非核の政府を求める広島の会 1987年6月13日結成
略年表
| 年月日 | 事項 |
| 19870613 | 結成総会。 |
| 19870720 | 非核の政府を求める広島の会ニュース第1号発行。 出典:『非核・ヒロシマの声』) |
| 19880618 | 第2回総会 |
| 19880713 | 第1回学習講座。講師=大森正信広島大学教授 |
| 19890624 | 第3回総会 |
| 19900714 | 『非核・ヒロシマの声』(非核の政府を求める広島の会、19900714)刊 |
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。
非核の政府を求める広島の会 1987年6月13日結成
略年表
| 年月日 | 事項 |
| 19870613 | 結成総会。 |
| 19870720 | 非核の政府を求める広島の会ニュース第1号発行。 出典:『非核・ヒロシマの声』) |
| 19880618 | 第2回総会 |
| 19880713 | 第1回学習講座。講師=大森正信広島大学教授 |
| 19890624 | 第3回総会 |
| 19900714 | 『非核・ヒロシマの声』(非核の政府を求める広島の会、19900714)刊 |
広島学講座(創価学会) 1989年2月~
| 第1回 | 1989年2月 | 広島県民俗学会常任理事 | 神田三亀男 | 途上採集からみた広島学 |
| 第2回 | 1989年3月 | 中国新聞社論説主幹 | 大牟田稔 | 平和のための広島学 |
| 第3回 | 1989年4月 | 広島女性史研究会代表 | 北西英子 | ヒロシマの女たち |
| 第4回 | 1989年6月 | 比治山女子短期大学助教授 | 宇野憲治 | 竹西寛子の「管弦祭」を読む |
| 第5回 | 1989年9月 | 広島ユネスコ協会会長 | 河村盛明 | ひろしま文学紀行 |
| 第6回 | 1989年12月 | 広島大学文学部助教授 | 岸田裕之 | 戦国時代の領主連合 |
| 第7回 | 1989年12月 | 広島大学教育学部助教授 | 町博光 | 今、広島弁がおもしろい<上> |
| 第8回 | 1990年3月 | 毎日新聞広島支局記者 | 小松健一 | ヒロシマを取材して |
| <以下未入力> | ||||
| 出典:http://www.pv-hiroshima-soka.jp/activity/lecture/backnumber/ | ||||
青年平和文化講座(創価学会) 1973年~
http://www.pv-hiroshima-soka.jp/activity/lecture/backnumber/
| 年月 | 講師 | 肩書(当時) | テーマ |
| 197308 | 原田東岷 | 外科医 | ヒロシマの外科医として |
| 197404 | 伊藤満 | 創価大学教授 | 人権と平和 |
| 197608 | 熊田重克 | 中国新聞論説副主幹 | 現代における核の状況 |
| 197608 | 丸山益輝 | 広島大学教授 | 広島の青年の役割 |
| 198003 | 今堀誠二 | 広島女子大学学長 | 私にとってのヒロシマ |
| 198004 | 畑博行 | 広島大学教授 | 日本と平和主義 |
| 198007 | 高橋昭博 | 原爆資料館館長 | 私の被爆体験と広島の心 |
| 198203 | 熊田重克 | 中国新聞論説主幹 | 広島と沖縄を結ぶ想像力 |
| 198302 | 豊永恵三郎 | 広島電機大学付属高校教諭 | 朝鮮・韓国人被爆者と私達 |
| 198308 | 深川宗俊 | 歌人 | 朝鮮・韓国の被爆者 |
| 198310 | 伏見康治 | 元日本学術会議会長 | 地平から平和の巨塔を |
| 198404 | 日隈健壬 | 広島修道大学教授 | 21世紀の広島が見える |
| 198408 | 北西允 | 広島大学教授 | 反核・平和運動の状況と展望 |
| 198503 | 磯野恭子 | 山口放送テレビ制作部次長 | 生命(いのち)の鼓動を伝えて |
| 198504 | 山田浩 | 広島大学教授 | これからの平和問題と私達 |
| 198603 | 片岡徳雄 | 広島大学教授 | いま、教育の原点を考える |
| 198706 | 川本義隆 | 原爆資料館館長 | 世界のヒロシマ 使命と責任 |
| 198709 | 大野允子 | 児童文学作家 | あなたへのメッセージ |
| 198711 | 秋葉忠利 | 広島修道大学客員教授 | ヒロシマの心と広島に住む若者の役割 |
| 198802 | 小倉桂子 | HIP代表 | 一人の力が平和の万波に |
| 198805 | 二宮皓 | 広島大学助教授 | 世界のなかのヒロシマ |
| 198809 | 目瀬守男 | 岡山大学教授 | 地域活性化と青年の役割 |
原爆被害者証言のつどい
1982年8月6日
久保浦寛人「『原爆被害者証言のつどい』について」(ヒバクシャ-ともに生きる1号)抄
一九八二年八月六日、三十七回の原爆の日を迎え広島で行なわれた原水爆禁止世界大会の関連行事の一つとして私達は、「原爆被害者証言のつどい」を開催いたしました。被爆体験者五十名の出席をいただき、全国から三○○人に及ぶ一般の参加者を迎え、約四時間にわたって、証言及ぴ被爆実体の継承のための対話集会をひらき、非常に強い反応をいただく事ができました。当日、不自由な身体を押して、このつどいに参加して下さった被爆者の皆さん、また、その被爆体験を熱心に聞いて下さった市民の皆さん、本当に有難うございました。小さくともいい、社会のために何かができたと言う心の張りと湧き出た力は、きっと将来に向っての活動の展開に大きな勇気付となったのではないかと思います。皆さんとともに有意義な一日を過す事ができた事を心からよろこんでおります。
この証言のつどいは、「原爆被害者相談員の会」を母体とし、その中の一部会として新しく誕生した被爆体験者グループでございます。今回の行事は、「相談員の会」は勿論、「被爆者家庭訪問をすすめる会」あるいは、「平和を語る青年のつどい」の方々によって構成された、証言のつどい実行委員会の支援を受けて開催したものでございます。「証言のつどい」などと言えば如何にも固苦しく聞こえますけれども、実際には全く逆で、草の根運動を目指し、市民の方々どなたでも気軽に参加していただける、肩の凝らない、くだけた茶の間の座談会と言うイメージとしました。十人から十五人の小グループを一単位として編成し、素朴で率直でしかも真剣味のある対話集会を心掛け、被爆者と参加者のふれあいをも大切にしながら、被爆体験について自由な討議を重ね、真実を十分汲み取っていただけるよう工夫したつもりでございます。今や反核運動は大きなうねりとなって世界にその輪を拡げつつありますが、まだまだその実体は認識されているとは言えません。戦後すでにご三十七年を経て被爆者は次第に高令化し、その数も年とともに減少の一途を辿りつつあります。戦争を知らない世代への転換 期を控えて、被爆体験の若い世代への継承は今を置いて二度とチャンスはないだろうと思います。私達は今強くあせりを感じております。
年表
| Y | M | D | NEWS1 |
| 83 | 08 | 06 | 原爆被害者証言のつどい、広島市で開催。「原爆被害者証言のつどい」実行委員会主催、約300人参加。 |
| 84 | 08 | 05 | 原爆被害者証言のつどい、広島市で開催。 |
| 84 | 11 | 13 | 第5回「原爆犠牲者にささげる音楽の夕べ」(8月6日於広島市)実行委員会、同「夕べ」収益金の一部を「原爆被害者証言のつどい」に寄贈。 |
| 86 | 04 | 26 | 「原爆被害者証言のつどい」、アリス・ハーズ平和賞を受賞。同「つどい」は、1982年に、原爆被害者相談員の会の呼びかけで発足。 |
| 87 | 08 | 06 | 「原爆被害者証言のつどい」(原爆被害者相談員の会など主催)、広島市で開催(約 500人参加)。 |
| 87 | 11 | 21 | 被爆者グループ「原爆被害者証言のつどい」、中曽根前首相句碑撤回運動を進めていくことを決定。 |
| 88 | 08 | 06 | 原爆被害者証言のつどい(原爆被害者相談員の会など主催)、広島市で開催(約350人参加)。 |
| 89 | 04 | 17 | 「原爆被害者証言のつどい」、広島赤十字・原爆病院NO被爆病棟を保存するよう同病院に要請書を送付。 |
| 89 | 07 | 15? | 原爆被害者相談員の会、8月6日の「原爆被害者証言のつどい」での証言のビデオ保存を決定、ビデオ撮影作業などのボランティアを募集。 |
| 89 | 08 | 06 | 「原爆被害者証言のつどい」(原爆被害者相談員の会など主催)、広島市で開催。全国の高校生・大学生ら(約300人)、30人の被爆者による体験談を聴取。 |
| 89 | 12 | 11 | 原爆被害者相談員の会、会報「ヒバクシャ―ともに生きる」第八号(B5,76ページ)を発刊。8月6日に開催された「証言のつどい」特集を収録。 |
| 91 | 08 | 06 | 8・6原爆被害者証言のつどい、広島YMCAで開催(約300人参加)。28人の被爆者が、被爆体験を発表。 |
| 92 | 05 | 21 | 原爆被害者証言のつどい、県被団協など8団体、富重守広島赤十字・原爆病院長に会い、部分保存でも同病院の旧本館を残すよう申し入れる。[原爆遺跡] |
| 93 | 08 | 06 | 原爆被害者証言のつどい、広島YMCAで開催。26人の被爆者の体験談を約500人が聴取。 |
| 95 | 07 | 16 | 広島市竹屋公民館、「碑めぐりウオーク」を実施。久保浦寛人「原爆被害者証言のつどい」代表が解説。約20人が参加。 |
| 95 | 08 | 06 | 原爆被害者証言のつどい、広島YMCAで開催。27人の被爆者が証言。350人が参加。14回目。 |
| 95 | 08 | 10? | 原爆被害者相談員の会(「被爆者とともに」)・原爆被害者証言のつどい(「ForアスSHOGEN」)・広島医療生協原爆被害者の会(「ピカに灼かれて」)、それぞれ記録集や原爆体験記を出版。 |
| 96 | 08 | 06 | 原爆被害者相談員の会など、原爆被害者証言のつどいを広島YMCAで開催。 |
| 96 | 08 | 06 | 「原爆被害者証言のつどい」、広島YMCAで開催。約270人が27人の被爆者の体験を聴く。全体会で舟橋喜恵広島大学教授がウクライナ・キエフ市でのチェルノブイリ原発事故被災者の聞き取り調査の結果を報告。 |
| 98 | 08 | 06 | 原爆被害者相談員の会、「ヒバクシャと語ろう原爆被害者8・6証言のつどい」、広島YMCAで開催。被爆者26人の体験を小グループに分かれ、約200人が聴取。 |
8・6原爆被害者証言のつどい
| 回 | 年 | 備考 |
| 39 | ||
| 40 | 2021 | |
| 41 | 2022 | コロナ禍、全体会は中止、午後「被爆者の証言」のみ実施。 |
| 42 | 2023 | |
止
広島原爆被害者問題ケースワーカー研究会
1975年11月日設立
私たち広島で被爆者福祉に従事するケースワーカーは、1975年11月、被爆者相談を充実させるために広島原爆被害者問題ケースワーカー研究会を発足させ、被爆者のおかれている実態、被爆者のかかえる問題を解決するためのケースワーカーの役割・方法について検討を重ねてきました。その一環として、1977年8月に開催された「NGO国際シンポジウム」の社会科学調査に参加し、30人の被爆者の生活史調査を行ないました。この調査から、原爆が人間にもたらした「いのち・くらし・こころ」にわたる全体破壊の深刻な実相を知らされ、生命をおかされながらも、被爆者として生き抜こうとする被爆者の姿から生きることの尊さを教えられました。そして、被爆体験を語ろうとしない被爆者、語ることのできない被爆者の数多いことを知り、被爆者にかわって、被爆の実相を人びとに伝えることの責任を強く確認しあいました。
1978年12月、広島で開催された第1回原爆問題総合研究会において、ケースワーカーの立場から”原爆孤児であり、ガンとたたかう被爆婦人の苦悩”を報告し、今もなお生命を、そして心をおかしっづけている原爆被害の持続性、それに苦闘しながら、なお被爆者として生きようとする姿は、多くの人びとの感動を呼びました。そしてその報告がきっかけとなって、広島のケースワーカーによる生活史調査をもとにしたこの証言集が生まれました。
出典:「はしがき」(『三十五年目の被爆者』)
宇吹に届いた「研究会のご案内」に見る研究会開催状況
| 時 | ところ | 報告者 | 内容 |
| 19800216 | 広島市民病院 | 若林節美 | 研究会活動をふりかえって―ケースワークにおける生活史把握の意味の模索 |
| 三村正弘 | 原子爆弾被爆者対策基本問題懇談会取り組みについて | ||
| 19800322 | 広島市社会福祉センター | 富岡啓子 | レポート報告(栗原淑江”被爆者にみる原爆体験の思想化”、石田忠”<原爆>と人間”―社会調査における生活史把握の意義”) |
| 三村正弘 | 被爆者相談のための問答集について | ||
| 石田明 | 35周年の節目にたって―全国孤老の調査についての問題提起<全国被爆教師の会会長> | ||
| 19800426 | 広島市社会福祉センター | 大野勇夫 | 生活史調査と医療福祉援助<淑徳大学> |
| 石田明 | 35周年の節目にたって | ||
| <以下の発信者は「広島原爆被害者問題ケースワーカー研究会」から「広島原爆被害者問題研究会」に変化> | |||
| 19800628 | 社会福祉センター | 高橋文枝 | 事例研究「助成孤老被爆者と面接」<神田山荘> |
| 石田明 | ユネスコ世界軍縮教育会議報告「被爆者問題研究の継承の課題」<平和教育研究所> | ||
| 19800726 | 社会福祉センター | 阿左美信義 | 被爆者援護法制定の意義及び動向について<広島法律事務所弁護士> |
| 牧村美枝子 | 老人ホームで生活する原爆孤老の面接から<桧田病院ケースワーカー> | ||
| 19801018 | 広島市民病院 | 三村正弘 | 研究発表「未解放部落の被爆者」<福島生協病院> |
| 正田恵子 | 事例研究「地域で生活する原爆孤老」<放射線影響研究所> | ||
| 19801220 | 社会福祉センター | 塚本弥生ほか | 「被爆者援護法はどうあるべきか」―基本懇答申の評価と課題―<塚本弥生(広島市民病院)・江崎須賀子(広島市民病院)・若林節美(広島原爆病院)> |
| その他「1980年をふりかえって」 | |||
| 19810221 | 社会福祉センター | 江崎須賀子 | 民間被爆者相談事業について(広島市民病院) |
| 三村正弘 | 同上<福島生協病院> | ||
| 塚本弥生 | 事例研究「認定却下に対し異議申し立てをしたマキさんの事例」(広島市民病院) | ||
| 19800328 | 社会福祉センター | 加藤礼子 | 認定申請に伴なう問題点について<広島赤十字病院> |
| 民間被爆者相談事業について | |||
| 19810418 | 社会福祉センター | 田村和之 | 被爆者援護法の法的意味について<広島大学総合科学部> |
| 伊藤直子 | 中央相談所の相談事業と課題<相談員> | ||
原爆被害者相談員の会 1981年6月13日発足
若林節美「原爆被害者相談員の発足と1年間のあゆみ」
(「ヒバクシャ-ともに生きる1号」所収)より
一九八○年十二月十一日、原爆による苦しみをなめ尽くしてきた被爆者は、原爆被爆者対策基本問題懇談会の意見書(以下、意見書)を期待と不安の中で、じっと待っていた。
それは、被爆者のみならず、被爆者援護や核廃絶を願う人々にとって、被爆者援護法が制定されるか否かは、日本の将来、ひいては人類の未来が問われるという重大な関心事であった。
しかし、報告された意見書は、国の戦争責任を回避し、原爆の被害を矮小化し、そしてあいまいな国家補償論で、三十五年間にわたる被爆者の苦渋に満ちた歴史に意味を与えず、逆に、被爆者に衝撃を与え、生きる意欲を奪ってしまうものであった。
年の瀬も迫る中、日常的に被爆者に接するソーシャル・ワーカー(以下、ワーカー)は、被爆者の悲しみ、怒りを見すごすことはできず、二十人の被爆者の怒りの声を、厚生大臣宛に直訴状として届けた。
震える手で直訴状をつづった老被爆者は、「夫と娘の死にようはひどいものでした。苦しんで、苦しんで……。生きる支えだった息子は、九年間生きましたが、白血病で狂うようにして死にました。たった一人残された私は、あとどれだけ生きられるかわかりません。この死を無駄にしないで下さい。」と訴えた。しかし、この被爆者は長年願い続けてきた援護法の日の目を見ないまま、意見書の衝撃と寒さのため、一ケ月後に他界してしまった。
こうした二十名の被爆者の怒りと抗議の声は政治の前にはむなしく、私たちの小さな灯は、意見書を乗り越える取組みへと燃えていった。
一九八一年六月一三日、専門ボランティアによる原爆被害者相談が広島市内でスタートした。
これは、不当な意見書を乗り越えるために約半年をかけて産み出された、私たちの唯一の方法であり、運動であった。
今日、被爆者の高令化にともない、被爆者の問題は、複雑かつ深刻化し、とりわけ、被爆者援護の遅れは、被爆者のくらしや、こころの再建を非常に困難にしてきた。
この被爆者の問題に対し、行政や、各関係団体、各機関で相談事業が行なわれてきたが、今日の被爆者の切実な要請に応えるためには、一層、相談事業を強化しなければならず、しかも、専門的知識と経験を生かした総合的、かつ継続的な相談事業が求められていた。
それは、谷間で苦しむ被爆者のために、広く相談窓口を設け、被爆者の直接相談に応じながら、被爆者がかかえる現行二法の問題点、及ぴ、その被害の実態を科学的に究明し、しかも被爆者が被爆者として主体的に生きるための条件を整えていくという内容であった。
しかし、この相談事業の中心的役割を担わなければならないワーカーにとって、これほど重要な課題を目指すには、余りにも荷が重すぎ、不安は隠し切れなかった。
使命感と不安の中で、ワーカー、弁護士、研究者、教師、団体職員、市民等によって原爆被害者相談員の会が発足し、被爆者相談が取り組まれていった。こうして、過去五年にわたる原爆被害者問題研究会活動、NG0国際シンポジウムでの生活史調査、そして「三十五年目の被爆者」の出版等、ねばり強い活動経験が、さまざまな不安を一つ一つとり除き、次のような多くの成果と教訓を残した。
参考
| 年月日 | 事項 |
| 197511 | 広島原爆被爆者問題ケースワーカー研究会 |
| 198208 | 原爆被害者証言のつどい |
| 198212 | ヒバクシャ-ともに生きる1号 |
| 1981~ | 年表:原爆被害者相談員の会 |
ヒロシマ・フィールドワークの歩み
1994年以来、広島平和記念公園およびその周辺を巡るヒロシマ・フィールドワークを年に1回実施してきた。
2003年以降は、平和公園周辺に住んでおられた方をお招きし、かつての町の様子を証言していただいて、その後一緒にその町の跡を巡ることとした。
出典:『証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町』(編集:ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 中川幹朗)(発行:2017年8月5日=ピカから26297日)
関連文献(広島平和記念資料館「平和データベース」を「キーワード:ヒロシマ・フィールドワーク」で検索した結果)
| 書名 | 著者 | 出版者 | 出版年 |
| ’93修学旅行 | 日本福祉大学付属高等学校第2学年 | 日本福祉大学付属高等学校 | 1993/9/1 |
| 広島・大久野島への旅-被害と加害の挟間 ’93広島修学旅行研究集録 | 名古屋大学教育学部附属中学校3年生編 | 名古屋大学教育学部附属中学校 | 1994/2/21 |
| 平和と交流1999年版(平成10年度事業) | 広島平和文化センター | 広島平和文化センター | 2000/2/10 |
| 証言原爆で消えた町から | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2007/1/26 |
| 証言町と人の記憶 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2010/5/5 |
| 消えた町 記憶をたどり 絵と証言 森冨茂雄 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2011/8/5 |
| 2014年度 第21回ヒロシマ・フィールドワーク(チラシ) | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2014/7/27 | |
| 証言記憶の中に生きる町 中島本町・材木町・天神町・猿楽町 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2015/5/3 |
| 証言 生きている町 原爆で灼かれた材木町・中島本町 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2016/5/3 |
| 証言 江波に生きる 大岡貴美枝さんの語る暮らし・戦争・原爆 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2016/9/17 |
| 証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 | ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 | 2017/8/5 |
| Y | M | D | NEWS1 |
| 57 | 02 | 04 | 広島県動員学徒犠牲者の会結成準備委員会、広島県庁で開催。 |
| 57 | 02 | 17 | 「広島県動員学徒犠牲者の会」結成大会、広島県庁で開催(約100人参加)。動員学徒も軍人・軍属なみの国家補償を要求すると宣言。 |
| 57 | 05 | 31 | 広島県動員学徒犠牲者の会、「友の会だより」を創刊。 |
| 57 | 10 | 20 | 広島県動員学徒犠牲者の会、第1回動員学徒慰霊法要を光道会館で挙行。終了後、平和公園供養塔に参拝。 |
| 58 | 07 | 06 | 広島県動員学徒犠牲者の会、第2回動員学徒慰霊法要を広島市寺町・本願寺別院で挙行。終了後、原爆病院の患者を見舞う。 |
| 59 | 04 | 12 | 広島県動員学徒犠牲者の会、第3回定期総会を広島女学院講堂で開催。 |
| 60 | 08 | 06 | 中山マサ厚生大臣、広島市内の旅館で県動員学徒犠牲者の会・県身体障害者団体連合会など県内23団体の陳情を受ける。広島市、原爆総合医療研究所の設置を要望。 |
| 66 | 06 | 20 | 準軍属広島遺族の会(1958年5月、援護法改正期成同盟会を改称)、解散総会をあげ、広島県動員学徒犠牲者の会に合流。([動員学徒誌]) |
| 69 | 04 | 09 | 広島県・長崎県動員学徒犠牲者の会交歓会、長崎市国際文化会館で開催。 |
| 73 | 08 | 20 | 広島県動員学徒犠牲者の会の代表3人、首相官邸で二階堂官房長官に、遺族・傷害者の恩給などの改善を陳情。 |
| 78 | 11 | 07 | 広島・長崎の動員学徒犠牲者の会、島原市で交流大会。 |
| 80 | 01 | 10 | 「広島県動員学徒犠牲者の会」理事長沖本喜夫、死去。 |
| 91 | 08 | 06 | 広島県動員学徒犠牲者の会、広島市平和公園の慰霊碑前で第35回原爆追悼式と供養会(約500人参列)。 |
| 94 | 04 | 17 | 広島県動員学徒犠牲者の会、動員学徒の50回忌法要を進徳学園で挙行。約400人が参列。 |
| 95 | 08 | 06 | 広島県動員学徒犠牲者の会、追悼式を平和公園の動員学徒慰霊碑前で挙行。約300人が参列。 |
| 97 | 08 | 06 | 広島県動員学徒犠牲者の会、動員学徒追悼式を挙行。約500人が参列。 |
会長:長田新広島文理大学長、副会長:マクミラン女学院教授、佐伯好郎。(『中国新聞』19470928)。
略年表
| 年月日 | 事項 |
| 194707 | 前史=長田新(広島文理科大学学長)・長谷信夫(医師)ら広島在住の文化人が、日本文化平和協会の設立を計画。意図=同年5月3日に施行された新憲法の「戦争放棄を条文のみにとどめ」ないため、広島市を文化都市として建設。具体的な構想=「ノーベル平和賞と同じような広島平和賞」、「マンハッタンの浜にき然とそびえる平和シンボル-平和の女神の像を模造し、広島城跡に建立。今は世界平和攪乱の罪で天の制裁としてあとかたもなくなった軍閥横行の地を清め、平和の芽ばえを守護する意味」。(『中国新聞』7月9日)。 |
| 19470928 | 発会式 |
| 194711 | 第1回文化講座(中国新聞社と共催)。講師:天野貞祐第一高等学校校長。会場:広島女学院講堂(13日)、文理科大学・高等師範学校(14日)。 |
| 19480204 | 文化国家建設広島学生大会。会場:爆心地近くの元護国神社前広場 |
| 19480220 | 平和の歌」の入選発表 |
| 19480403 | 大山郁夫(早稲田大学教授)講演会。会場:広島女学院講堂 |
| 19480831 | 『恒久平和論』の出版。 |
| 19480908 | 広島文理科大学長長田新「世界平和への道」を掲載(『中国新聞』) |
| 19480918 | 『中国新聞』が紹介。「恒久平和への精神的な分野を開拓しようと企画し昨春来着手」 |
| 194905 | 田辺耕一郎の書評(『書評』1949年5月)=カントの永久平和論を批判し。世界連邦(世界共和国)の理念を高く掲げた。 |
| 恒久平和論長谷信夫(編)(日本文化平和協会、19480831) | |
目次
| 絶対的平和論と相対的平和論 | 矢内原忠雄 | |
| 世界平和のために | 原随園 | |
| 平和国家の理念 | 天野貞祐 | |
| 平和日本とユネスコ | 森戸辰男 | |
| 恒久平和論 | 長田新 | |
| 装幀 | 南薫造 |
中国新聞労働組合新聞研究部 1969年7月23日発足
略年表
| 年月日 | 事項 |
| 前史 | |
| 19591005 | 「新聞討論集会」(中国地連主催、岡山市)。テーマ:「新聞はこれでよいのか」「新聞批判にどうこたえるべきか」。講演:「読者と新聞」(広島大・今堀誠二)など。中国労組から平岡敬委員長ら5人が出席。参加者約400人。 |
| 19610905 | 中国労組として初の新研集会「中国新聞をよりよくするために」。参加者約20人。大牟田稔委員長報告後、八・六紙面の検証など。 |
| 19690723 | 中国新聞労働組合新聞研究部発足。 |
| 出典 | 『中国新聞労働組合50年史』(同編集委員会、19970829) |
広島文学資料保全の会活動日記(抄)
出典:『広島に文学館を 広島の心を21世紀に伝えよう!』(編集人:尾津訓三・池田正彦 発行人:好村冨士彦、1999年4月30日)
| 年月日 | |
| 1987 | ヒロシマに関わる文学資料の調査、収集・保存、そのための施設建設を求め、広島市長への<要請>署名運動。発起人11人=磯貝英夫、今堀誠二、大原三八雄、北西允、栗原貞子、好村冨士彦、四国五郎、立川昭二郎、深川宗俊、松元寛。発起人の呼びかけに応じた、被爆者、文化人、学者、市民72人は参道呼びかけ人として活動に参加。 |
| 2月 | 仮称「広島の文学資料の保全をすすめる会」を結成(代表者:広島大学学長・沖原豊)。幹事・事務局を選出し、要請署名と活動資金を訴える活動にとりかかる。 |
広島婦人問題研究会 1974年発足。代表世話人:中村朋子。
参考資料:『未来を拓く ひろしまの女性 1983』(広島婦人問題研究会、1984年3月21日)
目次
| 山代 巴 | 私の歩んだ道 |
| 中村 朋子 | 山代巴研究と私たち -中間報告- |
| 今中 保子 | 近代日本女性史と広島の婦人 -備後の女性を中心に- |
| 内田 千寿子 | 原爆を語る場を求めて |
| 永見 和子 | 福山の母親運動 |
| 山代巴年譜 | |
| 戦後広島県婦人の動き(1945~1955) | |
| 編集後記-広島県婦人問題研究会の紹介にかえて- |
『ヒロシマの青春 飛翔―広島文団連50年誌―』広島県文化団体連絡会議「50年誌」編集委員会、20121215刊
目次
| 御庄博実(丸屋博) | 文団連50年を思う | 広島県文団連 代表委員 |
| 高橋正志 | 文化で生きる力を | 文化団体連絡会議(全国文団連) 事務局長 |
| 一、文団連50年の歴史 | 1.前史 2.広島県文化会議結成から文団連へ 3.70年代~80年代 4.90年代から今日まで | |
| <ぶんだんれんトピックス> | ◆昭和21年、横川劇場で観た◆「河」◆原水禁文化集会と文団連◆峠三吉碑前祭◆第一学習社労組闘争支援◆平和とうろう集会◆「ヒロシマの夜打つ太鼓」◆ヒロシマ学習 | |
| 二、加盟団体の結成と今日(結成年順) | ||
| 1954 | 広島合唱団 | |
| 1954 | 国鉄広島ナッパーズ | (前身から) |
| 1956 | 広島映画サークル協議会 | |
| 1959 | 劇団月曜会 | |
| 1960 | 広島市民劇場 | (前身から) |
| 1964 | 広島詩人会議 | |
| 1965 | 広島県美術会議 | |
| 1965 | 日本民主主義文学同盟広島支部 | |
| 1967 | 日本ジャーナリスト会議広島支部 | |
| 1967 | 青年法律家協会広島支部 | |
| 1972 | 広島映画センター | |
| 1987 | 音楽センターひろしま・太鼓センターひろしま | |
| 1992 | ひろしま音楽鑑賞協会 | |
| 三、資料 | 1.文団連5年譜、2.文団連歴代役員、3.物故役員の経歴、現在の役員、文団連加盟団体一覧 | |
| 亀岡恭二 | あとがき | 事務局長 |
| 編集委員のひとこと | ||
三、資料、3.物故役員の経歴
| 名前 | 生・没年 | 経歴 |
| 大月洋 | 1960-1973 | 広島演劇鑑賞会事務局長、広島県文団連副議長 |
| 中川秋一 | 1910-1980 | 「夕刊ひろしま」記者、皆実町二丁目青年連盟結成に参加、民主主義科学者協会会員、広島県労働組合協議会議長、劇団「八月座」結成に参加、前進座広島後援会会長、広島県文団連代表委員 |
| 土屋清 | 1930-1987 | |
| 柿手春三 | 1909-1993 | |
| 山下正人 | 1924-1995 | |
| 堀博自 | 1921-1996 | |
| 植田知基 | 1934-1997 | |
| 村上忠人 | 1917-1996 | |
| 水原肇 | 1934-2004 | 読売新聞記者、日本ジャーナリスト会議広島支部代表幹事、広島県文団連代表委員 |
| 下村仁一 | 1918-2008 | 広島県美術会議幹事長、アンデパンダン展全国実行委員長、広島平和美術展代表、広島県文団連代表委員 |
| 深川宗俊 | 1921-2008 | 反戦詩歌人集団結成に参加、広島県平和のための文化会議幹事長、峠三吉詩碑建設委員会委員長、短歌研究会「青史」代表、広島県文学会議幹事長、広島県文団連代表委員 |
| 新江義雄 | 1947-2009 | 日本のうたごえ全国協議会常任委員、(有)音楽センターひろしま役員、広島県文団連常任委員 |
広島県文化団体連絡会議(略称:文団連)略年表
| 年月日 | 事項 |
| 196911 | 広島県文化会議第4回総会。広島県文化団体連絡会議に名称変更。22団体が加盟。 |
| 197109 | 文団連呉支部を結成 |
| 197203 | 文団連ニュース第1号発行。 |
| 197203 | 文団連機関誌「ひろしま」創刊号発行 |
| 197701 | 文団連ニュース復刊(第6号) |
| 19780212 | 文団連第4回総会。会則改正 |
| 19821003 | ~5日。第11回文団連全国交流集会。テーマ「平和と文化」。会場:広島市・寿殿。 |
| 19820124 | 第11回文団連全国交流集会記録集 |
| 19830401 | 文団連ニュース(第52号) |
| 19830601 | 文団連ニュース(第53号) |
| 19930307 | 三吉忌碑前祭ー峠三吉没後四〇年。ところ:平和公園・峠三吉碑前 |
| 20121215 | 『ヒロシマの青春 飛翔―広島文団連50年誌―』発行。 |
| 20170212 | 広島文団連「2017ヒロシマ学習 ”ヒロシマ文化”の過去・現在・未来~ヒロシマ郷土史家の思い~」。講師:宇吹暁、会場:小劇場「アッカー」(広島市中区榎町)。参加者34人。 |
広島文学協会 1950年発足
機関誌 『広島文学』
| 巻号 | 発行年月日 | 備考(出典・所蔵など) |
| 『原爆被災資料総目録第4集』(以下『総目録第4集』)。広島平和記念資料館所蔵(以下「原資」) | ||
| 1-1創刊号 | 19511115 | 『総目録第4集』「原資」 |
| 3(10月) | 19571005 | 『総目録第4集』「原資」 |
| 3-2(2月) | 19530201 | 「原資」「ピカ」 |
| 3-3(3月) | 19530301 | 「原資」「ピカ」 |
| 3-4(5月号) | 19530420 | 「ピカ」 |
| 3-5(8月) | 19540901 | 「ピカ」 |
| 4-1(9月) | 19540901 | 「原資」「ピカ」 |
| 3-5(9月号) | 19540901 | 「ピカ」 |
| 8月号 | 19550815 | 「ピカ」、宇吹蔵 |
| 6-1(新年) | 19560101 | 「原資」「ピカ」 |
| 6-2(春季) | 19560405 | 「原資」「ピカ」 |
| 6-3(夏季) | 19560801 | 「ピカ」 |
| 7-1(秋季) | 19561120 | 「ピカ」 |
| 19580410 | 広島文学協会ニュースNO.15 | |
| 8-1(秋季) | 19580915 | 「ピカ」 |
| 9-1(通関5) | 19590510 | 「ピカ」 |
原水爆禁止広島母の会 1959年9月1日第1回準備会
第5回世界大会に参加した婦人たちの中には,大会の中で明らかにされた安保条約改定の危険性に触発され,日常的な学習や活動を通じて大会の決議やアピールを実践する恒常組織をつくろうという気運が生まれた。1959(昭和34)年9月1日に広島市平和記念館で開かれた国際一斉行動広島中央集会を機に第1回準備会を持ったが,この時は労組の婦人部代表も参加しており,組織の上でむずかしい論議が出てまとまらなかった。その後,数度の会合の結果,個々の婦人の自発的組織として原水爆禁止母の会が発足した。
母の会は,1960(昭和35)年6月2日,広島県母親連絡協議会など七つの婦人団体とともに,広島県・市当局および県・市議会に安保批准阻止・国会解散を要求した声明書を提出するとともに,広島市内でビラを配布した。また,同年8月8日には,広島地区働く婦人連絡協議会・広島子供を守る会などとともに広島市ではじめての母親大会を開催した。「生命を生みだす母親は生命を育て生命を守ることをのぞみます」との横断幕を掲げた会場(国鉄職員会館)には,150人が参加,(1)子どもと教育,(2)暮らしについて,(3)平和問題,(4)地域婦人と働く婦人の結びつき,の4分科会に分れて討論を行った(「中国新聞」1960年8月8日)。
1961(昭和36)年6月14日の平和行進の広島出発にあたっては,「しろがねもこがねも玉も何せんにこの子の上に原爆を落すな」との歌を幼児の絵と一緒に書いたプラカードをみどり色のリボンで首からつるして参加した。こうした街頭活動の一方で,1961(昭和36)年4月には機関誌の発行を申し合わせ,6月14日の平和行進の日に『ひろしまの河』を創刊した(前田とみ子「原水爆禁止広島母の会の活動について」)。
母の会の会員のほとんどは,原爆でても,原爆によって象徴される徹底した非人間性こそすべての悪の根源であリ,人間性を大切にすることが平和と愛の始めであるという点で一致していた。機聞紙『ひろしまの河』は,創刊号(発行日は6月15日となっている)で,原爆孤老(山口勇子)・原爆未亡人(正田篠枝)を取りあげたのをはじめ,次表のように,原爆被害をめぐる諸問題をさまざまな角度から提起した。
『ひろしまの河』は,持続的な原爆手記発表の場でもあった。上田篠枝は,第1号に「私の苦悩と寂寞」と題して,自らの被爆記を寄せるとともに,第4号には,夫の兄弟の消息を伝えた手記「被爆の系譜」を寄稿した。第5号の手記特集以後,毎号数人の被爆手記の掲載をつづけ,第15号(1967年8月1日)までに掲載手記数は37点にのぼった。
ひろしまの河 NO.1(1961年6月15日発行)
| タイトル | 著者 |
|---|---|
| 原爆孤老 | 山口勇子 |
| 歌集「小さき旗」から | 南雅子 |
| 私の苦悩と寂寞 | 正田 篠枝 |
| 歌集「さんげ」から | 正田篠枝 |
| 16年後の2人の娘からの手紙 | 升川貴志栄 |
| 未だ癒えず | 油井善子 |
| 9回の手術を受けて | 小玉満子 |
| 広島・現代の救済 | 栗原貞子 |
| 原爆慰霊碑めぐり (1)石田学園の巻、(2)市立女学校の巻 |
小西信子 |
| (原水協通信)より =殖える核保有国今年こそ実験停止を |
|
| (原水協通信)より =盛んなイギリスの平和大行進 |
|
| 詩・平和公園にて | 八島藤子 |
| 老人に腰かけを | N |
| 原爆17回忌 | S |
| 広島と死神 | S |
| あとがき |
各号発行年月日
| 号 | 発行年月日 | 号 | 発行年月日 | 号 | 発行年月日 | 号 | 発行年月日 |
| 1 | 19610615 | 6 | 19621201 | 11 | 19650101 | 16 | 19720720 |
| 2 | 19610801 | 7 | 19630501 | 12 | 19650801 | 17 | 19730725 |
| 3 | 19611001 | 8 | 19630806 | 13 | 19660301 | 18 | 19740725 |
| 4 | 19611201 | 9 | 19631220 | 14 | 19660801 | 19 | 19750725 |
| 5 | 19620801 | 10 | 19640425 | 15 | 19670801 |
『ひろしまの河』の主要掲載記事
| 号数 | 発行年月日 | 記事 |
| 1 | 19610615 | 原爆十七回忌に捧ぐ |
| 2 | 19610801 | 座談会「被爆体験と今日の私たち」出席者=永瀬清子・林田みや子・西隅幸枝・日詰しのぶ・斉藤冨美江・森滝市郎・山口勇子・小西信子・升川貴志栄・藤井ゆり 座談会「原水爆時代の文学をめぐって」出席者=中川国雄・荏原肆失・小久保均・大原美耶雄・増原正・浜野千穂子・深川宗俊・小西信子・栗原貞子 |
| 3 | 19611001 | 米・ソ核実験抗議特集号 |
| 4 | 19611201 | 特集:被爆地の原水禁運動はどうあるべきか |
| 5 | 19620801 | 被爆十七年の市民感情の方向-ABCCを中心に、 今なおつづく広島:手記八編 |
| 6 | 19621201 | 岩国基地:わたしたちのまわりは米軍基地にとりまかれている |
| 7 | 19630501 | 原爆孤児あゆみグループのこと |
| 8 | 19630806 | 八月特集号 |
| 9 | 19631220 | 特集:故峠三吉詩碑建設記念 |
| 10 | 19640425 | |
| 11 | 19650101 | |
| 12 | 19650801 | |
| 13 | 19660301 | |
| 14 | 19660801 | |
| 15 | 19670801 | |
| 16 | 19720720 | 復刊一号<原爆体験の今日的課題> |
| 17 | 19730725 | 原爆体験特集号 |
| 18 | 19740725 | 援護法制定の悲願をこめて |
| 19 | 19750725 | 思出の疎開児童紙芝居 |
平和のための広島県文化会議 結成日:1962年8月5日
広島県文化会議・第二回定期総会議案書 1963年10月20日
一年間のあゆみとまとめ
1、一年間のあゆみ
一九六二年八月五日、私たちは広島県内在住の芸術創造にたずさわる人びとによって、「平和のための広島県文化会議」を結成しました。文化会議の性格を「平和のための」と意味づけたのは、文化そのものは本来平和そのものの成果であるにもかかわらず、なお「平和のための」といわざるをえなかったなど、世界の平和の状況が必ずしも平和でなかったからです。
そのかんの事情についての詳細は、結成総会アピールにあきらかにされているとおりですが、私たちはあらゆる人びとの平和への願いをもとにし、人類社会から戦争をなくすることを、芸術創造活動をとおしておし進めたいと考えました。
私たちは幹事会に提出された六項目の議案、すなわち、一、機関紙、誌の発行。二、秋の文化祭。三、峠三吉詩碑の建設。四、広島平和文化賞の設定。五、県内巡回講演などの計画。六、広島県戦後文化史の編さん。以上について、文学、美術、演劇の各専門部会で話あわれた内容を基にして、第三回幹事会は、八月六日へ向けて綜合文化祭を企画する。峠三吉詩碑の建設。広島県戦後文化史の編さん。の三つの主な創造のための作業を決議しました。この幹事会決定は、十一月十一日の臨時総会に提案され、年間の活動方針として決定されました。私たちはこの三つの作業を、たんなる行事というふうには考えませんでした。綜合文化祭、峠三吉詩碑、県戦後文化史の編さんの作業は、私たちの芸術創造の仕事と深くかかわりをもつと同時に、平和の問題と離れがたく結びついていると考えたのです。
一九六三年二月七日、私たちは文化会議会員によって「峠三吉詩碑建設委員会」を設置し、この日から具体的な活動に入りました。
この活動のこまかを点については、別誌「人間の世のあるかぎりくずれぬ平和を」において報告しておりますから略します
八月六日へ向けての綜合文化祭は、文化会議内に実行委員会を設置し、いろいろと話しあいの結果、県文化会議、広島職場演劇サークル協議会、広島勤労者演劇協議会の三団体共催にすることとし、後援および協賛団体として、原水爆禁止広島県協議会、広島県原爆被害者団体協議会、広島県労働組合会議、広島県青年連合会、日本民主青年同盟広島県委員会、日本社会主主義青年同盟広島地区本部、広島県教職員組合広島支部、広島県平和委員会、広島民主商工会、第三回西日本うたごえ実行委員会の協力を得ました。公演は八月三日昼夜二回行われ観客一千八一二人の入りで、一応実質的に成功させることができました。
そのほか、無名戦士の碑文の決定。原潜寄港反対のアピール、二回にわたるソ連作家を囲む懇談会をひらきました。
2、まとめ
その成果と問題点
これらの運動の中で、文学部会は峠三吉詩碑に刻む作品の選こうについて、美術部会は詩碑のデザイン、設計、あるいは第九回平和美術展について、音楽部会は「西日本のうだごえ」の成功のために、演劇部会はシナリオ「河」の作成から公演に向けて、その大きい流れの中にあって、それぞれのジャンルで創造活動が熱っぽく話しあわれ、実を結んでゆきました。
この実践の中で、私たちは八月三日「河」の合同公演、八月二日より七日間広島平和美術展、八月四日西日本のうたごえ、八月六日詩碑除幕式、第九回原水禁世界大会へ代表派遣という具体的な成果をあげると同時に、対外的には一定の基礎をつくることができました。これら諸運動に参加した人びとは二万人以上をがぞえ、九月末現在、詩碑建設と、「河」公演によせられたカンパ額は五三五、八二○円に達しました。このことは私たちの方針の正しさを実証するものといえましょう。
しかし、これら成果の反面、文化会議内部における日常活動の不足、事務局体制の弱体からくる財政の不備、内面的な活動の遅退は、会員個々の活動があったにもかがわらず、いちぢるしく後退するという現しょうを見たことは、特に重要な問題として残されております。
このことは文化会議の動脈ともいうぺき機関紙が速報をあわせて二回発行にとどまった事実にもうかがえます。会員はそれぞれの創造活動をとおして、多くの出版物を刊行し、あるいは執筆し、おうやけにしました。たとえぱ三原の「地方」、広島の「青史」「われらのうた」、土屋清のシナリオ「河」(テアトロ)、南雅子共著童話「つるのとぶ日」(東都書房)、加川次男歌集「標的」(白樺社)、原爆症患者の手記「かえらぬつる」再版、絵画グループ展の開催、職場演劇、職場美術展等を他にも多くあげるこどができます。
だがこのように見るべきものががず多くあつたにもかかわらず、内部において集約されず、したがって独自の評価もあたえられず放置されたのであります。もっとも大切にしなくてはならない会員個々の創造活動が会の中で充分生かされなかつたことの事実の解明は、今後の大きな課題として私たちの前にあります。書くことがあとまわしになったという問い、行動に参加し、ひとりびとりがどう高まり、どうひろげたか、芸術創造と政治的実践のむすびつきを考えるぺきだという問い、それら困難でしかも重要な課題を私たち一年のあゆみは提出しました。
これは私たちの実践の中からひきだされた具体的な課題であるだけに、一年のあゆみは必ずしも一方的に否定されるべきでなく、このあゆみの中から、新しい方針が創造されてゆくべきでありましょう。その萌芽が私たちのひとつの成果としてここに提出されているのであります。
[以下略]
広島県原爆被害者団体協議会
1956年5月27日設立
1555年8月、広島で開催された原水爆禁止世界大会直後、広島市内には,原爆乙女の会(シオン会)・原爆被害者の会・原爆の子友の会の先駆的3組織のほかに,広島子供を守る会,未亡人会(原爆被害者グループ),大会直前に原爆被害者の会から別れた八・六友の会と原爆被害者の会本部,および大会の期間中に組織された電気通信関係原爆犠牲者遺族会の8組織が存在した。世界大会直後から,これらの被害者組織の一本化が試みられたが,性格の異なる諸組織の統合には,多くの困難が存在した。10数回の会合ののち,1956年1月22日に広島市原爆被害者連絡協議会世話人会の発足にこぎつけた。
広島県原爆被害者大会(1956年3月18日)・国会請願(3月20日)の開催が,広島における既存の原爆被害者組織の大同団結と新たな被害者組織づくりの重要な契機となった。原爆被害者大会実行委員会は,1956年4月8日,事務局に県内各地から30人が参加して代表者会議を開催,次のような決議を行った。
県内の原爆被害者の組織は,被害者大会までに,大竹市(1955年8月6日結成)・甲奴郡(9月1日)・芦品郡(10月11日)・深安郡・神石郡・三次地区(1956年3月15日)などに結成されており,大会後の3月29日には,賀茂郡原爆被害者の会が結成された。
原爆被害者大会実行委員会は,4月8日につづいて5月13日にも代表者会議を開催,5月21日には,事務局長藤居平一の名で,5月27日の広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協と略称)結成総会の案内状を発送した。広島YMCA講堂で開かれた結成総会には,県内の被害者団体代表120人のほか,長崎8人,愛媛1人の代表が参加した。総会は,経過報告,規約案の審議ののち,次のような運動方針を決定した。
総会は,藤居平一(原爆被害者大会実行委員会事務局長・広島原水協事務局次長)・井上昇(広島県東部被害者連絡協議会)・日野義隆(大竹市被害者同志会)の3人を代表委員に,また,藤居を事務局長に選出した。
原爆被害者の会会則
1952.8.10
<会則>
一、この会は原爆被害者の会といい、原爆の被害者によってつくられます。
二、会員には被害者で趣旨に賛成の人なら誰でも入ることが出来ます。
三、会の事務所は広島市細工町原爆ドーム裏吉川記念品店におきます。
四、会は被害者が団結して多くの人々との協力のもとに、治療生活その他の問題を解決し、あはせて再びこの様な惨事のくりかへされないよう平和のために努力することを目的とします。
五、この会は目的実現のために次の事業を行います。
①原爆傷害者の治療援助を当局に要求し、その他種々の便宜をつくり出す。
②原爆による生活困窮者の就職、生活援助を会員相互の協力によって行う。
③各種の方法により平和のための事業を計画する。
④その他の目的実現のため、会の決定したこと。
六、会は、総会、幹事会、協力会を持ち運営していきます。
七、会の趣旨に賛成し、協力する意志のある団体並びに個人によって協力会をつくります。
八、会の役員は会員の中から会長1名、副会長1名、幹事若干名を選びます。幹事会は事務局を設けます。
九、会の財政は会費、寄付、事業収入でまかないます。
<組織>
1.会員組織
一、会員の会費は月20円、かわりに機関紙を無料配布します。
二、会員はそれぞれの地区で支部をつくることが出来ます。
三、現在の幹事会のメンバーは次の通りです。
吉川清(会代表者)、佐伯晴代、内山正一、上松時枝、峠三吉
当分の間、会長、副会長を決定せず、幹事の合議により運営していきます。
四、事務局は活動に応じて各部を設け、幹事会の決定を実行します。
2.協力会員組織
一、原爆被害者でなく、会の趣旨に賛成、協力する人は協力会員になっていただきます。会費は半年150円、かわりに機関紙を無料配布します。
二、協力会員の協力方法として次の様なことが望まれます。
①一定金額の定期的な資金援助、或は一時的な資金援助
②被害者の就職、内職あっせんの協力
③被害者のその他の生活要求に対する協力
④被害者の平和運動を発展させるための協力
⑤その他、会の決定した計画に対する人的物的な援助、協力
三、協力会員は各地、或は各職種別の協力会をつくることが出来ます。
四、現在の東京協力会の世話人は次の通りです。(イロハ順)
石田一松、大田洋子、神近市子、武谷三男、倉田本、布施辰治、赤松俊子
3.原爆の手記編纂委員会
一、この委員会は独立した組織ですが、会とは密接な関係にあり、相互協力の関係にあります。
二、この委員会は原爆の手記その他を通じて被害者の実態、その要求、或いは原爆の実態、本質を明らかにしていく仕事を行います。
<事業>
1.医療
原爆の惨禍は尚あとをたたず、現在でも原爆症により病床にふし、或は死亡していく人達がいます。又、生活に追われて傷害を治療することも出来ず、苦しんでいる人も数多くあります。これらの医療問題を解決するために、私達は国家予算による無料での診察治療の実施を要求しています。このため実態調査を行い、これを基礎にして陳情書を作り政府並びに国会に陳情する考えでいます。当面の対策としては次の諸活動を行ひます。
一、原爆傷害者の実態調査を行う。
二、市民病院での無料診断実施を要求する。
三、緊急に治療の必要ある患者のカルテをつくり、県並びに市にその治療費の全額負担を要求する。
2.生活
原爆被害者は一般にいって殆どが生活困窮者です。一日わづか7,80円の内職で毎日の生活費にもことかく人達がいます。適当な職がなくて困っている傷害者もいます。生活を転換しようにもその間の生活費がないため、弱い体を無理な労働に使っている婦人もいます。又周囲の冷たい態度に泣きながら、誰か親身になっていろいろな相談の出来る人はないかと求めている人もいます。私達はこれらの生活問題を解決するために、軍事費支出をやめて、その予算で社会保障制度を確立する必要があると考えます。これはただ被害者だけでなくすべての貧困者の問題ですから、そういう人達と共に運動していきたいと思っています。当面の対策としては次の諸活動を行います。
一、出来る限りの就職、内職のあっせんを行う。
二、資金を集め、生活転換その他の理由で必要とする生活資金の貸出しを行う。
三、法律的な保護が受けられるにもかかわらず、それが出来ない時は会が交渉する。
四、衣類その他の生活用品に困窮している人達には寄付を仰いで分配する。
五、その他の問題について相談しあい、相互に助けあう。
3.平和運動
原爆の惨禍は体験した私達が一番よく知っています。二度とこの様な悲劇がくりかへされない様、私達は平和のために出来る限りの努力をしなければなりません。
多くのまじめに平和を求める人々と手をとりあって地道な平和運動を進めようと考えています。
一、原爆写真展の貸出
二、手記編纂委員会に協力し、手記、記録、訴えなどをひろめる。(以下略)
三、その他
4.その他
一、クラブや文化サークルなどをつくり、互いに話合ったり勉強出来る機会をつくる。
二、図書室をつくる。
三、機関紙を発行する。
原爆被害者の会 (1952年8月10日設立)
原爆被害者の会設立の経緯
峠三吉が中心となって活動していた原爆の詩編纂委員会(1952年9月,詩集 原子雲の下より』を発行)が原稿募集を終えた1952(昭和27)年6月末,同委員会は吉川清の訪問をうけた。これを契機に委員会のメンバー,とくに峠三吉・山代巴・川手健・野村英一の4人は,原爆乙女・原爆孤児といった限定された原爆被害者のみでなく,一般被害者の組織化の必要を感じ,吉川とともに被害者の会の準備をはじめた。
7月10日,ロケのために末広中であった新藤兼人・乙羽信子など映画「原爆の子」のスタッフを呼んで開いた懇談会の席上,会結成の提案を行い,組織づくりの第一歩をふみだした。また,8月6日には平和公園の原爆慰霊碑前で会員募集と資金カンパを訴えた。
結成式は,1952年8月10日,広島市の知恩会館でおこない,会則・事業計画を決定,幹事として吉川清・佐伯晴代・内山正一・上松時枝・峠三吉の5人を選出した。結成時の会員は数十人にすぎなかったが,同年12月14日の第1回総会において組織強化の方針を決定し,大衆団体としての体裁を整えた。結成から半年後の1953(昭和28)年3月頃には,300人の会員を擁するまでlこなっている(川手健「半年の足跡」,『原爆に生ぎて原爆被害者の手記』所収)。
関連資料
| 原爆被害者の会会則 1952.8.10 | |
| 中野懇談会の被爆者招請(1952年11月22日) | |
| 原爆被害者の会 「米国に対する損害賠償請求提訴の件について」 1953.4.5 | |
| 原爆被害者の手記編纂委員会編『原爆に生きて-原爆被害者の手記-』(三一書房、1953年6月25日発行) | |
| 原爆被害者の会の原爆裁判への対応 『芽生え』NO.2(原爆被害者の会事務局、1954年1月18日) |
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