賀状 松原美代子(ヒロシマの心を伝える会)⇒宇吹
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賀状 松原美代子(ヒロシマの心を伝える会)⇒宇吹
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資料年表:松原美代子<作業中>
| 年月日 | |||
| 1932 | 誕生 | ||
| 19450806 | 広島女子商業(現・広島翔洋高校)1年、12歳の時、建物疎開の作業中に爆心地から約1.5キロで被爆。 | ||
| 1956/1/1 | われらのうた 1956.1.1 | 第15号 | われらのうたの会 |
| 望み 松原美代子 28 | |||
| 1956/3/8 | われらのうた 1956.3.8 | 第17号 | われらのうたの会 |
| 思いやり 松原美代子 29 | |||
| 1957/2/1 | われらのうた 1957.2.1 | 第27号 | われらのうたの会 |
| 思いやり 松原美代子 40 | |||
| 1982/6/15 | 原爆の絵アメリカ反核の旅 松原美代子さん | NHK | NHK広島放送局 |
| 1982.7.1 | 『平和文化』第36号(広島平和文化センター) | ||
| 米国でのヒロシマの証言を終えて(広島平和文化センター主事 松原美代子) | |||
| 1982/8/20 | ヒロシマ・ナガサキの証言’82夏 | 石田明、浜崎均編 | 広島・長崎の証言の会 |
| 1983/2/4 | ヒロシマナガサキ 核戦争のもたらすもの 上映の記録 1982.4~12 | 岩波映画、岩波映像販売編 | 岩波映画、岩波映像販売 |
| 1983/8/20 | 原爆の絵アメリカを行く | 松原美代子著 、ヒロシマを知らせる委員会編 | 日本放送出版協会 |
| 1983/8/20 | ヒロシマ・ナガサキの証言’83夏 | 秋月辰一郎、庄野直美編 | 広島・長崎の証言の会 |
| 1983/9/22 | ヒロシマ・ナガサキ平和学習の旅 昭和58年度 | 上智大学学内共同研究平和研究(庭野平和財団助成) | |
| 1984/2/21 | 核・貧困・抑圧 ’83アジア文学者ヒロシマ会議報告 | アジア文学者ヒロシマ会議実行委員会編 | ほるぷ出版 |
| 1984/11/11 | HIROSHIMA&WAR | 栃木県立那須農業高等学校2年4組・社会部編 | 栃木県立那須農業高等学校 |
| 1985/8/1 | ぼくたちはヒロシマを見た ヒロシマと戦争の実態に迫るために | 栃木県立那須農業高等学校社会部 | 栃木県立那須農業高等学校 |
| 1985/8/6 | 原爆の絵は訴える | NHK | NHK |
| 1986/4/21 | 松原美代子さんの被爆体験を聞いて | 池田市立細河小学校6年生 | 池田市立細河小学校 |
| 1986/5/1 | 平和文化 1986.5 | 第59号 | 広島平和文化センター |
| 原爆乙女の暗い青春 原爆被爆体験語り部 松原美代子 | |||
| 1987/1/20 | ヒロシマの女たち | 広島女性史研究会著編 | ドメス出版 |
| 1988/3/31 | 原爆被爆者は訴える 被爆証言集 平和冊子 No.6 | 広島平和文化センター編 | 広島平和文化センター |
| 1989/4/1 | かけはし 1989.04.01 | 第20号 | YMCA国際平和研究所 |
| 限りない平和の巡礼者として 松原美代子 | |||
| 1994/3/10 | 千羽鶴 12人の語り部証言集 | 堺市立五箇荘中学校16期生編 | 堺市立五箇荘中学校16期生 |
| 1995/1/1 | 1995年度 ひろしまを考える旅 記録集 ひろしまから明日へ | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」小委員会 | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」小委員会 |
| 1996/1/1 | 1996年度 ひろしまを考える旅 記録集 ヒロシマの声は、世界に届かないの? | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」小委員会 | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」小委員会 |
| 1996/9/10 | 証言-ヒロシマ・ナガサキの声1996 | 長崎の証言の会編 | 長崎の証言の会 |
| 1997/3/31 | 創大平和研究 1997.03.31 | 第18号 1996 | 創価大学平和問題研究所 |
| ヒロシマの心:核兵器のない世界への祈りと行動 松原美代子 | |||
| 1998/1/1 | 千代田区平和使節団の報告 (平成9年度) | 千代田区 | 千代田区 |
| 1998/10/31 | 親子広島バスツアー感想文集-平和・非核学習の旅 平成10年度 | 原水爆禁止西宮市協議会、西宮市編 | 原水爆禁止西宮市協議会、西宮市 |
| 1999/3/31 | 原爆被爆者は訴える 被爆証言集 第2版 平和図書 No.6 | 広島平和文化センター編 | 広島平和文化センター |
| 2000/8/15 | 広島市医師会だより 2000.8.15 | No.412 | 広島市医師会 |
| 特集 対談 「ヒロシマ」を語り継ぐ-語り部 松原美代子さんに聞く- 20 松原美代子VS碓井静照 | |||
| 2001/12/20 | 2001年度 ひろしまを考える旅 記録集 | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」準備委員会 | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」準備委員会 |
| 2004/1/1 | 広島市平和祈念式に参加して 平成16年度派遣団記念文集 | 甲府市 | 甲府市 |
| 2004/5/22 | 証言集 | 大和中学校 | 大和市立大和中学校 |
| 2005/6/10 | 原子野からの旅立ち | 女子パウロ会 | 女子パウロ会 |
| 2008/7/28 | 原爆の絵 2007 | 広島市立基町高等学校 創造表現コース | 広島市立基町高等学校 |
| 2010/3/19 | 修学旅行「旅と証言の記録」 2009年 第2学年 | 埼玉県立松山女子高等学校 | 埼玉県立松山女子高等学校 |
| 2010/7/5 | 次世代と描く原爆の絵 2007・2008・2009 | 広島市立基町高等学校 創造表現コース | 広島市立基町高等学校 |
| 2011/7/31 | 上空より = From above | ポーレ・サヴィアーノ著 | コンテンツ・ファクトリー |
| 2012/3/30 | 原爆被爆者は訴える 被爆証言集 第3版 平和図書 No.6 | 広島平和文化センター編 | 広島平和文化センター |
| 2012/8/1 | 次世代と描く原爆の絵 | 広島市立基町高等学校 創造表現コース | 広島市立基町高等学校 |
| 2016/11/18 | 女性たちのヒロシマ 笑顔かがやく未来へ | 創価学会広島女性平和委員会編 | 第三文明社 |
| 2017/8/12 | 原爆の絵 平成19~28年度 | 広島平和記念資料館、広島市立基町高等学校 | |
| 2018/8/6 | 次世代と描く原爆の絵 平成19年度~29年度 | 広島市立基町高等学校 | |
| 2001/8/1 | 月刊ク―ヨン 2001.08 | 6巻通巻65号8月号 | クレヨンハウス |
| [落合恵子責任編集]戦争を知らない大人たちへ 91 パピアン・美智子/村井志摩子/栗原貞子/松原美代子/酒井キヨ子/西岡由香/植木智子/石司真由美/上原当美子/高里鈴代 |
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| 20180210 | 逝去。 | ||
| 20180330 | 「評伝・松原美代子さん ヒロシマ証言活動貫く」『中国新聞』(西本雅実・特別編集委員) | ||
| 2022/6/20 | 次世代と描く原爆の絵 平成一九年度~令和二年度 | 広島市立基町高等学校美術科編 | 広島市立基町高等学校 |
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広島平和科学研究所 開所式:1962年8月22日
資料
| ”平和”を学問的に研究-「広島平和科学研究所」誕生-中野広大教授ら中心に(「中国新聞」1962年8月23日) |
| 出典:アール・レイノルズ「広島はいまもわが故郷」(『ヒロシマの意味』所収)
もう一つの手段は、ビキニやウラジオストックへ抗議船を出すような直接行動である。しかし、わたしにはやってみたいもう一つの手段があった。その手段とは、学問の領域で、平和を学問の一つの主題として研究することにあった。長い間、わたしはこの第三の方法を考えぬいてきたが、ついに、広島大学長森戸辰男氏と会って、話しあう機会が与えられた。 飾りのない控え室で森戸学長をまっていたのだが、この間中、二、三年前にクエィカー派の一員となってから学びおぼえた、沈黙の瞑想を行なっていた。精神をおちつけ、ととのえるよい機会であった。 やっと森戸氏が現れて、自分の部屋に招じ入れてくれた。前おきのような雑談がすんでから、わたしは率直に語った。平和研究の研究所を、平和を一つの学問の対象として探り、扱う研究の場を立てたいと。森戸氏は一瞬、考え込んだが、立ち上って、書棚のところに行き、大きな書物をもってもどってきた。さあと目をとおしてから、こういった。「レイノルズ博士、ここには、日本でみとめられている職業、業務の全部がのっているはずです。しかし、平和学、平和研究というのはない。いいや、平和という語がのっていない」。 「では、のせる時期だと考えませんか」。 彼は一瞬、考えていたが、微笑した、「考えておきましょう」。一週間して、森戸氏との面会を段取りしてくれた広大の中野清一教授から電話があって、森戸氏が広島平和研究所(Hiroshima Institute of Peace Science)への協力創設者になることに同意したということであった。予備的な声明はすでに一九六二年十一月十日に出してあった。組織委員は、広島YMCAの相原氏、広島大学の久保、中野、西村、内海の諸氏とわたしであった。HIPS--わたしの研究所はこう略称されてきたが--の正式の発足は、一九六二年八月六日であった。この八月の末に、公的な発会式を広島市内で開いた。東京毎日新聞は、研究所は「広島県、市および財界の全面的バック」をもっていると報じ、取上げる研究として次の項目を書きそえている。 一 核実験と軍備競争の問題、 毎日新聞はさらに、「四九名の著名人が顧問として、企画に参加を同意した」と加えて、湯川、川端、茅、ノーマン・カズンズ氏らの名をあげている。 これは広島平和研究所のきわめてさい幸きのいい第一頁であった。そして、仕事の種類はさまざまで、成功もあり、失敗もあったが、この研究所は五、六年も続いたが、ここで、HIPSの物語を全部まとめておきたい。研究の成果の一部を出版できたが、研究所はほんとうの意味では活発な活躍をしなかった。それには数多くの理由があったが、ただ次の数点をあげておこうと思う。 (1)わたしがアメリカ人でありながら、広島に平和の研究所をたてようとしている。この地方の学究人のグルーブは、この活動を自分たちの活動不足への批判と考えて、多くの批判を浴びせた。 (2)HIPS設立の直後、わたしはロンドンからレーニングラードへ、平和活動の航海の指揮を要請されたのだったが、この依頼を断わるわけにはゆがず、HIPSが一ばん助力を必要としたその時点、不在だった。 (3)わたし自身の結婚上の問題。これがある人たちを分裂させ、一般市民の心情に疑惑を与えた。 (4)さまざまのアメリカの団体から、ノーマン・カズンズ氏を含めて、若干の寄付はあったが、日本側からは全くなかったといっていい。そのために、運営を続ける資金面の土台がなかった。 (5)日本に、この種の研究所をたてるべき時が熱してなかった。 以上の理由から、ほかにもあったが、HIPSの気勢はもり上らなかった。で次のステップとして、平和研究の関心を東京にうつし、東京を中心に、何かの組織を導入してみようかと、徐々に、結論するに到ったのである。関心を示すグループや知識人たちに語りかけ、接触しては、機会の到来をまったのだが、ついに、平和研究のグループが一つできて、今日も、国際的な平和研究の組織に加っていることを喜びとしたい。 広島では、HIPSは静かに死んでいった。いまはその存在を語る記念碑もない。わたしの机の上には、広島平和文化センターが一九六九年に出した小冊子、『平和への歩み』(英文)があるが、終戦以来、広島で行われた平和活動の年代表がついている。「フェニックス」号やわたしの家族の活動の一部は記録されているが、HIPSの設立については一行もない。あるいは、全く存在しなかったのであって、わたし一人の空想の産物にすぎないのだろうか。 |
| 出典:「ヒロシマ巡礼-バーバラ・レイノルズの生涯」(小谷瑞穂子、筑摩書房)pp153-155
もともとレイノルズ博士は、裁判の判決が下りハワイから再びヒロシマに帰還した時から、原爆都市にこそ世界平和を科学的に研究する機関を設置すべきだという構想を抱いていた。第二次大戦後の欧米の大学では、核兵器の開発と、資本主義と共産主義とのイデオロギーの対立を踏まえて、人類はいかにして平和を確保すべきかという問題を追求する新しい研究が注目されていた。 すでに一九六○年代のアメリカの各大学では、「平和科学研究所」が設置されていたし、スエーデンやノルウェーでも国立の平和研究所があったが、日本ではどこの大学にも平和科学の研究機関をおいている所はなかった。そこでレイノルズは広島大学の社会学教授、中野清一に仲介してもらい学長の森戸辰男に働きかけ賛同を得ると、一九六二年八月六日を「広島国際平和科学研究所」の発足の日として、その構想を中国新間紙上に発表した。 その構想とは、 一、放射能と化学兵器による環境破壊と人類に与える障害の研究。 などのテーマで、海外の平和研究所と討議や文献資料などの交換をし、すぐれた論文を出版し、国際的視野から、二十世紀がかかえる紛争の解決の要求に応じようとするものであった。 海外からはシュヴァイツァー博士をはじめとして、バートランド・ラッセル卿やノーマン・カズンズなど、日本国内では日本ペンクラブ会長の川端康成や、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹の支援もとりつけた。とりあえず研究所の仮事務所を広島市の管轄下にあったシュモー住宅におき、レイノルズが所長となり、連絡事務にはアルバイト学生をやとって、諸外国の平和科学研究所から情報を収集することになった。運営基金としては、海外および日本の有力財団から寄付を集める方針で、その依頼の手紙を書くこともレイノルズの仕事であった。 ちょうどバーバラが第一回の平和巡礼を終えてヒロシマに帰ってきたころ、レイノルズの紙屋町郵便局私書箱九九番にはニューヨークのカーネギー財団やロンドンの平和研究所、インドのガンジー財団などから照会の手紙が沢山きていた。だがその山積する仕事をふりきるようにして、アールは、ソ連の核実験に抗議するため、レニングラードに向かうヨットの船長となって、イギリスに出発してしまった。レイノルズは出発まえに委員たちを個別に訪問して了解をとったが、日本人委員たちはイエスともノーともいわず、表面ではだれも批判がましい意見をいう人はいなかった。しかし彼がヒロシマからいなくなると、「レイノルズは書斎に腰をすえて研究する学者ではない。科学者としてよりも、反核運動の活動家の道を選んだのだ。国際的に影響を与えるどんな立派なプロジェクトをかかげようとも、実際にはどれだけの科学者が真剣に協力するかに、研究所の将来がかかっている。すべてがレイノルズの独断専行でことが運ばれ、二十名の委員はあってなきがごとしだ」と厳しい批判が起こった。 三カ月後レイノルズがかえってくると、広島大学側や委員たちの態度は冷たかった。申請していた文部省の認定も日本企業からの基金援助も、留守の間になんの進展もなかった。そのうえ、いままでレイノルズに協力していた中野清一が委員を辞任すると、次々とほかの委員からも辞表がだされた。追い打ちをかけるように、頼りにしていた学長の森戸辰男が中央教育審議会の委員長となり、広島大学を去った。広島国際平和科学研究所(HIPS)の会計をまかされていた森戸の秘書の西村宏は、会計報告を0と記して、レイノルズに渡した。 |
止
年表:レイノルズ夫妻<作業中>
| Y | M | D | NEWS1 |
| 51 | 6 | 24 | アール・レイノルズ(人類学者)、ABCC顧問として来広。 |
| 52 | 8 | 12 | 第7回日本公衆衛生学会(於札幌)で、ABCCのレイノルズ博士、被爆児童の発育調査結果報告。 |
| 56 | 11 | 3 | バーバラ・レイノルズ、初めて広島を訪れる。(「ヒロシマ巡礼」) |
| 58 | 6 | 11 | レイノルズ一家のヨット「フェニックス号」、米のエニウェトク核実験に抗議するため、米ホノルル港を出港。広島の三上仁一も参加。23日、アメリカ沿岸警備隊の監視船に停船を命じられる。(「ヒロシマ巡礼」) |
| 60 | 6 | 9 | レイノルズ一家のヨット「フェニックス号」、横浜港に入港。 |
| 60 | 8 | 6 | 「原爆の子追悼のつどい」(第3回)、広島市平和公園の原爆の子の像の前で開催。約200人が参列。レイノルズ夫妻も。 |
| 61 | 8 | 9 | 原水禁世界大会出席の米国代表団「代表団員のアール・レイノルズ博士(広島女学院大客員教授)を代表団から除名する」と発表。7月30日、広島で開かれた全労系の原水禁全国討論会で日本原水協を批判したのが理由。 |
| 61 | 8 | 9 | レイノルズ、記者会見で語る。「原水協にたいする一番大きな不満はアメリカや西欧陣営の核武装だけを問題にして、ソ連や中国にたいしてはなにもふれないことだ」 |
| 61 | 8 | 12 | 東京新聞「原水禁運動に望む-真正の平和集会を-目標失った原水協」(E・レイノルズ) |
| 61 | 8 | 15 | アール・レイノルズ、核兵器禁止・平和建設国民大会(東京)に特別来賓として出席し、これまでの原水禁運動を批判。 |
| 61 | 9 | 6 | アール・レイノルズ(広島女学院大客員教授)、ソ連の核実験に抗議するためウラジオストックヘ抗議航海する計画を発表。 |
| 61 | 9 | 8 | 朝日新聞「こんどはソ連へ-レイノルズ博士、核実験に抗議-家族同伴ヨット航海で」 |
| 61 | 9 | 09? | アール・レイノルズ、広島に国際平和科学研究所を設立する計画を発表。 |
| 61 | 9 | 19 | ソ連核実験抗議のためウラジオストクへ向かうレイノルズ一家の壮行激励会、流川教会牧師・谷本清の提唱により広島平和公園で開催。広島市原爆被爆者協議会・広島青年連合会・全労地方会議・広島県宗教連盟など11団体から約150人が参加。(「ヒロシマ巡礼」) |
| 61 | 9 | 21 | 中野清一広島大学政経学部長・谷本清流川教会牧師、レイノルズにソ連核実験抗議航海を思いとどまるよう説得。 |
| 61 | 9 | 22 | 法務省、旧ソ連の核実験抗議のためウラジオストクに向かうレイノルズの再入国申請を拒否。 |
| 61 | 9 | 24 | フェニックス号、ソ連ヘ。アール・レイノルズ一家、ソ連核実験に抗議するためヨットでウラジオストックヘ向け広島港を出帆。市民500人が見送り。 |
| 61 | 10 | 7 | メアリー・マクミラン、桑原英昭、谷本清ら30人、レイノルズを支援する「フェニックス会」を結成。 |
| 61 | 10 | 29 | レイノルズの核実験抗議船〃フェニックス号〃ナホトカ入港を拒否され博多港に帰港。 |
| 61 | 11 | 12 | レイノルズ夫妻ら、広島市に帰る。 |
| 61 | 11 | 15 | アール・レイノルズ、核兵器禁止・平和建設国民会議の結成大会に出席し挨拶。(産経) |
| 61 | 12 | 25 | バーバラ・レイノルズ夫人と長女ジェシカ、原爆の子の像の前で平和祈念断食を行なう。 |
| 62 | 1 | 22 | レイノルズ夫妻、「ヒロシマ平和巡礼計画」を発表。 |
| 62 | 2 | 4 | ヒロシマ平和巡礼代表に松原美代子、英宏昌決まる。[レイノルズ] |
| 62 | 3 | 10 | 「ヒロシマ平和巡礼」のバーバラ・レイノルズ、松原美代子、英宏昌、広島を出発。13日、羽田を出発。(「ヒロシマ巡礼」) |
| 62 | 3 | 19 | 「ヒロシマ平和巡礼」のバーバラ・レイノルズ、松原美代子、英宏昌、米サンフランシスコに到着し、記者会見。 |
| 62 | 4 | 11 | ヒロシマ平和巡礼、国連本部で米ソ代表に核兵器禁止を訴える。[レイノルズ] |
| 62 | 4 | 11 | 「ヒロシマ平和巡礼」の松原美代子、英宏昌、米ニューヨークの国連本部を訪れ、バンチ事務次官らに核実験禁止への努力を要請。[レイノルズ] |
| 62 | 4 | 23 | 英核兵器廃止運動主催の大行進、ロンドンに到着。野外大会で、「ヒロシマ平和巡礼」の松原美代子、英宏昌が挨拶。[レイノルズ] |
| 62 | 4 | 30 | 「ヒロシマ平和巡礼」の松原美代子、英宏昌、ジュネーブに到着。[レイノルズ] |
| 62 | 5 | 1 | 平和巡礼の広島原爆被災者松原美代子・英宏昌, 18カ国軍縮会議開催中のジュネーブでゾーリン・ソ連代表と会見. 広島平和行進委員会のメッセージを手渡す.[レイノルズ] |
| 62 | 5 | 2 | 平和巡礼、米代表にも核実験停止を訴える。11日のタス通信, メッセージが軍縮委の公式文書として配布されることになったと報道.[レイノルズ] |
| 62 | 5 | 26 | 広島平和巡礼委員会、タイム誌に抗議電報。[レイノルズ] |
| 62 | 6 | 19 | 「ヒロシマ平和巡礼」のバーバラ・レイノルズ、松原美代子、英宏昌、共産圏諸国に向けストックホルムを出発。(「ヒロシマ巡礼」) |
| 62 | 7 | 27 | 「ヒロシマ平和巡礼」の松原美代子、英宏昌、広島に帰る。[レイノルズ](「ヒロシマ巡礼」) |
| 62 | 7 | 29 | ヒロシマ平和巡礼、広島に帰る。ソなど14カ国訪問。[レイノルズ] |
| 62 | 8 | 3 | ヒロシマ平和巡礼報告会。広島市・平和記念館で。[レイノルズ] |
| 62 | 9 | 3 | アール・レイノルズ広島女学院大学客員教授、エブリマン3号でソ連核実験に抗議するため広島を出発。 |
| 63 | 10 | 8 | 広島・長埼世界平和巡礼実行委員会開く。委員長原田東岷、副委員長バーバラ・レイノルズ決まる。 |
| 64 | 1 | 8 | 広島・長崎世界平和巡礼実行委員会(原田東岷委員長)、4月の世界平和巡礼第2陣のメンバーを決定。志水清広大原医研教授ら4人。[レイノルズ] |
| 64 | 1 | 17 | 広島・長崎世界平和巡礼団の広島関係メンバー決まる。志水清(広島大学教授)ら15人。[レイノルズ] |
| 64 | 3 | 28? | 世界平和巡礼が携行する英文『原爆被害の実相』完成。[レイノルズ] |
| 64 | 4 | 11 | 広島市キリスト教連合婦人会と日本基督教婦人矯風会広島支部員ら20人、平和巡礼資金の街頭募金を広島市内で実施。-12日。[レイノルズ] |
| 64 | 4 | 16 | 第2回広島・長崎世界平和巡礼団、広島を出発。(21日羽出発)。広島市・平和記念館で結団壮行式。松本卓夫団長、団員:バーバラ・レイノルズ、松原美代子、小佐々久仁子、庄野直美、副島まち、森下弘、阿部静子、高原弘子、吉田チエ、河本時恵、満井晟(中国新聞記者)ら40人。2カ月をかけ、欧米・ソ連などを回る予定。(「ヒロシマ巡礼」) |
| 64 | 4 | 20 | 平和巡礼団庄野直美(広昆女学院大学教授)の米国入国査証交付が保留。[レイノルズ] |
| 64 | 4 | 29 | 米、平和巡礼団庄野直美に入国査証発行。[レイノルズ] |
| 64 | 5 | 5 | 平和巡礼団が米ミズリー州インデペンデン市で、トルーマン元米大統領と会見。「広島、長崎両市の代表に会えてうれしい。二度と悲劇の起きないことを心から望む。あのときは原爆投下の決定をくださざるをえなかった。[レイノルズ] |
| 64 | 5 | 28 | 平和巡礼団、米上下両院合同原子力委員会で訴える。「いかなる理由があろうとも原水爆の使用は許せない。原子力は人類の繁栄のために使ってほしい」[レイノルズ] |
| 64 | 6 | 11 | 平和巡礼団、ウ・タント国連事務総長と会見。国連放射能科学研究所が原爆の影響を研究するよう要望。[レイノルズ] |
| 64 | 6 | 11 | 広島・長崎世界平和巡礼団、国連ウ・タント事務総長に,国連が原爆被災者の実態を調査し,その結果を世界に知らせるよう要望.[レイノルズ] |
| 64 | 6 | 26 | 広島・長崎世界平和巡礼団、モスクワに到着。[レイノルズ] |
| 64 | 7 | 4 | 広島・長崎世界平和巡礼団帰国。ナホトカから横浜ヘ。米、ソ、ヨーロッパなど8カ国150都市訪問。松本卓夫団長「広島・長崎の名はよく知られているが、後遺症などの実態はほとんどわかっていない。被爆者の生の声は〃生き証人〃として大きな感動を与えた」[レイノルズ] |
| 64 | 7 | 5 | 広島・長崎世界平和巡礼団、広島に帰る。6日、広島平和記念館で帰国報告会。[レイノルズ] |
| 64 | 7 | 6 | 平和巡礼団の広島市民への帰国報告集会。[レイノルズ] |
| 64 | 7 | 33 | 談和会、7月例会.庄野直美,平和巡礼の報告をおこない,原爆被害者の調査を国際的規模で実施することの重要性を提案.[レイノルズ] |
| 64 | 8 | 09? | レイノルズ夫妻、離婚。 |
| 65 | 4 | 16 | 中国新聞「私はなぜ広島に帰ったか」(バーバラ・レイノルズ) |
| 65 | 5 | 4 | 世界平和巡礼団(広島・長崎の被爆者グループ)、「米はベトナムから撤退せよ」とジョンソン大統領へ抗議文送る。[レイノルズ] |
| 65 | 5 | 17 | 広島・長崎平和研究会(三十九年春、欧米各国を回った平和巡礼団関係者で組織、庄野直美幹事長)、周恩来中国首相に核実験反対の抗議文送る。[レイノルズ] |
| 65 | 7 | 19 | 広島・長崎世界平和巡礼団、ジョンソン米大統領へ送ったベトナム戦争にかんするの要望書への返書を受け取る。「核兵器の使用は現段階では軍事的必要がない」[レイノルズ] |
| 65 | 8 | 7 | ワールド・フレンドシップ・センター(世界友情の家)の発足。広島と世界の平和を求める人との提携センターで、バーバラ・レイノルズが提唱。事業内容①生活困窮被爆者のための福祉事業②外国の平和活動家に生活・研究の場を提供④平和にかんする |
| 65 | 10 | 12 | ワールド・フレンドシップ・センター、理事会を開催。被爆孤老施設の開設を決める。[レイノルズ] |
| 65 | 10 | 23 | ワールド・フレンドシップ・センター(広島市南観音町)開所式。被爆孤老3人が入園。[レイノルズ] |
| 67 | 3 | 28 | 広島から出港のアール・レイノルズ博土の反戦ヨット、フェニックス号、北べトナムのハイフォン港着。医薬品(一万ドル相当)を北ベトナム赤十字社に贈る |
| 69 | 3 | 21 | 米平和運動家バーバラ・レイノルズ女史が広島を離れ帰国 |
| 74 | 7 | 15 | 山田広島市長、来年中に原爆被爆資料の海外での展示を実現したいとの意向を市議会で明らかにする。7月末、ノーマン・カズンズ、バーバラ・レイノルズ、ノエル・ベーカー、エディタ・モリス、ダニロ・ドルチに協力を要請。 |
| 74 | 9 | 2 | 山田広島市長、米のバーバラ・レイノルズからオハイオ州ウイルミントン大学で来年被爆資料展を開くとの回答を得たことを明らかにする。 |
| 75 | 5 | 18 | 平和運動家バーバラ・レイノルズ、ロサンゼルス市で在米被爆者援護のための募金活動開始。 |
| 75 | 8 | 1 | 「広島、長崎30年後-ウィルミントン会議」。米ウィルミントン大学で五日まで。バーバラ・レイノルズ提唱。被爆者代表も出席。フォード米大統領と三木首相に核廃絶の努力を要請するメッセージ送る |
| 75 | 10 | 3 | 中国新聞「この人:バーバラ・レイノルズ-広島市の特別名誉市民章を受ける米人」 |
| 75 | 10 | 15 | バーバラ・レイノルズ(米平和運動家)に広島市が特別名誉市民章 |
| 77 | 7 | 30 | このほどNGOシンポ参加のためバーバラ・レイノルズ来広。 |
| 77 | 8 | 2 | 広島市特別名誉市民レイノルズ女史、NGOシンポ参加のため来広中、広島市長を訪問。 |
| 78 | 7 | 19? | 米ウィルミントン大学ヒロシマ・ナガサキ記念文庫の世話役バーバラ・レイノルズの後継者決まる。 |
| 78 | 8 | 18 | 広島大学で、国際平和科学会開催。(19日まで)米レイノルズ博士ら出席。 |
| 78 | 8 | 21 | レイノルズ博士、長崎市で「平和運動の歩み」と題して講演。 |
| 80 | 8 | 4 | 平和運動家バーバラ・レイノルズ、来広。 |
| 82 | 4 | 15 | SSD2に向けての平和キャラバン、ロサンゼルスで活動開始。(原爆展を開催しながら米大陸を横断。)被爆者松原美代子、バーバラ・レイノルズらが参加。 |
| 82 | 11 | 22 | 米の平和運動家バーバラ・レイノルズ、来広。広島市長と懇談。 |
| 83 | 3 | 17 | 米の平和運動家バーバラ・レイノルズの自伝刊行のため、長崎県の翻訳家、来広し取材。 |
| 84 | 12 | 11 | 米の運動家、バーバラ・レイノルズ「84ワンダー・ウーマン賞」(社会活動などに業績のあった女性に贈られる)を受賞したことが判明。 |
| 85 | 4 | 22 | 広島市、今夏の平和祈念式に特別名誉市民ノーマン・カズンズ、バーバラ・レイノルズを招待することを決定。 |
| 85 | 5 | 17 | 米の平和運動家バ-バラ・レイノルズ、戦争抵抗者連盟(本部:ブリュッセル)の第24回平和賞を受賞。 |
| 85 | 8 | 3 | バーバラ・レイノルズさんを囲む会、広島市で開催。 |
| 85 | 8 | 3 | 米のノーマン・カズンズ、バーバラ・レイノルズ、フロイド・シュモーら、平和祈念式に参加のため来広。 4日、広島市長を表敬訪問。 |
| 86 | 11 | 28 | 元広島女学院院長松本卓夫(被爆者)、死去。1964年に広島・長崎世界平和巡礼団団長として各国を歴訪。[レイノルズ] |
| 88 | 12 | 26 | 広島市の特別名誉市民で米の平和運動家バ-バラ・レイノルズの健康状態がすぐれないことが判明。ワ-ルド・フレンドシップ・センタ-、激励の手紙を送ることを呼び掛け。 |
| 90 | 2 | 11 | 米の平和運動家バーバラ・レイノルズ、死去。1951年に来広し、18年間広島市に滞在、1962年に広島・長崎平和巡礼団を組織するなど平和運動に貢献。 |
| 90 | 2 | 24 | 米の平和運動家バーバラ・レイノルズ(11日に死去)をしのぶ「記念会」、広島市で開催(ワールド・フレンドシップ・センタ-主催、約80人参加)。 |
| 90 | 3 | 31 | 山田信蔵(被爆者)、死去。故バーバラ・レイノルズに日本語を教えたのが縁で、1964年に第2回世界平和巡礼に参加。 |
| 90 | 4 | 29 | 長崎の証言の会、米の平和運動家バ-バラ・レイノルズさんをしのぶ会を長崎市で開催(約30人参加)。 |
| 90 | 8 | 7 | ワールド・フレンドシップ・センター、創立25周年の集いを広島市で開催(35人出席)。同センターは、1965年にバーバラ・レイノルズが設立。 |
| 90 | 9 | 14? | 故バーバラ・レイノルズの蔵書類(約100冊、被爆体験記集など)、米国原爆被爆者協会に寄贈。 |
| 94 | 6 | 05? | 広島市の医師原田東岷、バーバラ・レイノルズとノーマン・カズンズの偉業を綴った単行本『平和の瞬間』(勁草書房)を出版。 |
| 95 | 2 | 11 | ワールド・フレンドシップ・センター、創立者のバーバラ・レイノルズを追悼するピアノリサイタルを広島市のエリザベート音大で開催。約500人が参加。 |
| 98 | 1 | 11 | 広島の反核運動の先駆者で米国の人類学者アール・レイノルズ、死亡。 |
| 98 | 1 | 23 | 中国新聞「文化:レイノルズ博士の死に思う(原田東岷)」 |
| 98 | 3 | 7 | ワールド・フレンドシップ・センター(広島市内)、レイノルズ夫妻を偲ぶ会を開催。約20人が参加。 |
| 98 | 7 | 09? | 広島市の医師・原田東岷、バーバラ・レイノルズ夫人とノーマン・カズンズの活動記録「平和の瞬間」の英訳版「MOMENTS OF PEACE」を出版。 |
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『レインボー・ビレッジ』(バーバラ・レイノルズ著、グループ「ハート」 訳 、中国新聞社出版部編、19950801)
内容<作業中>
| 頁 | ||
| 02 | はじめに | |
| 03 | バーバラ・レオナルド・レイノルズ | |
| 04 | 「レインボー・ビレッジ」に寄せて(ジェシカ・レイノルズ・シェーバー) | |
| 05 | レインボー・ビレッジ(バーバラ・レイノルズ) | |
| 147 | あとがき 原田東岷 | |
| 148 | 訳者あとがき | |
| 149 | バーバラさんと広島(中国新聞の記事から抜粋) | |
止
『さらば広島 = Goodbye to Hiroshima』(大原三八雄編、バーバラ・レイノルズ女史に感謝する会、1969/07/21)
内容<作業中>
| page | |||
| 03 | Introduced by Setsuo Yamada,Mayor oh Hiroshima Ⅰ Writings by Mrs.Barbara Reynolds 1.Goodbey to Hiroshima. 2.Recollection of Hiroshima. 3.Hiroshima,City of Hope. Ⅱ A Bouquet from Hiroshima 1.Goodbye,Barbara San. -Tomin Harada. 2.Because the Earth is Green. -Miyao Ohara. Ⅲ A Flowerbasket from East and West 1.From a schoolmistress. 2.With a deep Emotion. 3.Retracing the Origin of Peace. 4.To Bodhisattva Barbara. 5.Wishing a Nice Rest in Your Home Country. |
||
| Ⅰ バーバラさんのペンの跡を追う | |||
| 1.さらば広島 2.広島の思い出と希望 3.希望の都 ヒロシマ |
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| Ⅱ ヒロシマからの花束- | |||
| 1.さようなら バーバラさん 原田東岷 2.地球は青いのだから 大原三八雄 |
|||
| Ⅲ 東から西から花籠を | |||
| 1.一教師より 佐藤和子 2.この感動を 大江みち 3.平和の原点に帰る 松原隆 4.バーバラ菩薩に 中田栄一 5.母国でゆつくりお休み下さい 酒井美代子 |
|||
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『ヒロシマ巡礼 バーバラ・レイノルズの生涯』(小谷瑞穂子著、筑摩書房、1995/06/25)
内容
| プロローグ 5 | |||
| 第1章 | ヒロシマへ 14 | ||
| 初めて会ったヒバクシャたち | |||
| レインボー・ブリッジは虹色の村? | |||
| そして第五福竜丸事件が起こった | |||
| 第2章 | 平和を求めて 40 | ||
| ゴールデン・ルール号、その運命的出会い | |||
| 6年ぶりのヒロシマ、揺れる平和運動 | |||
| フェニックス号、嵐のナホトカ行き | |||
| 第3章 | ヒロシマ・メッセージ 73 | ||
| 「原爆の子」像前でのクリスマス | |||
| 宏昌と美代子と平和巡礼の旅 | |||
| 第4章 | デモクラシー国家とは 116 | ||
| ある女性ジャーナリストからの手紙 | |||
| 再び世界へ―世界平和研究使節団の出発― | |||
| 死の灰の危険性 | |||
| トルーマンとの会見 | |||
| ベルリンの壁を越えて | |||
| 第5章 | クオ・ヴァディス(神よ いずこ) 151 | ||
| 切れた絆 | |||
| 世界友情の家(ワールド・フレンドシップ・センター=WFE) | |||
| 風に吹かれて | |||
| 第6章 | ホーム・カミング(帰郷) 194 | ||
| さらば、ヒロシマ | |||
| ペンドルヒルの鐘 | |||
| ウィルミントン大学ヒロシマ・ナガサキ・コレクションの設立へ | |||
| ヒロシマ会議 | |||
| アメリカにいた被爆者たち | |||
| 国際平和セミナー開催 | |||
| 広島名誉市民章 | |||
| 第7章 | 「原爆の絵」キャラバン 231 | ||
| ヒロシマからの誘い | |||
| アメリカ女性たちの反核運動 | |||
| 友情よ永遠に | |||
| 第8章 | 神の計画 258 | ||
| 軌跡を信じて | |||
| ワンダーウーマン賞 | |||
| 未来の子供たちのために | |||
| チェルノブイリ原発事故 | |||
| 燃えたアパート | |||
| 神からの招待 | |||
| あとがき | |||
| 主要参考文献・資料 |
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村上忠敬
| むらかみ・ただよし | 1907***生19850211没 | 村上忠敬 | むらかみ・ただよし | 享年 77 | 広島大学高師教授。[50ヒロシマ・ピース・センター建設協力者]。広島大学名誉教授。1970年4月~74年3月、広島女学院大学長。1968年~83年、核禁広島県民会議議長。在韓被爆者のための医師団派遣などに尽力。[70ヒロシマ会議] |
関連資料
| 『放送RCC』第70号Vol. 7 No.8 1967.08.01 | |||
| 討論会■平和三団体は何をしてきたか 10 | |||
| 浜井信三・原田東岷・永松初馬・松浦亮・田辺勝・板倉静夫・村上忠敬・今堀誠二 | |||
| 『放送RCC』第90号Vol. 9 No.7 1969.07.01 | |||
| 放送とわたし■宇宙のはなし 村上忠敬 2 | |||
| 『濱井信三追想録』(濱井信三追想録編集委員会、1969/08/06) | |||
| YMCAに尽力 村上忠敬 330 | |||
| 『生死の火 広島大学原爆被災誌』(広島大学原爆死歿者慰霊行事委員会、1975/08/06) | |||
| 原爆のあとさき 村上忠敬 247 | |||
| 『在韓被爆者』(核兵器禁止平和建設国民会議編・刊、1978/04/01) | |||
| おわりに 核禁広島県民会議議長 村上忠敬 51 | |||
| 『広島通信』No.57 1978.04.01 | |||
| 韓国人被爆者とともに 村上忠敬 | |||
| 『追懐 広島高等師範学校創立八十周年記念』(広島高等師範学校創立八十周年記念事業会、1982/10/17) | |||
| 五 理科第二部関係 303 (一) 小史 303(二) 思い出 ・村上忠敬 306 | |||
| 『創立百周年記念誌』(日本基督教団広島教会、1983/11/27) | |||
| 回顧と展望 村上忠敬 46 | |||
| 『昭和13年早生まれ』(佐藤健、2007/04/15) | |||
| (10)村上忠敬先生と私…96 | |||
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『原爆の絵アメリカを行く』(松原美代子著 、ヒロシマを知らせる委員会編、日本放送出版協会、1983/08/20)
内容
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| Ⅰ | 18年待った旅が始まる 7 | ||
|
ロサンゼルス/サンタモニカ 「これは本当に起こったことなのか?」 9 サンフランシスコ/バークレー “グラウンド・ゼロ”運動は迫る姿勢に欠けている! 26 ユージン/ブレマートン 「ニュークリア イエス(核賛成)!」 43 |
|||
| Ⅱ | モンタナからアイオワへ 55 | ||
| ミズラ/ヘレナ 「私も体がふるえて止まりませんでした」 57 ボーズマン/ラピッドシティ 「人間がいちばん愚かな動物だ」 74 オマハ/バーリントン 町の人達の反応は冷たい 85 |
|||
| Ⅲ | いま、なぜアメリカへ来たのか 93 | ||
| シカゴ/バトルクリーク 「どうして悪いと感じなければいけないの」 95 アンアーバー/トロント さわやかな夜、優雅なひととき 110 ユチカ/ベニントン 石つぶてのようなトーク・ショウ3時間 120 |
|||
| Ⅳ | 私の旅はまだまだ終わらない 135 | ||
| 「この痛みは永久に消えないだろう」 137 ニューヨーク/ワシントン “To be, or not to be!” 147 フィラデルフィア/ロサンゼルス いちばん大切で必要なのは“愛” 155 |
|||
| Ⅴ | 私は歌い続け、語り続けてゆく 171 | ||
| 著者略歴<抄> | |||
| 1962年 第1回世界平和巡礼に出発、14カ国歴訪 | |||
| 1964年 「広島・ナガサキ世界平和使節団」の一員として、7カ国歴訪。 | |||
| 現在、広島平和文化センター主事、ヒロシマを知らせる委員会職員。 |
止
松原美代子
| まつばら・みよこ | 1932****生20180210没 | 享年85歳 | 広島女子商業1年、12歳の時、建物疎開の作業中に爆心地から約1.5キロで被爆。<資料年表:松原美代子> |
資料年表:松原美代子
| 年月日 | |||
| 1956/1/1 | われらのうた 1956.1.1 | 第15号 | われらのうたの会 |
| 望み 松原美代子 28 | |||
| 1956/3/8 | われらのうた 1956.3.8 | 第17号 | われらのうたの会 |
| 思いやり 松原美代子 29 | |||
| 1957/2/1 | われらのうた 1957.2.1 | 第27号 | われらのうたの会 |
| 思いやり 松原美代子 40 | |||
| 1982/6/15 | 原爆の絵アメリカ反核の旅 松原美代子さん | NHK | NHK広島放送局 |
| 1982.7.1 | 『平和文化』第36号(広島平和文化センター) | ||
| 米国でのヒロシマの証言を終えて(広島平和文化センター主事 松原美代子) | |||
| 1982/8/20 | ヒロシマ・ナガサキの証言’82夏 | 石田明、浜崎均編 | 広島・長崎の証言の会 |
| 1983/2/4 | ヒロシマナガサキ 核戦争のもたらすもの 上映の記録 1982.4~12 | 岩波映画、岩波映像販売編 | 岩波映画、岩波映像販売 |
| 1983/8/20 | 原爆の絵アメリカを行く | 松原美代子著 、ヒロシマを知らせる委員会編 | 日本放送出版協会 |
| 1983/8/20 | ヒロシマ・ナガサキの証言’83夏 | 秋月辰一郎、庄野直美編 | 広島・長崎の証言の会 |
| 1983/9/22 | ヒロシマ・ナガサキ平和学習の旅 昭和58年度 | 上智大学学内共同研究平和研究(庭野平和財団助成) | |
| 1984/2/21 | 核・貧困・抑圧 ’83アジア文学者ヒロシマ会議報告 | アジア文学者ヒロシマ会議実行委員会編 | ほるぷ出版 |
| 1984/11/11 | HIROSHIMA&WAR | 栃木県立那須農業高等学校2年4組・社会部編 | 栃木県立那須農業高等学校 |
| 1985/8/1 | ぼくたちはヒロシマを見た ヒロシマと戦争の実態に迫るために | 栃木県立那須農業高等学校社会部 | 栃木県立那須農業高等学校 |
| 1985/8/6 | 原爆の絵は訴える | NHK | NHK |
| 1986/4/21 | 松原美代子さんの被爆体験を聞いて | 池田市立細河小学校6年生 | 池田市立細河小学校 |
| 1986/5/1 | 平和文化 1986.5 | 第59号 | 広島平和文化センター |
| 原爆乙女の暗い青春 原爆被爆体験語り部 松原美代子 | |||
| 1987/1/20 | ヒロシマの女たち | 広島女性史研究会著編 | ドメス出版 |
| 1988/3/31 | 原爆被爆者は訴える 被爆証言集 平和冊子 No.6 | 広島平和文化センター編 | 広島平和文化センター |
| 1989/4/1 | かけはし 1989.04.01 | 第20号 | YMCA国際平和研究所 |
| 限りない平和の巡礼者として 松原美代子 | |||
| 1994/3/10 | 千羽鶴 12人の語り部証言集 | 堺市立五箇荘中学校16期生編 | 堺市立五箇荘中学校16期生 |
| 1995/1/1 | 1995年度 ひろしまを考える旅 記録集 ひろしまから明日へ | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」小委員会 | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」小委員会 |
| 1996/1/1 | 1996年度 ひろしまを考える旅 記録集 ヒロシマの声は、世界に届かないの? | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」小委員会 | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」小委員会 |
| 1996/9/10 | 証言-ヒロシマ・ナガサキの声1996 | 長崎の証言の会編 | 長崎の証言の会 |
| 1997/3/31 | 創大平和研究 1997.03.31 | 第18号 1996 | 創価大学平和問題研究所 |
| ヒロシマの心:核兵器のない世界への祈りと行動 松原美代子 | |||
| 1998/1/1 | 千代田区平和使節団の報告 (平成9年度) | 千代田区 | 千代田区 |
| 1998/10/31 | 親子広島バスツアー感想文集-平和・非核学習の旅 平成10年度 | 原水爆禁止西宮市協議会、西宮市編 | 原水爆禁止西宮市協議会、西宮市 |
| 1999/3/31 | 原爆被爆者は訴える 被爆証言集 第2版 平和図書 No.6 | 広島平和文化センター編 | 広島平和文化センター |
| 2000/8/15 | 広島市医師会だより 2000.8.15 | No.412 | 広島市医師会 |
| 特集 対談 「ヒロシマ」を語り継ぐ-語り部 松原美代子さんに聞く- 20 松原美代子VS碓井静照 | |||
| 2001/12/20 | 2001年度 ひろしまを考える旅 記録集 | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」準備委員会 | 日本YWCA「ひろしまを考える旅」準備委員会 |
| 2004/1/1 | 広島市平和祈念式に参加して 平成16年度派遣団記念文集 | 甲府市 | 甲府市 |
| 2004/5/22 | 証言集 | 大和中学校 | 大和市立大和中学校 |
| 2005/6/10 | 原子野からの旅立ち | 女子パウロ会 | 女子パウロ会 |
| 2008/7/28 | 原爆の絵 2007 | 広島市立基町高等学校 創造表現コース | 広島市立基町高等学校 |
| 2010/3/19 | 修学旅行「旅と証言の記録」 2009年 第2学年 | 埼玉県立松山女子高等学校 | 埼玉県立松山女子高等学校 |
| 2010/7/5 | 次世代と描く原爆の絵 2007・2008・2009 | 広島市立基町高等学校 創造表現コース | 広島市立基町高等学校 |
| 2011/7/31 | 上空より = From above | ポーレ・サヴィアーノ著 | コンテンツ・ファクトリー |
| 2012/3/30 | 原爆被爆者は訴える 被爆証言集 第3版 平和図書 No.6 | 広島平和文化センター編 | 広島平和文化センター |
| 2012/8/1 | 次世代と描く原爆の絵 | 広島市立基町高等学校 創造表現コース | 広島市立基町高等学校 |
| 2016/11/18 | 女性たちのヒロシマ 笑顔かがやく未来へ | 創価学会広島女性平和委員会編 | 第三文明社 |
| 2017/8/12 | 原爆の絵 平成19~28年度 | 広島平和記念資料館、広島市立基町高等学校 | |
| 2018/8/6 | 次世代と描く原爆の絵 平成19年度~29年度 | 広島市立基町高等学校 | |
| 2001/8/1 | 月刊クーヨン 2001.08 | 6巻通巻65号8月号 | クレヨンハウス |
| [落合恵子責任編集]戦争を知らない大人たちへ 91 パピアン・美智子/村井志摩子/栗原貞子/松原美代子/酒井キヨ子/西岡由香/植木智子/石司真由美/上原当美子/高里鈴代 |
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| 2022/6/20 | 次世代と描く原爆の絵 平成一九年度~令和二年度 | 広島市立基町高等学校美術科編 | 広島市立基町高等学校 |
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