蜂谷道彦
はちや・みちひこ |
1903生19800413没 |
享年76 |
蜂谷道彦 |
『ヒロシマ日記』(朝日新聞社、1955) |
資料年表:蜂谷道彦<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
1903 |
岡山県生まれ |
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1929 |
岡山医科大学卒 |
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1942 |
広島逓信病院院長就任 |
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1945 |
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0806 |
逓信病院近くの自宅で原爆被爆、大怪我。8月11日職場復帰。原爆投下直後の56日間の職務記録、1955年に『ヒロシマ日記』として出版(朝日新聞社)。 |
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1952 |
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0601 |
「原爆放射線病の回顧 蜂谷道彦」(『広島医学』) |
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1959 |
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0613 |
土木学会第45回通常総会記念講演「原爆の災害と家屋の放射遮蔽効果」(学会誌 (jsce.or.jp)) |
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1966 |
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0815 |
広島逓信病院院長辞職。 |
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1980 |
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0413 |
死去。 |
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止
ペンギラン・ユソフ
19210502生20160411没 |
享年94歳 |
元南方特別留学生として広島文理科大学に在学中被爆。元ブルネイ首相。 |
資料年表:ペンギラン・ユソフ<作業中>
年月日 |
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1921 |
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0502 |
誕生 |
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1964 |
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0516 |
旧広島大学在学中に被爆死したマレーシア人留学生の遺族、広島市を訪問 |
C |
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2013 |
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0422 |
元南方特別留学生ペンギラン・ユソフへの広島大学名誉博士号授与式、在ブルネイ日本大使館で実施。<広島大学 (hiroshima-u.ac.jp)> |
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名 誉 博 士 候 補 者 調 書 |
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2016 |
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0411 |
死去。広島文理大に在学していた南方特別留学生9人のうちの最後の存命者。 |
C |
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止
小黒薫<作業中>
おぐろ・かおる |
****生20040410没 |
享年90 |
1974~1978年、広島女学院大学長?院長?<投稿> |
資料年表:
年月日 |
事項 |
備考 |
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1956 |
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1201 |
小黒薫「音楽談義」(『トルソ 創刊号』(広島女学院大学文芸部)所収) |
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1970 |
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小黒薫「ヒロシマとは何か」(『現代における平和への条件-1970ヒロシマ会議』) |
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1973 |
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0625 |
『ヒロシマの意味』(日本評論社、19730625) |
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1976 |
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1001 |
「女学院教育の特色と創立100周年への展望(小黒薫院長)」<『九拾年の歩み』(広島女学院創立90周年記念誌編集委員会)> |
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1979 |
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0110 |
ソ連地下核実験。12日、原爆慰霊碑前(広島)で抗議の坐り込み。小黒薫前広島女学院大学長、大原亨代議士ら約100人が参加。 |
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2004 |
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0410 |
没 |
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止
井上ひさし
いのうえ・ひさし |
19341117生20100409没 |
享年75 |
本名:井上廈。日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任。<資料年表> |
資料年表:井上ひさし<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
1934 |
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1117 |
誕生 |
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1994 |
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09 |
『父と暮らせば』 |
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1995 |
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0810 |
『社史に見る太平洋戦争』(井上ひさし編、新潮社) |
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1025 |
広島高校生平和ゼミナールの生徒、「父と暮らせば」広島公演の出演者に、被爆かわらを贈る。 |
C |
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2004 |
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「九条の会」呼びかけ人 <「九条の会」オフィシャルサイト (9-jo.jp)> |
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2008 |
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0222 |
井上ひさし作・朗読劇「リトル・ボーイ、ビッグ・タイフーン」、フォーラム(東京都渋谷区)で初舞台。 |
C |
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2010 |
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0409 |
死亡。 |
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止
『原爆ドームと楮山ヒロ子 ヒロ子の日記と原爆ドームの保存』(寺田正弘・中村秀次・吉村勝文著、原爆ドームと楮山ヒロ子の会、20191215)
内容<作業中>
章節 |
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序にかえて 2 |
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1 |
楮山ヒロ子の生涯と人となり 9 |
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1-1 |
今なぜ楮山ヒロ子なのか 10 |
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1-2 |
原爆ドームと楮山ヒロ子 11 |
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1-3 |
楮山ヒロ子の生い立ちと人となり 14 |
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(1)生い立ち 14
(2)社会的背景(どのような生活環境の中で育ったのか) 21
(3)人となり 24
小学校時代 24
中学校時代 26
高校時代 28 |
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1-4 |
楢山ヒロ子の追憶 31 |
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(1)小学校卒業時のクラス写真より 31
(2)中学校卒業時のクラス写真より 32
(3)中学校の卒業文集より 33
(4)中学校卒業時のクラスメートにあてたサイン帳より 34 |
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1-5 |
小・中・高校時代を振り返って 36 |
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(1)小学校時代と中学校時代 36
(2)中学校時代のクラスの雰囲気 36
(3)高校時代 37 |
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1-6 |
なぜ佐々木禎子のように名が広がらなかったのか 37 |
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(1)佐々木禎子の生涯と人となり 37
(2)彼女はなぜ広く知れ渡るようになったのか 38
(3)楮山ヒロ子があまり知られていないのはなぜか 39
(4)佐々木禎子と楢山ヒロ子の共通点 39
(5)急性白血病とは 40 |
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1-7 |
楮山ヒロ子の日記について 41 |
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(1)なぜ日記をつけ始めたのだろうか 41
(2)なぜ8月6日にあのような日記が書けたのか 42
(3)なぜ日記が公開されるに至ったのか 45 |
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1-8 |
追補 45 |
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1-9 |
追加(前回発行した『ある日』への追加文です) 46 |
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(1)国際婦人会議宛ヒロ子のお母さんのメッセージより 46
(2)「幼き日のひろ子さん」古池あさよさんより 48
(3)「惜別」段野信子さんより 51 |
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2 |
ドーム保存へ 53 |
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1.『ある日楮山ヒロ子の日記』 54
2.楮山ヒロ子の日記から原爆ドーム保存へ 56
3.河本一郎の略歴とドーム保存までの歩み 70
4.河本一郎の人となり 81
5.原爆ドームの存廃論義 85 |
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3 |
対談集 89 |
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3-1 |
段野・三上さんから楮山ヒロ子および河本一郎・折鶴の会などについて尋ねる 90 |
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(1)楢山ヒロ子と段野(旧姓沖田)さん 91
(2)楮山ヒロ子の日記とドーム保存 96
(3)「折鶴の会」と河本一郎 100
(4)折り鶴の処理 107
(5)「折鶴の会」のさらなる活動 110
(6)ヒロ子の親友、段野(旧姓沖田)さんとめぐり合う 112
(7)マクミラン先生との出会い 120
(8)河本一郎と自転車 122
(9)被爆70年、ドーム100年 124
(10)ヒロ子の葬儀 126 |
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3-2 |
黒瀬先生(広島女学院理事長)から河本一郎について尋ねる 128 |
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(1)河本一郎との出会い 129
(2)河本一郎と広島女学院とのかかわり 132
(3)広島女学院退職後の河本一郎 134
(4)佐々木禎子を世界に向けて発信 136
(5)河本一郎の原点 138
(6)YMCAとの接点 140
(7)河本一郎の原動力 143 |
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4 |
平和への歩み 147 |
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1.なぜアメリカは日本に原爆を投下したのか 148
2.原爆はどのようにして開発されたか 152
3.なぜ広島・長崎が投下目標に選ばれたか 153
4.原爆投下に関するいくつかの重要な証言 155
5.楮山ヒロ子の日記のメッセージを書き残して行く意義と責務 159
6.原爆投下に関する日米の公式見解 160
7.追記 161 |
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5 |
マスメディアによる取材 163 |
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5-1 |
国内にむけての報道 164 |
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(1)新聞より 164
(2)テレビより 165 |
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5-2 |
国外にむけての報道 166 |
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(1)****ントンポスト(アメリカのインターネット新聞)より 166
(2)NHKワールドより 167 |
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あとがき 168 |
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止
楮山ヒロ子
かじやま・ひろこ |
生19600405没 |
享年17 |
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広島で被爆。急性リンパ性白血病のため広島市民病院で死亡。<投稿> |
資料年表:楮山ヒロ子
年月日 |
事項 |
備考 |
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出典:C=『中国新聞』 |
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1960 |
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0405 |
急性リンパ性白血病のため広島市民病院で死亡。 |
C |
0505 |
広島「折鶴の会」、原爆ドーム保存のための署名と募金運動開始を決める。楮山ヒロ子が日記(1959年8月6日)「あの痛々しい産業奨励館だけがいつまでも、恐るべき原爆を後世にうったえてくれるだろう」と記していたのが動機(「アンヘルの名とともに―河本一郎小伝」)。 |
C |
0806 |
原爆の子の像(広島平和記念公園)前で追悼の集い(3回目)。広島子どもを守る会「あゆみグループ」、レイノルズ夫妻など約200人が参列。楮山ヒロ子の日記(1959年8月6日付)紹介。 |
C |
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1967 |
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0804 |
広島「折鶴の会」、楮山ヒロ子の日記を中心に同会の歴史をつづった「爆心地」を発刊。 |
C |
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1994 |
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0802 |
楮山ヒロ子の日記、広島原爆資料館へ寄贈へ。 |
C |
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2011 |
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0331 |
2012年度からの中学校用教科書の検定に合格した歴史教科書(東京書籍)、楮山ヒロ子の日記をきっかけに60年代に広がった原爆ドーム保存運動などを紹介(山本洋子・記者)。 |
C |
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2019 |
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1215 |
『原爆ドームと楮山ヒロ子』(寺田正弘、中村秀次、吉村勝文著、原爆ドームと楮山ヒロ子の会刊) |
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|
止
『志あるところ必ず道あり 大原亨追悼録・遺稿集』(発行編纂委員会、19910806)
内容<作業中>
頁 |
部 |
著者 |
タイトル |
備考 |
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多賀谷真稔・秋葉忠利 |
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序にかえて |
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秋葉忠利 |
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追悼の辞 |
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大原亨 経歴 |
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001 |
第1部-1- |
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社会保障の大原 |
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倒れても、なお、社会保障を 多賀谷真稔 2
大原先生・3つの思い出 伊藤茂 8
年金改革に注がれた情熱 宇津木泰子 13
社会保障制度に生涯を捧げた政治家 内海英男 15
党政策の大先達だった友 堀昌雄 16
「私たちの年金」が生まれた頃の想い出 小口賢三 18
福祉・年金の小原先生への思い 岸田文武 25
30年一筋に医療保障・年金を追究 長尾立子 28
教えられた福祉と平和の国づくり 三井速雄 30
瀬戸内海環境保全と年金で活躍 林義郎 36
「共済組合四法案」の闘いを担って 前田弘 40 |
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045 |
第1部-2- |
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政治家としての大原像 |
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慈しみの心で政治に取り組む 藤音晃祐 46
大衆への愛情をこめた政治家の姿 金子みつ 48
勉強家だった社労の大人 横山泰治 50
頼りがいある海坊だった 上杉佐一郎 54
大原君とはもっと話したかった 小杉進 57
「趣味は勉強」の大原先生 森井忠良 60
政治と郷里の大先輩を偲ぶ 粟屋敏信 63
大原先生の人間像を偲ぶ 小森龍邦 66
衆議第一議員会館215号室 素顔の大原さん 秋信利彦 71
初当選をおでん屋で祝ってくれた人 福岡義登 74
大原先生の幾つかの思いで 江田光子 76
パスポートなしで東独入り 海野明昇 78
在京秘書として働いた思い出から 石川弘美 81 |
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085 |
第2部-1- |
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地元が語る政治家大原 |
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終りを全うした人 竹下虎之助 86
大原先生と広島市長選挙 荒木武 88
県労会議と平和運動での大原さん 浜本万三 90
大原先生は私の労働運動の師 藤崎徳雄 92
遺影を奉じて被爆者援護法の実現へ 森瀧市郎 98
先生との出会いを心に 吉川生美 99
放影研発足のきっかけを作られた先生 重松逸造 101
昭和33年選挙から関わり続けて 山下三郎 103
大原君と広高教組のことども 岡本清 110
平和を望み、愛した大衆政治家 川崎美澄 115
気どらず気さくな人だった 斎藤尊 117 |
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119 |
第2部-2- |
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身近な人が語る大原像 |
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大原亨先生のほこり 鶴敍 120
一言に思いをこめて 庄野直美 134
信心の人・誠実の人・大原先生 武野似徳 135
郷土広島のためにも多大の功績 明星正明 137
町内で語り合った先生の思い出 山本秀雄 138
「むすび会」からと大原先生を懐う 増原千代子 140
「虹の会」の思い(1) 唐川敏子 145
「虹の会」の思い(2) 竹本久子 148
いただいた2枚の書に思う 村井浩 149
大原亨の生まれ故郷を語る 大原信 153
亨さんの生いたちと働きを偲んで 大原輝子 155
私人としての「亨君」を語る 岡本隆 159
勲一等より尊い勲章 山田文雄 165
普段着姿の義兄への思い 大原篤子 172
志あるところ必ず道あり 大原邦夫 174 |
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179 |
第3部-1- |
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最後の論文 |
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90年3月5日付の書簡 180 |
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「逆転下の年金改正の総括」(上) 181
「逆転下の年金改正の総括」(下) 188 |
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195 |
第3部-2- |
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国会における演説・質疑 |
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初質問 第29国会・衆議院社会労働委員会(58・6・27)原爆被爆者の医療対策に関する質疑 196
第68国会・衆議院本会議代表質問(72・2・1)社会保障政策-老人福祉・医療等 207
第68国会・衆議院本会議趣旨説明(72・4・25)「公的年金の年金額等の臨時特例に関する法律案」 226
第71国会・衆議院本会議趣旨弁明(73・7・10)「活動火山周辺地域における避難施設等の整備等に関する法律案」 231
第72国会・衆議院社労委提案理由説明(74・4・4)「原子爆弾被爆者等援護法案」 234
第96国会・衆議院社労委(82・4・22)原爆関係2法案に対する質疑 237
第102国会・衆議院本会議(84・12・13)永年在職議員表彰に対する謝辞 255
第102国会・衆議院社労委(85・5・23)原爆被爆者対策に関する質疑 257
第104国会・衆議院予算案(86・2・17)部落差別問題に関する質疑 272
最後の質問 第116国会・衆議院社労委(89・11・22)国民年金法等一部改正案などに対する質疑 289 |
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止
森脇幸次<作業中>
もりわき・こうじ |
****生19770430没 |
享年68 |
中国新聞論説委員、取締役編集局長、中国地方経済連合会常務理事。 |
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出典:『広島新史編修手帖 No.1』 |
止
杉村春子
すぎむら・はるこ |
19060106生19970404没 |
享年91 |
女優。本名:石山春子。広島市出身。『広島県現代文学事典』(九内悠水子・記)。映画吹き込み現場に立ち会う。<投稿> |
資料年表:杉村春子<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
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出典:C=「中国新聞」 |
1906 |
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0106 |
誕生。 |
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1961 |
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0614 |
杉村春子・朝永振一郎・末川博・亀井勝一郎・坂田昌一・中島健蔵・鈴木一雄、「7人の集まり」を結成、平和アピール発表。(『平和アピール20年運動史』) |
C |
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1963 |
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0613 |
人権を守る婦人協議会、「原子力潜水艦の日本寄港に反対する婦人へのアピール」を発表。市川房枝・山高しげり・淡谷のり子・平塚らいてう・杉村春子など151人が署名。 |
C |
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1966 |
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0601 |
「東京の原爆被害者をはげます集い」、東京都体育館(東京・千駄ヶ谷)で開催。都内の被爆者・家族約1700人など約8000人が参加。松本清張・杉村春子など在京文化人有志50人の呼びかけ。 |
C |
1967 |
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0714 |
広島テレビが芸術祭参加番組として制作するセミ・ドキュメンタリー「百日紅の花」の撮影始まる。監督:松山善三、主演:杉村春子。 |
C |
1004 |
広島テレビ制作、芸術祭参加番組「百日紅の花」放送(日本テレビ系は10日)。監督:松山善三、出演:杉村春子、木村光江ら。 |
C |
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1969 |
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広島テレビ、芸術祭参加番組「碑(いしぶみ)」。 |
C |
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2006 |
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0714 |
映画「母たちの祈り」でナレーションを務めた杉村春子さんから「ヒロシマの心とあるが、これはどういうことか」と尋ねられ、立ち会っていた私(宇吹)は、「ある市民からノーモア・ウォ―、ノーモア・ヒロシマと聞きました」と言ったら、「その気持ちで読もう」と言われた |
C |
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『中国新聞』(2006年7月14日) |
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止
伊藤実雄<作業中>
いとう・じつお |
19060325生19840404没 |
1946年4月の総選挙で広島全県区(当時)から初当選、1期。『古稀を越えて 伊藤實雄』(1982.2.25) |
資料年表:伊藤実雄
年月日 |
事項 |
備考 |
1906 |
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0325 |
出生地:広島県安芸郡熊野町。 |
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1945 |
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0808 |
子息・伊藤忠造(広島県立広島1中1年)原爆被爆により死亡。(「ご遺族からのアンケート」『ゆうかりの友』pp.91-92) |
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1977 |
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0729 |
『回顧録』(広島県農業会原爆物故者追悼法要執行委員会) |
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1982 |
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0225 |
『古稀を越えて』 |
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1984 |
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0404 |
死亡。 |
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止
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。