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原爆被害者援護法案要綱(1956.8)

原爆被害者援護法案要綱 1956.8

原爆被害者援護法案要綱 (日本被団協案)
第一 方針
一、国費により、原爆被害者の医療と必要な生活の保障を行うこととする
原爆被害者とは、原爆障害者及び原爆死没者ならびにそれ等の者の同一世帯員(主として当該障害者叉は死没者の収入によって生計を維持し、叉はその者と生計を共にした者、若しくはしている者)をいう。
原爆被害者については、次のような特異性が認められるので、これが医療と必要なる生活の保障は、すべて国庫負担によることが妥当と考えられる。
(一)科学的にみて
1、原爆障害者とは放射性物質のアルファー、ベーター、ガンマー線による持続的な細胞内原子機能機能の根本的破壊、ならびに爆発時における熱傷と爆風による広範な被害である。
2、原爆死没とは右のような原因により、死んだ者と今後予想せられる死亡をいう。
(二)医学的にみて
1、原爆障害者については、その治療は、長期を要し、かつ困難である。又被害者は多数にわたり、かつ後障害及び遺伝的影響を残すとされるから、その研究、治療は、総合的で規模も大掛りであることを必要とする。
2、原爆死没者については、的確な治療及び対策が講ぜられぬまゝ死没したものである。
(三)経済的にみて
1、原爆障害者については、その症状が前記のように特異であり、治療に永い期間と多額の費用を必要とするので、個々の患者にとって自らの治療の負担に耐え得ない。
2、原爆障害及び原爆死没者の同一世帯員については、原爆による被害が広範長期にわたり且大量殺りくであった為に自他共に生計維持の方途に苦しんだのである。従ってその障害者若しくは死没者か当該世帯の生計の中心者に該当する場合、叉は将来生計の中心者として期待される場合においては、その者の同一世帯員の生活は国家の責任において保障されることを必要とする。
(四)政治的にみて
原爆被害者は国の責任におい遂行した戦争による犠牲であり、原爆という当時においては予想を絶する特殊兵器によるものであるから、無防備無準備のまゝに受け、また警備にも適切を欠ぐという、全く個人の責任範囲外の被害であるから、これが治療と生活については国の責任で行はれるべきである。
二、その他、今日、国の責任において原子力科学及びその実用化の推進を取り上げているのであるから、これに随伴するであらう放射能被害の予防、治療、その他にも貴重な貢献をすることと思はれる。
第二 要領
一、国費で治療を行う者の範囲は、昭和二十年八月広島市及び長崎市における原爆障害者(当時胎内にいた者を含む。)とする。
二、本法による治療を行う者の決定は、先ず、被爆者の登録を行い、次いでこれらの者の内から、具体的に治療を行う者の認定をするという二段の手続きをとること。
登録対象は現に原爆症患者である者及び、将来原爆症の発生する可能性のあるもの、すなわち、被爆当時叉はその直后に被爆地域に在ったものとし、登録及び認定は、都道府県知事とする。
登録は、本人叉は第三者の申請によることゝし、次に治療を行う者の認定に当っては、厚生大臣の定める基準により諮問機関の議を経て決定するものとする。
三、治療を行う期間は転帰までとする。
四、治療を行う機関は厚生大臣の指定する医療機関とすること。
また、必要に応じて一時救護所を設けることができるようにすること。
五、医療機関の治療方針及び治療報酬は健康保険の例により、それによることができない時は厚生大臣が定めることとすること。
六、障害者に対しては障害年金を支給するか、若しくは、治療または療養を要する者の中、生活に支障を来たすため、これを受けることの困難な者に対しては治療手当または療養手当を支給すること。
七、障害者を安んじて治療叉は療養させるため都道府県知事が必要と認めたときは同一世帯員に対して援護することができるようにすること。
八、原爆死没者に弔慰金を支給し、その遺族に遺族年金を支給すること。
九、原爆障害者の調査と原爆障害の治療の研究機関を設立する。
十、被爆者の健康管理を行うこと、
本人の意に反しない範囲で登録の対象者である被爆者の健康状態を調査し、健康状態に関して指導と予防措置を講ずることゝし、これが実施は都道府県をして当らしめ費用は国が全額負担する。
十一、次の様な義務規定を設けること。
1、治療を受ける者及び健康管理を受ける者について、症状に関して、又、住居の変更に関して、当該機関に対する届出義務を化する。
2、治療の委託を受けた医療機関について、治療の経過等に関して当該機関に対する報告義務を課する。
3、右の届出、報告の時期様式等は省令に委任する。
十二、治療状況の報告を行った医療機関に対して要した実費を支給すること

広島・長崎原爆被爆者大会(19620522)

広島・長崎原爆被爆者大会
1962年5月22日
広島市公会堂で2,500人の被爆者の参加のもとに開催。厚生省公衆衛生局全画課長の講演・両市被爆者代表の意見発表ののち,次のような宣言および決議を採択。大会の席上、全日本被爆者協議会を結成。

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案内ビラ

宣言
われわれ原爆被害者は,一生拭い去ることのできない放射能に対する不断の脅威と不安を内包し,日常生活並びに社会活動に多くの障害と制約を受け,物心共に苦難の十七年を生きてきた。その間放射能障害による症状の悲惨な現実と,被爆者の生活の実態が認識され,被爆者の切実な声が通して,最近に至り原爆医療法が制定され,逐次医療の充実をみつつあることはまことに慶びに堪えない。ここに関係各位の並々ならぬ御熱意と御努力に対し深甚なる感謝の意を表するものである。
本日被爆者大会の開催に当り,われわれは核爆発の実験停止と,真の世界平和確立のための,広島・長崎の悲願達成に,根気強く努力をつづけ,全国二十方に上る被爆者相携えて,あらゆる困難と苦痛を克服して力強く生き抜くことを誓い,更にいわれなき無この犠牲者に対する国家の責任と保障において,万全の援護対策の速かなる実現を切に要望して已まない。
右宣言する。

決議
戦後既に十七カ年の歳月を閲みし,全国二十万に上る原爆被爆者の多くは,経済的基盤を失い,或いは放射能障害に悩みかつ脅えつつ,日常生活並びに社会活動に幾多の制約を蒙り,苦難の日々に堪えて今日に至った。
医療に関しては,さきに特別立法により補償の途が開かれ,稍々安らかなるものを得たとはいえ,更に政府,国会その他関係機関におかれては,被爆者の生活の実態に鑑み,原爆犠牲者国家保障性の見地に立って更に援護その他強力なる施策を打出すべきである。よって次の事項について速かに適切なる措置を講するとともに全面的な援助を要請する。
一、特別被爆者の範囲の拡大をすみやかに実現することを期する。
二、原爆被爆者援護対策の確立を期する。
三、原爆被爆者ホームの建設を要望する。
四、原水爆禁止と世界恒久平和実現への正しい国民運動を力強く推進する。
五、全日本被爆者協議会の結成を促進する。
右決議する。

大会次第

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被爆者5団体(長崎)

長崎の被爆者5団体(代表者)

(2009年9月11日現在)

長崎原爆被災者協議会 谷口稜曄会長
長崎原爆遺族会 正林克記会長
長崎県被爆者手帳友の会 井原東洋一会長
長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会 川野浩一議長
長崎県被爆者手帳友愛会 中島正徳会長

 

被爆者7団体(広島)

被爆者7団体(広島)

構成団体

団体名 設立年月日 備考
広島県原爆被害者団体協議会 19560527
広島県原爆被害者団体協議会
財団法人広島市原爆被爆者協議会
在日本大韓民国民団広島県地方本部原爆被害者対策特別委員会
広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会
広島県朝鮮人被爆者協議会
広島被爆者団体連絡会議

 

「ヒバクシャ国際署名」呼びかけ団体 – kokusaishomeihiroshima ページ! (jimdofree.com)

被爆者7団体

広島県原爆被害者団体協議会【坪井直理事長】
広島県原爆被害者団体協議会【佐久間邦彦理事長】
韓国原爆被害者対策特別委員会
広島県朝鮮人被爆者協議会
広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会
広島市原爆被害者協議会【松井一實市長】
広島被爆者団体連絡会議

原爆の子友の会

原爆の子友の会  結成日:1952年2月17日

年月日 事項
19520217 原爆の子友の会、結成式を広島大学文学部で開催。長田新編「原爆の子」に手記を寄せた児童生徒約100人出席.
19520324 中村巌原爆の子友の会会長ら30名、大阪大学理学部で京阪神の少年少女と交歓会を開く。
19520503 原爆の子友の会、広島大学図書館で大阪原爆の子を守る会と交歓会を開催。
19520730 原爆の子友の会の一行20名、上阪。
19520813 八木保太郎を囲む広島県教組と原爆の子友の会共催の座談会、広島市内の教育会館で開催。約70人(吉川清・谷本清ら)が参加。
19520816 原爆の子友の会の一行20人、東京神田・教育会館で芝居「原爆の子」を上演(朝日新聞)。
19520924? 広島原爆の子友の会、国際医師会議に提出するため原爆体験記を募集。
19530809 大沢幹夫作・原爆の子友の会総出演舞台劇「原爆の子」、広島市児童文化会館で初公開。
19550121 世界民主青年連盟代表を囲む原爆被害者懇談会、広島市内教育会館で開催。原爆被災者の会から20名、原爆の子友の会から5名を含む約100名が参加。
19550512 長田新広島大学教授、モスクワで開催されたソ連国内の平和大会に参加。「広島原爆の子友の会」から託されたソ連の子どもたちあてのメッセージを紹介。

原爆乙女の会

原爆乙女の会

代表者
谷本清
設立年月日
1950年3月
目的及び事業
当初、原爆障害者が聖書を研究することにより、精神的に立ち上がることを目的として、「原爆障害者更生会」として発足した。会員は原爆乙女の外、男子障害者や高年齢の女子障害者も加わっていた。
 <中略>
組織内容
会員数約80名
その他の参考事項
この会は、上記のような経過から、現在では男子会員及び女子高齢者会員は徐々に少数となり、現在の原爆乙女の会となった。
『原水爆関係団体名簿』(広島市衛生局原爆被害対策課、19670201)

 

 

 

 

 

原爆傷害者更生会 設立:1951年8月27日

書名コード 書名 編著者 発行所
49081501 平和のともしび-原爆第一號患者の手記 吉川清・富田勝己(補註) 京都印書館
50072501 ヒロシマの十字架を抱いて 谷本清 大日本雄弁会講談社
76072002 広島原爆とアメリカ人-ある牧師の平和行脚 谷本清 日本放送出版協会
81072401 「原爆一号」といわれて 吉川清 筑摩書房

原爆第1号吉川清の試み

【資料】原爆第1号吉川清の試み

『中国新聞』 1951.4.3
原爆第1号きのう退院
昭和21年1月広島赤十字病院に入院、療養をつづけていた原爆1号吉川清氏は前後16回におよぶ手術で健康を全く回復し2日午後退院、5年2ヵ月の病院生活に別れをつげた。
(吉川清氏談)私は原爆による限りない苦悩を過去の長い病床生活において切実に味わってきた。同じような原爆による傷害者とかたく手をたずさえ、更生の道をどこまでも突き進みたい。このような意味からこのたび広島原爆傷害者救済援護会を設立した。

『中国新聞(夕刊)』 1951.6.4
インドから援助第1号!
めぐり来る原爆7周忌を前に原爆第1号患者として有名な吉川清氏(38)を中心に同病傷害者のうち127名の有志が内外の浄財によって人造パール製造の共同作業所と原爆患者診療所を設置し、相互に雄々しく立ち上がらんとする朗話がある。
原爆傷者立上がる 作業・診療所“われらの手で”
発起人に選ばれた吉川氏は6年にわたる入院生活からさる4月2日退院、爆心地産業奨励館ドーム前に夫人生美さん(30)とともに外人相手にみやげ物店を開業、細々ながら再起の日々を送っていたが、たまたま同地の整地作業に訪れる原爆ケロイド患者の日雇人夫の人々と病状を語り合うと共に、身体障害でどん底の困窮生活にあえぐ人々の多きを知り“なんとか相携えて働ける仕事 もちたい”と話し合った結果、予算70万円で次の事業計画をたて、かつて日赤入院時代同氏を見舞った内外人にこの基金募集を呼びかけ、すでにインドのシャルマン氏(昨年12月来広)がニューデリーにおいて松本滝蔵代議士と会見、50万円寄付の伝言があり、6月からは地元名士の援助署名運動に着手している
▽共同作業場=主として海外輸出用の人造パール(真珠)の製作ならびに販売
▽原爆患者の診療所の設置=原爆患者に対し実費治療ならびに一般困窮者の無料診察および相談(担当医は日赤副委員長服部達太郎氏が無料奉仕で当たる)
(吉川氏談)なんとかこの同病患者が結束して暗い気持を忘れ仕事にぼっとうして立上がれば幸いと思っています。予算面もインドから50万円近く送金するという手紙もあり、残りは私がリュックサックを背負って全国資金行脚してでも完成さす決心です。

原爆被害者の組織化の萌芽

原爆被害者の組織化の萌芽
原爆被害者の組織は,すでに1946(昭和21)年当時から広島戦災供養会・広島市左官町慰霊祭実行委員会・広島観音会といった慰霊行事主催団体にその萌芽をみることができる。
こうした慰霊行事における原爆被害者の集まりが組織化された例もあった。広島県立広島第一中学校の犠牲学徒の親たちは,1946年秋,一中遺族会を結成しておたがいに慰め,励ましあった(秋田正之編『星は見ている』)。また,広島市立第一高等女学校では1946年10月10日に慰霊祭を催したが,以後毎年8月6日に追弔会を開き,1948(昭和23)年の石製慰霊碑建立を契機に遺族会を結成している(『流燈-広島市女原爆追憶の記』)。
1948(昭和23)年8月10日,本川小学校で開催された傷痍婦人協力大会は,原爆被害者自身の医療,生活要求にもとづく早い時期の組織化の試みと考えることができよう。
京都大学の学生自治会である同学会は、1951年7月10日から10日間、京都丸物百貨店で原爆展を開催したが,その準備の中で「原爆体験者の心からの願い,叫び,そして怒りと悲しみを全ての人々に訴える体験記を何らかの形で発表したいと考え,学内で2度の体験者懇談会を開き,京都を始め,広島・長崎・東京などに連絡して広く手記を募集した。こうして7月には謄写刷りの『原爆体験記』(発行者は京都大学文学部学友会原爆体験記編集委員会)を作製するが,その後記は,次のように述べている。
体験者の方々は夫々の学校,職場,町,村,家庭に於いて原爆体験者懇談会を作って下さい。集団の力こそ原爆を防ぎ,平和を守る最も強い力なのです。
このように,京大同学会の開いた原爆体験者懇談会は,手記募集のための単発的な集会としてではなく,「原爆を防ぎ,平和を守るための原爆体験者組織」として意図されたものであった。
広島でも6年間の入院生活から再起した吉川清は,原爆傷害でどん底の困窮生活にあえぐ人々が相携えて働く共同作業場および原爆患者の診療所の設置を計画し,1951(昭和26)年6月から援助署名運動に着手していた(「中国新聞」(夕刊)1951年6月4日)。同年8月27日になり,流川教会牧師谷本清・吉川清などによって原爆障害者更生会が結成された。(参考:「原爆第1号吉川清の試み」、「原爆傷害者更生会」)
また,1952(昭和27)年1月17日には,前年10月発刊以後大きな反響を呼び起こしていた『原爆の子』(長田新編)に手記を寄せた高・中・小学生ら約100人が,原爆の子友の会を結成した。

大阪市原爆被害者の会(発行資料一覧)

大阪市原爆被害者の会(発行資料一覧)

 発行年月日  資料名  メモ  所蔵
所蔵:P=ピカ資料研究所、H=原爆資料館、U=宇吹
19671010 <婦人部ニュース>No.1
19690806  『被爆婦人の集い』 <第1集> PH
『被爆婦人の集い』 (大阪市原爆被害者の会婦人部発行)以下同じ
196912 <婦人部ニュース>No.33 P
 19700710  『被爆婦人の集い』  <第2集>   25年を生き抜いて  PHU
19710619  『被爆婦人の集い』 第3集  PHU
 19720718  『被爆婦人の集い』第4集 PHU
19730705  『被爆婦人の集い』 第5集 5周年記念号  HU
19740526  平和への澪標 被爆者運動十年の歩み  HU
発行:大阪市原爆被害者の会十周年記念大会実行委員会
19750717  『被爆婦人の集い』 第6集   HU
被爆30周年・ニュース100号記念
1976 世界の夫人と手をつなぎ 核兵器のない平和を創るために(大阪市原爆被害者の会婦人部編) U
 19760801  友情の人文字MINE-被爆二世の死を越えて―第2版―  (大阪市原爆被害者の会婦人部編)  H
19770510  平和への遺産 被爆者相談活動8年間の事例をまとめて  HU
 大阪市原爆被害者の会・原爆被害者相談室編
19771126  被爆婦人の集い 十周年記念誌   HU
   大阪市原爆被害者の会婦人部編・刊
 19790429 平和への澪標 続-十五周年記念  H
19791227 平和への遺産シリーズNo.2 五〇〇米に生きる 核兵器のない真の平和のために 三浦一江(著) H
 19800425  平和への遺産シリーズNo.1 遺産づくり運動 ヒロシマ・ナガサキを語り継ぐために 大阪市原爆被害者の会 HU
19801017 世界の婦人の力で核兵器のない真の平和を! 国際婦人の10年-1980年・世界会議 NGO<平和と軍縮>フォーラム・報告 大阪市原爆被害者の会婦人部 H
19801129 女の悲しみをのりこえて 平和への遺産シリーズNo.3  醜貌 HU
野中フミ子 (著)大阪市原爆被害者の会
19810301 平和への遺産シリーズNo.4  人間をかえせ わが家を返せ HU
滝宮俊三 (著)大阪市原爆被害者の会
19820215 HIBAKUSHA-ひとり北欧を翔ぶ H
高木静子(著)大阪市原爆被害者の会
19820308 世界の婦人の力で核兵器のない真の平和を! 国際婦人の10年-1980年・世界会議 NGO<平和と軍縮>フォーラム・報告 大阪市原爆被害者の会婦人部 H
19821027 被爆婦人の集い 15周年記念誌 大阪市原爆被害者の会婦人会 HU
19830308 1983年 ヒバクシャ文化の集い 大阪市原爆被害者の会 HU
19830416 平和への遺産シリーズNo.5  原爆被爆者相談 非核平和の国家補償をめざして 大阪市原爆被害者の会 HU
19830615 平和への遺産シリーズNo.6  直樹よ甦れ ヒロシマの母は慟哭する HU
三上五月 (著)大阪市原爆被害者の会
19840527 平和への遺産シリーズNo.7  非核への澪標 ヒロシマの兵士たちの証言 H
森田栄(著 )大阪市原爆被害者の会
19850727 平和への遺産シリーズNo.9 人間をかえせ 被爆40周年原爆死没者の記録 大阪市原爆被害者の会 U
19870718 原爆被爆者の人権回復-松井先生講演記録編 大阪市原爆被害者の会 HU
19881112 平和への遺産シリーズNo.11 母をかえせ私たちを返せ 被爆婦人の集い二十周年記念誌 大阪市原爆被害者の会婦人部 HU
19890729 ベルギー原爆国際法廷で私たちはこう証言した 大阪市原爆被害者の会婦人部 U
19900301 澪標をかかげて 非核平和に生きる 創立25周年記念 大阪市原爆被害者の会 U
19910519 被爆者 被爆45周年 大阪市原爆被害者の会 U
19910803 被爆46周年原爆犠牲者慰霊祭 大阪市原爆被害者の会 U
19920927 平和への遺産シリーズNo.14 私たちは歩みつづける 被爆婦人の集い25周年記念誌 大阪市原爆被害者の会婦人部 U
19950330 IBAKUSHA援護交流の集い 被爆50周年記念 H
大阪市原爆被害者の会婦人部
19960301 被爆50周年夏の記録 大阪市原爆被害者の会 H
19970310 ノーモアヒバクシャの集い 1996年 大阪市原爆被害者の会 H
19990806 ノーモアヒバクシャの集い 1998年 第3集 大阪市原爆被害者の会 H
20000401 ノーモアヒバクシャの集い 1999年 第4集 大阪市原爆被害者の会 H
20001118 平和への遺産シリーズNo.16 大阪市原爆被害者の会 U
20040211 被爆の記録 大阪市原爆被害者の会 H
20090806 平和への遺産シリーズNo.16 ヒロシマを超えて 非核平和に生きる H
髙木静子 (著 ) 大阪市原爆被害者の会

 

 

原爆被害者の手記編纂委員会

原爆被害者の手記編纂委員会 19520821

目次(同委員会編『原爆に生きて 原爆被害者の手記』、三一書房、19530625)

 カット:丸木位里・赤松俊子
原爆手記編纂委員会
 (山代巴・隅田義人・山中敏男・川手健・松野修輔)
序=「我々が原爆被害者の手記を集めようといい出したのは、1948年8月で、いよいよ具体的に仕事が進み出したのは、1952年8月」、「我々はその集め方について、適切な方法がみいだせず、それが為に仕事が前へすすまなかった」、「8月21日の相談の結果、新聞やだジオによる募集には、あまり頼らず、我々が被害者の家を直接訪問してお願いし、欠けない人のは代筆してもいい、発表の機会に恵まれない人々の、手記を書かれることに重点をおこうということになったことは、この仕事を進める一つの鍵になった」
1 生きる
檜垣干柿 短かき夜の流れ星
小原秀治 生命の河
恵京吉郎 白血病と闘う
石井一郎 ヌートリアの思い出
磯川喜幸 真如の心
吉川みち子 母子抄
2 歩む
山下寛治 敗戦日記
日詰忍 七年の記
島本正治郎 「無窮」の木
浮気モト 四十八願
多田マキ子 夫はかえらない
山野音代 友の手紙
宮田君子 生長の家から
辻本トラ 行くとこなし
山田静代 未亡人の願い
大屋ヒデ 喜生園
内山正一 父情記
温品道義 傷害年金受給のこと
3 叫び
山中敏男 春雪日記
上松時恵 平和をわれらに
浦本稔 青年の独想
横山文江 甲神部隊の父
牧かよ子 すみれのように
池田精子 母となりて
西山わか子 私は生きたい
尾形静子 子等とともに
川手健 半年の足跡