文沢隆一 広島文学館が出来ない理由・私見
14 松元寛 人間の未来のための文学館
15 1987年10月・広島文学資料室の開設時の資料収集状況(2181点で発足)(1988年10月1日現在)
16 広島文学資料室の資料収集状況
17 保全の会による整理作業状況
18 全国の主要な文庫・文学館

動員学徒誌-被爆50周年記念

『動員学徒誌-被爆50周年記念』(広島県動員学徒等犠牲者の会、1995/10/31)

内容<作業中

動員学徒遺族・傷害者の文 1
茨木イチノ 1 被爆五十年のおもいで
能美チヅ 2 愛児の死
太田知須子 4 未だ帰らない次女稔子を偲びつヽ
川本ミユキ 5 「お母さん!頑張って帰って来たのよ」
筒井音子 7 「今度会う時は靖国でね」
今田コト 8 邦男ちゃんのこと
池田良子 2 五十回忌法要を済ませて
池田武行 13 被爆五十周年に想う
 川本正之 14  長男、正彦
  小出武16 思い出す事など
山下昇 17 ああ!未だ還らぬ由紀子よ!
岡岩二 18 キクエちゃんお父さんは元気ですよ
常重キミエ 19 戦争はいやです
松田雪美 20 母さんは平和の語り部
佐々木綾子 21 被爆体験記
 佐々木ハルコ 23 被爆五十年を迎えて
小野フジ子 24 被爆五十年の回顧
森下カツヨ 25 似島へ送られたけれど
(故)大東和雄 妹向井宏子 26 限りなき非惨事
 浜田イサコ 31 亡き動員学徒の妹よ安らかに眠れ
森アヤ子 33 主人は引率教師長男は動員学徒として
溝下ハルミ 35 大切な長男を失ってしまった
大江ミツノ 36 原爆を造ったばかりに
松本キミ 37 今なお続く五十年の苦悩
若山幸雄 39 幸せ薄かった和子のために
 竹田俊二 40 全国の動員学徒慰霊祭に参列して
伴谷キミヨ 41 全国戦没者追悼式に参列させていただいて
中前タマノ 44 恵美ちゃんも長生きしてほしかった
(故)本地シズヨ 45 子供の兵隊
伊藤栄太郎 48 八月六日を偲びて
井上ヨシエ 49 いちぢくがあった
竹田ことよ 51 東京から疎開して帰ったのに
上野静子 51 一人娘を失って
同本英雄 52 全国戦没者追悼式に参列して
松浦サダミ 52 三畳のバラックに九人も
被爆とその後の苦しみ 榎㟢昭夫 53
池田精子 55 頑張って生きて行こう
森下弘 57 「被爆教師」として生きる
金光悦子 59 母の愛に守られて
寺前妙子 60 原爆さえなかったら
中井学 62 亡き友にかわって
山岡ミチコ 63 語り部として生きる
吉村幸子 65 ケロイドに寄せて
土井通哉 65 被爆当時のこと
(故)二井サワエ 67 悲しみの涙もつきて
(故)朝日輝一 70 わが子の安否を尋ねて
(故)朝日俊明 72 血こん残す衣服
井上幹造 73 愚感
 宮川造六 74 学徒動員から終戦まで
福原チエ子 79 今もゾッとす
小野文子 81 広島女子高等師範学校付属山中高等女学校の被爆の実態
名原光栄 85 八月六日、八時十五分
2 過去の「ともしび」から
会のあゆみ 87
3 現、高等学校生徒の原爆によせる感想文 103
安田学園安田女子高等学校・広島県瀬戸内高等学校・広島市立基町高等学校・崇徳高等学校・進徳女子高等学校・広島女学院高等学校・修道高等学校・比治山女子高等学校・広島県立観音高等学校・広島県立皆実高等学校・広島県新庄高等学校・大下学園祇園高答学校・広島市立広島商業高等学校・広島県立広島商業高等学校・広島市立翠町中学校・広島市立観音中学校・元広島県立第二高等女学校
原爆慰霊追悼式の高校生の追悼のことば(昭和六十年から平成七年まで)120
4 原爆犠牲学徒等の慰霊碑めぐり(「ともしび」から)135
あとがき 168

 

資料年表:広島県動員学徒等犠牲者の会

資料年表:広島県動員学徒等犠牲者の会

年月日 資料名等 備考
19570217 広島県動員学徒犠牲者の会結成及び第1回総会
1957 友の会だより(広島県動員学徒犠牲者の会会報)第1号
19570630 友の会だより第2号
19580525 友の会だより第3号
dc19580525
1960/11/01 あしあと(宮原周治編、動員学徒援護会) U
1968/03/30 動員学徒誌(広島県動員学徒犠牲者の会) U
1972/07/30 動員学徒誌 続編(広島県動員学徒犠牲者の会) U
1972/11/30 生き残りたる吾等集ひて(長崎県動員学徒犠牲者の会)
1975/08/06 おもかげ-炎と瓦礫の中に生きて(広島女高師附属山中高等女学校安浦一期会)
1975/12/25 戦後三十年の歩み(広島県動員学徒等犠牲者の会) U
1995/10/31 動員学徒誌-被爆50周年記念(広島県動員学徒等犠牲者の会) U
2004/10/01 慟哭の悲劇はなぜ起こったのか(建物疎開動員学徒の原爆被災を記録する会)
2007/01/31 動員学徒「慟哭の証言」(広島県動員学徒等犠牲者の会) U

 

どうやって「ヒロシマ」を伝えるか 悩んでいる一人として

『どうやって「ヒロシマ」を伝えるか 悩んでいる一人として』(栗栖武士郎、1995/02/17)ひろしまピースネットワーク・ブックレット

内容

1 「ヒロシマ」は孤独だろうか…1
 〇ヒロシマを伝えること
○ヒロシマとの繋がり
○被爆者援護法の運動
○スミソニアン原爆展
○原爆投下の国際法違反問題
2 「ヒロシマ」を伝える困難さ…8
 〇忘れっぽい時代
○若いひとたち
○国々の壁に仕切られて
○私たち自身「広島を知っているのか」
3 「ヒロシマ」の肖像を描こう…12
 ○何を求めてきたか
○事実を正確に伝えること
○カタカナのヒロシマ世界
○簡潔な言葉こそ「自信のある言葉」
○威力よりも悲惨さの象徴として
○「核兵器のなくし方」を
栗栖武士郎s
発行者:宮崎安男(ひろしまピースネットワーク:広島平和会館気付)

資料年表:ヒロシマ・平和のリボンの会

資料年表:ヒロシマ・平和のリボンの会

年月日
1989
05 ミニ平和博物館(東京・港区)で「世界を結ぶ平和のリボン展」。平和のリボン:ジャスティン・メリット(米の平和活動家)が1982年に提唱。
0619 米の平和団体「平和のリボン」のジャスティン・メリット、14年ぶりに広島の平和公園を訪問。世界各地からのリボンを披露。
1990
0729 原爆ドームをリボンで取り囲む。
0991
0828 『ヒロシマ・平和のリボン―あしたにむかって』刊
未完

広島平和科学研究所

広島平和科学研究所 開所式:1962年8月22日

資料

”平和”を学問的に研究-「広島平和科学研究所」誕生-中野広大教授ら中心に(「中国新聞」1962年8月23日)
出典:アール・レイノルズ「広島はいまもわが故郷」(『ヒロシマの意味』所収)

もう一つの手段は、ビキニやウラジオストックへ抗議船を出すような直接行動である。しかし、わたしにはやってみたいもう一つの手段があった。その手段とは、学問の領域で、平和を学問の一つの主題として研究することにあった。長い間、わたしはこの第三の方法を考えぬいてきたが、ついに、広島大学長森戸辰男氏と会って、話しあう機会が与えられた。

飾りのない控え室で森戸学長をまっていたのだが、この間中、二、三年前にクエィカー派の一員となってから学びおぼえた、沈黙の瞑想を行なっていた。精神をおちつけ、ととのえるよい機会であった。

やっと森戸氏が現れて、自分の部屋に招じ入れてくれた。前おきのような雑談がすんでから、わたしは率直に語った。平和研究の研究所を、平和を一つの学問の対象として探り、扱う研究の場を立てたいと。森戸氏は一瞬、考え込んだが、立ち上って、書棚のところに行き、大きな書物をもってもどってきた。さあと目をとおしてから、こういった。「レイノルズ博士、ここには、日本でみとめられている職業、業務の全部がのっているはずです。しかし、平和学、平和研究というのはない。いいや、平和という語がのっていない」。

「では、のせる時期だと考えませんか」。

彼は一瞬、考えていたが、微笑した、「考えておきましょう」。一週間して、森戸氏との面会を段取りしてくれた広大の中野清一教授から電話があって、森戸氏が広島平和研究所(Hiroshima Institute of Peace Science)への協力創設者になることに同意したということであった。予備的な声明はすでに一九六二年十一月十日に出してあった。組織委員は、広島YMCAの相原氏、広島大学の久保、中野、西村、内海の諸氏とわたしであった。HIPS--わたしの研究所はこう略称されてきたが--の正式の発足は、一九六二年八月六日であった。この八月の末に、公的な発会式を広島市内で開いた。東京毎日新聞は、研究所は「広島県、市および財界の全面的バック」をもっていると報じ、取上げる研究として次の項目を書きそえている。

一 核実験と軍備競争の問題、
二 核戦争、細菌戦争、化学戦争を含むすべての型の戦争が人間に及ぼす影響の研究、
三 戦争にかかわる社会的、心理的、政治的問題の研究、
四 戦争経済から平和経済へと国家を変換させる問題、
五 世界資源の平等な分配の問題、
六 政治的、イデオロギー的摩擦の問題。

毎日新聞はさらに、「四九名の著名人が顧問として、企画に参加を同意した」と加えて、湯川、川端、茅、ノーマン・カズンズ氏らの名をあげている。

これは広島平和研究所のきわめてさい幸きのいい第一頁であった。そして、仕事の種類はさまざまで、成功もあり、失敗もあったが、この研究所は五、六年も続いたが、ここで、HIPSの物語を全部まとめておきたい。研究の成果の一部を出版できたが、研究所はほんとうの意味では活発な活躍をしなかった。それには数多くの理由があったが、ただ次の数点をあげておこうと思う。

(1)わたしがアメリカ人でありながら、広島に平和の研究所をたてようとしている。この地方の学究人のグルーブは、この活動を自分たちの活動不足への批判と考えて、多くの批判を浴びせた。

(2)HIPS設立の直後、わたしはロンドンからレーニングラードへ、平和活動の航海の指揮を要請されたのだったが、この依頼を断わるわけにはゆがず、HIPSが一ばん助力を必要としたその時点、不在だった。

(3)わたし自身の結婚上の問題。これがある人たちを分裂させ、一般市民の心情に疑惑を与えた。

(4)さまざまのアメリカの団体から、ノーマン・カズンズ氏を含めて、若干の寄付はあったが、日本側からは全くなかったといっていい。そのために、運営を続ける資金面の土台がなかった。

(5)日本に、この種の研究所をたてるべき時が熱してなかった。

以上の理由から、ほかにもあったが、HIPSの気勢はもり上らなかった。で次のステップとして、平和研究の関心を東京にうつし、東京を中心に、何かの組織を導入してみようかと、徐々に、結論するに到ったのである。関心を示すグループや知識人たちに語りかけ、接触しては、機会の到来をまったのだが、ついに、平和研究のグループが一つできて、今日も、国際的な平和研究の組織に加っていることを喜びとしたい。

広島では、HIPSは静かに死んでいった。いまはその存在を語る記念碑もない。わたしの机の上には、広島平和文化センターが一九六九年に出した小冊子、『平和への歩み』(英文)があるが、終戦以来、広島で行われた平和活動の年代表がついている。「フェニックス」号やわたしの家族の活動の一部は記録されているが、HIPSの設立については一行もない。あるいは、全く存在しなかったのであって、わたし一人の空想の産物にすぎないのだろうか。

出典:「ヒロシマ巡礼-バーバラ・レイノルズの生涯」(小谷瑞穂子、筑摩書房)pp153-155

もともとレイノルズ博士は、裁判の判決が下りハワイから再びヒロシマに帰還した時から、原爆都市にこそ世界平和を科学的に研究する機関を設置すべきだという構想を抱いていた。第二次大戦後の欧米の大学では、核兵器の開発と、資本主義と共産主義とのイデオロギーの対立を踏まえて、人類はいかにして平和を確保すべきかという問題を追求する新しい研究が注目されていた。

すでに一九六○年代のアメリカの各大学では、「平和科学研究所」が設置されていたし、スエーデンやノルウェーでも国立の平和研究所があったが、日本ではどこの大学にも平和科学の研究機関をおいている所はなかった。そこでレイノルズは広島大学の社会学教授、中野清一に仲介してもらい学長の森戸辰男に働きかけ賛同を得ると、一九六二年八月六日を「広島国際平和科学研究所」の発足の日として、その構想を中国新間紙上に発表した。

その構想とは、

一、放射能と化学兵器による環境破壊と人類に与える障害の研究。
二、戦争の原因となる社会的、政治的、心理的問題の研究。
三、戦争経済から平和経済に移行するための問題解決策の研究。
四、世界における資源分配の不平等の解決策の研究。
五、政治、宗教、イデオロギーによる国際間の緊張緩和の研究。

などのテーマで、海外の平和研究所と討議や文献資料などの交換をし、すぐれた論文を出版し、国際的視野から、二十世紀がかかえる紛争の解決の要求に応じようとするものであった。

海外からはシュヴァイツァー博士をはじめとして、バートランド・ラッセル卿やノーマン・カズンズなど、日本国内では日本ペンクラブ会長の川端康成や、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹の支援もとりつけた。とりあえず研究所の仮事務所を広島市の管轄下にあったシュモー住宅におき、レイノルズが所長となり、連絡事務にはアルバイト学生をやとって、諸外国の平和科学研究所から情報を収集することになった。運営基金としては、海外および日本の有力財団から寄付を集める方針で、その依頼の手紙を書くこともレイノルズの仕事であった。

ちょうどバーバラが第一回の平和巡礼を終えてヒロシマに帰ってきたころ、レイノルズの紙屋町郵便局私書箱九九番にはニューヨークのカーネギー財団やロンドンの平和研究所、インドのガンジー財団などから照会の手紙が沢山きていた。だがその山積する仕事をふりきるようにして、アールは、ソ連の核実験に抗議するため、レニングラードに向かうヨットの船長となって、イギリスに出発してしまった。レイノルズは出発まえに委員たちを個別に訪問して了解をとったが、日本人委員たちはイエスともノーともいわず、表面ではだれも批判がましい意見をいう人はいなかった。しかし彼がヒロシマからいなくなると、「レイノルズは書斎に腰をすえて研究する学者ではない。科学者としてよりも、反核運動の活動家の道を選んだのだ。国際的に影響を与えるどんな立派なプロジェクトをかかげようとも、実際にはどれだけの科学者が真剣に協力するかに、研究所の将来がかかっている。すべてがレイノルズの独断専行でことが運ばれ、二十名の委員はあってなきがごとしだ」と厳しい批判が起こった。

三カ月後レイノルズがかえってくると、広島大学側や委員たちの態度は冷たかった。申請していた文部省の認定も日本企業からの基金援助も、留守の間になんの進展もなかった。そのうえ、いままでレイノルズに協力していた中野清一が委員を辞任すると、次々とほかの委員からも辞表がだされた。追い打ちをかけるように、頼りにしていた学長の森戸辰男が中央教育審議会の委員長となり、広島大学を去った。広島国際平和科学研究所(HIPS)の会計をまかされていた森戸の秘書の西村宏は、会計報告を0と記して、レイノルズに渡した。