坪田正夫
つぼた・まさお | 19240116生19910718没 | 享年67歳 | 大阪市生野区原爆被害者の会会長。 |
坪田正夫年譜
出典:『かの一ぱつの原爆に』(新樹社、19920720)) |
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坪田正夫
つぼた・まさお | 19240116生19910718没 | 享年67歳 | 大阪市生野区原爆被害者の会会長。 |
坪田正夫年譜
出典:『かの一ぱつの原爆に』(新樹社、19920720)) |
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『DDT革命 占領期の医療福祉政策を回想する』((C.F.サムス著、竹前栄治編訳、岩波書店))
内容
1 | 日本進駐 | ||
2 | ペリメーター(前進区域) | ||
32 原爆に関する命令 | |||
42 サムス、厚生省訪問 | |||
3 | 東京 | ||
52 旧陸海軍病院要図(1944年) | |||
56 浮浪児 | |||
4 | GHQ公衆衛生福祉局の設置 | ||
5 | 日本文化との出会い | ||
6 | 食糧・栄養問題 | ||
106 栄養調査に見る食堂 | |||
113 食糧放出年表(1946.1―1946.8) | |||
122 学校給食 | |||
7 | 予防医学の導入 | ||
134 DDTの歌 | |||
144 中東チフス使節団と日本占領 | |||
152 府中刑務所での人体実験 | |||
162 卵ワクチン紛失事件 | |||
172 ”日本脳炎”命名の由来 | |||
176 日本B型脳炎感染経路の追求 | |||
183 《性病》 | |||
200 BCG騒動 | |||
8 | 衛生統計 | ||
9 | 保健所制度の改革 | ||
214 厚生省衛生三局の発足のいきさつ | |||
216 保健所組織の機構 | |||
218 モデル保健所 | |||
223 県衛生部設置のいきさつ | |||
226 公衆衛生院カリキュラム | |||
10 | 医学教育・病院管理・医師会など | ||
244 インターン制度 | |||
250 13人委員会 | |||
263 《日本医療団=国家総動員法の一環として設置》 | |||
164 《軍医のレッド・パージ》 | |||
11 | 看護改革 | ||
12 | 製薬産業 | ||
284 ペニシリン | |||
292 国立予防衛生研究所の新設―伝染病研究所からの分離 | |||
13 | 獣医 | ||
14 | ABCC | ||
308 ABCC設置に関する報告書 | |||
312 いったい何のために調べるのか―ABCCへの被爆者の反感 | |||
15 | 麻薬 | ||
16 | 社会福祉 | ||
336 ララとケア | |||
17 | 社会保障 | ||
354 アメリカ社会保障制度調査団 | |||
18 | コミュニスト | ||
378 岩ケ崎事件 | |||
19 | 人口問題 | ||
20 | 占領の要約 | ||
21 | 日本での生活 | ||
414 コリアン・エピソード | |||
解説 419 | |||
1 サムスのプロフィール | |||
《1902年4月1日、イリノイ州セントルイス生まれ》 | |||
2 本書の特色 | |||
3 戦後医療福祉改革の意義 | |||
あとがき | |||
占領下の医療福祉年表(サムス関係) | |||
索引 |
止
竹前栄治
14 | 2015 | たけまえ・えいじ | 84 | 占領史研究家。出版社の叢書執筆者の会合で同席。介護犬同伴だったことに強い印象。 |
資料年表:竹前栄治
年月日 | ||
1930 | 誕生 | |
0804 | ||
1972 | ||
1230 | 『日本占領 共同研究』(思想の科学研究会編、徳間書店) | |
3占領政策をめぐって 対日労働政策-竹前栄治 401 | ||
1980 | ||
0731 | 『占領戦後史 対日管理政策の全容』(双柿舎) | |
1983 | ||
0228 | 『証言日本占領史 GHQ労働課の群像』(岩波書店) | |
1986 | ||
0811 | 『DDT革命 占領期の医療福祉政策を回想する』(C.F.サムス著、竹前栄治編訳、岩波書店) | |
1987 | ||
0228 | 『日本占領の研究』(坂本義和 [ほか]編、東京大学出版会) | |
7 革新政党と大衆運動 竹前栄治 243 はじめに 243 1.GHQの初期政党政策 246 2.政党の再建と労働運動の再生 258 3.むすび-連続性と非連続性 270 |
||
1988 | ||
1121 | 『占領と戦後改革 (岩波ブックレット シリーズ昭和史, No.9) 』(岩波書店) | |
1991 | ||
0124 | 『九人の語る戦争と人間』(三宅明正・若桑みどり編、大月書店) | |
敗戦と占領 竹前栄治 133 | ||
<作業中> | ||
2015 | ||
0714 | 死亡。 | |
止
『灰墟の光 甦えるヒロシマ』(ロベルト・ユンク著、原田義人訳、文芸春秋新社)
内容<作業中>
章 | メモ | |
1 | 空虚と混乱(1945年) | |
書物 | ||
原子砂漠 | ||
大洪水のあと | ||
孤児とやくざ | ||
位牌 | ||
2 | 新たな開始(1946-1948年) | |
夢見る人 | ||
たけのこ生活 | ||
〈アトム・ボーイ〉 | ||
〈杖さん〉 | ||
3 | 平和の町(1948-1952年) | |
わが道を行く人びと | ||
こわし屋 | ||
殺人 | ||
八月六日 | ||
草履 | ||
4 | 生き残った人びと(1953-1957年) | |
救援の人たち | ||
冷たい人たち | ||
破滅にさからう二人 | ||
エピローグ | ||
訳者あとがきに代えて | ||
止
田中隆荘
たなか・りゅうそう | 1925生20080714没 | 享年82歳 | 生物学者。広島大学学長・広島市立大学初代学長。 |
資料年表:田中隆荘
年月日 | 事項 | 備考 |
1925 | ||
**** | 生誕生 | |
1977 | ||
0910 | 『原爆と広島大学 「生死の火」学術篇』(広島大学原爆死没者慰霊行事委員会) | |
第3節 植物学分野(藤田哲夫、安藤久次、田中隆荘)12 1.原子爆弾の植物に対する影響調査のこと 12 2.被爆後爆心地附近に生じた雑草の調査と標本展示 16 3.被爆後広島市に残存または出現した蘚苔類の研究 16 4.原子爆弾による被害植物の解剖学的研究 17 |
||
1985 | ||
0501 | 『政治経済セミナー 5月号 第1029号』(政治経済セミナー社) | |
無限の可能性クローン植物 24 田中隆荘(広島大学理学部長)「バイオテクノロジーの世界」 |
||
0701 | 『政治経済セミナー 7月号 第1031号』(政治経済セミナー社) | |
座談会・広島県勢活性化と農業 30 生産構造・貿易摩擦・バイオテクノロジー 竹下虎之助・桑田束稲・小野誠志・橋本宗利 田中隆荘 |
||
1987 | ||
0301 | 『政治経済セミナー 3月号 第1051号』(政治経済セミナー社) | |
世界蘭会議とその背景 8 広島大学理学部教授 田中隆荘 |
||
1201 | 『政治経済セミナー 12月号 第1060号』(政治経済セミナー社) | |
大正生れ 哀歓の昭和史 34 広島大学理学部長 田中隆荘 |
||
1988 | ||
0501 | 『政治経済セミナー 5月号 第1065号』(政治経済セミナー社) | |
放射光利用研究センターの設立は地域活性化に役立つ 8 田中隆荘 広島大学理学部長 櫟本功 広島大学経済学部教授 |
||
1989 | ||
0521 | 広島大学学長就任。歴代学長 | 広島大学 (hiroshima-u.ac.jp) | |
大正14(1925)年広島県生まれ。広島高等師範学校・広島文理科大学卒業後、広島大学理学部教授等、広島大学評議員、同理学部長を経て、平成元(1989)年、広島大学長に就任。平成20(2008)年死去。専門は植物学。 | ||
1990 | ||
01 | 『けんみん文化 1990年1月号第5巻第10号』(県民センター) | |
けんみん・えっせい 自然と文化 田中隆荘 1 | ||
0630 | 『ひろしま新時代 21世紀への可能性を探る』(香川不苦三著 中国新聞社編、中野出版企画) | |
第8章 生活環境 アルボレータム(樹林園) 広島大学学長 田中隆荘 132 |
||
1991 | ||
0926 | 原爆遺跡保存運動懇談会、広島大学理学部1号館の保存を田中隆荘学長に請願。 | C |
1219 | 広島大学理学部1号館の保存を求める声がOBの9割達し、後藤陽一名誉教授らが田中隆荘学長に保存策の検討を要請。 | C |
1993 | ||
0528 | 広島市、「ひろしま新世紀都市ビジョン懇談会」(座長:田中隆荘前広島大学学長)の第3回会合。朴子アドジャパン社長が広島市の「国際平和文化都市」の「平和」は「なぜ広島に原爆が落とされたかという視点が欠けている。加害面を無視したアンフェアな平和運動だったのではないか」と指摘。 | C |
1994 | ||
0415 | 平岡広島市長、開学した広島市立大学(田中隆荘学長)の第1期生を対象に講演。 | |
1998 | ||
0707 | 『21世紀への平和と創造』(嶋矢志郎、渓水社) | |
発刊に寄せて…広島市立大学学長田中隆荘…i | ||
1999 | ||
0215 | 『荒木武追想録-ヒロシマの心を世界へ燈々無盡』(荒木武追想録刊行委員会) | |
田中隆荘 85 | ||
1001 | 『核廃絶への新たな挑戦-東京フォーラムの意義と課題』(広島市立大学広島平和研究所) | |
広島市立大学長挨拶 田中隆荘氏…4 | ||
2008 | ||
0714 | 没 | |
止
沼田鈴子と白梅女子短大学教養科平賀ゼミ(近現代史)
宇吹メモ(1995~96年)より<敬称略>
月日 | 事項 | 備考 |
1995 | ||
0131 | 平賀明彦(一橋の藤原彰ゼミ)より自宅に電話。白梅女子短大の学生の研修旅行に広島を選びたいので相談に乗って欲しい。5月の21日ごろからを予定 | |
0502 | 広島シティ・ホテルへ電話。会場は6時以降ならあるとのこと。早めに予約するよう言われる。平賀に電話。 | |
0509 | M先生(「ヒロシマを語る会」のメンバー)から電話。証言は沼田鈴子に頼んだ。21日6時~7時、広島シティホテルでと伝えてある。住所=東区矢賀新町***。TEL***。昼間は大体平和会館に居る筈。 | |
平賀明彦(東京・白梅女子短大学教養科)に電話。被爆体験証言者の沼田鈴子に連絡を取るよう伝える。 | ||
0517 | 沼田鈴子の自宅へ電話。21日の白梅の件を依頼。 | |
0521 | 出勤。白梅の学生に話すためのスライド準備。5時半、広島シティホテル到着。平賀と話す。5時50分ごろ沼田鈴子が来る。沼田が朝フロントに預けていた荷物が見つからずに大騒ぎをしたが、既に講演会場に運ばれていた。 | |
平賀の話=今日は、原爆資料館には入館せず、平和公園の見学やビデオ「ヒロシマ母たちの祈り」の鑑賞 | ||
18:00平賀ゼミ(近現代史)2年生15人と一緒に、広島シティ・ホテルで沼田鈴子の話を聞く。皆、熱心に聞き、沼田も一生懸命話す。7時までの予定が、8時40分までとなる。終了後、沼田を自宅まで私の車で送る。 | ||
0522 | 白梅女子短期大学平賀ゼミ一行への講演。於原医研講堂。-10時40分。Nがスライド係。寝ても良いと初めに言っておいたら、昨夜の疲れか、半分くらいは寝ていた。陸軍墓地まで案内して別れる。謝礼として菓子と1万円を貰う。両方をNに渡す。 | |
平賀の話=これから原爆資料館などの見学、明日は、自由行動の予定。夏にゼミの卒業生と広島に再び来たい。その節にもよろしく。 | ||
<その後> | ||
1220 | K、来所。Kの話=Kは、どの会にも属さず、フリー。沼田鈴子は、ヒロシマを語る会を離れフリーになった。 | |
1996 | ||
0304 | T(自衛隊学校教官)来所。原爆検閲が緩んだ最大の原因は、東京裁判の結審との仮説。太平洋史観などをめぐり大いに論争する。沼田鈴子に会って、彼女の歴史観に「自虐的歴史観」との批判を持つ。彼女からは、自衛隊は嫌いとの非難を受けた由。 | |
0807 | F(長崎被爆者団体代表)来所。**がまとめた沼田鈴子の伝記や栗原貞子について私が見解を述べたので話が長くなってしまった。Fは今回二人に会う予定とのこと。 | |
1011 | T(自衛隊学校教官)来所。戦略爆撃調査団の報告書の原文を一部コピー。2月にアメリカ軍の研究者との意見交換の会合に出席する由。沼田鈴子に事務所!!で会ってきたとのこと。 | |
止
資料年表:ロベルト・ユンク<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1913 | ||
0511 | 誕生 | |
1954 | ||
0510 | 『未来は既に始まった』(ロベルト・ユンク著、菊盛英夫訳、文芸春秋新社) | |
1957 | ||
** | ユンク、初来日。 | |
0725 | 『人類の危機と原水爆禁止運動 第3回原水爆禁止世界大会討議資料 第2分冊』(原水爆禁止日本協議会) | |
Ⅲ 原水爆禁止運動 決して飽きてはいけない R・ユンク…366 |
||
1958 | ||
0515 | 『千の太陽よりも明るく 原子科学者の運命』(ロベルト・ユンク著・菊盛英夫訳、文芸春秋新社) | |
1960 | ||
0805 | 『ヒロシマ・1960 永田登三写真集』(永田登三著) | |
ユンク「まえがき」 | ||
1961 | ||
0210 | 『灰墟の光 甦えるヒロシマ』(ロベルト・ユンク著、原田義人訳、文芸春秋新社) | |
1962 | ||
0805 | 『ヒロシマわが罪と罰-原爆パイロットの苦悩の手紙』(クロード・イーザリー、ギュンター・アンデルス著、 篠原正瑛訳、筑摩書房) | |
ロベルト・ユンク「解説」 5 | ||
1970 | ||
1110 | 『広島との対話-原爆25周年記念・テレビ特別番組の記録』(中国放送番組審議会事務局) | |
ロベルト・ユンク 7月27日放送 2 | ||
1978 | ||
0510 | 『千の太陽よりも明るく 世界ノンフィクション ヴェリタ』(ロベルト・ユンク、筑摩書房) | |
1979 | ||
0720 | 『ヒロシマに、なぜ 海外よりのまなざし』(小倉馨著、溪水社) | |
ロベルト・ユンク…41 | ||
0910 | 『原子力帝国』(ロベルト・ユンク著、山口祐弘訳、アンヴィエル刊) | |
1994 | ||
0714 | 没。 | |
1997 | ||
0520 | 『ユネスコ世界遺産 原爆ドーム 21世紀への証人』(中国新聞社編著・刊) | |
ロベルト・ユンク 41 | ||
2010 | ||
1220 | 『広島県現代文学事典』 川口隆行「ロベルト・ユンク」 | |
2012 | ||
0420 | 『反核から脱原発へ ドイツとヨーロッパ諸国の選択』(若尾祐司・本田宏編、昭和堂) | |
第1章 反核の論理と運動 若尾祐司 3 -ロベルト・ユンクの歩み- 1 「短い二〇世紀」を駆け抜ける 3 2 戦争と科学技術と人間類型 11 3 「未来はすでに始まった」 19 4 広島・新しい千年紀への原点 25 5 未来運動から「原子力国家」批判へ 33 |
||
2013 | ||
0215 | ユンク科研グループ『ヒロシマを世界に伝える 核の被害なき未来を求めて ロベルト・ユンク生誕100周年記念資料展』 | |
期間:平成25年(2013年)2月15日(金)~3月28日(木) 場所:広島平和記念資料館 東館地下1階 ホワイエ 主催:広島平和記念資料館、ユンク科研グループ 協力:ロベルト・ユンク未来研究図書館、NPO法人日独平和フォーラム |
||
1224 | 『二十世紀研究 第14号』(二十世紀研究編集委員会) | |
特集 核と対峙する人々 若尾祐司 反核の倫理と運動 ‐R.ユンクとG.アンデルスの交差‐ (1) 倉科一希 |
||
2018 | ||
0710 | 『戦後ヒロシマの記録と記憶 小倉馨のR・ユンク宛書簡 上・下』(若尾祐司・小倉桂子編、名古屋大学出版会) | |
止
資料年表:山崎与三郎<作業中>
年月日 | 事項 | 備考 |
1889 | ||
1001 | 誕生。 | |
1949 | ||
0920 | 『広島平和記念都市建設方案 (昭和24.9.20立案)』 | |
1954 | ||
0723 | 『原爆関係文献目録 広島・長崎を中心とする』(山崎与三郎編、千田書房) | |
1956 | ||
0215 | 『統計の泉 Vol.7 2月号 No.67』(広島県統計協会) | |
文献紹介 広島アルバム (新庄正男・山崎与三郎編) |
||
1968 | ||
0215 | 『原爆被災資科広島研究会』発足。 | |
0308 | 「原爆資料の収集と保存を考える」(中)<『中国新聞』連載> | |
山崎与三郎(原爆資料保存会幹事)原爆資料の重要性 体験と実証で平和を 年とともに困難さ増す | ||
1970 | ||
0401 | 『広島通信 No.20』(「広島通信」の会) | |
山崎与三郎「観光客から巡礼者へ」 | ||
0806 | 『原爆被災資料総目録 第二集』(原爆被災資料広島研究会) | |
1973 | ||
0715 | 『吾家の原爆体験記 死線を越えて』(山崎与三郎) | |
1975 | ||
0720 | 『平和の聖都ひろしま 広島巡礼案内』(山崎与三郎著、高橋謄写堂) | |
1976 | ||
0714 | 死亡。享年86歳。 | |
** | 千田書房(店主=山崎与三郎)印 | |
止
すえむね・あきと | ****生20110713没 | 享年84歳 | 1988年から2005年まで広島県原爆被害者団体協議会<金子一士理事長>事務局長。「広島被爆者団体連絡会議」の事務局長も経験。 |
資料年表:末宗明登<作業中>
年月日 | ||
**** | 誕生 | |
1988 | ||
0703 | 広島県被団協総会。役員改選。中本剛事務局長が副理事長、事務局長に末宗事務局次長。 | C |
2005 | ||
0707 | 広島県被団協総会。17年間事務局長を務めた末宗を新設の筆頭副理事長とし、後任事務局長は吉岡幸雄。 | C |
2011 | ||
0713 | 死去。84歳。 | |
0715 | 「1945年8月6日、爆心地から約キロの勤務先の広島駅構内で被爆。戦後は国鉄で労働運動に打ちこんだ」 | C |
止
資料年表:小倉馨<作業中>
年月日 | ||
1920 | ||
1013 | 生 | |
1965 | ||
0723 | 『週刊広島 3号』(広報出版センター) | |
随筆四人集 小倉馨・大原三八雄・海見綾子・内田省三 35 | ||
1971 | ||
1201 | 『広島憩いの家 No.3 』(広島憩いの家) | |
「ヒロシマの花」を読んで 4 原田東岷 服部圓 小倉馨 沢田静馬 近藤勝 萬谷ももよ 西田政一 竹内武 山田郁子 狭間正恵 竹田静江 |
||
1972 | ||
0331 | 『広島県史 原爆資料編』(広島県) | |
「あとがき」(抄「外国資料の翻訳・検討には、小倉馨・・・の方々のご協力をいただいた」 | ||
0801 | 『広島通信 No.34』(「広島通信」の会) | |
あの夏からこの夏までの間 小倉馨 | ||
1973 | ||
0625 | 『ヒロシマの意味』(小黒薫編、日本評論社) | |
小倉馨「ヒロシマ-この二十五年」 117 | ||
1976 | ||
0715 | 『山田節男追想録』(山田節男追想録刊行委員会) | |
最後の署名 広島市渉外課長 小倉馨…170 | ||
1977 | ||
0501 | 『月刊ペン 10巻5号』 | |
小倉馨「広島市長国連を行く」 142 | ||
1978 | ||
0115 | 『ヒロシマ・ユネスコ 第6号』 | |
私とユネスコ 本質の把握に研さんを 国際交流、平和文化の推進のために 広島ユネスコ協会 副会長小倉馨 |
||
1979 | ||
0713 | 没。享年58歳。 | |
0720 | 『ヒロシマに、なぜ 海外よりのまなざし』(小倉馨、 溪水社) | |
0901 | 『平和文化 第19号』( 広島平和文化センター) | |
「小倉馨氏を悼む」(原田病院名誉院長 原田東岷) | ||
1987 | ||
0420 | 『廣島随想』(豊田清史) | |
悼縁記・・小倉馨君・・・85 | ||
1988 | ||
0920 | 『新聞資料 原爆Ⅱ』(小田切秀雄監修、日本図書センター) | |
広島平和文化センター事務局長小倉馨さん死去 216 | ||
2018 | ||
0316 | 『Hiroshima Research News Vol.20 No.2 2018.3』(広島市立大学広島平和研究所) | |
0710 | 『戦後ヒロシマの記録と記憶 小倉馨のR・ユンク宛書簡(上・下)』(若尾祐司・小倉桂子編 、名古屋大学出版会 ) | |
ヒロシマを世界に伝える―ロベルト・ユンク宛て小倉馨書簡 竹本真希子……4~5 | ||
止