反核運動1991

反核運動1991


核をめぐる国際情勢は,この1年激しく揺れ動いた.湾岸戦争では,米軍によりイラクの原子炉が空爆され,イラク軍による化学兵器や米軍による核兵器の使用が懸念された.ソ連邦解体の動きは,連邦所有の核管理体制に不安定な状態をもたらした.しかし,その一方で戦略兵器削減交渉(START)条約調印(7月31日)など核軍縮への動きに拍車をかける結果となった.

国内では,各種の反核団体が,湾岸戦争,自衛隊掃海艇のペルシア湾派遣,国連平和維持活動協力法案(PKO法案)などへの取り組みをおこなった.しかし,これらの課題への態度は団体ごとに異なり,大規模な統一行動は生まれなかった.

1991年は,「満州事変」60周年・パールハーバー50周年にあたり,日本の加害責任を明らかにする動きが活発となった.広島・長崎は,それらとの関連で改めてクローズアップされた.

[原水爆禁止世界大会]

広島・長崎の原爆記念日を中心に,さまざまな団体による恒例の行事がおこなわれた.原水爆禁止日本協議会(原水協,共産党系)は,8月2日~9日,広島・長崎を舞台に原水爆禁止1991年世界大会を開催した.25か国(29各国組織、10国際・地域組織)からの60人の国際・海外代表を含め、延べ1万2,000人(広島4,500人、長崎7,500人)が参加した。原水爆禁止国民会議(原水禁,社会党系)の被爆46周年原水爆禁止世界大会も,8月4日~9日,広島・長崎で,それぞれ8,000人・4,500人規模で開催された.海外からは,13か国から28人が参加した.このほかに,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議,民社党系)が,8月3日に長崎市で核兵器禁止全国集会(500人参加)を開き,公明党も6月から8月にかけ第11回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を沖縄・広島・長崎で開催した.また,連合が初めて両被爆地で独自に開催した平和集会には、併せて3,500人が参加した。

[国内の動き]

被爆者団体・原水協・原水禁は,湾岸戦争やパールハーバー50周年に関連してなされたアメリカ政府高官の原爆投下正当化発言に対して,抗議の意志表明をおこなった.10月24日-27日,原水協を中心に核兵器廃絶をめざす第5の「平和の波」行動がもたれ,国内での行動は6,000を数えた.また,7月末現在で,国内の非核宣言自治体は1,612自治体(全体の49%)となった.

被爆地では,原爆被害に新たな意義づけをおこなう動きが見られた.4月,広島で放射線被曝者医療国際協力推進協議会(広島県・市や市内の被爆者医療・研究機関で構成)が発足し,広島の被爆者医療の経験が,チェルノブイリ原発事故の被災者など海外のヒバクシャ医療に役立てられることになった.また,広島・長崎両市長は,8月の原爆記念日に読み上げた平和宣言に,揃ってアジア・太平洋地域へ与えた被害についての謝罪の気持ちを盛り込んだ(広島の宣言では初).

[海外の動き]

1月4日-5日、米国ネバダ州ラスベガスで核実験禁止国際集会が開催された.平和・環境保護団体のグリーンピースや米国内の反核団体などが呼びかけたもので,20か国から1,500人が参加した.5日のデモには3,000人が参加、柵を越えて核実験場内に侵入した450人が逮捕された。この集会は,7日からニューヨークの国連本部で開催される部分的核実験禁止条約(PTBT)改定会議(-18日)での包括的核実験禁止条約(CTBT)実現への機運を盛り上げるため開催されたが,中東での戦争を反映し,主催者の予想を越える盛り上がりを示した.さらに,12日,グリーンピース、アメリカ平和実験、核戦争防止国際医師会議などの反核団体が,ニューヨークで「地球的反核連合」を発足させ,ネバダ(米)・セミパラチンスク・ノバヤゼムリャ(ソ連)・ムルロア(仏)・ロプノル(中国)の5つの核実験場閉鎖のために協力することを宣言した。一方,10月17日-18日には,ネバタ・セミパラチンスク運動が,ソ連カザフ共和国のセミパラチンスク核実験場で,「地球的軍縮のための国際会議」を開催した.共和国大統領令(8月29日)により同実験場が閉鎖されたこと を記念するこの集会には,約1,000人が参加した.二つの集会には,日本から原水禁の代表が参加した.