ひろしまの碑をめぐる思想性

ひろしまの碑をめぐる思想性1975年9月の宇吹報告

『平和教育研究』(広島平和教育研究所・年報1976年)所収

(1)

今日、平和公園をはじめとして広島市内で私が確認した限り、いわゆる「慰霊」を目的とした碑は90余りあります。歌碑とか詩碑で、慰霊の意味を含まない平和慰霊碑を会わせると120の碑があるという報告もありますが、慰霊の内容が確認できるものとしては、90余りだと思います。

これらの碑を訪れてみた感想としては、どの碑の場合も掃除がきちんとゆきとどき、今日もなお、市民や遺族の哀悼の念が戦後30年生き続けていることが非常によくわかりました。そして、慰霊碑そのものが、犠牲者なり遺族なりの戦後30年の歴史をさまざまな形で示しているようにも思ったわけです。それらが、今日生きている私たちにさまざまな事柄を強く訴えており、その内容をどう位置づけるかと言うことで、一つの史論的なものとして、「ひろしまの碑をめぐる思想性」を考えてみたいわけです。

そこで一つの例として、広島市立高等女学校の慰霊碑の経緯をみてみたいと思います。といいますのは、この経緯は他の慰霊碑と似かよったものがあり、他の慰霊碑もこれとよく似た歴史をもっているので、まずその流れを述べてみたいと思います。

終戦直後の昭和20年10月30日、この10月30日というのは戦前の教育勅語発布の記念日だそうですが、この日に、「殉職諸先生及び生徒の慰霊祭」が市立高女(現在の舟入高校)の破損した講堂で行われています。翌21年8月6日、多くの生徒と教職員が家屋疎開作業に出ていて原爆の犠牲となった現場で、一周忌法要という仏式の慰霊祭を行い、「殉職諸先生並生徒供養塔」と書き込んだ木碑をそこに建立しています。

2年後の昭和23年5月に新制高校が発足し、市女は二葉高校として出発しましたが、その年の8月6日に、母校市女の御真影奉安庫跡に石の祈念碑を建立し、慰霊碑とは呼ばずに「平和塔」と呼びました。正面は、少女が3人刻みこまれ、まん中にE=MC2(原子エネルギーの公式)という箱をもった少女がいます。裏側は「友垣にまもられながらやすらかに眠れみたまよこのくさ山に」という詩が刻んであります。

昭和25年、都市計画で最初に建てた木碑の「供養塔」地が百メートル道路の一部になるので、その年の8月6日に持明院というお寺の境内に木碑を移しています。同時に、広島市女原爆遺族会を結成し、以後は遺族会が中心となって追弔行事を行ってきました。さらに翌26年8月6日、持明院境内にもう一つの石碑「市女原爆追悼碑」を建立し、除幕しています。これは学校に建立した平和塔と同じものですが、正面のE=MC2がなくなったかわりに、「市女原爆追悼碑」と刻み込まれています。そして昭和32年8月6日、学校に建立した「平和塔」を現在地の元安川畔へ移し、今日にいたっているというのが大まかな経緯です。

(2)

この市女の例にみられるように、広島市内にある慰霊碑の多くは、慰霊祭とか慰霊法要という宗教的行事に結びついて建立されているようです。この点について、原爆投下後から翌21年8月までの一か年間に、当日の中国新聞に慰霊祭・慰霊法要を営むという宣伝広告がたくさん載りました。総計すると114種の慰霊祭・法要の通知が載っています。1年間でこれだけたくさんの慰霊祭・法要が営まれたわけですが、その際に、遭難地・火葬地・学校や職場・法要を営んだ寺などに木碑が多く建てられたと思われます。このようにして建てられた木の墓標とか、簡単な供養塔が広島における今日の慰霊碑の始まりのようです。

今日、これら初期の木碑は、そのままの形で残っているものはありませんが、当時のもので碑銘の明らかなものを調べてみると、戦死者31名之墓・船舶練習隊処理之墓・広島郵便局殉職者供養塔・神崎学区戦災死没者追善供養塔など、「原爆」という文字の出てこないのが注目されます。占領下では、こうした銘名が一般的であったようで、終戦直後のプレスコード(9月19日)などによって原爆に対する批判が封じられていた影響によると思われます。

占領下の当時は、原爆という文字が使えないだけでなく、学校などに慰霊碑を建てることにも制約が加えられています。昭和20年と22年に広島市から各国民学校長宛に出した公文書の中で、慰霊碑建立に対する制約のあることが確認できます。また当時、広島市立学校長に、学校に現存する忠魂碑とか戦没者記念碑などを撤去したかどうか報告せよという文書も出されています。そのほかに、学校を宗教行事に使用してはならないだけでなく、学外でも学校がこうしたことを主催するのを禁止しています。

昭和20年から22年に出されたこれら一連の通達は、それまでの軍国主義的な教育と一線を画すために行われた政策の一つであったと思われますが、逆に原爆犠牲者の遺族達の慰霊に対する心情をゆがめる結果にもなったと思います。

こうした当時の状況を反映して、一例として最初に述べた市女学内に建立された碑は、慰霊碑と呼ばずに「平和塔」と呼びました。この点について市女原爆遺族会長は、「当時わが国は米国占領下にあり、慰霊碑などの建立は許されない諸情勢であったが、市女原爆関係者は率先してこれを建立し、平和塔と呼んでいた」と追憶記の中で書いています。また、この平和塔の浮彫は、「あなたは原子力(E=MC2)の世界最初の犠牲として人類文化発展の尊い人柱となった」と級友が犠牲者を慰めている姿を表しているといわれており、ここでは原子力と原爆が同一視されています。占領政策が解かれた年の昭和26年に持明院境内に建てられた同型の碑では、表面の浮彫は消え、かわりに「市女原爆追悼碑」という碑銘がはいったことなどからみて、いかに原爆がタブー視されていたかの一端がうかがえます。

このように、「原爆」という二文字さえ自由に使えなかった占領下においては、ほとんどの慰霊碑の性格は、慰霊という宗教目的を出ることはありませんでした。しかし、占領が解けると、慰霊碑はさまざまな性格をもつようになってきます。その一つは、「原爆」という二文字が一般的に用いられるようになったことです。つまり、原爆犠牲が「戦死者」「戦災死者」など戦争一般の犠牲者と区別できない表現から、「原爆犠牲者」「原爆死没者」というように、その死因として「原爆」を指摘する表現になったことに大きな意味があると思います。

二つには、原爆という言葉と同時に、「平和の礎」「殉国」「散華」「英魂」「英霊」と言った死者に対する一種の意義づけが行われるようになったことです。「平和の礎」という表現は占領下から使われていましたが、これは、原爆投下が戦争を早く終わらせ平和をもたらしたのだという占領政策の思想からきたのだと思われます。昭和30年ごろまでよく使われていましたが、それ以後の碑にはなくなっています。「殉国」「散華」などは、戦前から使われている普通の表現ですが、占領下では消えており、占領解除後は学校関係の碑を中心に多く用いられています。これは、いたいけない子ども達を失った父母たちが、何らかのかたちでその死を位置づけたいという気もちによるものだと思われますが、今日の靖国神社法案と関連して深刻な問題を示しているともいえます。

「平和の礎」や「殉国」などといういい方は、過去の反省にたった表現となっていますが、昭和30年前後からは、原爆犠牲を過去のこととしてではなく、現在や未来に結びつけたものが建てられるようになりました。つまり、原爆犠牲者への哀悼の念をとおして平和への祈念、原爆への怒り、核兵器廃絶の決意などが語られるようになったわけです。その表現方法も、具体的なことばだけでなく、象徴的な彫刻などによるようになりました。

たとえば、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから=原爆慰霊碑」「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための=原爆の子の像」「なぜあの日はあった なぜいまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを=全損保労組被爆20周年記念碑」「天を撃つな 戦霊を射て 人を撃つな 戦禍を射て 原爆広島に眠る 無名の霊よ 国鉄の魂よ 霊の目はみつめ 魂の手はつかむ 平和と未来を=国労慰霊碑」などがその一例です。

これら慰霊碑の碑文や彫刻などに脈うつ原爆観、平和観はけっして同一ではなく、戦後30年広島・日本・世界中にうずまいた平和運動の影響を多かれ少なかれ受けていると思います。その意味では、今日までの平和観・原爆観の縮図のような気もしますが、一つだけ同じ訴えをしているように思います。それは、広島の悲劇を再び地上にくり返してはいけないということです。

 (3)

以上が、碑をめぐる問題について私なりの大まかな史論的な考えです。それと関連して、これら広島の慰霊碑と国などが行っている慰霊祭は、本質的に違うと思うのです。国などの場合は、戦前のことが常に考えられているようだし、靖国神社ともつながって計作されていると思います。これに対し、広島の慰霊碑の性格としては、市民の要求や市民のやむにやまれぬ感情が結集してつくられていると思います。

ところで、体験記の中にも慰霊碑でみてきたのと同じような流れがあります。[中略]

慰霊碑の碑文が簡潔で、どのようにでも解釈できるような場合もたくさんあるわけですが、慰霊碑の建立を機に出されている体験記集とかみあわせることによって、その碑のもつ意味が一つ一つ正確に位置づけられると思います。

年表:原爆爆心地復元運動

年表:原爆爆心地復元運動 1966~69年

年 月 日 記 事
66 07 33 広島市平和公園の旧中島本町・材木町の住民20人余、NHKの企画で浄宝寺に集まり、慰霊碑周辺の復元を試みる。
66 08 広島大学原医研、中山町の被爆調査を開始。[復元]
66 08 03 NHKテレビ、「カメラリポート:爆心半径500メートル」を放映。広島原爆爆心地の平和公園慰霊碑周辺の復元地図を作成し、初めて公表。
67 06 24 広島大学原医研、広島市の原爆爆心地付近の正確な被害調査をすることを決める。この日、旧中島本町・材木町の元住民3人から当時の状況を詳しく聞き、約40戸の消息をつかむ。[復元]
67 08 03 [掲載紙不明]「ほとんどは被爆死?-広島市中島町-戸籍に残る百歳代」[復元]
67 08 04 NHKテレビ、現代の映像「軒先の閃光~ヒロシマ・爆心地」を放映.[復元]
67 12 18 中国新聞「被災全体像の重量において-ありえない核との妥協」(栗原貞子)[復元]
68 03 18 広島大学原爆放射能医学研究所、爆心地の総合的調査に本格的に着手.[復元]
68 03 19 NHK広島放送局、「よみがえる爆心」を総合テレビ「時の動き」の時間帯の県内ローカルで放映。[復元]
68 04 03 NHKテレビ、「県民の話題:爆心地予備調査終わる~中島地区」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 06 12 NHKテレビ、「県民の話題:進む爆心地調査」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 07 28 毎日新聞「幻の映画-復元上映の使命を痛感」(?画家・新協美術会委員)[原爆映画]
68 08 04 NHK、報道特集「被爆原点の空白~ヒロシマ・1968年夏」を放映。隅谷三喜男・森滝市郎・志水清・山田節男が出演。[復元]
68 08 04 広島大学原医研、爆心地住民のつどいを広島平和記念館で開催.約130人参加.参加した21人の住民,爆心地復元中島地区委員会を結成.会長:土肥常三郎。
68 08 07 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(1)完成間近い爆心地図」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 08 08 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(2)動き出した住民たち~材木町保存会」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 08 09 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(3)ひろがる爆心運動」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 08 10 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(4)被爆から23年」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 09 02 土肥常三郎・被爆地図復元中島地区委員会委員長ら、山田広島市長に、全市復元地図の作製を要望。
68 09 02 被爆地図復元中島地区委員会の代表、山田広島市長に全市的被爆地図を作るよう申し入れる.
68 09 05 NHKテレビ、「県民の話題:原爆地図~もり上る被爆地図の復元」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)
68 10 07 NHKテレビ、「カメラリポート:爆心を刻みたい~平和公園旧住民の願い」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 10 14 志水清広島大学原爆放射能医学研究所長、広島市全域の被爆地図復元運動を提唱。原爆被災総合調査委員会の設置を求めた試案を発表.
68 10 16? 小川岩吉(70歳)、入院中の広島原爆病院で、被爆地図の復元作業を行う。
68 12 04? 広島市旧石見屋町の町民、町内72世帯の被爆地図を復元.
68 12 10 NHKテレビ、「県民の話題:被爆地復元をめざして」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 12 11 広島被爆者援護強化対策協議会、開催.広島市の坂田助役,次年度から被爆地図復元に取り組む町内会に調査費用の援助することを明らかにする.広島大学原医研の調べでは、被爆当時の町内会は208。旧防空法により防空業務に従事中原爆の犠牲になった警防団員・医師・看護婦などへの援護措置を国に要望することを決める。
68 12 24 中国新聞「68ニュースその後(12)原爆映画初めて公開-完全復元へ猛運動-登場する半数からも同意得る」
69 01 21 NHKテレビ、「県民の話題:はじまった復元調査」を放映。[「広島原爆ハンドブック」]
69 02 21 広島市、新年度から被爆地図の復元に取り組むことを計画。
69 03 27 中国新聞、社説「原爆被災「全体像」の調査」[復元]
69 03 29 原爆被災全体像調査のための市民集会、広島平和記念館講堂で開催.日本学術会議永積小委員長が基調講演「原爆被災資料の諸問題」。田原伯原爆被災資料広島研究会事務局長や志水清広島大学原医研所長らが問題提起。約150人参加.広島市が四十四年度から被爆戸別地図の復元作業をする方針を決め、市民の協力を呼びかけ。
69 03 30 原爆被災復元委員会、会議.
69 04 04? 原爆被災復元委員会、発足.会長は志水清広島大学原医研所長。
69 04 27 中国放送(RCC)ラジオ、「市民とともに:「被爆地図復元」」を放送。
69 05 11 広島市旧材木町の元住民、原爆25回忌法要を浄円寺で挙行。同町民の法要は、12年ぶり5回目。約100人が参列。広島大学原医研の湯崎稔ら、復元地図を持参。
69 05 16 中国新聞(夕刊)、連載「”空白”を埋める-原爆被災地図の復元調査」(~20日,4回).
69 05 19 原爆被災地図復元の貴重な資料となる旧広島市千田町2丁目の町内会住民の家族構成・本籍地を記録した町籍簿が見つかる。
69 05 20 NHKテレビ、「県民の話題:町籍簿から被爆地図作り」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 06 18 NHKテレビ、「県民の話題:拡がる爆心地図復元運動」を放映。[「広島原爆ハンドブック」]
69 07 13 朝日新聞「被爆地図、独力で復元-広島・旧広瀬北町の老人[伊藤庫敏]-生き残った者の義務-犠牲者358人わかる」
69 07 18 広島大原医研、NHK広島中央放送局が共同で進めた爆心地復元調査の結果をまとめる。爆心地から半径500メートル以内の中島地区718人は全員死亡、追跡調査で70%の消息つかむ。NHKは調査記録を「原爆爆心地」として出版.
69 07 19 NHKテレビ、「102:爆心地復元(志水清)」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 07 19 朝日新聞「科学者の静かな執念実る-被爆地図復元の志水広島大原医研所長-完成へさらに情熱-市民の共感で早く進む」
69 07 24 中国新聞「風紋:爆心地の元市街図」[復元]
69 07 25 NHKテレビ、「県民の話題:爆心地復元(1)よみがえる旧中島地区」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 07 26 NHKテレビ、「県民の話題:爆心地復元(2)もりあがる市民運動」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 08 01 NHKテレビ、「現代の映像:爆心の橋」を放映。[復元]
69 08 04 中国新聞「この人・この本:「原爆爆心地」の志水清氏-被害の全体像つかむ-拡がった住民運動の輪」[復元]
69 08 05 朝日新聞「閃光に消えた町-広島の爆心地を再現-生命と暮らしへの影響さぐる-ある母子家庭の24年-苦心の地図作り・広島大原医研」[復元]
69 08 10 NHKテレビ、「報道特集:鎮魂への条件~ヒロシマ1969」を放映。志水清・湯崎稔・丹下健三などが出演。[復元]
69 09 09 土肥常三郎・元中島本町原爆復元地図作成委員会会長ら、広島市に平和公園内に爆心地復元銅版の設置を要望.
69 09 22 成宮惣五郎「広島平和公園爆心復元委員会」会長ら10人、山田市長と朝尾市議会議長を訪れ、復元された爆心地の町並みを銅板に掘り、公園内の保存するよう要望。
69 12 09 成宮惣五郎「広島平和公園爆心復元委員会」会長ら3人、山田市長を訪れ、復元された爆心地の町並みを銅板に掘り、公園内の保存するよう要望。
69 12 10 原爆被災復元委員会志水清会長、広島市平和文化推進審議会[平和文化センター]で調査の中間報告.

 

広島市平和式典(1991年)

平成3年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 4787人(名簿数3冊)
名簿登録者総数 172024人
名簿総数 57冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約5万5000人
海部俊樹 内閣総理大臣
 桜内義雄 衆議院議長
土屋義彦 参議院議長

 

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1992年)

平成4年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 4944人
名簿登録者総数 176964人
名簿総数 59冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
 海部俊樹 内閣総理大臣(代理:山下徳夫厚生大臣)
 桜内義雄 衆議院議長
遺族代表 都道府県

 

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1993年)

平成5年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 人
名簿登録者総数 人
名簿総数 冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
宮沢喜一 内閣総理大臣(代理:文田久雄総理府次長)
[この年閣僚の出席なし]**8月9日細川内閣発足。
 ストヤン・ガーネフ 国連総会議長
遺族代表 都道府県
各国大使や代表

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1994年)

平成6年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 人
名簿登録者総数 人
名簿総数 冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
村山富市 内閣総理大臣
土井たか子 衆議院議長
原文兵衛 参議院議長
遺族代表 都道府県
各国大使や代表

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1995年)

平成7年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 人
名簿登録者総数 人
名簿総数 冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
村山富市 内閣総理大臣
土井たか子 衆議院議長
斉藤十朗 参議院議長
草場良八 最高裁判所長官
三権の長全員が参列(初)
遺族代表 都道府県
各国大使や代表

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1996年)

平成8年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 人
名簿登録者総数 人
名簿総数 冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
橋本龍太郎 内閣総理大臣
 斉藤十朗  参議院議長
遺族代表 都道府県
各国大使や代表

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1997年)

平成9年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 人
名簿登録者総数 人
名簿総数 冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
橋本龍太郎 内閣総理大臣
遺族代表 都道府県
第4回世界平和連帯都市市長会議

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1998年)

平成10年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 人
名簿登録者総数 人
名簿総数 冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
小渕恵三 内閣総理大臣
 国連事務次長
遺族代表 都道府県
各国大使や代表 か国と欧州連合(EU)。核兵器国のを含む。

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

同志社大学神学部新島講座

同志社大学神学部新島講座 1947年8月4日~8日

『原子力時代に於ける基督教-新島講座記念論文集』( 有賀鉄太郎編、聖光社刊、19480215 刊)=1947(昭和22)年8月4日-8日、同志社大学神学部で開かれた「新島講座」の講演記録。

目次

著者 タイトル
有賀鉄太郎 序
「この書に収められた諸篇は、昭和22年8月4日から8日に亘って同志社大学神学部に開かれた「新島講座」の講演に基づいたもの」
湯浅八郎 原子力時代に於ける基督教
「文明のかかる欠陥を痛感するアメリカの学会は、戦時中より科学、宗教、哲学の三分野に亘り学会の権威をコロンビア大学に招集し年一度綜合研究会を開催することを試みた。1946年には第4回目の会合がコロンビア大学で開かれたが、その時最も大きな感銘と衝撃とを与えたものは、サタデー・リビュー・オブ・リテラチュアの主筆、カズン[ノーマン・カズンズ]氏の原子力時代に関する論文であった」
山崎亨 旧約に於ける世界思想
富森京次 新約に於ける世界思想
有賀鉄太郎 初代基督教徒の世界思想
大塚節治 基督教世界観
湯川秀樹(招聘) 現代科学思想
 細野軍治  国際連合に就て
 安田貞雄(発題者)  懇談会:農本文化と農村文化
 J.G.ヤング  宗教教育の諸問題
魚木忠一 新島先生に於ける国家思想

 

原水爆禁止国民使節(1957年)

原水爆禁止国民使節(1957年)

日本原水協は本年[1952年]4月の第2回全国理事会に於いて、クリスマス島水爆実験阻止の抗議団派遣の討議の中で、相次いで原水爆実験を行っている米、英ソの原爆保有3国に対し夫々、原水爆禁止と即時実験禁止協定締結を訴える国民使節派遣を決定した。その后幾多の障害を乗り越え乍ら、世界大会準備の活動と並行して運動を進め、7月23日ソ連班を皮切りに、米英ソ三国にそれぞれ使節団を送り出した。各代表団は困難な条件の中でよく活動し、不十分ではあるが数多くの成果をもたらして、去る9月21日英国班を殿りとして全員無事帰国した。

出典:『原水爆禁止国民使節派遣経過並に活動報告』(国民使節派遣対策委員会、1957年10月5日)

原爆文学研究会

原爆文学研究会 第1回研究会(2001年12月22日)

事務局 九州大学大学院比較社会文化研究院 花田俊典研究室内

『原爆文学研究会会報 第1号』2002年1月発行

『原爆文学研究 創刊号』2002ねん8月1日発行

 

水爆禁止署名運動杉並協議会

水爆禁止署名運動杉並協議会:1954年5月9日発足

参考資料:『歴史の大河は流れ続ける(4)-杉並公民館の歴史 原水爆禁止署名運動の関連資料集』(杉並区立公民館を存続させる会、1984年8月25日)

目次

署名簿 〈杉並アピール・スローガン〉
1  原水爆禁止署名運動杉並・全国協議会に関する記録
1 魚商組合陳情~原水爆禁止署名運動の前史として
2 水爆禁止署名運動杉並協議会発足
3 第一回実行委員会開催~区議会議長、教育委員らの協力及び新聞発表
4 署名運動杉並全区へ拡大~隣接区へ拡大、第二、三回実行委員会
5 運動は全国的なものに
6 原水爆禁止世界大会へ向けて
2 証言: 小沢綾子 ほか
原水爆禁止署名運動関連年表
編集日程・編集後記<抄>「(一昨年秋のある日)小沢綾子さんのお持ちになった資料を見せていただくために集まったのですが・・・」

6.52
7.89
2  97
3 原水爆禁止運動の論理と倫理 安井郁 108
4 新聞報道 121
5 歴代公民館運営審議会委員名簿 130
6 解題 杉並区における原水爆禁止署名運動と公民館の歴史について 田中進 135
参考・引用資料文献一覧 146
151
152″

森滝日記

森滝日記

『中国新聞』連載 1984年1月1日~8月1日 200回

第部 見出し 回 日記日付
1 運命の日 1~14 19170113~19460314
2 反核への道 15~30 19461203~19550803
3 世界への訴え 31~50 1950920~11995590806
4 分裂の軌跡 51~88 19600116~19630805
5 被爆地の願い 89~128 19630818~19690814
6 風化に抗して 129~158 19700101~19741009
7 統一への模索 159~200 19750302~19820805

 

 

 

フェニックス広島号の冒険(アール・レイノルズ著)

『フェニックス広島号の冒険』(アール・レイノルズ著、三上仁

一・松元寛共訳)「中国新聞」連載(1961年10月10日~)。

「この連載記事は、今年アメリカで出版した”The Forbidden Voyage”=禁じられた航海=を、翻訳者に人を得て、日本の読者に向くよう一部改定したものです」(「中国新聞」1961.10.10)

No. 月日  見出し 備考
1-9 1010-1018 不吉な静けさ 1~9 19580409ハワイ島ヒロ港

 

10-17 1019-1026  海に立つ壁1-8
18-25  1027-1103  放射能図書室1-8
26-33  1104-1111  日本時間の中で1-8
 34-39 1112-1117  長い一日1-6
 40-46 1118-1124  保釈中の推理1-7
 47-52 1125-1130  ヒロシマの日前後1-6
 53-60 1201-1208  試練のういしお1-8
 61-65 1209-1214  名弁護士きたる1-5
66-69 1215-1218 科学も告発する1-4
70-72 1219-1221 打ちひしがれた時に1-3
73-77 1222-1226 ここもゆれ動く世界1-5 12月12日つづき―1958年12月25日(第1部おわり)

フェニックス広島号の冒険 第2部

No. 月日  見出し 備考
1-5 19620108- ”地球会社”の経営陣  19590108
6-15 19620113- 行為と無為
16-20 19620124- 広島大会は”赤”か1-5 、19590721、19590814
21- 19620201- けわしい再審の道 19590821
26- 19620206 故意と善意1- 19590828-
35- 19620216- 青年に期待- 19590920-
39- 19620220- 国策批判の声 19591104-
47- 19620304- 平和都市の内情 19600201-
52- 19620316- アメリカの自由 19600301-
56-57 19620324-0327 エピローグ 19610220-。―おわり―

「広島こそ”平和”のリーダーに  アール・レイノルズ氏-対談-森滝市郎氏」(『中国新聞』1962年2月14日)

編年資料:ヒロシマ-1970年

編年資料:ヒロシマ-1970(昭和45)年

月日 資料名
0731 第3回平和を語る市民集会-シンポジウム:これからのヒロシマ
0803 第16回原爆禁止世界大会日本代表団の決議
「被爆25周年にあたり被爆者救援運動の新たな前進のために訴える」
0806 第16回原爆禁止世界大会日本代表団の決議
「第五福竜丸保存運動をさらに強化し成功させよう」
0806 広島市平和宣言
0806 原爆被災資料広島研究会『原爆被災資料総目録』第2集
0809 長崎市平和宣言
1129 ヒロシマ会議委員会編『原爆関係文献目録』
1202 ヒロシマ会議「ヒロシマ宣言」
原爆記録映画英文解説(広島大学原医研、1970年?)

 

編年資料:ヒロシマ-1969年

編年資料:ヒロシマ-1969(昭和44)年

月日 資料名
02 広島市立浅野図書館蔵郷土資料目録(1969年2月現在)
0326 広島県被爆教師の会の結成
0714 8月6日の「原爆の日」の指導について(広島県通知)
0720 志水清編『原爆爆心地』(1969年7月20日)
0731 原爆被爆者健康手帳 1969年7月31日更新分
0806 広島市平和宣言
0806 原爆被災資料広島研究会『原爆被災資料総目録』第1集
0806 第15回原爆禁止世界大会日本代表団の決議
「被爆者の要求をとりあげ 真の被爆者援護法の制定を一日もはやく実現させましょう」
0806 第15回原爆禁止世界大会日本代表団の決議
「第五福竜丸保存運動を強化しましょう」
0809 長崎市平和宣言

 

編年資料:ヒロシマ-1968年

編年資料:ヒロシマ-1968(昭和43)年

月日 資料名
04- 広島大学原医研・ 山県郡内在住原爆被爆者実態調査票(1968年4月~7月)
0716 広島市教育委員会  「原爆記念日」の取扱いについて
0725 旧住民のつどい案内状(中島平和観音会、1968年7月25日)
0805 第14回原爆禁止世界大会日本代表団の決議「被爆者救援活動を強化するための決議」
0805 第14回原爆禁止世界大会日本代表団の決議「第五福竜丸保存運動を推進させるための決議」
0806 広島市平和宣言
0809 長崎市平和宣言
09 被爆地図復元の論理と構想
爆心地区被爆関係予備調査・世帯シート(広島大学・原医研・社会医学教室、1968年?)

 

編年資料:ヒロシマ-1967年

編年資料:ヒロシマ-1967(昭和42)年

月日 資料名
0401 広島県原子爆弾被爆者援護措置要綱
0701 (日本学術会議原子力特別委員会主催)原爆被災資料に関するシンポジウム-発言要旨-
0805 第13回原爆禁止世界大会広島大会の決議
第13回原水爆禁止世界大会広島大会被爆者救援強化の決議
0806 第13回原爆禁止世界大会日本代表団の決議
被爆者援護法の制定・ABCCの撤去と資料公開を要求し救援活動を強化するための決議
0806 広島市平和宣言
0809 長崎市平和宣言
0811 三島由紀夫の原爆被害観
0901 八者協「原子爆弾被爆者特別措置法制定に関する陳情書」
0930 広島県議会意見書「原子爆弾被爆者特別措置法の制定について
1013 広島平和文化センター条例
10 日本社会学会による原爆被災に関する社会学的調査研究の推進についての要請
1216 金井利博 「原爆被災資料(民間報道部門)について日本学術会議に期待されること」