平和式典への関心
(2)黙とうのひろがり
「8月6日を祈りの日に」との声は、1963年(昭和38年)の第9回原水爆禁止世界大会の混乱を契機に、大きな動きに発展した。広島県議会は、64年3月23日、「原爆記念日を静かな祈りの日にしよう」との意見書を採択した。この意見書は、自民党議員会所属の議員が提出したものである。社会党など所属の6人の議員は、意見書に「昨年の8月6日は広島県、市民の感情をよそに慰霊碑前広場が赤旗に埋まった・・・・」などの表現があることや議事手続きに誤りがあるとして、議決に加わらなかったが、自民党議員会、県政刷新クラブ(民社系)、公明会の3派で可決した。また、3月31日には、広島県原爆被爆者援護対策協議会(略称=県原援協)が主催した原爆被爆者援護対策懇談会でも、県内各市町村から参集した被爆者代表約200人が、平和式典は「被爆市民の哀情にそって敬けん厳粛に執行すること」などを要望した決議を行ない、国や関係団体に送付した。県原援協は、6月13日にも、県内の原水禁運動、被爆者、婦人団体の代表に参集を求め、8月6日の行事について協議を行なった。その結果、この年は、各団体とも静かな慰霊行事を中心とした大会を計画し、平和公園広場は使用しないという方針と原 爆投下時刻に1分間の黙とうをささげる県民運動を呼びかけることを申し合わせた。
この年、広島県は、8月6日の8時15分(7月24日、知事名)と8月15日の正午(8月10日、民生労働部長名)に、それぞれ1分間の黙とうを行なうよう県民に呼びかけた。7月24日の知事の呼びかけは、県原援協などの要望を受け入れてなされたものと思われる。一方、8月10日の民生労働部長の呼びかけは、政府の要請(1964年4月24日の閣議で、8月15日に第2回全国戦没者追悼式を靖国神社境内で開催することとし、8月15日正午の黙とうを国民に呼びかけることを決定)によるものであった。同年6月14日、日本原水爆被害者団体協議会の全国理事会も、広島・長崎への原爆投下日に日の丸の半旗を掲げ、被爆時刻に1分間の黙とうをする国民運動を起こすことを決定した。この決定は、「対立した原水禁運動を超越する国民運動のおんどを日本被団協がとる方法として8月6日から同18日までを国民総反省旬間とし、旬間中は日の丸の半旗を掲げる運動を起こそう」との関東甲信越代表理事の提案が具体化したものであった。提案には8月15日の黙とうも含まれていたが、疑義が出され、原爆投下日の黙とうのみが決まった。
広島県知事は、1964年から毎年、県民に原爆投下時刻の黙とうを呼びかけるようになった。また、広島市は、73年7月20日に、8月9日の原爆投下時刻に1分間の黙とうを市民に呼びかけることを決定した。長崎市が前年8月6日に実施し、広島に呼びかけていたもので、この年から広島・長崎両市の「黙とうの連帯」が始まった。また、73年には、埼玉県庁が、被爆地以外の県庁としては初めて、広島・長崎の原爆被爆時刻に黙とうを実施した。
一部の原水禁団体や労働組合は、早い時期に「黙とう」を取り上げていた。高知県原水協は、1957年に8月6日の原爆投下時刻に県民が一斉に黙とうをささげるよう、県内の諸団体に呼びかけた。また、59年には、国鉄労組と機関車労組が、広島の平和記念日の正午に一斉に列車と電車の汽笛を鳴らして黙とうをささげるよう各支部に指令し、炭労は、同日の一番方の入坑前に、また、全国税は、当日午前9時に、それぞれ1分間の黙とうを実施している。こうした呼びかけは、原水禁運動の分裂を契機に途絶えていたが、70年代後半に、ふたたび復活した。78年7月26日、県労会議と県労被爆連(正式名称:広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会)は、広島県知事と市長に、8月6日午前8時15分から1分間、①県内すべての職場、家庭に呼びかけ、平和祈念の黙とうをささげる、②道路上のすべての車もストップさせる、③全市町村は一斉にサイレンなどの合図で、住民に平和祈念を呼びかける、④この運動は少なくとも隣接県にも呼びかけ協力を求めることを申し入れた。この年には市内の市関係施設87か所のサイレンと寺院・教会130か所の鐘が鳴らされ、市民に黙とうが呼びかけられた。また、55年に始ま った広島電鉄と広島バスの車両の黙とうへの参加は、64年以降中断していたが、この年復活した。電車70台とバス約300台が、黙とうに参加した。
広島県知事と市長は、1979年には黙とうの呼びかけを県内のみでなく中国地方5県と愛媛と香川をあわせた7県にひろげた。さらに、翌80年には47都道府県知事と9政令指定都市長あてに「原爆死没者の慰霊並びに平和祈念の黙とうについて」と題する文書を発送し、黙とうを呼びかけた。こうした呼びかけに対して、いくつかの県が応じた。79年には、鳥取県が行政無線を通じて各市町村に伝達している。また、共同通信社の調査によれば、80年には17県と1政令市(川崎市)、翌81年には25道府県と2政令市が呼びかけに応じた(「中国新聞(夕刊)」81年8月1日)。
1982年6月8日の全国市長会理事・評議員合同会議は、広島・長崎両市長の要請に応えて、両市の原爆被爆時刻に1分間の黙とうをすることを決定した。また、広島市は、翌83年から毎年、全国の都道府県市長会および広島県町村会に黙とうを呼びかけるようになった。これにより、82年の黙とう実施自治体は、487自治体(呼びかけた772自治体の63%)に急増、83年には703自治体(呼びかけた865自治体の81%)にまでなった。以後、自治体の黙とうへの取組み実施率は、80%台で定着し、現在に至っている。
黙とうへの取組みは、さまざまな形でなされている。京都府八幡市は、1983年8月6日、広島市の要請に応えて、広島市から取り寄せた「平和の鐘」の録音テープ(平和式典で録音されたもの)を市役所屋上のスピーカーから流した。京都府原爆被災者の会は、85年の平和記念日に先立ち、府内3,096の寺院、110の教会に対し、8月6日と9日の両日、「平和の鐘」を鳴らすよう要請した文書を郵送した。また、86年7月10日、奈良市も、同市議会が85年12月に非核平和都市宣言を行なったことを受けて、広島・長崎両市の原爆被爆時刻に鐘を鳴らし1分間の黙とうを行なうよう、市内と県内の非核平和都市宣言を行なっている7市の寺院、教会および各官庁、民間企業、家庭に呼びかけている。90年には、全国で751自治体が黙とうを周知させる取組みを行なったが、周知方法で最も多いのは、「広報紙で周知」(52%)であり、「サイレン」(32%)、「有線・無線放送」(29%)と続いている。