「1958年」カテゴリーアーカイブ

原爆の子の像(折鶴の子の像)

広島平和をきずく児童生徒の会
原爆の子の像(折鶴の子の像)
建立年月日:1958(昭和33)年5月5日
場所:広島市中区中島町・平和公園)

 

(正面)
これは ぼくらの叫びです
これは 私たちの祈りです
世界に平和を
きずくための
(裏面)
原爆で亡くなった兄姉の霊をなぐさめ世界に平和を呼びかけるために広島市小・中高校の子供が結集し全国の友達の支援のもとにこれをつくる
一九五八年五月五日
広島平和をきずく児童生徒の会

無題

『わたしたちの広島市』(広島市小学校社会科研究会編、中国書店刊)

参考資料
広島平和をきずく児童・生徒の会日記(1955年10月-1957年3月)
「原爆の子の像」建設趣意書(1956年3月1日)
広島の教育関係団体による「原爆の子の像」建設への協力依頼
「原爆の子の像」建立募金状況総まとめ表
千羽鶴・シナリオ第一稿(共同映画社・広島平和を築く児童生徒の会編、1957年12月10日)

「原爆の子の像」建立募金状況総まとめ表

「原爆の子の像」建立募金状況総まとめ表
1958年5月5日

都道府県名 校(口)数 金額 都道府県名 校(口)数 金額
広島 624 1380415 山梨 79 111657
岡山 43 76657 静岡 89 152994
山口 68 71028 愛知 120 297881
島根 15 10179 三重 69 83377
鳥取 1285 大阪 122 286557
北海道 291 418697 滋賀 42 41920
青森 10 16571 京都 59 102050
秋田 21 26561 和歌山 68 71860
山形 27 47980 兵庫 79 146204
宮城 20 17725 徳島 10 22623
福島 88 122806 愛媛 16 21010
岩手 19 16078 高知 46 41974
新潟 140 201280 奈良 5050
東京 260 831639 香川 14 13198
神奈川 87 267317 福岡 91 208002
茨城 62 86533 大分 51 63678
埼玉 23 41585 熊本 27 30404
群馬 18 35428 長崎 74 60512
石川 73 90514 佐賀 29 47293
富山 62 75765 宮崎 30 28097
長野 26 27465 鹿児島 10 12759
栃木 20 55808 外国 2150
福井 29 40096 その他 3200
岐阜 109 153428 3279 6066390

出典:広島平和をきずく児童・生徒の会『「原爆の子」の像建立募金名簿-1958年5月5日完成除幕報告』

フェニックス広島号の冒険(アール・レイノルズ著)

『フェニックス広島号の冒険』(アール・レイノルズ著、三上仁

一・松元寛共訳)「中国新聞」連載(1961年10月10日~)。

「この連載記事は、今年アメリカで出版した”The Forbidden Voyage”=禁じられた航海=を、翻訳者に人を得て、日本の読者に向くよう一部改定したものです」(「中国新聞」1961.10.10)

No. 月日  見出し 備考
1-9 1010-1018 不吉な静けさ 1~9 19580409ハワイ島ヒロ港

 

10-17 1019-1026  海に立つ壁1-8
18-25  1027-1103  放射能図書室1-8
26-33  1104-1111  日本時間の中で1-8
 34-39 1112-1117  長い一日1-6
 40-46 1118-1124  保釈中の推理1-7
 47-52 1125-1130  ヒロシマの日前後1-6
 53-60 1201-1208  試練のういしお1-8
 61-65 1209-1214  名弁護士きたる1-5
66-69 1215-1218 科学も告発する1-4
70-72 1219-1221 打ちひしがれた時に1-3
73-77 1222-1226 ここもゆれ動く世界1-5 12月12日つづき―1958年12月25日(第1部おわり)

フェニックス広島号の冒険 第2部

No. 月日  見出し 備考
1-5 19620108- ”地球会社”の経営陣  19590108
6-15 19620113- 行為と無為
16-20 19620124- 広島大会は”赤”か1-5 、19590721、19590814
21- 19620201- けわしい再審の道 19590821
26- 19620206 故意と善意1- 19590828-
35- 19620216- 青年に期待- 19590920-
39- 19620220- 国策批判の声 19591104-
47- 19620304- 平和都市の内情 19600201-
52- 19620316- アメリカの自由 19600301-
56-57 19620324-0327 エピローグ 19610220-。―おわり―

「広島こそ”平和”のリーダーに  アール・レイノルズ氏-対談-森滝市郎氏」(『中国新聞』1962年2月14日)

編年資料:ヒロシマ-1958年

編年資料:ヒロシマ-1958年

月日 資料名
原爆障害者生活援護費給付の手びき(財団法人 広島原爆障害対策協議会 )
02 広島県の原爆医療法施行状況
03 広島市の原爆医療法施行状況
0311 「車の両輪」論(原水爆禁止日本協議会「第六回全国理事会議事及決定事項」)
04 原水爆実験停止命令申請訴訟
0806 広島市平和宣言
0809 長崎市平和宣言
0815 第4回原爆禁止世界大会(1958年)日本大会の決議「南太平洋住民の被害調査を国連に提案する決議」
0830 渡辺忠雄(広島市長)、任都栗司(広島市議会議長)「原爆被爆者の健康管理及び医療を促進するための対策に関する陳情書」
0830 渡辺忠雄(広島市長)、任都栗司(広島市議会議長)「被爆者の援護対策の確立に関する陳情書」
0830 渡辺忠雄(広島市長)、任都栗司(広島市議会議長)「原爆白書の作成に関する陳情書」
0830 渡辺忠雄(広島市原爆被害者の会連合会会長) 、森滝市郎(広島県原爆被害者団体協議会代表委員)、藤居平一(〃)、伊藤正子(〃)、井上昇(〃)「原子爆弾被爆者の医療・健康管理並びに援護に関する陳情書」
0831 日本キリスト教奉仕団広島被爆者福祉センター「広島の被爆者」 1958年8月31日

広島平和委員会(1958年 )

広島平和委員会

昭和33年9月27日,広島市内の光道会館で広島平和委員会の結成総会が開かれた。

これは,在広の日本平和委員会々員十余名の集まりであった広島平和協議会が原水爆問題に限定されがちな広島県原水協の制約を越えて、原水爆問題のみならず、民主主義の確保、憲法擁護,基地撤廃など広範な平和運動を進めるための組織として準備したものであった。(広島平和協議会「広島平和協議会へ参加のお願い」昭和33年9月)。

成総会には県内から50人が参加(総会当日の入会者は60人)し,日中関係・勤評問題・国際続一行動の点について討議を行った。また,当日,会長(佐久間澄)・幹事(佐久間・板倉静夫・三宅登・石井金一郎・村中好穂・石田千鶴子・松江澄)を決定している(「広島平和ニュース」No.1)。

広島平和委は,10月末に労働者を中心とした部会を開いたが,40人近く参加した。この時の討議で岩国基地行進を成功させようということが強く主張された。この行進というのは,10月16日に広島で開催された日本原水協中国ブロック山陽側会議で決定されたものである。この時,11・1国際共同行動デーの取り組みとして,広島・山口両県原水協共催で,核武装阻止岩国墓地平和大行進と岩国市における大衆集会を開催することとなった(「広島原水協情報」No.1 昭和33年10月30日)。

11月8日から9日にかけて広島から岩国まで40人近くの人々が徒歩行進を行ったが,その半数以上は広島平和委の労働者部会に参加した者かあるいはその働きかけによる参加者であった。広島平和委員会が結成後初めて取り組んだ続一行動である岩国基地行進の成功は,その後の平和運動に少なくない影響力を与えた(「広島大学人会会報」N。.22)。同会自身の総括によれば,その意義は次のようである。

①平和委員会グルーブによる目的意識的な活動によって基本的に成功した。労働者部会の果した役割はこの成功を決定づけた。

②運動の目標の面で,不充分ながらも警職法闘争を平和を守る運動の一環としてとらえ,この闘争に組織された力を意識的な行動方向をうちだすことによって,民主主義と平和の闘争を統一的に発展させた。

③運動の方法の面で,従来くりかえされた官僚的な上からの動員方法を打破し下からの自主的参加とそのための活動を強調し,それは基本的に実現され,今回の「行進」の重要な特徴としてその成功を保障する主要な原因となった。

④この「行進」は従来の一般的,抽象的な原水禁運動を,昨年の美保基地闘争から発展させ,具体的な基地反対の行動にたかめ広島の平和運動を前進させた。

⑤さらにこの「行進」は国鉄第二支部の経験にみられるように,行動を通じて活動家をつくりだし,今後の平和活動の一層の発展を保障した。

昭和33年12月初めには,会員数は100人を越え,各地・各職域に,平和委員会結成の動きが生まれた。