「01 月忌」カテゴリーアーカイブ

山下義信

義信
189403生

(明治27)

 

19890730

(昭和64)

広島戦災児育成所の創始者。呉市出身、浄土真宗本願寺派の特任布教使などを経て従軍。復員後、1945年12月、原爆孤児たちを養育する「広島戦災児育成所」を広島県佐伯郡五日市町に創設。53年1月、広島市に移管するまで171人の孤児を育てる。47年、社会党から参議院議員(広島地方区)に当選、59年まで2期務め、原爆医療法制定に尽力(『中国新聞』)

日記・日誌・資料より[敬称略]

1981 11 06 山下義信宅訪問。[『宇吹』という名前に関心。「うすい」という名前の友人が一中時代にいたが親戚かとの問い。内容についての話は無かったが、下記の資料(紙1枚)をプレゼントされる。]
山下
1989 08 05 「ひと きのう きょう 流れ雲 山下義信さん(7月30日没 95歳) 原爆孤児に「家庭」作る」(渡辺雅隆)『朝日新聞(夕刊)』1989年8月5日
1995 06 24 RCCテレビ『補償なき半世紀』(午後3時半-)のビデオを見る。山下義信の所蔵資料が目玉。援護法の当初案に原子力開発にともなう被曝者の救済策が入っていたことを初めて知る。藤居・宮田千秋も出演。「戦時災害保護法」の事実経緯に誤りがあった。
1995 12 02 原田東岷インタビュー=医療法については山下義信と灘尾弘吉が熱心に世話をしてくれた。任都栗を含め、われわれは、政治家を利用もしたが、偽手帳問題など、その悪影響もあった。本当に困っている人は仕方がないとして、法に安易にすがる姿勢には疑問を持つ。
1996 03 23 Sの話=山下義信は、戦災孤児収容所についての詳しい資料を持っている。しかし、実名入りなので公開していない。2017
2017 04 25 <『広島戦災児育成所と山下義信』新田光子、法蔵館、2017.3.21>を昭和図書館で借り出し、読了。

山下義信

資料1 天皇陛下巡幸に関する質問主意書

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/001/syuh/s001111.htm

質問主意書
(質問第百十一号)昭和二十二年十一月六日配付
天皇陛下巡幸に関する質問主意書
右の質問主意書を国会法第七十四条によつて提出する。
昭和二十二年十一月四日
山下 義信
参議院議長 松平 恒雄 殿
天皇陛下巡幸に関する質問主意書
陛下には引続いて全国を巡幸遊ばされ、戦災者を中心に、親しく慰問激励のお言葉をたまわり、経済再建の思召から生産現場などにも臨ませられ、国民も心から感激して御歓迎に熱狂する有様は、誠に感銘に堪えないところであるが、この際次の諸点を質問して政府の善処を要望するものである。
一 天皇陛下巡幸に関する宮内府の処置については挙げて政府の責任と思うが如何。
二 地元地方公共団体長或は宮内府行幸事務関係者などのはからいにて、行幸巡路、お立寄地点などを決定する模様であるが、種々物議を醸し、非難を招き、請託、懇請激烈をきわめ、甚しきに至つては下検分に際して歓待を要するとの風評もある。政府はこれらの弊害なきよう訓告を出していると信ずるも、断乎しゆく正を励行せねばならぬ。巡幸プログラム等の決定については、政府は十分監督しているや否や。又これが所管は何大臣とするものか。
三 近く十一月下旬から中国地方巡幸の御予定と聞くが、その中には広島市も訪わせ給うと承る。同市はいうまでもなく原爆の廃墟都市にして、この地に天皇ののぞませられるは内外の感無量とするところである。
さればその巡幸予定のごとき真に御仁慈に相応わしきよう慎重に吟味されねばならないと思うが政府の所見は如何。
四 然るに聞くところによれば現在においては、同市は二時間余にて通過される程度に止まるとのことである。いわゆる素通りの程度に計画されてあるということは、実に心なきわざと遺憾に堪えざるものである。
政府はかかる巡幸計画を至当と考えるか如何。
世紀の歴史的都市を訪い給うことは、ただに一地方の問題ではないと思う。日本天皇と原爆その地の御行動とは世界の注視するところとなろう。希くは平和日本の象徴であらせたまう天皇として最も厳粛なる歴史的行幸であらせらるるよう政府の中枢部においても深甚なる考慮と関心とを払われんことを希求して止まない。
本員は政府の賢明なる答弁を期待するものである。

 

第1回国会(特別会)
答弁書
(答弁書第百十一号)昭和二十二年十一月十八日配付
内閣参甲第一二四号
昭和二十二年十一月十四日
内閣総理大臣 片山 哲
参議院議長 松平 恒雄 殿
参議院議員山下義信君提出天皇陛下巡幸に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。
参議院議員山下義信君提出天皇陛下巡幸に関する質問に対する答弁書
一、宮内府は、内閣総理大臣の所轄であるから、宮内府の処置については政府は責任を負う。
二、行幸巡路、お立寄地点の決定については、当該都道府県の原案にもとずいて宮内府において全般の計画を見合つて案を作成する。
風評の如きは全然事実無限であると信ずるが、今後も斯かることのないように充分注意する。
三、四、広島御巡幸については、目下案を作成中であつて決定していない。

 

藤居平一

 

ふじい へいいち 19150807生 19960417没

 

 略歴
広島市民生委員連盟理事
広島市社会福祉協議会理事
1954.09 原水爆禁止運動広島協議会常任委員
1955.05 原水爆禁止世界大会広島準備会財政副委員長
1955.09 原水爆禁止日本協議会常任理事
1955.11 原水爆禁止広島協議会事務局次長
1955.11 原水爆禁止広島協議会原爆被害者救援委員会幹事長
1956.02 広島県原爆被害者大会実行委員会事務局長
1956.05 広島県原爆被害者団体協議会代表委員・事務局長
1956.05 全国社会福祉協議会原爆被害者救援特別小委員会代表
1956.08 日本原水爆被害者団体協議会事務局長

 

原爆被害問題研究の恩師

 「先生は、原水爆禁止運動について、どう思われますか」、「忘れた」。「先生は、第1回原水爆禁止世界大会の中で重要な役割を果たされています。何か思い出されることは、ありませんか」、「忘れた」。1995年12月のある日、原爆医療法制定当時に広島市の医師会の幹部だったドクターのお宅で、数回繰り返されたQ&Aです。それまで、「原爆医療法の成立」(広島大学テレビ公開講座用の1テーマ)過程について、打ち解けてお話してくださっていたドクターの顔が、突然無表情になりました。私のシナリオでは、原水禁運動が原爆医療法成立に果たした積極的な役割(藤居さんから学んだことです)が予定されています。カメラは回り続けています。窮地に立った私は、「藤居さんをご存知ですか」と話題を変えてみました。ドクターの表情が緩みました。「良く知っている。快男児だった」。会話がつながりました。シナリオどおりにはなりませんでしたが、インタビューを無事終えることができました。

私自身が藤居さんに初めてお会いした(熊田重邦先生の紹介)のは、1980年(昭和55)4月26日のことです。しかし、その3年前の1977年に「藤居資料」に出会っています。それは、広島大学法学部の北西允研究室の2箱の段ボールの中にありました。当時、私は、日本人の核意識をテーマとする文部省の研究班(庄野直美班長)の仕事で同研究室に出入りしていました。この研究が一段落ついた7月、北西教授は、私に、この資料を生かして欲しいと託されました。聞けば、それは、石井金一郎教授が日本の原水爆禁止運動の歴史をまとめるために藤居さんから借用したもので、石井教授の死(1967年)後、同教授が預かっていたとのことでした。

私は、大学卒業後約6年間、広島県史編さん室に勤務し、今堀誠二・熊田の両先生の指導の下で、『広島県史・原爆資料編』編纂業務に従事しており、原爆問題に関する資料は、かなりのものに目を通していたつもりでいました。しかし、「藤居資料」(簿冊13冊、一点資料も含めた総点数は429点)のほとんどは、初めて目にするものでした。学生時代、数人の先輩から、歴史研究を志すものにはいつか自分の研究を方向づける資料との運命的な出会いが訪れると聞かされていました。「藤居資料」と出会った私は、とっさに「これだ!」と思いました。早速、勤務先の原爆放射能医学研究所で、整理に取りかかり、8月末には目録を作成しました。この経緯を熊田先生に伝えたところから、資料の主であった藤居さんとの出会いが実現したわけです。

それから15年の間の私の原爆被害問題研究の歩みは、藤居さんとともにありました。翌年から始まった藤居さんへの聞き取りは、1984年まで続きました。その録音テープは、120分テープで60本に及んでいます。その成果は、広島大学原爆被災学術資料センター資料調査室発行の『資料調査通信』に「まどうてくれ-藤居平一聞書」として8回(第5号1981年12月号から第29号1984年1月号)にわたり、まとめさせていただきました。

この作業の中で、藤居さんは、原爆被爆者運動草創期に活躍された多くの人々に紹介してくださいました。中でも忘れられないのは、原水爆禁止日本協議会が製作した映画「生きていてよかった」の関係者との出会いです。1982年3月には、草月流の勅使河原宏家元(この映画の助監督)が出席された同派の広島支部の会合に、原爆乙女の会の会員だった人たちと一緒に参加させていただきました。また、同年7月には、藤居さんの発案で、映画に出演された主だった方々を招いて、広島市の平和記念館で同映画の上映会を開催しました。関係者の招待に奔走されたのは竹内武さんでしたが、私も映写技師として裏方を勤めさせていただきました。

竹内さんから日本原水爆被害者団体協議会の初期資料である「平和会館資料」を借用したのは、この上映会から5日後のことでした。この資料との格闘は、1985年6月まで続きました。この間に整理した資料(1963年の原水爆禁止運動分裂までのもの)は、単行本・パンフレット・逐次刊行物合わせて901点4373冊、文書綴・ノート類は55冊3897点、一点資料1287点に及ぶものでした。

1995年10月26日夜、藤居さんから自宅に電話がありました。日赤病院からとのことで、7月下旬に広島で開催されたパグウォッシュ会議のことや、広島大学原医研に新たに導入された機器のことを話されました。しかし、突然、すごい剣幕で怒鳴られたかと思うと、電話が切れてしまいました。病室の電話の接続にトラブルが生じたものと思い、再び電話がかかるのを待っていましたが、かかっては来ませんでした。そして、これが、私が聞いた藤居さんの最後の声となりました。「藤居平一聞書」のために録音テープを取り始めたのは日赤病院の病室でした。そして、最後の声も同病院内からのもの。私には、入院生活の合間に藤居さんからお話を伺っていたような印象があります。今では、翌朝すぐにお見舞いにゆくべきだったと悔やんでいますが、その時は、死につながる病とは思ってもいませんでした。

藤居さんの原爆被害に対する関心は、この15年間に、大きく変りました。「まどうてくれ」の作業に応じてくださった気持ちを、「紙の碑を残したい」と語られていました。いわば関心は、「過去」あったわけです。ところが、その後、関心が「現在・未来」へ移りました。時期的には、1990年前後と記憶しています。この頃から藤居さんは、私にしばしば原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に対する批判や原爆被害を調査・研究する「医者・科学者グループ」の組織化への協力を要請されました。しかし、私には、荷が重すぎて積極的な回答ができません。その度に励ましとお叱りを受けました。藤居銘木に残された資料を1996年7月30日に頂いて帰りましたが、同社の高瀬さんが丁寧に準備されたその資料からは、お亡くなりになる直前まで、藤居さんがこれらの問題と取り組まれていた様子が伝わってきました。

藤居さんは、私に多くの宿題を残して逝かれました。「庶民の歴史を世界史にする」、これは藤居さんから私が聞いた好きな言葉の一つです。過去10年間、私は原爆手記の収集と分析を行ってきましたが、この作業を私は藤居さんへのレポートと考えています。

1996年5月のある夜、私は広島駅前の飲み屋で、二人の先生と同席していました。広島在住のA先生が、友人であるB先生(日本の平和運動のリーダーの一人)に、原水爆禁止運動に関心を持つ私を引き合わしてくださったのです。何から話してよいか迷った私は、「藤居さんをご存知ですか」と聞いてみました。即座に出た答は、「日本被団協を作った人でしょ」でした。1955年当時、B先生にとって藤居さんは雲の上の存在だったそうです。しかし、しばしば原水爆禁止運動関係の会合でお目にかかったことがあるとのことでした。初対面の会話が、これを機にはずんだことは言うまでもありません。

同じ年の7月、私は、信濃毎日新聞社に1956年当時の長野県内の被爆者組織について問い合わせの電話を入れました。「藤居資料」では、日本被団協は、広島・長崎・愛媛・長野の4県の被爆者組織で出発したことになっています。しかし、藤居さんは、長野の組織の状況をご存知なかったのです。同社からは、オリンピック関連の取材で手一杯であるが、あなたが長野に調査に来れば、そのこと自体を記事にすることができる、それによって当時の状況を知る手がかりが得られるのでは、との親切な回答をいただきました。

私は、藤居さんの「現在・未来」の課題にはお役に立つことができませんでした。しかし、私の「過去」との取り組みは、これからも藤居さんととともに続きます。