『ヒロシマ研究公開セミナー資料集 1968年3月8日~10日 』
(ヒロシマ研究の会 広島YMCA会員事業部)
収録資料
№. |
タイトルなど |
形態 |
1 |
「原爆被爆者援護の問題点―「ヒロシマ研究の会」討議資料」 |
冊子 |
|
目次=1.戦時の人権と平時の人権の落差が今日まで影響していること、2.原爆被爆者の援護は老人福祉対策の改善の突破口である、3.無差別攻撃と差別待遇、4.第三国人の被爆、5.結び(援護と調査)、あとがき |
|
|
裏表紙=この小冊子は、金井利博氏が本会でていきされた意見を討議資料としてまとめなおしたものです。(ヒロシマYMCA内ヒロシマ研究の会、1967年12月10日) |
|
2 |
ヒロシマ研究セミナー資料Ⅰの1 |
B4-4枚 |
|
「ヒロシマ研究」公開セミナーの意図するもの―ヒロシマ研究の会の紹介をかねながら |
|
3 |
ヒロシマ研究セミナー資料Ⅰの2 |
B4-1枚 |
|
プログラム |
|
|
討議資料 |
|
|
|
|
ヒロシマ研究の会1年の歩み(年表・改変・抄)
年 |
月日 |
事項<注:この欄への月日のあるものは「ヒロシマ研究の会」以外の関連事項> |
1967 |
0615 |
ヒロ研第1回例会 |
|
0707 |
ヒロ研第2回例会 |
|
|
金井利博「原爆と補償」=原爆投下は、非戦闘員まで死滅させた無差別爆撃であったという特殊性をもつ国は戦争責任をとるべきであり、被爆者が補償を要求するのは当然の権利である。 |
|
|
朴寿南「朝鮮人被爆者の実態と問題」=労働者確保の為、広島に強制的に連れてこられた朝鮮人は原爆をうけたことを一アクシデントとしてしか感じない程しいたげられていた。日本人は、被害者であると同時に戦争の加害者だったのだ。 |
|
0720 |
ヒロ研第3回 |
|
|
橋本栄一「被爆者救援活動の問題」=活動は継続してこそ意味がある。上から見る形、つまり慈善的な取り組み方ではなく、自己の問題として深めよう。 |
|
0726 |
|
|
0803 |
ヒロシマ世界を結ぶ集い |
|
0811 |
ヒロ研第4回 |
|
|
庄野「原水爆をめぐる世界史」=被爆者の問題は核につながる今日の問題である。又、既成団体に依存しない市民団体の運動としての平和運動が必要。 |
|
0901 |
ヒロ研第5回 |
|
|
栗原貞子 |
|
0908 |
ヒロ研第回 |
|
|
早川美子 |
|
|
*花美鈴 |
|
0921 |
ヒロ研第7回:南の |
|
1006 |
ヒロ研第回 |
|
1020 |
ヒロ研第9回 |
|
|
1027=第1回対話の会。 |
|
|
1101=厚生省「原子爆弾被害者実態調査 健康調査及び生活調査の概要」発表。 |
|
|
1102=広島市長、市独自で全数調査をする旨言明。 |
|
1109 |
ヒロ研第10回:厚生省調査結果に対する討論。この時完全な実態調査を市に要求するための署名運動をすることを決定。 |
|
|
1124=YMCA会員の沖縄報告会。 |
|
1125 |
署名運動開始。 |
|
1130 |
ヒロ研第11回:署名運動の経過報告と方針。この時1130名の署名が集まっていた。 |
|
1208 |
ヒロ研第12回:市長への要望書の内容検討。 |
|
1219 |
ヒロ研第13回:署名運動の方針、公開セミナーの構想 |
|
|
1220=対話の会 |
|
1221 |
市長との会見:おざなりの返事しか貰えなかった。地道にやっていくことが必要である。 |
|
|
1223=白書の会「実態調査促進運動に全面協力」。原爆小頭症の認定児は全て医療保護されることを決定。 |
|
|
1226=平和の会「被爆者招待クリスマス」 |
1968 |
|
0108=フェニックス号北ベトナム公開記録公開。 |
|
0111 |
ヒロ研第14回:新年における会員夫々の抱負を話し合い新年の展望を概要的にまとめる。 |
|
0114 |
第1回対話のつどい開催準備。 |
|
|
0115=第1回対話のつどい―青年とヒロシマ―。会員山本暁子発題。 |
|
0125 |
ヒロ研第15回 |
|
|
田原伯(原爆資料収集家)=ヒロシマの問題を一生の仕事として取り組んでいられる田原さんの話を通してもっともっと真剣にならねばならぬとおもった。 |
|
|
0127=白書の会。女学院高校生徒が募金を朝鮮の人達に渡した。 |
|
0208 |
ヒロ研第16回 |
|
|
大牟田稔(中国新聞)「全国に散在するヒロシマをめぐるグループの動向」=ヒロシマをもっと知って欲しいという態度ではなく全国に散在するヒロシマに関心を抱いている人々との提携という態度が大切。 |
|
|
0210=広島べ平連の第1回デモ。 |
|
|
0215=原爆被災資料広島研究会結成。大本営建設の問題化。 |
|
0222 |
ヒロ研第17回:セミナーの開催準備。 |
|
|
0301=原水協・原水禁、ビキニデー全国集会(於静岡・焼津)。 |
|
|
0301=市長を囲む市民対話の会。 |
|
0302 |
ヒロ研第18回:セミナーの開催準備。 |
|
|
0307=「青年の船」セイロンで青年対象のアンケート「日本でれんそうすることは」「ヒロシマ」が17%で1位。 |
|
0308 |
ヒロ研第1回セミナー実施。 |
|
0309 |
ヒロ研第1回セミナー |
|
0310 |
ヒロ研第1回セミナー |
|
|
0330=特別措置法が閣議決定国会提出。 |
|
0311 |
厚生省の認定、被爆者追跡調査に数人の会員が参加。 |
|
|
0312=原水協・原水禁「第五福竜丸、保存国民運動」計画にのり出す。 |
|
0314 |
ヒロ研第19回:田原さんの提唱により、毎月6日に6時から八丁堀で「ピカより〇○日」のチラシ配りをすることを決定。「ピカより〇○日」の運動は少しでも市民に核戦争の恐ろしさを知って貰うと同時に広島の一市民として共に23年という年月の重みをかみしめようという趣旨から。 |
|
|
福竜丸の保存の件について、ヒロシマ研究の会としては、はっきりした考えをだすことはできなかった。 |
|
0316 |
第1回「ピカ〇○日」実施。爆心地調査に数人の会員が参加。 |
|
|
0403=原爆被災資料広島研究会第2回会合「専門部会を設置」 |
|
|
0323=白書の会。 |
|
0404 |
ヒロ研第20回:実態調査・資料、外国人被爆者問題、平和運動。の3グループに分れてもっと問題を深めていくことに決定。 |
|
|
0410=朝鮮人被爆者を囲む会、出席者が一人もなく問題の複雑さがわかった。 |
|
0418 |
ヒロ研第21回 |
|
|
平岡敬「広島の問題を深める」方向から助言。 |
|
|
会員が春休みにアルバイトとしてやった実態調査の感想報告 |
|
|
0418、0419=映画、記録なき青春。 |
|
|
0420=原爆映画、幻のフィルム―初公開。 |
|
|
0423=対話の会、広島ベ平連との提携、協力体制。 |
|
0425 |
ヒロ研第22回 |
|
|
森滝市郎「被爆者団体の動向と援護法」=今日の現存する被爆者は、広島・長崎あわせて30万人。原爆そのものもひどかったが、その後の2~3年の貧乏の方が辛かった。その間は、夫々自分自身の身のふり方を考えるのが精一杯で意識的に被爆者が、まとまるのは困難だった。被団協などのグループが生まれたのは訳10年を経過してからであった。昭和29年のビキニのとき「広島の百万名署名」と名の残っている様、市民の意識が高まった。被爆者問題と原水禁運動が2本の基本底流をなすものであり、被爆者の声には常に重きをおかれるべきものである。 |
|
|
0426=厚生省、広島県、市、長崎県、市、が実態調査の実施について審議会。 |
|
|
0430=海田町原爆被害者の会240名の体験談を収録した被爆者懇談集録」を発刊。 |
|
|
0431=基町、5度目の大火。 |
|
|
0505=折り鶴の子の像、除幕10周年記念式典。 |
|
0506 |
第2回ピカ○○運動実施。 |
|
0511 |
ヒロ研会員合宿=各自夫々被爆者訪問を通して精神的継承というか、祖父、祖母の話を孫の様な気持ちできき継承していこうということに決定。 |
|
0512 |
|
|
0511=山口県、原爆被爆者福祉会館「ゆだ苑」完工。 |
|
|
0512=広島県スラム対策に調査費1千万円を計上。 |
|
|
0514=プルトニウム国産化成功。平和利用国で4番目。 |
|
0515 |
ヒロ研第23回:実態調査の促進運動について、ヒロシマ研究の会なりに目安をたてた。 |
|
|
0517=学術会議、「原爆被災資料広島懇談会」を開催(於広大原医研)。「原爆被災資料センター」けんせつについての意見をきく。 |
|
|
0520=映画「広島の証人」上映協力委員会発会式。 |
|
|
0521=被爆者バッジができる。 |
|
0523 |
広島女子大において原爆映画を考える写真展を開催。~25日。 |
|
|
0525=佐世保の放射能汚染問題で米原子力委員会の調査団は、「ソードフィッシュは、佐世保帰港期間中、放射性物質は1滴も放出していない」と言い残して帰国。 |
|
0530 |
ヒロ研第24回例会 |
|
|
森下弘「教科書の中の原爆問題」=学徒動員により生徒学生もいっせいにかり出された。こうした事実があるにも拘らず現在の高校教育において何ら教えられていない。ただ一部の教師の自主性に頼っている状態だ。又原爆映画の視聴率から見て高校生の間に意識が必ずしも低いとはいえない。しかしヒロシマが自分の問題となりえないところに問題がある。もっと何らかの形で日常的にとり入れられる様にすることが必要ではないか。 |
|
|
0605=映画「ヒロシマ 1966年」 |
|
0606 |
ヒロ研第25回例会。第3回ピカの運動実施。 |
|
|
この一年についての率直な反省がなされ今後の方針について話し合いが行われた。会員募集の機会を何度も作ったにも拘らず、尚かつ会員が増えない。ヒロシマの問題が、オキナワ、ベトナムに比べて現代の若者にとって魅力あるものになりにくいということを示すものではないだろうか。私達はいつでも誰でも自由に出入りできる開放的な若さあふれるヒロ研にしてゆくことによって新しい感覚のヒロシマを私達青年の手で創って行かねばならないと思う。 |
|
|
0606=園田厚生大臣:被爆者の全数調査を国勢調査に付帯して実施することは至難だが、市町村が独自で調査できる様補助費を出すと発表。 |
|
|
0608=対話の会。第2回市民対話の会の準備。 |
|
0613 |
ヒロ研第26回例会:2年目の展望をたてる。 |
|
|
0613=社会党、共産党との統一協議断わる。 |
|
|
0615=第2回市民対話の会。岡村昭彦、本多勝一 |
|
|
0616=ヒロ研1周年記念会。 |
ヒロシマ研究の会一年のあゆみ1967.6~1968.6
もくじ
タイトル |
著者 |
原爆体験の継承の意義と方法 |
渡辺正治 |
ヒロ研、この一年 |
小林省三(広島YMCA主事) |
一周年を迎えるヒロシマ研究の会へひとこと(順不同、敬称略) |
庄野直美 |
|
山崎与三郎 |
|
原田東岷 |
|
栗原貞子 |
|
佐藤富士子 |
|
森下弘 |
|
文沢隆一 |
|
今堀誠二 |
|
秋信利彦 |
|
金井利博 |
|
二神三男 |
|
長岡千鶴野 |
|
橋本栄一 |
|
田淵実男 |
|
山口勇子 |
|
深川宗俊 |
人類のえい智を築く礎石に |
渡辺正治 |
平和の建設者として |
相原和光 |
|
|
ヒロシマ研究公開セミナーで学んで |
吉田よし子 |
”ヒロシマ”とは何だろう? |
三井英津子 |
|
山本暁子 |
|
近末康彦 |
|
柴村忠宏 |
課題と展望 |
|
ヒロシマ研究の会会員及び参加者68.6.14現在 |
|
ヒロシマ研究の会にお世話下さった方々 |
|
編集後記 |
|
1967年6月14日 |
|
ヒロシマ研究の会 (広島YMCA会員事業部内) |
ヒロシマはどう伝えられているか-―ジャーナリストと教師が追いかけた45年目の「原爆」(90原爆の会編、日本評論社刊、19920725)目次
はじめに |
総論 |
報道という観点からみたヒロシマ |
|
反響呼んだマス・メディアのキャンペーン…昭和40年代 テーマの設定に苦労する報道現場、「世界のヒバクシャ」、韓国・朝鮮人被爆者、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移転問題(執筆:90原爆の会) |
新聞 |
<社説>継承の大切さとともに政治への提言を(執筆:薮井和夫) |
|
資料/新聞社説 |
|
<連載企画>風化を食い止めるべき連載に現れる風化(執筆:川路恵理子) |
|
資料/新聞連載企画 |
|
<投書欄>読者の声がストレートに反映する大切さ(執筆:中川幹朗) |
|
資料/新聞投書欄 |
雑誌 |
|
|
<雑誌一般>時の流れを映す雑誌の中にみる「原爆」は(執筆:長谷川洋) |
|
<郷土雑誌>生活地としてのヒロシマで受け継ぐものは(執筆:中川幹朗) |
|
資料/雑誌 |
テレビ・ラジオ |
日本の中のヒロシマから世界の中のヒロシマヘ(執筆:羽原好恵) |
|
資料/テレビ・ラジオ |
書籍 |
|
|
<単行本>神話化のすすむヒロシマを目前にして(執筆:中川幹朗) |
|
<手記>「あの日」の再現に欠かせない体験者の証言(執筆:中川幹朗) |
|
資料/書籍・定期刊行物・目録 |
映画・ビデオ・CD |
映像と旋律が呼びかけるヒロシマのこころ(執筆:吉田雄一郎) |
|
資料/映画・ビデオ・CD |
慰霊行事 |
イベント化の進む「8・6」(執筆:吉田雄一郎) |
|
資料/慰霊行事 |
イベント |
|
|
形の違いを超え底流に続くメッセージ、平和(執筆:羽原好恵) |
|
資料/イベント |
被爆建造物 |
被爆建造物解体のかげに潜む意識の変容(執筆:中川幹朗) |
|
資料/被爆建造物 |
物故者・来訪者 |
ヒロシマにかかわった人々から何を受け継ぐか(執筆:中井幹夫) |
|
資料/物故者・来広者・来長者 |
韓国・朝鮮人被爆者 |
対岸の慰霊碑をめぐる被爆者の思いを受けて(執筆:川路恵理子) |
|
資料/韓国・朝鮮人被爆者 |
修学旅行 |
心の「原点」となるヒロシマとの出会いに(執筆:中井幹夫) |
|
資料/修学旅行 |
おわりに |
90原爆の会 |
|
|
資料’82反核(単行本・雑誌・教科書・新聞)-原爆文献を検証する( 「ひろしまをよむ」会編、 溪水社刊、1983年7月15日)
目次
まえがき |
<共同検証82反核> |
1 |
新味に欠ける原爆出版 |
2 |
消極的な大手出版社 |
3 |
新刊しのぐ重版・再刊 |
4 |
手記・体験記に多様性 |
5 |
「読む」から「見る」へ |
6 |
すそのを支える童話 |
7 |
無難さ目立つ教科書 |
8 |
雑誌-欠落した原点 |
9 |
新聞連載-不十分な総括 |
10 |
新聞社説-もの足りぬ分析 |
<82出版物リスト> |
1 |
単行本-反核・ヒロシマ・ナガサキ |
2 |
単行本-防衛・原発・学術・再刊 |
3 |
童話-絵本・平和教育 |
4 |
教科書-国語科82年採択 |
5 |
雑誌-月刊・季刊・旬刊・週刊 |
6 |
新聞-連載・社説 |
おわりに |
|
「ひろしまをよむ」会(石踊一則、内田恵美子、宇吹暁、木村逸司、島津邦弘、田原幻吉、丹藤順生、藤原浩修、松林俊一)協力・ピカ資料研究所 |
ヒロシマの「史点」 占領下の原爆文献考<『中国新聞』19860630~0812、30回連載、担当:冨沢佐一郎記者)。
目次
No. |
見出し(文献名) |
見出し |
1 |
石うすの歌 |
初の被爆テーマ小説 小学国語のテキストに |
2 |
終戦経緯報告書 |
国が被害データ発公表 |
3 |
絶後の記録 |
被爆直後の壮絶なルポ |
4 |
ちちははの鐘 |
自分の理念盛った三吉 |
5 |
回顧五年原爆広島の記録 |
「8・6」の思い込める |
6 |
原子爆弾傷 |
「ガス」の部分伏せ字に |
7 |
原爆体験記 |
根拠薄い初刊本発禁説 |
8 |
月刊中国 |
1年後廃虚の街を特集 |
9 |
原子爆弾と世界恐慌 |
知られていない小冊子 |
10 |
原爆の子 |
素朴な表現で反響呼ぶ |
11 |
科学朝日 |
投下操縦士の証言掲載 |
12 |
原子爆弾(同盟通信版) |
GHQ意識 外電で構成 |
13 |
原子爆弾の法律観 |
国際法の精神転換迫る |
14 |
泉 |
御楯隊しのぶ学徒の声 |
15 |
ヒロシマを忘れるな |
禁止訴え署名呼びかけ |
16 |
原子力の軍事的利用 |
極秘に印刷された2冊 |
17 |
反戦詩歌集 |
人類の愚挙へ怒りの声 |
18 |
ピカドン |
絵で告発した最初の本 |
19 |
生ましめん哉 |
最も早い時期の有名詩 |
20 |
原子爆弾の効果 |
兵器としての威力誇示 |
21 |
ヒロシマ日記 |
米国で出版され逆輸入 |
22 |
あの当時 |
両親慕う孤児の思い |
23 |
天よりの大いなる声 |
1年半も出版ためらう |
24 |
原爆体験記(京都大学版) |
学生が危機感抱き編集 |
25 |
ヒロシマ |
悲惨さを世界に初紹介 |
26 |
夏の花 |
体験記の枠超えた傑作 |
27 |
屍の街 |
初版本は5節分を削除 |
28 |
さんげ |
被爆の非情短歌で告発 |
29 |
原爆詩集 |
峠三吉の唯一の作品集 |
30 |
まとめ |
”神話”の洗い直し急げ |
|
プレスコード神話、強すぎた自己規制、収集保存に努力を |
「メモ(抜粋)この企画は、30年間にわたって原爆文献を収集、調査してきた「 ピカ資料研究所」( 田原幻吉(ピカ資料研究所代表))の資料を中心に構成した」> |
ピカ資料研究所(ピカ研)田原幻吉(所長)
関係年表(出典:原爆被災資料広島研究会『原爆被災資料総目録』第4集)
1967.10.02 |
ピカ資料研究所(ピカ研)が「原爆資料の調査・研究」について提言。全井利博賛同して、「ピカ研を母体」で合意、以後具体化をめぐって七回会談。 |
1968.01.16 |
結成準備会五回開く。出席、今堀誠二、金井、山崎与三郎、ピカ研。 |
1968.02.15 |
『原爆被災資科広島研究会』発足。 |
1968.07.30 |
役員会 人事、企画、運営方針を決定。 |
1968.12.06 |
金井利博事務所開設。所内に原災研「編集部室」設置。(1970.3.28閉所) |
1969.08.06 |
原爆被災資料総目録第一集を発刊。 |
1970.03.04 |
ピカ研 原災研「編集部室」を長崎に移設。 |
1970.08.06 |
総目録第二集を発刊。 |
1970.11.24 |
編集部会文沢隆一、ピカ研が第三集専任。 |
1972.10.25 |
総目録第三集を発刊。 |
1974.06.16 |
金井利博死去。 |
1975.04.30 |
ピカ研・長崎「第一~三集」の作成による累積債務で一時閉鎖。 |
1977.12.17 |
役員会 企画、運営をめぐり討議。分裂決定。 |
1980.08.25 |
編集部会 編集企画会議。 |
1982.07.23 |
ピカ研・長崎書庫冠水害 |
|
続刊=第五集以降企画編集進行占領下の文献解説・占領下の新聞・著作選集録・原爆史詳細年表・写真、映像・長崎の手記・広島の手記・教育児童文学・社会科学評論…(順不同) |
関係年表(宇吹メモ・資料・報道)
年月日 |
事項 |
197107 |
「平岡敬(中国新聞社)に会い,「ヒロシマの記録」取材当時ののことを聞く.参考になったもの-今堀・浅野・県立・田原伯・金井」(宇吹メモ) |
19710818 |
「金井利博(中国)より教示.田原伯のことを聞く」(宇吹メモ) |
19720107 |
田原伯、長崎より帰り来室。(宇吹メモ) |
197302 |
宇吹暁(広島県史編さん室)宛田原幻吉(ピカ資料研究所 長崎市万才町** **ビル)葉書「ピカ資料研究所を一時閉鎖」 |
19770316 |
田原伯来所。文献の売却について。(宇吹メモ) |
19770620 |
田原伯来所。内田と3人で8時半まで話す。(宇吹メモ) |
19770803 |
田原伯と平和文化センタ-で会う。「地域と被爆者」の原稿について抗議を受ける。(宇吹メモ) |
19770710 |
現代と広島の会発足準備の話合い。於朝日会館屋上。木村、石踊、今田夫妻、田原、安藤、藤原、宇吹。(宇吹メモ) |
19780710 |
田原幻吉(ピカ資料研究所代表)を囲む会「現代と広島の会」、発足。 |
19830715 |
『資料’82反核』(「ひろしまをよむ」会編・渓水社発行) |
19840616 |
原爆被災資料総目録第4集、刊行。紹介記事 |
19860630 |
ヒロシマの「史点」 占領下の原爆文献考<『中国新聞』19860630~0812、30回連載、担当:冨沢佐一郎記者)。「メモ(抜粋)この企画は、30年間にわたって原爆文献を収集、調査してきた「 ピカ資料研究所」( 田原幻吉(ピカ資料研究所代表))の資料を中心に構成した」> |
19860710 |
ピカ資料研究所の提言で「碑の会」スタート。 |
ピカから15706日 |
『資料・広島平和記念公園』(ピカ資料研究所編集委員会編、ピカ資料研究所刊、19880926<宇吹宛て「ピカ研・幻吉」書留の日付>) |
19890805 |
『資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑』(企画:ピカ資料研究所、編集:「全国在日朝鮮人教育研究協議会・広島」有志(加藤陽祐・多賀俊介・豊永恵一郎)、「ピカ資料研究所」(田原幻吉・中川幹朗)刊行:「碑の会」(全朝教有志・ピカ研)) |
19891103 |
宇吹宛て祝電(発信:ピカ研内せせらぎ、りょう) |
19920725 |
『ヒロシマはどう伝えられたか―ジャーナリストと教師が追いかけた45年目の「原爆」』(90原爆の会編、日本評論社発行) |
19930414 |
田原幻吉(ピカ資料研究所代表=竹原市)「文化 GHQに日本訳規制されたJ・ハーシー著『ヒロシマ』 原爆報道一切禁止は「神話」」(『中国新聞』19930414) |
原爆被災資料総目録第4集(紹介記事)
記事見出し |
掲載書誌 |
占領下の文献網羅 原爆被災資料総目録 独力で第4集刊行へ 田原さん(竹原)30年かけ収集 |
『中国新聞』19831108 |
検閲くぐり伝える被爆実相 占領下平和念じルポ・学術書・地下出版物 初期の文献続々 歴史的価値大きい労作 資料1000点超す 通説を上回る 広島研究会の手で12年ぶり目録4集。 |
『 朝日新聞』19841119 |
文化 占領期の文献明らかに 検閲研究にも貢献 40年近い歳月かけた労作。 |
『中国新聞』19850201、 宇吹暁・記 |
占領下の原爆資料 |
『毎日新聞』19850204 |
図書資料紹介 原爆被災資料総目録第4集=占領期文献の発刊。 |
『ヒロシマ・ナガサキの証言’85冬 第13号』19850220、 内田恵美子・記 |
内田恵美子<抜粋「最後に田原氏へ提言(お願い)する。次の企画には占領下の原爆文献解題を最優先されることを願う。それによって、先述した誰でも閲覧できる場が提供されることと併せて四集が真に有効に活用されることになり、更に、一点一点について今まで30年余に渡って蓄積されたデータを全て吐露されることにより原爆問題の正史を書き残していただきたいと切望する」> |
|
|
|
|
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。