広島民報 19650410-1号
1965年3月31日 日本共産党第2回広島県委員会総会 |
徳毛宜策:日本共産党中央委員・広島県委員長 |
村上経行:県常任委員 |
止
広島民報 19650410-1号
1965年3月31日 日本共産党第2回広島県委員会総会 |
徳毛宜策:日本共産党中央委員・広島県委員長 |
村上経行:県常任委員 |
止
広島県立呉昭和高等学校 (広島県呉市焼山町)
年月日 | ||
1983 | ||
04 | 全日制普通科高校として開校。 | |
<作業中> | ||
2023 | ||
0301 | 第38回卒業式(卒業生58名) | |
2024 | ||
0304 | 呉昭和高 撮影:宇吹暁 | |
止
トルーマン、ハリー・S・
26 | 18840508生19721226没 | トルーマン、ハリー・S・ | とるーまんHarry S.Truman | 88 | アメリカ合衆国第33代大統領(1945~1953)。民主党出身。原爆投下を指令。 |
資料年表:トルーマン
年月日 | ||
1884 | ||
0508 | 誕生 | |
1972 | ||
1226 | 没 | |
止
『日本共産党の100年1922-2022』目次(概要)<作業中>
章 | |||
1 | 日本共産党の創立と戦前の不屈の活動(1922~45) | ||
2 | 戦後の十数年と日本共産党(1945~61) | ||
3 | 綱領路線の確立以後(1)―1960~70年代― | ||
1 | 綱領路線にもとづく各分野での開拓的な努力 | ||
2 | ソ連、中国・毛沢東派の干渉とのたたかい | ||
ケネディ政権と各個撃破政策/ソ連共産党の干渉とたたかって//毛沢東との会談とコミュニケの破棄//1968年の北朝鮮訪問―「南進」問題の誤りをただす/チェコスロバキア侵略への厳しい批判(1968年) | |||
3 | 日本共産党の「第一の躍進―1960年代末~70年代」 | ||
第11回大会。発達した資本主義国での革命(1970年)//沖縄人民党の日本共産党への合流/第12回大会と民主連合政府綱領の提案/// | |||
4 | 綱領路線の確立以後(2)―1980~90年代― | ||
1 | 「オール与党」体制とのたたかい―1980年代 | ||
「社公合意」と革新懇運動の提唱////// | |||
2 | 覇権主義とのたたかいとソ連・東欧の支配体制の解体 | ||
ソ連のアフガニスタン侵略と大国主義・覇権主義とへの批判/世界平和と核兵器廃絶をめぐる国際論争/「新しい思考」路線と干渉主義に抗して/北朝鮮の国際的無法、中国・天安門事件と党の立場/東欧諸国の激動にさいして//歴史的巨悪の党、ソ連共産党の解体を歓迎/ | |||
3 | 1980年代の政治状況と日本共産党の「第二の躍進」 | ||
湾岸戦争と自衛隊の海外派兵////日米安保の地球的規模への拡大、海外派兵立法とのたたかい// | |||
4 | 世界の平和秩序をきずく課題と野党外交のはじまり | ||
ソ連解体後の世界とアメリカの「一国覇権主義」/中国共産党との関係正常化/アジア外交の積極的展開/ | |||
5 | 綱領路線の確立以後(3)―2000年代~今日― | ||
1 | 「二大政党づくり」とのたたかい―2000年代 | ||
///「国連憲章を守れ」の国際世論と党の平和外交の発展//// | |||
2 | 「第三の躍進」とかつてない統一戦線の発展―2010年代 | ||
/東日本大震災・福島原発事故―「苦難軽減」の立法の精神で奮闘//世界のすべての国ぐにが世界政治の主人公に//戦争法(安保法制)反対の国民的闘争と市民と野党との共闘の発展//核兵器廃絶への新しい大国主義・覇権主義とのたたかい/激動するアジア情勢と野党外交/「新版 資本論」の刊行/ | |||
3 | 世界と日本の激動のなかで―2020年代 | ||
//////////// | |||
4 | むすび―党創立100周年を迎えて | ||
//////////// | |||
『不破哲三 時代の証言』(不破哲三、中央公論新社、20110325)
内容<作業中>
止
『核兵器全面禁止と原水禁運動』(日本共産党中央委員会出版局、1973/11/18)
内容
章 | ||
核実験禁止、核兵器全面禁止問題についての日本共産党の基本的見解 宮本委員長の記者会見 7 | ||
核保有5カ国への日本共産党中央委員会の書簡 13 | ||
核問題についての各国共産党・労働者党への手紙 21 | ||
核兵器禁止をめぐる問題 「日本共産党第11回大会第11回中央委員会総会での不破書記長の報告」から 24 | ||
1 | 核兵器全面禁止と日本共産党の立場 | |
核兵器の全面禁止――今日の情勢とその意義 西沢富夫常任幹部会委員にきく 35 | ||
核問題と日本共産党の態度 「党本部勤務員全員集会での不破書記長の報告」から 47 | ||
核実験問題と日本共産党の態度 上田耕一郎 63 | ||
2 | 米核戦略と核開発競争 | |
核兵器全面禁止協定こそ核開発競争の悪循環を断ち切る道 西沢舜一 71 | ||
米の核戦略と核開発競争 井出洋 84 | ||
環境の放射能汚染と核兵器全面禁止の重要性 浅見善吉 96 | ||
《補》米核戦力の現状-核兵器開発競争悪循環の起動力 田中一郎 104 | ||
3 | 国会での「核決議」と日本共産党 | |
核兵器の全面禁止を核保有国に要求を 金子満広議員の衆議院本会議での反対討論 139 | ||
「核決議案」と日本共産党-衆参両院での経過をめぐって 143 | ||
〔資料〕 1 共産党・革新共同が衆議院に提案した決議案 154 2 衆議院の4党決議 154 3 共産党が社会党との協議で提案した決議案(参議院)155 4 4党提案、共産党賛成の参議院決議 156 |
||
4 | 自民党政府の核政策と中間政党の共産党攻撃を批判する | |
自民党政府の核兵器政策批判 西沢優 159 | ||
米の核戦争政策に追随、加担してきた自民党 河邑重光 179 | ||
米の核のカサ容認、原水禁運動妨害の民社党 竹林信夫 187 | ||
公明党の原水禁運動への態度とわが党への根拠のない批判 金子満広 193 | ||
核問題での社会党の非難にこたえて 日本共産党 202 | ||
5 | 原水禁運動の組織的統一のために | |
原水爆禁止運動の組織的統一を実現するための協議の申し入れ 日本共産党中央委員会 207 | ||
原水爆禁止運動の現段階と統一問題 金子満広 211 | ||
原水禁運動の原点と「いかなる国」問題 岡崎万寿秀 230 | ||
《補》原水禁運動の原点と分裂の経過 246 | ||
6 | 被爆者救援の緊急性 | |
「被爆者援護法案」実現を 政府への申し入れ書 261 | ||
原子爆弾被爆者等援護法案(要綱)日本共産党 263 | ||
被爆者救援運動と原水爆禁止運動 津川久義 280 | ||
止
ローマ法王歓迎の集い(広島市、1981年2月25日)
昭和56年2月25日 |
昭和56年2月25日 |
止
『戦後民衆運動の歴史』(平田哲男、三省堂、1978/04/25)
内容
Ⅰ | わき起こる民衆の運動(1945-1954年)1 | |||
1民主人民戦線運動 3 2戦後政党の出発 9 3生産管理闘争 16 4米よこせ運動 20 5塩尻村の土地管理運動 26 6米軍占領と沖縄県民のたたかい 34 7日教組の結成と教育委員会の発足 39 8民主的婦人運動の出発47 9住民自治運動の進展 53 |
||||
Ⅱ | 大衆運動の組織化(1955-1964年)59 | |||
10砂川闘争 61 11政党再編成と「多党化」 67 12原水禁運動の成立 73 13愛媛の勤評闘争 80 14母親運動の成立 88 15安保闘争 95 16三池争議 112 17島ぐるみのたたかいと復帰協の結成 117 18松川運動 124 |
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Ⅲ | 民主主義運動の新たな段階(1965-1974年)129 | |||
19延長安保条約下の基地闘争 131 20政党と組織活動 138 21保育所づくり運動144 22教科書裁判支援運動151 23大潟村農民の営農闘争 156 24公害裁判闘争 162 25ベトナム支援運動 169 26無条件全面返還のたたかい 174 27住民運動の発展と革新自治体の成立 180 |
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186 | 注 | |||
191 | 参考文献 | |||
止
『ヨハネ・パウロII世 教皇訪日公式記録』(主婦の友社、1981/04/02)
内容
頁 | ||
001 | 平和と希望と愛に向けて (駐日ローマ法王庁大使 マリオ・ピオ・ガスパリ大司教 ) | |
004 | 教皇聖下をお送りして (日本カトリック司教協議会・会長 里脇浅次郎枢機卿 ) | |
005 | 全日程/ローマ教皇 ヨハネ・パウロ二世の極東訪問 | |
平和を祈り羊を牧する者の旅 5 ヨハネ・パウロ二世の特別メッセージ「日本訪問にあたって」 6 教皇訪日の支点と力点 8 言葉は民族の心 8 教皇を見守った中国 8 |
||
POPE in TOKYO | ||
009 | アルバム/平和の使徒、日本へ 9 | |
東京国際空港に到着 10 聖職者の集い 12 ご苦労さま!ゼノさん 16 全国使徒代表の集い 18 司教団の集い 19 エキュメニカルの集い 20 諸宗教代表者の集い 20 天皇を表敬訪問 22 鈴木首相が教皇の表敬 24 フィールドとよもす聖歌と祈り 後楽園教皇ミサ 25 若者よ、希望を愛を平和を見たか ヤング・アンド・ポープ大集会 29 平和都市への旅立ち 32 |
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033 | 記録/教皇の公式発言〈東京編〉 | |
友情と尊敬のメッセージー東京カテドラル・ファザードで 34 教皇を聖職者の集いにお迎えして 白柳誠一大司教 35 一致ーすべての善の中で最も偉大なものーへの熱望を 聖職者の集い 36 信徒代表団へのメッセージ 37 司教団へのメッセージ 38 エキュメニカルの集いにお集まリの皆さんヘ 40 諸宗教代表の皆さんへ 41 キリストを通じて見いだす平和ー後楽園教皇ミサ説教 43 若者へのノッセージ 44 人生の目的と未来 44 あなたがかけるぺき橋 44 共通善の推進と維持への連帯をー在日外交団へのあいさつ 46 <ソフィア>に関する準備されていない講義ー上智大学訪問時のあいさつ 48 教皇をわが家にお迎えして 上智大学学長 ヨゼフ・ピタウ48 |
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POPE in HIROSHIMA | ||
アルバム/被爆地に永遠の灯を揚げて 49 広島空港到着 50 平和アピールー平和記念公園 52 報道陣との出会い 54 原爆資料館訪問 56 記念講演「技術・社会・そして平和」 58 平和記念聖堂〈広島カテドラル〉訪問 60 教皇は子ども好き! 62 一路殉教の聖地へ 64 |
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記録/教皇の公式発言〈広島編〉 65 歴代教皇の努力に敬意 広島市長荒木武 67 平和アピールー教皇歓迎集会 68 報道ー共通善への奉仕ー報道陣との出会いにおけるあいさつ 71 国連大学・広島市共催 念講演 74 紹介の言葉/スジャトモコ国連大w学長 74 記念講演「技術・社会・そして平和」 76 |
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POPE in NAGASAKI | ||
アルバム/雪の聖地・巡礼、走る 81 | ||
長崎空港到着 81 叙階式ミサ 82 修道女の集い 85 教皇歓迎集会ー松山競技場教皇ミサ 83 洗礼式 90 二十六聖人記念広場 92 平和祈念像 94 大浦天主堂 95 福者コルベの足跡を慕いたどってー聖母の騎士修道院 97 恵みの丘 長崎原爆老人ホーム 100 愛、残してロ-マへ 103 |
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105 | 記録/教皇の公式発言〈長崎編〉 | |
油塗られたものとして、 世の光としてー司祭叙階式説敬 105 新司祭名簿 107 殉教者の望み、いま実現ー修道女代表あいさつ 108 全き奉献への励ましとヒントー修道女へのメッセージ 108 二重の掟の実践者に学ぶー殉教者記念ミサ説教 110 長崎の願いを世界に 長崎市長 本島等 111 死より強い愛を証してー二十六聖人記念広場での演説 112 死と破壊の論理へ挑戦をー平和記念像献花 教皇庁国務長官 カザローリ枢機卿 114 福者の使命を堅持せよー聖母の騎士修道院で 116 無原罪の聖母への祈り 117 祈りつつ待った私たち 前田七左衛門 118 平和推進力として被爆者の生の尊さー恵みの丘長崎原爆老人ホームで 119 感謝と尊敬と不変の愛を日本の皆さんにー離日メッセージ 120 |
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教皇特別機同乗随行取材報告 横川和夫 121 | ||
21世紀の教会像を求める牧者の巡礼 ローマ→カラチ→フィリピン→グアム→日本対イスラムの信頼と疎通を協調 122 ひょっこり台所をのぞいた教皇さま 122 社会問題に熱意と自制を要求 123 列福式に150万人! 124 婚姻と家族の意義を説く 126 警備しり目に踊りの渦へ 127 農民、労働者の仲間として 127 抑圧された人々を明確に代弁 128 ミサ会場に虹の大アーチ 128 | ||
資料/教会と教皇を知るために | ||
129 | 空翔ぶ聖座、日本訪間実現までの世界歴訪の足跡 | |
メキシコ 不正義や争いは入間性を傷つける 130 ポーランド 恐れるな、くじけるな、自由を失うな 131 アイルランド いまこそ”キリストのまねび”を! 132 アメリカ合衆国 国連で軍拡競争の即時中止を訴え 133 トルコ 「愛は危倹よリ強い」アンカラ入リ 134 フラン 科学の進歩に自己破壊の芽を指摘 135 ブラジル 工業化社会の不公正を公然と瘧ァ 136 西ドイツ 教会分裂の終焉ヘの和解の呼びかけ 137 |
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138 | 神の代理人264代の系譜<略> | |
150 | 教皇ヨハネ・パウロII世の魅力の原点 巽豊彦 | |
スラブ人の教皇 P50 ポーランドという国 151 カロルの成長期 152 地下大学から地下神学校へ 153 司祭→教授→枢機卿 154 「危倹か満ちるとー」 155 | ||
歴史の中の教会(1)神の新しい約束に支えられて 二千年、不変の愛と試行錯誤と 157 |
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キリストの生と死と復活157 初代教会(信仰の確立)158 ペドロとパウロ 158 ミラノ勅令 159 ビザンチン期(東西教会の分離)159 グレゴリウス大教皇の登場 160 ヨ-ロッパ中世期(教会と俗権)160 教権と俗権のからみあい 161 封建制度の発達 P61 暗黒の”鉄世紀” 161 教皇権の回復 162 人文主義の芽生え 162 刷新と改革への努力 162 近代から現代ヘ(霊性の復興)163 社会派教皇たちの出現 163 |
||
歴史の中の教会(2)日本カトリックの四百年 ザヴィエル上陸から教皇訪日まで 164 |
||
ザヴィエルの日本観 164 目覚ましい布教活動 164 カブラルとヴァリニアーノ 165 迫害と鎖国 166 再興への歩み 167 第二次大戦と日本教会 167 戦後の教会 168 教区のあらまし 169 |
||
十六福者殉教の記録 170 | ||
秀吉、家康の宗教観 170 禁教令下の布教活動 170 潜入宣教への決意 171 強まる弾圧の嵐 171 十六人の殉教者たち 172 | ||
ローマ教皇来日に思う | ||
彼は来た。そして去った。 遠藤周作 173 教皇の来日 田中澄江 174 教皇来日の余波 三浦朱門 175 平和の巡礼者の姿勢 曽野綾子 176 私が出会った教皇さまーこの16人の感動と共鳴の言葉 177 |
||
巻末資料I カトリック教会の 勢 182 | ||
聖職者名簿 182 カトリック幼・小・中学校 182 カトリック社会福祉施設 182 カトリック教勢 183 高校E大学 183 病院等のカトリック施設 183 | ||
巻末資料II 主なカトリック用字用語集 185 | ||
和文編 185 欧文編 188 | ||
止
広島の戦災と復興(城下町広島の歴史講座十講(第8回))
会場:東区総合福祉センター 2008.1. 27
講師:宇吹暁(うぶき さとる)<広島女学院大学>
Ⅰ 広島の戦災
「原爆被爆」対象のさまざまな捉え方<略>
経済安定本部「太平洋戦争による我国の被害調査」
1947(昭和22)年7月から開始。広島・長崎の原爆被害については特別の配慮をはらう。
この調査は、おおむね中央の各省からの報告をもとに作成。調査実務の中心にあった企画調査課は、1948年1月13日から2月4日にかけて広島・長崎を訪れ、県・市の関係者や市内の主要な企業関係者に資料の提供を求める。
占領軍への配慮からか公表はされなかったが、両市の原爆被害についての特別な報告書「広島・長崎に於ける原子爆弾に依る物的被害」が、1948年6月1日付で作成。この報告書は、原爆による物的被害を建築物・道路・港湾河川など14項目から整理した包括的なもの。また、この調査にあたって、市内の各機関から提出された資料には、それまでの広島県・市の報告には見ることのできない貴重なデータが含まれている。
広島県の報告には、県自身の被害とともに宗教団体や史蹟名勝・国宝などの被害報告が含まれている。宗教団体の建物被害の状況は次表の通りである。これにより、市内の81の神社・74の神道教会・145の寺院・58の仏教教会・24の基督教会合計382の宗教施設の建物が原爆による大小の被害を被ったことを知ることができる。
神社・寺院・教会の建物被害状況
史蹟では、「明治二十八年戦役広島大本営」(国有)・「明治天皇広島行在所」(国有)・「明治天皇広島行幸所浅野泉邸」(県有)が全焼、名勝では、「縮景園郷土館」(県有)が全焼、国宝では、「広島城天守」(国有)が全焼(実際は全壊であり、焼失はしなかった)、「不動院金堂」(私有)が4割の被害を受けている。
都市別人的被害
Ⅱ 広島の復興
A 被爆者<略>
B 被爆都市
戦災復興土地区画整理事業(西部復興) 施行者:広島県知事
一工区 施行面積 約477.0ha
施行期間 昭和21(1946)年度~昭和44(1969)年度<清算期間を除く> 総事業費15億8300万円
二工区 施行面積 約33.8ha
施行期間 1946年度~1971年度<清算期間を除く> 総事業費18億3500万円
戦災復興土地区画整理事業(東部復興) 施行者:広島市長
施行面積 約582.5ha
施行期間 1946年度~1969年度<清算期間を除く> 総事業費33億6800万円
広島平和記念都市建設法
1949年5月に衆参両院を満場一致で通過したこの法案は、7月7日の広島市民の投票で9割を超える支持を得た上で、原爆記念日の8月6日に公布。
第1条「恒久平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として,広島市を平和記念都市として建設する」
平和公園<略>
広島市勢要覧(1948年版)
本市は原爆のため観光資源も観光施設も壊滅したのであるが廃墟の中から吾々の新しい観光資源が取り上げられた。
・即ち原爆記念保存物である。爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンクがそれである。
・今後日本に来遊する国際観光客の殆ど全部は、広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールの主要部分とするであろう。
広島市勢要覧(1949年版)
平和記念館 原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室、平和塔等を有する記念館を建設して平和広島の「シンボル」とする計画である。
「廣嶋」と厳島 大広島市街地図(1933年)
似島陸軍検疫所(広島・宇品・名勝)記念写真帖 1939(昭和14)年4月25日発行
1.御用船より似島検疫所に向ふ凱旋部隊 <中略>18.乗船の実況 宇品= 19.宇品港桟橋 20.宇品御幸橋 21.向宇品観音堂 〃.向宇品観音堂全景 22.宇品御幸通1丁目 〃.宇品新道路 23.宇品千田銅像 〃.向宇品別世界 広島名所=24.広島日清戦役記念史蹟大本営趾 25.広島城天主閣 26.広島駅 27.広島市庁舎 〃.広島浅野泉邸 28.広島招魂社 〃.広島比治山旧御便殿 29.広島饒津神社 〃.広島金座街革屋町 30.広島県立商品陳列所 31.広島相生橋及丁字橋
広島市勢要覧にみる観光(広島の史蹟、名勝等)
広島市は日本三景の一つである厳島を控へ、国立公園随一、詩の瀬戸内海に面し、デルタ上を六つの清流が貫き、山紫水明で、而も海陸交通の便極めてよく、北に行っては桜と鵜飼の三次、つつじと、スキーの道後山、及び芸北の仙境三段峡等があり、又泉都別府、道後に船の旅を楽しむもよく、而も原子爆弾により、国際的に有名化し、世界に冠絶した観光都市として内外人の訪客を受けようとしつつある。殊に終戦後は、軍国の黒衣に包まれていた瀬戸内海島の要塞地帯の景勝地を、あます所なく開放し、更に貿易港としての指定を受けることになれば、観光上喜びにたえないところである。『広島市勢要覧1947(昭和22)年版』
千田廟と千田男爵銅像= 往年日本の大玄関として名声のあった宇品港は、明治17年時の県令千田貞暁によって起工せられ、工費30余万円5カ年の歳月を経て完成を見た。 其の後4年日清戦役勃発するやこの宇品港は一躍重要基地として国運の進展に寄与し、次々の事変戦役にも重要役割を果たしてきた。 市民は千田県令の偉大なる事業を偲び大正4年宇品町御幸通りの中央に高く広島湾の海波を望んで銅像を建立し、後更に千田廟を祀り毎年4月盛大なる千田祭を執行して来ったのである。
不動院(牛田町)= 天正2年僧行基の開基と伝へられ、当時は行基自ら観音像を彫刻し、七堂伽藍を創建して新日山蓮華王寺と称し、方7町12の末寺を備へていたと云う。その後大永年間兵火にかかって荒廃したが、安国寺恵瓊豊太閤に請うて再建し不動院と称し、豊太閤、朝鮮征伐の途次当院に滞陣した。背後の丘には、豊太閤及び福島正則の遺髪の塔がある。 不動院は、現に古義真言宗仁和寺の末寺、金堂は天文年間の建立、天井画龍の落款に「天文庚子冬十月日僧永怡筆」とあり純乎たる唐様禅宗建築堂層入母屋造で、一見鎌倉円覚寺舎利殿を大きくした様なもので、室町時代禅宗建築の傑作の一に数えられている。尚当院には豊臣時代の古文書多数所蔵されて居り、豊太閤と縁故の深い事を物語っている。
頼家の墓(比治山本町)= 頼家一門の門主たる人々の墓は、比治山公園多聞院付近にある。春水、梅颶、聿庵、杏坪等20数基に上るが、山陽三樹三郎の墓はここにない。春水は竹原(賀茂郡)の人、山陽の父で山陽3歳の時招かれて藩儒となり、大阪より移って7代重晟、8代斎賢藩主に仕へた朱子学者である。 杏坪は山陽の叔父、春水と同じく朱子学者で、始め広島藩に仕へ後自ら願出で三次奉行となって令名高く、芸藩通誌の著者として著名である。 梅颶は山陽を生み、山陽を育しみ、山陽を大成せしめた賢夫人、人の子の真の母親として亀鑑又立派な学者であった。聿庵は山陽の長子で春水の跡を継ぎ、広島藩に仕へた。 『広島市勢要覧 1948(昭和23)年版』
東照宮= 市内尾長町の中腹に在り天保年間藩主浅野光行の創建に係り徳川家康の霊を祀っている、境域5300平方米、社殿は南面し石階51殿である。往時は社殿壮麗を極め祭礼儀頗る盛大であったとゆわれている。
頼山陽文徳殿= 比治山公園の山腹に在り、頼山陽の百年祭を記念するために広島市単独の事業として計画し山陽文徳殿建設翼賛会の努力により完成、昭和9年10月15日の竣工である。 頼家の墓 頼山陽の父春水を初め頼家一門の墓は比治山公園多聞院付近にある。 『広島市勢要覧 1950(昭和25)年版』
三滝観音道場= 市内三滝町の山林中にあり1000年の昔、弘法大師唐国より帰朝の砌当地に巡錫、聖観音菩薩の種字を天然石に刻し岩窟に安置した。爾来其の霊験の著しいことと四季山水の風致幽邃雅趣の深さにより一般信徒の杖引く者絶えず、現在は水害、原爆の被害により道場の荒廃甚だしくこれが修築工事中である。
『広島市勢要覧 1951(昭和26)年版』
似島=<解説略> 広島城跡=<解説略> 国泰寺墓地=<解説略>比治山公園=<解説略>長寿園=<解説略>
『広島市勢要覧 1952(昭和27)年版』
来広観光客数及び推定消費金額(昭和27年中、推定総数)(国鉄、汽船、郊外電車、バス調)
C 被爆国
被爆者対策(略)、被爆者対策、被爆者対策予算(厚生省)
原爆死没者追悼平和祈念館
1998年3月13日=国が広島・長崎両市に建設を予定している原爆死没者追悼平和祈念館について、「(既存の原爆資料館などと)屋上屋を重ねる。再検討するべきだと思う」と述べ、建設中止も視野に入れ計画を見直す考えをしめす(『中国新聞』3月14日)
原爆死没者追悼平和祈念館開設準備検討会最終報告
1998年9月10日「既存の関連諸施設との関係」の項より抜粋
「広島に設置される祈念館の特徴として位置づけられる、「被爆関連資料・情報の収集及び利用」については、既存の資料館が原爆死没者の遺品等、主として被爆した「もの」を通して原爆被爆の実相を伝え、平和を訴えているのに対し、祈念館では、原爆死没者や遺族等の手記、体験記等を収集し、利用に供することにより、主として被爆した人々の「こころとことば」によって原爆被爆の実相を伝え、平和を訴えようとするものである。」
2002年8月1日開館。
広島平和記念都市建設法
広島平和記念資料館 世界平和記念聖堂
平成18年(2006年)7月5日、わが国の戦後建築物としては初めて、国の重要文化財に指定。広島平和記念資料館:丹下健三が設計し、国際的に高い評価を受けた最初の戦後建築であり、同氏の出発点となった作品。
平和記念公園 2007年2月6日、国の名勝に指定
D ヒバクシャ=人類
原爆ドーム保存
広島県議会意見書1( 1950年11月29日)
元県立産業奨励館跡を史蹟指定方について(理由)
広島は原爆による未曽有の被災を受け、全世界の同情と注視を集めているのであるが、被爆の中心地に所在している元県立広島産業奨励館は、被災の惨状を物語る唯一の史蹟とし残存し、その後五ケ年風雨のため朽廃の度甚しく、まさに倒壊にひんしており、あまつさえ鉄材の物価騰貴のため、鉄の盗難又続出し、その保存はまことに遺憾な現状にある。
依って右の被爆建築物を文化財保護法に基く史蹟として指定し、更に原爆に関する諸資料及び記念物をドーム内に蒐集陳列し、県民は勿論、広く観光に来遊する内外人の観覧に供し、よい記念としてその保存に十全を期し、平和広島の建設は申すに及ばず世界平和の象徴とするよう早急に措置せられることを要望するものである。
保存運動(発端)
1964(昭和39)年12月22日、広島の3つの原水禁団体(原水協・原水禁・核禁会議)を含む11の平和団体代表、浜井信三広島市長に原爆ドームの永久保存を要請。この要請は、原水禁運動が分裂して以来はじめての3団体の共同行動。 市長、11団体の要請に対し、「来年度予算案に調査研究費を計上して、専門家に保存方法を研究させる」と、初めて保存の意志を明らかにする。(『中国新聞』1964年12月23日)
原水禁・被爆者関係11団体要請書(抄) 1964年12月22日
しかしながら、人類最初の原爆の記念物である広島の遺跡は、二十年の歳月の中で失われ消し去られ、現在辛じて残されているのは、原爆ドームがほとんど唯一のものとなっています。
紀元前の戦の跡を物語るトロヤの遺跡、近代戦争の犯した残虐さの限りを示すアウシュビッツ収容所の残忍なまでに生々しい証拠物にも劣らず、広島の原爆の遺跡は、永く人類の歴史の中に残されなければならない重要な記念物であります。
浜井信三広島市長の見解
被爆者の中にも、原爆ドームには両論ありましてねえ。早く忘れたい、あれがあると町に出るのが苦痛だという人もあったんです。まあ、最近、あの建物を解いて組み直す必要があるという専門家の意見もあるんですが、私らはそんなことは必要ない、あのままでいいという気持ちなんですが、置いておいても十年ぐらいはなくなるものでなし、終局的には次の世代の人が決めればいいんですねえ(注=保存調査のために今年度、市は百万円の予算を計上)。
私の原則論は、当時のものはとり去り、資料的なものは資料館の中にいれたい、そして政府が”白書運動”を取りあげれば、それは結構なことで、ぜひ手をつけてもらいたいということです。 出典:『週刊新潮』1965年6月5日号
浜井広島市長「原爆ドーム保存の訴え(抄)」 1966年11月1日
あの日以来、かろうじて生き残った者たちを先頭に、幾多の苦難を越えて広島の復興は進められ、広島は今や平和を象徴する都市として回生し得たのであります。 しかし、そのことによって、原爆の跡はほとんど取り除かれ、現在残されているのは、いわゆる「原爆ドーム」のみとなりました。 その事実からして、この原爆ドームこそは、広島の惨害を記憶し、それを語る基点としてはまことにふさわしい記念物であります。もちろん、わたくしたちは原爆ドームが、人類史上類例もない大惨禍を実証するには余りにも小さすぎることを知っております。
原爆ドームの世界遺産化
1996.11.29~30 世界遺産委員会ビューロー会議、メキシコ・メリダで開催。原爆ドームが審議される。
12.2 委員会、メリダで開会。
12.6 原爆ドームと厳島の世界遺産への登録が決定。(メキシコ現地時間5日)
1996.12.5(現地時間)国際記念物遺跡会議(ICOMOS)による文化遺産の説明。
中国代表の発言=登録の決定に必要な会場のコンセンサス(合意)には参加しない。
午前9時33分、コンセンサスによりドームの世界遺産が決定。
アメリカ代表=この合意に参加しないことを宣言する声明を発表。
出典:朝日新聞社編「原爆ドーム」
平和記念施設あり方懇談会
2004年7月~2005年6月 広島 4回 東京 4回
平山郁夫委員:釈尊誕生の地ルンビニ、 飯田喜四郎委員:ギリシア・ローマの遺跡
山折哲雄委員:エルサレムの嘆きの壁、 横山禎徳委員:サンチアゴ・デ・コンスポテラ
被爆60周年 「枠組み」に大きな変化はなし<原爆ドームの世界遺産化に伴い、原爆被害を世界の歴史の中にどう位置づけるのかの検討が始まったことを示すもの>。
≪平山委員≫
これは根幹に関わることだが、日本の遺跡の保存の仕方は、例えば奈良でも、あるいは海外でお釈迦さんの生まれた土地ルンビニに行っても、皆、公園化している。奈良でも石舞台の所に花や芝生を植えて道を造って、これでは遺跡ではない、破壊である。ドームを見ても芝生があって最後に瓦礫がある。なぜ瓦礫を残さないのか。当時はこんな綺麗ではない。阿鼻叫喚、地獄があった訳だが、それを知らない今の世代の人が見たらどう思うだろうか。
過去の論議の資料で以前の市長が「火事になってもこの程度は壊れる」と言ったという記録があったが、まさしくそうである。この遺跡をどう扱うかは、アウシュビッツや色々な施設と比べてみても、姿勢が問われると思う。
日本人は優しいところがあるから、平和的にやろうということならまた違ってくる。何を残していくのか、その精神とメッセージをどう伝えるのか。ただし構造的、物理的に限界があり、現状維持ではすぐ壊れるので、可能な限りガッチリと修理し、耐震構造にしても同じだが、それをどう景観と結びつけるか。その辺を根本的に討論したらどうか。
おわりに -被爆体験の歴史化-
陸上自衛隊広島市内パレード。1962年~。1965年平和公園使用計画。反対運動起こる。73年までパレード実施。<大和ミュージアムや岩国米軍基地との関連で>
陸上自衛隊第13旅団(安芸区矢野町・安芸郡海田町)。1939年旧陸軍の物資補給所。1950年警察予備隊駐屯地。1962年、陸上自衛隊第13師団。中国5県と四国4県を担任。1999年3月第13旅団。中国5県。
政令指定都市=広島市1980年4月1日。
五大都市(大阪、名古屋、京都、横浜、神戸)=1956年9月1日、北九州市1963年。 札幌市、川崎市、福岡市。72年。仙台市89年。 千葉市92年 さいたま市2003年。静岡市2005年。 堺市2006年。新潟市、浜松市 2007年。
第12回アジア競技大会 1994年10月2日~10月16日 広島 首都以外では初の開催
1951年、インドの提唱により始められた、アジアの国々のための総合競技大会。
ピースキャンドル 1997年8月6日 広島青年会議所、ひろしま点灯虫の会 <ライトアップ>
ワールドサッカー 2002年5月31日~6月30日
日本では1993年1月に国内開催都市候補地を選定=札幌 宮城 新潟 茨城 埼玉 横浜 静岡 大阪 神戸 大分
GROUND ANGELライトアート2005年12月16日~12月25日 広島平和記念公園(資料館前広場)
岡本太郎『明日の神話』=『太陽の塔』の制作と同時期の、1968年から1969年に描かれた。
2003年9月、メキシコシティ郊外の資材置き場で発見
折りづるみこし 2007年5月のひろしまフラワーフェスティバル(FF)に初登場
主要国(G8)下院議長会議(議長サミット)=2008年9月に広島市内で開催。
復興と復元 被爆建造物、頼山陽記念館+旧日本銀行広島支店、市民球場=小堺、伝統的建造物群保存地区、
歴史へのこだわり 学都、広島大学の東広島移転、広島大学霞キャンパス開発史、長崎との対比
近代化遺産
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