「平和記念式典の歩み(平和冊子)」カテゴリーアーカイブ

マスコミの関心(平和式典への関心)

平和式典への関心

(4) マスコミの関心
日本のマスコミは、平和式典を初期の段階から積極的に報道した。NHKは、1947年(昭和22年)の第1回から実況放送を行なっている。47年は、ローカル放送であったが、48年と49年には、全国中継がなされた。51年と52年は、ローカルに戻ったが、53年以降、再び全国放送となり現在に至っている。広島局のテレビ放送が、56年3月に開始され、16ミリフィルムなどで取材された式典の模様がニュースとして放映された。テレビ中継は、開局から3回目に当たる58年から始まった。当時、広島局にはテレビ中継車は配備されておらず、中継は、福岡から派遣された中継車と技術スタッフが担当した(『NHK広島放送局60年史』)。
広島の民間放送局は、1952年10月に中国放送(ラジオ)が開局したのを手はじめに、59年4月の同局のテレビ、62年9月の広島テレビ放送、70年12月の広島ホームテレビ、75年10月のテレビ新広島と続いた。中国放送は、53年8月6日午前8時から30分間、平和式典を実況放送したが、これは、大阪朝日放送、ラジオ九州、ラジオ長崎などに中継された。テレビ各局も、開局直後の平和式典から中継を継続的に行ない、系列局を通じて全国各地に放映されている。
中国放送は、1970年の式典の模様を、8時13分から17分までの4分間、米国CBS系を通じて衛星中継した。この中継は、式典の衛星中継としては初めてのものであり、中国放送-TBS-国際電電十王無線局(茨城県)-インテルサット3号-CBSのルートで送られた。NHKは、89年の8月5日午後3時から7日午前0時までの33時間、衛星第2放送で「BSサマースペシャル-ヒロシマから世界へ、世界からヒロシマへ」を放送し、この中で式典の模様を世界に伝えた。NHK衛星第2による同様の放送は、90年と91年にも実施されている。
新聞各社も、式典の模様を報道し続けてきた。報道は、地元紙のみでなく、全国紙においても行なわれた。たとえば、朝日新聞(東京版)は、すべての式典を報じており、しかも、そのほとんどは、夕刊一面のトップかそれに準ずる扱いをしている。また、各紙は、早い時期から、8月6日前後の社説で平和記念日に言及している。朝日、読売、毎日、日経各紙の社説を追ってみると、この日に関連した社説は、1949年8月6日の朝日(「広島に残る“生きた影”」)、毎日(「平和のいしずえ」)、日経(「原爆4周年を迎う」)の社説を始めとして、51年朝日「原爆6周年」、52年朝日「“力による平和”への反省」、53年朝日「原爆貯蔵量と国際情勢」、毎日「原爆の日に思う」、54年朝日(「原子兵器の使用禁止」)、読売(「原爆記念日に答えるの道」、毎日(「原子力を平和の道へ」)と続き、55年以降は、4紙が、ほぼ毎年、8月6日前後に、広島・長崎に関連した社説を掲げ続けている(日経の場合、8月6日前後に原爆に関連した社説の無い年は、56年・66年・68年の3年)。これらから、日本の全国紙が、戦後の早い時期から原爆被害や平和記念日を特別の被害あるいは特別の日として意義づけてきた ことを知ることができる。こうした意義付けは、現在では多数のローカル紙においても見ることができる。表10は、91年8月6日前後のローカル紙の社説である。

日本政府の関心(平和式典への関心)

(3) 日本政府の関心
片山哲内閣総理大臣は、1947年(昭和22年)の第1回平和式典に対し、つぎのようなメッセージを寄せた。

広島の市民諸君、原子爆弾2周年の記念日はまさに本日である。しかし諸君はこの事より深く三たび平和記念の年を迎えた事を心から祝福しているであろう。古来戦争こそは暗黒の世界に国民を導入する。しかも多くの惨禍と犠牲の伴う事を吾々に訓えている。かつて軍都として栄えた広島市が僅か一箇の原爆によってヴェールを吹き飛ばしかつ日本を平和へ導いた、あの感慨深き回顧の数々は吾々日本国民のみに止らず、世界の人々にまでこよなき教訓となったと私は確信するものである。
すなわち世界平和発祥の地広島の未来永劫に記念さるべきは当然であり、第2のメッカと称さるるも故なきに非ずと私は思う。その広島市が、今日の記念すべき日を卜して平和祭を挙行し世界平和礼賛のシンボルとなり、かつ平和の旗幟を妙なる聖鏡愉楽のメロデーと共に高く掲げた事は一広島、一日本としてでなくその意義は深淵にしてかつ高遠であると感激に堪えない。(後略)

中国新聞は、このメッセージに「世界の誇り広島 賛えん平和のメッカ」との見出しを付して掲載した(「中国新聞」1947年8月6日)。この式典には、松岡駒吉衆議院議長や松平恒雄参議院議長も、メッセージを寄せており、それを報じた中国新聞の見出しは、それぞれ「新日本建設の先駆」、「微笑め十万犠牲者 霊に誓わん文化日本」である。これらは、いずれも広島の被害を国家的・世界的なものととらえ、廃墟の中から復興に立ち上がる広島市民の意欲に敬意を表するとともに、復興への努力を期待している。総理のメッセージには、原爆被害への同情や弔意の言葉を見ることができないが、衆参両院議長は、いずれも犠牲者に同情を寄せ、参議院議長は、死者の霊に弔意を示した。
その後平和式典にメッセージを寄せるか、式典で挨拶(代理出席を含む)をおこなった総理は、芦田均(1948年)、吉田茂(49年・51-54年)、鳩山一郎(55-56年)、岸信介(57-59年)、池田勇人(60-64年)、佐藤栄作(65-71年)、田中角栄(72-74年)、三木武夫(75-76年)、福田赳夫(77-78年)、大平正芳(79年)、鈴木善幸(80-82年)、中曽根康弘(83-87年)、竹下登(88年)、宇野宗佑(89年)、海部俊樹(90-91年)と続いた(式典への参列状況は、表70)。これらの挨拶の内容から、日本政府が式典に寄せた関心を伺うことができる(挨拶は、全文か要旨かは不明のものが多いが、63と64の両年を除き新聞紙上に紹介されている。また、原文が確認できる最も早いものは、52年の式典へのメッセージである)。
1952年のメッセージは、原爆犠牲者への弔意を表明するとともに、日本国憲法の理想を世界に明らかにしようとする広島市の平和都市建設を進めつつある広島市民に敬意を表した。後者は、それまでのメッセージにも見ることができた。しかし、前者つまり犠牲者への弔意は、この年が初めてであり、これ以後常に盛り込まれるようになった。
「原爆被害国」と「誓う」という表現も関心の変化を示している。「原爆被害国」という表現は、1959年までは見あたらないが、60年には「わが国は世界最初の原爆被害国として今後も原水爆の禁止を世界に訴えねばなりません」という形であらわれ、以後、ほぼ毎年確認することができる。この表現は、広島・長崎の原爆被害を地方レベルと被害としてではなく、国家レベルの被害としてとらえることを意味している。それゆえ政府が、この表現を採用したことは、採用前と比べ、より主体的に式典にかかわっていると理解することができよう。一方、「誓う」という表現が初めて使用されたのは、65年である。それまでは「世界に訴えねばなりません」といった教訓調が一般的であった。ところが、65年には「原爆犠牲者の霊前に人類恒久平和確立のため最前の努力を尽すことを誓う」という形で、自らの決意を明らかにした。
このほかに、「被爆者」への言及が1969年に現れた。69年のあいさつは、「当市には10万に近い原爆被爆者が今なお生命の不安に脅かされながら生活し、また多数の原爆死没者の遺族が忘れえない悲しみを秘めて生活しておられます」と述べている。さらに、71年からは被爆者に対する「福祉の増進をはかる」決意を明らかにするようになった。
1991年の海部総理のあいさつは、(a)原爆犠牲者への弔意表明、(b)都市建設と平和に努力する広島市民への敬意表明、(c)国際状勢と日本平和外交の紹介、(d)被爆者対策充実の決意表明、(e)恒久平和達成への努力の誓いの五つの要素から構成されているが、こうした挨拶が確立したのは71年のことであった。
総理大臣の式典への参列状況(本人か代理か)や、式典参列のため広島に来訪した時の行動からも、政府の式典に対する関心を知ることができる。前述したように、政府は、1965年(被爆20周年)以降、広島県と地縁関係のない閣僚クラスを総理代理として式典に派遣するようになった。このことは、政府の式典に対する関心の強度が、以前と比べて高まったと理解することができよう。
一方、総理代理を閣僚の誰が務めたかは、政府の関心の内容を示している。初期の総理のメッセージは、広島平和記念都市建設法に基づく広島市の復興に敬意を表していた。同法の所管が建設省であることからすれば、建設大臣の代理も考えられる。また、浜井市長は、被爆20周年の式典にあたり平和宣言を総理自身に読み上げて欲しいとの希望を持っていたが、そのためであれば外務大臣の代理も不自然ではない。しかし、総理代理を務めたのは、総務長官や官房長官以外はすべて厚生大臣である。このことは、政府が、総理の式典でのあいさつに含まれるさまざまな要素の中で、「被爆者対策」や「原爆犠牲者への弔意」を特に重視していることを示している。
式典に参列した大臣の行動は、1970年以降、マスコミで詳しく取り上げられるようになった。70年の内田厚生大臣は、式典参列を機会に、広島原爆病院(現、広島赤十字・原爆病院)と原爆被爆者養護ホームの慰問、71年の佐藤総理大臣は、平和記念資料館の見学と原爆養護ホームの慰問を行なっている。このように、式典参列に際し市内の平和記念資料館や被爆者の医療・援護機関を見学あるいは慰問するという総理(もしくは代理)の広島での行動は、その後も続けられ、現在にいたっている。また、76年の三木総理大臣の時、「被爆者代表から要望を聞く会」が開かれ、以後、恒例となった。91年に来広した海部総理は、式典参列後、原爆養護ホーム(神田山やすらぎ園)を慰問し、在日本大韓国居留民団広島県地方本部原爆被害者対策特別委員会、広島県原爆被害者団体協議会(森滝市郎理事長)、広島県労働組合会議被爆者団体連絡協議会、広島県原爆被害者団体協議会(佐久間澄理事長)、財団法人広島市原爆被害者協議会、広島県朝鮮人被爆者協議会、広島被爆者団体連絡会議の7団体代表の要望を聞いた後、離広した。
式典の中に直接現れるわけではないが、1979年以降、式典に国庫から補助金が支出されるようになったことも、政府の式典への関心の変化を示すものである。補助金は、79年度は約300万円であったが、81年度には、全国の原爆遺族の招へい旅費など補助対象が拡大され、約600万円に増額された。さらに、85年に約900万円に増額され、現在に至っている。

一般参列者(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

(7) 一般参列者

平和式典への参列者の顔ぶれは、広島市当局の招待者と同様、一般参列者も、年ごとに多彩となってきた。賀茂郡西条町(現西広島市)の原爆被害者の会は、1958年(昭和33年)に地元で第1回慰霊祭を開催したが、翌59年には、第5回原水爆禁止世界大会への参加をかねて、貸切りバスで式典に参列した。こうした被爆者団体の組織的な式典への参加は、その後も見ることができる。73年には西宮市原爆被害者の会の会員44人が参列した。この旅費は、原水爆禁止西宮市協議会が結成15周年を記念して全額負担していた。被爆40年にあたる85年には、被爆者団体の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会が、墓参団を組織し、平和記念式典に参列した。
甲府市は、1984年の平和式典に市民代表約50人を派遣した。甲府市議会は、82年7月に県庁所在地の都市としては初めて「核兵器廃絶平和都市宣言」を決議したが、広島の式典への市民の派遣は、宣言に基づく具体的な行動の一つとして企画されたものであった。自治体による式典への市民派遣は、非核宣言自治体の増加とともに増えていった。広島市に連絡された限りの数(配席要望数)であるが、89年24団体422人、90年36団体603人、91年38団体1,005人となっている。91年の式典に多くの市民を派遣した自治体としては、東大阪市(「広島平和バスツアー」100人)、甲府市(80人)、藤井寺市(「平和バス」50人)、高知市(「広島平和のバス」50人)、藤沢市(「広島平和ツアー」48人)などがあった。

遺族、被爆者、市民、平和団体代表(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

 

(6) 遺族、被爆者、市民、平和団体代表
当初の式典は、占領軍関係者、政府代表を中心とした官製色の強いものであった。しかし、遺族代表の花輪奉呈(1954年)、「原爆乙女」の平和の鐘点打(57年)、被爆者代表の献花(61年)など、市民的色彩を強める工夫が徐々になされた。
1970年(昭和45年)の式典で採用された「流れ献花」は、市民的色彩の強化という点では、画期的な試みであった。この年、市長、総理大臣代理などの献花に引き続いて、10才から75才までの市民代表男女各25人計50人が、白と黄の菊を各3輪計6輪ずつ原爆死没者慰霊碑に献花した。50人の大半は、市内の各地区社会福祉協議会などから推薦された日本人であったが、在日本大韓民国居留民団広島地方本部と在日本朝鮮人総連合広島県本部から推薦された韓国人・朝鮮人代表の姿もあった。この式次は、被爆25周年という節目の年にあたり広島市が採用したものであった。しかし、その後も続けられ現在に至っている。参加する市民の数は、70年に倍増された。91年には市内の地区社会福祉協議会(67人)、広島市原爆被爆者協議会(6人)、広島被爆者団体連絡会議(6人)、日本原水爆被害者団体協議会(1人)、在日本大韓民国居留民団広島地方本部(1人)、広島県朝鮮人被爆者協議会(1人)、日本労働組合総連合会広島県連合会(2人)から推薦された84人が、流れ献花を行なった。
このほか、1981年からは全国の各都道府県から毎年1人ずつ原爆犠牲者の遺族代表が招へいされるようになった。厚生省は、80年12月の原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に沿う犠牲者に対する特別な弔意として、81年度予算に式典参列に対する補助金394万円(うち広島分169万円)を計上したが、この招へいは、これに伴う措置であった。広島市は、厚生省の予算に市費57万円を上積みして実施した。81年には、47都道府県から参列した遺族のうち、北海道と沖縄から参列した遺族2人が、全国の遺族代表として「献花」を行なった。なお、遺族代表の枠は、被爆40周年の85年のみ1県1人から3人に増やされている。これは、被曝40周年記念事業として「原爆被爆者援護事業功労者厚生大臣表彰」が広島市で行なわれたためである。
原水禁運動関係者の公式の参列は、1964年以降途絶えていたが、68年から再び見られるようになった。同年6月24日、山田広島市長は、原水禁運動を進めている3団体(原水協、原水禁、核禁会議)の代表を3団体の統一を願って特別来賓として招待すると発表した。また、世界連邦主義者である山田市長は、この年から、原水禁団体の代表とともに世界連邦諸団体(世界平和アピール7人委員会、世界連邦建設同盟、世界連邦宣言自治体全国協議会)の代表も招待している。91年の式典には、原水禁3団体、世界連邦諸団体(世界平和アピール7人委員会、世界連邦日本国会委員会、世界連邦建設同盟)のほかに核戦争防止国際医師会議日本支部、原水爆被害者団体協議会の代表が、「平和団体関係者」として招待された。このほかに、最近では、広島平和文化センタ-、核軍縮を求める22人委員会、平和問題調査会の関係者やメンバーも、招へいされている。

海外からの参列者(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

(5) 海外からの参列者

1955年(昭和30年)の原水爆禁止世界大会(第1回)には、14か国52人の海外代表が参加した。この中のインドから参加した夫妻が、平和式典において「花輪奉呈」を行なった。この後、広島市が再び世界大会の会場となった59年(第5回)および61年から63年(第7-9回)にかけても、「花輪奉呈」という形で、世界大会参加の海外代表が式典に公式に参列していた。しかし、広島市は、63年の世界大会の混乱を契機に、世界大会外国代表の「花輪奉呈」を廃止した。
1967年4月に広島市長となった山田節男は、同年6月2日に開かれた平和式典実施要項を検討する市の幹部会議で、世界の著名人を式典に招く構想を明らかにした。しかし、在任中に、この構想が具体化することはなかった。ところが、この構想は、つぎの荒木市長により、国連関係者の参列という形で実現された。70年代中ごろから、非同盟諸国や国際的な平和団体は、核軍縮への関心を高め、そのイニシアティブを国連に求めるようになっていた。広島・長崎両市長も、76年12月1日、国連本部を訪問し、ワルトハイム事務総長とH.S.アメラシンゲ国連総会議長に核兵器廃絶への措置を要請した。さらに、両市長は、翌77年5月15日、式典への招請状を発送した。こうした両市の働きかけに応え、77年の式典には、アメラシンゲ総会議長と国連事務総長代理(マイケル・クラーク国連広報センタ-所長)が両市の式典に参列した。その後も、85年にはヤン・モーテンソン国連事務次長が、また86年と89年には明石康国連事務次長が、それぞれ国連事務総長代理として出席している。
広島市は、1984年から名誉市民および特別名誉市民を招へいするようになった。84年には、フロイド・シュモーとメアリー・マクミラン、85年にノーマン・カズンズとバーバラ・レイノルズと、復興期の広島に救済の手をさしのべたアメリカ人が、特別名誉市民として招へいされている。また、85年以降、広島市は、国際会議(シンポジウム)を毎年開催するようになったが、会議(シンポジウム)参加者は、来賓として式典に参列した。
外国人の参列は、式典の中で目だち、マスコミはこれを大きく取り上げた。1969年の式典には、約30人の広島在住の韓国婦人が民族衣装で参列した。同年3月14日にソウルの韓国原爆被害者援護協会と広島折鶴の会が姉妹団体となったことが、この参列の契機となった。その後も、日米学生会議の90人(75年)、婦人国際平和自由連盟一行60人(77年)などの海外からの参列者が見られた。84年には、580人という多数の外国人が参列した。原水爆禁止1984年世界大会参加の90人、7月下旬東京で開催された国際自由宗教者世界大会で来日中の宗教者265人などであった(「朝日新聞」1984年7月28日)。外国人の参列者は、この後も例年300人を超えている。広島市に配席の希望があったものだけでも、85年252人、86年521人、87年354人、88年299人、89年388人、90年312人となっている。広島市は、91年の式典において、こうした外国人参列者のためにレシーバーを貸し出し、英語の同時通訳を流すという試みを初めて採用した。なお、91年の外国人の参列状況は、表8のとおりであった。

 

長崎市など他都市からの参列者(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

(4) 長崎市など他都市からの参列者

広島・長崎両市は、同じ被爆地あることから、当初からお互いの式典に対して関心を持っていた。浜井信三広島市長と大橋博長崎市長は、被爆から3周年目の式典を前にした1948年(昭和22年)7月31日に、新聞社の求めに応じ電話で対談している(「中国新聞」1948年8月1日)。また、翌49年7月28日、浜井市長は、東京からの帰途立ち寄った大橋市長につぎのように提案した。

8月6日を世界平和デーとする動きは世界的なものとなりつつあるので、このさい6日から5日間を世界平和週間とすると長崎の方も9日が入るのでよいが、検討して欲しい。 (「中国新聞」1949年7月29日)

1954年には、広島市青年連合会の代表が、広島市の平和宣言、市長および市議会議長のメッセージを持って長崎の式典に参列、翌55年にも、広島市長は、長崎の式典にメッセージを寄せた。こうした両市の式典の関係は、72年の長崎市の卜部壮一助役らの広島市の式典への参列を契機に、式典への相互参列という形に発展した。翌73年には、広島市が、諸谷義武長崎市長、宮崎勝美長崎市議会議長、被爆者代表を初めて招待し、山田節男広島市長らが、初めて長崎の式典に参列した。

長崎市のような継続的な参列ではないが、多くの自治体の代表が、平和式典に自主的に参列している。1955年および59年に広島で開催された原水爆禁止世界大会には、全国各地から自治体の首長が参加しており、その多くは平和式典にも参列したと推定される。74年には屋良朝苗沖縄県知事が参列した。これは、広島県知事の訪問要請に応じたもので、他府県の知事としては初めての公式参列であった。反核運動が大きな盛り上がりを示した82年以降、式典会場には非核宣言を行なった自治体の首長の姿が見られるようになった。82年には、全国で15の非核宣言自治体のうち8自治体の首長らが参列し、86年には、非核都市宣言自治体連絡協議会代表100人が、協議会として初めて式典に参列した。

 

政府、議会関係者(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

(3) 政府、議会関係者

総理大臣は、初期の段階では、式典にメッセージを寄せたり、広島県選出の国会議員や閣僚を総理代理として派遣した。広島県に地縁関係のない閣僚が、総理代理として出席したのは、1960年(昭和35年)の中山マサ厚生大臣が最初であった。この年には、広島県議会と自民党広島県連が、各政党党首への出席を強力に働きかけた結果、一時、池田総理大臣の出席の可能性も取り沙汰されたが、結局、中山厚相の代理出席となった。
広島市が、総理大臣本人の出席を強く働きかけるようになるのは、1965年以降のことである。この年6月23日、浜井広島市長は、「ことしは被爆20周年に当たるので、来賓としてよりも、例年市長が読上げている平和宣言を佐藤首相にやってほしい」という意向を明らかにし、永野広島県知事を通じて出席を強く要請することを発表した。この年、総理の出席は実現しなかったが、初めて閣議で取り上げられ、橋本登美三郎内閣官房長官が代理として出席した。この後、66年と67年、総理府総務副長官、68年、内閣官房副長官、69年、床次徳二総務長官、70年、内田常雄厚生大臣と、広島県と地縁関係のない閣僚が派遣され、71年には、佐藤栄作総理大臣が、歴代総理の中で初めて式典に参列した。
山田市長は、1968年以降、佐藤総理大臣に会い、直接出席を要請していた。これに対し、総理は出席の意向を示していたが、国務の多忙が理由で実現しなかった。しかし、71年には、5月11日に首相官邸を訪ねた山田市長に、万難を排して出席することを約束した。こうした決意の背景について、佐藤総理は、山田市長に「天皇・皇后両陛下も慰霊碑を参拝されたことであり、どうしても行きたい」と語っている。これ以後、表7のように、三木、鈴木、中曽根、宇野、海部の各総理の参列が実現している。91年の海部総理の式典への参列は、総理大臣自身のものとしては、9回目に当たるものであった。
衆参両院議長についても、初期には、広島県選出の国会議員の代理出席であった。当初、総理大臣、衆参両院議長の「あいさつ」や「献花」が、本人と代理の参列の区別なく、常に式次に設けられていた。しかし、1972年からは、代理の「あいさつ」や「献花」は、内閣総理大臣のみとし、衆参両院議長については廃止された。清瀬一郎衆議院議長が、60年に皇太子とともに参列したが、これが議長本人が出席した最初である。その後、ふたたび広島県選出の議員の代理出席が続いていたが、70年には衆参両院の副議長(荒船清十郎、安井謙)が参列した。71年以降の衆参両院議長の参列状況は、表7のとおりである。
この外の国会関係者としては、国際軍縮促進議員連盟の代表が、1981年と82年の式典に参列している。同連盟は、ライシャワー発言を契機に目だちはじめた「非核三原則見直し論」に危機感を感じた議員が81年5月13日に超党派で発足させたもので、被爆体験を持つ日本の立場を改めて内外に示す目的から広島・長崎の式典への参列を決定した(「毎日新聞」1981年6月2日)。

 

来賓(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

(2) 来賓
占領軍当局、政府、議会は、広島市の平和式典に高い関心を寄せた。第1回から第3回(1947-49年)には、連合軍総司令官、英連邦軍司令官、内閣総理大臣、衆参両院議長がメッセージを寄せている。
連合軍総司令官のメッセージは、第1回には、日本文で約320字という長さであった。しかし、第2回は、「広島市の復興計画が着々と実現されつつある状態を見て大いに敬意を表する」という簡単なものとなり、第3回も同様であった。英連邦軍司令官のメッセージは、1952年と53年にもあったが、それ以後は、見られなくなった。
1954年(昭和29年)の式典は、高松宮夫妻を式典に迎えた。当日午後4時から市内で挙行される世界平和記念聖堂の完工式への出席にともなう参列であった。「一市民としての参列」とされているが、皇族の初の式典参列であった。高松宮が全国鳩協会名誉会長である関係から、同協会傘下の中国地方競翔部は、歓迎と犠牲者の慰霊をかねて鳩700羽を、平和宣言終了と同時に式典会場で放した(「中国新聞(夕刊)」54年8月7日)。57年には、8月7日から3日間開催された第11回全国レクリエーション大会に出席の三笠宮夫妻、58年には、8月7日から開催予定の天皇賜杯第13回全日本軟式野球大会に出席の高松宮夫妻と皇族の参列が続き、60年には皇太子明仁親王(現天皇)を迎えている。54年、57年、58年の式典では、皇族の「あいさつ」はなかったが、60年には、「皇太子殿下追悼の言葉」が式次に設定された。その内容は、つぎのようなものであった。

15年前の本日、原子爆弾により尊い生命を失った数多くの方々とその遺族を思うとき、まことに哀惜の念にたえません。いまこの慰霊碑の前に臨み、感慨切なるものがあります。ここに深く追悼の意を表するとともに今後ふたたび、このようなことのないよう、世界の平和を念願してやみません。

こうした来賓の参列は、広島市の強い要請に応えてのことであった。広島市は、この行事を単に地方的行事とは考えず、要路の人に対し積極的に式典への参加を求めた。開催はされなかったが、1950年の第4回平和祭の案内状発送先が残っている。それによれば、発送先は、占領軍関係者、内閣総理大臣、衆参両院議長のほかに、国務大臣(15人)、衆議院議員(453人)、参議院議員(256人)、県会議員(57人)、市会議員(38人)、商工会議所議員(69人)、各都道府県知事(46人)、全国都市長(233人)、県内市町村長(347人)、在広新聞社(19人)、市戦災孤児収容所(6人)、市政功労者(23人)、県下市会議長(5人)であった。これが、91年には、表6のようになっている。「被爆者・遺族代表」や「平和問題調査会」、「広島平和文化センタ-」、「平和団体関係」は、50年当時には見られなかったものであり、これらから、広島市の式典に対する意義づけの変化を読み取ることも可能である。

 

平和宣言の普及(平和宣言)

平和宣言

 (11) 平和宣言の普及

1948年(昭和43年)の宣言は、世界160都市に浜井市長のメッセージとともに送付された。宣言の海外への送付は、これ以後も続けられ、54年には、世界主要都市市長へ98通、平和団体へ29通、計127通を原水爆禁止決議文とともに郵送されている。この年には、初めて共産圏に13通が送られたが、これは、占領解除の翌年にあたる前年に計画されながら中止となっていたものであった。その後の海外への送付総数は、新聞報道によれば、55年には151通、56年179通、58年300通、59年258通、60年265通、61年275通、66年170通、69年257通、71年281通、72年257通、74年236通、75年250通、76年247通、77年362通となっている。また、国別では、56年には、アメリカ64通、イギリス15通、ドイツ11通、フランス・カナダ・南米各8通、オーストラリア6通などであり、61年には、アメリカ81通、西独28、イギリス21通、フランス15通、オーストラリア10通、カナダ9通、東独8通などとなっている。
海外への送付先は、都市長や平和団体、個人あてであったが、1974年には初めてインドを含む核保有国を始め、19か国の首相、大統領が送付先に加えられた。さらに、翌75年には、在日大使館、領事館や在日海外特派員(100人)など国内の海外機関・個人への送付とともにニューヨークタイムス、ルモンド、BBC、プラウダ、人民日報など海外の新聞、放送通信社108社への送付が行なわれた。その後、国連加盟国161国の国連代表部への送付も加えられ、82年には英文の宣言の送付数は、国内外合わせて1,170通にものぼっている。
一方、国内への送付数も、次第に増加してきた。1955年420通、72年422通、75年926通、76年1,335通、77年1,918通と報じられている。76年から77年にかけての送付先の増加は、送付先をそれまでの広島・長崎両県選出の衆・参両院議員から全議員(723人)に拡大したためであった。77年には、海外送付分も115通増加し、国内外合わせて2,280通が送られた。
1975年には、平和宣言を印刷したパンフレットが5万部が印刷され、そのうちの約2万5,000枚が、「ひろしま平和の歌」のパンフレットとともに、平和式典開式前にボーイスカウトによって配布された。また、76年からは1枚のパンフレットに作成された「平和宣言・平和の歌・式次第」が、会場で配布されるようになり、78年からは、英文のパンフレットも作成され、会場で参列の外国人に配布されるようになった。このほかに広島市による宣言普及の努力は、平和宣言文パネルの設置という形でも行なわれている。83年12月28日、広島市は市役所本庁や市議会棟の玄関、広島平和記念資料館の展示ロビー、市内7区役所の計10か所に、平和宣言文のパネル板を設置した(91年には12か所)。
最近では、平和宣言普及が、市民の奉仕活動としても行われるようになった。
広島市視力障害者福祉協議会は、87年の宣言から、点訳を行い、会員と日本盲人会連合に加盟している56団体に送るようになった。また、88年からは、国際青少年友好センタ-主宰のコンピュ-タ-・ネットワーク「カモメ」が、平和宣言を日英2か国語で発信している。

宣言内容の変遷(平和宣言)

平和宣言

 (10) 宣言内容の変遷

宣言に盛り込まれてきた要素は、実に多様である。しかし、「人類破滅観」のように当初より一貫して存在するものや、ある年以降継続的に盛り込まれている要素、ある時期にのみに存在する要素もある。1991年(平成3年)の宣言の構成は、(a)被害の実相、(b)ヒロシマの願い、(c)国際動向、(d)日本政府への要望、(e)ヒロシマの動向と決意、(f)ヒロシマの訴え、(g)結語となっている。結語では、国際協力のあり方、平和教育の推進、被爆者援護法の実現、海外の被爆者への援護についての注意を喚起し、原爆犠牲者への追悼の意の表明と、平和への不断の努力の誓いが述べられた。これら各要素の変化の概要は、前述の通りである。
これまで触れなかったが、マスコミが大きく取り上げた要素もいくらか存在する。たとえば、1969年(昭和44年)の宣言は、「人間の月着陸という人類の夢はついに実現した」と述べたが、これを中国新聞は「アポロ11号の英知を 人類の平和建設に 平和祈念式 広島市長の平和宣言」との見出しで報じた(「中国新聞」69年7月30日)。また、各紙は、79年の宣言が「核実験被曝」に初めて言及したとして大きく取り上げた。このほか、広島への平和と軍縮に関する国際的な平和研究機関の設置が、82年の平和宣言で初めて提唱された。この提唱は、88年から90年の宣言にも盛り込まれたが、91年の宣言では消えた。
宣言内容は、時代とともに大きく変化してきた。浜井市長の時期(前期)の宣言では見ることのできなかった原水爆禁止の直接的訴えが、渡辺市長の時期には明確に現れるようになった。こうした変化は、市長の交代にともなう変化というより、基本的には式典を取り巻く環境の変化によりもたらされたものである。これは、山田市長の時期に現れた「被爆体験の継承」についても同様のことがいえる。
とはいえ、市長の交代による変化と思われるものも存在する。山田市長の時期の宣言では、「世界法」(1967年と70年)、「正義と世界新秩序の支配する社会の建設」(68年)、「世界市民意識」(69-71年、74年)、「一切の軍備主権を人類連帯の世界機構に移譲し、解消すべきである」(71年)、「世界国家」(73年)といった表現が使用されている。これらは、いずれも世界連邦主義に基づくものと考えられ、山田市長以外には使用していない。また、平岡市長は、「日本はかつての植民地支配や戦争で、アジア・太平洋地域の人びとに、大きな苦しみと悲しみを与えた。私たちは、そのことを申し訳なく思う」という表現で、日本がもたらした戦争被害への謝罪の気持ちを述べた。この気持ちは、81年、87年、89年の宣言が原爆死没者慰霊碑の碑文の「過ち」や89年の「戦争の過ち」について触れることで間接的に表わされてきたとの解釈がある(「毎日新聞」87年8月7日)。しかし、それが明確な表現で盛り込まれた背景には、市長の強い意向があった。