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森亘

森亘

もり・わたる 19260110生 20120401没 享年86歳 元東京大学総長。原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会座長。

原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会

昭和60年 1985年 10月 厚生省が原子爆弾被爆者実態調査において、死没者に関する調査を初めて実施
平成2年 1990年 厚生省が原爆死没者に対する弔意の表し方について検討を開始
平成3年 1991年 国が原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会を設置

出典:祈念館について | 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 (hiro-tsuitokinenkan.go.jp)

2023年4月(日録)

2023年4月(日録)

できごと
01  ヒロシマ遺文への投稿=「山西義政」、「2023年4月(日録)」
02 日曜日】ヒロシマ遺文への投稿=「森亘」。歩数:1万1049歩。
03 ヒロシマ遺文への投稿=「ヨハネ・パウロII世 教皇訪日公式記録」、「広島に於ける被爆調査-文献抄録」、「平和への道 教皇ヨハネ・パウロⅡ世来広記念文集」、「破壊の日-外人神父たちの被爆体験」、「戦争は人間のしわざです(カトリック正義と平和広島協議会)」。歩数:8350歩。
04  ヒロシマ遺文への投稿=「二葉の里歴史の散歩道ブラッシュアップ研究協議会」、「戦後民衆運動の歴史」。歩数:7099歩。
05   ヒロシマ遺文への投稿=「ヨハネ・パウロ二世」、「資料年表:ヨハネ・パウロ二世」。歩数:8598歩<小雨の中傘持参>。
06  ヒロシマ遺文への投稿=「ローマ法王歓迎の集い(広島市、1981年2月25日)」。歩数:1万0279歩<雨の中傘持参>。
07  ヒロシマ遺文への投稿=「大北威 」、「資料年表:大北威」、歩数:7349歩
08  ヒロシマ遺文への投稿=「伊藤実雄」、歩数:1万3995歩
09  【日曜日】広島市長・市議会議員・県議会議員選挙
09  ヒロシマ遺文への投稿=「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想」。歩数:9071歩
10   ヒロシマ遺文への投稿=「杉村春子」。歩数:9341歩
11  ヒロシマ遺文への投稿=「森脇幸次」、「広島新史に期待する(宇吹暁)」。歩数:8295歩。
12   ヒロシマ遺文への投稿=「志あるところ必ず道あり 大原亨追悼録・遺稿集」、「楮山ヒロ子」、「原爆ドームと楮山ヒロ子」。歩数:7503歩
13  ヒロシマ遺文への投稿=「井上ひさし」「小黒薫」。歩数:1万0955歩
14   ヒロシマ遺文への投稿=「ペンギラン・ユソフ」、「蜂谷道彦」。歩数:6154歩
15   ヒロシマ遺文への投稿=「勅使河原宏」、「平和をもとめて 長田新論文・追想記」。歩数:5005歩
16   ヒロシマ遺文への投稿=「羽原好恵」、「駆けぬけて 羽原好恵追悼集」、「川端康成」。歩数:6092歩
16 【日曜日】 呉市議会議員選挙告示日
17    ヒロシマ遺文への投稿=「日本印象記-ヒロシマの家」、「資料年表:フロイド・シュモー」。歩数:8315歩
18  ヒロシマ遺文への投稿=「信州白樺第61・62・63合併号―長田新特集」。歩数:1万1349歩
19   ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:山田浩」。歩数:8221歩
20   ヒロシマ遺文への投稿=「原田勉」。歩数:1万0094歩
21  ヒロシマ遺文への投稿=「海に消えた被爆朝鮮人徴用工-鎮魂の海峡」、「藤野七蔵」、「藤野七蔵氏追懐録」、
22   ヒロシマ遺文への投稿=。歩数:1万0600歩。
22  ヒロシマ遺文への投稿=「核兵器全面禁止と原水禁運動」、「金子満広」、「核兵器全面禁止と核兵器全面禁止と原水禁運動」。歩数:1万3204歩
23  【日曜日】 呉市議会議員選挙投票日。定員32、候補者40。うち当選:公明党4。共産党2、社会民主党1、参政党1、<落選>自然共生党1、無所属31。
23 桜が丘へ。姉・姪と父母の遺品整理。
23  ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:川手健」。
24  ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:広瀬ハマコ」。歩数:8354歩
25  カープvs中日ドラゴンズ。雨のため中止。<どうする貰い物の入場券>
25 ヒロシマ遺文への投稿=「「原爆の子」の父長田新」、「長田三郎」。歩数:2691歩。
26  ヒロシマ遺文への投稿=「軍都ひろしま―旧軍事施設めぐり」。歩数:8086歩
27  ヒロシマ遺文への投稿=「もう一つのヒロシマ」、「不破哲三 時代の証言」。歩数:1万0356歩
28  ヒロシマ遺文への投稿=「宮本顕治」。歩数:7222歩
29 ヒロシマ遺文への投稿=「布川弘」。
29  【昭和の日】一日雨。
30 日曜日】呉地区労働組合連合会主催:映画「わが青春つきるとも―伊藤千代子の生涯」上映会。会場:ビューポートくれ3F大ホール。
30  ヒロシマ遺文への投稿=「国民文化祭」、「資料:第15回国民文化祭・ひろしま2000」、「資料1:クルーズ&イベント総合案内(第15回国民文化祭・ひろしま2000)」、「2023年5月(日録)」。歩数:1万0531歩

山西義政

山西義政

やまにし・よしまさ 19220901生20200401没 享年97 (株)イズミ(広島県広島市、山西泰明社長)創業者。1997年、個人コレクションを中心に泉美術館を開設。

資料年表:山西義政<作業中

年月日
19220901 誕生
19970427 泉美術館開館。山西義政の個人コレクションをもとに出発。
20110819 写真展「復興の記憶」。~9月19日 。
20180728 「ヤミ市から立ち上がった広島商人」<記憶から紡ぐあのころの広島>(『広島市被爆70年史 映像編』)
20200401 死亡

 

広島の戦災と復興

広島の戦災と復興(城下町広島の歴史講座十講(第8回))
会場:東区総合福祉センター 2008.1. 27
講師:宇吹暁(うぶき さとる)<広島女学院大学>

Ⅰ 広島の戦災

「原爆被爆」対象のさまざまな捉え方<略>

経済安定本部「太平洋戦争による我国の被害調査」

1947(昭和22)年7月から開始。広島・長崎の原爆被害については特別の配慮をはらう。

この調査は、おおむね中央の各省からの報告をもとに作成。調査実務の中心にあった企画調査課は、1948年1月13日から2月4日にかけて広島・長崎を訪れ、県・市の関係者や市内の主要な企業関係者に資料の提供を求める。

占領軍への配慮からか公表はされなかったが、両市の原爆被害についての特別な報告書「広島・長崎に於ける原子爆弾に依る物的被害」が、1948年6月1日付で作成。この報告書は、原爆による物的被害を建築物・道路・港湾河川など14項目から整理した包括的なもの。また、この調査にあたって、市内の各機関から提出された資料には、それまでの広島県・市の報告には見ることのできない貴重なデータが含まれている。

広島県の報告には、県自身の被害とともに宗教団体や史蹟名勝・国宝などの被害報告が含まれている。宗教団体の建物被害の状況は次表の通りである。これにより、市内の81の神社・74の神道教会・145の寺院・58の仏教教会・24の基督教会合計382の宗教施設の建物が原爆による大小の被害を被ったことを知ることができる。

神社・寺院・教会の建物被害状況

futaba20070127-19

 

 

史蹟では、「明治二十八年戦役広島大本営」(国有)・「明治天皇広島行在所」(国有)・「明治天皇広島行幸所浅野泉邸」(県有)が全焼、名勝では、「縮景園郷土館」(県有)が全焼、国宝では、「広島城天守」(国有)が全焼(実際は全壊であり、焼失はしなかった)、「不動院金堂」(私有)が4割の被害を受けている。

都市別人的被害syllss_080308

Ⅱ 広島の復興

A 被爆者<略>

B 被爆都市futaba20070127-30

戦災復興土地区画整理事業(西部復興)  施行者:広島県知事

一工区  施行面積 約477.0ha
施行期間 昭和21(1946)年度~昭和44(1969)年度<清算期間を除く> 総事業費15億8300万円
二工区  施行面積 約33.8ha
施行期間 1946年度~1971年度<清算期間を除く> 総事業費18億3500万円

戦災復興土地区画整理事業(東部復興) 施行者:広島市長
施行面積  約582.5ha
施行期間 1946年度~1969年度<清算期間を除く> 総事業費33億6800万円
広島平和記念都市建設法

1949年5月に衆参両院を満場一致で通過したこの法案は、7月7日の広島市民の投票で9割を超える支持を得た上で、原爆記念日の8月6日に公布。

第1条「恒久平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として,広島市を平和記念都市として建設する」

平和公園<略>

 

広島市勢要覧(1948年版) 

本市は原爆のため観光資源も観光施設も壊滅したのであるが廃墟の中から吾々の新しい観光資源が取り上げられた。

・即ち原爆記念保存物である。爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンクがそれである。

・今後日本に来遊する国際観光客の殆ど全部は、広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールの主要部分とするであろう。

広島市勢要覧(1949年版)

平和記念館  原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室、平和塔等を有する記念館を建設して平和広島の「シンボル」とする計画である。

 

「廣嶋」と厳島  大広島市街地図(1933年)futaba20070127-37

似島陸軍検疫所(広島・宇品・名勝)記念写真帖  1939(昭和14)年4月25日発行futaba20070127-38

1.御用船より似島検疫所に向ふ凱旋部隊  <中略>18.乗船の実況 宇品= 19.宇品港桟橋  20.宇品御幸橋  21.向宇品観音堂  〃.向宇品観音堂全景  22.宇品御幸通1丁目  〃.宇品新道路  23.宇品千田銅像  〃.向宇品別世界 広島名所=24.広島日清戦役記念史蹟大本営趾  25.広島城天主閣  26.広島駅  27.広島市庁舎  〃.広島浅野泉邸  28.広島招魂社  〃.広島比治山旧御便殿  29.広島饒津神社  〃.広島金座街革屋町  30.広島県立商品陳列所  31.広島相生橋及丁字橋

 広島市勢要覧にみる観光(広島の史蹟、名勝等)

広島市は日本三景の一つである厳島を控へ、国立公園随一、詩の瀬戸内海に面し、デルタ上を六つの清流が貫き、山紫水明で、而も海陸交通の便極めてよく、北に行っては桜と鵜飼の三次、つつじと、スキーの道後山、及び芸北の仙境三段峡等があり、又泉都別府、道後に船の旅を楽しむもよく、而も原子爆弾により、国際的に有名化し、世界に冠絶した観光都市として内外人の訪客を受けようとしつつある。殊に終戦後は、軍国の黒衣に包まれていた瀬戸内海島の要塞地帯の景勝地を、あます所なく開放し、更に貿易港としての指定を受けることになれば、観光上喜びにたえないところである。『広島市勢要覧1947(昭和22)年版』

千田廟と千田男爵銅像= 往年日本の大玄関として名声のあった宇品港は、明治17年時の県令千田貞暁によって起工せられ、工費30余万円5カ年の歳月を経て完成を見た。  其の後4年日清戦役勃発するやこの宇品港は一躍重要基地として国運の進展に寄与し、次々の事変戦役にも重要役割を果たしてきた。  市民は千田県令の偉大なる事業を偲び大正4年宇品町御幸通りの中央に高く広島湾の海波を望んで銅像を建立し、後更に千田廟を祀り毎年4月盛大なる千田祭を執行して来ったのである。

不動院(牛田町)= 天正2年僧行基の開基と伝へられ、当時は行基自ら観音像を彫刻し、七堂伽藍を創建して新日山蓮華王寺と称し、方7町12の末寺を備へていたと云う。その後大永年間兵火にかかって荒廃したが、安国寺恵瓊豊太閤に請うて再建し不動院と称し、豊太閤、朝鮮征伐の途次当院に滞陣した。背後の丘には、豊太閤及び福島正則の遺髪の塔がある。  不動院は、現に古義真言宗仁和寺の末寺、金堂は天文年間の建立、天井画龍の落款に「天文庚子冬十月日僧永怡筆」とあり純乎たる唐様禅宗建築堂層入母屋造で、一見鎌倉円覚寺舎利殿を大きくした様なもので、室町時代禅宗建築の傑作の一に数えられている。尚当院には豊臣時代の古文書多数所蔵されて居り、豊太閤と縁故の深い事を物語っている。

頼家の墓(比治山本町)= 頼家一門の門主たる人々の墓は、比治山公園多聞院付近にある。春水、梅颶、聿庵、杏坪等20数基に上るが、山陽三樹三郎の墓はここにない。春水は竹原(賀茂郡)の人、山陽の父で山陽3歳の時招かれて藩儒となり、大阪より移って7代重晟、8代斎賢藩主に仕へた朱子学者である。  杏坪は山陽の叔父、春水と同じく朱子学者で、始め広島藩に仕へ後自ら願出で三次奉行となって令名高く、芸藩通誌の著者として著名である。  梅颶は山陽を生み、山陽を育しみ、山陽を大成せしめた賢夫人、人の子の真の母親として亀鑑又立派な学者であった。聿庵は山陽の長子で春水の跡を継ぎ、広島藩に仕へた。      『広島市勢要覧 1948(昭和23)年版』

東照宮= 市内尾長町の中腹に在り天保年間藩主浅野光行の創建に係り徳川家康の霊を祀っている、境域5300平方米、社殿は南面し石階51殿である。往時は社殿壮麗を極め祭礼儀頗る盛大であったとゆわれている。

頼山陽文徳殿= 比治山公園の山腹に在り、頼山陽の百年祭を記念するために広島市単独の事業として計画し山陽文徳殿建設翼賛会の努力により完成、昭和9年10月15日の竣工である。  頼家の墓 頼山陽の父春水を初め頼家一門の墓は比治山公園多聞院付近にある。             『広島市勢要覧 1950(昭和25)年版』

三滝観音道場= 市内三滝町の山林中にあり1000年の昔、弘法大師唐国より帰朝の砌当地に巡錫、聖観音菩薩の種字を天然石に刻し岩窟に安置した。爾来其の霊験の著しいことと四季山水の風致幽邃雅趣の深さにより一般信徒の杖引く者絶えず、現在は水害、原爆の被害により道場の荒廃甚だしくこれが修築工事中である。

『広島市勢要覧 1951(昭和26)年版』

似島=<解説略> 広島城跡=<解説略> 国泰寺墓地=<解説略>比治山公園=<解説略>長寿園=<解説略>

『広島市勢要覧 1952(昭和27)年版』

来広観光客数及び推定消費金額(昭和27年中、推定総数)(国鉄、汽船、郊外電車、バス調)futaba20070127-39 

C 被爆国

被爆者対策(略)、被爆者対策、被爆者対策予算(厚生省)

原爆死没者追悼平和祈念館

1998年3月13日=国が広島・長崎両市に建設を予定している原爆死没者追悼平和祈念館について、「(既存の原爆資料館などと)屋上屋を重ねる。再検討するべきだと思う」と述べ、建設中止も視野に入れ計画を見直す考えをしめす(『中国新聞』3月14日)

原爆死没者追悼平和祈念館開設準備検討会最終報告

1998年9月10日「既存の関連諸施設との関係」の項より抜粋
「広島に設置される祈念館の特徴として位置づけられる、「被爆関連資料・情報の収集及び利用」については、既存の資料館が原爆死没者の遺品等、主として被爆した「もの」を通して原爆被爆の実相を伝え、平和を訴えているのに対し、祈念館では、原爆死没者や遺族等の手記、体験記等を収集し、利用に供することにより、主として被爆した人々の「こころとことば」によって原爆被爆の実相を伝え、平和を訴えようとするものである。」
2002年8月1日開館。

広島平和記念都市建設法

広島平和記念資料館 世界平和記念聖堂  

平成18年(2006年)7月5日、わが国の戦後建築物としては初めて、国の重要文化財に指定。広島平和記念資料館:丹下健三が設計し、国際的に高い評価を受けた最初の戦後建築であり、同氏の出発点となった作品。

平和記念公園  2007年2月6日、国の名勝に指定

 

D ヒバクシャ=人類

原爆ドーム保存

広島県議会意見書1( 1950年11月29日)

元県立産業奨励館跡を史蹟指定方について(理由)

広島は原爆による未曽有の被災を受け、全世界の同情と注視を集めているのであるが、被爆の中心地に所在している元県立広島産業奨励館は、被災の惨状を物語る唯一の史蹟とし残存し、その後五ケ年風雨のため朽廃の度甚しく、まさに倒壊にひんしており、あまつさえ鉄材の物価騰貴のため、鉄の盗難又続出し、その保存はまことに遺憾な現状にある。

依って右の被爆建築物を文化財保護法に基く史蹟として指定し、更に原爆に関する諸資料及び記念物をドーム内に蒐集陳列し、県民は勿論、広く観光に来遊する内外人の観覧に供し、よい記念としてその保存に十全を期し、平和広島の建設は申すに及ばず世界平和の象徴とするよう早急に措置せられることを要望するものである。

保存運動(発端)

1964(昭和39)年12月22日、広島の3つの原水禁団体(原水協・原水禁・核禁会議)を含む11の平和団体代表、浜井信三広島市長に原爆ドームの永久保存を要請。この要請は、原水禁運動が分裂して以来はじめての3団体の共同行動。 市長、11団体の要請に対し、「来年度予算案に調査研究費を計上して、専門家に保存方法を研究させる」と、初めて保存の意志を明らかにする。(『中国新聞』1964年12月23日)

原水禁・被爆者関係11団体要請書(抄) 1964年12月22日

しかしながら、人類最初の原爆の記念物である広島の遺跡は、二十年の歳月の中で失われ消し去られ、現在辛じて残されているのは、原爆ドームがほとんど唯一のものとなっています。

紀元前の戦の跡を物語るトロヤの遺跡、近代戦争の犯した残虐さの限りを示すアウシュビッツ収容所の残忍なまでに生々しい証拠物にも劣らず、広島の原爆の遺跡は、永く人類の歴史の中に残されなければならない重要な記念物であります。

浜井信三広島市長の見解

被爆者の中にも、原爆ドームには両論ありましてねえ。早く忘れたい、あれがあると町に出るのが苦痛だという人もあったんです。まあ、最近、あの建物を解いて組み直す必要があるという専門家の意見もあるんですが、私らはそんなことは必要ない、あのままでいいという気持ちなんですが、置いておいても十年ぐらいはなくなるものでなし、終局的には次の世代の人が決めればいいんですねえ(注=保存調査のために今年度、市は百万円の予算を計上)。

私の原則論は、当時のものはとり去り、資料的なものは資料館の中にいれたい、そして政府が”白書運動”を取りあげれば、それは結構なことで、ぜひ手をつけてもらいたいということです。 出典:『週刊新潮』1965年6月5日号

浜井広島市長「原爆ドーム保存の訴え(抄)」  1966年11月1日

あの日以来、かろうじて生き残った者たちを先頭に、幾多の苦難を越えて広島の復興は進められ、広島は今や平和を象徴する都市として回生し得たのであります。  しかし、そのことによって、原爆の跡はほとんど取り除かれ、現在残されているのは、いわゆる「原爆ドーム」のみとなりました。  その事実からして、この原爆ドームこそは、広島の惨害を記憶し、それを語る基点としてはまことにふさわしい記念物であります。もちろん、わたくしたちは原爆ドームが、人類史上類例もない大惨禍を実証するには余りにも小さすぎることを知っております。

原爆ドームの世界遺産化

1996.11.29~30 世界遺産委員会ビューロー会議、メキシコ・メリダで開催。原爆ドームが審議される。

12.2 委員会、メリダで開会。

12.6 原爆ドームと厳島の世界遺産への登録が決定。(メキシコ現地時間5日)

1996.12.5(現地時間)国際記念物遺跡会議(ICOMOS)による文化遺産の説明。

中国代表の発言=登録の決定に必要な会場のコンセンサス(合意)には参加しない。

午前9時33分、コンセンサスによりドームの世界遺産が決定。

アメリカ代表=この合意に参加しないことを宣言する声明を発表。

出典:朝日新聞社編「原爆ドーム」

平和記念施設あり方懇談会

2004年7月~2005年6月  広島 4回 東京 4回

平山郁夫委員:釈尊誕生の地ルンビニ、 飯田喜四郎委員:ギリシア・ローマの遺跡

山折哲雄委員:エルサレムの嘆きの壁、 横山禎徳委員:サンチアゴ・デ・コンスポテラ

被爆60周年 「枠組み」に大きな変化はなし<原爆ドームの世界遺産化に伴い、原爆被害を世界の歴史の中にどう位置づけるのかの検討が始まったことを示すもの>。

≪平山委員≫

これは根幹に関わることだが、日本の遺跡の保存の仕方は、例えば奈良でも、あるいは海外でお釈迦さんの生まれた土地ルンビニに行っても、皆、公園化している。奈良でも石舞台の所に花や芝生を植えて道を造って、これでは遺跡ではない、破壊である。ドームを見ても芝生があって最後に瓦礫がある。なぜ瓦礫を残さないのか。当時はこんな綺麗ではない。阿鼻叫喚、地獄があった訳だが、それを知らない今の世代の人が見たらどう思うだろうか。

過去の論議の資料で以前の市長が「火事になってもこの程度は壊れる」と言ったという記録があったが、まさしくそうである。この遺跡をどう扱うかは、アウシュビッツや色々な施設と比べてみても、姿勢が問われると思う。

日本人は優しいところがあるから、平和的にやろうということならまた違ってくる。何を残していくのか、その精神とメッセージをどう伝えるのか。ただし構造的、物理的に限界があり、現状維持ではすぐ壊れるので、可能な限りガッチリと修理し、耐震構造にしても同じだが、それをどう景観と結びつけるか。その辺を根本的に討論したらどうか。

おわりに -被爆体験の歴史化-

陸上自衛隊広島市内パレード。1962年~。1965年平和公園使用計画。反対運動起こる。73年までパレード実施。<大和ミュージアムや岩国米軍基地との関連で>

陸上自衛隊第13旅団(安芸区矢野町・安芸郡海田町)。1939年旧陸軍の物資補給所。1950年警察予備隊駐屯地。1962年、陸上自衛隊第13師団。中国5県と四国4県を担任。1999年3月第13旅団。中国5県。

政令指定都市=広島市1980年4月1日。

五大都市(大阪、名古屋、京都、横浜、神戸)=1956年9月1日、北九州市1963年。 札幌市、川崎市、福岡市。72年。仙台市89年。 千葉市92年 さいたま市2003年。静岡市2005年。 堺市2006年。新潟市、浜松市 2007年。

第12回アジア競技大会 1994年10月2日~10月16日 広島 首都以外では初の開催

1951年、インドの提唱により始められた、アジアの国々のための総合競技大会。

ピースキャンドル 1997年8月6日 広島青年会議所、ひろしま点灯虫の会 <ライトアップ>

ワールドサッカー 2002年5月31日~6月30日

日本では1993年1月に国内開催都市候補地を選定=札幌 宮城 新潟 茨城 埼玉 横浜 静岡 大阪 神戸 大分

GROUND ANGELライトアート2005年12月16日~12月25日 広島平和記念公園(資料館前広場)

岡本太郎『明日の神話』=『太陽の塔』の制作と同時期の、1968年から1969年に描かれた。

2003年9月、メキシコシティ郊外の資材置き場で発見

折りづるみこし 2007年5月のひろしまフラワーフェスティバル(FF)に初登場

主要国(G8)下院議長会議(議長サミット)=2008年9月に広島市内で開催。

復興と復元  被爆建造物、頼山陽記念館+旧日本銀行広島支店、市民球場=小堺、伝統的建造物群保存地区、

歴史へのこだわり  学都広島大学の東広島移転、広島大学霞キャンパス開発史、長崎との対比futaba20070127-85

近代化遺産  

  • 呉との対比
  • 重要文化財(建造物)
  • 明治=旧呉鎮守府司令長官官舎(呉市入船山記念館)
  • 大正=本庄水源地堰堤水道施設
  • 昭和=広島平和記念資料館、 世界平和記念聖堂
  • 経済産業省近代化産業遺産
  • 2005年5月 大和ミュージアム開館

久保田訓章

久保田訓章

くぼた・のりあき 生20190331没 享年86 1973~2017年広島東照宮宮司。名誉宮司。二葉の里歴史の散歩道ブラッシュアップ研究協議会会長。広島・長崎宗教者平和会議に参加。

資料年表:久保田訓章<作業中

 年月日
 1996
 0806 「序文( 広島県宗教連盟前々理事長・広島東照宮宮司 久保田訓章)」( 『広島県宗教連盟「戦後五〇年」誌-平和と慰霊・追悼の歩み』所収)
 2004
0313 久保田訓章「「五年後」に感じて…」(『雲雀 第4号 2004.03.13』、広島花幻忌の会)
 2005
0416  久保田訓章「原民喜「五年後」に感じて」(『わが昭和史 続編 中学入学60周年記念誌』)中学入学60周年記念アカシア41期会「記念誌編集発行委員会」)
 2009
0805  「原民喜文学碑 境内に建立へ 広島東照宮」(『中国新聞』桑島美帆・記者)
2010
 0321  「文学碑計画の久保田宮司 記憶 後世に残したい」(『中国新聞』梅原勝己・編集委員)
 0608 「原民喜文学碑 市長が揮強へ 東照宮宮司ら依頼」 (『中国新聞』明知隼二・記者)
0726  「被爆直後のメモ 一節刻む 原民喜の追憶碑除幕 東照宮」(『中国新聞』新田葉子・記者)<除幕式:20100725>
 2011
 0931  (『中国新聞』)
 2012
 0726  (『中国新聞』)
2013
 0213 「 宗派超え平和考える 広島・長崎宗教者会議」(『中国新聞』山本乃輔)<今年で28回目>
 2014
 0805  二葉の里歴史の散歩道ブラッシュアップ研究協議会(7社寺・広島市など)主催行事:7社寺が「平和の灯」(平和公園)から採火した約千本のロウソク点火。今年で3回目。(『中国新聞』20140730、川手寿志)
2015
 0309
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 2019
 0331  「久保田訓章氏死去」(『中国新聞』0401)

ジョン・ハーシー

ジョン・ハーシー

ハーシー、ジョン 19140617生19930324没 はーしーJohn Hersey 78 広島のルポルタージュ「ヒロシマ」の著者。2002年の広島市の平和宣言(秋葉市長)に著書『ヒロシマ』が取り上げられる。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)。

資料年表:ジョン・ハーシー<作業中

年月日
19140617 誕生
20020806 秋葉広島市長、平和宣言で著書『ヒロシマ』に言及。「ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』や**さえも忘れられつつあります」
19930324 死亡。享年78歳。

 

河村郷四追想録

『河村郷四追想録』(河村郷四追想録編纂委員会、19860315)

内容<作業中

著者 タイトル
海塚義郎 序にかえて
写真集
1 少年期より青年期へ
2 マツダと河村さん
3 広島テレビと河村さん
4 スポーツと河村さん
5 河村さんと社会活動
6 河村さんへのレクイエム
荒木武 教育への熱い想い―河村さんとの語らいの中で
遺族の方々より
栗村良周 兄を偲ぶ
松元寛 仕事の中に心を見ていた人
中西忠彦 義父河村郷四の思い出
河村瑠璃<妻> 追憶
河村郷四年譜
あとがき

同和地区の被爆者

『同和地区の被爆者』(広島中央保健生活協同組合、島地区被爆者の会、全国解放運動連合会福島支部、広島合同労組福島生協病院支部、ほか編、19780806)

内容<作業中

1 序にかえて
5 はじめに
1 原子爆弾による同和地区(福島町)の被害
2 原爆被害の記録
手記1~4
3 同和地区被爆者の被災後の生活
手記5
4 福島被爆者の会の設立と被爆者運動
手記6~9
5 同和地区における原爆被災の後遺
6 まとめ
19 国連軍縮特別総会派遣代表座談会
あとがき(田阪・記)

福島生協20年誌

『福島生協20年誌』(福島生活協同組合、福島生活協同組合、1976/05/30)

内容

2 飛翔 ふかがわむねとし
4 木原清春(福島生活協同組合理事長)
6 田坂正利(福島生協病院院長)
8 例言
10 目次 題字:木原清春、カット:四国五郎、監修:深川宗俊
12 福島生協・前史
1.福島町の概略
2.福島町における医療の実態
3.診療所設立運動
4.診療所の建設と医療生協の創立
17 昭和二〇年八月六日
21 胎動の季節
運動のさわたつ波に 中本康雄 21
福島診療所創立のころ 山内彗 24
小さな窓口 岩井早苗 26
開設当時の想い出 松本カズ代 27
診療所の頃 石田寿美恵 28
31 野火のように
診療所の充実をめざして 31
病院建設へのあゆみ 32
病院の東側に西消防署 36
被爆者認定医療機関に 37
機関紙・生協ふくしま 38
医師住宅・看護婦宿舎の建設 38
「けんこう」はみんなの健康を守る新聞 40
福島地区水害闘争弾圧事件 40
42 飛翔のために
飛翔のために 42
総代会制で飛躍をはかる 42
第一回被爆者医療研究集会のこと 田坂正利 43
福島病院医療班・無医地区で活躍 石田泰雄 45
明るい町づくりを 46
飲酒患者の問題 47
組合員を中心にはば広い生協活動を 48
短期二カ年計画 49
被爆者診療のとりくみ 50
被爆者検診車のこと 51
ダイアグノウスの重軌跡 野口隆司 53
疾患別グループ 55
足指に生きる 58
老人の生活実態調査の報告 59
保険医総辞退について 60
60 開花の譜
第一次長期五カ年計画 60
草津診療所 浜口逸記 62
福島地区被爆者健康診断について 故・鏑木富衛 62
一〇〇〇人目の赤ちゃん 中本雅子 66
沖縄県被爆者激励医療調査団 三村正弘 67
班活動の経過と展望 篠原孝義 69
詩・生協病院賛歌 73
経営危機打開のために 村田康昭 74
創立二〇周年 75
祝賀行事小委員会 盛岡富寿 76
78 座談会―20年のあゆみ
87 全国民医連・生協関係 福島生活協同組合年表
107 広島西部地区空港写真・三葉
115 福島生協 年表
126 編集後記

 

被爆者医療のあゆみ(福島病院 19710520)

『被爆者医療のあゆみ』(福島病院 19710520)

内容<作業中

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 鏑木君の死を悼む 1971.4.10 田阪正利
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 目次
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1.健診報告
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 序 佐久間澄(日本原水協代表理事・広島県原水協理事長)
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 被爆者医師の取りくみにあたっての方針 田辺勝(広島県原爆被害者団体協議会理事長)
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被爆診療科のあゆみ
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