ウィリアム・シャール William schull
| 生20170620没 |
シャール、ウィリアム |
享年95歳 |
1949年ABCCに赴任、遺伝調査を実施。放射線影響研究所副理事長、米テキサス大学教授。 |
資料年表:ウィリアム・シャール<作業中>
止
『炎のなかに 原爆で逝った級友の25回忌によせて』(旧比治山高女第5期生の会、19690806)
内容
| 頁 |
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| 01 |
国信玉三 |
序 |
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| 02 |
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原爆死没者名簿 |
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| 11 |
秦政子 |
第二総軍に動員された学徒 |
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| 15 |
平松イチコ |
原爆の思い出 |
|
| 17 |
荒木克子 |
軍管区司令部に動員されて |
|
| 21 |
恵美敏枝 |
通信室・終戦まで |
|
| 26 |
大畠麗子 |
山縣さんのこと |
|
| 28 |
岡ヨシエ |
交換台と共に |
|
| 32 |
倉田美佐子 |
通信部の解散まで |
|
| 35 |
児玉典子 |
二葉の里のことなど |
|
| 40 |
中川トモヨ |
八月六日 |
|
| 41 |
西田安子 |
蓮の花の思い出 |
|
| 44 |
花田艶子 |
あの日のこと |
|
| 46 |
三浦冨美枝 |
猿猴川を渡って |
|
| 48 |
安宅義則 |
木魚の話 |
|
| 50 |
国信玉三 |
思い出すままに |
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あとがき |
|
止
岡ヨシエ
| おか・よしえ |
1931**** 生20170619没 |
享年86歳 |
原爆投下第一報。『炎のなかに 原爆で逝った級友の25回忌によせて』(旧比治山高女第5期生の会、1969/08/06) |
資料年表:岡ヨシエ<作業中>
| 年月日 |
事項 |
備考 |
| **** |
生 |
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| 1969 |
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| 0806 |
『炎のなかに 原爆で逝った級友の25回忌によせて』(旧比治山高女第5期生の会) |
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交換台と共に 岡ヨシエ 28 |
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| 1971 |
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| 1208 |
『広島原爆戦災誌 第五巻 資料編』(広島市役所) |
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『炎のなかに 原爆で逝った級友の25回忌によせて』 |
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| 1973 |
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| 0615 |
中国新聞連載「よみがえる『あの日』」開始。 |
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(6)中国軍管区司令部の作戦室から福岡の西部軍管区司令部、福山の歩兵41連隊へ原爆投下を通報した岡ヨシエさん |
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| 2017 |
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| 0615 |
『岡ヨシエさんを悼む 防空作戦室の被爆証言者』(梶山時彦) |
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| 0619 |
没 |
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| 0621 |
「原爆による広島壊滅第一報 岡さんの意志次世代へ 親交の波多野さんら伝承」(中国新聞20170621、野田華奈子・記) |
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|
止
加藤剛
| かとう・たけし |
20180618没 |
享年80歳 |
俳優。映画『ヒロシマ一九六六』に出演。『憲法と平和と私 21人の発言』(平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)2005/11/20)『原水協通信 第844号2014.6.6』。 |
資料年表:加藤剛<作業中>
| 年月日 |
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| 1938 |
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| 0204 |
生 |
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| 1966 |
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| *** |
映画『ヒロシマ 一九六六』(監督:白井更生、キャスト:望月優子、現地制作:吉川清)広島県原爆被爆者映画製作の会=プロダクション「新制作集団」作品 |
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|
| 2005 |
|
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| 1120 |
『憲法と平和と私 21人の発言』(平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)) |
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|
加藤剛(俳優)憲法九条は人類の英知―戦争がどういうものか知らせていきたい…22 |
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| 2008 |
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| ?? |
俳優座9条の会呼びかけ人(「潮流」『赤旗』20180711) |
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| 2009 |
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| 1025 |
「60年代の原爆作品 再上映 広島で映画祭」(『中国新聞』20091025 道面雅量・記者) |
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「ヒロシマ」1966」ほか |
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| 2014 |
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| 0606 |
『原水協通信 第844号2014.6.6』(原水爆禁止日本協議会) |
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|
8面…加藤剛さんインタビュー |
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| 2018 |
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| 0618 |
没 |
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| 0710 |
死亡報道:『朝日新聞』、『中国新聞』、『赤旗』 |
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| 0731 |
『赤旗』 |
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|
夏原諒「亡き父、加藤剛を思う」 |
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| 0815 |
『赤旗』 |
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お別れの会:9月30日 東京・青山葬儀所 |
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|
止
山崎寛治
| やまさき・かんじ |
****生20190614没 |
享年91歳 |
県立広島二中(現・観音高校)の代用教員だった17歳の時同校で被爆。旧天神町北組の慰霊碑の世話役。<投稿> |
資料年表:山崎寛治<作業中>
| 年月日 |
事項 |
メモ |
| **** |
誕生 |
|
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|
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| 1975 |
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|
| 0801 |
『あの日に 原爆体験手記』(進藤博) |
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|
八月六日 海田町 山崎寛治 44 |
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| 1985 |
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| 0725 |
『ヒロシマを語る』(ヒロシマを語る会) |
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|
山崎寛治 10 |
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| 1987 |
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| 0610 |
『望見』(埼玉県立狭山清陵高等学校) |
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|
語り部の方々との〈出会い〉の記録(お話の内容/印象メモ/手紙)
沼田玲子さん 82
山崎寛治さん 110 |
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| 1225 |
『ヒロシマを語る』(ヒロシマを語る会) |
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|
山崎寛治 4 |
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| 2010 |
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| 0420 |
『府中町被爆体験記 安芸府中町史第五巻別冊』(広島県安芸郡府中町) |
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| 2013 |
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| 0331 |
『ヒバクシャからの手紙 被爆体験記集 第6巻』(広島平和文化センター 編集、厚生労働省・国立広島原爆死没者追悼平和祈念館刊) |
|
|
山崎 寛治 広島 第6巻 93
山崎 寛治 広島 第6巻 103 |
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|
| 2019 |
|
|
| 0614 |
没 |
|
|
|
|
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|
|
止
『碑に誓う 中学生のヒロシマ修学旅行』(江口保、東研出版、19830505)
内容
| 頁 |
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|
|
|
序文 |
|
|
| 3 |
教師の人間的情熱こそ(栗原貞子) |
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|
| 6 |
教育とは何かの示唆(高橋昭博) |
|
|
| 15 |
被爆者として教師として |
|
|
|
被爆死した友
夢遊病者のように
療養生活
子どもたちとの絆
被爆者運動
精いっぱいの抵抗 |
|
|
| 31 |
旅立ちの前に |
|
|
|
広島への修学旅行を
系統的な平和教育を
最初の当惑
歓迎の手紙
生徒の不満
生徒の論争
事前学習
栗原貞子さんへの手紙
生徒の決意
広島の人たちとの出会い
実行委員会の準備 |
|
|
| 73 |
ヒロシマの心を学ぶ |
|
|
|
広島での日程
記念館・資料館の見学
翠町中学校との交流
原爆慰霊碑の前で
それぞれの碑に分かれて
原爆病院と原爆養護ホームの訪問
畠中百合子さん宅へ
アメリカ軍岩国基地
感激的な出会い
明日からではなく |
|
|
| 161 |
ヒロシマの心を広げる |
|
|
|
私も教師になって広島へ
下級生も広島へ
八月の広島を
修学旅行OB会
高校生活の中で広島を
父母の広島修学旅行
ヒロシマ・原爆を考える集い
他校への広がり
人間の痛みがわかる心を |
|
|
| 197 |
事前学習資料ほか・参考文献 |
|
|
| 201 |
あとがき |
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|
|
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|
|
|
|
|
|
止
江口保
| えぐち・たもつ |
19280717生19980616没 |
享年69歳 |
「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」を主宰した長崎の被爆者。 |
資料年表:江口保<作業中>
| 年月日 |
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| 1928 |
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| 0717 |
誕生 |
|
|
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| 1977 |
|
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| 0319 |
『ひろしま’76 東京都葛飾区立上平井中学校修学旅行記録集』 |
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| 1979 |
|
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| 0520 |
『平和教育運動 No.5』(日本平和教育研究協議会編、広島平和教育研究所出版部) |
|
|
第5回全国平和教育シンポジューム報告
ヒロシマ修学旅行にとりくんで 139 江口保 |
|
| 1980 |
|
|
| 1110 |
『季刊・長崎の証言 9号』(長崎の証言の会) |
|
|
ヒロシマ修学旅行-子どもたちの変革- 江口保…44 |
|
| 1981 |
|
|
| 0210 |
『季刊・長崎の証言 10号』(長崎の証言の会) |
|
|
ヒロシマ修学旅行-子どもの変革(2) 江口保 74 |
|
| 0515 |
『季刊・長崎の証言 11号』(長崎の証言の会) |
|
|
ヒロシマ修学旅行-子どもの変革(3) 江口保107 |
|
| 0515 |
『季刊・長崎の証言 12号』(長崎の証言の会) |
|
|
ヒロシマ修学旅行-子どもの変革(最終回) 江口保96 |
|
|
|
|
| 1983 |
|
|
| 0331 |
『平和への道 広島を考える修学旅行文集』(東京都立葛西南高等学校第九回生修学旅行委員会) |
|
|
被爆者を招いての講演会と感想 85
講師 江口保先生 藤原先生 85 |
|
| 0505 |
『碑に誓う 中学生のヒロシマ修学旅行』(東研出版) |
|
| 0515 |
『ヒロシマ・ナガサキの証言’83春 第6号』(秋月辰一郎・庄野直美編、広島・長崎の証言の会) |
|
|
忠生中事件と被爆者 江口保 124 |
|
| 0623 |
『一回 : 朝倉清隆遺稿追悼文集』(朝倉清隆遺稿追悼文集編集委員会) |
|
|
6、閃光を浴びて 259
石井逸子/横山彦治/江口保/西川満子/朝倉かつ子/箕浦章 |
|
| 0730 |
『沈めてよいか第五福竜丸』(武藤宏一氏追悼文集集委員会) |
|
|
「’76ひろしま」と武藤さん 江口保 191 |
|
| 1030 |
『ヒロシマ・ナガサキの証言’83秋 第8号』(秋月辰一郎・庄野直美編、広島・長崎の証言の会) |
|
|
書評
「碑に誓う」(江口保)浜崎均 129 |
|
| 1984 |
|
|
| 1015 |
『ヒロシマ・ナガサキの証言’84秋 第12号』(秋月辰一郎・庄野直美編、広島・長崎の証言の会) |
|
|
語りつづけるヒロシマ
-出合いとめざめの旅 江口保 28 |
|
|
|
|
| 1986 |
|
|
| 1110 |
『ヒロシマ・ナガサキの証言’86秋 第20号』(鎌田定夫・庄野直美編、広島・長崎の証言の会) |
|
|
通信 /江口保/8 |
|
| 1208 |
『ヒロシマに歳はないんよ』(佐伯敏子著、ヒロシマ・ナガサキを考える会) |
|
|
はじめに 江口保 3 |
|
| 1987 |
|
|
| 0301 |
『ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会』通信第1号(江口保) |
|
| 0720 |
『季刊「ヒロシマ・ナガサキの証言」終刊号 ヒロシマナガサキの群像』(広島・長崎の証言の会) |
|
|
重い心をひっさけて 江口保 20 |
|
| 0930 |
『証言-ヒロシマ・ナガサキの声1987 創刊号』(長崎の証言の会) |
|
|
八月のヒロシマ-修学旅行生とともに 江口保 145 |
|
| 1988 |
|
|
| 0330 |
『原子雲 第一集』(足立区原爆被害者の会(足友会)) |
|
|
はじめに……足立区原爆被害者の会会長 江口保 4
『お化け』……江口保 48 |
|
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|
|
『ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会』通信第1号~20号(19910915) |
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|
|
| 1998 |
|
|
| 0616 |
没。享年69歳。 |
|
|
|
|
| 2012 |
|
|
| 0610 |
『複数の「ヒロシマ」 記憶の戦後史とメディアの力学』(福間良明、山口誠、吉村和真編著、青弓社、) |
|
|
第7章 廣島、ヒロシマ、広島、ひろしま―広島修学旅行にみる戦争体験の変容 山口誠 256
1 広島修学旅行と東京が出会うまで 258
2 「ヒロシマ」修学旅行の誕生―「上平井方式」とその「改良」 264
3 三つのガイドブック、四つの広島―「非核平和」と「ヒロシマ」の連動 276
4 「ヒロシマ」の風化―江口保の「ヒロシマ」批判 286
5 「ヒロシマ」のジレンマと向き合うために―戦争体験の風化と「追体験」の可能性 297 |
|
|
|
|
|
|
|
止
資料年表:金井利博<作業中>
| 年月日 |
|
|
| 1914 |
|
|
| 0101 |
生 |
|
|
|
|
| 1952 |
|
|
| 1101 |
『広島教育 No.35 11月号』(広島県教職員組合事業部) |
|
|
「象徴」への礼拝─人間という逆説について─金井利博 59 |
|
| 1953 |
|
|
| 0201 |
『広島文学 第3巻第2号 昭和28年2月号』(広島文学協会) |
|
|
三角洲 芥川壽夫・兒玉浩三・金井利博 47 |
|
|
|
|
| 1956 |
|
|
| 1101 |
「山代巴著「荷車の歌」をめぐつて 時間の貧しさということ」(『芸備地方史研究会』)?? |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 1964 |
|
|
| 0805 |
金井中国新聞論説委員、「原水爆被害白書を作成し国連を通じ世界に公表を」と提案。(『中国新聞』) |
C |
| 0825 |
『原水爆禁止広島・長崎大会報告決定集 No.2』(広島・長崎大会全国準備委員会) |
|
|
原水爆被害白書を国連へ提出する件 金井利博 52 |
|
| 1965 |
|
|
| 0402 |
<原爆関係文献収集事業> |
C |
| 0901 |
『中央公論 9月号 第935号』 |
|
|
広島・二十年の傷痕 金井利博 249 |
|
|
|
|
| 1967 |
|
|
| 0806 |
<原水爆被災白書> |
C |
| 1968 |
|
|
| 0120 |
<広島原爆被災資料研究会結成> |
C |
| 0308 |
<ヒロシマ研究の会> |
C |
| 1969 |
|
|
| 0801 |
『家庭と教育 第9巻第8号通巻第96号』 |
|
|
◇特別記事◇核兵器の使用を拒否する拠点―広島の犠牲者の訴えと報道活動が考えだせられてくれるもの― 金井利博 14 |
|
| 1970 |
|
|
| 0615 |
『核権力 ヒロシマの告発』(三省堂) |
|
| 0801 |
『キリスト 1970年8月号 第22巻第8号』(教文館) |
|
|
被曝者とともに生きて二五年〈てい談〉
重藤文夫 金井利博 渡辺正治 14 |
|
| 0901 |
『未来 No.48』 |
|
|
原爆被害と社会被害 金井利博 5 |
|
| 0809 |
『キリスト 1970年9月号 第22巻第9号』(教文館) |
|
|
被曝者とともに生きて二五年(2)〈てい談〉
重藤文夫 金井利博 渡辺正治 14 |
|
| 1971 |
|
|
| 0607 |
バーッチェト記者、金井利博中国新聞論説主幹と対談。 |
C |
| 1972 |
|
|
| 0201 |
<原水爆被災資料センター設立準備会> |
C |
|
|
|
| 1974 |
|
|
| 0616 |
没。享年60歳。 |
|
| 1975 |
|
|
| 0710 |
『火幻 1975年夏号〈原爆30周年特集号〉第18巻第68号』(火幻短歌会) |
|
|
金井利博君のこと…近藤芳美 1 |
|
|
|
|
| 1987 |
|
|
| 211 |
『安部一成論文選集 5巻 原水爆禁止運動』(安部一成著、安部一成論文選集刊行委員会編、東洋図書出版) |
|
|
核廃絶の道を探る-山田浩氏、金井利博氏との座談会(昭和四七年)…53 |
|
|
|
|
| 1997 |
|
|
| 0125 |
『山代巴と民話を生む女性たち』(神田三亀男編著、広島地域文化研究所) |
|
|
4 私事往来(山代巴さんとの交流ほか) 神田三亀男 119
1.県北の書店にあった「蕗のとう」 120
2.金井利博さんとの出あい 121
3.人を育てる記者 金井利博さん 123
4.”荷車の歌”を評論した金井さん 128
5.山代さんと金井時子さん 129
6.金井さんと近藤芳美・宮本常一先生 133
「中国歌壇」の選者 近藤芳美 133
「中国歌壇選集」の編集 135
宮本常一先生と金井さん 137 |
|
| 0801 |
『ヒロシマと廣高 被爆五十二年・回顧と追悼』(廣島高等学校同窓有志の会) |
|
|
金井利博氏とヒロシマ・核問題-『核権力』を読む 山田浩(昭20文乙)293
金井さんへのレクイエムと広大平和科研のこと 熊田重克(昭24文甲)303 |
|
|
|
|
| 2009 |
|
|
| 0331 |
『被爆地広島の復興過程における新聞人と報道に関する調査研究』(小池聖一、広島大学文書館) |
|
|
3.金井利博の思想と行動 冨沢佐一 29 |
|
| 0401 |
『梶山季之の文学空間 ソウル、広島、ハワイ、そして人びと』(天瀬裕康著、溪水社 [渓水社]) |
|
| 1007 |
『生きて』前広島市長 平岡敬さん<6> |
C |
|
「組合役員(書記長)だった僕の人事異動をめぐるごたごたを、学芸部長の金井利博さんが聞きつけひきとってくれた」 |
|
| 1008 |
『生きて』前広島市長 平岡敬さん<7> |
C |
|
|
|
| 2010 |
|
|
| 0308 |
<故金井利博の資料8000点 広島大に遺族が寄贈> |
C |
|
|
|
| 1220 |
『広島県現代文学事典』(勉誠出版) |
|
|
「金井利博」(小宮山道夫・記) |
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|
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| 2015 |
|
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| 0225 |
『広島大学文書館蔵大牟田稔関係文書目録 個別編』(広島大学文書館) |
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|
凡例…ⅰ
1.書類
(18)金井利博…1
(19)川手健…9
(20)「川手健を語る会」…17
10.写真…19
11.新聞抜粋記事…85 |
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| 2016 |
|
|
| 02 |
広島大学文書館『広島大学文書館蔵 金井利博関係文書目録』(広島大学文書館) |
|
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|
|
|
止
資料年表:マルセル・ジュノー<作業中>
| 年月日 |
事項 |
備考 |
| 1904 |
|
|
| 0514 |
誕生 |
|
|
|
|
| 1945 |
|
|
| 0908 |
GHQの医薬品ともに広島入り。 |
|
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|
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|
|
|
|
|
|
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|
|
|
|
|
| 1961 |
|
|
| 0616 |
没。享年57歳。 |
|
|
|
|
| 1979 |
|
|
| 0808 |
マルセル・ジュノー博士像 |
|
|
|
|
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| 1990 |
|
|
| 0617 |
第1回ジュノー記念祭 |
|
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|
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|
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| 2004 |
|
|
| 0330 |
『広島県医師会史 第II編』(広島県医師会、20040330) |
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第6章第6節マルセル・ジュノー博士顕彰事業 |
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|
止
ジュノーは「ヒロシマの恩人」か?
| 19960618 19:00 |
映画「第三の兵士」上映会。於東区民文化センター。ジュノーの足跡について講演。参加者は2-30人で、若いものは少なかったが、思ったより盛会。話もどうにか格好が付いた。-7時35分。謝礼として1万円貰う。<宇吹メモ> |
1.私とジュノー
私が、ジュノー博士の活動の見直しをマスコミで知ったのは、1978年(昭和53年)のこと。この年から大佐古一郎氏や丸山幹正氏によるジュノー博士の足跡をたどる作業が始まり、翌79年には、平和公園にジュノー博士の記念碑が建立された。
それ以後、ジュノー博士のことを目にすることは無くなっていたが、それから12年後の1990年に再び登場するようになり、それは現在まで続いている。その一つは、ジュノー記念祭である。これがこの年に始まり、以後毎年行われるようになった。一昨日の16日日曜日には、第7回の記念祭が開かれている。
また、この1990年の暮れに、府中市の市民団体「ジュノーの会」がチェルノブイリ原発事故での被災者の救援活動を計画、翌1991年夏に事故で被曝した子供たちの招待を実現させた。以後、医師の現地への派遣や医薬品・医療機器を届けるといった事業をおこなっている。今年7月には、原爆被害者の相談にあたってきた広島の二人の人をウクライナのキエフに送ることになっている。
1978・79年つまりジュノー博士に足跡の掘り起こしが始まり記念碑が建立された当時は、GHQの資料が徐々に公開されていた時期。私は、その資料の調査を行っていたが、その業務報告の中に、赤十字国際委員会のジュノーに、米軍の医薬品を広島へ届けさせたという、記述があった。このことから、ジュノーの仕事を、「米軍の手伝い」という軽いイメージで受け止めていた。
ところが、1990年からの動きには、私の親しい人たちが次々に関係するようになっていった。「ジュノーの業績とは、いったいナンジャ?」ということで、自分なりに考えてみたので、それについて話してみたい。
2.ジュノー博士来日の目的
広島に続き原爆が長崎に落とされた8月9日にジュノーは、満州国の首府新京(現在の長春=吉林省の省都)を出発、夜、日本(羽田飛行場)に到着(「ドクター・ジュノーの戦い」)。以後、4か月間、日本に滞在した。
ジュノー博士は、赤十字国際委員会の日本派遣員の代表として来日したもので、その大きな目的は、連合軍捕虜への援護活動であった。
450810 国際赤十字委員会マルセル・ジュノー、アンクスト・ビルフィンガー・ペスタロッチとともに東京から軽井沢に向かう。17日、東京に戻る。
24日から活動を開始、この日、それぞれが東京を出発し、日本各地の捕虜収容所に向かう(「ドクター・ジュノーの戦い」)。
ジュノーは、東京で活動、25日に大森収容所で米飛行士の捕虜と接触(「ドクター・ジュノーの戦い」)。27日に、相模湾停泊中の米軍艦サン・ディエゴ艦上で米軍と接触、米軍とともに大森収容所を解放(「ドクター・ジュノーの戦い」)。
こうした捕虜の救出活動が、各地で行われ、ほぼ1か月後の9月20日には、日本にいたアメリカ人捕虜すべてが本国に送還された。
このほかにアメリカ兵以外の在日外国人の援護活動も行う。103の収容所があったが、これらに40万ドル相当の物資をパラシュートで届けた。
ジュノー博士の4か月間の日本における活動は、連合軍から高く評価され、日本を去るにあたり、マッカーサー自身がお礼を述べている。
3.ジュノー博士の広島救援の意義
ジュノー博士は、こうした本来の目的遂行の中で、9月8日から13日の6日間、広島の救援活動を行った。その内容は、これから見る映画「第三の兵士」で紹介されている通りであるが、ジュノー博士の広島救援の仕事は、ジュノー博士の来日の目的からすれば、与えられた任務を超えた仕事であった。
8月24日に赤十字国際委員会の日本派遣員が、各地の捕虜収容所に向け東京を出発する。その中の一人ビルフィンガーの目的地はオランダ人捕虜が収容されていた広島県の向島造船所であった。ジュノーは、彼に広島の状況を知らせるように頼んでいたが、彼は30日に、広島に到着し、仮設の病院を二つ視察し、「回復したかに見える多数の犠牲者は白血球の減少及び他の内部損傷により突如致命的な再発を来たし事実上相当数が死亡す」と急性放射能障害の実情と広島における医薬品の欠乏状況を伝え、救援物資を要請する電報をジュノー宛に打った(「ドクター・ジュノーの戦い」)。
ビルフィンガーのこの行動は、これまで見落とされがちであるが、広島の救援の歴史では重要と思われる。それは、彼の広島視察が、外国人としては最も早い例の一つであるということである。8月下旬から日本のマスコミは70年生物不毛説として大々的に広島の状況を伝えるようになり、これが日本の原爆被害の本格的な研究の契機となったが、それはあくまでも調査研究にとどまっていた。これに対し、ビルフィンガーの電報は、広島救援を要請するというものであり、こうした行動は日本側には存在しなかった。
なお、ソ連の大使館員が、被爆直後に広島を視察したことがこれまで何回が伝えられているが、それが救援の要請に結びついた形跡は見あたらない。
ジュノーは、ビルフィンガーからの広島報告の電報を9月2日受け取ると、早速横浜の連合軍の司令部を訪れ、前日日本の外務省から入手した広島の写真とビルフィンガーの報告を示し、広島への救助隊の編制を要請した(「ドクター・ジュノーの戦い」)。
連合軍最高司令官総司令部は、ジュノーのこの要請を受けた形で、米軍用に日本に持ち込んでいた医療物資15トンを広島に届けることを決めた。
この決定の中心人物は、のちにGHQの公衆衛生局長となるサムス大佐であるが、彼によれば、15トンの医療物資を提供した背景には、ジュノーの要請に応えると同時にもう一つの意図があった。それは、アメリカの原爆開発の組織であるマンハッタン・プロジェクトの原爆被害調査団を敵意に満ちていると思われる原爆被災地で無事に実施することである。
GHQが、9月6日に日本政府に対して出した命令が残っているが、そこでは、
1.原子爆弾調査を行う約15名の科学者一行の保護・援助
2.国際赤十字社のビルフィンガーに送付する約12トンの医療品の配布を国際赤十字の指示のもとに行う
という二つのことが指示されている(「DDT革命」)。
ジュノー博士には、日本政府に対する命令が出された日の翌日7日に、医療品の提供がGHQから伝えられた。このことからすると、GHQとしては、ジュノー博士が原爆被害調査団に同行することを予定していなかったものと考えられ、ジュノー博士の立場からは、ビルフィンガーに任せることも出来たと思われるが、博士自らが広島にやってきて、医療物資の現地への伝達に立ち会ったのであった。
(1996.6.18)
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