慰霊と平和(平和式典の原型)

慰霊と平和(平和式典の原型)

1947年(昭和22年)に始まった平和式典は、50年の中断はあったが、その後毎年開催された。初期の式典の名称は、広島市の文書や報道では、さまざまに表現されている。たとえば広島市の『市勢要覧』は、48年のものを「第2回平和祭」と呼んでおり、これによれば翌年のものは第3回に当たるはずであるが、「第4回平和祭」と表現している。こうした混乱は、46年の平和復興祭を平和式典の最初と考えるか、あるいは「第何回」という表現を「被爆何周年」の意味で使用したために起こったものである。91年の式典は、47年を第1回とすれば、44回目に当たるものであった。
式典の式次を、平和祭とそれ以後で比較すると、多くの共通点がある(後出「平和式典の式次第」参照)。しかし、式典の性格は、平和祭とそれ以後では大きく異なっている。平和祭の式典は、主催者により「平和運動」と意義づけられ、平和祭の諸行事の中で、広島市戦災死没者慰霊祭と並ぶ中心行事と位置づけられていた(『原爆市長』)。したがって、平和祭の式次には、慰霊の要素はみられず、平和宣言の中にも慰霊の言葉は含まれていない。ところが、1951年以降は、名称、式次、平和宣言それぞれに慰霊の要素が見られるようになった。特に、51年には、式次に「賛美歌合唱、献花、焼香、玉串礼拝」が加えられた一方で、平和宣言のかわりに市長の挨拶があったにとどまり、式典の雰囲気は慰霊祭に近いものであった。
1952年には、平和記念公園の中に原爆死没者慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)が建立され、式典をこの碑前で開催し、式典の中でこの慰霊碑に名簿を奉納するという形式が始まった。また、この年に復活した平和宣言には、「尊い精霊たちの前に誓う」という式典と原爆死没者との関係を示す言葉が盛り込まれた。これ以後、「慰霊」と「平和」という二つの性格を有する式典が開催されるようになった。