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ヤスの自分史6:闇値と宇品署への出頭

ヤスの自分史6:闇値と宇品署への出頭

次々統制になっていった。何もかも、物は不足しだした。商売の下駄も花緒も公定価格がきめられたけれど、其の値段では品物は無かった。いきおい闇値が生れる。経済警察というのがあって闇値に眼を光らす。

花緒を闇値で買って警察に呼び出された。宇品署に出頭すべしと。下駄屋は全部買っていたのだ。駅前に**、東本町に**、本町に**と家、みんなぞろぞろ恐る恐る出頭した。一人ずつ取り調べを受ける。私は一番後だった。巡査が私の顔をじろじろ見ながら、名前をきいた。宇吹です、答えると里は何処かとたずねる。矢野の**の娘ですと答える。矢野まで迷惑がかかるのかと心配していると「**さんの妹かね。**さん元気かね」。地獄で仏とはこの事かも知れぬ。**さんが好きだった巡査だった。呉地方には知った人はいないと思ったとの事。代書(始末書を書いてもらう為)で待っていると、良い具合に書いてやってくれといいにきてくれた。帰途早速矢野へ立ち寄り事情を話すと、挨拶に行って応召中両親と子供をかかえての商売の辛さをのべて罪にならぬ様頼んで置いた方がよかろうと、兄につきそわれて自宅を訪ねた。すると**(花緒を買った問屋)は今気が小さくなっているから、今たくさん品を買っておいてやれば良い、始末書だけで別に罪にはならないと教えられ、まずは一安心と胸を撫ぜた次第。

出征の人は誰でも見送りに出た。召集は珍しくなくなった。お宅もですか、――――、――――、みんなである。「**さん」応召がかかっても何処にいるか解らない為、結局兵役をのがれた。案外聖戦でないのを知っていて協力しなかったのかも知れぬ。酒さえ呑めば良い人だった。

金物は何でも供出する時代だった。仏壇の飾り、真鍮、下駄の裏金等も供出した。学校の校庭へ集められて放置されてあった様に思うが、ほんとうにそれが再生されたものかどうか。みんな国の為という名のもとに夢遊病者の様だった。ぜいたくは禁じられ、遊びも禁じられ、国民は軍国指導者の思うままに動くより仕方がなかった時代である。衣料も切符制になり何も買えなくなった。

金はあっても点数がない為何も買えない。古着を買う時代になった。何もない中からやりくりをして。妹きみちゃんは**へ嫁いだ。何を買ってもらってものか。私の時代は品はあるが金が無く、きみちゃんは金はあっても品がない破目だったのである。私も**の奥様の古着を買った。**のトシ子さんがゆずってもらっているのを見てから買ったのだ。山まゆのコート、めいせんの単衣、きんしやの浴衣。セルの着物、確か四枚である。仕入れ、学校、出歩く事は全部私だから忙しい。

ヤスの自分史5:夫・静男の出征

ヤスの自分史5:夫・静男の出征

結婚一年後美智子が生れた。二つ違いで哲夫が生れた。腹の空いた時はない。哲夫が生れた頃戦争が始まっていたけれども戦場が遠いので物が不足しはじめた程度で実感はない。其の中、兵隊は丙種だった静男さんも第二国民兵に編入された。始めは長男は召集はかからないそうだ等言っていたけれど戦局が急になって、そんな事は言っておられなくなったのだろう。召集令状がきた。国の為の御奉公が出来る事を名誉として育って教育を受けた者ばかりの世代である。涙する事は許されなかった。姉婿**の義兄もうちより早く召集されて一度戦場へ行った様に思う。其の時姉が取乱して里の矢野へ泣きついて行った時、父や母に叱られたそうである。お前だけでは無い、非常時でみんなだと。然し実の処私も心細かった。二人の子供を連れて両親とやっていけるかどうか。哲夫が二つだった。

第二国民兵の召集第二回目頃は、見送りも華やかだったものである。吉浦駅前で壮行会がある。隣組から回覧板があって見送りの人垣である。挨拶が苦労の種である。人前で挨拶等不得手の人だから、原稿を私が書いてそれを暗記するのが大変。自分が考えた言葉でないのだから途中でつまると後が続かない。聞いているのもはらはらさせられる。

二部隊、今の市民球場あたりだったと思う。部隊の動きは秘密である。何時、どこで行くか解らない。せめて広島に居る間だけでもと姑は広島通いに明け暮れる。「餅」「菓子」食べさせられる時を大切にとの親心である。二人の子供を連れて留守役も大変である。受付へ面会を申し入れると、呼び出してくれるのだそうだ。面会人が黒山にたまって肉親の出てくるのを待つ間の長い事。子供を連れて私も一度だけ面会に行った。

どれだけ広島にいたか、一度だけ会った。其の中、北支へ出征した。今度は慰問袋を送るのに忙しかった。手紙はすべて検関済の印が押されて届いた。手紙を書く事の嫌いな人で代筆である。辛い事等書けない手紙だから代筆でもよい。くればまだ命があると安心する程度。代筆をしてくれる人は広の方から出征された人だったのだけれど名を忘れた。子供と私の写真がほしいと葉書がきたので三人で写真を撮った。姑のは送っていた。その写真は大切に今アルバムに貼ってある。

 

ヤスの自分史4:結婚と出産

ヤスの自分史4:結婚と出産

二十四才の若後家、宇吹静男の後妻として嫁入とはどんな事かも知らぬ十八歳の私はみんなにすすめられ、女はどうしても他家へ嫁入するものだから先方がほしがっておられる、いそいでいるといって**家で、やっと仕事を覚えて少しは役に立つ様になった私にやめられたのでは困ると文句をつけられるのを無理矢理連れ帰られた次第。

**家では一流の看護婦に仕立てようと患者さんにも話しておられたそうで、鳶にアブラゲをさらわれた感じ。私が帰宅結婚後、軍医先生も応召があり野戦病院より絵葉書の便りをもらった事あり。今までに手がけた傷病兵○○名、先生は厳しい人だったけれども私は恩ある先生だった。

大体一年位通って試験を受ける段取だったのに、免状等どうでも良い、ゆきちゃんの死亡後の後妻に早くきて欲しいとの宇吹からの要望があって、家の方でも裸で其のままなら其の方が良かろうと話しを決めて、みんなで私をすすめあげ、ゆきちゃんが遺言して私を嫁にして呉れと頼んで死んだとか何とか死人に口なしで結婚等夢にも考えた事もないのに、無理矢理嫁がされたも同様、「物習いは家でさせます」、「着物はいくらでも着せます」等々良い条件ばかり並べ立て、結婚すれば直に子供が生まれる。

結婚、昔は嫁を貰うことを手間をもらうといって人手間に値していた。今の世代の様にレジャー時代ではない。下流階級の商売人、日曜日が休日に定まったのは大分過ぎての事で、おじいさんは朝暗い中から起きて働く人なので嫁の立場として、のんきに朝寝はしておれない。夜は夜なべ、洗濯物は夜するものと定っている。昼は店番に手をとられるので裏の仕事に手間はとれない。洗濯機が普及しはじめた頃でも決してそては買う事が許されない。 汚れていない処まで洗う機械は布地がいたむとの、おじいさんの言葉、何でも親は絶対で里へゆく事も、姑の許しがなければ行く事は出来ない。

若い母親は習い物どころの話しではない。美智子が二つ位の頃に哲夫が生まれる。ますます多忙になる。夜中通し乳幼児に乳をふふませ、安眠は出来ないままに夜は明ける。店は下と両方だから乳をのませては店に通う。

何の事は無い、勉強をして立派な看護婦になる夢は斯くもあえなく崩れ去ったのである。

 

ヤスの自分史3:看護婦見習時代

ヤスの自分史3:看護婦見習時代

この時代に学んだ事は大切な事ばかり。住み込んだ**家は軍医中尉か大尉で、とても厳しい家庭であった。其の為、看護婦が居つかず困っておられた矢先を、新聞広告を見て姉(兄嫁)と出掛けたのである。

妹を紹介するにあたりての仕様が**家には気に入らず、姉は第一印象は悪かった様である。それでも私は直に気に入られてみんなから可愛がられて良くしてもらっていた。セーラー服では重みがないというので、白衣を作ってもらった。これは月給後払いで三着注文をした。住み込んで五円位給料をもらったように覚える。朝食の支度―掃除、体裁の良い女中仕事である。

私は陰日向なくよく働いた。裏の仕事が済んでから薬局の方へ出向き、先輩の看護婦さんの見習をする。カルテの薬の調合を見て混合する仕事、これを薬包紙を拡げて同じ量ずつに分けて包む。今は皆カプセル入りで済んでいるが私の時代この仕事も多忙だった。薬を間違えたら大変である。慎重に計り慎重に混ぜたものである。注射器の消毒も大変な仕事である。注射液のアンプルを湯で温め、ヤスリで口を切り、注射器に移し、消毒した針をつけて準備を整える。静脈注射は必ず血液が注射器に残る。これを水洗いして煮沸消毒をする。

医薬代を点数でかいてあるので、点数計算をして薬代をもらう。これも間違いなくしなければならない。今迄に金の計算がピタッと合った例がないのだそうだ。私がやり出したら間違いがなくなった。前からいる人よりちゃんとするものだから、食事の支度をしていても先生が「**」と医局の方へ呼び出される。すると前からの人がねたむ。一日でも前に住み込んだ者の方が先輩だと威張る。気にしないで受け流す。

保険の金の請求書も書いて出す。仕事はいくらでもある。夜九時頃からが自分の時間である。読書をする。注射液はローマ字で名前が書いてあるが私には読めない。森島先生に手紙を書いた。独学方法を教えてくれと。

日ならずして先生よりローマ字の辞書が届いた。立派な日赤看護婦を目ざす私にとって読書は楽しかった。何も辛い事はなかった。働きさえすれば此処から学校へも行かせてもらえる。

**家令嬢は市女の学生である。気ままなお嬢様がうらやましかった。長男は**医大生、次男は*といってニ中、今の舟入高校生。奥様は日赤の婦長さんだったとか。二十年の違う**家の後妻にこられた人である。中流階級の家庭だったと思う。貧農の子女にとってこの家の生活は見新しい事ばかりである。

今はレジャー時代でみんなよく出掛けて遊ぶけれども、あの時代、家族ぐるみで食事に出歩いたり海水浴に出掛けたり、松茸狩りに出掛けたりはしなかった。

映画は洋画を見る。中島本町、平和公園のあたりに昭和シネマといって洋画専門の映画があった。女の子一人では外出はゆるされなかった。きびしい家庭だから、必ず私がお供をさせられた。

お盆と正月には必ず着物を一枚ずつ作ってもらった。縫う事も習った。奥様から楽しみながら習った。自分の着物は自分で縫うのである。着物の柄はすべて先生の見立てであったように思う。

**家勤務中に戒厳令が発令された時があり、広島にも暴徒がくるとの噂が流れた事があり、往診半ばニュースを聞きに帰宅しておられた事を記憶しているが、二二六事件だったのかな。時代は騒然となりつつある様に思えた。

二年位して看護婦学校へ通い始めた。今の八丁堀の裏通りあたりだったと思うが新天地の其の又裏に三川町という町があり其処に学校があった。働きながらの勉強である。昼食を早目に食べて出掛ける。横川から材木屋の並ぶ町並み、何という通りだったか、大田川と寺町との間の通り川筋を歩いて通学したものである。電車賃の節約の為である。相生橋まできたらほっとしたものである。

あの頃は川土手に見渡す限り桜並木があって相生橋から上流を望むと花か霞かまがう美しさがみられたものである。袴をはいての通学である。下駄は患者さんからよく頂いて事欠かなかった様だ。

大体一年位通って試験を受ける段取だったのに、免状等どうでも良い、ゆきちゃんの死亡後の後妻に早くきて欲しいとの宇吹からの要望があって、家の方でも裸で其のままなら其の方が良かろうと話しを決めて、みんなで私をすすめあげ、ゆきちゃんが遺言して私を嫁にして呉れと頼んで死んだとか何とか死人に口なしで結婚等夢にも考えた事もないのに、無理矢理嫁がされたも同様、「物習いは家でさせます」、「着物はいくらでも着せます」等々良い条件ばかり並べ立て、結婚すれば直に子供が生まれる。若い母親は習い物どころの話しではない。夜中通し乳幼児に乳をふふませ、安眠は出来ないままに夜は明ける。

美智子が二つ位の頃に哲夫が生まれる。ますます多忙になる。店は下と両方だから乳をのませては店に通う。

何の事は無い、勉強をして立派な看護婦になる夢は斯くもあえなく崩れ去ったのである。昔は親の云う事は絶対的で今なら私は自分の思う通り進路を変えなかったと思うが何せどうにもならない時代だったのだ。

斯く炎へし杳き日もあり山の端を今し離りゆく赤き満月

崩れ去った青春の追憶、大きい満月の炎ゆるにも似たものであった。

かえるなき夢果てもなし一瞬を翳りて照り増す月光に遭う

月蝕のあとの恍々たる月光を仰ぎみての感慨は斯くの如し。

 

ヤスの自分史2

ヤスの自分史2

私が五年生、妹きみちゃんが二年生の時、合同で学芸会をした写真が一枚残っている。「乞食と王子」。妹が「乞食」で私は陸軍大臣か何か大臣になって演じた。父は乞食の配役に文句を言っていた。妹は上手に演じた。ハワイ帰りの**さんが英語で歌をうたった。美しいベールをかぶりながら。今の学校の様に主役でもめる事はなく先生が適役を決められるので芸達者が主役で面白かった。

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**先生といって姉(千代)に求婚した先生がとてもほがらかで面白かった。姉はおっちょこちょいだと嫌った様だった。

六年生は昔予科組といって、受験する者のみを一組にして特別授業を受ける組が出来ていた。夜も勉強が学校であった。家庭事情の為、とても女学校等へ行けない状況だったのだけれども、勉強は好きで予科組へ入りたかった。

ゆきちゃんに森島先生に頼んでもらって予科組へ入れてもらうことが出来た。当時、山中、女子商は無試験で誰でも入れた。県女、市女等はクラスで上位にいないと入れなかった。ハワイ帰りの***という生徒がライバルだった。先方も私に敵意がある様に見えた。余り二人は遊ばなかった。***さんは裕福な家庭の様に思えていた。六年生の中から健康優良で学業成績の良い学生が一人選ばれて別府へ招待の催しが毎年あった。それを競ったのも***さんとだった。勉強のほうは五分五分だったが、運動神経の方が先方がまさっていた。走り競争、砲丸投げ、走り高跳び等々、二人だけのテストを校庭でさせられた。運動は全部***さんが勝った。私は残念だった。

男子生徒でよく勉強の出来た人は**(米屋の子)、**、**(先生の子)、**、等がいたけれど、以後をどう生きているか全然知らない。

もう一枚古い写真があった。修学旅行、大阪毎日新聞社の屋上にて撮ったもの。奈良方面への旅行楽しかった。着用のオーバーは千代ちゃんの借物である。

千代ちゃんが県女卒業後試験をうけて代用教員になって矢野小学校に勤めだした頃、兄嫁さんも矢野の小学校へ転勤がかなった(初めは緑井小学校)。二人とも**先生なので**豊乃先生、**千代先生と生徒は呼び分けていた。

私が四年生位ではなかったかと思う。級長は朝会の時、組の一番前に一歩離れて立ち整列の号令をかけていた。

当時の月給が豊乃先生五十五円、千代先生三十円、次郎先生五十五円だった様に記憶している。

兄はとても真面目で初任地は坂小学校だったと思うがとても父兄から頼りにされていた様だ。熱心に教育に取り組んだ。新聞にもその熱心さはみとめられて出た事もある。母は兄をとても大切にしていた。兄だけは食事の時も一品別のがついていた。母にしてみればお金をかせいでくれる金の卵だった。無理からぬ。兄は親思い、兄弟思いでとても優しかった。昔から兄を敬い今にしてにくんだ事は一度もない。何事も親身になってくれた優しい兄である。

私達が高等科二年の頃に、先生達が義務教育が九年になるのだと話しておられた。彼の時は六年までが義務教育で高等科はどちらでもよかったので六年で仕事に出る者もあった。

兄の子供が又次々と生まれ*郎、*子、*郎、*郎、多産系家庭の宿命である。教職を姉が続ける限り子供は母が育て役である。

書の休み時間を割いて乳を飲ませに行くのは母である。姉は乳の良く出る人ではった乳のこぼれで着物がくさる程だった。時代の相違で今頃は乳の出る人でも自分の容色が落ちるのを嫌ってミルクを飲ませる人もあるが、昔はそんな事はしなかった。はる乳を飲ます事が出来ず授業を続ける姉も大変だったと思うけれど、雨の日も風の日も時間を見計らっては幼児を連れて学校へ通う母も大変だった事としみじみと母の苦労を思うのである。

私達が学校から帰ってくるのを母は首を長くして待っていた。子守をさせられるのだ。子供を渡してそれからが夕食の支度にかかるのだ。大人数のご飯炊き、今のガスや電気ではない、野くどと言って外にくどがある。

ポンプになったのは大分後の事で井戸を使っていた。井戸水を風呂へ入れるのも大変な仕事だった。井戸水が又鉄分があるのか漉していた。井戸側の底へ木炭、少砂、朱呂の皮等、順序よく並べ井戸水を漉すのだ。

割木を山からとってきたり割るのは父の仕事である。その木をのこぎりで一定の長さに切りそろえ小さく割木をして軒下へ積み重ねる。一年間のを割るのである。暖は「あんか」。火の調節がなかなか良いようにゆかず、布団がよくこげて色が茶色になっていた。湯たんぽも使っていた。

学校の運動会も楽しかった。六年生が軍事演習をする。ハイノウを背負って煙幕をはって勇士だった。両軍から攻めあうのだ。雪が降れば雪合戦も学校でやる。

寒中には何時も校外を全校生徒が走る。交通が今の様になかったので走れたものだ。コースは忘れた。全校生徒長距離競争はいまの海田大正橋まで走って折り返す。四年生位だったと思うが、初めて一位になった。宮尾の橋の所で母が応援してくれた。

やはり其の頃メートル法が普及した。私達の教科書にも一尺と一貫匁とかを習っていた。その換算方法の計算等を勉強していた。其の時、メートル普及の標語の募集が校内であってみんな応募した。私が「メートルの威力は世界を征服し」。これが一位である。自慢のようだが実の話である。

学校行事として模擬戦もあった。今の海田大正橋の上流の河原であった。両軍に分かれて白と赤の球をつくり其の中に白い粉をいれて投げ合いをするのである。粉がついたら死ぬる。作戦の指揮者は誰だったのか覚えていない。

修身の時間には校長先生がよく授業をされた。この時間には歴代の天皇の名前をみんなで*読む。神武天皇から――――暗唱していたけれども忘れてしまった。本の始めにちゃんと書いてあった。終わりは今上天皇で終わる。この時、自分がどんな人になりたいかと校長先生に問われた。乃木大将の様な軍人になりたいと言った人もいた。私は「歴史に残る様な人物」になりたいと答えた。

 

ヤスの自分史1

ヤスの自分史1

おさなき日の断片的な追憶を記せとの暁の言葉なれど古き写真等もあまり見当たらず水呑み百姓の五女としての追憶あまりさだかではない。

母は決定的な正直者で、お人好しで誰にも好感を持たれていた様に思う。父は勝気で短気でおまけに勉強はきらいだった様子。父も小学校四年までは勉強したらしい。昔の小学校は検定試験が合格すれば上級へ上れたそうで弟の孫三郎(師範学校を出て豊橋高校の校長までなった人)に四年を追い越された時気分が悪くなって小学校をやめたと言う話を聞いたことがある。

母との結婚の時も自分は見合いに出席せず本家の兄亀三郎さんが代理で見合いしたそうで母は結婚の時まで父の顔を知らなかったそうである。昔の家長制度があらわれた一面であるとおもう。

父母にして見れば次々と二つ違い位で生まれてくる子供達の為に身を粉にして働かねばならぬ羽目になった筈である。今も昔も母と子の愛情には変る筈はないから。

今の自衛隊のあたりではなかったかと思う。夫婦川のほとりに大きな田が三町(まち)位、小作していたと思う。其の川にはしじみが多く水着のままに座りこんでしじみを採った記憶がある。メダカ、フナ、ドジョウ網(タモ)といっていた、それですくう遊びも楽しい。苗代の「ウンカ」の卵をとる仕事、にわとりが好んで食べるイナゴ採り、とりの餌にするカキガラの小さく砕けた粉(これが不足すると卵のやわらといって卵のからがないのが生れる)ひずり草(これもとりの餌)採り、子供に出来る仕事がいくらでもある。一人では出歩かない。そんな仕事を言いつかった者同志で出掛ける。

親の方としても仕事をしてくれれば助かる程度で無理強いはしないのだが、子供心に親がよう精出してくれて為になると喜んでくれるものだから自分も一生懸命に仕事として働いた様に思う。

母が子供を使うのが上手だった。もく(松葉)きんかんもくと言えば松葉ばかりこれが上等、どんぐりの葉等がたくさん交じったのが下等、上等は大人達が大風が吹いた後は早々出掛けて集めるので子供達には余りとれない。山中広く集め歩いて少々、これも友達、組をくんではみんなで山へ出掛ける。子供用の「メカゴ」がちゃんと作ってあった。

農業が生業の父、副業として母は鶏を飼っていた。一ますに50羽位ずつで、鶏の小屋が六つ位あったから300羽はいたのではないか?
餌の粉(フスマ)は共同で買い入れていた様に記憶する。魚の「あら」戸田(今の八作の前身)の採集も私の役目。石油かんに毎日一ぱいはある。子供の身としては、大分重かった。子供に相応の仕事の分担がある。今の子供は仕事分担が無くて良いのか悪いのか。

気性が父に似通っている為か私は父によく可愛がられた様に思う。散髪をする父にもついて行った。昔は床屋といっていたが、その床屋へも父とよく出掛けた。肩車をしてもらって行くのが嬉しいからだ。

「鳶の子」という畠、遠くでその山を越えれば奥海田が真下に見える所にある畠へついて行くのも私。てんびん棒の片方へ肥料、もう一方のかごへ乗せてもらうのだ。今にして思えば話とぎに子供が結構おれば楽しかったのではないか。
畠へ着けば作物の虫取りの仕事もあった。父は歌が上手だったのでかごに揺られながら歌を聞くのは楽しい思い出になっている。

畠には子供が好きそうなものは何でもあった。
みかん(これはたくさんあって売っていた)、
柿の木(これもシブを抜いて売っていた)、
はらんきょう(大きな木が三本あって、とてもよくなる)、
桑の木(これもよく実がなる)、登ってもぐのが楽しみ
紅梅(大きな良い梅がたくさんなっていた)、
いちご(げしにどのげしにも植えてあって食べきれない)、
だいだいもたくさんなってもみがらでかこっていた。
ぶどう(とりごやの所へ植えてあった)、
いちじく(売るまではないが食べるのに充分)、
びわの大きなのもよくなっていた。
この外、畠に「スイカ」「まつかうり」「南京豆」「大豆」「えんどう」。食べるものにはことかかなかった。

しかし金は何時もなかった。農作物のせり市へ作物を出して売る、卵を買う人が来て卵が金にかわるだけの収入では金がない筈である。

母は一生金には恵まれなかった。
それでも余り不平は言わない母だった。

昔私が子供の時分は、今の矢野橋を通り過ぎて川の下流あたりでよく泳いでいた。川中を泳ぎ抜けるのである。海の方は危ないので岸から岸へ泳ぎ渡るのである。安全を考えて、結構みんなそうしていた様に思う。川土手には、カヤの背より高いのが続いていたので、其のカヤの陰で水着を着かえたりぬいだ着物を友達同志まとめて置いてよく泳いだ。其の川土手に伝染病の隔離病舎(*病院)といっていたが、時々其の病室の窓があけられている時があった。入院の人があったのだろう。其の病院の近くにも畠があって、よくスイカがたくさん出来ていた。昔でも盗人がいてスイカを採るので、スイカが大分大きくなった頃よく兄と名前を書きにいった。墨を濃くすって筆で「矢野﨑出家」屋号をスイカに書きつける。こうしてあれば、消してまではとりにくいからではなかったのか。

父は野菜何でも上手だった。骨身をおしまずよく働いていたので肥料もよくかけていたのだろう。鶏糞もたくさんあるし、今、手のひら程の野菜作りに精出しても何一つとしてまともにとれない。野菜に手を焼く昨今である。

矢野橋から海田へかけて家が建ち並んでいるが、子供の頃は全部田んぼと「ブドウ畑」であった。其のブドウ棚へ直にブドウを買いに行くのも子供の仕事である。「ビク」をさげて友達を誘って出掛ける。二十銭買えばビクにいっぱいある。出荷用に箱詰をするのに粒がとれたばらばらのをたくさん只にしてもらう。田んぼには堀*の井戸の冷たい水が湧き出る所がある。其の場所はちゃんと知っていて、其処で只にしてもらった。ハス田もあって、ブドウを洗って、ハスの葉へ包んで食べ食べ歩く。

昔は楽しい事がたくさんあった。夕涼みもよくしたものだ。糊のかたくついた浴衣に着かえて、よく国道のほうまで、そぞろ歩きをしたものだ。星のキレイな夏の夜は、納屋のトタン屋根へハシゴをかけて屋根にゴザを敷き兄弟揃って屋根の上で夕涼みをする。たまにはブドウも持って登る。千代姉がよく星の話をしてくれた。三ツ星、北斗七星、等。今にして思えば、姉妹だけではない。従兄弟、本家の娘達とも仲がよかった。暇さえあれば一緒に遊んだ。とよちゃんとは、従姉妹似といって小さい時は姉妹と間違えられた。口が上手で大人顔負けのおしゃべり屋なとよちゃんだった。

本家(**)とはとても仲がよかった。分家の母、私共の母がとてもよくつとめていた様だ。何でも兄さん、姉さんとたてて、常に下手だった様に覚えている。風呂がわけば本家のおじさんを呼んで入ってもらう。何かよいものがあれば本家、とよくつとめていた。おばあさんは何時も本家で、私は仏花としてシラサキの枝ぶりの良いのを山へ行った帰りには折ってきておばあさんにあげた。これを喜んでくれていたから。

よく本家へ遊びに行った。丁度良い遊び友達がいた。二つ年上の「とよちゃん」、一つ年上の「一彦さん」。本家には大きな公孫樹《いちょう》が二本もあって何時もその黄葉が広い庭いっぱいに敷きつまっていて楽しい。それに椿の大きい木に花がいっぱい咲いて、その花の輪をつくるのも楽しい。落ちた椿のみずみずしさは今も同じ。ナツメもよく実っていた。カンナの大きい株があって咲きこぼれる。杳い杳い昔が昨日の様に甦る。

母は草花をよく植える人で家の庭にもよく花が咲いていた。「スモモの花」「梅」「びわ」「あじさい」「菊」「だりや」。とりわけ多いのはあの時花の名を知らず「赤花」と名づけて庭中咲かせていたサルビヤだった。いくらでも生えるので人にも惜しみなく苗を分けてあげていた。コスモスもたくさん咲いていた。けいとうの大きい花もあった。

父は実のなるものをたくさん植えていた。「ユスラウメ」「グイビ」等食べるのが楽しかった。
幼少時の記憶、小学一年位からは覚える様なので、一月十五日「おたんや」に私も母とお寺参りをしたので、孫孝君を連れて今年昭和五十年おたんやに詣でる。孝君の記憶にのこるかどうか楽しみである。

 

稲賀敬二

稲賀敬二

いなが・けいじ 19280320生20010411没 享年73歳 国文学者。平安文学。1947年広島高等学校文科甲類卒業。広島大学名誉教授。

資料年表:稲賀敬二<作業中

年月日
1928
0320 誕生
1983
0930 『青春回想録 廣高その永遠なるもの 廣島高等学校創立六十年記念』(廣島高等学校同窓会)
稲賀敬二(昭二十二文甲) 「昔《入学》・今《統合移転》」… 347
1993
1001 『落暉燃ゆ 廣島高等学校創立七十年記念誌』(廣島高等学校同窓会)
(昭和22年卒)
昭和十九~二十年日記抄……文甲 稲賀敬二…427
1997
0801 『ヒロシマと廣高 被爆五十二年・回顧と追悼』(廣島高等学校同窓有志の会)
「偶然」の重み 稲賀敬二(昭22文甲)62
2001
0411 没。享年73歳
 2003
0714 『けさや昔の夢のおもかげ 稲賀敬二回想集』(稲賀敬二著、稲賀久美子刊)
0714 『明日何方ぞ迷い猫 : 稲賀敬二遺文集』(稲賀敬二著、稲賀久美子刊)
2004
0331 広島大学文書館設立準備室『広島大学史紀要 第6号』pp.51-81
「記録 稲賀敬二名誉教授 聞取記録」
稲賀敬二名誉教授 聞取記録 – 広島大学 学術情報リポジトリ (hiroshima-u.ac.jp)

2023年7月(日録)

2023年7月(日録)

できごと
01 ヒロシマ遺文への投稿=ヒロシマ遺文への投稿=「稲賀敬二」、「ヤスの自分史1」。
02  ヒロシマ遺文への投稿=「ヤスの自分史2」、「ヤスの自分史3:看護婦見習時代」、「ヤスの自分史4:結婚と出産」。
03  ヒロシマ遺文への投稿=「ヤスの自分史5:夫・静男の出征」、「ヤスの自分史6:闇値と宇品署への出頭」、「ヤスの自分史7:子どもの疎開」、「ヤスの自分史8:配給と防空演習」、「ヤスの自分史9:空襲下の生活」、「ヤスの自分史10:原爆・終戦」。
04  ヒロシマ遺文への投稿=「山口仙二」、「115,500㎡の皮膚 被爆43年の自分史」、「灼かれてもなお 山口仙二聞書」
05  ヒロシマ遺文への投稿=「核時代 昨日・今日・明日 リレーインタビュー米の18人」「ヒロシマに、なぜ 海外よりのまなざし」、「朝永振一郎」。
06  ヒロシマ遺文への投稿=「長崎五郎を偲ぶ」、「田中好一」。
07  ヒロシマ遺文への投稿=「沼田鈴子」、「被爆アオギリと生きる 語り部・沼田鈴子の伝言」。
08  ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:小倉馨」、「末宗明登」、「東雲同窓会母校創立百年記念史」。
09  ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:山崎与三郎」、「資料年表:ロベルト・ユンク」、「沼田鈴子と白梅女子短大学教養科平賀ゼミ(近現代史)」
10  ヒロシマ遺文への投稿=ヒロシマ遺文への投稿=「田中隆荘」、「灰墟の光 甦えるヒロシマ」
11  ヒロシマ遺文への投稿=「竹前栄治」、「DDT革命」
12  ヒロシマ遺文への投稿=「坪田正夫」、「北西英子」、「宇吹メモの中のナガサキ(1985・86)」
13  ヒロシマ遺文への投稿=「林茂夫」、「資料年表:日野原重明」。
14  ヒロシマ遺文への投稿=「大木惇夫」。
15  ヒロシマ遺文への投稿=「岡本三夫」、「資料年表:志水清」
16  ヒロシマ遺文への投稿=「今中次麿 生涯と回想」
17 ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:増岡敏和」。
18  ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:山下義信」、「桧垣益人」。
19  ヒロシマ遺文への投稿=ヒロシマ遺文への投稿=「中国新聞報道に見るコロナ禍への原水禁大会の対応」
20  ヒロシマ遺文への投稿=「被爆75・76・78周年原水爆禁止世界大会
21  ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:小寺初世子
22  ヒロシマ遺文への投稿=「中国地方総監府誌-原爆被災記録」、「資料年表:大佐古一郎
23  ヒロシマ遺文への投稿=「阿川弘之」、「京都大学原子爆弾災害綜合研究調査班遭難 「記念碑建立・慰霊の集い」のあゆみ
24  ヒロシマ遺文への投稿=「李鍝
25  ヒロシマ遺文への投稿=「年表:韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑
26  ヒロシマ遺文への投稿=「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」、「資料年表:韓国人原爆犠牲者慰霊碑
27  ヒロシマ遺文への投稿=「田沼肇
28  ヒロシマ遺文への投稿=「忘れじのヒロシマわが悼みうた 栗原貞子詩集
29  ヒロシマ遺文への投稿=「増本量
30  ヒロシマ遺文への投稿=「岩波講座現代思想」、「2023年8月(日録)
31  ヒロシマ遺文への投稿=「清水幾太郎

資料年表:大原三八雄

資料年表:大原三八雄

 年月日  事項  備考
 1905
 0123  広島市生まれ
 1952
 1001  『日本印象記-ヒロシマの家』(フロイド・シュモー著 大原三八雄訳、広島ピース・センター刊)
 訳者「フロイド・シュモー博士の横顔」  1
1954
 1210  『原爆と広島 大学人会研究論集 第1集』(平和と学問を守る大学人の会編、広島県教職員組合事業部)
大原三八雄 「文芸作品に表れた原爆」序説 (65)
1955
 0806  『The Songs of Hiroshima-広島のうた』(大原三八雄 編・訳、YMCA刊)
 1956
0308 『われらのうた 第17号』
ハイネとシューマン 大原三八雄  15-17
以下、雑誌掲載分は未入力
1960
 0801  『黒い蝶-原爆前後の手記』(松岡鶴次著、季節社)
 序 浜井信三 5
跋 大原三八雄 221
 1964
 0215  『広島県詩集 第4集』(広島県詩集編集委員会編、広島県詩人協会刊)
 大原三八雄 シクラメンの花 16
 0801  『The Songs of Hiroshima 広島のうた』(大原三八雄訳、「広島のうた」編集委員会)
 第1部 「八月六日」
第2部 鎮魂歌
縛り首のヒロシマ 大原三八雄
第3部 原水爆禁止を
考える人 大原三八雄
第4部 未来に歌う
編集にあたって 英訳・編集 大原三八雄
 1967
 0610  『8月6日と文学』(広島女学院大学文芸部)
 4.大原三八雄 8
 0805  『原爆ドーム保存運動の中から 爆心地』(広島折鶴の会)
大原三八雄「八月六日の幻想 折鶴会へのメッセージ」 92
 1969
 0721  『さらば広島 = Goodbye to Hiroshima』(大原三八雄編、バーバラ・レイノルズ女史に感謝する会刊)
 0806  『濱井信三追想録』(濱井信三追想録編集委員会)
 座談会 その6  出席者 615
中村義男・相原和光・林寿彦・永田守男・村上安恵・高井正文・藤田一雄・大原三八雄・山本康夫・深川宗俊・田辺耕一郎・田淵実夫
1970
 0620  『日本原爆詩集』(大原三八雄・木下順二・堀田善衛編、太平出版社)
 1974
 0801  『世界原爆詩集』(大原三八雄編、角川書店)
1975
0101  『平和のあけぼの』(和泉たくみ作詞、大原三八雄訳、『平和のあけぼの』普及後援会本部刊)
 1124  『ヒロシマを持って帰りたい』(韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部編・刊)
いちばん欲しいこと 大原三八雄
 1977
 0725 『慟哭』(尾上和彦作曲、山田数子作詩、音楽之友社)
付属資料有り:「尾上和彦作品リサイタル」リーフレット(B4版三つ折1枚 広げると25×37cm)、プログラム(B5変形1枚 24×12cm)、英語版の歌詞「慟哭 Lamentation」(大原三八雄翻訳 B4版二つ折1枚 広げると26×37cm)
1978
1115 『副交叉路 詩集』(北畠隆著、ぷれるうど詩社)
ヒロシマ旅北畠隆 大原三八雄 119
1980
0523 『季刊・長崎の証言 7号』(鎌田定夫編、長崎の証言の会)
「ヒバクシャ」の負い目に生きる 大原三八雄 20
1982
0220 『ヒロシマ・ナガサキの証言’82冬 創刊号』(広島・長崎の証言の会)
評論:「原爆時」この一年 大原三八雄 80
0225 『平和への道 教皇ヨハネ・パウロⅡ世来広記念文集』(カトリック正義と平和広島協議会「平和を願う会」)
この人を見よ-ローマ法王を迎えて- 大原三八雄 20
0630 『原爆を読む 広島・長崎を語りつぐ全ブックリスト』(水田九八二郎、講談社)
62-『日本原爆詩集』大原三八雄・木下順二・堀田善衛編(昭和四十五年) 2
1983
0210 『ヒロシマ・ナガサキの証言’83冬 第5号』(広島・長崎の証言の会)
書評:「反核・反戦・平和」のヒロシマ  大原三八雄 116
1120 『広島県詩集 第14集』(広島県詩人協会)
大原三八雄 「地下街的思惟」 30
1985
0430 『河図洛書-渓水社十周年記念』(木村逸司編、溪水社)
「一九〇〇年」という年 大原三八雄 165
0806 『広島女子大国文  第2号』(広島女子大学国文学会)
特集 原爆と私 pp.84~113
大原三八雄・小井手桂子・松井淑・切明春子・岡本三和子・木下裕子・沢香苗・田辺怜子・平田雅子・佐藤真規子・和田知子・谷口さち・福田靖子・出原隆俊・西岡政治
1991
0720 『森瀧市郎先生の卒寿を記念して』(行安茂 編著刊)
4 同僚・後輩が語る森瀧市郎先生
(1)わがこころの聖域 大原三八雄 109
 1992
 0706  没。享年87歳。
1994
0331 『広島市公文書館所蔵資料目録 第18集』(広島市公文書館)
大原三八雄氏資料 6
0710 『ヒロシマの青春 私の中の峠三吉』(ひろしまミニコミセンター編、峠三吉記念事業委員会)
 峠三吉との不条理な出会い 大原三八雄 90
 2007
 0806  『原爆詩一八一人集 1945~2007年』(長津功三良、鈴木比佐雄、山本十四尾編、コールサック社)
 大原三八雄 茶わん 23

資料年表:木村功

木村功

きむら・いさお 19230622生19810704没 享年58歳 新劇俳優・映画俳優。広島市生まれ。広島二中卒。原爆でを失う。『功、手紙ありがとう』(木村梢、三笠書房、1985.6.22)。『広島県現代文学事典』(九内悠久水子・記)

資料年表:木村功<作業中

年月日
1923
0622 広島市千田町に生まれる。<「木村功年譜」(『功、手紙ありがとう』所収)>
1944
02 大竹海兵団に入団<「木村功年譜」>
1945
08 原爆により父死す<「木村功年譜」>
09 復員<「木村功年譜」>
1968
0501 『テアトロ 通巻第298号』(テアトロ刊)
宇佐見宜二「舞台に生きる27 木村功」…5
1981
0704 死亡。享年58歳。
1985
0622 『功、手紙ありがとう』(木村梢編著者、三笠書房)
2003
0730 『ヒロシマはどう記録されたか NHKと中国新聞の原爆報道』(NHK出版)
第15章 未来への伝言…333 俳優木村功の遺言/
2010
1220 『広島県現代文学事典』(岩崎文人編、勉誠出版)
「木村功」(九内悠水子・記)
2017
1230 『反戦映画からの声 あの時代に戻らないために』(矢野寛治著、弦書房)
Ⅲ 戦争の悲劇を演じた俳優たち……………145
戦争の無惨さを全身全霊で具現した(五十音順)
木村功 174
2020
0710 『俳優と戦争と活字と』(濵田研吾、筑摩書房)
門前に佇む母 鈴木瑞穂、渡辺美佐子、木村功 341